研究する教師たち
―最初期成城小学校における
「教へつゝ学ぶ」教師への期待―
谷 脇 由季子
はじめに
19世紀末から20世紀初頭にかけて世界的に起こった新教育運動は、日本の教 育界にも大きな影響を与えた。日本では大正デモクラシーを背景として、いわゆ る大正新教育と呼ばれる新しい教育運動が展開した。この時期、政府においては、
学制の制定からほぼ50年が経ち、大々的な教育改革を目指して臨時教育会議が 設置された。教育現場においては、たとえば奈良女子高等師範学校附属小学校や 千葉師範附属小学校といったいわゆる師範学校附属小学校や一部の公立小学校に おける実践、あるいはさまざまな私立学校の創設という形で展開された。当時の 教師たちの意識は非常に高く、各地で行われた新しい教育についての講習会や研 究会はどれも盛況であった。その際たるものが1921(大正10)年8月に東京高 等師範学校において開催された「八大教育主張講演会」であり、この講演会には 全国から多くの教師たちが詰め掛けた。「全人教育論」で講演した小原國芳は、
次のように回想している。
大正十年八月一日から八日間。大会は東京高等師範学校講堂を会場として行 われた。集まるもの恐らく四千名を超えたろう。大講堂ミッシリ。廊下もぴっ しり。窓も鈴なり。熱狂そのものだった。ホントに湧き立った。(1)
大正新教育は、その特色に個性尊重や自由を謳うものが多く、そこから大正自 由教育とも呼ばれることも少なくない。その旗艦的存在が沢柳政太郎の創設した 成城小学校であることは、もちろん周知の事実である。
たしかに、成城小学校においては子どもの個性や自由が最大限に尊重され、芸 術教育もふんだんになされていた。それは現在に至るまで学園全体の校風の中に
息づいているし、成城学園の教育の特色として、個性の尊重と少人数教育が謳わ れている。だが、初期成城小学校の最大の特徴は、教師による研究と実践にある。
そのために、成城小学校では子どもたちに対する以上に教師に対してその個性 と自由の尊重を重視し、そうした自由で個性的な教師たちによって研究が行われ たのである。そしてその研究は、創設3年目の1920(大正9)年に創刊された雑 誌『教育問題研究』や成城小学校研究叢書などの著作を通じて、全国の教員たち に大きな影響を与えた。
本稿では、沢柳政太郎が日本の教育改革の実際の担い手として、どのような教 師を望み、彼らと接していったのか、またその期待にこたえるべく、教師たちが どのように研究を行っていったのかということについて、主に沢柳の言葉や当時 の教師たち自身の言葉から明らかにすることを目的とする。
2.最初期における成城小学校における教員採用
さて、成城小学校の創設に際して、沢柳は顧問として京都帝国大学教授の小西 重直を置き、京都帝国大学卒業の藤本(旧姓平内)房次郎を主事兼訓導として、
全国に教員スタッフを求めた。最初期の訓導でもあった村上瑚磨雄は、次のよう な証言をしている。
このもとは京都に始まった。京都に小西先生という沢柳博士の愛弟子ですが、
おりまして、それで小学校の教育がどうも形式に陥ってしまっている。これ を何とかしなければ行かぬというので、今度新しい学校をこしらえる。(中略)
それで小学校をこしらえるからだれかよこしてくれということで小西先生に 話があった。そのじぶんに長田新という人が、大学の学生だったが、平内君
――のちの藤本君と懇意だった。(中略)藤本君と私とは京都でよくつき合っ ていたのです。それで引き受けたけれども、あまり小学校の経験がない。そ して私に、お前はだいぶやっているようだから、一つきてやらぬかという話 になった。(2)
沢柳自身、第一の問題は主事の選定であったようで、彼は「余が小学校長となっ た理由」において、次のように述べている。
私の校長と云ふのは単に名前ばかりではないつもりで、多少実のあるもので あるが、併し私が全力を注いで細かい仕事まで一々自分でやるといふことは 到底出来ないから、主事となるべき人を求め、その人に全責任をもたせてや らせるつもりで適任者を探して居るが、長し短しで却々ないものだ。私の注 文は第一に非常に小学教育に興味を有し、第二に因習に囚はれず事実に立脚 して根本的に研究してゆく精神の人、頭さへよければ学歴などは問はない。
第三には成るべく年の若い人、年を老つた人は兎角考が固定して他人の意見 を受け入れることが出来ない。右の條件で探して居るが、職業として希望す る人はなか多いが興味でやる人は至つて少ない。私の学校には一定の主義と 云ふやうなものは今日は未だ標榜する時機でない。他の特殊の小学校の長所 を参酌し、それに自分の考をも加へ、飽くまで研究しつゝ改善してゆくつも りであるが、然し自分は校長であるからと云つても主事や訓導を制肘して自 分の意見を何処までも押通さうとはしない。唯だ自分は主事たるべき人の参 考として希望や注意を言ふだけで、その人の考や仕事には十分の自由がある やうにするつもりである。主事の自由な考に任せるが、その代りに熱心な働 きを希望する訳である。(3)
この論文が発表されたのは1916(大正5)年11月であるが、この直後に藤本 が小西の推薦で主事として赴任することが決定したのである。のちに成城小学校 の訓導となる森徳治(旧姓山下)は、
沢柳博士は、京都大学の小西重直教授に、「東京に一私立小学校を創立して 自分が校長になるが、君のところで薫陶を受けた者のうちから主事を推薦し て欲しい」と依頼された。そこで小西教授は、長田新教授と相談されて、平 内房次郎氏を主事候補に推薦して決まったのである。(4)
と証言している。
さて、こうして決まった主事の藤本と沢柳によって選抜された最初期の訓導は、
村上の他に佐藤武、諸見里朝賢、真篠俊雄、田中末広であった。音楽の真篠が音 楽学校の声楽科の新卒業生の中から選ばれた他は、全国からの公募で行われた。
藤本はこの訓導選出について、次のように述べている。
教員を全国から募集したのは、自ら進んで教育の為めに尽したいと思ふ熱心 な教員を採用したいと思ふたからである。本稿は教育の目的が普通の小学校 とは違つて居る。従つて本校の教員となるものは、此真摯な団体に加つて、
献身的に努力して見やうと云ふ熱情のあるものでなければならぬ。勿論教育 者としての学識若くは技能も必要であるが、学識技能以外に犠牲の精神に富 んで居なければならぬ。依つて採用の方法も従来の行はれて居るやうな先輩 の推薦とか紹介とか云ふやうなことは一切やめて、自ら進んでやつて見たい と云ふ希望を有するものから採る事にした。(5)
