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2004年度 ?.仏教学特殊講義 : 仏教における空間 論

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著者 森 雅秀

著者別名 Mori, Masahide

雑誌名 仏教について教えてください : 講義によせられた

3000の質問と回答

1

ページ 343‑377

発行年 2010‑03‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/23981

(2)

II.

仏教学特殊講義:仏教における空間論

1.

空間について考えること・思いつくこと

階段井戸がおもしろいと思いました。昔の水浴場 の上に寺院が建てられたのでしょうか。「子ども にとっての空間」が均質でないという話は、中学 校の家庭科の授業で幼児向けの絵本を作ったとき のことを思い出させます。空間だけでなく、時間 も子どもは独自のリズムを持っています。子ども は常に「自分が主人公の物語の世界」の中で生き ていると思います。

パタンの階段井戸(step well)は、ゆっくりお見せ できなかったのですが、インドの建造物の中でも 異色の存在で、昨年はじめてここを訪れた私も、

強烈な印象を受けました。階段井戸は西インドに かなり見られ、インドよりも西の乾燥地帯(砂漠 など)で流行していたものが入ってきたそうです。

生活をする上で必要な水の供給源ですが、宗教的、

あるいは国家的な建造物としての機能も与えられ たようです。規模はさまざまですが、パタンのも のは最大級で、巨大なビルが地中に作られたよう にも見えます。ただし、天井などはほとんどなく、

柱と梁だけで構成されているので、地下という感 じはあまりありません。パタンの場合、さらに壁 面にびっしりとヒンドゥー教の神々の彫刻があり、

それだけでも圧倒されます。パタンの階段井戸の 研究書がありますので、今回回覧してもらうつも りです。子どもについては、たしかに独自の時間 や空間の感覚を持っていると思います。空間の話 で子どもを例に出すのは、それがおそらく誰もが 共通して持っている原初的な空間体験だと思った からです。宗教全般に共通して言えることですが、

おそらく、われわれの親や祖父母の世代までは、

ごくふつうの宗教的な感覚も、われわれ自身には 理解しがたいものになりつつあるようです。子ど もの時には、それがまだ残っているような気がし ます。ついでですが、私はマンダラの構造を説明 するときなどにも、小さい子どもの絵を例に出し

たりします。

マンダラはごちゃごちゃしている平面的なものだ と思っていたけど、何となく、空間なのだと感じ られた。十忿怒尊は何に対して怒っているのです か。瞑想はなぜ東からなのですか。

いろいろなものが混じり合って、渾然一体として いるものというのが、おそらく日本人の一般的な マンダラの理解でしょう。じつはこれはマンダラ の本来の意味からは最も遠いものです。マンダラ は昨年度の授業で取り上げたので、今年度はあま りくわしくは見ませんが、この授業でもときどき 出てくると思います 。拙著『マン ダラの密教 儀 礼』を読んでいただくと、マンダラとは何かがわ かってもらえるはずです(宣伝です)。十忿怒尊 は特定の人やものごとに対して怒っているのでは なく、もともとそのような姿をしている仏たちで、

日本の明王に相当します。そのメンバーには不動、

大威徳、降三世などとおなじ仏も含まれます(名 前が違うものもいます)。異教の神(たとえばヒ ンドゥー教の神)にたいして、威嚇的であるとい う説明もありますが、もともと忿怒の姿そのもの は、そのようなヒンドゥー教の神の影響を受けた ものが多いので、文化史的には複雑です。瞑想を 東から行うのは、インドでは東が一番はじめにあ げられる方位だからでしょう。これはインドに限 らず、中国や日本でも同様です。日の出と関係が あるという説もあり ます。サンス クリット( 梵 語)で東を表す pūrva という言葉は、「前」とい う意味もあります。東を向いた状態ということで す。

「空間は均質ではない」というのは、日本人にと ってはけっこうわかりやすい概念だと思う。家の 中では靴を脱ぐのも、「家」と「外」の空間を区

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別しているからではないか。(家の中を土足で汚 したくないからというのもあるのだろうけど)。

いわば「家」が「外」より聖なる空間なのであっ て、ひとつの「結界」であるということなんだと 思う。そうした日本人の空間意識が、仏教の空間 意識とどうかかわっているかについて、調べてみ るのもいいかもしれない。

「家」は「ウチ」であり、外(ソト)の世界と対 立するものとして、しばしばとらえられるのはた しかです。靴を脱ぐ習慣も、清潔感だけではなく、

そのような感覚からくるのも、おそらくそうでし ょう。その境界である門や入口が、宗教的に重要 であることも広く認められます(門松やしめ飾り はそのなごり)。ただし、ウチとソトがそのまま

「聖と俗」に対応するかというと、それほど簡単 ではないと思います。ウチはむしろ日常的な空間 であり、身近なものですが、その分、無防備な空 間です。靴を脱いだり、普段着でいるのもそのた めでしょう。ソトに出るときにそれにふさわしい 身なりをするのは、ソトの空間をそれとは異質な ものととらえているからだと思います。家の中に も仏間のように聖なる空間を作って、居間や台所 と区別する場合もあり、聖と俗の空間は重層的で あったり、包含的であったりします。また、聖と 俗だけではなく、空間を区別する観念として「浄 と不浄」があったり、民俗学でしばしば用いられ る「ハレ、ケ、ケガレ」という区分があります。

これらの宗教学的な分析概念については授業でも どこかで取り上げる予定です。ただし、日本人の 空間意識そのものはあまり詳しく扱えないと思い ますので、自分でいろいろ調べてみて下さい。

「空間」というものはイメージがあって構造があ る。つまり、空間は意識的に区切った「囲まれた 場」である。一方、時間は言葉で表象される観念 である。よって「無限の広がり」を感じさせる。

