[
論
文]
韓 国
に
お
け
る
仏
教
と
神信
仰
の
関係
神 仏
の併 存
と分 離
に つ い て蓑 輪 顕
量The
Relationship
between
Buddhism
andthe
Worship
of
Local
Deities
in
Korea
:Coexistence
andSeparation
ofBuddhas
andLocal
Deities
Minowa
,Kenryo
Not
onlyBuddhist
deities
but
alsoindigenous
Korean
deities
have
been
worshiped at
Buddhist
templesin
Korea
.The
indigenous
deities
include
mountain
deities
(山神), solitary saints (獨聖)andthe
Big
Dipper
(七 星神).They
have
been
worshipped sincethe
earlyperiod
ofKorean
history
whenBuddhism
wasintroduced
.Among
thesedeities
, mountaindeities
in
particular
had
a significantimpact
onBuddhism
in
Korea
.They
probably
began
to
be
worshiped
in
Buddhist
templesduring
the
Baekje
(百濟)era.Another
important
characteristic of
Korean
Buddhism
is
its
adoption of the assembly ofdeities
called shenzhong (
Jp
. sinshu 神 衆 ), who are saidto
have
derived
from
theHu
の」uan ノ加9
(華 嚴經),In the
20th
centUry ,Buddhist
monks claimed thatin
order topurify
Buddhist
faith
,Buddhist
andindigenous
deities
shouldbe
separated .However
,despite
their claim
, ordinary
people
still remain syncreticin
their
faith
, which makes
it
difficult
to separate the two .170
パ ーリ学仏 教文 化学 はじめ
に韓 国に お い て は 三 聖信 仰と呼ば れ る民
間
信 仰が存
在す る。 三聖 とは山神
, 七星, 独 聖の こ とを指す。 山神は 文字
通 りに 山の神
であ り, 山岳
の多
い韓 国 の 至るとこ ろ に それ ぞ れの 山にまつ わ る山神がい る。常
に虎
を従
え た姿
で描
か れて い るとこ ろが 山神
の特徴
で あ る。 独 聖は韓
国独特
の神
で あ り, 山中
に おい て独 り覚 りを 開い た と伝 え ら れ る人物が神と し て崇め られ る よ うになっ た もの で ある。 七星は北 斗 七 星の神格化
さ れ た もの で あ り, これ も ま た根 強 い 信 仰の対 象 と な っ て い る。さて , これ らの 三聖は , 寺 院の 中で は 三聖閣と呼 ばれ る建物の 中に揃っ て 祭 られて い るこ とが多い 。 時に は 「山 神 閣 」 「山霊
閣
」 「山 王閣
」 「丹霞閣
」 「七星 閣 」 「七星殿」 「独 聖閣
」 な ど と単
独で祭
られ る場合
も あ る。 現在
で は, 韓 国 国 内の どの 曹 渓 宗 寺 院で も, 必 ず と言
っ て良
い ほ ど見 られ る よ うで あ る。本 稿で は, こ れ らの 三 聖に
代表
さ れ る韓
国の 民 間信
仰と仏 教 との 関 係につ い て, その 両 者が どの よ うな変 遷を歩
んで き たの か ,考 察 して み よ うと思 う。 なお, 両 者の分離の実
態に つ い て述べ るこ と を目標 とす る が , まずは現 地 調 査(
2011
年5
月15
日一17
日及 び2012 年 2
月17
日一21
日)
で 得 られた併 存 の 実 態を中心 に述べ , 次に 文献 資料 と現地調査 に基づ き なが ら,若干の 私見 を述べ て み たい 。1
.鶏龍
山
の周 辺
の巫 堂
と仏
寺
そ もそも朝 鮮 半
島
の 地 に 仏 教が も た らさ れ たの は, 三 国時代の 頃と考え ら れてい る。 『三 国史
記 』 によれ ば,高
句麗
に は小 獣 林王 五年(
375
)に秦王符 堅か ら伝
え られ ,百 済に は枕 流王元 年 (384
)に東 晋よ り伝え られ た とい う。 新羅
へ は法 興王一五年(
528
)
に仏 教 伝 来が あっ た とい う[
平野 1961]
。仏
教は, そ れ以前か ら存在 して い た信 仰 と融合 しなが ら,時
に は対
立 しなが ら 受容されて い っ たに相 違 ない 。 なお, 仏 教が中国 か ら も た ら され た もの で あ韓 国にお け る仏 教と神信 仰の関係
171
る こ と を考え れ ば, 道教や儒 教 との 関係 も考慮 されるべ きで あ ろ う。とこ ろで,仏教が受容され る
時
に,すで に朝 鮮半島
に存
在 して いた で あろ う信
偉の一 つ に,山の 神に 対 す る信仰が存 荏す る[
玄1985
]。 その 山神
に 対 す る信仰
は, 民 問信仰
の 一つ で ある巫賞(
ム ー ダン)
の 中に現在で も見る こ とがで きる[
WhA
2002
]
。 こ こ で は韓
国の 民間信 仰の 盛んな地で ある忠清 南道 の公 州市及び論 山市に跨る鶏龍
山の巫 堂につ い て , まず
は紹
介 するこ とか ら 始めたい(
写真 i )
。巫堂 とはい わ ゆる巫女, 巫
覡
の こ とである。 しか も出神信仰
に基づい てい る。 山の神
が 巫 堂 の身 体の中
に降
りて きて お告 げを す るの である が , 日本
の 例で言えぼ, 青森 県の 恐山の 「 い た こ」 や, 日蓮 宗に見 られる 「お がみ や さ ん 」 に相 当し よ う。 巫 堂 は その 殆 どを 女性
