サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描(二) : サ ミュエル・ゴムパース研究のための覚書(2)
その他のタイトル A Biographical Sketch of Samuel Gompers (II) : Studies of Samuel Gompers (2)
著者 小林 英夫
雑誌名 關西大學經済論集
巻 14
号 6
ページ 687‑712
発行年 1965‑02‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15375
サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描︵二︶︵小林︶ ると︑よほど異っている︒・コムパース自身の記述しているとこ
五 七
らず葉巻倉庫は︑閉鎖されることがしばしばだったという︒ は︑それを食料品店や酒場などで引きとってもらった︒のみな しかも不良品は葉巻工自身が処分せねばならない︒通常かれら 庫に納める︒だが納入のさいの品質検査は非常にきびしくて︑
第 六
研究ノート
サミュ
アメリカ的労働組合の建設
当時の葉巻産業の実態は︑今日の近代的な工場制度とくらベ
ろでは︑南北戦争前の葉巻業者は︑需要の充分だと思われる場
所に定着し︑せいぜい職人の一人ないし二人を使って生産をお
こない︑製品を消費者に直接販売するところの独立生産者であ
っ た ︒ 一 八 六 0 年代から七 0 年代にかけては︑たとえばニュー
部
︵ 下 ︶
・ ヨ ー ク 市 で は ︑ 問 屋 制 家 内 工 業 制 度 と も い う べ き ﹁ ク ー ン ・ イ
( 1 )
ン制度」(負 t
日n-in-jobs~) が一般的であった。この制度のもと
では︑葉巻工は葉巻業者から材料を︵その二倍の価値物の預託
を条件として︶支給され︑自己の家でそれを加工して業者の倉
だが南北戦争中に連邦政府は、葉巻産業に国内消費税 (in•
( 2 )
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を課し︑その営業および労働を認可制と
小
ーサミュエル・ゴム︒ハース研究のための覚書
( 2 ) ー
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・ ゴ ム ︒ ハ ー ス の 伝 記 風 の 素 描
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ト ・ ハ ウ ス 制 度 ﹂ 族全員で終日働き︑その僅かな賃金から家賃を支払い︑一階の
にその調査のために委員会を任命し︑
1八七四年の秋にはその らは︑またニュー・ヨークの﹁テネメント制度﹂にはげしい攻 たは賃借し︑その各ア︒ハートメント︵三部屋ないし四部屋︶に は順調であった︒さらにかれらは︑協同組合運動をつうじて葉 のために︑葉巻業者は一棟の共同住宅
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に出向して一 0 セ
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を購入ま
各葉巻工の一家をそれぞれに住まわせたのである︒葉巻工は家
雇主の売店より必需品を買う︒これこそが悪名高い﹁テネメン
( 3 )
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工 組
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ンガリー人︑ドイツ人︑イギリス人の三つの支部
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部の自治を標榜せしめた︒ドイツ人およびポヘミヤ支部の成長
巻工場の生活の合理的改善を探求しようとした︒と同時にかれ
撃を加えた︒市の衛生局
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長は︑つい ちニュー・ヨークの生活に容易に適応できない不熟練のかれら間の調整をはかるために﹁中央評議会﹂をもうけ︑さらに各支 のやってきたことが︑あらたな生産方式を生みだした︒すなわ だが一八七 0 年代の始めニュー・ヨークに多くのボヘミヤ人
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を創設し︑かつハ
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場の性質などの相違をこえて広く門戸を開放するために﹁統 するためには︑この辺の事情をよく呑みこんでおく必要があかった︒そこでゴム︒ハースたちは︑性︑国籍︑作業方法︑作業 雇主についてのみ有効である︒当時の葉巻工の組合運動を理解 めに︑第一五支部の組織活動は︑かならずしも順調とはいえな ントを納めねば︑認可が下りない︒しかもその認可は︑一人の しい加入資格条件やニュー・ヨークの﹁テネメント制度﹂のた
租 税
局 ﹂
八六四年に葉巻工の全国的組合は結成されていたけれども︑厳 るようになる︒しかも認可制のもとでは︑葉巻職人は︑
﹁ 国
内
五支部に加入してきたのも︑ちょうどこの頃である︒すでに 制度﹂は消滅せしめられ︑それにかわって工場制度が確立され た︒この制度が強化されると︑小さな仕事場や﹁ターン・イン し︑工場への出資は連邦債にてこれを保証するようにせしめ 閥酉大學﹃編済論集﹄第一四巻第六号
かのアドルフ・ストラッサーがゴム︒ハースの葉巻工組合第 か
っ た
︒
組合運動も︑まずこの制度と斗うことから始められねばならな
五 八
689
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ナ ミ ュ エ ル ・ ゴ ム ︒ ハ ー ス の 伝 記 風 の 素 描 ︵ 二 ︶ ︵ 小 林 ︶
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E ・サキイのみは︑第一五支部の解消に反対だったといわ
五 九
といった顔ぶれであった︒ただ旧第一五支部の多年の書記であ ・
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ウス︑ヘンリー・ベァー︑アドルフ・ストラッサー︑会計は K 必要とする︒第一四四支部の役員は︑職場および地区の集会に こなった︒その結果一八七五年︱一月二四日付で︑ニュー・ヨ
員 会
﹂
えた︒ゴム︒ハースがみずから︑国際組合に支部認可の申請をお 葉巻工を﹁国際葉巻工組合﹂の単一支部に組織しなおそうと考
﹁ 合
同 職
業 労
働 組
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盟 ﹂
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を展開しはじめたのである︒ たちは︑ここに﹁テネメント制度﹂にたいする強力な反対運動