これら両者が結びつ くには、どの ような「ね じ れ」が生み出されるのか、知りたいと思う。

空間がイメージや構造と結びつき、時間が言葉や 歴史と関係するということを、授業の最後にお話 ししました。わかりにくかったかと思いますし、

私自身もまだ具体的にそれをどのように発展させ るかは、はっきりわかっていません。もともと、

時間と空間という観念そのものが近代的なもので あり、インドも含め、両者は不可分な状態でとら えられていたとも考えています。インドの宇宙論 で世界の構造と時間の循環が結びつけられている のは、その例としてよく取り上げます。授業のは じめのあたりで、何か大きい問題やテーマで、し かも他の人があまり言っていないようなものを設 定するのは、わたしの「くせ」のようなものです。

事例を紹介するだけの授業では物足りないと思う からなのですが、そこにうまく収斂するかどうか はわかりません。努力しますが

子どものころ、母の実家の仏間が暗かったのもあ って、嫌いだった記憶があります。雷と神が近し いもの、また由来がそこから来ているというのは、

何となく理解できていたが、オオカミもまたおな じところにあるものだというのに驚きました。

仏間が好きという子どもはおそらくあまりいない と思いますし、私も同じでした(仏教に関心を持 つようになったのはずっと後です)。そのような 感覚がこの授業であつかう空間の基本にあるので、

はじめにお話ししました。雷などの話は、私が大 学生の時に、教養の国語学の授業で金岡孝先生か らお聞きしたことです(金岡先生は『広辞苑』の 改訂にも携われた国語学の大家)。確認のため手 許にある白川静『字訓』(平凡社)の「かみ」の 項を見ると、「神秘な力を持つ神聖なものをいう。

すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなも のも、神意のものとして神とされた」と説明があ ります。神様の「かみ」ですし、雷は「かみ」が 鳴るもので、オオカミは大きな「かみ」となりま す。これに対し、上下の上を表す「かみ」や、紙 の「かみ」は別のことばです。なぜ別であるかと いうと、国語学の基本的な知識ですが、古代の日 本語には甲類と乙類という違いが特定の仮名にあ り、現在では、同じ発音であっても、もともとは 別の音だったからです。また、この 2 つの系列の 中で、特定の 2 つ以上の音韻がひとつの単語の中 に共存しないとして、「母音調和」という法則が

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あったことも知られています。これはウラル=ア ルタイ語系の言語に特徴的であることもわかって います。これらのことも『字訓』のはじめのあた りで説明されています。雷が聖なる存在であるこ とは、また別の話になりますので、ここでは省略 しますが、音や光に加え、天と地をつなぐ稲妻と いう形態が重要だと思います。

森先生が配布された M.エリアーデと森先生自身の 論文の中の「宗教的空間」と「日常的な空間」と いう空間概念に興味を持ちました。今回の授業の 冒頭で先生は「この授業で扱う空間とは物理学 のそれとは異なります」等とおっしゃっており、

その際「哲学はちょっと違うかな」と付け加えて いたのを記憶しています。では先生は哲学的な空 間概念へのアプローチをどのように位置づけてい るのですか?M.エリアーデおよび森先生のアプロ ーチの仕方はおもしろいと私は言いましたが、エ リアーデの「宗教的人間にとって空間は均質では ない」のような言明は、私にとって神秘主義のよ うに感じられ、やや受け容れがたいという気持ち があるのも否めません。 

哲学的な空間論はおそらく私の手に余るので、正 面切っては取り上げないと思います。むしろ、哲 学的な立場から、宗教的な空間や実践的な空間と いう捉え方へのコメントを期待します。ただ、今 回はインドの空間論として、インド哲学で空間を どのように扱っていたかを確認しておきます。こ れからの授業でもっぱら扱うのは儀礼空間や、寺 院空間のような宗教的な空間ですが、それがイン ドの哲学体系や仏教の教理の中での空間の捉え方 と、どのような関係があるのかを確認しておきた いためです。エリアーデの空間の説明はだれにで も経験される普遍的な感覚と理解していたので、

神秘主義というのは少し意外でしたが、たしかに そのようにも感じられるかもしれません。エリア ーデは実際にインドでヨーガや瞑想の修行を行い、

神秘主義にも強い関心を持っていました。ちなみ に彼の学位論文は「ヨーガ」というタイトルで、

日本語でも読めます(せりか書房)。

結界の話に興味を持った。子どもが遊ぶときによ く「バリア」と言って、自分のまわりに他の子が 近づけないようにするが、その「バリア」が「結 界」と同じ性格を持っているのではないかと思っ た。日常的な空間に異質な空間を作り出すという 概念が宗教儀礼と子どもの遊びに共通してみられ るということが興味深いと思う。

結界はまさに「バリア」です。結界は日本の宗教 の中のいたるところで見られ、われわれにとって も宗教的な空間のもっともわかりやすい例のひと つではないかと思います。子どもの遊びはしばし ば社会の構造や人間関係、さらには人間存在その ものを端的に、あるいは象徴的に表すことがあり、

人類学者や社会学者なども関心を持っています。

下記のような研究が有名です。話は別ですが、結 界は西洋史に登場する「アジール」にも似ている と思います。アジールとは権力者の管轄外の扱い を受けた修道院などの宗教施設のことで、権力の 及ばない特殊な空間でした。日本でも仏教寺院が アジール的な機能を持っていて、犯罪者をかくま ったり、出家させて捕縛を免れたことなどはよく 知られています。縁切寺などもアジールの一種で しょう。

ホイジンガ、J. 1973 『ホモ・ルーデンス』中 公文庫。

カイヨワ、R. 1970 『遊びと人間』清水幾太郎, 霧生和夫訳 岩波書店。

チュシュヤバハは平面図を見たとき、とっさにモ スクに似ているかもしれないと思いました。中庭 のあるあたりなどが

たしかにモスクは礼拝用の大きな広場があります が、ネパール寺院の基本的な構造はモスクとは少 し違うようです。チュシュヤバハなどのカトマン ドゥの寺院構造は、むしろ、インドの僧院の影響 を受けていて、バハという名称も、インドで僧院 を指す「ビハーラ」に由来します。インドの僧院 も中央の中庭を取り囲んで、周囲に僧房を造りま す。入口の反対側が本堂で、礼拝用の本尊が安置 されているのもネパールのバハと共通します。た だし、ネワール仏教は在家仏教なので、周囲の建

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物に住んでいるのは僧侶の一家をはじめとする在 家の人々で、出家者のみが住んでいたインドのビ ハーラとは異なります。また、インドは石造の僧

院が一般的であったのに対し、ネパールでは木造 が普通です。

2.