が 占め, 人々の 心配事,悩み事
な どの相 談に乗
る。 解 決へ の糸
口 を山神
の お告 げを媒介
す る こ とで 見い だ して ゆ くの で あ る。実 際 に巫 堂が神お ろ しを す る時に は, 法 師 と呼ぼ れ る
音
楽を担 当す る入 た ちによっ て太鼓
や鐘が 盛大に鳴
ら され る 。 伝 統 的な民族音楽
の 節 回し が存在 し,法 師
は その リズム を学
ぼな けれぼならな い。 そ して,神お ろ しの 時に は,法 師 も同様に トラン ス 状 態にな る。 巫堂の身体
の 中に降 りて くる神
は山神
で ある が , 鶏龍
山の 周 辺に活 躍 する砿堂に とっ て, お告 げを も た ら して く (写真 達 鶏龍 山の 巫堂 中央が山神 )
172
パ ーり学 仏 教 文化 学 れ る神は鶏 龍Lli
の神
である とい う。鶏龍 山
は韓国
で もっ とも清涼
な気 が流
れて い る地
である と信
じ られて お り, そ れ だ けに巫 堂の数
も多
い 。 ち なみに巫堂の活動
す る場 所は ,普
通の 民 家の よ うなと こ ろが多い の で ある が, そ の場 所は寺(
サ)
と呼ば れ る。 た だ し, 巫堂の寺
に は石を積み 上げ
た素朴な円錐 形の塔が幾
つ も見 られ る。 これ は巫堂の寺
の 特徴 となっ て お り, 道路か ら敷
地 に入 り込 む参
道の両脇
に, ま た 山神を降ろ す儀 礼を行 う場 所に, その 石を積み 上 げた独 特の塔が存 在す る。 こ の塔
は不 思議
な空 聞を作 り上げるの に 一 役 買っ て い る。甲
寺
・燭台
善(
2011
年
5
月14
日調 萱)
さて, 鶏龍山のあ る地域 は古 代の 百 済の 地で ある。 それだ けに古い 寺 院も
多
い 。 例えば,韓
国 国内
に知 られた有名
な甲
寺(
カ プサ)
は 百済 時代に創建 され た寺 院
で ある。木
立に 囲 ま れ, 樹 海の 中に位置 する と言っ て も良い 。 そ の 甲寺に も三 聖閣は存
在 した(
写 真2
)
。 大 雄 宝 殿の 右側 奥 に その 建 物が 存 在 する。 中 央に仏を配 し, 正面
か ら向
か っ て 左に独 聖, 右側に山神の 絵が祭 られ る。 三聖の 名 称か らす れば,中央
に七 星が来
て 欲 しい とこ ろで ある が, 今は それはない 。 何 故か 七星神は隠されてい るよ うであ る。ま た,
百済
時代の 古都
公 州に おい て も公州城 内
に残
る霊隠寺
に お い て は,寺 院
その もの の 規 模は小さい が, 大雄 宝 殿の背後
に小さ な圜通閣
と呼ば (写真2
甲寺の 三聖 閣)韓鬮鑑お
1
ナる仏 教と神 信 仰の 関係 173 (写 真3
燭台寺三 聖閣 中央奥 ) れ る小宇が あ り, 独 聖 , 山神の絵
が祭
られて い た。また,
場
所 は論
山 市になる が般若
山燭
台寺
に も三 聖閣
が存 在 する(
写 真3 )
。 燭 台寺の 三 聖は霊験 あ ら た かで ある とい う評 判を得
て お り , 調査に出
か け た2011
年5
月14B
の時
に は,遠 く慶 尚北 道か らの参拝
客が来て い た。 なお, こ の寺
の 三 聖 閣は, 大雄
宝殿の 斜め左 後 方, 石 山の腹 部の少 し高い と こ ろ に存 在 する。 内部の中
央には仏 図が 掛け られ ,正面
を向い て左 に独 聖, 右 に 山神が描か れ る。 こ こ で は七星は描かれて い な か っ た。 なお , 燭 台寺 は,宝冠を被っ た花崗岩
製の 弥勒菩
薩の 巨像が立 っ てい る こ とで 有 名な寺院
である。新元寺 ・天
台
宗 宝文
山三文寺 (2011
年
5
月 雀5
日調査)
次に尋 ねた
寺院
は,金 剛大 学 校の近 くに ある新元 寺で あ る。 この寺院
の歴 史は古 く, 百済 時代 に まで 遡る。 鶏 龍山の裾
野に営まれ た新元 寺
の東
方に は,韓
国の 三壇
の 一 つ と言 われ る中獄壇
が隣接
して 存在す る。 この壇 は朝 鮮 半 島に 国 を開
い た檀 鱈を祭る もの で ,韓
国に は北か ら上獄 壇,中
獄 壇, 下獄 壇 と称 して三箇所 ,有 名な檀 君廟が存在す るが , そ の 内の 一つ で あ る。 技巧 の粋を集め た建築
が文化 財 となっ て い る。さて , 新元
寺
は, 長い が あ ま り広 くはない参 道をIOO
メ ー トル 程 度 歩 くと 梶 界が開けて 山門が あ り, その 奥に大雄
宝殿 が存 在 する。 三聖に関
わ る殿 宇174 パ ーリ学 仏 教 文 化 学 は, 大 雄宝 殿の左 手 の 小 さ な建物 と して 存在 した。 名 称は独 聖
閣
で あ り, 独 聖一人の み を安置
するもの で あっ た。次に尋ね た寺 院は,大 田の天台
宗
宝 文ILI
三 文寺で あっ た(
天 台宗
にっ い て は後述
す る)
。 天 台宗の 運 営 形 態は幼 稚 園を併 設
し,幼 児 教 育に力を入れて い る とこ ろ に特徴 が 見 て取れ る。 出先の 寺 院に は僧 侶は ほ ぼ 一名
しか お ら ず, 他 は在家の 信者に 任 さ れ て い る。 これ は,1980
年 代 に 在 家 出 家の 区分 無 く教団が 発足 し た が , 法難を経て 在 家 出 家の 区別を設け る よ う に な っ た こ とに 由来す るとい う。 伽 藍は敷
地中
央に 三階
建て , 一つ の 大 雄 宝 殿が存在
す るの みで , そ の他 は ほ とん ど無い 。 大雄 宝殿 内部の 空 間に は, 正面
左 手に開
祖
の像
が, 右 手に神
衆の 絵 画像が安置さ れてい る。 神 衆の絵 画 像は庶 民の願 望の受 け手 と なっ て い る との こ とで あっ た。これ らの 寺 院を調 査 し た範 囲か ら知 ら れる こ とは, 三 聖 閣 は寺 院の 中心伽 藍か らは
少
し外
れた 区域
に建 設 さ れ て い る とい うこ とで あっ た。2
.曹渓寺
・天
台宗救仁
寺
2012
年2
月17
日一21
日に韓 国の ソウル 及 び丹陽
百 済の 故 地で あ る公 州, 扶 余, 益山 を 現地調査
の た め に訪
れ た。 まず
は ソ ウル の曹
渓寺
の 調 査か ら得 られ た知 見を記 して お きた い 。曹渓寺 (
