昭 和
63
年
3
月
第
5
号
布教研究所報
昭 和
63
年
3
月
第
5号
目
次
集中研究会指導講義 現 代 に お け る 精 神 的 危 機 と 浄 土 教 ・ ・ ・ : : ・ . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : : ・ . . . . . . . . . . ・ ・ ・ ・ ・ ・ : : : ・ ・ ・ ・ ・ ・ : ・ ・ ・ ・ : : ・ ・ ・ ・ ・ 河 研究所員研究成果報告 高 齢 化 社 止』 Zミ を 迎 え て 稲 新興住宅地における布教││僧侶と都市開教 l i -: -j i -: : : j i -j i -: : : : -j i -三 現 代 布 教 の 考 察 五 十 嵐 現代布教上の課題凶││機の自覚について│l
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 羽 人 間 法 然 上 人 な ら う 有 ﹁念ずれば 花 ひ ら く ﹂の 句 碑 の 建 立 と 本 願 念 仏 の 接 点 : : : : : : : : : : : : : j i -: -J J ・ -- 村 聴 視 覚 教 材 を 使 っ た 布 教 の 試 み ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 村 別 時 念 仏 と 布 教 井 ー「 鎮 西 」ー ペコ し、 て 村 救援活動と教化││東京教区青年会の場合 l l -j i -: : j i -: : : : : : j i -: : ; : : : : : ・ 遠 波 キ す 輪 回 本 中 中 藤 烏 田 回 目 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 4 博 道 : : -M 和 信 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 却 祐 晃-- -- H H
恵4
9
亮 啓 : : : 臼 成 信 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 日 成 信 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 臼 憲 ー,ノ l~ 71 邦 俊 76 弘 賢 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 別 - 1 ー脳 死 生 命 問 題 の 課 題 佐 現代における浄土宗の妙好(往生)人伝ーーその資料の蒐集の問題点と将来への展望 l i -: : 市 教学布教大会一一般研究発表 仏教を保育に生かす一試行││家庭教育の提携について││ - ・ ・ ・ ・ 家
D-E
・
S │ │ 臨死問題研究会三年の歩み l l -: : : : j i -: : -j i -j i -: : -j i -: : : : 藤 教学布教大会意見発表 藤 J 11 回 木 雅 彦-M
隆 士 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 回 陸量 現 ・ : ・ : 問 山 雅 清 100 現 代 ~ 危 機 を ど う 把 ズι る 台、 106 輪読会報告 本 対 日召 授 菩 薩 戒 儀 附 解 説 140 支 報 184 編 集 後 記 187 - 2現代における精神的危機と浄土教
東洋大学教授河
日 13波
現代は浄土教を要求していないのかっ
病人の治療に当たる場合に 、 病人の症状がどうであるかをまず分析してそれから治療にかかる必要 があるわけですが 、 浄土教という一つの宗教をそういう医療にたとえますと 、 現代がいったいどうい う症状を呈しているかということをまず分析してかからなければ 、 ほんとうに効果のある教化 、 浄土 教的な救済というものは望めないと思います 。昔から浄土宗では時機相応ということを申 します 。時 代を離れて教義はないという 。ですからことさらにそういうことが 問題にな ってくるわけです。 大ざっぱに言えば、その時代時代によって病気の症状にそれぞれ特色があるんじゃないかと思うわ - 4一けです。例えば古代においては﹁死﹂ということ、あるいは ﹁生死﹂とも言えると思いますが、 それ が非常に大きな問題になりました。もちろん﹁死﹂とは永遠の問題で、古代に限定されるわけでなく、 現代でも様々と反省してみれば、﹁死﹂という問題に直面するわけですけれども、 一応、﹁死﹂が誰に とっても大きな問題となったのは、古代ということになろうかと思います。 中世になりますと、﹁罪悪﹂という問題が、特に大きな問題になってきます。古代にももちろん罪 悪意識はあったわけですが、 むしろ中世というのは、深刻にこの ﹁罪﹂という問題が意識に上った時 代だと思います 。 る精神的危機と浄土教﹂という問題を捉え直してみますと、 このニヒリズムの思想、 これは私の専門 - 5ー きて、現代の最大の病は何かと言いますと、 それは、私はニヒリズムだと思います 。 ﹁ 現 代 に お け でもあるわけですが、 これが時機相応ということで、あらためてクローズアップされます。そこで今 はやりの言葉を使いますと 、 ﹁ ニ ュ l 浄土教﹂とい うような言葉で私は次のように考えてみたいと思 い ま す 。 た と え ば 、 ごく最近の自然科学は急速に展開してまいりまして、 一 ュ l サイエンスという言葉が叫 ばれるようになってきております 。そ れはニュートンが考えたような、私たちの世代までが考えてい た科学とはおよそ変わってしまった新しい科学が登場しつつあるわけで、 それをニュ l サ イ エ ン ス と いうんです。 こ の ニ ュ l サイエンスという言葉になぞらえて ﹁ ニ ュ l 浄土教﹂というものを仮に考え