空間についてのインド的理解・日本的理解

今日の話は本当にむずかしかった。ヴァイシェー シカ学派は、世界を細かく分類し、世界を体系化 しようとしたのでしょうか。まるで初めて学名を 考えたリンネのようですね。

「世界を細かく分類し体系化する」という理解で 正しいです。インドの思想には大きく分けてヴェ ーダやウパニシャッド以来の正統的な哲学と、そ れに対する非正統的な仏教やジャイナ教がありま す。日本人にとっては仏教はインドの代表的な思 想という思いこみがありますが、インドの思想の 流れから見れば異端です。授業でも紹介しました が、世界や神の存在を認めないことが、その決定 的な違いです。正統的な哲学に 6 つの代表的な学 派があり、ヴェーダーンタ、ミーマーンサー、ニ ヤーヤ、ヴァイシェーシカ、サーンキヤ、ヨーガ です。これらはさらに、この順で二つずつのまと まりを形成します。ヴァイシェーシカとニヤーヤ が一組となります。ヴァイシェーシカ学派のカテ ゴリー論を紹介した前回の授業は、「難解」「よく わからなかった」という感想が多く見られました。

たしかに理解しづらいところもあるかもしれませ んが、世界の構成要素を有限個のカテゴリーに分 類して、その構造や関係で世界を説明するという 考え方は、むしろ近代的な分類法にも共通し、わ れわれにとってはなじみやすいと思います。そう いう意味で、植物学のリンネの業績にも確かに通 じるものはあります。授業の主題との関係で言え ば、実体のはじめの 五つである地 水火風空( 虚 空)は、五大としてひとまとまりで扱われること が多いのですが、ヴァイシェーシカ学派のカテゴ リーでは、虚空はそれ以外の 4 つとは区別され、

時間や方位と一体のものと見なされることに注目 しました。ダルマ・ダルミン関係は、その違いを

理解するために必要な情報です。虚空に関する哲 学的な議論にまでは立ち入りませんが、このよう な虚空の位置づけは、宗教的な文脈での空間理解 にも重要な意味を持つと考えています。

天井にマンダラが描かれたり、マンダラの中心と なる仏が描かれたりするのは、地(床)に対する 天を見上げる形で体感できる構造だと思います。

去年の哲学概論の授業で、「それが他者である」

とは「私はそれではない」ということであると、

サルトルは考えたそうです。ヴァイシェーシカの 句義の中の「特殊」とは、下位の「普遍」の中の どれかが、「私にあってそれにはない」というこ とでしょうか。

天井にマンダラを描く理由はひとつではないと 思います。西チベットのトゥンガル遺跡の場合、

ドーム状の天井が階層化され、これに法界マンダ ラという大規模なマンダラが投影されています。

必ずしも天上世界とか天界という意図は読みとれ ないようです。そもそもマンダラというものが、

立体的な構造をもった建造物を平面化したもので あるため、建造物に投影するのは、もとの姿に戻 すようなものなので、チベット以外でもよく見ら れます。インドネシアのボロブドゥール、ネパー ルのスヴァヤンブーの仏塔、日本の密教系の仏塔

(多宝塔といいます)などは、その典型です。授 業で紹介したポン教のお寺の天井は、マンダラで はなく、成就者たちの姿で、彼らのグループその ものはマンダラとは無縁ですが、天井全体を螺旋 状の構造にして、それを埋めるための素材として 用いられています。この場合も、天界という発想 はありません。日本では、有名なところではキト ラ古墳や高松塚古墳に星宿図が天井に描かれてい

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るので、天井と天は重なるような印象を受けます が、その起源はおそらく中国で、インドまではさ かのぼれません。チベットでは寺院の壁に須弥山 世界図や天文学的な軌道図が描かれますが、天井 に描かれることはおそらくないでしょう。

「特殊」と「普遍」の関係はそういう理解で正 しいと思います。授業でも用いた『サプタパダー ルティー』という、この分野の教科書のような文 献でも「特殊は普遍を欠くものであり、ひとつの 実体に存する」と定義されています。ただし、普 遍や特殊を含め 7 種のカテゴリー(句義)は抽象 的な観念ではなく、いずれも「実在」するもので す。したがって、両者は密接な関係がありますが、

必ずしも「表と裏」のような関係ではなく、それ ぞれ単独でダルマとなります。この定義に対する 説明も、ヴァイシェーシカ学派ではつぎのように 行います。おそらくわれわれの思いつくような説 明ではないでしょう(このあとはかなり込み入っ た話になりますので、関心のない人はとばしてく ださい)。

もう一度、定義を示します。「特殊は普遍を欠 くものであり、ひとつの実体に存する」。ここに 2 つの規定があります。このうち「普遍を欠く もの」という前半の規定は、7 つのカテゴリーか ら実体、属性、運動を除外するためです。これら の三つは普遍をダルマとして有するからです。7 つのカテゴリーの中から、普遍をダルマとするも のを除くと、残りは普遍、特殊、和合、無が残り ます。定義の後半の「ひとつの実体に存する」と いうのは、「実体に和合する」とも言い換えられ るので、これによって残りの 4 つの中から、和合 と無を除外することになります。和合と無は、他 のダルミンと和合しないからです(ややこしいで すが、和合は和合そのものと和合しないし、無と 他のダルミンの関係は自体関係と呼ばれて和合と は別です)。これで、残りは普遍と特殊になりま す。「ひとつの実体に存する」という定義は、さ らに普遍と特殊を区別する働きもあります。普遍 は実体、属性、運動という三つのダルミンに対し て、ダルマとして存 するから「実 体にのみ存 す る」という規定に合致しないからです。これに対

