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中国古代の環境思想史

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中国古代の環境思想史

吉 *

Anc i e ntChi ne s ei nt e l l e c t ua lhi s t o r yo re nv i r o nme nt

Se i ki c hi KEN

Abs t r ac t :Thi sdi s s e r t a t i o nf i r s ti sde f i ne de nvi r o nme nti nt hel i vl ngs pa c eOft hehuma n.Anda s de ve l opme ntoft heAnc i e ntChi ne s ee nvi r o nme nt a li de ahi s t or y . TheConf uc i a ni s m l e c t u r e sa bo ut huma ne t hi c als t udy ,t heTa oi s m c a ne xpr e s s ,t ha ta ndt heGol de nme a ni de ai ne nvi r onme nt a le t hi c a l s t ud ypos s i bl ei ti st hec o ns i de r a t i onme t hodwhi c hma ke sbe s ts e l e c t i on. Fur t he r mor e ,a st he°i na ndt he Ha nDyna s t ye nvi r onme nt a li de a ,. Lus hi ‑ c hunc hu't he r ea r eva r i ousna t ur a lwor l dsa ndaphi l os ophy whi c ht i e sphe nome no noft hemi dwor l dt oonevi aH Se a s o n",‑ Gua m‑ t z u'doi ngt hef a c t ‑ f hdi ngoft he l a nd,i twa ss e tf わr t h e c onomi cpol i c y s uc h a sa gr l C ul t u r a lpr o mo t i o n a nd l a nd de ve l o pme n t .I n c onc l us i ona s s umewi t ht i p°i nr a i s e dhuma ni t ya ndphi l os o phi c a le nvi r o nme nt a li de a ,t he°i na ndt he Ha mDyna s t ybe i ngs pr e a ds oc i a le nvi r onme nt a li de a .

Ke yWor ds:huma ni s m, ut o pl a ,e nvi r onme nt a le t hi c s ,e nvi r onme n t a ls oc i ol og y

1.問題提起 :中国環境 を思想す る

東洋思想 と環境思想 とい う場合 、欧米 の環境思想 、 特 にデ ィー プェ コロジー に対す る道 家や仏教 思想 の影響が指摘 され るこ ともあって、 ともすれ ば東洋 哲学に 目がいきがちである

しか し加藤 尚武 は、人 間 と自然 が対 立す る西洋 思想 対人 間 と自然 が合 一 す る東洋 思想 とい う図式 が不十分 で あ る と指摘 す る。 さらに王家騨 は、中国伝統思想 の是非や評価 を 云々す る前 に、伝統思想 それぞれが登場 した時代 の 文脈 において、それぞれ の思想 内容 の内在的理解 が 前提である。た とえば儒学 を環境思想 の文脈で理解 し、直 ちに西洋思想 に変 わ る環境危機脱 出の原理 と 見 るのは妥 当ではない し、天人合一論 とい うだけで 安易 に人 間 と自然 の調 和 の思想 と短 絡す る傾 向 に

*長崎大学環境科学部

受領年月 日 2007319 受理年月 日 20075 8

警告 を発 してい ると述べてい る。

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この提起は東洋伝 統思想 の環境 思想 的意義 を問 う場合 に決 定的 に重 要である。伝統思想 の言葉 だけに注 目し、そ こに現 代 的理解 を窓意 的 に移 入 して評価す るな らば内在 的意味か ら学ぶ ことの妨 げ となるか らである。つま り中国古代思想 の具体 的思想 内容 がそ の まま現代 環境思想 に直接的教訓 を与 えるのでな く、中国古代 思想 の志 向的枠組 みや発 想 が如何 に環境 思想 を新 た な構 築 す る際 の手掛 か りを与 え られ る とい うこ とは、中国古代 の環境思想 を論証す る基本的な視点 であろ う

中 国 古 代 の環 境 を思想 す る場 合 、 ハ イ デ ガ ー (Ma r t i nHe i de gge r 1889‑ 1976 )の環境論 、 和辻哲郎 (1889‑ 1960)の風土論、エ ンゲ ル ス (Fr i e dr i c hEngel s 1820‑ 1895) の 自 然論 、それ に加藤 尚武 の社会生態論が 「 啓発 的意義」

として重要な手掛か りを与 え られ る

ハイデガーは 自然 と環境 を区別す る。ハイデガー は 日常生活で l 貫れ親 しんだ世界は 「 環境」と呼ばれ 、

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これ と 「 交渉す る」人 間に対 して 「 道具的存在」 と して現れ る。 これ とは異 なって、 自然 は 「 事物的存 在」であ り、環境が人 間 との 「 交渉」か ら切 り離 さ れて理解 され るときに生 じる。ハイデガーが言 う

「 環境」は人間の交渉 において成立す るとい う点で は、和辻 のい う風土にむ しろ近いで あろ う。

和辻哲郎 は 自然科学 の対象 となる 自然や 自然環 境 とは異 なって、風土は人 間か ら独 立 に存在す るの ではな く、人間の 「 志 向的関係」において見出 され る。風土は 「 人間存在 の構造契機 」である。和辻 が 風土を 「 人間存在 の構造契機」 とみ なす のは、ハイ デガーの 「 世界内存在」 とい う思想 の影響 によるも のである。ハイデガー によると、人間存在 ( 現存在 ・ 実存)が世界 と 「 交渉す る」 ことを通 じて世界 は現 れ ます。 この よ うに して世界は人間存在 の 「 構成要 素」 をなす とい うのである

和辻が風土 と呼ぶ ものは、文化 と結合 し、文化 的 意味を持 った 自然 と解釈す ることができる。 この よ うに理解す る と、風土は確 かに 自然科学的な意味で の 自然環境 か ら区別 され る。和辻が衣食住の手段 も、

文芸、美術 、宗教な どの精神文化 も風土によって規 定 され る とい うとき、 これ は生活様 式 ‑文化 が風 土 によって規定 され る。逆 に、風土は人間の交渉 に対 して現れ る とい う点では、文化的意 味 を帯び る と言 える

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エ ンゲル ス ( Fr i e dr i c hEn ge l s 1820‑ 189

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は 「自然 に対す る我 々の支配 は、すべて ・・・

自然 の法則 を認識 し、それ らの法則 を正 しく認識す るとい う点にあるとい うことである。」・・・エ ンゲ ル スが語 ってい るこ とは、 「自然物 であ る人 間が、