2012
年
2
月17
日調 査 )ω情報 提 供 者
智
見ス ニ ム(
教 育 部 担 当 僧 侶)
神 と仏 とが混在す る状況が現 在の 韓 国の 仏 教の 現 状で ある とい う。 僧 侶の 教
育
の 中で は 三聖 や神 衆の 信 仰も認め て お り,神も 仏 教 を 守 る存 在で ある, ま た神 も仏に よっ て 始めて 悟 りを得る存
在である と位置
づ けてい る。 護 法 善 神と神
身離 脱の 意識が見られ, これは日本の仏教の影響
で は ない か と推
測 さ せ られ る。 な お, い っ 頃か ら こ の よ うに位 置づ け た のか は分か ら ない そ う だ。ま た神 衆壇 に対 し 『般 若心経 』 を唱え るこ と を推 奨す る (写 真
4
)。 そ れ は鳳 巌 寺の た め とい うが , 大東
亜戦争終結後
, 鳳巌
寺に おい て 生 まれた鳳巌
韓国に おける仏 教 と神 信仰の 関 係
175
(写軣4
藷渓 寺神衆 壇) 寺
結社
が儀
礼の簡 素 化を進め ,読誦 経 典を 『般 若心経
』 で十 分 とした こ とに由来
す る の で あろ う。陰暦
の毎
月 一 日か ら 三 日に か けて の三 臼間
は,神 衆
に対す る特 別の 儀礼
が存
在す る。 しか し な が ら, それ 以外の 日に は 『般 若 心経
』 を唱え る とい う。 なお,神 衆 は 「華
厳神
衆 」 「i
華厳 聖衆
」 と も呼称 し[
韓 国寺 刹1996]
(2}, 『華 厳 経S
との関係
を明 らかに示 すが, かつ て は 『法華
経
』 に登 場 する神
々 とさ れ た場 合も存 在 した(
後述す る)
。とこ ろで 二 十匱紀
初
頭, 曹渓 宗の 指導者
にな っ た僧に萬
海(
1879
−1944>
が居 る。 彼の 主張は,大き く次の 二 つ に収 斂 する。 一つ め は祈福
の 仏教す な わ ち福だ けを祈
る仏教
はや めるべ き だ , 二 つ め は仏 教の 大衆
化,近代 化の た め に僧 侶 も結婚を しよ うとい う もの で あっ た。 結局, その どち ら も大 き な影 響を韓 国仏教 界に及ぼ し た と は考
え が たい が, イ ンパ ク トの ある主張で あっ た こ とは間違い ない 。 なお萬海ス ニ ム を顕彰
す る法会,d
ベ ン トが現 在で も 韓国各地 に行 わ れて お り, 法 師その人 に対 する人気は今 も高
い とい う。救仁 寺
(
2012
年2
月18
−19
日調査)
情報 提 供 者光 道スニ ム
丹 陽に
存在
す る韓 麟天 台宗の本
山で ある(
写真 5 )
。初
代の時よ り 日本の 天台 宗 と交流 を持っ た新興 の 宗派 で あ る。1960
年 代 宋頃 よ り関口真 大師
と 交流が始ま り1970 年
代に入 り, 公式
に 日本
の 比 叡 山延暦 寺
及 び叡
山学 院 と交
流を持つ よ うに なっ た。 最 近で は堀
沢祖
門師が訪ねて い る。176 パ ーリ学 仏 教 文化 学 (写真
5
救仁 考 全景 )さて ,
韓
国 天 台宗に お い て は, 初代 の 上月 円覚大祖 師 (
191H974
)
が 三 聖 に 対す る信 仰 を禁じ, ま た, 信 者に亡者
の遺骨
に対す る信 仰
も捨
て させ た。 天 台宗の 内部で は, 初 代が, ある病気 が ち な 在 家信 者の家に赴き, その家
に祭
っ てあっ た遺骨
を病 気の 原 因 と特 定し, 即座
に捨
て させた とい う故事
が伝
わっ て い る。 遺 骨を捨て て も祟 りは起
きず
, ま た病
気が治癒 して い っ た とい う。 こ の よ うに初 代に は病 気直 し に纏わ る話が 多い 。具
体 的
に は呪符
を使用
せずに 「観
世音
菩 薩」 とい う菩薩
の名
号を唱え るこ とを祈 祷の 方 法 と し,病 気 直しに力を発 揮 し た とい う。 現在
, 天台宗
で は初
心の信者
に 対し, 四泊五 日の 本 山で の祈 祷 合宿 (観 世 音 菩 薩 と唱 え続
け る)
を義務
づ けて お り,それ が終 了
す れぼ 必 ず一 つ は願い 事が叶 うとい う。 ま た, その よ うな修 行を す れば,信者
も必ず三 盤よ り格 式が上にな ると説 い て い る。 ち なみ に山神
は人間
に 生ま れ変わ る こ と はで き ない と考 え られて お り, 日本の 本 地垂 迹に相 当す る よう な考
え方もなさ れて い ない 。 また初 代は 各 地の 山神を調伏 した と もい う。 な お, 天台 宗で は天神 と呼ば れ る金 剛神
将 の みは是 認さ れ てい る。 金 鰯神将
は 天王殿 に祭 られて い る神で ある が , あ る 時, 盗人が寺院
に入 り, ものを取
っ て逃 げよう としたが, 天王殿の 門の 外に 何 故か 出られ な か っ た とい う霊験譚
が伝わっ て い る そ うだ。神
が全 て否定
さ れ た訳で は ない が ,役
割は限定されて い る と考え られて い る。韓国にお け
b
一仏教 と神 信 仰の関 係 177 (写 真6
救 仁毒木彫
神衆壇 )
とこ ろが ,第二 代目住
職
の 大忠大 宗 師(
1925
−1993)
の 時 代に大 き な変化 が生 じ た。 そ れ は神衆
壇を認
め る こ と に し た こ とで あっ た。 これ は曹
渓 宗 な ど既存の 仏 教 宗派か ら改 宗 した信 者たちの希
望に応 じざるを え な くなっ た こ とが原 因で ある とい う。 最初
は 三 罌を造っ て ほ しい との希 望で あっ たが , 三 聖は仏教
の本 質で は ない との 考えか ら神衆
壇で妥協 し た。 但し, 神 衆を像と して造 るこ と は禁 じ,木で造る に して も浮き彫 りまで し か認
めてい ない(
写 真6
)
。神
は あ くまで方 便の存在
で ある とい う。 韓国 に根
強 く残っ て い る十
王信 仰 も観音
殿に は見られたが ,十王 は仏 画 として描か れて お り,像
と して は造ら ない とい う原 則は, そ こで も貫か れて い る そ うだ。なお ,
初
代は神に対 する信仰