教員募集のことが全国に知られると、全国から応募の書類や論文が届いた。そ れを藤本が読み、沢柳と相談して数名を選択して、さらに写真と履歴書と『生ひ 立ちの記』なる作文を提出させた。藤本によれば、それは「たゞ過去の履歴を一 層明にすることが出来るのみでなく、併せて其人の文才を試験することが出来る ので、誠によい方法であると思ふ」(6)ということである。さらに諮問が続いたが、
その内容は以下のとおりである。
1. 子どもは好きかきらひか、及びその感想。
2. 読書は好きかきらひか、(附)目下所有の書冊の数。
3. 最近二三年間に読んだ教育書中でいゝと思つた書物の名とその理由。
4. 教育書以外の書では。
5. 普通学中何が一番得意か、それから順々にあげて行つて貰ひたい、一番 不得意のは何、
6. 何か是迄題目を定めて研究したものがあるか、今若し何か研究せよと命 ぜられたら何を研究せうとするか、(附)研究でなくとも何か雑誌にで も発表した文章はあればお送りを乞ふ
7. 平素娯楽とする所は何、
8. 文学は好きか嫌ひか、好きならば好きな作家作物をあげてその理由をも 9. 音楽絵画の鑑賞は好きかきらひか、又二者に対する技能は如何に。
10. 手工の技能は如何。
11. 宗教的経験はありや否や、あれば略書してほしい。(附)宗教に関して 何か読んだ本があるか。
12. 私淑している人物{ 古人 }理由
今人
13. 尋常五六年に課外の読み物として何か、適当なものがあらば列挙してほ しい。
14. 酒、煙草はのむかのまぬか、それに関する感想乃至経験
15. 健康についての過去及現状、心臓は如何。(附)目下の体重と平素身長 16. 目下の総収入、財産(次男ならば本家のも)
17. 外国語の素養の程度児童に対しての談話は巧みか下手か、
この中で、特に研究との関わりでの諮問は、3~6および17である。ここか ら明らかなのは、教育だけでなくその他の教養を持ち、研究を実際に行っている 者、さらに国内だけでなく海外の文献を読みこなすほどの語学能力を有する者を 訓導として求めていたということである。
しかし、全国からの応募と長きにわたる試験で訓導を採用する方式は、雑多な 上に時間ばかり浪費してあまり効果がないと感じたのか、その後数年でなくなっ てしまった。1919(大正8)年4月に就任した平田巧(1928(昭和3)年3月ま で在職)が、それについて「師範学校長、そういう人の推薦のある者は試験をし ないということになった」(7)と証言している。
3.成城小学校創設趣意の意味とそこにみる「研究」
さて、成城小学校の創設は、「成城小学校創設趣意」(以下、「創設趣意」)によ れば、1872(明治5)年の学制制定以来約50年が経ち、「外観の完備に近い程の 進歩の裏には動もすれば、教育の根本精神を遺れて形式化せんとする弊害を醸し つつある」中で、今こそ「我が国現今の教育は単に小学校教育のみならずあらゆ る方面に亙って種々の意味に於て革新を要望」されているのだから、この機運に 乗じて「この要望に応じ、微力を揣らず茲に教育上の新しき努力を試み」ること を目的としていた。(8)
従って成城小学校は、最初から「このような教育を行いたい」というある特定 の理想や主義を持たずに、虚心に研究に従事するための学校として始められた。
創設趣意では、成城小学校が「今、将に生まれんとするもの故、其の特色の如何 は他日を待たねば明言でき」ない上、「一定の主義の如きも未だ標榜すべき時では」
ないが、「内外各種の学校の長所を見逃さず採用すると同時に校長主事訓導の創 意工夫を加へ且、常に顧問其の他の意見を聞き飽くまで研究しつゝ改善して行く 内に自然に或種の特色が現はれ」るであろうと主張している。その上で「我校の 希望理想と云ふが如きもの」として、以下の4点を挙げている。
1. 個性尊重の教育 附、能率の高い教育
2. 自然と親しむ教育 附、剛健不撓の意志の教育 3. 心情の教育 附、鑑賞の教育
4. 科学的研究を基とする教育
この創設趣意は、藤本房次郎が中心となって、沢柳の指導の下に作成された。
村上瑚磨雄によれば、「これに筆をそめかけたのが大正五年の秋頃」であり、「先 生(沢柳―引用者)がこれを発表されたのは、たしか一月だった」(9)。そして その原稿について沢柳が目を通し、同時に連日にわたって開校に向けての打ち合 わせも行われた。その様子は、「私(村上―引用者)が献策して、これだけは入 れてもらいたというのはありますけれども、藤本君が夢中になって、手なんか神 経衰弱でふるえているのです。夜も寝ていられない。一生懸命だった。徹夜を何 んべんもやったですね。それで私にも意見を言えといわれて入れたのもあります。
休みのときには、私がこっちに来てやっていた。(中略)このために藤本君は命 をなくしたといってもいいくらいです。それから病気になったのです」(10)と証 言したように、期間はふた月ほどであったが、文字通り命を削って作成したこと が想像される。
では、その創設趣意の意味するところは何であるか。本章においては、各項目 について、改めてその意味するところを確認してみたい。
(1)「個性尊重の教育」と「能率の高い教育」
1の「個性尊重の教育」では、子ども一人ひとりの能力や性格を無視して、大 人数の子ども全員に同じことを同じ方法で教授するのではなく、目の前の子ども の個人的能力に合わせた方法や教材を考えて教授することこそが、真の教育の目
的であり、それこそが「能率の高い教育」であるという、学校教育における特に 知育面の改革を意識したものであるといえる。
沢柳は「小学教育」で、「教育を生長と見、発育と見、随つて教育の方法も総 て発生的に考へるといふ見地に立」つことが、成城小学校における共通の理解で あり、大前提であることを述べている(11)。そしてその一人ひとりの子どもがど のように成長、発達するのかということについては、十分研究の余地があると考 えていた。「教育は児童の心身の発達に応じて施さねばならぬとは何人もいふ所 であるが、私共が拠ることの出来るだけに明らかになつてゐない」(12)という当 時の小学校教育への批判から、成城小学校における最初の研究と改革がなされた。
「教育は生長である」という大前提の上で、それを実際の学校教育において実 現させるためには、さまざまな、しかし現実的な研究課題が生じる。その第一が、