﹁統一葉巻工組合﹂を解散し︑ニュー・ヨークのすべての
ーク支部は国際組合の﹁第一四四支部﹂として認可証
( c h a r t e r )
を交付された︒第一四四支部の会長はサミュエル・ゴム︒ハー
ス︑副会長はレヴィ・ボーシン︑書記はデヴィッド・シュトラ
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への派遣代議員︑の三者をもって﹁支部運営委
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) を
婢
E 成する︒運営委員会
は毎週開催して組合一般業務をおこなう︒ただし委員の三分の
一の要求があれば︑運営委員会の決定を組合員一般投票に委ね
ることができる︒また二五ドル以上の支出は︑組合員の承認を
てまず指名され︑または選出︵原則として秘密投票︶される︒
最後にストライキについては︑支部組合または組合員グループ
は︑職場集会を召集してストライキを訴え︑これを秘密投票に
委ねうる︒職場組織の責任者は︑その結果を即日に支部会長に 地区の組織よりの代表︑および一八七七年設立の中央組織たる 一方葉巻工の組織化の推進に腐心していたゴム︒ハースたちされる︒そして第一四四支部の役員︑同支部傘下の職場および 以下の職場の葉巻工は︑二 00 人を限度とする地区組織に統 係︑その他の代表をおいて毎週職場集会をひらく︒組合員七人 世間に抱かしめるような性質のものであった︒憤激した葉巻工 もうけ︑会長︑副会長︑記録および財務の二書記︑会費徴集
と に
︑
﹁テネメント﹂が逆に住居として秀れているとの印象を にのりだした︒すなわち組合員七人以上の職場には職場組織を 委員会報告が公表された︒けれどもこの報告書は︑驚くべきこ ところでゴム︒ハースは︑これを機会に組織の完成および整備
財産と個人財産とを区別すべきことに気づかない︒労働組合発くれ︑と依頼しているのである︒このためスクチェルバーグ氏 に思をるものだ︒誰も銀行勘定とてもったことなく︑また組合訪れ︑氏の賃下げ計画を葉巻工たちに認めさせるよう尽力して え︑組合財政の管理は︑まだまだ充分でなかった o
I0 ド ル 紙
幣すら手にもちがたい貧しい葉巻工には︑一 00 ドルは無尽蔵 であろう︒氏は一八八四年︱二月のある日に突然ゴム︒ハースを は︑葉巻工たちの間に占めるゴムパースの影響力に注目したの 第一四四支部の組織構造が以上のように整備されたとはい たとえばゴム︒ハースと旧知の葉巻業者スクチェルバーグ氏 が就任したが︑この機構は非常に歓迎されたという︒ は︑その辺の事情を面白く伝えている︒ た﹁労働ビューロー﹂の責任者には︑書記のヘンリー・ベアー のゴム︒ハースは︑さまざまな経験をしはじめた︒かれの自跛伝 の組織プランは︑そのまま採択・実施されることになった︒ま さて労働指導者としての地位の定まってくるにつれ︑この頃 けれどもゴム︒ハースたちの熱心な啓蒙活動が功を奏して︑かれ の新奇さのために︑葉巻工の間に若干の不安を捲きおこした︒ ただしかれは︑服役後は信頼と名誉を充分に回復しうる人物と なり︑ゴムパースとの友情もまた回復しえたという︒ パース自身が﹁民主的かつ実際的﹂と考えたにせよ︑その提案訴ということになり︑かれは一八ヶ月の禁錮刑に処せられた︒ 識場組織を基礎とせるこのゴム︒ハースの組織プランは︑ゴム ュ ー ロ ー ﹂ を 提 唱 し て い る ︶ たちは︑雇用機会の情報の労使による交換のために︑
﹁ 労
働 ピ
件の分割弁済を認めてやったにもかかわらず︑この基金費消に
よりゴム︒ハース自身も利益をえているはずだとの理由で︑会計
係の妻とその義弟は︑本人の弁済を妨げようとした︒結局は告 委員会﹂を任命する︑といった風であった︒
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ム ︒
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ゴムパースは︑自己の友人でもあったこの会計係に︑寛大な条 しストライキが可決されれば︑ ﹁運営委員会﹂は﹁ストライキ 集し︑ストライキの可否について委員会の票決をもとめる︒も 報告する︒支部会長は︑その後三日以内に﹁運営委員会﹂を召 濶西大學﹃鯉演論集﹄第一四巻第六号
展の初期的段階にありがちな組合基金の費消は︑第一四四支部
についても例外ではなかった︒会計係は有能な男ではあった
が︑妻の浪費癖を満足させるために使い込んでいたのである︒
六 〇
て葉巻工のストライキのおこなわれた際︑たまたまその工場の
前でビケッティングに従事していた一葉巻工にゴム︒ハースが事
態の進行状況を尋ねたところ︑ゴムパースとかれの同行者一名
が︑会社の要請で﹁財産保護のために﹂派遣されてきていた警
官に逮捕されたのである︒軽罪裁判所
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c o u r t )
の 判 事
官の主張を容れて︑二人にそれぞれ一 0 ドルの罰金または一〇
はたった一日で終ってしまった︒
ナミュエル・ゴムパースの伝記風の素描︵二︶
︵ 小
林 ︶
った︒当時の労働者には︑なにかに昂奮すると無分別にすぐ思 がすぐに罰金を支払ってくれたため︑ゴム︒ハースの刑務所生活
六
員六 0 人のストライキがおこなわれた︒ゴム︒ハースはただちに
﹁運営委員会﹂を召集し︑このストライキは前述の第一四四支
部規約に違反するため︑まず全員復職してのち正式にストライ
( 4 )
キの申請をせよと命令した︒結局ゴム︒ハースの命じた手続が採
な ﹂ ( b o n a ‑ f i
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労 働 組 合 の み の 連 ^ 屈 京 の 結 成 を 考 え た ︒ か く ムパースの仕事のひとつは︑組合組織内の統制機構の確立であ
︒ ハ
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一ュー・ヨーク市の各産業ないしは職業の﹁誠実 建設時代の組合運動には︑指導者に託された仕事は多い︒ゴ た新しい葉巻エ支部がつくられたほどである︒だがさらにゴム っていた︒ニュー・ヘイヴンには︑第一四四支部をモデルとし ゴムパースは︑第一四四支部の組織原理と機構とを非常に誇 日間の禁錮刑を言いわたした︒ただし事情を知った労働者たち部規約は︑一般によく遵守されたという︒ に承認され︑ついにストライキは勝利を収めた︒その後この支 は︑ゴム︒ハースたちの抗弁をしりぞけ︑秩序を乱したという警られ︑・マッコイ工場のストライキは第一四四支部によって正式 不衛生きわまる手洗所にたいする不満から︑自然発生的に従業
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工場において職長の恣意的な態度をめぐっ 約条項として定めた︒たまたまマッコイ
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) 氏の工場で 捕を受けている︒すなわち﹁キムボールーゴールアー﹂