自然 の中にいて、 自然 の法則 を認識 し、それ に従 う こ とに よって 自然 を支配す る」 と言 うこ とで ある。

ここには生態学 にかな り近 い構 図が あ る

試 み に、

この 「自然」 とい う言葉 を、 「 社会 」 と置 き換 えて も、そのままエ ンゲル スの思想 にな るだ ろ う

「 社 会的存在 である人間が、社会の中にいて、社会 の法 則 を認識 し、それ に従 うことによって社会 を支配 す る。」生態系 とは、 自然で あるよ うな社会で ある. 。 自然 と社会 とい う両方 の性質 を持 ってい る。だか ら、

自然観 と社会観 とのそれ ぞれ の流れ か ら来 る異 な った態度 が、環境 をめ ぐる様 々な問題 の中に流れ 込 んで くる

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そ こで、本論では、環境 を、人間 を取 り巻 く空間 であ り、人間の生活場所 と定義す る。そ して古代 中 国 の人 々が人 間の生 き る空 間 と しての環境 を思想 史的展 開 としては、儒 家 は人間的倫理学 を提唱 し、

道家が理想的な生活空間を考案 し、そ して中庸思想 が環境 倫理学 にお い ての最 善 な選択 を可能 にす る 思考法であると論議 し、 さらに秦漢期 の環境思想 と しては、『呂氏春秋』 では 「 時令」 を通 じて多様 な 自然 界や 人 間界 の事 象 を一つ に結 んだ哲学 が あ る ことと、『管子』 では土地 の実態調査 を行 って農業 振興、土地開発 な ど経済政策 を打 ち出 された ことを 論証 しよ うとす るである。

2. 儒 家の人間的倫理学

人 間 はいか に生 き るべ きか とい う現 実的 な問題 が、中国の思想家たちに とっての最大の関心事であ った。儒家思想 と道家思想 が、大 きな二本 の柱 とし て中国の思想 の歴史 を貫いてい る。儒家 は 「 修 己治 人」、己れ を修 めて人 を修 める学問である。これ は、

最 も 日常的な現実的な問題 をテーマ に してい る。そ れ と対立 した と見 られ る道家思想 が、観念的な 「 道」

を説 い た りしてかな り違 った様相 を見せ てはい る が、 自分 自身 の個人的な処世 の問題 、私的な人間 と しての生 き方 といった ことを考 えてい る

つま り儒 家 と道家 のいちばん大 きな共通点は、現実的な人間 の生活 が最 も重 要 な 中心 問題 で あった とい うこ と である

ただ儒家が思想す る環境 としては人間社会 に極度 に集 中す るこ とに よって人 間 の問題 を明 ら かに しよ うとしたのに対 して、道家 の方 は、それ を 広 げて、 自然世界か ら人間を見 よ うとしたのである。

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そ こで儒家、とりわけ孔子 は どの よ うに して人間的 倫理学 を構築す るのか、そ して道家が描

た理想 的 な生活環境の在 り方 を論考 してお こ う。

2‑1. 儒家的人間論

『論語』では、 「 質 、文 に勝 てば則 ち野。文、質 に勝 て ば則 ち史,文 質彬彬 として然 る後 ち君 子 な り 」 ( 薙也) とあ り、建前 の装飾 と内在 的質朴 とが うま く解 け合 って こそ、は じめて道徳 が成就す る大 人だ と述べてい る

内外兼備 の理想 的人間が どうや って形成 され るのかについては、「 博 く文 を学びて、

これ を約す るに礼 を以て」 ( 顔淵篇)す ことと、 「 下 学」つ ま り身近 な ことを学ぶ ことによって 「 上達」

いわ ゆ る理想 的 な人 間 とい う高遠 な境 地 に到達す ることができるのである。要す るに 『詩』『書』『礼』

な ど古典 の酒養 と、わが身 を慎んで社会生活 の規範 に従 って行動すれ ば人 間 の奥 にあ る本 来 的 な普遍 性 である仁徳 を成 し遂 げることがで きる。 これが儒

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家的人間観 であ り、孔子 が学問をす る重要性 を強調 され る所以である。

2‑ 2.人間を形成す る学問意識

『論語』 の冒頭 では、 「 学びて時 に これ を習 う、

亦た説 ば しか らずや。朋 あ り、遠方 よ り来 る、亦た 楽 しか らずや。人知 らず Lで阻みず 、亦た君子 な ら ずや」 と述べてい る

学ぶ」 とい うのは人か ら教 え られた り記録 を読んだ りして、外 か ら新 しい ものを 学び取 ること、 「 習 う」 とい うのは何度 も同 じ事 を 繰 り返 してそれ に習熟す ることである。外か ら学ん だ新 しい知識 を適切 な時々に繰 り返 し練習 し、それ に十分 になれ て 自分 の もの に して ゆ くとい うのが

「 学んで時にこれ を習 う」である

そ して、その こ とを悦 ば しい ことだ と してい る。 「 亦 た説 ば しか ら ずや」、実 にここにこそ重要な意味がある

それ は 自分 に とっての深い悦び、あるいは 自分だけか も し れ ない心 の底 か らの悦び を人 に伝 えて、ものや わ ら か くその同意 を促 してい るのである

人は 「 学んで時にこれ を習 う」 とい うことばを味 わい深 くかみ しめるのである。そ して、 「 亦た説 ば しか らずや」 とい う誘 いに、門人たち とともに引き 込まれ る、なるほ ど心嬉 しい ことに違 いなかろ うと い う共感 が、 しみ じみ と湧 き起 こって くる

それで いて時代 を隔て この共感 は うそではない。それが古 典の生命 とい うものである。

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したがって伊藤仁斎 は、

「 朋来た るの楽 し

促みず の君子 は、みな学ぶ よ り 得 る。 ‑‑‑故 に論語 は、学 の一字 を以て、一部の開 首 と為 し、而 こして門人 この章 を以て一書の首に置 く

蓋 し一部 の小論語 を云 う 」 (『論語古義』) と 賞賛 され ていた。

さらに、 『論語』 には孔子が貴族 た ちか ら賎民 と して軽蔑 され ていた盲 目楽人や 楽師 を師 と して礼 を尽 くしたのであった。 ( 子

竿

篇 と衛霊公篇)それ は相手が賎民であろ うと、楽師であろ うと、身分 を 問わず に、孔子がその教 えを求 めたのは古代の聖王 の道であ る。 とくに 『 詩 』 『書』の古典 と周代 の礼 を創 定者 と見 られ て い る周公 に対す る孔子 の傾 倒 はひたむ きであった。孔子 は晩年 になってか ら、周 公 ‑ の愛 慕 の情 が若 い時代 の よ うな熱 烈 を失 った ことをなげいて、 「 甚 しいかな、吾の衰 えた る、久 しいかな、吾また夢 に周公 を見 ざること 」 ( 述而篇) といってい る。彼 は 「 詩書執礼、皆な雅言」 ( 述而 篇) と考 え、 『 詩』 『書』 の古典 の世界 を愛 し、理 解す るこ とか ら、 さらに進 んで この古典 の世界 の創