は ほ ぼ不 要と考え, 二 代 目以 降は人々 の信 仰 の レ ベ ル が 上 に上が れ ば, 神へ の信 仰は何 時か は捨て られる もの と捉え, 過 渡 的な段 階で は黙認され る と捉えて い たそ うだ。 現在の第
三 代住 職, 道勇大 宗 師(
1943
一現在)
も同様の よ うだ。なお天 台宗で は
初
代の 時か ら戒律
と して十 善 戒を 用い , その他は独自
の清
規で ま か なっ てい る。 十善 戒が選 ぼれ た 理由は その中
に全 ての 戒が含 ま れ る か らと言
い , ま た清 規は 口伝の もの が多
く,中には鶏 肉 ・鶏卵を食べ ない と い う食
に態
す るタ ブ ー も存在す る。なお祈
祷
は 「南 無観 世 音」 と一心 に唱える こ とを基
本 と して おil
, その 唱
178
パ ーリ学 仏 教 文 化学 え方のス ピー ドに は緩か ら急へ の変化
が存
在す る。 一 心不乱
に唱 え る原則か ら す れば, 三昧 (心一境 性)
を 目指
した行 と言え よ う。 第二 代目の 時よ り 「勢
い よ く唱えなさい 」 「早 く唱え な さい 」 との方 法上の 変化が あ り, 心の 高 揚が 目指さ れ る側
面が 入 っ た ようだ。 現在
で は緩 急 双 方 と もに認
め られ, 唱 え方は各 自
に任され て い る。 ま た唱えてい る最
中に神 懸か り状 態にな る 人 が 出るが, そ れ は 「変音
」 と呼 ぼ れる(
実 際に習っ た こ との ない 言 語を喋る よ う に な る) とい う。 金剛神 将が そ う さ せ る と解釈
さ れて い る。こ の よ うに 現代の 韓 国天 台 宗は,初 代の時 に仏 と神 との 関 係を切 り
離
し, まさ し く神 仏 分離
を断行した一例 とする こ とがで きる。 し か しなが ら,庶民 の 持つ 神に対 す る希 求心 の 強さ に妥協
を余儀
な くさ れ, 神衆を認めざるを得
ない 状 況に至っ た。 しか しなが ら,初期の 志を守ろ うと努 力され , その神 衆 も彫像
と して は 作 成 しない とい うこ とで 一定の 節度を保ち続けて い る。 韓国 に存 在す る神 仏 分 離の直
近の事例
の一つ と して挙
げるこ とが で き る。3
. 三聖
信
仰
の仏
教
へ の流入
時期
は
何
時 か
で は,視 点を変えて, 一体い つ の 頃に神に対す る
信仰
が寺 院の 中に取 り込 ま れ ,併 存の 状 態が出来上が っ たの であろ うか。 まず考 え ら れ る こ とは, 山神
が寺
院の 中に祭 られるこ とが最初
に起こ っ た の で は な い だ ろうか。 そ う考 える理由
は ,朝 鮮 半 島の庶
民は古代
か ら山に 対 する信仰 を持
っ て い た と推
定 さ れ ,寺院
が山の 近 くに造 られ る際に山神信 仰
を取 り込ん だ可 能性が指摘
で き る か らで ある。 とす れぼ, 寺 院が 山の 付 近に造
られ た時
期に, 取 り込 ま れ た と推定す る こ とがで き る。しか しな が ら, 調査を した百 済の地 の 寺 院におい ては, その 遺 跡か らは 山 神 信 仰 の 形 跡 は見い だ す こ とがで きなか っ た。 百 済の
最 初
の寺 院
は, 平 地 部に創建 さ れ て い る。 た と えば公州の 大 通 寺(
百 済 最初
の寺
院と さ れ る (3)) , 益 山の 王宮里寺(
写 真7 )
や, 扶 余の 王興寺 (威 徳王が577
年に 創 建)
は そ うで あっ た。 これ らの遺跡
に は山神信
仰の 形 跡を見る こ とは で き ない 。た だ し, 扶 余の陵山 里寺
(
威 徳王(
在 位554
−597
)
の時代
に菩提寺
として韓 国に おける仏 教と神 信 抑の関係 179 (写真
7
益山 王宮里 寺) (写真8
益山 弥勒寺 背 後は 弥勒山) 成立 した と推 定 さ れ る匸
有
働2010
;129]
,益山の 弥勒寺 (
写真8 ) (
弥勒山 の麓
に存在
, 武王(
在位
602
−645
)
の婦
人 が獅 子寺
に行
幸 した折 りに山麓の 池に弥勒
三尊
が出
現した とい う故事
に因んで創建
さ れ た)
は後 ろ に山を控え て い る。 二 つ の寺
院は, 由の 裾野 に居を構えて い るの であ る。 しか し なが ら,古
代 百済
の 地 に実際
の遺
跡を見 学 調査 し た範 囲で は, 寺 院に付 属 する形 で, 三聖信仰
の どれ か が寺院
の中に入 り込ん だ形 跡は晃い だ され ない 。もっ と も,遺 跡か ら は 山
神信
仰に 関連す るもの は何 も出上 し て い な い が,180
パーり学仏婁
文化 学 (写真9
弥勒 山獅子寺三 聖閣) (写 真
IO
獅子 寺 三 聖 閣内 七星神) 山神 との 親近性
を想像 させ られ る状況に はあ る。 寺院が由の 中, ま たは山の 近 くに造
られる よ うになっ て い た とい う事実
であ る。 そ し て, 山 中に獅 子寺
が創 建されてい た こ と, 山の 麓に弥勒寺
が隣
接 して 建立 され たこ とか ら考
え て , 山神信 仰が寺 院の 中に取 り込 まれた可能性 は十 分にあ り得る こ とであろ う。で は,寺 院が 山の 中に
造
ら れ る よ うになっ たの は い つ の頃
か らで あ ろ う か。 今まで 見て き た よ うに百済
初 期 の 頃に は, ま だ その形 跡 は晃 い だせ な韓国 に お ける仏 教と神 僑 仰の 関係 181 (写真
ll
獅子寺三靉 閣内山神) (写真
12
獅子寺三聖 閣内
独 鏖神) か っ た が ,早い 例 と して 弥
勒
山の「廴沖 の 獅 子寺
が確
認さ れ る (写 真9 ) (
写 真10)
(
写 真1
萋) (
写真
12
)
。 獅 子 寺は その創 建 伝 承か らすれ ば, 弥勒寺
よ り も早い こ と に なる。次い で 統〜新 羅の 時代 にな れ ぼ, 山
中
の寺
院が数 多 く登場
す る よ うに な る。 たとえば,義湘 (
625
−702)
が 創 建 した と言わ れ る太 白 山の 浮 石寺 (676
年創 建)
は, 山の中
腹にある。 ま た, 統 一新 羅 時代の十 刹 と呼 ぼ れ る,実 相 寺を初め とす る寺院
も,ほ とん ど が 山の中
に存
在 する。182 パ ーリ学 仏 教 文 化 学