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は︑他の組合員をその工場に就労させる旨︑第一四四支部の規
り で
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い ︒
L 八七九年の春︑かれは︑生涯でたった一度の逮 め︑支部執行部の承認なしにストライキのおこなわれたとき ︑︒コムパースの経験したのは︑こうした雇主の愚かな政策ばか は︑逆に葉巻工のストライキを招く結果をもたらしたけれども いのままにストライキに突入するという慣習があった︒ゴム︒ハ ースは︑こうした無計画で衝動的なストライキを妨止するた
る個人主義者だったことが︑それを容易にした︒ゴム︒ハースた
ゴム︒ハースよりすれば︑組合が強力な職業管轄権をもってい を感化したのである︒ を奪いとった︒その編集者ヒュー・マックグレガー氏の一貫せ ハートに握手の手を差しのべた︒かれは︑ここでも一人の人物 差
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一年後にはかれの方から 働紙の確保が必要となるや︑かれらは︑
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てハートの加入に尽力した︒加入の認められたとき︑ハートの ゴム︒ハースは︑その目的のためにはかなり強引であった︒労 とゴム︒ハースに申しでるや︑ゴムパースは︑多くの反対を押し と し た の で あ る ︒ めてしまった︒一ヶ月ほどしてこのハートが組合に加入したい で︑かれらは︑アメリカ的ユニオニズムの原理を発展せしめん だったラーザ・ハートなる人物を︑ストライキの力で解雇せし 職業労働組合同盟﹂の拡大にもつとめた︒ この二つの接近法 ︒ハースの勧告を無視して︑かれらは︑ストライキ破りの指導者 ばかりであったという︒同時にまたゴム︒ハースは︑かの﹁合同 に寄ってきて︑つぎつぎに組合に加入しはじめた︒そしてゴム せた︒すると別に煽動もしないのに︑労働者たちはかれの身辺 長にたいして︑自己の人間的感化力をもってその掲示を撤回さ かれは︑やたらと禁止的掲示をして労働者に不満を抱かせる職
刷 工
︑
て生れたのが ﹁ 合 同 職 業 労 働 組 合 会 議 ﹂
( t h e A m a l g a m a t e d T r a d e a n d L a . b o r
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であって︑仕立師︑家具エ︑印
フレスコ塗エ︑葉巻包装工︑木版エ︑ ニス塗工︑長靴
エ︑室内装飾エ︑葉巻エ︵第一四四支部︶などが代表を送って
いた︒この﹁会議﹂の特徴は︑労働組合代表以外の参加を許さ
なかったことであるが︑同時に参加各組合の指導者たちは︑か
の﹁インクナショナル﹂で経済的組織の意義を教えられたもの
系のニュー・ヨークの週刊英字紙﹁ソシアリスト﹂
( S o c i a l i s t )
ちは︑同紙を﹁レイバー・スタンダード﹂
( L a b o r S t a n d a r d )
と改称し︑前述の﹁合同職業労働組合同盟﹂の機関紙ともたら た︒ポハルスキー商会
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る場合には︑組合員資格のないことは雇用機会の得られないこ 腸西大學﹃鍵済論集﹄第一四巻第六号
ゴム.ハースの仕事は︑地味ながらも着々と成果を重ねていっ っ
た ︒
しめた︒編集者にはマックドネルを迎えたが︑かれは有能であ
六
サミュエル・ゴム︒ハースの伝記風の素描︵二︶ (1) この名称は︑労働者が支給材料を自宅に﹁持ち込ん で
﹂ ( t u r n
in)加工するという様式に因んだもので
あろう︒この制度とすぐ後にでてくる﹁テネメント制
度﹂とは︑葉巻産業の当時の二大労働制度であったと
い わ れ る
︒ ( F l o r e n c e
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9 5 7 , p .
3) たけれども︑このことは︑かれにとって無上の喜びであった︒
︵ 小
林 ︶
労働総同盟﹂年次大会はゴム︒ハースの死刑廃止決議案を採択し の陪審名簿より削除されたほどである。—八九五年、「アメリカ 式の反対見解をのべたが︑そのためゴム︒ハースの名は刑事裁判 時代から恐怖の的であった死刑制度にたいし︑かれは幾度か公 刑にたいして慎重であった︒だがかれのこの立場は︑もっと根 であろうか? 本的なかれの極刑︵死刑︶反対論からでたものであった︒少年 したがってゴムパースは︑つねに除名という極 が除名のように生活権の否定にまでいたることは︑どんなもの る︒効果をもたない懲罰は愚かなことであるが︑さりとてそれ 労働者は︑本来すべてみな組合員資格が与えられるべきであ とであり︑したがって組合よりの除名は死刑に値する︒それ故
六
( 2
) これは︑一八六二年七月一日の﹁国内租税法﹂
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Law)のことと思われる︒
もともと合衆国の﹁国内租税制度﹂は︑独立戦争後の
合衆国財政建て直しのために不充分な関税収入を補 うべく︑国産酒精類にたいして国内消費税を課した
ア>クサンダー・ハミルトンの法律︵一七八九年︶に始
まる︒この課税は︑ジェファーソンの大統領就任︵一
八 0 二年四月︶とともに撤廃されたが︑一八一三年に
は︑第二独立戦争(‑八︱二年︶による財政難緩和の
ために︑また復活せしめられた︒この度の課税は︑酒
精類と煙草以外に十数種類の品目に及んだが︑これも
戦争終結とともに全廃せしめられた︒南北戦争が始ま
ると︑一八六一年八月五日の法律は︑輸入関税を引き
上げ︑直接税︵地租︶を課している︒だが真に国内租
税制度の根本的な確立をみたのは︑前述の一八六ニ
年法によってである︒すなわち財務省内に﹁国内租税
局﹂を設け︑一八一三年法に準拠して二
0 セントの
ウィスキー税を定めたばかりでなく︑煙草・葉巻以外
に 三
0
以上の品目に課税をおこなった︒さらに農業
︵棉花以外の農産物は免税︶以外の事実上すぺての職
業を認可制とし︑認可交付税を課した︒その後ピール
ほ一八六六年の法律により︑また蒸溜酒精と葉巻は一
八六八年の法律により︑いずれも納税証紙の貼付が定
められた︒だが以上の戦時課税は︑南北戦争の終結と
ともに徐々に撤廃され︑一八七 0 年七月一四日の法律
で︑一部をのぞき全廃された︒その一部とは︑印紙税
およびウィスキー︑ビール︑煙草・葉巻への国内消費
税であって︑これはその後の国内消費税の主柱となっ
た︒事実一八六四年から三 0 年間の徴税額四五億五〇
00
万ドルのうち三分の二は︑ウィスキーとピールと
煙 草 に た い す る 課 税 に よ る ︒ ( T h e E n c y c l S
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2 4 5 2 5 0 , .