て、そして話してゆけば、ある程度問題点がはっきりしてくると思います。
古代と中世に関しては、浄土教は非常に大きな役割を果たしたと思います。というよりも時代が浄
土教を要求したわけですね。生死とかあるいは死に関する問題の解決のためには、
みんなが必然的に
浄土教というものを要求したわけです。
で
、
それに浄土門も真正面から対応することができた。ちょ
っと端的な表現を借りますと、法然上人の﹃選択集﹄の第十六章段ですね。﹁速やかに生死を離れん
と欲せば、二種の優れた法門のうちの浄土門をとって、
ただその称名の一本に絞りなさい﹂という
、
あの有名な略選択といわれる言葉に対応できると思います。﹁速やかに﹂ですから、法然上人の頃は
源平合戦の最中で、この戦争の最中にあって、明日戦場に赴くという武士たちが駆け込んできて、生
6-死の解脱を問うわけです。で、それに真っ向から法然上人はお答えになっていった。そういう意味で、
古代では充分に浄土門が対応できたと思います。
中世もまた同じだと思います
。
﹁
罪悪深重の九夫﹂
の自覚は当然浄土門を要求するわけで、
そ
の
一
つ
の
文
章を挙げますと
、
﹃
観
無
量寿経﹄の中の
、
﹁於念念中
除八十億劫生死之罪﹂という言葉にも表
現できると思います。﹁八十億劫の生死の罪は、
一念一念の念仏に除かれている﹂何でもないような
言葉ですけれども、
ほんとうに恐るべき言葉でもあろうかと思います。なぜ一念の念仏の中に八十億
劫生死の罪が除かているか。これはまた大乗仏教の大問題になるので、大変な問題だと思います。し
かし、少なくとも浄土門が罪の問題にも真っ向から対応できたわけです。
蔓延するニヒリズム
ところがこの現代はどうかということになりますと、もう現代は浄土門を実は要求していない。 般大衆はもう、 一般大衆の側から浄土門を要求するということはほとんどなくなってきている。それ はなぜかといいますと、 ニヒリズムという一つの症状が、 まさにそういう状況をもたらしているので す。ということは逆に言えば、浄土教自身が危機に瀕している。﹁現代における精神的な危機と浄土 教﹂というタイトルに納まりきらない深い病巣があるわけです。我々自身にとっても危機は危機です が、また浄土教自身にとっても危機的状況に陥っているという、二重の意味で危機状態が現出してる のではないか、 そのように考えます。 で す か ら 、 ﹂れは私たち一人一人の問題でもあるけれども、あ らためてこの浄土教という立場で、 いかにしてこのニヒリズムを克服していくかということが最大の 課題になっていくると思います。 ニヒリズムという一つの病状、 それは恐るべき病状でして、躍っていながら少しもその病気に気づ かないような病気ですね。例えば体が痛いとか、どこか具合が悪いとかいうことならすぐ療法ができ るわけですが、 ニヒリズムはまったくその病状を呈さない。末期的な状況にもかかわらずまだ気がつ かない。どこか痛ければ痛いということでお医者さんに駆け込むんですけれど、 それもやらない。 すから、そこはやはり医者の腕の発揮しどころということになりまして、医者の方が先回りしてその - 7ー で診断をする必要があるわ け で す o それではニヒリズムの原因は何か っ それはやはり科学とか技術的な考え方以 外 の考え方ができな く な っ て し ま ったという点にあると思います。 先年 亡 くなりましたドイツのハイデッガ ー という 、 二十世紀の哲学者の中でたった一人だけ代表的 な哲学者を挙げよということになると 、 ほとんどこの人を挙げるくらい有名な方ですが 、 二十世紀と いうものを徹底的に分析しまして 、 ニヒリズムの時代であると 、 ﹂う診断しています。そしてその原 因は何かといいますと 、 人聞が物事を計算的にしか考えることができなくなった。例えば主観と客観 と分けるとか 、 物と心と分けるとか 、 計量的思考しかできなくなったからなんです。 しかし 、 そうい う考え方の 他 に 、 もっと深い人間の思惟というもの 、 深く内面に入っていく思考というものがあるん だ 、 とハイデッガーはいっているわけです。 我々が普通考えるというときは 、 科学的な、数学的なときだけしか考えるという言葉は使いません。 それ以外の考えというものは 、 もう考えのうちに入らないんです。そういうこと自身が 、 実は大問題 なんですね。
本当の
﹁
考
え
る
﹂
こととは