造者である周公 の偉大 なる人格 に思い至 った。彼が 周公 を愛慕 したのは、その善美 な礼楽 を創 造者 であ る周公 の完成 され た人 間性 の表現 と して理解 した のである。彼 の好古は古代 の文物 を創 造者 の人間性 と結びつ けた点 に、彼 の特異な立場 があった。彼 の 立場 は一応 尚古主義 と定義す ることができるが、こ の尚古主義は古代 の文化の尊重のみ な らず、偉大な る人 間性 の尊重 が あった こ とを見失 って はな らな い。 この人間性 の尊重 、す なわち人道主義が孔子の 根本 の立場であったのである。

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2‑3. 儒家 の人 間的倫理学

孔子 が弟子 を教 育す る上 で最 も重視 した のは礼 であった。中国人がその社会生活 において、旧来の 形式 を重 んず る習慣 は古い時代 に由来 し、祭紀はむ ろん、政治に も、外交 にも、 日常生活 にも、必ず一 定の規範 があ り、 「 礼 を学 ばず んば、以て立っ こと 無 し」 ( 季氏篇) と言 うよ うに、 これ を守 って違 わ ない ことが、教養 ある大人 に とって必須 の条件 とさ れた。そ して礼 とともに孔子が重要 な科 目としたの は詩 と書 である。詩 には当時の社会 に行 われた民謡 のほかに、古い起源 を有す る神楽歌の ごときものを 含み、祭配や宴会 の折 に音楽 に合わせ て歌 う歌詞 で ある。書 は元来文字書写の学である。 当時文字の知 識 を必 要 としたのは政府 を中心 とす る少数 の特別 職 に限 られ、政治上の大事 を記録 し、または銅器 に 銘文 を刻す るな どを主 な 目的 とした。

孔子 は このよ うに当時の社会 に必要 とされ る、実 用の学問 を弟子たちに教 えるのであるが、孔子の教 育が後世 に残 って大 きな影響 を与 えたのは、彼 が実 用 の学 を教 えるとともに、人生 の理想 を説 いたか ら である。孔子 は実用 の裏 には必ず理想 が伴 わねばな らない と考 えた。礼 を教 えるに して も、それ は動作 の型式だ けでな く、 「 生 け るには これ に事 うるに礼 を以て し、死す るば葬 るに礼 を以て し、 これ を祭 る に礼 を以 てす」 ( 為政篇) と言 うよ うに、その裏 に 君主に対す る尊敬 、朋友に対す る信義、死者 に対す る追慕 の真情 が寵 め られ てい るこ とを忘れ て はな らぬ と諭 した。古代 の記録 を文字の手本 として習 う にも、そ こか ら政事の理想 を学び取 って実際に応用 せねばな らぬ と教 えた。詩や音楽 も単なる享楽でな く、 「 詩 は以て興 こすべ く、以 て観 るべ く、以 て群 すべ く、以て怨むべ く、透 くは父 に事 え、遠 くは君 に事 え、多 く鳥獣草木 の名 を識 る」 ( 陽貨篇) と言 うよ うに社会生活、家族 関係 における平和 と情操 に

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役立てね ばな らぬ ことを強調 した。彼 の教育は社会 を渡 り歩 くための職業 の学問である と同時に、内に 省 みて人 間 とは何 で あ るべ きか を問

か け る倫 理 の学問で あった。つま り孔子が思想す る対象 は人 間 が生活 してい る社会環境 であ り、そ してその社会環 境 にお い ての対処 の理 法 が人 間的倫理 学 で あ る と 思 う。 中国的な人間的倫理学は孔子 が首唱 され る と 言 えるで あろ う。

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3.道家的生活環境論 3‑ 1. 道家の理想郷

『老子』では 「 小国寡民、什伯 の器有て用い ざら しめ、民 を して死 を重 ん じて遠 く徒 ざらしむ。舟輿 有 りと雑 も、 これ に乗 る所無 く、 甲兵有 りと錐 も、

これ を陳ぬ る所無 し。人 を して復 た縄 を結びて これ を用い、其の食 を甘 しとし、其の服 を美 とし、其 の 居 に安 じ、其 の俗 を楽 しま しむ。 隣国、相 い望み 、 鶏犬の声、相 い聞 こえて、民、老死 に至 るまで、相 い往来せず」

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章) とは、老子 の理想社会 を描 く文章 と して、古来 ことに有名 である。富国強兵 を 国家戦略 とす る 「 領土国家」を 目指 して、戦争叛乱 が多発 してい る時勢 に対 して、老子 は 「 都市国家」

において、た とえい ろい ろな文明の利器 があって も 用い させ ない よ うに、人民 に生命 を大切 に させ 、遠 方 に移住 させ ない よ うにす る。人民 に昔通 りに縄 を 結んで約束の しる Lとさせ 、自分の食物 を うまい と し、 自分 の衣服 を美 しい と思い、 自分の住居 に落 ち 着 かせ 、その習俗 を楽 しませ るよ うに小国寡民の原 始 的村 落共 同体 が 自然 の素朴 に回帰す る理想 郷 で ある。

この よ うに老子 は 国寡 民 と言 う農 村 生活 を理 想 とす るのであるか ら、その政治的な理想 も、当時の

「 領土国家」の形態 を破壊 して、村落共 同体の よ う な 「 都 市国家」に分解 して しま うこ とにあるよ うに 見 える。 しか し実 はそ うではない。 『老子』 では、

た とえば 「 大国を治む るは、小鮮 を烹 るが ごとし」

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章)や 「 大国は下流 な り、天 下の交な り、天 下の牝な り 」

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章)な どがあるよ うに、 「 大国」

とい う言葉 が見 えてい るが、それ は多 くの場合 「 小 国」に対 して用い られてい るのであ るか ら、老子 の 時代 に現 実 に存在 した大小 の諸侯 の国 を意識 して いた もの と言 って よい。それではなぜ老子が小国寡 民 の村 落 共 同体 の生活 を積 極 的 に肯定 しよ うとす るのか。