" I n t e r n a l
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. の 項 を み よ
︒ ︶ ( 3 )
この点については︑モーリス・ドップ氏のつぎの文
章が印象的である︒﹁⁝⁝ときには使用者が被用者の
住居を所有し︑さらには家主として振舞う場合もみい
だせる︒この湯合には︑被用者の生活におよぶ雇主の
権力は︑どこか昔の封建領主の性格を帯びることであ
ろう︒これは︑百年またはそれ以上も前の新工場町で
は 普 通 の こ と で あ っ た ︒ ﹂ ( M a u r i c e
D o
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,
W a
g e
s ,
1 9 5 9 .
p .
1 2 )
( 4 )
この湯合印象的なのは︑ゴムパースの弟のヘンリー
がマッコイエ湯のストライキ委員会のスポークスマン
だったにも拘らず︑激怒する弟を無視してゴム︒ハース
が こ の 命 令 を 出 し た こ と で あ る ︒ ( S a m u e l
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1925•
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1 .
闘西大學﹃糎済論集﹄第一四巻第六号
p p .
124125)
﹁グレイト・ストライキ﹂
﹁ 全 国 労 働 連 合 ﹂ ( t h e N a t i o n a l
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n i o n ) は 独 立 政 治 活 支 払
法 ( t h e
S p
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P a
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e n
t Act)の撤廃をかかげて大統領
( 1 )
選挙に打ってでた︒
ひき上げなどが︑その主たるスローガンであった︒一八七六年
の夏には失業が激化し︑ニュー・ヨーク市当局は公共事業の改 べての労働者の組織化︑労働時間の短縮︑低賃金労働者の賃金 ののちに︑かれらは葉巻工の組織化をふたたび続け始めた︒す して労働問題の解決にならぬことを知った︒空しい政治的努力 だがゴム︒ハースたちは︑ほどなくチー︒フ・マネー政策はけっ 動のなかに活路を求め︑またかのビーター・クー︒ハー氏は正貨 た場合の常として︑賃金労働者は政治的︒フロバガンダに向い︑ 巻工組合員の数は︑ほとんど枯渇せんばかりであった︒こうし 行は︑なんら事態を解決していなかった︒ニュー・ヨークの葉 さそのものであった︒連邦政府によるグリーンバック紙幣の発
一 八
七 0 年代後半に入ってからの経済状態は︑まった<厳し 七
六四
695
ナミュエル・ゴムパースの伝記風の素描︵二︶︵小林︶ た︒相も変らず大衆集会と失業者デモンストレーションが続け られた︒がこの緊張は︑同年七月の鉄道ストライキによって破
( 2 )
られた︒大陸横断鉄道はすでに完成しており︑鉄道会社間の競
下げに続いて︑一八七七年六月に再度一 0 バーセントの賃金切
て︑鉄道労働者の反抗は︑そのままストライキの形をとってあ
らわれた︒けれども結成されて間のない鉄道労働者の組合は︑
充分な戦斗能力を具えていなかった︒こうした場合の労働者の
六 五
げを要求した︒五週間のストライキののち︑労働者は勝利を収
めた︒ただ面白いことは︑一部の交渉委員が雇主との非公式な
秘密交渉による取引きを望んだのにたいし︑ゴム︒ハースが︑組
﹁国際葉巻工組合﹂の第一︱回大会がロチェスターで開かれ
たのは︑ちょうどこの頃である︒資金のまった<乏しかった第 こ ︒ t 体交渉の慣行のいまだ充分に確立していなかった当時のことと勝利に終った︒かくして組合運動のすばらしい前進が始まっ り下げと鉄道直営ホテルの利用とを鉄道労働者に要求した︒団 ェルバーグ氏の工場のストライキを誘発し︑これも労働者側の る︒いずれにせよド・バリ工場争議の成功は︑ただちにスクチ
の た
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道 経
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七 三
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0 ︒ハーセントの賃金切り合の公式機関による交渉という筋をあくまで貫いたことであ 争は旅客および貨物運賃の引き下げを余儀なくせしめたが︑こ
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0 本あたり六ドルの賃上
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七 七
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こうした不安と灰色の雰囲気のなかに明け大きな希望となった︒葉巻工組合は︑さっそくド・バリ
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0 0 0 人
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この鉄道ストライキは︑沈みがちだった労働組合界にとって 金切り下げが相つぎ︑ 一ュー・ヨーク市の葉巻工の失業者数 うち破るは労働者の義務であるとの決議が採択された︒ は︑ほぼこの程度であった︒︱二月には工場閉鎖と首切りと賃 トライキ支援大会を催したが︑数千人が参加し︑資本の団結を うのが市長の回答であった︒労働問題にたいする世間の理解 の
要 求
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︑
﹁仕事を与えねばならない義務はない﹂とい 善を一時中止する有様であった︒仕事を与えよとの労働者たち 反応は︑たとえばビッツバーグにおけるように︑おのずと原始 的武器たる火と暴力として示される︒ ﹁ 合 同 職 業 労 働 組 合 同