各教科の始期の問題である。「生長」し「発育」する存在である子どもは、決して「器 械的のもの」ではないので、「必ず適当の時節がある、この時節に拘らず生長を 促すことは先ず不可能である」という認識のもと、どの時期が最も適当であるか を、実際に教育することで研究する必要がある。次に、クラス規模については「個 性の発揮とか尊重とかいふことは今日ほとんど異論を唱へるものがないという有 様」であるが、それを「団体教育」である学校教育とどのようにリンクさせるこ とができるのか。つまり「個性尊重は学級教授と両立する範囲に於て正当である のであらうか。問題である」。さらに、教育の効果については教師の個人的な問 題が重要であるのは当然として、「他に教育の効果に大なる関係あるは学級の大
〔き〕さ」であると指摘する。成城小学校では、一応目安として30人というクラ ス規模を設定した。それについて沢柳は、「一は此の研究の為めと、教員の余裕 を作りて研究に従事するのと、可なり多額の授業料を徴収するからして之を償ひ 得るだけの教育をしたいといふ種々の理由から」設定したと述べている。(13)
創設趣意の説明では、藤本は「本校の教育方針の一たる個性教育を行ふには、
三十人より多くてはならぬと云ふ常識の上から考えて定めた」にすぎないこと を明かし、実際には2年が7人、1年が28人なので1年を2クラスに分けて合 計3クラスとしたが、「寧ろそれ位の人員が適当ではないかと思うようになつた」
と述べている(14)。いずれにせよ、個性尊重の教育と学校教育との両立を目指し、
かつ、一人の教師が一人ひとりの子どもにそれぞれ的確な方法や内容を教授する ためには、いわゆる形式通りの教授法では個々人の能力を十全に伸ばすことはで きない。そのために、一学級で教師が直接教授する人数を限ったのである。
つまり、それこそが、「個々具体の生きた場合に適合した教育を施して、出来 得る限り能率の高い結果を得る」(15)ことに繋がると考えたのである。要するに、
一見効率的に見える一斉教授は、実際の子どもにとっては決して「能率の高い」
ものではなく、むしろ一人ひとりに照準を合わせた教育の方が、子ども個人にとっ ては却って「能率が高い」ということなのである。
(2)「自然と親しむ教育」と「剛健不撓の意志の教育」
次に、2の「自然と親しむ教育」では、大都市東京に居住する子どもたちの身 体的・精神的な虚弱性を問題視する。本来、子どもは自然の中で伸び伸びと強く 育つことが大切であるにもかかわらず、都市生活の中でそれが充分に行われてい ないという点を指摘し、改善のためには、いわゆる体操を行うのではなく、成城 学校に隣接していた陸軍戸山学校の敷地に入れてもらい、そこで子どもを自由に 遊ばせ、その中で同時に体を鍛えていくことを目指す。そこでは決して教師の号 令に従って体操を行ったりするのではなく、まさに遊びの中で学び、強靭な体力 を培うのである。実際、体操は初期の成城小学校のカリキュラムには存在しなかっ た。いわゆる体操をやらないことについて、村上は「小さい筋肉を先に働かせる のは間違つている、大きい筋肉を働かせて、それから小さい筋肉を働かさなけれ ばだめだ」と考えていたと解説している。また村上と同様、最初期の訓導であっ た田中末広も、それを受けて「体操はほとんどやりませんでしたね。近くの穴八 幡などの、お宮やお寺へ連れて行く。散歩でしたね。戸山ヶ原などに行って、そ こで自由に遊ばせていました」と証言している(16)。
創設趣意にも、「要するに教育上の生物的発生学的見地からして児童固有の心 身教育の過程を重んじ、なるべく児童をして遠き祖先の原始的生活を繰り返さす ことによつて、心身の健全なる発達を図ります。此点から云へば、体育として、
かの人為的な体操の如きよりも、児童の自然に愛好する遊戯を重んじたいと思い ます」とある。これは、子どもに必要なのは、運動の技能を高めることでもなく、
まして教師の号令に忠実に合わせることでもなく、都会で生まれ育ちながら子ど もが「健全な発育」をすることであり、そのためのカリキュラムを成城小学校の 教育に取り入れていくという、体育面の改革に通ずる宣言であるといえよう。
このように「自然に親しむ」ことは、子どもたちに体力面の増強に効果的であ るが、同時に教室から解放されて自然から大いに学ぶという点についても有効で あることも、この項目では指摘している。それが「自然科」(Nature Study)の導 入である。このことは、如何に当時沢柳が「自然科」に強い関心を示していたか を物語っている。沢柳は、当時アメリカの学校で行われていた「自然科」として の理科について研究していた和田八重造と懇意にしており、彼を成城中学校に招 聘すると同時に成城小学校における理科の研究顧問とした(17)。沢柳にとって「自 然科」は、国語教育と同様重要な位置にあり、成城小学校における重要な教科の 一つである。それは、子どもは教室でだけではなく、自然の中における遊びの中 でこそ学ぶのだという強い信念を初期成城小学校で共有していたということを意 味するであろう。
(3)「心情の教育」と「鑑賞の教育」
3の「心情の教育」では、子どもが教師からの人格的な影響を強く受けること を注視し、そのためには教師自身が何よりも子どもを愛し、子どもを理解できる ことが大切であることを主張する。そうした教師と子どもとの関係は、「真に人 格対人格の関係で、心から心への教育」を期待している。そして「かの道徳教育 とか、美育とが、宗教教育(成立宗教の教育ではありません)とかは、皆教師其 の人の人格によつて解決される事と信じます」と言い切る。これは、徳育は、教 師と子どもとの関係性によるのだという主張に他ならない。修身教育の開始を1 年から4年にするという沢柳の持論と考え合わせると、それはまさに徳育の改革 として考えることができる。そしてその徳育を可能にするのは、「第一資格とし て子供を愛好し、子供の気分、興味、欲望を理解し同情しうるほどの敏感な〔心〕
を持つてゐる」教師なのである。
また、徳育を含めた情操教育という意味では、芸術に触れさせることを非常に 重視し、芸術教育を通じた子どもたちの心情への感化を目指していくという意気
込みがこの項目から読み取ることができる。それは、「唱歌」ではない「音楽」、「手 工」ではない「美術」という教科名に現れている。創設趣意にも「従来、唱歌や 図画や手工を単に技能科として生徒の発表的方面にのみ力を入れて、感傷的方面 を閑却してゐるのは誠に遺憾の事であります。単に歌はせ、画かせ、作らすのみ ならず、名曲名作をきかせ、見させては趣味を高める事をしたいものであります」