小 国寡 民 は大 国 と どの よ うな関係 を持 っ ので あ ろ うか。それ について老子 自身の明確 な説 明はな さ れていないが、おそ らく大国は小国寡民の よ うな原 始 的村 落共 同体 を単位 とす る集 合 体 と して考 え ら れていたに違いない。他 だ し、支配者 である君主は いて もそれぞれ の共 同体の 自治 に任せ られ、た とえ ば鍋 の 中で煮 られ る小 さな魚 が箸 につつ きまわ さ れず、それぞれ に己れの在 り方 を全 うす るよ うな も のであったれ る

老子 に とって、小国寡民は量的な もので な く質的 な もので あった もの と考 え られ る

自分の住 んでい るところを安楽だ と考 え、現在 の生 活や習慣 を楽 しい として満足 させ るよ うにす る。人 間が人 間 としての親 しみ と温か さをもち、すべての 人 間が安 らか に己れ の生 を全 うして ゆけ るあ るが ままの素朴 さが老子 の小国寡民の構想 である。

老子 の描 く小 国寡 民の理想社会は、彼 の政治理想 を具体 的 な雛形 と して示 す ユー トピア的性格 の強 い ものであるが、彼 の人 間や人間社会 に対す る考 え 方 を最 も凝縮 した形 で示 してい るとも言 える。彼 に とって第一義 的 な関心 は人 間 の安 らか な生活 で あ り、いわゆる文明の進歩で も機械技術 の発達で もな かった。小国寡民は老子 の無為 の政治の中核 をなす ものであった と考 え られ るのである。

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3‑ 2. 道家的ユー トピアを実現可能 にす る発想 の 転換

理想郷 の実現が可能 にす る根拠の一つは、老子 の

「自然無為」の思想 である

「自然無為」 とは、 自 然 は無為 であ り、それ が 自然の理法である

人 間は 自然 の理法に因循 して、余計な行為 を無 くして、「自 在而 自得其楽」、あ りのままで 自らその人生お よび 生活 環境 を楽 しむ こ とが得 られれ ば理想 的 な 自然 の境地 に至 るこ とができるのである。 自然 に因循す る こ とこそが人 間 の 自然 的 あ り方 で あ るこ とを提 起 され るのは荘子の 「 因是

「 両行」の思想 である。

荘子 は、まず人間 とその生活環境 の真 の在 り方 と は何 か とい う疑 問を投げかけ、そ して 自然の理法 に 因循す る 「 因是

「 両行」 とが人間の楽園 を実現 さ せ る形而上的根拠である と述べ られ てい る。『荘子』

の 「 斉物論篇」では、

民は湿 に寝ぬれ ば則 ち腰疾 して偏死す るも、鯖 は然 らんや。木 に処れ ば則 ち儒懐悔慨す るも、猿 猫 は然 らんや。三者執れか正処 を知 る。民は勿蒙 を食 らい、輿鹿 は薦 を食 らい

、瑚

且は帯 を甘 Lと

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し、鴎鵜 は鼠 を者む。 四者執れか正味 を知 る。猿 は漏狙以て雌 と為 し、輿 は鹿 と交わ り、鰭 は魚 と 遊ぶ。毛始 ・麗姫 は人 の美 とす る所 なるも、魚 は これ を見れ ば深 く入 り、鳥は これ を見れば高 く飛 び、秦鹿 はこれ を見れ ば決 して陳 る。 四者執れか 天下の正色 を知 らん。

荘子は、 日常世界の固定観念 に対 して、西施や毛婿 と並 んで美 人 の代表 とされ る麗姫 を使 って虚構 の 説話 を作 り、人の判断が

かに当てにな らない相対 的なものであるか、独善 と偏見 とを放 下 して常識 的 な価値観 の桂棺 か ら解 放 され 万物斉 同の立場‑ と 誘 うことを物語 ってい る。 日常的立場 では絶対的だ と思 われ ていた こ とに疑 問 を投 げか け るこ とに よ って、その絶対性 を揺 るがせ相対的な ものであるか も しれ ない ことが開示 されたのであるが、こ うした 世俗 的 日常的価値観 の絶 対性 ‑ の懐 疑 と絶対性 の 相対化 の思考は、単に価値観 の問題 に とどま らない。

人間中心 の 日常的価値観 の動揺 は、人 間存在 の宇宙 全体 の 中で の位 置づ けの領 域 にまで及 ぶ こ ととな る

『荘子』 は、 この境 地 と悟達 とを、次の よ うに 述べてい る。

狙公 、芋 を賦 ちて朝 に三 に して幕 に四つ にせ ん と日 うに、衆狙みな怒れ り。然 らば則 ち朝 に四に して暮 に三にせ ん と日 うに、衆狙み な悦べ り。名 実未 だ厭 けず ぢて喜怒用 を為す。亦 だ是れ に因 ら んのみ。是 を以て聖人 これ を和す るに是非 を以て して天鈎 に休 う。是れ を両行 と謂 う。 ( 斉物論篇)

「 両行」 とは、世俗 の立場 では是非可不可の分別 を 立ててその一方 によろ うとす るが、絶対 の道 である

「 因是」、 「 天鈎」の立場 では、そ うした対立 を本質 的 とは見 ないでそれ に執着 しな

か ら、そのいずれ もが等 しく行 われ るこ とになるのである。つ ま り猿 飼 いの親方が表現 も実質 も変わ りはないのに、猿 ど

もはみなそれで喜びや怒 りの感情が働 くことにな った。それ は、ただひたす ら自然 に身 をまかせ てい

くのである。そ こで、聖人 は善 し悪 しの分別知 を調 和 させ て、 自然 の平衡いわゆる万物斉 同の道理 に休 息す る。 そ うした境地 を 「 両行」、す なわち対立 し た もののいずれ もがスムーズに流れ る立場 とい う のである

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こ うした境 地 に到達 して、は じめて人間 社会 にお ける共同生活 の理想的在 り方 が成 り立っ のであろ う

今西錦司に よれば、

共同生活 とは必ず しも意識 的な積極 的な協力 を意味 してい るわけではない。同種 の個体が相互 作用的 に働 きあ う結果、そ こに持続 的な一種 の平 衡状態 が作 られ る。 その状態の中で、個体 はその 生活が保証 され る。

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意識 的な積極的な協力 でない こ とは、無為 であ り、