盟﹂は︑七月二六日の夕刻に﹁クー︒ハー・ユニオン﹂で鉄道ス
合費完納者にたいする疾病手当および失業手当制度の確立を提 け目なさをも充分にもちあわせていたのである︒けれどもこの とんど自働的に会長に選出された︒ゴム︒ハースは︑こうした抜 の発展のためにはなによりもビジネス原則の上に組織の安定を選出され︑結局残ったストラッサーが︑第︱二回目の投票でほ 救われるべきである︑と主張した︒しかも労働組合運動は︑そ た︒その結果︑デェアが第一副会長に︑バークが第二副会長に らないし︑また組合の理想実現のための犠牲者は組合によって を変え︑時間節約を理由に副会長の選出を先におこなわしめ 持していくためにはそれ相応の現実的な利益給付を与えねばな は︑ニュー・ヨークにおける自己の経験からして︑組合員を維 サーについては︑出席代表の一人ゴールドスミス ゴールドスミス
︵ ニ
ュ ー
・ ヘ
イ ヴ
ン ︶
︑
それにゴム︒ハースの七電をよこした︒結局会長侯補に指名されたのは︑ジョン・デェ のフランク・ハース ︵デトロイト︶︑第三九支部のマーカス 考え︑その旨かれに書き送ったところ︑かれは立候補受諾の返 一四四支部の代表としては︑未婚のアドルフ・ストラッサーの ほうがはるかに適当と思われたけれども︑支部は︑妻と五人の 子供を抱えたサミュエル・ゴム︒ハースを旅費自弁の代表に選ん 第一︱支部のウィリアム・ビックラー ︵ シ カ ゴ ︶ ︑ 第 二 二 支 部
人であった︒この大会は︑ゴム︒ハースの組合運動確立のための
実際的提案のおこなわれた点で︑注目されるべきである︒かれ
はからねばならない︒こうした条件の上で︑ゴム︒ハースは︑組 ア︑ジョン・バーク︑ストラッサーの三人であった︒ストラッ
︵ 社
会 主
義
者︶が反対したため︑投票一 1 回におよんでも︑賛成票三︑反
対票三︑白票一という結果であった︒そこでゴムパースは戦術 った︒ゴム︒ハースは︑会長侯補にストラッサーがふさわしいと ンシナティ︶︑第五支部のジェームス・バーク︵ロチェスクー︶ 合の指導をニュー・ヨークの第一四四支部に任せたい様子であ ︵フィラデルフィア︶︑第四支部のハイマン・フィリップス︵シ まったとの電報が入ったため︑一部の出席代表たちは︑国際組 だ︒大会に出席したのは︑第二支部のフランシス・ウォルシュ たまニュー・ヨークのスクチェルバーグ工場でストライキが始 閥西大學﹃繹済論集﹄第一四巻第六号
案した︒かれの提案は採択されなかったけれども︑教育宣伝上
の効果は充分に認められたようである︒
さてこの大会の議事のひとつは︑会長の選出であった︒たま
六 六
サ ミ
ュ エ
ル ・
ゴ ム
︒ ハ
ー ス
の 伝
記 風
の 素
描 ︵
二 ︶
せねばならなかった︒まことにわれわれのなかで先駆的組織の
︵ 小
林 ︶
六 七
たが︑その反応は予期以上であった︒多くの都市に葉巻工の地 練職種は︑組織を確保するために他の集団と同様の斗争を経過 ゴム︒ハースたちは︑全米の葉巻工に回状を発して実情を訴え 人的なものである︒知識とともに能率も高まる︒
﹁ い
わ ゆ
る 熟
の職業にも必要であり︑その程度の差はあるにせよ主として個 その翌日ロックアウトが一斉におこなわれたのにたいし︑かれ 熟練労働者の組織の欠如は不熟練の故ではなく︑ 会長選出は非常な成功であった︒和解の精神にいささか欠け︑ またビスマルク的な強引さをもっていたとはいえ︑ストラッサ 縮など︶をもたらしたからである︒ 工たちが立ち上ると︑ゴム︒ハースたちは︑かれらの無鉄砲かつ 無統制のストライキはかれら自身を救わないだけでなく︑組織
﹁ 勇
気 の
欠
如︑忍耐の欠如︑ヴイジョンの欠如﹂の故である︒熟練は︑ど は事実ではあったがーーと︑考えた︒ゴムパースによれば︑不
一
︑
0 0
0 人以上の葉巻エが集まり︑ゼネラル・ストライキヘ 労働者のいままでの成果をも無に帰せしめる|—ある程度これ への支部基金の支出が決定された︒︱八七七年一 0
月 一
四 日
︑
組合員に要求したが︑これは成功しなかった︒結局ストライキ かったため︑支部執行委員会は収入の一 0
︒ ハ
ー セ
ン ト
の 追
徴 を
い︒組織労働者の成功に鼓舞されてかの﹁テネメント﹂の葉巻 った︒第一四四支部の基金はわずかに四︑ 00 0 ドルにすぎな 労働者たちにたいしては︑いささか冷淡だったというほかはな
そ れ
は と
も あ
れ ︑
﹁グレイト・ストライキ﹂は近づきつつあ
の気分が高まった︒翌朝各職場で集会が開かれ︑そこで選ばれ
た代表たちは︑ストライキを指導する中央委員会をつくった︒
らは︑ただちにゼネラル・ストライキをもってこれに応えた︒ けれどもゴム︒ハースたちの旧型組合運動は︑未組織の不熟練
産 で
も あ
っ た
︒
力本願の許されない厳しさがあるというゴム︒ハースの体験の所 高額の反対給付︑組合レーベル︑賃金ひき上げと労働時間の短 ー会長は︑真に葉巻工組合の発展︵統一規則︑高額の組合費と しまったこの現代では︑ほとんど夢想だにされないような激し
( 3 )
い絶望的な斗争をやったのだ﹂と︑いうのである︒正しいにし
ても冷たい言葉である︒だがこれは︑労使の紛争には安易な他 樹立に貢献してきたものは︑労働組織が地位と権力を達成して
職業労働組合同盟﹂も︑ともにこのストライキを支持した︒全 R e l i e f
C
o m
m i
t t
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)
﹁ 救
済 委
員 会
﹂
発行のチケットの呈示を条件として︑
毎
日肉と︒ハンを給付し︑各世帯には週に一度食品雑貨を配給し
た︒医薬も配給された︒だがやがては給食所の維持すら困難と
﹁テネメント﹂から
葉巻工の立ち退きの訴訟手続をとった︒瀕死の妻をかかえ︑ベ
トライキ最高潮のとき︑罷業者数︱一︑
0 0
0 人︑扶養家族数
もこれを潰しえなかった︒ ﹁葉巻包装工組合﹂も︑また﹁合同
国から資金援助がなされ
‑
0 月一五日から翌年の二月一七日 ら︑組合への貸付として二五︒ハーセントを継続して差し引き︑ る軍隊式のピケッティングは実に堅固であって︑いかなる雇主 四 0 ︑
0 0