して、特殊の場合は、ひとつひとつの特殊がひと つひとつの実体に依 存します。こ のようにし て

「特殊は普遍を欠くものであり、ひとつの実体に 存する」という定義によって、特殊が規定される ことになります。

なお、これに先立つ段落で、特殊の定義として、

つ ぎ の よ う な も の が す で に あ げ ら れ て い ま す 。

「特殊は存在する数だけの常住なる実体に依存す るから、無数である」。これはつぎのように説明 されます。常住なる実体とは、9 種の実体の中の 虚空、時間、方角、マナス、アートマンです。こ れらはそれぞれ共通の本性は存在しない、すなわ ち普遍は存在しないので、特殊のみが存在するこ とになります。実体の残りの 4 つ、つまり地、水、

火、風は、原子の状態であれば常住なので、やは り特殊が存在することになります。また、はじめ の五種のうち虚空、時間、方角はそれぞれひとつ ですが、マナスとアートマンは無数にあり、地水 火風の原子も無数にあるので、特殊の数も無数に なります。

以上、句義の説明は菱田邦男『インド自然哲学 の研究』(山喜房)を参考にしました。

本の中にある石像が、ほぼ女性の石像でした。男 も少しはいましたが、並べてみると女性像の方が 多い。なぜなんでしょうか。女性ってだいたい穢 れてるからってことで、昔は差別されてるはずな のに、女性像が多いのはよくわかりません。とく に、仏教ってそのケが強いと思うんですが。ヴァ イシェーシカ学派の、無の捉え方がすごくおもし ろかったです。目に見えたり、鼻でかいだりでき ないのは、そこにあるものが無を含んでいるから だっていうのは、すごく新鮮でした。

本というのはパタンの階段井戸の本のことですよ ね。細かい神々の名前は確認していませんが、必 ずしも女神が多いというわけではなく、ヴィシュ ヌやその変化身(アヴァターラ)など、男神も多 くいたと思います。おそらく、神像と神像の間に ある装飾的な女性像が目に付いたのではないかと 思いますが、これらは神よりも人間に近い存在で す。ヒンドゥー教の寺院装飾には、このような女

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性像が昔から多く現れます。それとは別の話です が、ヒンドゥー教には女神の信仰も重要です。有 名なものではドゥルガーやカーリーという名の女 神が知られていますが、それ以外にも無数にいま す。中世のインドは女神信仰の興隆が顕著になっ た時代でもあり、仏 教でも多くの 女尊(じょ そ ん)すなわち女性の仏を生み出しました。しかし、

女性の神や仏が多いからといって、女性の社会的 な地位が高かったというわけではありません。日 本でもアマテラスがいますし、山の神のような民 俗的な神は、しばしば女性です。その一方で、日 本的な「ケガレ」観で、インドの信仰や文化をと らえることも危険です。ややこしくなりましたが、

女性=ケガレという図式は決して普遍的ではない ということです。無については、以前、理科系の 人と話していたら、コンピューターの発想に似て いるとおっしゃっていました。今回の質問でもそ のような指摘をされた方がいます。数学的な発想 に通じるのでしょう。よく言われることですが、

ゼロという数をたてたのもインド人です。またイ ンドにはすぐれた数学の伝統があり、現在ではI T大国になりつつあります。それはともかく、授 業で問題にしている虚空や、大乗仏教の重要な概 念である空(くう)などと、無との違いにも注意 して下さい。

ヴァイシェーシカ学派における属性の中に、「嫌 悪」「努力」というものがあるが、実体に結びつ く「嫌悪」「努力」とは、どういうことなのかが よくわからなかった。嫌悪感を抱かせるとか、努 力したいと思わせると認識すればよいのか。

24 種の属性の多くは、色、形、におい、数などの 特徴としてとらえられるものが多いのですが、た しかに「努力」や「嫌悪」、あるいは「法」「 非 法」などは特徴とは言えず、わかりにくいかもし れません。嫌悪はその前の欲と対になっています。

いずれも対象となるものによって説明されます。

欲の対象は快楽や幸福で、そのための手段も対象 に含まれます。人間というダルミンに欲というダ ルマが和合することで、人間はこれらを対象とす る、つまり、求めたり、手に入れたりします。嫌

悪はその逆で、苦痛や不幸を対象とし、さらにそ の手段(というか原因)も対象とします。同じこ とですが、人間に嫌悪が和合すると、不幸やその 原 因 を 忌 避 し ま す 。 努 力 も こ れ ら と 似 て い て 、

「聖典で規定されたなすべきこと」「聖典で規定 されたなすべきではないこと」「そのいずれでも ないもの」という 3 種を対象とします。努力がダ ルマとして人間に和合すると、そのような倫理的 な基準が判断でき、行動に移せます。最後の「そ のいずれでもないこと」とは倫理的な基準とは無 縁の行動です。たとえば「からだの痒いところに 手をのばして掻く」という動きがそれに相当しま す(バカみたいな説明ですが、ちゃんと注釈書に のっているものです)。「法」は社会的な規範を指 し、法をダルマとしても持つ人間は、道徳的な人 物ということになります。もうこれ以上の説明は 省略しますが、普通の日本人の発想ではないです ね。

ヴァイシェーシカ学派は非常にむずかしいです。

途中で挫折したせいもあるけど、とくにダルマ、

ダルミンあたりがさっぱりわかりませんでした。

仏教の方はまだ理解できそうな気がします。

先回は途中で挫折した人や睡魔に襲われた人が多 かったようで、やはり抽象的な話を取り上げるの はむずかしいと私も痛感しました。ダルマ、ダル ミンの関係は、慣れればそれほどむずかしくはな いのですが、一般の日本人の物事の捉え方とはず いぶん違うようです 。私の先生の 立川武蔵氏 は

『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書)と いう本を出していますが、執筆中に編集の人から、