同種 の個体が相互作用 的に働 きあ う結果 、そ こに持 続的な一種の平衡状態 が作 られ ることは、 自然であ

り、天鈎 であるか らのである

3‑ 3.東洋的人生楽園の再現

陶淵 明の 「 桃花源記 」では、桃源郷 を次 の よ うに 述べ てい る

紛然 として開朗 な り、土地 は平境 に して、屋舎 は備然 た り、良 田、美池 、桑竹 の属 あ り。陣陪交 り通 じ、鶏犬相 い聞 こゆ。其 の中に往 来 し種作す る男女 の衣著 は、悉 く外人 の如 し。黄髪垂署 、並 び に悟然 として 自ら楽 しめ り

田園の生活 において、老人や子供 までみ なに こに こ して

か にも楽 しげであ る。彼 が頭 に描 く理想 的な 生活 が これ である。つ ま り老荘 が提起 され た人生楽 園の理想 は、陶淵 明の桃源郷 に よって再現 され る。

そ して 中国の漢詩 文や絵 画 が描 いた 田園 山水 はむ ろん、 日本 の 「 江戸八景」や 「 金沢八景」な ども理 想 的境 地 が託 され てい る東洋 の共通 的 な心象風景 の描 写 と言 えるで あろ う。人 間の住むべ き場所 とし て、「 山水」が最高の価値 ある世界 と見 られ てい る

「 山水」を、老荘 の主張す る 「自然 」 のままである 場所 とみたか らである

「 山水 に遊ぶ」こ とは、山 水 を楽 しむ こ とで もあるが、 楽 しみ方 に老荘 の道 を 尋ね るだ けではな くて、風景 を楽 しみ、環境 に身 を 置 くこ とを喜 んでい るので ある

山水 に遊び、楽 し む こ とに よって、自然 の真 実 の境地 を味会得す るこ とがで き、無為 自然 、虚 静 を尊ぶ老荘 の境地 に到達 で きる と考 えたので ある

1

1 さらに、終身雇用制度 が築 き上 げ られ た勤勉質素の企業風 土 と、 安 らかな 老後 の生活 が得 られ る労働環境 こ とこそが、 「 其の 居 に安 じ、其 の俗 を楽 しむ」小国寡民の理想社会の モデル と して東洋社 会 に実現 され た ので はなか ろ

うか。

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4.中庸 的環境倫理 4‑ 1. 「 中庸」 とは何 か

朱子 は 「 中庸の中 とは偏 よらないで過不及 の無 い ことだ」 と注釈 してい る。過 ぎた状態 と及 ばない状 態 とを両端 とす る と、両端 の中 とい うことになるが、

これ は中庸 の意味 として一番分か りやすい意味 と 思 う。『中庸』では、

隠 を索 め怪 を行 えば ・・・後世述ぶ ること有 ら ん も、吾れ はこれ を為 さず

・・・君子は中庸 に 依 る。世 を遊れ て知 られ ざるも悔 い ざるは、唯だ 聖者 のみ これ を能 くす。

中庸 はそ うした異常 を離れた 日常的な平凡の中 で こそ得 られ るとい う考 えがあるわ けである。つ ま

り中庸 とは、ほ ど良い中ほ どとい うことである。つ ま りほ ど良い中ほ どとい うことで、穏やかな 日常性 とい う意 味である。 なお、『中庸』 のなかには 「 暗 中」 とい う言葉がある。その時その時にぴった りと あてはま る中である

「 時 に中す る」ためには、そ の時の全体の状況 を的確 に把握す る必要がある。要 す るに、そ こで、両端 の中 とい うこ とも、両端 の右 と左 とがあって、その右 と左 の真 ん 中 とい うことで あるが、それ を固定的 に動 きの とれ ない形で考 えて はまず い とい うことになる

そ もそ も、その両端 の 極端その ものが動いてい る とい う観 点 も必要であ

る。事態 は絶 えず動いていて、決 して静止的ではな い。そ うだ とす る と、今 、中だ と思 ってい る立場 も いつの間 にか変わって くる、真 ん中が真ん中でな く なって、す っか り偏 った立場 に もな りかねない とい うことになる。固定的でない融通性 のある柔軟 なお お よそその中、ほ どよい中ほ どが、そ こで必要 にな るわけで ある

4‑ 2. 発想転換 としての中の包容性 ・統合性

以上は 「 右 で もない左 で もない」 とい う両端の 中 とい うこ とを軸 に して考 えてきたが、中庸 の内容 を さらに詳 しく探 るためには、ここで一つの発想 の転 換 を しなけれ ばな らない。『中庸』 のなかで、舜の 政治のあ り方 を煩 えて、 「 其の両端 を執 りて、其 の 中を民に用いた」 とい っている。 ここで、 「 両端 を 執 る」 とは、舜はた くさんの意見 を聞いた うえで、

その中の極端 な意見 を捨て去 るのではな く、む しろ

その両端 を しっか り把握 して、そ してその中ほ どを 民衆の上 に用いてい った とい うのである

つま り

「 右で もない左 で もない」 といった両端の中は、実 は 「 右 で もあ り左 で もある」 とい う形‑の転換す る のである。そ してそ うなる と、右 と左 とを包み込ん だ頂点 の中 とい うよ うに、三角形 あるいは円錐形 の 立体的構造で考 え られ ることになるのである。

そ こで、こ うした 中庸 の包含的な意味、あるいは 統合性 とい うものは、直線 的であるよ りは構造的 に 考 えた方が よい とい うことになる。つま り 「 右 で も な く左 で もない」 とい う両端 の中であると、た とえ ば一本 の紐がず っ と延 びて ことらの端 とあち らの 端 とがある、その両端 を区別 した中間 とい うよ うに、

直線 で考 えることができる

しか し中庸 は 「 右 で も な く左 で もない」 とい うのが、実は 「 右 で もあ り左 で もある」 とい うこ とになるので、右 と左 とが均等 に中央 に歩み寄 って きて、そ こで質的な高ま りを見 せ る、いわば頂点 を形成す る といった円錐形的な構 造で考 えるのが適切である。 円錐形 の全体がその足 場か ら動 いてい るので、真 ん中が固定 してはひっ く