0 人以上といわれた︒ウオルター・スミスの指揮す の長期にわたって︑ときには日に一︑二 00 ドルにも達する組
合基金支出がおこなわれたが︑これは当時としては未曽有のこ
支払わうというのであった︒組合員たちは︑ゴムパースが監督
ないしは職長となるということを条件に︑委員会の提案を認め
た︒ゴム︒ハースたちは︑スミス工場に隣接する二つの建物を借
り︑計三つの工場に二︑四 00 人の労働者を雇用したのであ
る︒これは︑利潤分配的な協同組合企業ではなくて︑雇用とス
トライキ資金とを生みだすための集団行動であった︒熟練葉巻
工の賃金は︑組合の正当とみなす高さに決定され︑その収入か ッドと共に歩道に追い立てられる葉巻エもでる有様だった︒ス 一八ドルの職を放棄して︑提案された週︱ニドルの職長となっ た︒ゴム︒ハースは求められるままに︑ヒルシュ氏の工場での週 ﹁テネメント・ハウス﹂の所有者たちは︑数日ごとに家賃滞納 以上を用意したが︑事態を救うにはまったく不充分であった︒ 葉巻エが追い立てを食うほどであった︒組合は自力で一
00
室 業 員 七
00
人︶を管理し︑会社には賃金支払総額の一定比率を なった︒とくに滞納家賃の問題は深刻で︑ の経営能力の欠如を理由に︑ヴェシー街にある氏の大工場︵従 としたことであった︒中央委員会は︑工場主たる M
・ ス
ミ ス
氏
ストライキを指導していた中央委員会が一葉巻工場を管理せん この﹁グレイト・ストライキ﹂における注目すべき事件は︑ 罷業者のために給食所や救済所を設け︑
( t
h e
とであったといわれる︒ ースたちは︑多くのことをなさねばならなかった︒かれらは︑ 方組合が結成された︒資金的援助もおこなわれた︒
一 方
ゴ ム
︒ ハ
胴西大學﹃細演論集﹄第一四巻第六号
六 八
サミュエル・ゴムバースの伝記風の素描︵二︶
︵ 小
林 ︶
ストライキの終焉とともに︑ かの協同組合工場も閉鎖され 八•五一ドルという未曽有額に達したが、これは、争議会計報 なかった︒このストライキのための組合支出は︑計三九︑四五
六 九
ンロング氏がかれに︑週二五ドルで職長になる気はないか︑ま 告の公表された最初であったという︒ ままでの家庭の出費をいく分なりとも補いえた︒しかしシェー たすには足りず︑罷業者たちは遂に資本の軍門に降らざるをえ
は︑シェーンロング氏
( S c h o e n l o n g )
のもとに職を得て︑い からスタチェルバーグ氏のもとを去った︒次いでゴム︒ハース えてもゴム︒ハースをば守ろうとする仲間たちを慰撫して︑みず る信用供与︵その完全返済に数ケ年を要した︶も︑必要額を満退職してくれることを望んだ︒ゴム︒ハースは︑ストライキに訴 導者排斥の業者問の申し合わせにより︑ゴム︒ハースが自発的に よ り の 援 助 や 二 ︑ 00 ドル以上のドイツ人商人グループによ 0 の製品の出来具合の立派なことを賞めはしたが︑ストライキ指
か っ
た ︒
クリスマス直前の経営者による統一的ロックアウト
み で
あ っ
た ︒
だがこうした素晴らしい着想も︑ストライキを成功させえな
は︑ストライキの資金源を潰滅させてしまった︒他の労働組合 パースに仕事を斡旋した︒スタチェルバーグ氏は︑ゴム︒ハース たまたまスタチェルバーグ氏の工場の職長が︑みかねてゴム 掴んで説得し︑やっと間に合う有様であった︒ に受領証としての仮証券を交付されるにとどまる︑という仕組 のときには︑かれの無一文の故に往診を拒否する医者の首筋を その天引分は︑工場財産への各葉巻工の持分とはされず︑たん ようにと︑金銭的誘惑のおこなわれることもあった︒妻の出産 のために運営される︒賃金よりの天引分は︑工場の利益から利 子をつけて返遠し︑のこる純利益は組合組織へ移される︒また が︑家財はほとんど残されていなかった︒組合活動を断念する たる失業を味わうことになった︒妻の新たな出産は近かった 葉巻工自身により︑かれら自身のものとして︑またかれら自身を排斥する方針をとったため︑かれは︑ほとんど四ヶ月間にわ る︒弁済がすめば︑工場は﹁中央委員会﹂財産となり︑その後は それをスミス氏の機械︑暖簾︑およびストックの弁済に当て た︒そこでゴム︒ハースは︑前職場のヒルシュ工場に復職しよう としたがすでに欠員はなく︑さらに葉巻業者協会が争議指導者
語っている︒ れは︑わたくしの生涯の転換点であった﹂と︑かれはみずから クに居を戻した︒また組合運動への没入が可能となった︒
﹁ そ
影唇した︒事態が絶望的となり︑かれはふたたびニュー・ヨー 食事代が溜まるし︑また身体の無理がたたって工場の仕事にも 勤し深夜に組合活動から帰る毎日が続いた︒ついレストランに ムスバーグ︵プルックリン︶に移したものの︑早朝に工場に出 する責任との調和であった︒かれは家族のために居をウィリャ のは︑ほとんど質草となっていた︒いまやゴム︒ハースにとって の問題は︑妻と六人の子供にたいする責任と︑組合運動にたい は相も変らずであって︑妻の結婚指輪以外の家族の目ぽしいも ンソン氏
( M a t t h e w H u t c h i n s o n )
のもとに移った︒だが貧困 であることを公言するグリーンウィッチ街のマシュウ・ハッチ 次いでゴム︒ハースは︑労働指導者閉め出しの業者協定に反対 かれは憤然としてここをも去った︒ せてくれれば︑その利益の半分を提供しようと申しでたため︑ た労働者に出来高一︑
0 0
0 本あたり一ドルの賃下げを認めさ 臓西大學﹃舞済論集﹄第一四巻第六号
註
( 1
)
一八六六年設立された﹁全国労働連合﹂がウィリャ
ム・ンルヴィスの指導のもとに生産協同組合運動やグ
リーンパック運動︵低金利政策︶をおこなったこと
は︑あまりにも有名である︒それは︑既成政党によら
ずに独自の政治活動によって目的を達成しようとし︑
たとえば一八七二年の大統領選挙にデヴィッド・デー
ヴィス氏を公認候補に選定したほどである︵この結果
は大失敗であったが︶︒﹁全国労働連合﹂が衰退する
と︑一八七六年の大統領選挙に﹁グリーンパック党﹂
は︑労働者の支持を期待してピーター・クーパーを同
党候補とした︒ただしクーパーの得票は一 0 万票︵主
として西部︶にすぎなかったといわれる︒この点の要
領のよい記述は︑たとえば
H e n r y P e l l i n g , m A e r i c a n L a b o r .