ヴァイシェーシカの章が一番難解だと言われたと 嘆いていました。この本は先週の授業のタネ本の ひとつでもありますので、ためしに一度読んでみ て下さい。講義に関しては、先週途中までになっ てしまった仏教の方に期待をしてほしいとは思う のですが、実は私自身は仏教の方が難解だと思っ ています。とくに、前半のアビダルマよりも後半 の天台の方が、さらに輪をかけて、ついていけな いのではないかと危惧しています。

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森先生が空間のインド的理解を、パワーポイント を使って説明される前に、チョークを手に取り、

「この赤いチョークの色、重さ、形 をすべて取 り除いたら、何か残ると思いますか」とおっしゃ ったことに、大変心引かれました。というのは、

森先生のこの言い回しはドイツ人哲学者であるイ マヌエル・カントの『純粋理性批判』の中での言 い回しを私に思い出させてくれたからです。カン トは先生と同様の問を発した後に、「物体(チョ ーク)はすっかりなくなってしまうかもしれない。

しかし、諸君はその物体(チョーク)が占めてい た空間そのものを取 り除くことは できないだ ろ う」と答えた(と私は記憶しています)。これを もとに、カントは空間を直感(知覚)のア・プリ オリな(先験的な)形式と考えました。カントは 空間とともに時間もア・プリオリな形式と考えま した。つまり、空間 、時間概念は ともに必然 的

(私たちの心・思考・認識からは切っても切り離 せないもの)なのです。やや、話がそれましたが、

カントの「物体が占めていた空間そのものはなく ならない」(余談ながらこの考えは現代のアイン シュタインの相対性理論、および量子力学によっ て解体されつつある、もしくは解体されました)

という考えは、仏教の「何もない」という考えに 当てはまるのか、それともヴァイシェーシカ学派 の「何か(実体)がある」に当てはまるのでしょ うか。また、今回のインド思想による認識論にも 大変興味を覚えました。これに関する何かよい研 究書・参考書はないでしょうか。

長文のコメントありがとうございました。カント の話は知りませんでした(基本的に私は宗教学や 図像学のことは専門ですが、あまり哲学のことは 知りません)。同じような問題設定から、空間と 時間が残るところが興味深いですね。「物体が占 めていた空間そのものはなくならない」というの は、おそらく仏教よりもヴァイシェーシカ学派の 考えに近いのでしょうが、基本的な体系が異なる ので、安易に「似ている」とは言えないのではな いかとも思います。ヴァイシェーシカ学派やイン

ドの思想については、上記の『はじめてのインド 哲学』が一般向けの入門書のひとつです。『イン ド思想史』(東大出版)は、説明はやや不親切で すが、網羅的なことと、原文の翻訳が読めるとい う特徴があります。中身を見ていないのですが、

宮元啓一氏の『インド哲学七つの難問』と『ビッ クリ!インド人の頭の中̶超論理思考を読む』(石 飛道子氏と共著)は、このような問題をわかりや すく説いているのではないかと思います(どちら も講談社)

うちの高校は毎朝朝礼の時に、全校生一斉に般若 心経を唱える変わった学校でした。五蘊、五根、

五境のそれぞれは、そー言えば、般若心経に出て きたなーと思いました。

出身校は仏教系(真言系か禅宗系?)の私立高校 でしょうか。私が以前勤めていた大学は真言宗の 宗門大学の高野山大 学でしたので 、大きな行 事

(卒業式や入学式)はもちろん、毎日の朝礼(大 学にもあるのです)、そして弘法大師の月命日の 21 日の法要など、機会があるごとに般若心経を唱 えていました。ですから、それほど驚きません。

もっとも、私自身は実家が真宗の門徒なので、正 真偈は覚えていても般若心経とは無縁で、いつか は覚えられるだろうと思っていましたが、結局、

在任中に覚えることができませんでした。それは ともかく、般若心経は色即是空、空即是色が有名 ですが、冒頭に観自在菩薩照見五蘊皆空とあるの をはじめ、たしかに五根も五境も登場します。た だし、空が重要な概念であるため、この経典は哲 学的な内容のものであると思っている人も多いの ですが、実際は最後にある「ぎゃーてー、ぎゃー てー 」という陀羅尼(だらに)の部分が最も重 要です。般若経典と呼ばれるジャンルの経典は、

一般に唱えることが重視される読誦経典なのです が、とくに般若心経は唱えることで功徳があると いう典型的な陀羅尼経典です。お遍路さんがお寺 に参拝して唱えるのもこのためですし、朝礼など で毎日唱えるのも同様です。

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3.

聖なる空間のイメージと表現① バールフットなど

・コメント・カード集を読みましたが、たしかに カント哲学にあてはめて考えると、ヴァイシェー シカ哲学はわかりやすくなる気がしました。運動 や重さや色などは、すべて私たちが勝手に壺に付 けているダルマであると理解してもよいでしょう か。でも、カントは空間・時間という認識の枠組 みや色・形などの知覚は、私たちが生まれ持って いるもの、要するに私たちの「内」にあるものと し、ダルミンにあたるものは「もの自体の世界」

のものとしています。ヴァイシェーシカではそう いった認識される側とする側の区別がないという か、すべて「もの自体の世界」に「属性」も含ま れているような気がします。また、そのように考 えると仏教の世界観 では「もの自 体の世界」 が

「ある」のか「ない」のかとちょっと混乱しまし た。仏教においては「一切は解釈である」という ことが言えるのでしょうか。縁起に依ってしか諸 法が存在しない、す べてが空だと したらやは り

「もの自体の世界」の存在を認めていないのでし ょうか。

・「悟りは一瞬」ということばを聞いて、宗教的 な悟りとは「思索」ではなく「気づき」なのかも しれないと思いました。

・授業の真ん中に、カードを書く時間が欲しいで す。何を書こうとしていたか忘れてしまうので。

ヴァイシェーシカ学派とカントの哲学との比較は、

私自身よくわかりませんので、ご自分で調べてみ て下さい。ダルマ・ダルミン関係におけるダルマ は、「私たちが勝手に壺に付けている」ものでは なく、ダルミンに依存して実在しているものです。