例えば﹃観無量寿経﹄ の 中 で 、 章提希夫人の﹁教我思惟 教我正受﹂という言葉があります。この - 8ー思惟という言葉、 これは哲学でもよく使う言葉ですが、 この場合もやっぱり一つの考えです。即ち、 この経典が書かれた時点では、科学的に物事を分別して考えることだけが唯一の考え方ではなかった わ け で す 。 あ る い は 、 お釈迦様のことを釈迦牟尼といいますが、 こ の
5
5
H
という言葉は、考えた人、考える つまりお悟りをお聞きになって釈迦牟尼になられたのですから 、倍りを という意味を含んでいます。 開く道も一つの ﹁考える﹂ということだと思います。 それから、﹁教我思惟﹂ の ﹁思惟﹂というのは どういうことかといいますと、 お念仏をすることですよね。 お念仏する方法をお教えください。だか 人間の﹁考え﹂という場合、 無限の考え方があるわけですが、 その中の科学的な考え方だけを﹁考 9 -ら、お念仏をするということも一つの考え方なんですね。 える﹂という言葉に限定してしまい、 それ以外のものを排除してしまったわけです。だから生死の問 題とか罪悪の問題、 そんなものは全部消えていくわけです。すべてがコンピュ ーターで計算されるよ うな、人間の一人一人の尊い命すらも計算的な思考でみんなやられてしまのです。 ニヒリズムとは、あらゆる価値が消えていく世界のことを言うわけです。価値というものがなくな っていく。例えば具体的に 、花 が美しいというのも一つの ﹁美﹂という価値ですよね。それから 、あ り が た い な 、 という感じも価値だと思います。昔の人は朝日に手を合わせた、あるいは夕日に手を合 わせました。ありがたいという気持で合掌していたわけですが、 そ れ も つ の 思 惟 、 やはり﹁考える﹂ことでした。しかしそういうものは科学とか技術の世界から排除されてしまって当然、私たちの 日常生活の中から H ありがたい υ というような感情も消えていくわけです 。それから 、 口癖のように、 ﹁人間の命は尊い﹂とか ﹁人間性の尊厳﹂と言って いますけれども、 それも抽象的になってしまいま し て 、 一応、観念としてはそうなっていたので、実際は本当に非人間的なものしかなくなってくるわ けですね。本当に一輪の花を見て、何とも言えないありがたさとか尊さとか、ありがたいと感じる尊 さの感覚といいますか、単なる観念ではなく、むしろ私たちの生活の先端に現れてくるような、例え tま 一粒のお米を見てもありがたいなと感じる感覚ですね。そういう一輪の花を見ても、あるいはお 月様を見ても何を見ても、私たちの心の中にそういうものが起こ っておれば 、 そこにはその人にとっ - 10 て価値というものが生きているわけで、 そこにはニヒリズムがないのです。 そういう﹁尊さ﹂とか ﹁ありがたさ﹂が 日常生活からどんどん消えていくということは、 ニヒリズ ムの一つの大きな病気の症状なのです。それで、 そのニヒリズムの克服ということが、何も浄土教に 限らず人類の最大の課題となるのですが、 ハ イ デ ッ ガ lは、人間の思惟とは、科学的な主観と客観と の対照において対立的に考えるような計算的な思考だけではなくて、もっと無数の考え方がある、 と 言っているわけです。 私は、念仏というのは、人間のあらゆる考え方の中の最高の思惟形式だと思います。章提希夫人が、 ﹁我に思惟を教え、我に正受を教えたまえ﹂とおっしゃったところに、本当に深い人間の ﹁ 考 え る ﹂
ということはどういうことか、 という大きな命題が出されていると思うのです。 私たちは日常よく ﹁ 考える﹂といっていますが、 日本語の意味で考えている人はほとんどいないと 思います 。大 体 、 ﹁ 考 え る ﹂と いう言葉が使われていても、﹁考える ﹂と いう言葉がどういうことかと いう意味もわからずに ﹁ 考 え る﹂という言葉を使っているわけですからね 。 本居宣長の解釈では、 ﹁ カムカフ﹂という言葉で、最初の ﹁ カ ﹂ というのは、接頭語で意味があり ません 。 たとえば、﹁細い ﹂ というのを﹁か細い﹂とか、﹁か弱い﹂ の ﹁ か ﹂ で す 。 ﹁ ム カフ﹂という のは、我々が相対して ﹁向かう﹂と同じことなのですが、﹁む﹂ は 、 ﹁ も の ﹂ のことです。﹁カフ﹂は 、 ﹁交る﹂と いうことです 。両 方が両方に交る 。 例えば、賛が飛び交う 。清 少納言の﹃枕草子﹄ に 出 て - 11ー きますが 、 夏は夜 、 賛がお互に飛び交うというのですね。 一方の賛がこっちに来る。 一方の賛が反対 から来る 。飛び交うので す 。 つまり﹁カムカフ﹂ということは ﹁もの﹂と﹁私﹂があり ますと、 ﹁ も の﹂が﹁私﹂ のところへやってきて 、 ﹁ 私 ﹂ が ﹁もの﹂のところへ入っていくことで 、 それを 、 日 本 語では﹁考える﹂と言うわけですね。 仏教用語では 、 ﹃ 舎 利 礼 文 ﹄ の中に﹁入我我入﹂という言葉がありますね。 これは典型的な日本語 の ﹁考える﹂と同じです。仏様をそこへ置きますと 、 ﹁ 仏 入 我 我 入 仏 ﹂ 、仏 様が私の中に入る 、 私 が 仏様の中 へ入ってそこで初めて交 るということが可能なわけです 。だから 、 日本人 が﹁考え る ﹂とい う言葉を使うとき 、 例えば﹁もの﹂を﹁仏様﹂とすれば 、仏 様の中に私が入っていくし 、 私 の中に仏