り返す。融通性 を持 ったほ どよい中ほ どとい うこ と で、いつ も円の中心にい るよ うに 自在 に柔軟 に動 い てゆ くとい うわけである

この中では、全体 を中央 に集結 した とい う意味 あいがはっき りす る。全体 を 総合 して統括す る中心である。右 と左 とは、その ど ち らに も偏 らないで、 しか も両方が接収 されて生か されてい る、そ して全体 としての高次の統合的な調 和が とれ てい る とい う 「 両端 を執 りて」用い る中で ある。そ して、中庸 の この包含性 、統合性 を考 える と、中庸 と調和 との関係 を考 える必要が出て くるこ とにな る。

4‑ 3.環境倫理 としての中庸主義

中庸 は、現実尊重 の処世 の倫理である。我 々の周 囲には対立 した問題 がた くさんある。人間は 日常的 にそれ について実践的な解決 を迫 られ るのである が、その際 ここに考 えてきた中庸思想 が、問題解決 のための思考の方式 として大いに役 立つ こ とにな るではないであろ うか。 もともと、極端 に走 らない ほ どよい 中ほ どを選 んでい くとい う処世 の とくと

しての中庸 は、論理的に暖味な ところも多 く、また 地上的感性的な倫理 としての弱点 をも持 ってい る のであ るが、中庸 の徳 を一つ の思考 の形式 として、

ものの考 え方の様式 として抽象 して考 えれ ば、現代 の実践倫理 として も極 めて貴重 な思想 であると思

‑ 1 4 4‑

(7)

うのである。

さらに、加藤 尚武 は 「 何 を 目標 とす るかは倫理問 題 である。・・・倫理 とは選択可能 な ものの中か ら 最善の ものを選択す る方法である」 と主張 し、環境 倫理の問題 は、最善な選択 を可能にす ることにある。

12

つま り、 自然 中心主義 か人間中心主義 か、環境保全 か経済発展 か、義務 か権利 か、 とい う選択 は環境倫 理 の課題 である。 そ こで、 「 時に中す る」統合的な 調和 「 中庸 主義」 とい うものの有効性 が考 え られ る のである

両面 を考 えなが ら、 どの よ うに した らよ いかを考 える思考の形式 である。 中庸 の中は、確 か に対立す る両端 があって こその中で あ る

そ して、

その両端 を切 り捨て るのではな くて、それぞれの立 場 を生か しなが ら包容的 に中ほ どに接収す るこ と によって、調和的な構造 を持 った中が完成す るので ある。 したがって、中庸 は環境倫理 として最善な選 択 を可能 にす る思考法ではなかろ うか と思 う。

13

5. 秦漢期 の社会環境学

5‑ 1. 中国の戦国末期 の思想界

中国の戦国末期 の思想界 は、諸子百家 と称 され る 思想家た ちの 自由奔放 な 自我の主張が、ひ とまず展 開高揚の時期 を終 えて、次の飛躍 を求 めて沈潜集約 しつつ さ らな る総合化 を 目指 そ うとす る時期 で あ る。た とえば横断的に他学派 を結びつ ける 『呂氏春 秋』の儒家 ・道家二派 の存在、 さらに 『管子』 にお ける道家 ・法家の主張の混在 な どに指摘できる。現 象的にみれ ば戦 国中葉 の 「 一家の学」か らその末期 は 「 諸家兼修」‑ と推移 してい るのである

そ こで 次のよ うな問題 が起 って くる。諸家 を

かなる立場 、 いかな る原理 において兼修 し統括す るか。『管子』

や 『呂氏春秋』における 「 時令」が これ に当たろ う。

5‑ 2. 『呂氏春秋』の 「 時令

思想

戦 国最 末期 の東 西 に二強 国 を背景 と して生 まれ た書物 に 『呂氏春秋』 と 『管子』があ り、それぞれ は背景 にある国土の特殊性 を伝 えてい る。秦 の始皇 帝 の宰相 呂不 葺及 び そ の賓 客た ちの編集 にかか る

『呂氏春秋』百六十篇 は、十二紀 ・八覧 ・六論 の三 部門か ら構成 されてい る

むろん一時 にでき上がっ た ものではない。始皇六年 、前二四一年 に十二紀が 成立 し、数年 の後八覧 ・六論がその補遺 としてつ く られた。もとよ り、中心の思想 は十二紀 にある。『漢

書』の 「 芸文志」は 『呂氏春秋』 を諸子 の部 の 「 雑 家」の項 に括 ってい る。雑家 とい うのは、儒家や道 家 ・法家等 のいろいろの思想 が入 り混 じってい ると い う意味である。 た しかに 『呂氏春秋』 にはそ うし た雑 家 といわれ て も しか たが ない ほ どに多 くの思 想 が混 じってい る

しか し、『呂氏春秋』 は思想 の 書 としてそ こに工夫 を凝 らした。すなわち多様 なも の を統一 づ け るもの と して 当時 の最新 思想 で あ る

「 時令」 の説 を採用 したのである。そ して この 「 時 令」を通 じて多様 な 自然界や人間界の事象 を統一づ けよ うと試みた。従前 か ら人間の正 しい生 き方 とし て、 「 道」や 「 天」 に従 え といわれ て きた。理屈で はわか るが、実の ところ具体的 に ど う行動すれ ばよ いのか判然 としない。 この点 を 「 時令」ははっき り させた。すなわち一年 を春夏秋冬の四季 に、 さらに これ を孟 ・仲 ・李 の三節、つま り一 ケ月 ごとに分割 して、 この李、 この月 の天文気候 、 自然の状態か ら 人間の 日常生活 のあ りよ うを規定 し、それ に従 って 行動せ よ と指示す る。換言すれ ば天道 ・自然 に従 っ て の人 間行動 がわか り易 くここに指示 され てい る のである。『呂氏春秋』十二紀 は、 こ うした 「 時令」

をい う一 文 を各季節 の 冒頭 にお いてそ の李 の性格 を規定 し、以下それ に見合 った人事教訓 をい う四篇 ずつ を付載す る。 立春 を例 として挙 げてお こ う。

是の月や、立春 な るを以て、立春 に先だっ三 日、

太史 これ を天子 に謁 げて 日 く、某 日立春 、盛徳木 に在 り、 と

天子す なわち斎す。立春 の 目、天子 親 ら三公 ・九卿 ・諸侯 ・大夫 を率いて、以て春 を 東郊 に迎 え、還 りて、す なわち公卿 ・諸侯 ・大夫 を朝 に賞す。相 に命 じて徳 を布 き令 を和 らげ、慶 を行 い恵 を施 し、下兆民 に及ぶ。慶賜遂行 して、

当た らざること有 るなか らしむ。 ( 孟春紀)