認識する側が「仮托」しているものではありませ ん。認識主体と認識対象は、ヴァイシェーシカで は明確に区別されています。認識は覚(buddhi) 呼ばれ、属性のひとつになります。『サプタパダ ールティー』によれば、覚は想記と経験知の二つ があり、経験知には正しい知(真知)と誤った知

(偽知)の二つにさらに分かれます。さらに前者

の正しい知には直接知覚と推論知の二つがありま す。このうち、推論知をめぐって、インド論理学 の壮大な理論が展開され、さらにそれは仏教の論 理学ともさかんに議論を戦わせることになります が、それはまた別の 話です。仏教 では基本的 に

「もの自体の世界」はないという立場ですが、な いとすると、それにも執着することになるので、

やはりそれも認められていません。『中論』で紹 介した「仮」というのは、その状態をあらわした ことばです。悟りの内実は、おそらく「思索」と

「気づき」の両方があるでしょう。インドと日本 では、その割合が異なり、禅宗に見られるように

「気づき」のみを重視する立場もあります。ただ し「悟り」のような宗教体験は、おそらく時間を 超えた次元で起こるので、それまでの「思索」や、

あるいは修行のような実践が長い時間を要するこ とにくらべると、一瞬と言った方がふさわしいと 思います。アビダルマで空間は実在して、かつ煩 悩を生み出さない無為法であるのに対し、時間が その逆の有為法であると分類されるのは、このよ うな実際の体験に根ざしたものかもしれません。

カードを書く時間を授業の途中で確保するという のは、たしかにいい考えです。できれば今回から 実施します。

ひとつの絵に複数の異なる時間の情景を描写する 画法は、現在、われわれが知っている「ひとつの

(人の視覚によった)空間とひとつの(人の感覚 に依った)時間を写生した絵」とくらべて、ずい ぶん観念的であると思います。人の感覚によって ないという点では客観的であるかもしれません。

時間の流れを無視して描くというのは、客観的に 見て物理法則を無視しているようにも見えますが、

そもそも「時間の流れ」という概念が、人間の主 観によったものであるとも言えます。あるいは、

マンダラのように宇宙を表すのに、人間の視覚影 像からはかけ離れた空間表現をすることから見て

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も、このころの表現技法は、現在のわれわれの知 る「絵」にくらべ、やはり観念的であったように 思えます。

バールフットのジャータカ図で見られたような異 時同景図は、説話的な物語を表すときに、しばし ば用いられる手法で、けっしてインドのものだけ ではありません。ま た「われわれ の知ってい る 絵」の範囲が、どのあたりまでを指しているかは わかりませんが、むしろ「ひとつの視点から見た、

ひとつの時間帯に属する情景」を描いた絵の方が、

実際はきわめて限られています。ひとつの消失点 を持つ線遠近法で描かれたルネッサンスの時代の 絵画がその代表ですが、それ以外の時代ではほと んど見られません。立体的な構造を持った世界を、

キャンバスという平面に移し替えるということは、

それだけで、何らかの約束ごとにしたがった変形 が加えられることを意味します。絵というのは、

文字通り、絵空事であり、フィクションなのです。

そういう意味では、あらゆる絵は「観念的」なの です。蛇足ですが、写真が「ありのままの姿」を うつしていると思っている方も多いかもしれませ んが、これも同様です。マンダラについてはわた しの専門ですので、いろいろこれに関連して書い ておきたいこともあるのですが、省略します。た だし「複数の視点」という考え方は、マンダラを 読み解く上でも有効だと思っています(くわしく は私の『マンダラの密教儀礼』の「マンダラの図 像学」を参照)。仏教の空間論を扱っているのも、

私自身のマンダラや仏教絵画への関心から来るも のです。遠近法を含む空間表現は、今回からの主 題ともなっていきます。

ジャータカは日本には伝わらなかったのでしょう か。日本にも菩薩という存在が伝わっているので、

それに関する説話も伝わってきてもおかしくない と思うのですが。

ジャータカは日本にも伝わっています。平安時代 にできた『今昔物語集』にいくつか含まれていま す。また、ジャータカは漢訳経典にも含まれてい るので、仏典としても伝えられています。ちなみ に、インドの説話はヨーロッパにも伝わり、イソ

ップ物語などにも影響を与えています。先週配付 した資料にも書いてありますが、ジャータカはす べてお釈迦さんの前世の物語ですが、実際は別の 主人公の物語を、お釈迦さんの前世にあてはめて できたものが大半です。ジャータカのはじめにあ る因縁話、つまり、どのような状況でその物語が 説かれるようになったのかと、さいごの解説、つ まり、物語の誰が釈 迦で、その他 の配役が誰 か

(たとえば、悪役がデーヴァダッタ、主人公の家 来が仏弟子など)を明らかにした部分を新しく加 えれば、どんな説話もジャータカにかわります。

百界千如と三種世間で三千種の世界ができるとい うことですが、「三千大千世界」という仏教語の 三千という語は、この三千種の世界のことですか。

別です。三千大千世界はアビダルマの宇宙論で用 いられ、小世界を基本としています。小世界を千 個集めたものが小千世界、それを千個集めたもの が中千世界、それを千個集めたものが大千世界と なります。三千大千世界はこれと同じで、小世界 が千の三乗、つまり 10 億集まっていることを指 します。このようなコスモロジーは、つぎのまと まりで扱う予定です。

「仮→空→仮」の認識は、絵を描くいとなみに似 ている。つまり、たとえば、リンゴを見ながら描 くとき、リンゴという球体は、まわりの空間との 間に、からだの境界線を持つわけではない。(リ ンゴの皮のどこかに、線が書かれているのではな い、ということ)しかし、それを紙面に移すとき、