様が入ってくることを言うわけです 。 にもかかわらず 、 本来の﹁考える﹂という意味を忘れて 、 z -J I 中 j 科学的に考えることだけを﹁考える﹂なんてことは 、 非常に﹁浅はかな考え﹂ではなかろうかと思い ま す 。
﹁
力ムカフ﹂念仏が人間を救う
こういうことから言いますと 、 章提希夫人が ﹁ 我に思惟を与えたまえ﹂というときの思惟は 、 科学 的に考えることではなくて 、 それは当然 、 仏様が私の中に入る 、 私が仏様の中に入っていくような 、 そういう考えをさして ﹁ 私に考えをお教え下さい﹂とおっしゃったわけですね。そして 、 それがうま - 12 くいくようになると 三 味成就ということになってくるのですが 、 そこまでいかなくても 、 我々がお念 仏をするということは何らかの意味で 、 単なる対照的な考え方を考えるのではなくて 、 一つになって 、 コ lvJ ︿ 、 , ‘ ですから 、 奪提希夫人がそうおっしゃって 、 やがて第八像想観になってまいりますと 、 ﹁ 如 来 法界身なり ﹂ という有名な言葉がありますね。﹁入一切衆生心想中 ﹂ というような言葉を聞きます。 ま 、 省略しますけれども 、 如 来 入 ニ 心 想 中 4 如来が 心 に仏を想う(考える﹀とき 、 それはどういうこ とかというと 、 仏様が私の中に入ってくるということですね。﹃観無量寿経﹄は一貫して 、 ﹁ 考 え る ﹂ ということの本当の意味はどういうことかということを徹底的に追究していると思います。 本来 、 日本人が ﹁ 考える ﹂ ということと 、 ﹃観無量寿経﹄の ﹁ 思惟﹂ということは 、 全 く 同 じ こ となのに、現代では科学的に考えることしか﹁考える﹂といわず、 それ以外のものを排除してしまうわ けですから、当然、 一切の価値ですとかニヒリズムとか如来様ですとか、あるいは罪の問題、死の問 題に対する宗教的な解決さえも、全部消えていくことになるわけです。 で す か ら 、 ニヒリズムの克服はどうすればいいかといいますと、 そういう平板的な思惟だけが唯一 の﹁思惟﹂ではなく、もっとほかの考え方がある。更に進めば、 お念仏をする。 ニヒリズム的発想で は仏を念ずるということも 、 仏 様がここにいて 、 私 がこちらにいて 、 というふうな考え方しかできな くなってしまうわけですね 。そのよ うな現代的な感覚で念仏を割り切ってしまうものですから、 お念 浄土門は無心に念仏せよと言います。無心になって念仏しているそのお念仏が、実は無限に深い人 - 13ー 仏が非常に表面的なものになってしまうわけです。 聞の考え方というものにつながっている 。 ま、そういうことを申し上げたいわけです 。 何でもいいか ら H 念仏 υ ということですかね 。そう し ま す と 、 五 分 で も 、 一 分 で も 、 一遍の念仏でもいいのですが、 ま た 、 三 十分でも一時間でもお念仏をすれば、 み仏はいるわけです。ただ一向にお念仏をしています と いつのまにか本当の
J
Y
5
r
E
m
u
-といいますか、我々が平板的に考えている考え方とはだんだん 別の考え方ができていくと思います 。 お念仏をしていると影響を受けます 。影響と いう言葉は英語で 525コ
2
3
といいます。 ド イ ツ 語 で は R A w -ロ 25 円 印 角 川 口 凶 u です。こういう言葉ができたのは中世で、実はキリスト教の深い祈りの中から出てきた言葉なんだそうです。
J
R
.
と か R E ロ = と い う の は 、 ﹁中へ﹂という前線りですね。それから 、 同- E
S o
-と か ﹂--包括ロ=というのは﹁流れてくる﹂ということです 。 どういうことかといいますと、 何か深い祈りの中で名状しがたいものが人間の心の中に流れてくる 。 そうすると、 その影響を受けて その人の心が変わっていくわけです。それを 、 ﹁影響を受ける﹂というわけです。 キリスト教の﹁祈り﹂という言葉も広い意味で﹁考える﹂ことだと思います 。 ﹁ かむかう﹂という ことだと思うのです 。 祈りの中にいつのまにか、神様といいますか、人間以上のものといいますか、 何か不思議なものが、私の心の中に流れてくる 。そう い う 状 態 を R 5 2 5 R o w -と か ゲ 百 2 5 3 0 ロ = と い く同じですよね。ドイツ語では J 5 2 F 2 ∞g=という言葉を使って言います。神様が私の自我という - 14 う言葉で表現したと言われております 。 ということは、仏様が私の中に入ってくるということと、全 殻を突き破って入ってくる £日。7σznys--という言葉を使ったりします。とにかくこれを﹁影響﹂ と意訳したわけですが、 そういう言葉が日本語で他にあったのかもしれませんが 、 こういう言葉に訳 したのも、何かいいな、 と思いますね。影といったり響きといったり::: 。 こ の J 口 町 Egno--という言葉から、すぐに私は法然上人の﹁月かげのうた﹂を思うわけです 。 月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ お月様がむこうにあって私がこちらにあって 、 ただ見ているだけだったら、主観と客観との対照です