と述べている。この点に関しては、成城小学校が都会の学校であり、通学するの が「東京の中流以上の家庭に育つた」(創設趣意)子どもたちであることを意識 していることが見てとれる。
(4)「科学的研究を基とする教育」
上記の3項目を全体として取りまとめるのが4の「科学的教育を基とする教育」
である。そしてこれこそが、成城小学校の他校とは異なる大きな特色である。
沢柳は、以前から小学校教育の改善のための研究が、小学校教員自身の中から 出てくる必要を説いていた。それは、多くはいわゆる教育学者たちが大上段に構 えて行う研究ではなく、日頃の小さな疑問から、経験の中で生ずる課題に対する 研究であり、「教育の学理に科学的の根拠を与へやうとするには、ぜひとも小学 教育の実験に基礎を置くの外はない」と考えていた。それこそが、「小学教育の 改善」につながるのだという信念を持っていた(18)。
本来は、高等師範学校や各府県の師範学校附属小学校は「一面に於て卒業生の 練習機関たると共に更に他の一面に於ては小学教育の研究機関といふ任務を有し て居る」はずであるのに、実際は「単に練習機関と云ふ方面にのみ利用せられて、
何等研究上の結果は発表せられて居ない」ために「日本の小学問題の総てが悉く 未解決の状態に置かれてあるといふ始末である」と批判するが、まさにそれが沢 柳が私立小学校を創設しようとした理由であった(19)。
沢柳自身、小学校開校に向けての準備期間にさまざまな論考を発表し、小学校 における研究課題や課題になりそうな題材を述べている。先の論考においても
「早速やつて見たいと思ふのが二三ある」として、一クラスの人数や男女共学の 是非、教科目の内容や教授方法などをあげており(20)、それらは、創設趣意に「極 めて大体の見当に止まるもの」であるため、それについて研究を重ね、「一面に
は本校児童教育の改善を図り、一面には教育的理論の確定に貢献」することを目 指していた。そのためには、教師は同時に研究者となる必要がある。つまり「科 学的研究の素養あり、且つ其の精神の旺盛なる者を訓導とし、教育的研究を実際 と一致」させることのできる教師を望んでいたのである。それが、「理論せる実際、
実際化せる理論即ち真の意味の研究的学校」となるための必要条件であった。
その後もこの姿勢は、沢柳は終生変えなかった。当時の訓導たちは、そうした 沢柳の研究への熱意、訓導たちへの希望を語っている。
たとえば、訓導の稲森縫之助(1923(大正12)年7月~1928(昭和3)年3 月まで在職)は、『教育問題研究』の沢柳追悼号において、沢柳が常々職員会の 席で話したこととして、「教育の改造は教育の実際にまたなくてはならぬ。勿論 教育学も必要だが、最も根本になる所のものは実際児童の実際研究であり、児童 の上に立つ科学的研究である。議論は議論として議論の余地があるが、実際の上 に立つた研究は議論でなく議論の余地のない権威である。成城小学校は此意味に 於て児童の実験的研究の上に立つ教育を求める所のものである」という言葉を紹 介している。それを受けて稲森は、「すべての教科に於ても文部省要目文部省教 科目を墨守しない成城小学校の実際は、物新しく主張すると云ふ事でなく、研究 学校としての当然の帰結である。研究なるが故に教育の主義と云ふものがない。
無主義の主義である」と主張している(21)。
この「無主義の主義」こそが、成城小学校の研究の真骨頂であるといえよう。
4.教師による研究の重要性
(1) 教師による教育研究
こうして成城小学校において、研究学校としての日々が始まった。個々の研究 テーマは、訓導に任せられてはいたが、大きなカリキュラムとしては、かねてか ら沢柳自身が研究してみたいと述べていた教科の始期の変更、30人学級、春と 秋の二重学年制がとられていた。
研究の成果というのはそれ程早く出るものではないが、それでも成果がまと まったものについては、さっそく発表、出版された。その最初が1919(大正8)
年に出版された沢柳政太郎・田中末広・長田新著『児童語彙の研究』である。こ の著書は、当時評判になっただけではなく、沢柳自身非常に自信を持って紹介し ていたものである。この時のことについて、実質的な研究の当事者であった田中 末広は、次のように述べている。
私がまとめた「児童語彙の研究」が成城小学校研究叢書の第一巻として出 版された時、沢柳先生が色々な学者や教育学者に見せて、成城小学校で研究 したら、入学の時の児童というものは、三千から五千の言葉を知っているも のだということを話されたそうです。しかし心理学者も教育学者も、沢柳先 生がいっても信用しないというんです。信用しないといったって、実際調べ た結果が、この通りなのだと、だいぶ方々で話されたのですけれども、それ を人々がほんとうだと思うようになったのは、ずいぶんあとらしいんですね。
(中略)先生も父兄にはもちろん、教育学者、心理学者までが、学校に入っ て初めて言葉を学ぶのだ、教えるのだと思っていたのですね。そういう考え を、それで破ることができたのです。(22)
この研究は、入学前の子どもの語彙力を具体的に知ることによって、国語教育 においてどのレベルのものをどのような方法で教授するかという基準を作るため の最も基礎的な研究であるにもかかわらず、これまでだれも行わなかったもので あった。田中は続けて、「研究の動機は、沢柳先生が初めからいっていました。
一体小学校に入学する子供はどのくらい言葉を知っているのだろうか。そして入 学してから、言葉をどれだけ教えたらいいのか、その目安がつかない。(中略)
どうしてもこれは早くやらなければならない。それで、国語教育を研究していた 僕が、語彙の調査をしました」(23)と述べている。
この研究のために、複数の辞書を丹念に調べて、子どもが知っていそうな言葉、
それより少し難易度の高い言葉などに分類して、調査する語彙のリストを作り、
それについて一人ひとりに対して聞いたことがあるかどうかの調査を行った。そ れらのデータを統計的にまとめあげたのが、『児童語彙の研究』であった。沢柳 は序文で、この調査の国語教育への重大な意味を述べている。そもそも国定の国 語読本は、子どもの持つ語彙数が非常に少ないことを前提に編集されているから、
もし2500なり3000なりの語彙を子どもが持っているとするならば、「国定読本
は根本的に修正を為すを要し、国語教育も全く其の面目を新たにすべきである」。