空間とリンゴを分ける線を引く。この線が、仮の ものとして眼前に現れていて[仮]、画家はそれ を実在しないものと知りながら[空]、表現手段 として仮の線を引く[仮]というわけです。知人 はこのことを非常に意識して、わざと黒々と太い 線を引きます。かぶき絵に影響されたというゴッ ホも、このことに直感的に気づいていたのでしょ うか。また、印象派はこの「線」を否定しますが、

「色分け」によって否応なく「線にかわるもの」

が画面上に現れる結果となります。名前は忘れま したが、一切線を使わず、原色に近い微細な点の

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集合で 1 枚の絵をしあげる画家もいます(森注・

おそらくスーラです)。

哲学的な内容を具体的なたとえで考えてみるのは いいことです。リンゴの絵の話はよくわかります。

ただ、それが「空」と「仮」の関係と言えるかは、

よくわかりません。むしろ、上で書いたような立 体の平面化のような問題のような気がします。リ ンゴの絵を描いている場合、リンゴそのものは絵 とは別に「存在」していると考えるのがふつうで しょうし、輪郭線以外でも、ツヤや色なども、絵 にする段階で別のものに置き換えていると見るこ とができます。その一方で、輪郭線に注目するの は人間の言語活動に対比できるかもしれません。

つまり、人間は自分のまわりの存在を言語化する ことで、認識しています。それは、何も描いてい ない画用紙に、輪郭線を描く作業に似ているよう に見えるからです。いずれにせよ、授業の説明で は空はよくわからないという方がほとんどでした が、空の問題は仏教の思想でもっとも重要であり、

おもしろい分野ですので、関心があればいろいろ 本を読んでみて下さい。『講座大乗仏教 7 中観 思想』(春秋社)などが手がかりになります。

ブッダは過去においてさまざまなものになり、善 行を積んだため、悟りを開けたということですが、

ブッダは死んだ後、どうなるんですか?悟ったと いうことは解脱できたのだから、もう輪廻に組み 込まれることはないということですよね。無にな ってしまうんですか。

死というのは輪廻の一環ですから、ブッダはもう 死にません。涅槃に入ります。それがどのような ものかはわかりません。涅槃の原語のニルヴァー ナ(パーリ語ではニッバーナ)は、「炎が吹き消 された状態」とよく説明されますが、言語学者に よれば、これも本来の意味であるかどうかはわか らないそうです。少なくとも、われわれが生死を 繰り返す世界とは別の境地にいたるのでしょう。

後世の大乗仏教では、仏は永遠の存在で(久遠実 成)、釈迦のようにわれわれの前に姿を現したの は、法を説くための現れた仮の姿にすぎないとい う考え方もあります。その場合、涅槃は一種のパ フォーマンスとなり、本来とはその持つ意味が変 わってきます。

4.

聖なる空間のイメージと表現② アジャンター

釈尊の前世の説話すなわち本生譚は、古代インド の「輪廻転生」の思想がもとになっていると思わ れますが、釈尊は弟子たちが死後の世界を論ずる のを禁じたと何かで読んだか、聞いたことがあり ます。釈尊自身は「輪廻転生」を説いたのでしょ うか。

たしかに本生譚、つまりジャータカは釈迦の前世 の物語なので、釈迦は輪廻転生していることにな ります。しかも、それぞれの物語のはじめと終わ りに釈迦が「これは私の過去世のことである」と 言っているので、釈迦自身がジャータカを説いた ことになっています。しかし、実際にはジャータ カのほとんどは、すでに民間に広がっていたさま ざまな物語を、釈迦の前世の物語として翻案した

ものです。そのため、本当に釈迦がこれらを説い たとは考えにくいで しょう(信仰 としては別 で す)。死後の世界を説くことを禁じたというのは、

おそらく十無記のことだと思います。死後の世界 はあるか、ないか、霊魂はあるか、ないか、世界 は常住か、無常かというような形而学上の問題に ついては、釈迦は回答を拒否したというものです。

そのために「毒矢の喩え」という教えを説きます。

ただし、釈迦が実際に輪廻転生を実際に説いたか どうかはわかりませんが、輪廻転生やその前提と なる業の理論は、当時の人々に一般的に信じられ ていたでしょう。

インドの話でよくバラモンに奥さんがいますが、

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アリなんですか。

アリです。バラモンは聖職者階級、つまりお坊さ んのようなものなので、妻帯が禁じられていると 思うかもしれませんが、インドにおいては社会階 級の一つで、世襲によって受け継がれていきます。

いわゆるカースト制度は、本来は「ヴァルナ」と いって、インド社会の中心的な成員であるアーリ ア人の職能集団を表しています。バラモン(発音 は「ブラーマン」といった方が正確)は、その中 の最上位に位置づけられますが、その下のクシャ トリア、ヴァイシャも、いずれも自分たちの身分

(というより社会的な役割)を子孫に継承させま す。アーリア人社会のおいて最も重要なことは、

自分の子どもたちによって社会が受け継がれ、維 持されることでした。バラモンは成人するまでに 修行の時代が定められ(梵行期といいます)、そ の間は性的な行為は禁じられていますが、この期 間が終われば結婚をして、家庭を作っていきます。

サーンチーでの奥行きの表し方が独特で、印象に 残った。描こうとしているのは三次元の世界であ るはずなのに、どうしても平面的に見えてしまう。

写実的に描こうとすれば、もっとそう見えるよう に描けるはずなのに、それでもこんな風になるの は、何か思想的なものが働いているのだろうか。

慣れないと何が手前にあるのか奥にあるのかわか りにくいですね。

たしかにそのとおりです。でも、そこが空間表現 としておもしろいところでしょう。むしろ、三次 元の世界を絵画に表すときに、写真で取ったよう に描くことが「正しい描き方」という思いこみが、

われわれにあるのかもしれません。「写実的」と いうのは重要なキーワードで、「ありのままに描 く 」 こ と と 、「 最 も 対 象 や 主 題 に ふ さ わ し く 描 く」ということは必ずしも同じではありません。