ね。何万年たったってお
月
様はお月様だし
、
人間は人間だ、
というのが科学的な考え方です
。
し
か
し
、
本当はそうではなくて
、
お月様をじっと眺めていると、
いつのまにか私の心の中に流れ込んでくる
。
ながむる人の心にぞ﹁すむ
﹂
取
り立ててお話しすることもないのですが
、
法然上人の﹁月かげ
﹂
で
は
﹁
すむ
﹂
と
い
う
言葉が平仮
名で書いてあるのです
。
ときどき信者の方から質問を受けるわけですね
。
こ
の
﹁
すむ﹂はどの
Hすむ
μなのか
、
と 。
﹁
住む﹂もあり
、
﹁
済
む
﹂
もあり
、
そ
れ
か
ら
、
﹁
澄む
﹂
もあるわけです。そのどれか
、
と日
本語の
﹁
すむ﹂という言葉は
、
中国からこういう漢字が入ってくる以前からあったわけです
。
だ
一 15-しかし本当はその質問そのものがまったく間違
っ
ているのです
。
から
、
日本語がまだ漢字というものを受け入れない時代の日本人が
﹁
すむ
﹂
という言葉を使う場合に
はこの三つの意味を含んでいたと思います
。
それが中国の言葉
、
漢字を受け入れることによって
、
三つに
分
割
し
てしまったわけです。むしろ
、
法然上人はこの場合
、
どの漢字かをお使いになればもっ
とはっきりするのですが
、
そこに漢字を使
っ
ていらっしゃらないとい
う
こ
と
は
、
実に
意
味が深いと思
うのです
。
まず
、
お念仏をしているうちに
、
私の心の中に仏様が宿
っ
て下さる
。
これが第一義だと思います
。
例えば﹃観無
量
寿経﹄の第八像想観
、
第九真身観あたりを
基
礎にして
、
こ
の
﹁
月かげのうた
﹂
が
ま 、 庇理屈をこねればそういうことが言えるのですが: : : ただ 、 いつのまにか私の心の中に宿ってい て下さる 、 ということだと思いますが 、 それだけでなくて 、 宿って下さっているといつのまにか私の 心が清らかに澄んでいく。これは 、 私たちの心が転換していくことだと思うのです。﹁澄む﹂という 言葉ですね。これは一種の意識革命だと思います。ぉ念仏をしていると 、 それが本願だから 、 死んだ ら極楽にいける。あるいは﹁於念念中 、 除八十億劫生死之罪﹂ですね。死んでからでなくて 、
二 戸
戸のお念仏の中に罪が消えていくとか 、 あるいはもっといろいろあると思います。死んでからという ことではなくて 、 やはり日常の生活の中でお救いをいただいていくということもあるんですね。この ﹁済む﹂ですが 、 これは関係するということで 、 仏様になっていくということと置き換えてもいいと - 16一 思います。﹁是心作仏是心是仏﹂の﹁是 心 作仏﹂に相当すると思います。 平安 ・ 鎌倉にかけての日本の歌人というのは 、 和歌というものを非常に重視していました。それは 、 やはり大和言葉の意味を大切にしたのですね。だから法然上人も 、 ﹁すむ﹂という言葉の中に三つの 意味を込めて使っていらしたと思います。私が勝手な解釈をしているということではなくてですね。 和歌の世界というのは 、 漢字の洪水の中で 、 日本人が日本人の領域を守る一つの防衛戦争だったわけ です。そういうような意味があると思います。漢字の洪水の中で 、 漢字を使ってしまえばいいような ものですが 、 和歌(大和言葉) の世界で漢字の洪水に対する一種の精神的な防衛戦争 、 というとちょ っ と オ ー バ ー で す が 、 そういう意味も考えられると思うのです。とにかくそういう形で、最初は阿弥陀様を対照的に、 よそに置いて考えているように見えて、 し、 ザ つ のまにか如来様が私の中に入ってきて下さる。逆にまた、 いつのまにか私の心が如来様の中に入って いく。これはやはり、﹁すむ﹂という言葉に二つの局面があると思います。仏様が私の心の中に宿っ て下さるという面と、 それから逆に、私が仏様の世界の中に住んでいくという意味と、両方あると思 うのです。実は一つのことですが、 お念仏をしていると、例えば、 ちょうどお月様に見とれています と、家庭のいざこざも忘れてしまうし、職場のいやなことも忘れてしまう。 お月様の世界に住むよう なものですね。 お念仏もそうで、 お念仏をしているといつのまにか私の心が阿弥陀様のところに住む ようになる。だから、 お念仏ということは阿弥陀様のところに住むことなり。阿弥陀様が私のところ 17 -に住むことなり、 という説明も成り立ちますね。逆に、私の心が阿弥陀様の中に住むことが念仏なり。 そういう考え方もできると思います。 これも﹃三部経﹄ の中に出てくるわけで、 これはお釈迦様について言われているのですが、実は、 私たちについても同様だと思います。 たとえば﹃無量寿経﹄の中の序文に﹁今日、世雄、諸仏の住し たもうところに住したもう﹂という言葉が出てきますね。お釈迦様が光輝やいているのを見て、阿難 尊者がびっくりして質問するわけです。﹁どうしてこんなに光顔鋭親として光輝いているのか﹂とい うその質問に対して 、阿難 がお釈迦様に直々に聞くわけですね。﹁お釈迦様が諸仏のお住まいになっ ているところに住んでいる 、 ということはどういうことか﹂と。すぐその後に、﹁去来現の仏、仏と