しかも、それだけの語彙数を持っているということは「児童の思想の非常に豊富 なるを証するもので、此の点より小学教育全体の根本的革新を生ずることが」あ るのではないかと期待したのである。ところが、実際は平均4000語であったと いう結果に、沢柳自身驚くとともに、大きな手ごたえを感じたのではないか。「我 等は実に是れまで児童の能力を見誤りてゐたのである。啻に国語教育ばかりでな く、児童の教育全体は根底から改めなければならぬ」と、興奮気味の文章となっ ている。
この研究の手ごたえと反響は、沢柳のみならず訓導たちにとっても励みになっ たようである。そして、その後、創設から3年目の1920(大正9)年に雑誌『教 育問題研究』が発刊された。それについて沢柳は、「開校後3年にもなり、短日 月とはいへ此間に多少の研究と称すべきも出来た感を抱くに至つた。其纏まつた ものは之を単行本として世に問ふ考であつたが、之を一冊の書物にするでなく、
しかし世に問ふて見たいと思ふことも常にあるので、それで本年四月即ち成城校 開校満三年から「教育問題研究〔」〕なる雑誌を発行することになつた」(24)と述 べている。
教育研究の当事者はあくまで教師であり、その方法はあくまで実地的研究であ ることを求めた沢柳たちにとって、『教育問題研究』は、成城小学校における研 究の発表の場であると同時に、全国の教員たちとの研究における交流の場とも なった。そして、その研究の課題を彼らと共有しようと考えていた。つまり、公 立小学校であれば法規上あるいはそのほかの理由で自由に研究できないもので あっても、私立小学校である成城小学校ならばできるものもあるだろうから、そ うした問題を提出してほしい、その代わり、自分たちの行った実地的研究でとり いれられそうなものについては、ぜひとも公立学校でも取り入れてみてほしい、
というのが沢柳の願いであった。それが、研究学校としての成城小学校の真骨頂 であり、役割であり、「公立校と私共との間に常に研究上の連絡を保つ」方法で あると考えたのである。
『教育問題研究』では、成城小学校の教師たちのみならず、全国の教師たちに 対しても「どうぞ諸君は此の雑誌を御自分の雑誌だとお思ひ下すつて、遠慮のな
い御批評をどしお送り下さい。又諸君の御研究になつたもので御発表を望まるゝ ものは論説、研究、実験其の何たるを問はず、内容の立派なものでさへあれば、
諸君の労作として本欄の頁を割くことを惜しみません」(25)と投稿を呼び掛けて いる。こうした研究交流が広がることによって、教師自身による研究が当たり前 になることを願っていたともいえよう。
(2) 研究方法への示唆と教員の「必読書」
沢柳は一方で、教師が研究をするにあたって、さまざまな研究の方法論につい ての論文を発表し、教師の行うべき研究は単に理論的なものではなく、教育の現 実に即したものであるべきことを再三繰り返している。それは、『教育問題研究』
の第1号から数号にわたって掲載された、「小学教育の改造」(第1号)、「小学教 育学の建設」(第2号)、「問題のつかまへ方と研究の方法」(第3号)、「再び問題 の捉へ方と研究方法について」(第4号)「成城小学校と教育の研究」(第10号)
などの一連の研究方法論についての論文群である。
沢柳は、日々教師たちに接する以外に、こうした方法論を提示することによっ て、成城小学校以外の教師たちにも教育研究の重要性とその具体的方法について 提示していた。特に沢柳は教師たちに「実際の成績」ということを言っていたと、
訓導の一人であった河野照治(1924(大正13)年4月~1926(大正15)年3月 まで研究員)は証言している。「理論も研究する必要があるが事実の上に立つて 実績を示した理論が欲しいと語ってゐられた」(26)というのは、常日頃の沢柳の 口癖のようなものだったのであろうと思われる。
また、沢柳は教師たちに必読書を指示していた。そのことについて田中末広は、
次のような述懐をしている。
そのころ、教育に関する本で、われわれの必読すべきものが三冊あった。
新教育をするには、ぜひ理解しておかなければならないというのです。
ルソーの「エミール」ホールの「青年期の研究」それから、(中略)だれ かの翻訳で「新教育の理論と実際」という本が当時あったんですが、(中略)
この三冊をわれわれは必読書にさせられました。それが沢柳先生だったか、
藤本先生だったか――おそらく両方でしょうが、そういう精神でやってく
れというわけです。うんと読みましたよ。(27)
沢柳は、就学前教育については明らかにルソーの自然主義に影響を受けていた
が、(28) 小学校教育について同様であり、成城小学校の教師たちにもそれを求めて
いたことが分かる。また、スタンレー・ホールの『青年期の研究』は、青年期の 心身の発達とそれに伴うさまざまな行動について詳細に分析した大著である。そ こには、知力の発達と教育との関係についての章も含まれており、当時の教師た ちは相当読み込み、参考としていた。それらに加えて新教育に関する概略を知る ための著書を読むことが教師たちに求められたのである。
このようにして、沢柳は、教師たちに研究の必要性とその方法論の提示と教育 についての教養を深めることと促していたことが分かる。
5.教師の研究に対する支援
(1)研究会の開催と「同人」
沢柳は、教員たちの研究を支えるために、月に一度の研究会には都合のつく限 り参加した。そして、その研究に対して常に助言を行っていた。そのことについて、
たとえば森徳治1920(大正9)年10月~1928(昭和3)年3月まで在職)が次 のような証言をしている。
沢柳博士は、校長としての態度で我々に臨まれたことは一度もなかつた。
いつでも「同人の一人」として応対された。とくに一人一人の研究に対して は熱心にそれを見守り、研究物は必ず読んで我々を激励しかつ助言を与えら れた。これについては博士の下で働いた誰もがそれぞれ懐かしくも心温ある 思い出の数々を持つている。博士は忙がしい身でありながら研究会にはつと めて出席していつも建設的な批評をされた。ピアジエの心理学を日本で初め て紹介されたのもこの研究会の席上であつて、たしか大正十一年の頃であつ た。ダルトン・プランは周知の通りである。この「同人の一人」という博士 の観念の中には、新教育の育成は、先ず学校の教員組織の民主化から出発す べきであるという意味が含まれていた。成城の新教育運動が強力に伸びてい つた最大の原因は、実にこの教員組織や研究会のデモクラチックな運営にあ