今回はヨーロッパや日本の絵画を紹介する予定で すが、その中で「写実的」と思える作品は、ごく わずかしかありません。

一つの絵の中に、物語のいくつかのシーンが時間 仁そって描かれている構成は、日本の絵巻物の構

成に近い印象を受けました。

インドの仏教説話図に多く見られる異時同景図は、

日本の絵巻物をはじめ、世界各地の説話的な絵画 にしばしば見られます。今回その代表的なもので ある『信貴山縁起』を少し紹介します。ただし、

バールフットやアジャンターに見られる異時同景 図は、「時間に沿って」いないところが注目され ます。紙芝居のように、場面が時間軸に沿って並 べられているのではないからです。むしろ、アジ ャンターの六牙象に見られたように、森のシーン と宮廷のシーンという二つの舞台に大きく分け、

それぞれの場所で起こったことを、時間に関係な くまとめていることが興味深いのです。インドの 人々にとって、空間と時間の関係は、われわれの それとはかなり異なるのではないかと思います。

このことは、以前に見た哲学的なレベルにおいて も、時間よりも空間が優位に置かれていたことと、

関係するのかもしれません。

・古代仏教美術に遠近法は用いられていないとい うことでしたが、中世や近世(この時代区分が適 切かどうかわかりませんが )ではどうなのでし ょうか。個人的には変化はないだろうと思うので すが。

・残酷なシーンをいやがるので云々 という説明 がありましたが、ギリシャ神話にも似た傾向があ ります。ギリシャ神話では誰かが死ぬ場面を直接 描写することを避け、その現場を見た人の口から、

間接的に述べるという手法を取っていました(美 術ではありませんが)。中国や日本ではどうなっ ているのでしょうか。日本はストレートに描いて いるという気がするのですが。

遠近法については説明不足だったようです。遠近 法が使われていないのではなく、われわれになじ みのある遠近法を用いてはいないということです。

たとえば、画面の上部に遠景を、下部に近景を描 くというのは、われわれもよく用いる方法であり、

遠近法の一種です。しかし、バールフットの成道 の作例のように、まったく同じ大きさで、上下に 積み重ねるのは、やはり独特です。また、建物の 側面を正面から見た姿の横に、ほぼ並行に接続さ

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せる方法も、われわれは取りませんが、子どもの 絵などにも見られ、これも奥行きを表しています。

アジャンターになると、軸測投象と呼ばれる方法 が見られるようになり、われわれの遠近法に近い ものが認められます。遠近法については、今回の 授業で、少しまとめて説明する予定です。残酷な シーンについてのギリシャ神話の扱いは知りませ んでした。残酷なシーンそのものではないですが、

グロテスクなものをどのように表すかは宗教美術 の重要な課題です。グロテスクなものや恐ろしい ものは、しばしば聖なるものと見なされるからで す。しかし、その表現は一様ではありません。た とえば、日本では地獄絵がしばしば描かれ、絵師 の本領発揮という印象すら受けますが、インドで はこのような作品は見られません。インドの経典 ではきわめて具体的に地獄の描写が見られにもか かわらずです。一方、チベットでも絵画にしばし ば地獄や墓場の情景が描かれます。これもなかな かグロテスクですが、日本の絵とはずいぶん趣が 異なり、むしろ滑稽に見えることすらあります。

説話を絵画などで表現するときに、同じ空間でま とめたり、一定の決まりがあるようだけど、わり と描く人の気まぐれみたいな部分もあるのではな いかと思ってしまいました。

たしかにそうかもしれません。もちろん、決まり があったとしても、それが文章に書き記され、実 際に制作に当たる人が見ていたということはない でしょう。むしろ、無意識のレベルで画家が最も 適切と判断して、描いているでしょう。しかし、

そのようなところで何か一定の法則が見いだせた としたら、それはその時代や地域の独特の表現方 法であると解釈することもできるのです。

・柱状になったレリーフの区分がおもしろかった。

下から上へ行くにしたがって 

(1)手前から奥へと階層的に奥行きを表す 

(2)人間に身近な俗界から聖界へと聖性レベル の上昇を表す 

という二つの意味になっていると知った。インド の人々は自分に身近なものを手前に、遠いものを

上へ描いていったのかもしれない(距離的にも世 界観的にも)。 

・ジャータカでは前世の善行、悪行にもかかわら ず、転生するのですか。釈迦が動物だったり、六 牙象の王妃画像から人間へ生まれ変わっていたり。 

そのとおりですね。次回からは世界観を中心に見 ていきますが、インドの世界観に、このような空 間表現が関係しているのではないかという話の流 れになる予定です。われわれ日本人にとって、世 界全体を構造にとらえることは得意ではありませ んし、まして、遠ざかるほど聖性が上昇するとい う発想もおそらくないと思います。遠くのものは 曖昧模糊として、茫洋としたものになっていくの ではないでしょうか。ジャータカの話は善因善果、

悪因悪果が守られているわけではありません。す でにはじめにも書いたように、もともとが独立し た物語なので、物語相互の合理的な説明まではさ れていません。重要なのは、信じられないぐらい 多くの生涯を、お釈迦さんが修行のために費やし、

その結果、悟りを開くことができたということな のです。六牙象の物語で、嫉妬にかられた象の王 妃が人間として生まれ変わって王妃になれたのは、

ひとえに彼女の「執念」によるものです。インド では願望成就のために苦行をするという伝統もあ り(神様などもよくやります)、その威力という か効果も広く信じられていました。この世で一番 おそろしいのは、そのような「おもい」なのでし ょう。

・高校の修学旅行で太秦近くの寺の半跏思惟象を 見に行きました(森注・広隆寺の国宝像)。滑ら かな体つきや繊細な指とその仕草にうっとりした のを覚えています。それがインドでは悪魔を表し ているなんて 。びっくりしました。ひっそりた たずんで悪巧みしているように見えるから、悪魔 に見られるんでしょうか。

・今日は物語が多くて楽しかったです。バカな王 子の話で、バラモンに「仕方ないから」と言って 子どもを売ってしまうなんて、愛情はないのか?

と思ってしまいました。

半跏思惟像については説明不足でした。この広

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