仏と相念じたもう﹂という言葉が出てきますから 、 もう念仏三昧に決まっているのですね。 すなわち 、 お釈迦様は 、 ﹁五十年たてばはかなく過ぎていくこの裟婆世界に 、 体こそ住んでいるが、 心はもう永遠の仏様の世界に住んでいる ﹂ そ の ゆ え に 光 輝 や いて、光顔説鋭とし てまします 、 という ところですね。 ですから 、 お念仏は﹁カムカフ﹂ことであるといいましたけれども 、 仏様が私の心の中に宿る 、 と も言えるし 、 私 の心が仏様の心に宿る 、 とも言えるし 、 実はこの二つが一つになったところで 、 こ の お念仏というものがいただけていくのだろうと思います。
ニヒリズムの克服
-18ー そういうようなことが可能になってくると 、 もうニヒリズムの世界は 、 完全に克服されていくわけ ですね。このニヒリズムというのは 、 価 値 と い う も の が 消 滅 し て し ま っ た 世 界 で す 。 だ か ら 、 極端な ことを言えば 、 どんなことをしたって構わないわけですね。ドストエアスキーの言葉で 、 ﹁神様がい なければどんなことをしたって許される﹂という言葉がありますが 、 何をやったって構わない 、 そ う いう状況ですね。何が有難いとか 、 何が尊いとか 、 最近の若者はシラケプ l ムといいますか 、 やはり ニヒリズムという恐るべき病状群が蔓延しているんだと思うわけです。 それで 、 念仏をするということは 、 いろいろな意味で戴きょうがあるわけですが 、 一つの戴きょ5
として、阿弥陀様ということは、究極的な価値の根源だと思います。あらゆる価値が如来様から出て きているといいますからね。それもやっぱり、 ちゃんとお経の引証をしないといけないのですが、 ﹃無量寿経﹄の上巻には﹁威神光明 最尊第 諸仏光明 所不能及いとあります。阿弥陀様を、私 たちをお救い下さる、 というふうに戴いていくのも何より大切なことですが、 一ヒリズムを克服して いく時代に、改めて阿弥陀様を最も尊いお方、最尊第一として戴く 。 世界全体がニヒリズム化してい ら、そういう点を一つ考えていく必要があるのではないかと思います 。 るときに、もう少し尊さというものを自覚することによってニヒリズムは克服されていくわけですか 最尊第一の如来様と交ることによって、私たち一人一人が人間の尊さというものを自覚していく。 目覚める 。 そ し て 、 一人一人の人間の命の中に本当の尊さというものを実現していく。そういう意味 - 19ー があると思うのです。だから、本当はお念仏を通さないと、 いくら人間の尊厳性なんでいったって、 嘘だと思います 。 それは単なる観念とかイデオロギー問題でなくて、 やはり自分が念仏するというそ の 中 に 、 その直下に尊さという自覚が生まれてくるわけなので、 そういう形で、 しかもその場合のお 念仏というのは、本来の考え﹁思惟﹂ということですから、 それ本来の人間の根源的な思惟というも のに基づいて、阿弥陀様を念ずるときに、 一ヒリズムの克服というものが可能になっていく 。 だから、往生ということは、もちろん浄土に生かされていくことですが、 いつも往生していくこと にはお念仏と離れていないということがあると思います。そうしたとき、 一人一人の命の中に尊さと
いいますかそういうものが実現していく。だから 、 お浄土だけ荘厳があって輝いているのではなくて 、 そのお浄土に生まれていく私たち一人一人も 、 心の中に荘厳というものが実現していく。尊さに目覚 めていくということは 、 言い換えれば 、 一人一人の命の中に荘厳というものが実現していく 、 としい ます かね。成就 し ていく。それは﹃無量寿経﹄ の 四 十 八願では 、 もう二遁にわかりますね。例えば 、 三 十 二大人相願とか 、 悉皆金色願とか 、 無量光 、 無量寿 、 光明無量願とかあるわけですね。普通 、 第 十 八願だけしか強調しませんけれども 、 お念仏が喜べるようになってまいりますと 、 四十八願のすべ て が 、 言 い 換えれば 、 そこに表現された大乗仏教のあらゆる側面が一人一人の命の中に成就し実現し ていくわ け で す 。
これからの宗教の必要性│
│
三
つ
の
要
素
│
│
a
- 20 ちょっと問題の方向を転換します。またそこへ戻りますけれども。 一 昨 年 、 大正大学で教学大会があったときにシンポジウムでお話しさせていただきました。時聞が なくてほとんど徴に至らなかったのですが 、 結 局 、 新しい浄土教はどうあるべきかという問題は、 h 」 れは浄土宗だけに限らず 、 宗教は 、 世界的に一つの大きな危機の状態にあると思いますが 、 例えば 、 アメリカがプロテスタンテ イ ズムの国で 、 そのプロテスタントのキリスト教が 、 今の若いアメリカ人 にとって 、 ま ずほとんど役に立っていない。もう完全一に過去の宗教になって 、 追い討ちを食って 、 アメリカの若者はどんどん進んでいるわけです 。 