しか し, こ れ らの
寺
院に早 くか ら山神信仰
が有っ た か ど うか は,実は定
か で は ない 。 とい うの は, 現在,韓
国 国内
に残
る古
い寺 院
とい われるもの も, そ の建 造物
は李氏朝鮮
時代に建 造また は修 造さ れ た ものが殆
どで あっ て , 創 建 当初の伽 藍を その ま まの 形で 保っ てい る もの は皆
無に等
しい か らで ある。また, 寺 院が山 中に創 建 され た か ら とい っ て, そ れがす ぐに山
神信 仰
を寺
院
の中
に取
り込ん だ こ とを意 味す る と単
純に 考え るこ とも, 躊 躇 される とこ ろ が ある。 しか し, い ずれに しろ 山神を祭 る堂 宇が寺 院の 中 に建立 され る可 能 性が 生 まれ る の は, 七 世紀後
半,百 済 末 期 または統
一新
羅時代 (
668
年一)
以 降の こ とであ ろ う と推 測す るこ と は許 容され よ う。実 際に その よ うな
推測
を補
強す る もの と して 『仏国 寺古今歴 代記』 な る資 料が存在す る。 仏 国寺
は新 羅の都
で あっ た慶 州に創建
され た寺院
で ある。 こ の 資 料は天 理図書館
に所蔵 さ れ るもの で あ る が ω,本 書に 「唐明 皇 天 宝十 年辛卯
, 新 羅 景徳王十 年(
751 )
」 に修
造さ れた堂 宇の 記 事 とし て 「看星閣〈
三問〉
山呼楼
〈
七 間〉 華 蔵 楼無 礙 楼」
(
五 丁裏)
とい う記 載が見い だ さ れ る。 看星閣, 山 呼楼が 七 星 神, 山神を祭る堂 宇であ る か ど う か は確 証の術 が ない が, そ の 名称か ら推
定 して 七星
山神に関連す る施 設であ る こ とは 間違 い ない であろ う。 とす れ ば, 統 一新 羅 時代の 早い時 期に少
な く と も山神及
び 七星に対す る信 仰の萌芽
が あっ た こ とを認め る こ とは で きよ う。また, 山神信 仰が
寺院
の中
に取
り込 ま れ る契機 とし て, 中 国か ら持
ち 込 ま れ た伽 藍神 (伽 藍を守護す る神)
の伝播
が関係 して い るこ とも想定で きる。 伽藍 神 は高 麗 時代 (918
−1392)
に禅 宗と共 に 伝わっ た と考え ら れ る が ,そ の 伽藍 神の 役割
を山神
が担
う よ う期待
された とすれぼ, 容 易に山神信 仰は,寺
院の 中に入 っ たで あろ う。以上, 屋上屋 を重ね るよ うな
推
測で あ るが, 山神 信仰が寺院
の中
に取 り込 まれた時 期は,百済
の弥勒寺
が 山の麓
に建立 され たこ と, や がて 山中に寺
院 が造 られ る よ うになっ た こ と,仏 国寺
の修
造の記録
に看 星閣
や山 呼楼な どの 用語
が あ るこ とな どを重視 して,統
一新
羅時代
の 初 期の 頃 , す なわち 七世 紀後半
に は既に登 場 して い たで あろ うと, こ こ で は推
測 して お きたい ( 5> 。韓国に おけ る仏 教 と神 信 仰の関 係
183
なお, 三 聖に道 教の中で の 三聖が取 り上 げられる資 料 も存在 してい るの で 付
言
して お き たい 。 た とえば李氏朝鮮
の高宗
十 七年(
1880)
刊行の 『三聖 事実
』 な る著
作の 中で は(6)関
聖帝 君 (関羽 ), 文 昌帝君(
文 昌)
, 孚 佑 帝 君の三 神が 三 聖 とし て あ げられて い る。 道教の 尊 格は禅 宗
の伝播
と ともに朝 鮮半 島
に も た ら さ れ たもの と考え ら れて い る。4
.戦前
に お
け
る神 仏
の分
離
さて , 山 神 と
仏
とが寺院
の 中に同居す るよ うに な り,山神 専 用の 建 物が建 造 され る よ うに なっ たこ とは容 易に推
測 され る。 ま た , 七 星信仰
が取 り込 ま れ るの も意 外に早 く, 星の 観 測が行わ れた こ とが確 認 され る新 羅時代
に は既 に有
っ たで あろ う。 や がて独聖信
仰が入 り込み, 現 在 ,私 た ちが一般に見 る こ との で きる三聖信 仰が出来上 がっ た もの と思わ れ る。 山神
が寺 院の 中に単
神
で祭 られる場 合に は山神
閣 と, ま た独 聖や北斗
七星 が同様
に祭 られた場 合 に は独 聖 閣, 七 星 閣と,個
別の名
称で 堂 宇が建立 さ れ たで あろ う し, また 三神
一緒に祭ら れ る場合に は,三聖 閣とい う名称で建立 され たの で あろ う。し か し, 仏教信
仰
に取 り込ま れた と は言
っ て も, あ くまで も仏が神
に変化
した とい う位置
づ け(
所 謂 本 地垂 迹思 想で ある,[辻1995
])は存 在 し な か っ た と考え られ る。 神 と仏 とは, あ くまで も併存
の形で し か存 在 しなか っ た と こ ろ に 日本 と は異 なっ た特 徴を見い だ す こ と が で きる(7) 。そ の 併 存の
神
と仏
が分離
さ れ,仏 教 信 仰におい て神
信仰の否 定 さ れ る事 例 が二 十 世 紀初 頭になっ て,初
め て 見い だ され る(
な お李
氏朝 鮮 時代に は ,寺
院そ の もの が城 郭都
市 内か ら駆逐 さ れ た が , そ れは域外
に おける寺 院の 存 在 の みを認めた もの で あっ て,神 と仏の 分 離 とは言い 難い)
。 そ れ は 日本が 支 配す る時代で あっ た が ,萬 海ス ニ ム が著 し た 『朝 鮮 仏 教維 新 論 』 に見て 取れ る。 萬海 は 当 時の朝鮮 仏教界の状 況に心 を痛
め,仏教
界の 改革の た めに本書
を認め た。 そ して その 中に は, 伝 統 的な神信仰
を否 定す る主 張が行わ れ た。 神 衆, 七 星 , 山神,十王信 仰が排 除さ れ るべ き もの と して挙 げられた の で あ る。 で は具 体 的に 「論 仏 家崇拝
之 塑像
」章
の 記 述を見て み よう(
引用 は筆
184 者, 試 訳
)
。 パ ーリ学 仏 教 文 化 学 羅 漢独 聖 とは 小乗の 局 見を以て寂
滅の 楽に耽 溺 し, 小 果を得
て 自足す る。 生に 入纏 度す るこ と を肯ん じない の で , 仏に呵 責され たの で あ る。 円覚 経で は 「百千