つたと言える。(29)
この「同人」という表現は、当時の成城小学校の教員たちの関係性を捉える上 で、最も重要なものである。
彼のこうした証言を裏付けるかのような証言は、他にも多くの教師たちが行っ ている。
村上 とにかく、遠慮するな、何でも言えというんです。
真篠 そのくらいまでやれと言うんですから……。
田中 校長も何もない、学問の前には、研究の前には先輩も後輩もないのだ、
言うべきことは遠慮なしに言うという調子ですから、みんな意見を述べ ました。真理の前には平等だという態度です。(30)
沢柳は、こうした徹底した平等性を非常に重んじていた。
さらに、公式な研究会の場だけではなく、折に触れて訓導たちの研究テーマに ついて話しかけることもあった。たとえば、沢柳の晩年に成城小学校の訓導となっ た堀川掬(旧姓石井。1925(大正14)年8月~1962(昭和37)年3月まで在職)
は、次のように述懐している。
私のような若輩の事など、心にとめておられようとは考えてもいませんで した。ある時の事、「君の研究はこれこれだったね。……大学の・・教授にあっ たら参考になるかもしれないよ」といわれて驚いたことがありました。外国 から帰えられた時だったか、研究に関係した本を頂いたこともありました。
面と向ってとやかくおっしゃる方ではありませんでしたが、いつも職員の研 究に心にとめて、援助してくださる方でした。秘められた誠実さとか、個人 の進歩発展とかいうものが、偉大な教育力であることを無言のうちに教えて 下さったのも沢柳先生でした。(31)
こうした思い出は、上述の森の証言どおり、枚挙に遑がない。沢柳の謦咳に触 れた者は、すべて同じような経験を持っている。そうした沢柳の偉大な包容力の 下で、「安心して研究にいそしんで」(32)いられたのである。
(2)教師の留学や進学の奨励
さらに、沢柳は、教師たちに対して研究に対する助言を行うだけではなく、さ
まざまな形で「援助」も行っていた。その一つが、留学や進学に対する援助である。
成城小学校の訓導は、その途中で海外留学や帝国大学などへの進学をしてい る者も少なくない。たとえば、1921(大正10)年には真篠俊雄がベルリン音楽 学院へ3年間行っているし、奥野庄太郎は1922(大正11)年からアメリカへ、
1923(大正12)年には森徳治、それ以外にも脇田庫雄、田中末広などが欧米留
学を果たしている。
海外留学だけではなく、帝国大学などに入学するケースもあった。研究を続け、
切磋琢磨する中で、自身の勉学の不足を感じたり、研究内容をさらに深めたいと いう様々な理由で、一時小学校を離れた者も少なくなかった。その多くが京都帝 国大学や東北帝国大学へ進学していた。そのころの雰囲気について、当時訓導で あった浜野重郎が、「私などが仲間入りしたころの先生方はすでに天下に名をな した人もいる、それにまけまいと落合さんでも内海君、渡邊君、谷口君、皆猛烈 に勉強していましたね。それに刺激されて私も四、五年神田に通いましたよ」と 証言している。(33)
(3) 研究成果の出版援助
さらに、著作の出版援助も少なからずあった。
援助と入っても、いわゆる出版助成ではない。成城小学校が、財政基盤が非常 に乏しかったのは、当時から有名であった。学校にかかる経費はすべて父兄から の授業料で賄っていた(授業料は最初月3円、のちに4円となる)。それは、三 菱財閥が後ろ盾となっていた成蹊学園などと決定的に異なるところである。いく ら「犠牲の精神に富んだ」教師であっても、生活できなければ十分な教育も研究 も出来ないことは、沢柳自身が理解していた。その苦肉の策として、成城中学校 との兼任という訓導も少なくなかった。たとえば村上瑚磨雄は1917(大正6)年
7月13日から1919(大正8)年3月31日まで成城中学校の外国語科(ドイツ語)
の教員を兼任していた。それ以外にも、田中末広や藤本房次郎なども成城中学校 で教鞭を取っていた(34)。このことについて、村上や田中は、次のように述べて いる。
村上 小学校にまだ充分金がなかったものですから、私は中学校の先生の辞 令をもらっているのです。成城中学校の方が金が残っている。それで 中学がすんだら小学校にいく。
田中 私も同じようなことがありました。諸見里君と一緒に中学校の寄宿舎 の舎監を兼任していたことがありました。
いろいろ考えて、人件費を節約されたのでしょう。(35)
そのことを理解していた沢柳は、教員たちの研究の発表も促していた。それに ついては、この発言の後で、田中が、いい研究をすれば世間から認められるし、
そうすれば著書の出版、雑誌社からの原稿依頼、講演依頼という形で収入を得ら れる可能性があるから、沢柳が研究成果を発表することを促していたと述べてい る。同じようなことを稲森が証言している。
先生が常に言われた。成城に於ける研究が雑誌を通じ著者を通じて公にす る事は最も必要なる事である。しかもそれによつてえらるゝ報酬と云ふもの は最も正当なものである。正当な報酬は当然受けるべきである。(中略)著 書や雑誌による正当な報酬を望まれた。(36)
しかも沢柳は、そのために積極的に自分を利用するようにと教師たちに話し、
喜んで紹介の労を取り、頼まれれば序文を書くことも厭わなかった。
また、教師たちが研究の成果をまとめて著書にする時のユニークなエピソード については複数の訓導たちが証言しているが、ここでは平田巧の証言を紹介する。
本を一冊出すときにはおもしろいのです。研究発表と称して、本を書いた 者がその本の概略を発表するわけです。そのあとで、書いた者が、そこにお る職員にどんぶり一杯ずつおごることにきまっておったんです。そうすると、
沢柳先生も一緒にそれを食べて、そしてお互いに批評し合って、かなり突っ 込んだ議論をしたことがあるんです。(37)
この研究会における議論が、実質的な試験になっていた。この研究会で合格す れば、晴れて出版が叶うことになった。
このようにして、成城小学校では、様々な研究支援がなされていたのである。
6.批評しあう教師たち
成城小学校においては、クラスは基本的に入学してから卒業するまで一人の教 授が継続して担当していたため、教師と子どもたちの関係性は非常に濃く、その 意味では「学級王国的」といえる。しかし、こと研究に関していえば、教師たち はこれまで見てきたように、さまざまな助言や支援を受けつつ、常に自らをきた え、切磋琢磨していた。