それでシカゴ大学││宗教学のメッカ││の先生が、 今から二十何年前ですか、 これからの新しい宗教というものは次のような三つの要素を持つべきであ る、ということをいっています 。 これはアメリカのことでもありますけれども、世界的なことでもあ るわけです。 一つは、死んでからというようなことではだめだ、 というのですね 。 アメリカのことではあります が、我々も反省すべきでしょう 。 今、生かされているうちから救いがなければいけない 。 これは現世 利益ということでなく人聞の魂の底からの救いということですね 。 つまり、現世救済ということです 。 と 。 つまり、ある教団に所属することによ っ て安心するというようなことではもうだめだ、 と い う の 一 21ー 二番目は、自由ということ。救われるということは、人聞が本当に自由になってゆくことである、 ですね 。 人間一人一人が本当に自由になっていくということが、実は救いであり悟りである、 そうい う宗教でなければいけない 。 第 三 番 目 が 、 人間には無限の内在する可能性というものがあって、 それを実現していく 。 自己実現 で す 。 何かに救 っ て下さいではなくて、今まで気が付かなかった無限の可能性、仏教では ﹁ 如来蔵 ﹂ と か ﹁ 仏性 ﹂ という言葉がありますが、 それを無限に開発していく形の 宗 教でなければいけない 。 人 聞は最初から罪悪だと抑えつけて、 それをむしろ前提 と する 宗 教、人間の無限の可能性を開花すると いうことを抑圧してしまう宗教ではこれからはだめじゃないかという:::、 ﹂れはアメリカらしい宗
教の診断だと思います 。 救われる人間の方の診断ではありませんが 、 お医者さんの方の診断もやって いかなければいけないというわけですね 。
浄土教に可能性はあるか
以上の三点は、私はこれからの浄土教にもやはり必要ではないだろうかと感じます 。 そ し て 、 ま た そういう目で見れば、浄土教の教えの中にも可能性はいくらでも見出すことができる 。 だから 、 中世 とか古代にはそれに相応した教えがあったように、現代にはやはり現代の新しい可能性を考えてもい ー ー ー この世での救い 現世救済ということになれば、法然上人の ﹁ 月かげのうた ﹂ にも現れていま - 22一 いと思うわけです 。 す 。 こういうことを言うとお叱りを受けることもあり得るかとも思いますが、﹁月かげのいたらぬさ とはなけれども ﹂ で す か ら 、 ﹁ いたらぬさと は ない ﹂ ということは、時間的にも空間的にも言えると 思います 。 空間的には、 お浄土もこ の 沙婆世界も同じ如来様の光明の中にある、 ということだと思う のです 。 時間的に 言 え ば、今ここでお念仏を喜ばせていただいているこの中 が 如来様の懐の中だけれ Y 7 も 、 やはり死後も同じく懐の中である、 という感じと申しますか 。 これは私は、 とても納得がいく のではないかと思います 。 ﹁ 摂取﹂とはそういうことであって 、 摂取したという言葉どおりにやって いると一般はついてこないと思います 。摂取したというのはマックスミュ
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ラ!の英訳で読んでみますと E 官 。 芯2
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-なんてい う英語を使っていますので﹁抱き守る﹂なんでいう言葉の方がピンときます。もうみんな英語教育を 受けているわけですから、摂取したなんて訳のわからない││我々専門家はよくわかっているから問 題にもならないのですが││言葉は、 やはり一般の人にはわかりにくいので、時には英語を使った方 がいいと思います。また、外国の人にも浄土門を││広開浄土門ですから││英語を使って表現する。 サンスクリットで﹁パリグラハ﹂というのですが、英語で、d
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-なんて訳をすると、 向こうが有難く感じるようなこともあります。そして、 その中でお念仏をいろいろ読ませていただい て い ま す と 、 やはり﹃無量寿経﹄の中で 、 ﹁この光に遇う者は 、 三垢消滅し 、身 意柔軟にして歓喜踊 - 23ー 躍し、善心生ず﹂この光に遇う者は、煩悩が除かれて、自由になり、何とも言えない喜びが踊躍して、 善心が生ず。これが現世救済だと思うのです。病気が治るとかではなくて、道徳心というか、 お救い をいただいていくと悪いことができなくなる。百万人が悪いことをしてもやらないという気持がむく むくと起こってくれば、それは救われていると思います。罪悪深重の凡夫の私たちでも、 お念仏をす れば道徳的にも転換していく。そういうこともあるわけなんですね。 この裟婆世界は夢の中だから早 くお浄土へ行ってしまおう、 という発想は中世だと思うのです。 11J 永速の自由と可能性 最近は宇宙論が発展してきまして、地球ができて四十六億年たって、 そ して人聞が生れてきて、宇宙は一体何のために人聞をつくったんだろう、 というようなことを考えて