1
9 6 0 , p p .
5660 を み よ 0
( 2 ) このいわゆる一八七七年の﹁グ>イト・ストライ
キ﹂としての鉄道ストライキについては︑
P . S . F o n e r , H i s t o r y o f t h e L a b o r M o v e m e n t i n t h e U n i t e d S t a t e s ,
1 9 4 7 ,
V o l .
I ,
p p .
464474
が ︑ そ の 硲 ぞ 料 の 豊 宜
i
さ
と ともに秀れている︒これを物語り風に面白く書いた
ものとしては︑
R・O
・ポイヤーおよび H.M
・ モ
>
ース共著︑雪山褻正訳﹁アメリカ労働運動の歴史﹂ I
︵岩波現代叢書︶の第二章の第四節﹁飢えたる者に鉛
をくわせろ﹂がよい︒ 七 0
サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描︵二︶
︵ 小
林 ︶
七
ておらず︑ためにストライキはしばしば未公認だった︒同一都制度を加味したところの案を︑大会に勧告したが︑容れられな ーー英国の機械工組合のとった方法││をはかり︑これに共済
( 3
)
S a
m u
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G o m
p e
r s
,
o p .
c i t . , p p .
147148
( 4 )
o p c i t . . , p .
1 6 3
国際労働組合の建設
き︑葉巻業者たちは︑ストライキ破りの低い技術水準の故に喜
んでかれらを解雇し︑技術の高い組合員労働者を代りに雇い入
場は当然強くなった︒チャタム街七五番地の小さな本部事務所
は︑ストラッサー︑ラウレル︑ゴム︒ハースたちの談論の場とな
加入金や組合費は不統一だったし︑ストライキ手当の支出は成
行まかせである上︑ストライキ決定のための手続とて確立され て基金の定期的均等化 当時の葉巻工組合には︑まだまだ未解決の問題が多かった︒ っ
た ︒
さらにつとに団体協約がみられたとはいえ︑その手続は簡単そ
の も
の で
あ っ
た ︒
である︒この信念をゴム︒ハースは︑国際組合の一八七七年の年
次大会︵第一︱回︶に提案した︒翌一八七八年大会では会長の
き︑チープ・ユニオニズム
( c
h e
a p
u n
i o
n i
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)
を排し︑安定
せる組合運動の基礎として財政力を強調し︑組織の凝結力とし
( a
p e r i o d i c e q u a l i z a t i
o n
o f
f u
n d
s )
ストラッサーは︑ゴム︒ハースたちの経験と討議の結果にもとず め︵当時本部は会長とともに移動した︶︑ゴム︒ハースたちの立 もに﹁国際葉巻工組合﹂の本部はニュー・ヨークに移されたた 府によって実施されるまでは︑労働組合がそれをおこなうぺき したといってよい。—八七七年のストラッサーの会長就任ととない。したがって利潤動機によらない自発的な性格の保険が政 れたという︒このことは︑組合建設の上で恵まれた条件を提供 ない︒しかしながらそれを営利的な保険会社に頼ることはでき は︑失業や疾病や死亡にさいしての共済制度を確立せねばなら った︒ストライキ時以外にも恒常的に組合員を維持するために 前述の一八七七年の﹁グレイト・ストライキ﹂の終ったと 当面の問題は︑組合組織の安定と達成された進歩の維持であ
八
なかったし︑また労働組合用語とていまだ熟していなかった︒ 市で賃金は工場により異ったし︑組合活動原則も確立されてい
会では︑経費の点で大会開催は隔年とすることが決められた︒ は︑疾病および死亡手当制度が確立された︒のみならずこの大 年大会においてであった︒ シカゴにおける一八八 0 年大会で 年の不況のため廃止されていた︶が回復されたのは︑
一 八
七 九
労働日の確立︑トラック・システムやテネメント・ハウ (7)一四才以下の児童の労働禁止︑あらゆる階級の八時間 しい手段の利用 ただし職人の移動性を高めるための旅費貸付制度︵一八七 かった︒だがゴムパースの組合費統一と共済給付の動議は︑か 合費︵週当り一 0 セント︶と均一加入費︑旅費手当の支結︑現
うことが提案された︒そして組合員一般投票の結果︑以上の諸
( 1 )
提案は遂に採択された︒ (4)組合にたいする公的義務の遂行の故に法律上の困難に 支出のため基金の枯渇せる支部に必要に応じて分配する︑とい た基金を保持し︑それ以外の残額は︑ストライキその他の緊急 は運営費として一定額を保有し︑各支部はその組合員数に応じ (2)ストライキとロックアウト︑または疾病と死亡の際の の内容である︒また組合基金均等化の具体案として︑国際本部 ライキの条件としての﹁執行委員会﹂の承認の確保などが︑そ すなわち セントにもとずく滅債基金の設置︑旅費貸付制度の確立︑スト 組合員一人当り一五セントおよび新規加入組合員一人当り二五
﹁ 全
米 葉
巻 工
国 際
組 合
﹂
は︑大会につぎのような規約修正を勧告した︒すなわち均一組 れを委員長とする﹁規約委員会﹂に付託され︑その結果委員会 賜西大學﹃網済論集﹄第一四巻第六号
n a t i o n a l U n i o n o f A m e r i c a )
が採るべき組織的行動的統一の
手段として︑つぎの七つを挙げた︒
( 1
)
雇用情報の無料提供
金銭的相互援助
(3)旅費の前貸し
まきこまれたる組合員の保護
(5) 組合利益擁護のための労働新聞の発行
(6)労働組合の全国的連合体を実現するためのあらゆる正 ために
( t h e C i g a r m a k e r s ' I n t e
r , した︒委員会は︑葉巻工の物質的・道徳的・知的福祉の向上の 一年大会において︑アメリカ的労働組合についての理念を提出 ふたたび﹁規約委員会﹂の長となったゴム︒ハースは︑一八八
・
七
サミュエル・ゴムパースの伝記風の素描︵二︶
︵ 小
林 ︶
プロードウエイにつくるに際し︑同局のペック長官がゴム︒ハー ュー・ヨーク州労働統計局﹂が新たに支局をニュー・ヨーク市 会長ストラッサーは欠席や遅刻にたいして厳格であったた 資格を疑われたのである︒その理由は︑数年前設置された﹁ニ
