編 集 後 記
『山形医学』の存在意義が問題にされることがある。例えば、『Nature』や『Science』
と同列に連なる最末端のまた末端であるかのような言い方や扱い方は、全く見当違いも甚 だしい。『山形医学』には『山形医学』の役割がある。全国的には、あるいは国際的には どういったことのない問題であっても、また極めてローカルな問題であっても、そのとき の山形では重要なことであったというものもあり、記録として残しておくべきものもある。
そういう意味でも、今号の「東日本大震災に関わる山形大学医学部附属病院の対応」に関 する論文や「山形県における腎移植の現況と課題」に関する論文は、『山形医学』に相応 しい内容と考える。また、若手の論文執筆の練習台としての役割があってもよいと私は常 々考えてきた。苦労して書いた論文が専門誌に掲載されるというのは嬉しいものである。
例え『山形医学』であっても自分の書いた論文が人生初めて医学関係の専門誌に掲載され たというその嬉しさが、真にアカデミックな論文を書き高水準の専門誌に掲載されるよう な方向への出発点となれば、それに越したことはない。したがって、医学に関わる論文と しては質的にかなり低いものでも、あまり厳しいことは言わずに掲載してきている。しか し、本号に限ったことではなく、「苦労して書いた」、「執筆者たちの間で推敲を重ねら れてきた」ということを全くと言ってよいほど見てとれない投稿論文が多すぎる。何度も 何度も同じ初歩的な過ちを繰り返してくるところも少なくはない。論文としての体裁さえ なしていないものを、何とか掲載に漕ぎ着けてあげたいと労力と時間を割く査読者と編集 委員のことにも思い至るべきである。これは、論文を書くことを指導する立場の人間の責 任が大きい。共著者には、しばしば講師クラス以上の名を見る。後輩をきちんと指導する ことは、医学・医療に関わる人間としての本来的責務であり、論文執筆もしかりである。
私は、定年退職のため、今号をもって『山形医学』の編集からは離れる。極々ローカル な医学雑誌であるが『山形医学』はよく考えられよく推敲された論文が載っているなあと いう印象を、読む人に与えられるようなものになってほしいと願っている。
編集委員長 本 山 悌 一(平成24年2月1日記)