この よ うに 「 時令」 とい うのは、は じめに各月 の太陽の位置 と星辰 、五行 の対応 関係 、時候 、天子 のなすべ きこと、儀礼や政令 の こと等々を定 め、そ れ に従 って人間 も行動せ よ と説 く

自然 をみつ めな が ら人 間 は何 をす べ きか を一年 間 を月 ご とに割 っ て詳細 に規定 した ものである。 これ が 「 時令」のス タイルで ある

そ して この 「 時令」の文 のあ とに人事教訓 をい う 四篇 が各紀に接続す る。た とえば孟春 の月、一月を み る とこ うある。 この月は天の気下降 し、地の気上 臆 して生物萌動 の月 で あ るか ら人 の生や本務 を天 の始生 に基づ けて全生 を説 き ( 本務篇)、欲 望 を適

‑ 145‑

(8)

度 にせ よ と論 じ ( 重 己篇)、また人 の本性 を主 とす る反面、天下和合 の公 平 を主張 し ( 貴公篇 )、か く して私 心 を去 るべ きだ と論 じる ( 去私篇)。 これ が 自然 と調和 した生 き方 だか らである、 と

それ はあたか も自然 の在 り方か ら人事 を治 め、そ こか ら人 それ ぞれ の行動 予定 を立 ててい こ うとい うもので、それはま さに 自然 と人間 を一つ に結んだ 哲学その ものである。

14

5‑ 3.『管子』の 「 時令」思想

『港南子』の 「 要略訓」は 『管子』の書が、桓公 ・ 管仲 の功 業及 び斉 の地 の風 土 に強 く影 響 され て成 立 した ものである と述べている。今本 『管子』八十 六篇 、 うち十篇 亡逸 して現存七十六篇 は、経言、外 言、内言 、短言、区言 、雑 、解 、軽重の八類 に分 け

られてい る

『呂氏春秋』 は十二紀 の構成 その ものか らして、

時令 が他 の もの を統 括 してい る こ とは見易 い が 、

『管子』 にはそ うは言 えない。『管子』現存七十 六 篇 の中に、時令 を説 くものが、「 幼官」、「 四時」、「 五 行」、 「 七 臣七主」、 「 禁蔵」、 「 度地」、 「 軽重 己」の七 篇 がある。時令がたんに篇 の一部 に組み込まれた も のや土木事業 とセ ッ トで説 かれ るもの、五行 と緊密 に結びついた もの等、その態様 は さま ざまであるが、

注意すべ きもの として 「 幼官篇」 と 「 軽重 己篇 」 と がある。

「 幼官篇」は経言類 の最後の‑篇 とい うのは、時 令 を言 うこの‑篇 で経言類 は終わ る

そ こで時令 を い う 「 幼官篇」は終篇 とす ることの意味は何 か とい うこ とで ある

元来 、幼官 とい うのは明堂である

明堂 とは天子の居所 であ り、時令 を宣布す る ところ とされ るものである。 こ うした幼官 明堂が経言類 の 最後 に置 かれてい るこ とは、恐 らく次の よ うな意図 においてであろ うと思 われ る。それ は 「 牧民篇」か ら始まる七篇 の さま ざまな国家経営論 は、最終的 に は時令 を宣布 す る王者 の道 に到 達す る政治論 に ほ かな らぬ こ とを幼 官 を終篇 とす る こ とで明確 化 す るもので ある。

こ うした時令 を内容 とす る 「 幼官篇」 によって全 て を収束す る意 図の も とでま とめ られ たのが経言 類 である として も、た とえば どの条 が前七篇 の どの 部分 に該 当 し、 どう規制す るのかは明 白でない。そ の点では、恐 らく 『管子』 の この形式 に触発 され 、 さらに これ を思 い切 って月 ご とに割 裂 して振 り当 てた 『呂氏春秋』十二紀時令の緊密 な構成 には及 ぼ

ない。ただ こ うした 自然秩序 を説 く時令 をここにお くことによって、それ を総合 のかなめ と立て、そ う す る こ とに よって戦 国諸 子 の従 前 の一家 の学 の枠 を超 えて、よ り幅広 く思想 を吸収 し取 り込み、 さら に統括 しよ うと試 み た こ とは評価 され な けれ ば な

らない。

さて、軽重類 は、経済政策 を主題 として一つのま とま りをもつ諸篇 であるが、この最後 の篇 に時令 を い う 「 軽重 己篇」が置 かれ てい る。もし経言類 の 「 幼 官篇」の形式が、そのまま軽重類 にも押 し当て られ るとい うことであれ ば、軽重類 は、経済政策 を主題 として一つのま とま りをもつ諸篇 であるが、この最 後 の篇 に時令 をい う 「 軽重 己篇 」 が置 かれ てい る。

つま り、軽重類 のきわめて地上的経済調整策 も、実 は時令 とい う自然秩 序 の一環 で あ る こ とを示す た めの布石 であった と言 うことができる。

5‑ 4.『管子』 の富国政策 と経済論

『管子』の書が戦国末期広 く読 まれ ることは、『韓 非子』 の 「 五患篇

の次の記述か ら知 られ る。

今境 内の民治 を言い、商管の法 を蔵む る者 は 家 ごとに有れ ども国愈々貧 しきは、耕 を言 う者 衆 くして、未 を執 る者寡ね けれ ばな り。

ただ ここで注意 してお きたい ことは、『管子』の 書が右 の文で どの よ うな もの として読 まれ ていた か と言 うことである。通常 「 商管 の法」、つま り管 子 も商軟 も 「 法」 を説 かれ た もの と受 け止 め られ てい るが、 「 今境 内の民治 を言 って」 とあって 「 国 愈貧 しき」理 由は 「 耕 を言 う者衆 くして」、実際に

「 未 を執 って」農耕 に励 む者 が少 ないであ る とい う

つ ま りここでい う 「 治 を言 って」の 「 治」は、

よ り具体的 には農 業振興策 、土地開発策 を指す も のでな けれ ばな らず 、いわ ゆる 「 政治」一般 では ない。 言い換 えれ ば管子や 商軟 は、農 業、土地 開 発論者 であ り、その 目的 を達成す るための手段 と しての法制定論者 で、根幹 はあ くまで も農業 、土 地開発 を通 じての富国政策 にあった。

さらに、『管子』 の書 は 口を極 めて軽重政策 の重 要性 、つま り富国‑の道 はたんなる強本節用、勤倹 力行 では駄 目で、よ り高い次元か らの経済政策 を以 て天下 を経営すべ きだ と説 く