万の阿羅 漢, 辟 支仏
の果を成 就 する。 こ の円覚
無礙の 法 門を聞 くに及ぶ もの はない 。 一刹 那の 間に随順
して 修 習 する」 と言っ て い る, ま た 「独 覚を修せ ば永遠 に成 仏 しない 」 と言 っ て い る。 この よ うな訳で 之 を観
ずれ ば, 羅漢 独聖 とは まこ とに吾
が仏の 罪人で あ り, 僧 家の外
道で あ る。 そ もそも仏
が地獄に入 りあるい は畜
生 に入 り種
々の 苦 労 を受 けて 辞す るこ と が ない の は惟
だ生を度せ ん が ため で あ る。 一語 , 一 黙 ,一動
, 一静は こ とご と く利他の 意で あ る 。 どうし て小乗
は こ の 利 を体せ ず して, 小の 自らの 楽を もっ て他
を度
そ う としない の か。 た だ吾
が 仏の仮 借す る とこ ろ となる だ け で はな く,抑 も また今の文 明世 界,社
会 主 義 社会
の容
れ る とこ ろで はない 。仏道
を求
め る もの は疎かに して, これか ら遠い の は良
い が, こ れに親
近す る の は不可で あ り, こ れ を排
し て退ける の は良
い が, これ を崇 奉す る の は不 可で あ る。 [萬2007
:46
]
羅 漢 独聖 に対す る意見で あ るが, 利 他の精神
を全 く欠落させ てい るが故
に親
近 すべ き もの で はない と位 置づ けてい る。 ま た 七 星につ い て は次の よ うに述
べ る 。 七 星 とは最も荒唐無 稽な もの で笑うべ き もの で あ り , 星 の 姿を取っ た も の で あ る。 天 に ある星 辰は とて も多い けれ ど も, こ こ で は特
に七星を如 来の化 現 と考
え るの で あ る。 乃至, 天地 日月,森羅
万 象, 等しくこれは 一 体で あ る。 ど う して必ず 七 星で あ ろうか。 仏 教徒
であ れ ば如 来の 真 像 を奉っ て 足 りるの であ る。 遠 く化
現に及ぶ とは大い に煩わ しい こ とで は ない か 。 [萬2007
:46
−47]
韓 国に お け る仏 教と神 信 仰の関 係 185
北斗
七 星を神
格 化 した ものが 七 星神で ある が ,荒唐 無 稽の もの と して , そ れ に対 する批判
を述
べ て い る。 ま た十王信仰
に対 して も,批
判 的な意 見を述べ て い る・ .十
王 とは閻羅 国の 十 位の大王 と聞
い てい る。 質 して 言えぼす な わ ち死人 の裁判官
で ある。 広 く見れ ば畏れ るこ とはない が,深 く見れば畏れ ない わ けに は い か ない 。 何とな れ ば, 裁 判 官 は罪人 を懲 罰す る た め に設けて い る よ うに見え る けれ ど も,実
に は善
人を保護 するた め に設けてい る の で ある。 私にはもと よ り罪
は ない ,必ず
保 護 するの で あ る。 一方,裁判 官は深 く法律に通 じ詳細
に審 査すれ ば, その 法律 に服従す る もの は必 ず む やみ に畏 れ る弊害
は幸
い に も ない 。 どこ に畏 れ る とこ ろが 有ろ う か。 一 方, 仏 教者 は必 ず極楽
に往
生す る, も と よ り閻 羅国の 附庸で はない 。 何が有ろ うか 。 も し浄 行を修せ ざれ ぼ地獄に堕 し, も し地 獄に生き死ぬ の で あ れ ぼ, 自ずか ら従
う規
則が あ る。 これに諂っ て何の 良い こ とが有
ろ うか。[
萬2007
:47]
同じ く十王に も信仰
す る必要
は ない こ と を述べ て い る。 なお, 十 王信仰
は新
羅 時 代 以 降, 朝鮮 半島
に流布
した信仰
で ある[
鎌
田1987
]
。 また, 神 衆に対 して も, 同様 にその 意 義を 認 めて い ない 。 神 衆 とは仏が霊鷲
山 に居 られ た と きに護衛 さ れて 常に付き従っ て い た衆 で あ る。仏法 を 保 護 するの は誠 に彼 の責 任で あ る。 (中略 ) 行 為や動 作 は仏の 許し を得て い る。自由
に則る こ とがで き ない の は, また疑うこ と がで きない。 仏 法 僧 は 一体
の もの で あ り,神衆
は仏
法を護 持 して い る, どうして 僧を守ら ない 理 が あ ろうか。 も し僧を守 らない とした ら, 仏は 必ず 叱責
す る で あろ う。 僧 とは私の 法を行い 私の 教え を完 成させ る もの だか ら で ある。 し か る に ど う して 守ら ない の か。 冷視 し よ う と思っ て も そ うす るこ とは でき ない 。 は た して そ うで あ れ ば,僧侶
は上官
の よ う な186 パ ーリ学 仏教 文化学
もの で ある。 神衆 は保 護 巡 査の よ うな もの であ る。 今, 一人の 上官が あ
る。 こ こ に叉手 跪 坐 して 保 護巡 査に, 頭を叩き お願い を す れ ば, その 弱
い 心 の
者
を笑うこ とはで き ない の で ある。吾
が 同 朋 た ちは ど う して こ こを見ない で, また 自ら見る こ とが あろ うか。 今, そ れで も畏 れ るの は,
そ の後に
身
を か が め福
を神衆
に お願 い するの は(
ま さ し く逆
さ ま(
倒
置)で あ り
)
,私は その逆さ まに耐え る こ と が で き ない 。 … …[
萬 2007
:47
−48 ]
僧 侶は上官,神 衆は保護
巡査の よ う な もの で あ り, 上官
を ない が しろ に して 保 護巡 査 を 大 切 にす る, す な わ ち下 位の 者を上位の 者よ り大 事にす るよ う な 「倒 置 」 を戒め て い るの であ る。こ の ように,萬海ス ニ ム は仏 教界の 改 革の た め に
伝
統 的な神信仰
,羅漢
, 十王, 神 衆を否定す る主張を行っ た の で ある が (山神 信 仰は明確な 形 で は述 べ られ て い ない)
,残念
な が ら, その主 張は大 き な歴 史 の波 に は な らなか っ た とい う(8>。なお, 二 十 世 紀
初
頭 とい う視
点 か ら言えば, 中国 に は太 虚 (1890
−1947
)
が 登 場 し仏 教 界の 改革
を主張
し て お り[
末木 1996]