切磋琢磨といえば成城小学校では、実際の授業を教員同士公開しあい、批評し 合うということも行っていた。
『教育問題研究』では、第12号から不定期にではあるが、「○○君の△△実地 授業」と題した研究授業の記事が全22回掲載された。そこでは、教授者の氏名 や実施したクラスと共に、授業の内容や子どもたちの様子、授業後の批評会に至 るまでを詳細に報告されている。
その後も、教師同士の授業見学とその批評が行われており、時々『教育問題研 究』に記事が掲載されている。例えば「一記者」による「学習室巡り」のシリーズ、
「批評会」による「研究教授記録」のシリーズは、授業の実際の様子だけではなく、
その時の教師たちの赤裸々な議論の様子が見られて非常に興味深い。
このように、成城小学校では、まさに訓導たちが「教えつゝ学ぶ」ことを実施 し、教育の研究に日々努力していたのである。
7.成城教育のひろがりと研究の「限界」
(1)成城を巣立った教師たち
初期の成城小学校の別の側面として、成城小学校訓導から別の道に進んだ者が 少なくなかったということがあげられる。実際、かなり短い間にやめてしまう訓 導も少なくなかった。それは、必ずしも個人の能力の不足ということではなく、
「学園という現場にマッチした人材が確保出来ていない、つまり新任採用の失敗 ということのほうが根本的問題なのではないだろうか」(38)という指摘があるが、
学校内の問題からいえば、その通りであろう。しかし、教員の採用としては「失
敗」であっても、その教員自身のキャリアに即して考えるならば、必ずしも「失 敗」とは言い切れない部分もあるのではないだろうか。
実際、成城小学校を何らかの理由でやめざるを得なかった元訓導たちではある が、彼らは決して沢柳の成城教育に不満を持っていたわけでもなく、沢柳に追い 出されたわけでもない。一見そのように見える者でも、沢柳は決して彼らを見捨 てはしなかった。
稲森は、そうした沢柳について「先生が職員を指導せらるゝに当つては常に其 人間の人間の長所を見て行かれる事であつた。職員として一面欠点があつても此 欠点の為にとやかく云ふ様な事は一切せられない。(中略)人間の長所を見て長 所を発揮し長所に見どころを定められた様である」(39)と述べている。
そうして成城小学校を「巣立って」いった元訓導たちの中には、新しい学校を 創設したものも少なくない。例えば、ドルトン・プランに傾倒し、その実践の場 として新たに明星学園を設立した赤井米吉、故郷である近江に帰り、昭和学園を 創設した谷騰、沢柳亡き後、清明学園を設立した浜野重郎などがそうであるが、
それだけではなく、奥野庄太郎などのように教育関係の出版社を創設した者、大 学での研究を選択した者、郷里や新天地で公立学校の教員となった者など、その
「巣立った」先はさまざまである。しかし、その「巣立った」先々で、沢柳の薫陶は、
彼らの中で生き続けたと考えることができる。つまり、彼らによってこそ、成城 教育は全国各地に広がることができたということも言えるのではないだろうか。
(2)成城小学校における研究の「限界」
ところで、成城小学校における研究テーマについては、沢柳自身、その研究関 心は広くなる一方であったようである。当時、小学校の校長職をなげうって成城 の研究生として上京してきた河野照治は、沢柳に話を聞きたいと、数名で沢柳宅 を訪れたときに、沢柳が次のように語ったということである。
成城小学校創立趣旨の一つは、小学校教育の改善と成績向上の道を事実に よつて示したいとの願である。
教育の理論はよほど明瞭になつてゐるが、事実斯の通りであるといふ実験 上の力強い証明が欲しい。同人諸君は、誠実な研究実行の下に、この成績向
上方法改善の道を開拓して欲しいのである。それで諸君は常に何か問題をも つてゐて教育のために自由に試みられてよいのである
この沢柳の言葉に、河野はいたく感動し、「覚醒し反省して、真実の悩と努力 とによる体験の下に立つて、真の教育の道へと進まねばならないやうに」感じた という。さらに沢柳は、就学前教育、師範教育の改善、女性教員の問題、修身教育、
学校休暇問題と改善、学習時間と休憩時間の問題などといったさまざまな教育問 題について「或は欧米の状況を語られ、或は実際研究問題を告げられ、ホントに 慈父が子を諭されるやうな懇なお話、一つが私共同人への道の暗示であり諭」の ような調子で語ったという(40)。
このように、沢柳の研究への熱意とその課題が広がりを見せるとともに深まる こととなった。しかし、それが実際の教師たちにどこまで伝わったかは、実は不 明である。
むしろ、沢柳自身、少しずつ教師たちの「研究」に不満といえないまでももど かしさを感じていたようである。そのことについて中野光は、沢柳が赤井米吉に あてた手紙の中に「成城のごときも、研究の方法、実地研究の方法に於て世間の 学校の如く頗る不十分の所が多いと存じます」という文言があることを指摘し、
「沢柳は自らの成城学園の教育研究が「研究の方法、実地教育の方法」において 不十分であることを厳しく自覚していたのだった」と述べる(41)。それは、しかし、
成城小学校の教師たちの中にどこまで通じていたであろうか。その状況は、中野 が指摘するように、成城小学校が「実験研究校としてよりも教育改造運動0 0の中心 的な存在になっていった」ことと無関係ではあるまい(42)。さらに初期成城小学 校において重要な研究をしていた教師たちは、沢柳の存命中より一人去り二人去 りして、沢柳の死後牛込から砧に完全に移転した成城小学校には、直接沢柳から
「教えつゝ学ぶ」ことの意味を教えられた教員は、ほとんどいなくなってしまった。
8.おわりに――教師の「自由」と研究学校としての成城小学校
成城学園創立40周年を記念して行われた旧教職員の座談会「成城小学校の誕 生」では、教師たちの研究について、沢柳がどのように考えていたかについて、
次のような平田巧の発言がある。
平田 研究発表をしなければならないはずの多くの学校が、何ら研究発表 をやらない。だから、ここではひとつ研究発表をどんどんやろうじゃないか と沢柳先生は何度もおっしゃっておられました。(43)
初期の成城小学校における研究に対する教師たちの意欲は、沢柳にとって大変 頼もしいと感じさせるものであった。そのためにも、沢柳は教師たちの自由を認 めていた。この点に関しては、上述の稲森縫之助が次のようなことを証言してい る。