その根拠 となるもの に統計調査があ り、その資料が頻 出す る。 この 『管 子』の実証的実務家的傾 向の最 も顕著 に表れた もの

‑ 1 461

(9)

として、内言類 の 「 問篇 」、短言類 の 「 地図」、 「 水 地」、 「 地員」 な どの諸篇 が ある

「 問篇 」では 「 凡 そ朝廷 に立っ に本紀 あ り」として 「 人 の終始 を知 る」、

つま り人 間の生活全般 の把握 こそが大切で、た とえ ば覇王の道 として、 「 問 う、死事 の孤 、その未 だ 田 宅あ らざるもののあ りや。問 う、少壮 に して未 だ 甲 兵 に勝 え ざるもの幾何人 な りや ・・・。」 と以 下七 十数項 目にわた って民衆 の生活全般 か ら官僚 の勤 務状態、城郭、軍備 の状況 にいた るかで問いかけを 行 う。 こ うしたいわば詳細 かつ具体的 な問を積み重 ね ることによって国内は熟知 され 、そ こでは じめて それ に対応す る有効な諸政策 も決定 され、か くし覇 王の道 は成就す る と説 く

「 地員篇」 の場合 も同様 で、土地 の実態調査 を行 ってそれ をもとに均平妥 当 な税制 をたて よ うとい う。軽重類 で もこの姿勢 はか わ らない。 た とえば 「山国軌篇 」では 「 某郷 の 田、

若干。人事の費 、若干。穀 の重若干 に して幣 に中る」

とは、一種 の国勢調査 が行 われ る。 またやや類型的 で はあ るが数 字 を繰 り返 し挙 げなが ら議論 を展 開 す る 「 国蓄篇」・「 軽重丁篇」な ども基本的には通 じ 合 うものであろ う。

『管子』の こ うした在 り方が、も とよ りそのまま で道理 的 で もあ り精 密 で もあ る とは言 えない が 、

『管子』の終始現実 に緊密 であろ うとす る姿勢、な らびに 「 人の終始」 を全 て知 ろ うとす る態度 は、評 価 されね ばな らない。また調査や計数 を基礎 とした 発言や行動の有効性 も否定できない。

15

6.結語

『呂氏春秋』十二紀 も 『管子』経言類 も 「 時令」

を用いて、いわば 自然 の秩序及び四季 の推移 に照 ら して 当面す る諸 々の事 物 を取捨統括 す る とい う新 しい立場 か ら自らを主張 しよ うとす るのである。そ れ はまた従来 の一家 の学 を超 えて よ り総合 的 な視 点 を切 り開 こ うとす る工夫で もあった。 さらに、時 令 を基準 にす ることは、 自然 を準拠 として意味であ る

そ して時令 は この 自然 を、四季 十二月 と捉 え、

そのいずれかに思想 を位 置づ けるものである。言い 換 えれ ば思想 を 自然 の一部 とす る斬 新 な発想 で あ る時令 思想 か ら新 たな創 造 を 目指 そ うとす る基本 姿勢は窺 い知 られ る。時令思想 の登場 の意義 として この点 は評価 されねばな らない。 以上 を要す るに、

秦漠期 は社会 的な環境 思想 が繰 り広 げ るの に対 し て、先秦では人文的 ・哲学的な環境思想 が提起 され る。それ は、孔子が思想す る環境 は人 間の生活 して

い る社会環境であ り、社会環境 にお ける対処の理法 としては、人間的倫理学が提起 され、老荘が無為 自 然や因是 両行 を取 り上げ、理想的な生活空間を構築 され、中庸思想 が環境倫理学 においての最善な選択 を可能 にす る思考法だか らである

1

加藤 ・王両氏の論議 は、『東洋的環境思想 の現代 的意義』 ( 農文協, 1999

3 月,頁 14‑ 1

7

) を参照。

2

高 田純 『環嵐 思想 を問 う』( 青木書店,2003

8 月,頁 151‑ 153) を参照。

3 自然 についての論証は、加藤 尚武 『環境倫理学 のすす め』( 丸善 ライブ ラ リ,1991 年 12 月, 頁 191 ) を参照。

4

儒家思想 と道家思想 の異同については、金谷治

『老荘 を読む』 ( 大阪書籍, 1988

3 月,戻 5‑ 13) 、『中国思想 を考 え る』 (中公 新 書, 1993 年 3 月 ,頁 31‑ 32) を参照。

5 金谷治 『孔子』( 講談社学術文庫, 1990

8 月,頁 22‑ 26)を参照。

6 貝塚茂樹 『孔子』 ( 岩波新書, 1988 年 8 月 , 頁 71‑ 79) を参照。

7

宮崎市定 『中国史』( 『宮崎市定全集 1 』,岩波書 店, 1993 年 3 月,頁 94‑ 96) を参照。

8 老子 の理想郷 に関す る論述 は、森三樹 三郎 『老 子 ・荘子』 ( 講談社 , 1978 年 4月,頁 14‑

18)や福永光司 『老子 ( 下)』 ( 朝 日文庫, 19 78 年 5 月,頁 198‑ 20 1) を参照。

9 荘子 の斉物論 については、金谷治 『荘子』( 岩波 文庫, 1988

1 月,頁 75‑ 86)『老荘 を 読む』 ( 大阪書籍, 1988

3 月,頁 2 18‑

2 38)

に負 うところが多い。

10

今西錦司 『生物 の世界』 ( 『今西錦 司全集』 Ⅰ, 講談社, 1974 , 4所収) 。

11

山水 を楽 しむ ことについて、小尾郊‑ 『中国の 隠遁思想』 ( 中公新書, 1988 年 12 月,頁 1

10‑ 121) を参照。

12

『環境倫理すす め 』 ,丸善株式会社, 1991

10 月,第 11 刷,頁 11

13

中庸思想 の論述 は、金谷治 『中国思想 を考 える』

( 中公新書,1993 年 3 月,頁 129‑ 162) に負 うところが多い。

14

『呂氏春秋』の時令思想 についての論述は、町 田三郎先生 『呂氏春秋』 ( 講談社学術文庫, 20 05 年 1 月,頁 323‑ 330)に負 うところが 多い。

15

管子 の経済思想 について、町 田三郎先生 「 秦漢 思想史‑の視角」,『秦漢思想史の研 究』( 創文社, 1985 年 1 月,貢 48‑ 50 ,頁 194‑ 19

5)

に負 うところが多い。

‑ 147‑

参照

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