, ま た東 南
ア ジア に は タ イ に お い て ラーマ 五世王(
在 位1868
−1910)
が活躍 して サ ン ガ法が成立 し た 時期で あ る[
矢野2006 ]
〔9)。東
南ア ジ ア か ら東ア ジア に か け て西 洋列強に対 抗 しよ うと し た 時期に,朝鮮半 島
に おい ても仏
教者
の中
か ら改革
運 動 を提 唱 す る人物が現れ た 点に は注意が 必要であ ろ う。5
.戦後
に お け る神
仏
の分 離
韓
国の 仏教界 で神 信 仰を分 離 し よ うとした運 動は, 日帝
支 配時代
が終
了 し た1945 年
以降
に再
び登場
した。 そ の 時に は, 現 在, 韓 国の禅院
を代表
す る 慶尚
北道聞
慶の 鳳巌 寺が舞 台となっ た。 鳳巌 寺は岩 山が連な る風光
明媚
な山 の 麓に 存在す る寺 院で あ り, い か にも山神が相 応 しい寺 院で ある。 現在で は曹
渓宗
を代 表
す る禅 院
で あ り, 毎年
の よ うに百 名を超え る僧 侶が安 居を過 ご韓国にお ける仏 教 と神信 仰の関係
187
して い る地で も あ る。 いず
れ に して も韓国有 数の 名 刹で あ るが, こ こを拠 点に改 革運 動が発生 した。 その 中心に立 っ た僧 侶が 性徹ス ニ ム (退翁 性 徹1912
年2
月19
日一1993
年11
月4
日)で あ っ た。 彼 は,1935
年,23
歳 の 時に 海印
寺で 得 度 して僧 侶 とな り, 現在の 曹 渓 宗の基を築
い た重要な 人物
で も あ る。1981
年に は第 六 代の 曹 渓 宗 宗正(
宗 門 代表
者)
に 選 ばれ ,続
い て1991
年
に は第
七代
の宗
正に再
選さ れて い る[
藤 2012 ]
(lo)。1947
年 に聞慶 の鳳 巌 寺に お い て性 徹 を中心 に鳳 巌 寺 結 社が 組 織 され た。 こ の時の ス ロ ー ガン は 「妻帯
を是認す る 日本仏
教を捨て よ う」 とい う もの で あっ た。 日本
に よる朝鮮支配時代
に,朝鮮
の仏教
は 日本化
し,寺刹
は遊
園地 化されて し まっ た とい う反 省の も とに 「仏 陀の 在 世の よ うに,仏 陀の 法の 通 り, 暮ら して み よ う」 とい う修行 に対す る決議を行い , 四 人の 僧 侶が 集まっ て 鳳巌 寺結社
がで き たの で あ る。 その時
の中
心的な指導 者
が36
歳の性徹
で あっ た。 後 に20
人 が結 社に参
加 し た とい う。 結社
の方針は次の よ う な もの であっ た とい う。 一 、緋緞 袈 裟、長 衫,木 鉢盂 を捨て,壊色の 袈 裟,鉄 鉢盂 を使 う。 二 、 戒律を徹底的に守る。 三 千拝を推 奨す る。 三、寺 院
の経 済
を支
えて い た儀 礼
や供養
,斎
な どの煩 雑
な儀 礼
を廃止し,僧 侶の読 経は 『金 剛 般 若経』 だ けで良い。
(
以後, 『般若 心 経 』 だけで良い に な り, 最 終 的に は 『般 若 心 経 』 を三 遍 読 誦すれ ば良い に
なっ た。)斎の儀 式の 簡 素化, 舞 踊な どの 要 素は排 除 する。 四 、祈 福 的 儀 礼の 廃止 を通 じて 物 質 的世 俗 的価値 観に従 属 し た僧 団を開
放 し, 出家 精神 を取 り戻す。 五 、一 日に四時 間 以 上は 眠 らない 。 最 後 まで話 頭に参
究
す る努 力を す る。 六、 一 日作
さなけ れ ば , 一 日食 事を しない 。 七、 七 星や山神
を祀
るこ とは純粋
な仏 教で は ない 。 七 星 や 山神 を描い た画を燃や し, 七 星閣や 山
神閣
を破 壊 し,仏と その 弟 子 達の み に仕え る188
パ ーリ学 仏教文 化 学[
Jae
−yeong
2007
:11
−64]
よ り抜粋)
。こ の よ うに
性
徹は徹 底 した仏 教の純粋
化運動
に邁 進 した。仏
供 や 四十
九日 斎な どの儀式
を廃止 したの で ある が, そ れ は寺 院経 済の 疲 弊を招い た。 また僧 侶
らは,托
鉢を 通 じて生計を立 てたが,結 社の 活 動は長 続 き しなか っ た。 とい うの は左翼活 動の禁 止 が 政 府 よ り出さ れ , 鳳巌 寺も その 余 弊を受け る こ と と な り,1950 年 3
月, 冬の 安 居が説か れ た直 後, 鳳巌 寺 結 社 も と もに解 体さ れ るに至っ た。 こ の活 動は わずか三年
で幕
を閉
じたの で あるが , その影 響は大 き か っ た。 活 動に参加 した僧侶の中か ら, 後 に 四 人 が曹
渓宗の宗正 に 選 ばれ, 七人 が宗務総
長になっ てい る か らであ る。さて, 鳳
巌
寺 結社のス ロ ー ガン の 第七番 目が七 星 , 山神を信 仰す るこ との 禁止であ り, これ がい わゆ る神 仏分 離に相 当す る事 例で ある と言え よ う。 鳳巌寺結社
の活動 自体
はわず
か な期間
で終
了して しまっ たが,鳳巌 寺内
か ら七 星閣, 山神 閣が排 除 され た とい う点で は,神 仏 分 離の典型 的な一例であっ た とい うこ と が で き る。お わ りに
朝鮮半島
にお ける神仏
分離
につ い て概 括 的に捉え る こ と を目指 したが, 分離
とい え る例は, わず
か し か 見ら れ な い の が実 状で あ る。 寺 院の中
に 山神
, 七 星 な どの信仰
が 入 っ たが,興 味 深い こ と に, そ れ が 日本の ような仏 との 習 合を生み出す こ とが な か っ た とい う点 は, ま ずは注 目 さ れる とこ ろ で は ない だ ろ うか。 日本
で は平
安時代
か ら本
地 と垂迹 とい う関係で,神 と仏 と が 一体 化す る展開
を生み出
して い た が ,朝
鮮 半 島で は, その よ うな例を見い だ す こ とがで き ない 。 なお, 最 近の曹 渓 宗 内に お い て, その よ うな言説
が な さ れて い るこ とを確 認は し た が , ま だ 一般 化 した もの で はない 。 ま た,分 離の 切っ 掛け は僧 侶の 仏教に対す る純 粋信 仰か ら生 ま れ た もの で あっ た。 そ の最初の提 唱者が僧 侶で あっ た とい う とこ ろ も特徴