先生が職員に常に言われた。諸君が成城小学校に奉職してゐるのは、決し て校長に雇われてゐると云ふ関係でなく、自分が自分の学校へ来て自分の教 育理想を実現するために来てゐると云ふ事である。職員の自由が相当認めら れ教育の実際に当つては如何様な研究をしやうとそれは全く自由であつた。
この自由あつてこそ実験的研究の学校として立つてゐる意味が十分認められ る様に思ふ。
先生が時々学校へ来ては教室を廻られた。時には一教室に一時間も居られ る事もある。けれども批評などは一切せられない。子供の学習を見ては常に ニコしてゐられる。可愛い子供が先生に取すがつて「先生のうちどこ」なん て問ふてゐる場面など私には忘れ難いものがある。授業がすんでから学習の 状況や実験的研究の実際を聞かれたりする場合もあつた。(44)
この、突然授業中の教室に入り、子どもたちとともに授業を受けるという沢柳 の思い出については、稲森以外にも多くの教師たちが証言することである。しか も、その様子はいかにも自然で、教師に対しては批判めいたことは一切しなかっ た。
この、職員に対する徹底的な自由は、成城小学校にとって最も重要なものであっ たと思われる。つまり、成城小学校における自由は、子どもたちにとっての自由 であると同時に教師たちにとっての自由であったのである。彼等は自由に研究し、
そして互いに切磋琢磨してきた。そうすることによって、沢柳のいたころの初期 成城小学校は、研究学校としての面目を保っていたと考えられるのである。
注
(1) 小原國芳「復刻に際して」『八大教育主張』復刻版、玉川大学出版部、1976(昭和51)年、
4頁
(2) 「旧職員座談会 成城小学校の誕生―成城小学校小史(一)―」『成城教育』第4号、
1957(昭和32)年10月、50頁
(3) 沢柳政太郎「余が小学校長となつた理由」成城学園沢柳政太郎全集刊行会編『沢柳 政太郎全集』(以下『沢柳全集』)第4巻、1979(昭和54)年所収、89頁。初出は『実 業之日本』第19巻第23号、実業之日本社、1916(大正5)年11月
(4) 森徳治「【記録】成城小学校の自由教育」井野川潔・川合章編『日本教育運動史1明治・
大正期の教育運動』三一書房、1960(昭和35)年、121頁
(5) 藤本房次郎「新に開校せる成城小学校の実況」『帝国教育』第418号1917(大正6)
年5月、78頁 (6) 同上
(7) 前掲(2) 68頁。ちなみに、平田はそこで自分が採用試験のなくなってから同人になっ
た第一号であると証言している。ただし、落合盛吉によると、採用試験はなくなった が、沢柳によるいわゆる「口頭試問」はあったとのことである(「牛込の成城・砧の 成城―成城小学校小史(二)―」『成城教育』第5号、53頁)。落合は、1922(大正 11)年10月~1933(昭和8)年9月まで在職
(8) 創設趣意は、前掲(5) 藤本房次郎「新に開校せる成城小学校の実況」記載のものを 参照した。なお、創設趣意には各所に強調のための傍点が付されているが、本稿の引 用においてはすべて省略した。以下同様。
(9) 前掲(2) 50頁 (10) 前掲(2) 51頁
(11) 「小学教育」『沢柳全集』第4巻、259頁。初出は成城小学校編『児童中心主義の教育』
第日本文華株式会社出版部、1919(大正8)年 (12) 同上263頁
(13) 同上268~269頁 (14) 前掲(5) 藤本79頁 (15) 同上
(16) 前掲(2) 60頁
(17) 和田は小学校において実際に教鞭をとってはいないが、和田の指導によって成城小
学校の教師たちは、理科の指導を行っていた。和田八重造は1918(大正6)年1月か
ら1928(昭和3)年3月まで成城中学校の博物科の教師(成城中学校高等学校『成城
学校八十年』1965(昭和40)年「現旧教職員」)。
(18) 前掲(3) 88頁 (19) 同上 (20) 前掲(11)
(21) 稲森縫之助「校長としての沢柳先生」『教育問題研究』第96号、1928(昭和3)年3月、
23頁
(22) 前掲(2) 61~62頁 (23) 同上
(24) 沢柳政太郎「成城小学校と教育の研究」『教育問題研究』第10号、1920(大正9)
年10月、69頁
(25) 「編輯室」『教育問題研究』第2号1920(大正9)年5月、100頁。執筆は奥野庄太郎。
奥野は1918(大正7)年11月~1929(昭和4)年3月まで在職。
(26) 河野照治「御指導を受けし日の追憶」『教育問題研究』第96号、1928(昭和3)年3月、
77頁
(27) 前掲(2) 59頁
(28) 沢柳の就学前教育観に関しては、拙稿「沢柳政太郎の就学前観」(『成城大学共通教
育論集』第8号所収)を参照されたい。
(29) 森徳治「教育発達史から見た成城教育」前掲(2) 29頁
(30) 掲載(2) 67~68頁
(31) 堀川掬「沢柳先生の思い出」成城学園初等学校『堀川掬遺稿集』教育改造・特集号、
1973(昭和58)年、96頁
(32) 渡邊煕一「追憶」前掲『教育問題研究』第96号、64頁。渡邉は1924(大正13)年
4月~1930(昭和5)年3月まで在職。その後、浜野重郎と共に清明学園創立に参画
している。
(33) 前掲(7) 57頁。ちなみに、浜野は成城に在職しながら日本大学高等師範部国語漢文
科に通い1928(昭和3)年3月に卒業している。
(34) 成城中学校高等学校『成城学校八十年』「現旧教職員」。田中と藤本は国語漢文科。
他には、修身公民科に長田新、小原國芳、多田義延、長岡邦雄(旧姓海老原)、図画 科に霜田静志、音楽科に真篠俊雄の名前がある。外国語科には、村上の他ブリッジス の名前もある。村上については、1918(大正7)年8月には小学校を退職していたが、
その後もドイツ語を教えに中学校に来ていた。(前掲(2) 68頁)
(35) 前掲(2) 56頁 (36) 前掲(21) 26頁 (37) 前掲(2) 66頁
(38) 荒垣恒明「[史料紹介]小原國芳による問題点申告書」『成城学園教育研究所研究年
報第35集』成城学園教育研究所、2015(平成26)年3月、86頁 (39) 前掲(21) 25頁
(40) 河野照治「同人の道」『教育問題研究』第61号、1925(大正14)年4月、166~
167頁
(41) 中野光「解説(四)澤柳政太郎の学校論」『沢柳全集』第4巻、488頁
(42) 中野光『大正自由教育の研究』黎明書房、1968年、136頁。傍点はもとから。
(43) 前掲(2) 64頁 (44) 前掲(21) 24~25頁