め︑このインディアナポリス大会への参加は︑なかなかの重労 . つ ︒
七
四四支部の三組合員の署名せる抗議文書のために︑大会代議員
ー ス
を ︑
インディアナポリスの多数の労働者が出迎えたとい 際 組 合 年 次 大 会 ︵ シ ン シ ナ テ ィ ︶ に お い て ︑ ゴ ム ︒ ハ ー ス は ︑ 第 一 かれたが︑このときは予定より数時間も遅れて下車したゴム︒ハ た民主々義も︑ときに弊害を生むことがある︒ 7 ハ八五年の国年九月には︑インディアナポリスで国際組合の年次大会がが開 な活動のために最低限必要であると考えていた︒しかしこうし これはときとして「狂気の民主々義」(•
d e
m o
c r
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mad•)
とパ ー
ス は
︑ 六
︑
0 0
人もの大世帯で全員による討議など考え 0
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︒
・ホールで開かれた︒この大会にフィラデルフィアの第一 00
支部から派遣されていたジョン・キルシュナー
( J
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n S•
K i
r s
,
c h
n e
r )
は︑ゴム︒ハース家に滞在し︑二人の友情は真に発展し
力によるとでもいいたげである︒それのみではない︒一八九一 られないから︑支部組合員の一般投票の権利は︑組織の自発的な擁護者となったという︒自伝の叙述では︑これはかれの感化 ろうか︑社会主義哲学を捨ててトレード・ユニオニズムの熱烈 批判され︑専制の方がより実効があるとされたけれども︑ゴム た︒かれは︑ゴム︒ハースをつうじて悟るところがあったのであ 会︑さらには国際組合大会に結びつけるという構成であった︒ ﹁運営委員会﹂を置き︑これを国際組合の会長または執行委員 工組合たる第一四四支部は︑職場組織と地区組織を基盤として 国際組合の一八八七年大会は︑ニュー・ヨーク市のタマニー ところで前に説明したように︑ニュー・ヨーク市唯一の葉巻 が
そ う
で あ
る ︒
スの資格をあっさり認めたため︑たんなるエビソードに終って 局の設置︑のための議会説得 にあった︒もっともこの事件は︑ ﹁信任状委員会﹂がゴムパー ス制度や囚人請負制の廃止︑労働組合の法認と労働統計 スに協力を求めたところ︑かれが最大限の貢献をしたという点
\
"‑ I
ち まに︑労働組合員についての自己の所信を明かにした︒すなわ ム の 問 題 に 費 さ れ た ︒ ・ コ ム ︒ ハ ー ス は 社 会 主 義 者 か ら 問 わ れ る ま
働組合においては通常の政治におけるごとき均衡抑制がないた にわたる大会期間の大半は︑社会主義対トレード・ユニオニズ
で あ
る ︒
いたる期間が︑ちょうどそのような時期であって︑国際組合役 される職業の組合の組合費完納のメムバーである﹂というの 絶えず主張するところの賃金労働者にして︑かつ自己の雇用 は労働運動の形態よりもすぐれていることを恐れることなく し︑かつ最後に︑労働組合こそが世界中の他の労働組織また た︒このイニシアティヴとレファレンダムという直接的方式 理論やイズムによって自己の活動の制約されることを拒否
P e r k i n s )
が 会
長 に
︑
またゴム︒ハースが第一副会長に選ばれ の善にしたがわしめ︑共通の向上のために努力し︑ドグマや サーの会長辞任のため︑ジョージ・パーキンス の統一・連合・協カ・友愛・団結のため努力し︑自己を共通 働であったらしい︒いずれにせよこの大会ではゴム︒ハースの提 案にもとずいて︑イニシアティヴとレファレンダムによって役 員が選出されるよう規約が修正された︒ のみならずストラッ
( G e o r g e
W .
は︑それなりの長所はあったせよ︑また大きな短所があった︒
社会党組織の強力なところでは︑多数の支部が︑同党の勢カ一
色に塗りつぶされる傾向をもつ︒一八九六年から一九︱二年に
員の信用を失墜せしめようとする社会主義者は︑容易に支配権
( 2 )
を握りえたのである︒
さて一九︱二年になってバルティモアにおいて労働組合主義
者たちがやっと国際組合の年次大会を開催しえたとき︑三週間 瀾西大學﹃編済論集﹄第一四巻第六号
要性を根本原則と解し︑あらゆる職種のあらゆる組合の活き
た論理的な拡大・成長•発展を認識し、すぺての組織労働者
このゴム︒ハースによる﹁真の﹂組合員の定義は︑あまりにも
有名ではある︒かれの発言がどの程度奏効したかは断定できな
いけれども︑とに角出席代議員の三分の二が執行部に敵対的だ
ったといわれるバルティモア大会は︑無事に調和のうちに終っ
た︒とはいうもののイニシアティヴとレファレンダム方式にた
( 3 )
いするゴム︒ハースの信頼感は︑二党制を原則として許さない労 ﹁真の労働組合員とは︑同一職種のすぺての仲間の統一の必
七 四
サミュエル・ゴム︒ハースの伝記風の素描︵二︶
︵ 小 林 ︶
( 4 )
めに︑いささか薄らいだらしい︒かれはそう告白している︒だ が一九ニ︱年にクリーヴランドで年次大会の開かれたとき︑葉
﹁かっての
註 (1) ここに葉巻工の「新組合主義」(•
N e w U
n i
o n
i s
m "
)
が確立されたわけだが︑ゴム︒ハースはこれを﹁アメリ
カ最初の建設的能率的な労働組合組織﹂と呼んだ︒
( S
a m
u e
l G
o m
p e
r s
`op.cit••
p .
6 2
)
しかし厳密にい
えば︑その名誉の与えられるべきはウィリャム・ツル ヴィスの﹁国際鋳型工組合﹂
( t
h e
M o
l d
e r
s '
I n
t e
r ‑
n a t i o n a l Union)
である。(P.S•
F o
n e
r ,
o p . c i t . ,
p .
5 1 6 )
また同様の簡単な指摘は︑
W i
l l
i a
m M•
L e i s e r s o
n ,
A 慈 r ざ
z n T r a d e u n i S D
塁
1 o c r
a c y .
1 9 5 9 , p .
8 9
に み
ら れ る ︒
( 2 )