の 一っ と 言え よ う。 日本の 神 仏 分 離は, 伊 勢 神 道に おい て その最初
を見 る こ とが で きる韓国における仏教 と神 信 仰の関 係
189
がt 大々 的な もの は明治
政府
とい う上か らの指示
で始
まっ た。 しか し韓国
で は僧 侶の 仏 教に対す る純
粋主義か ら始まっ て い た。 ま た ,韓 国に お ける分離 が,(
本
地 垂 迹の よ う な)神
と仏 との 一体 化か ら の 分離
で はな く, 寺院
空 間 の 中か らの神の 排 除 とい う形で起きた とい う点も確 認 して お きた い 。 なお,分 離が提 唱さ れて も,山神 な どの神へ の 信 仰は実 際に は多 くの 庶 民 が持っ て い る もの で あっ て ,最 終的 に は排 除す る こ とは で き な かっ た よ うで あ る。 昨今の 韓 国天 台宗の例 に見て 取れ るよ うに, 草創 期に は排 除され た に も拘わ らず, 後代 に は徐々 に認め ざる を得な くなっ て い た。 神 衆が絵 画に ま た浮
き彫
りに描
か れ る よ うにな っ た経緯
を考
え れ ば, その 感 を 一層強
く持
つ 。韓
国に お ける神
仏の分離
の事 例は,仏 教の純粋
信 仰 と庶
民の信 仰 とが如 何に折 り合い を付けて い くの か, 興味 深い例 を提 示 して く れ て い る と思う。 《追記》こ の論文を作成するに際し,東京大 学大 学院修士課程 学生の朴賢珍氏に は 様々 な情報を提供 して い た だいた。 彼の情 報に よっ て多 くの視点 を 得 る こ と がで き,彼の支援が無け ればこ の論文は完成 し てい な かっ たで あ ろ う。 こ こに記 して感 謝の 意を表 し たい。な お,本論 文は,2010
−2012
年 度 ・日本学 術 振興 会 科学研 究 費 基盤研 究(C
)研 究 課題 「宗教都 市伊 勢に お け る神 仏分 離と寺 院 ・神祠の 景観 変化に関 する歴 史 的 研究」 研究代表者 河 野 訓,課 題番号 (22520068 )の研究 成果の一部で あ る。 〈付記 〉本 論を執 筆 し終えた段 階で 立川 武 蔵編 『ア ジ ア の仏 教 と神々 』 (法 蔵館 2012 )が刊 行 され た。 その 中に収載 さ れ た 論 文の 一つ , 釈 悟 震 「韓国 仏 教にお ける 神々 山神 と神衆を中心 と して 」 が本論 文 内容 と重な り, か つ また分か り易 く有 用で あ るこ とを付言し て お き たい。 注 (1
) 曹渓 宗の 出家は 6 ヶ 月間の見習いを してか ら沙 弥,沙 弥尼に始め て な れ る厳 格な もの で あ る。4
年 後に始め て受 戒が許さ れ, 一般僧 侶に なる 。 沙 弥 を含め て10
年 で 見徳 後10
年で 中徳 後5
年で大 徳 ,後5
年で 宗 師,そ れ以降は 大宗 師の位に 就 く。 現在 13000人の 僧 侶を擁す る。 神衆は 『華厳経』 に基づ く と考え ら れ, 一般に華 厳神衆 と称する 。 八十 巻 『華 厳 経』 世 主妙嚴品第一之一 (大正10
,1
中一)に華 厳海 会の 会座に参 集す る神々 が 列190
パ ーリ学 仏 教 文 化 学 挙 さ れ る箇所 が あ り, 身 衆 神, 足 行 神, 道 場 神, 主 城 神, 主 地 神, 主 山神な どが 挙 げら れ てい る。 こ れ が華 厳神 衆と して信仰さ れ るよ うになっ た。 (3
)百 済の地 で最初に立て ら れ た寺 院は, 最初の都 と考え ら れ る公 州の大 通寺で あ るとい う。現在, 大通寺は ま だ 発掘途上で あ り,寺址 と考え ら れ る地に幢竿支柱が 残っ て いるのみで あっ た。 (4
) 天 理大 学 図書館, 今西博士蒐集 朝鮮関係文献目録 分 類番号, 今 類 一八八 一ニ ー 九三 。 (5
) 日本で は東大寺の手向 山八 幡宮 ,興福 寺の春 日大社 , 薬師寺の 休丘八幡など が鎮 守の神 と位 置づ け られ るが, それぞ れ寺 院に隣接 し て お り,また 8世紀 中葉に は成 立 し てい る。 伽藍 神は道教の 影響を受け た土地 神が取 り込まれた もの で ,禅 宗と と もに 日本に入っ た と考え ら れ,泉涌寺の例 が 早 い もの と考 え ら れて い る。 〔6
) 天 理大学 図書館所蔵, 分類 番号, 今類 一二六一一五五 。 (7
) 日本の神 仏習合で は天台の 山王神 道が有 名で あ るが, そ れ は天台の本迹思想を 用 い て本地 と 垂 迹が想 定 さ れ, 仏が本 地,神が垂迹 と考え ら れ た。 すな わ ち神は仏が 仮に現 れ た もの (権現)である と位置づ け られ た が,韓 国の場合に は,その よ う な 理解は存在し なか っ た と考え ら れ る。 (8
)2012
年2
月の 調 査で 曹渓 寺の ス ニ ムへ の イン タビュ ーか ら , 大 方の ス ニ ム の意 見と して萬海は有名で あるけ れ ど も,その主張が大き な変革を起 こ し た とは 考え ら れて い ない とい う。 (9
) タ イ ラン ドのサ ン ガ法は 1902 年に成立 して お り, こ の規 定に よっ て タ イに存在 した 遊 行僧が 寺院に定着さ せ ら れ た とい う。 韓国の 仏教 集団の 中では あ ま りに も 独 裁 的 な 強権政 治 が続いた と さ れ,1994
年 に は若手僧 侶達を中心 に 「改革宗団 」 が 発 足 して民主的 な宗団組織へ と変わっ た と 位置づ け ら れてい る。 参 考資 料 有働 智奘2010
韓国寺刹 1996 鎌田茂雄1987
玄 容駿 1985 末木文 美士1996
辻 日 出 典 1995 平野 邦雄1961
『古代 日本の 神仏 交流 』 (國學 院大 學学 位請求論 文, 未発表 〉 『韓 国寺 刹 釧 山神信 仰 研 究 』 (学術 用役 調 査報 告書 国立文 化 財研 究所 韓国) 『挑 戦 仏教史 』 東洋叢 書 1 東京大 学出版 会 『済州 島巫俗の研 究 』 第一書房 『現 代 中国の仏教 』 曹 章祺 と共著, 平川 出版社 『神 仏 習合』 臨 川書店,初版 1986 「古 新羅の対 外交 渉に関す る覚 書一 わ が仏教 受容の問題 と関連 し韓 国にお ける仏 教 と神 信 仰の関 係