いけば 、 例えば 、 我々一人一人の命を宇宙的な視野から考えるのが 、 宇宙的な発想だと思いますから 、 やはり人生というのはかけがえがないのですから。 ただぼやっと死んでしまうのでは 、 余りにも銀河 系宇宙に対 し てもったいないと思います。 自由ということも 、 お念仏の救いの中の一つの大きな内容だと思います。救われるということは 、 阿弥陀様のところへ行ってお浄土の 隅 っこで窮屈になっている 、 ということではなくて││iこれは真 宗の曾我量深先生のお言葉ですが │ │いくらお浄土へ行くのが有難くても 、 お浄土に行って阿弥陀様 がお浄土の真ん中にでんと坐っていて 、 お浄土の隅っこに小さくなっているようだったら 、 私はお浄 やはり 、 阿弥陀様と一体になることによって無限の自由が得られるとか 、 あるいは今まで気が付かなかった無限の││仏教では ﹁ 如来蔵﹂という言葉を使いますが 、 れども 、 そうではなくて 、 - 24一 土に行きたくないなんておっしゃって 、 真宗の方でいろいろな問題を投げかけた。進歩的な方ですけ 一人一人 の命の中に仏様と同じ内容が宿っているというそういう思想ですね 。 これは﹃華厳経﹄に出てきます。﹃華厳経﹄の如来性起品あるいは﹃八十華厳﹄では如来出現品と いいますが 、 そういうところが一つの基礎になって 、 ﹁仏性﹂とか﹁如来蔵﹂という思想が出てきた わけです。この点を浄土教でどう説いていくか。往生とか救いを戴くということは、 そういう無限の 自己に目覚めていくことではないか 、 と。ぉ浄土に生まれるということは 、 無限の私たち一人一人の 命 、 無限の尊厳性 、 無限の可能性を開いていくことではないか 、 とそういうふうに思います。
こ の 間 、 ドイツの神学者で、 カトリックの近代化の最先端に立ってカトリック教会の教義をリlド している人が、 一ヵ月ばかり日本におられたのですが、大正大学にも来られて非常にユニークな講演 をなさいました 。 チュ
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リンゲン大学、 ここはいい大学なのですが、 そこでかなり極端なことをおっ し や っ て 、 とうとうロlマ法皇からお叱りをいただいて、 、サをあげる資格を剥奪されたというぐら いです。また元へ戻ったのかもしれませんがね 。 とにかくカトリックとしては最先端を行く学者です ? ゴ 、 これからのキリスト教だけでなく、あらゆる宗教はきっとこういうところに帰着する、 と。
それはどういう点かといいますと、﹃新約聖書﹄ の ﹁パウロの手紙﹂ の中で 、確か 一ヵ所だけしか 出 てこない言葉なのですが 、ぷ=5
曲 一 一 = と い う言葉なのです。すべてのものがすべての中にある 、 と - 25ー でも言いましょうか。私たち一人一人の命の中にすべてが、あるいは宇宙全体が含まれている、 と し 、 うことになると思います。 このことはすでに﹃観無量寿経 ﹄ に説かれております。 ﹁ 如来はこれ法界身なり 。 諸 仏 如 来 は 法 界 身なり﹂宇宙全体が法界身で、 それが私たちの心の中に入ってくる、 と。
一人一人の心の中に無限の 如来様の命を宿しているのだという自覚、 そういう自覚が実は往生していくことであり、救いの中に 目覚めていくことだと思います 。 これは従来の浄土門では、表だっては言われませんでした 。 浄 土 門 ではあくまでも二種深心で、自身はこれ罪悪深重の九夫という自覚に立つわけですけれども、 しかし そういうふうにしてお念仏が喜ばれていくようになると、実は私の中にいつのまにか如来様がお宿り下さる。宇宙全体が私の中に宿る。だから﹃観無量寿経﹄の説き方と、浄土宗の安心起行の説き方と ずれているところはあるのですが 、 それは決して矛盾するものではなくて 、 罪悪深重の凡夫でお念仏 しておれば何かそういう自覚が得られてくるわけで 、 それでいいと思うのです 。 表面上の言葉の違い で 、 余りぎくしゃくすることもないのじゃないか 。 そんなふうに思います 。 そういう形でだんだんとお念仏が喜ばれていきますと 、 例えば 、 観音様といいますと不請の友とな って私たちをお救い下さるわけなんだけれども 、 観音様というのは 、 実は 、 我々のことではないだろ う か 、 というような戴き方もできてくるわけですね 。 むしろ 、 大先輩なので 、 だんだん観音様のまね 例えば 、 ﹃六時礼讃﹄の﹁中夜礼讃 ﹂ ですか 、 ﹁ 観 音 頂 戴 冠 中 住 ﹂ 、 ここのところは 、 私 は 、 ﹁ 月かげの - 26一 をして 、 お念仏をして救われていくということは、 一人一人が観音様になっていくということなので 、 うた﹂と同じだと思います 。 私の中にお宿り下さるところを 、 ﹁冠中住﹂というわけですね。それか ら 、 ﹁種々妙相宝荘厳﹂種々妙相 、 宝をもて荘厳せられていく。 ー ー ー 人間形成への役割 お念仏によってお救いをいただいていくということは 、 観音様がいろいろ なお徳を持っていらっしゃるように、我々も罪悪深重の凡夫であっても、 そのことが染汚意にならず に 、 目に見えない荘厳が身に備わっていく 。 実は 、 それがお救い 、 救われていく人間の姿ではないだ ろうか 、 とそういうふうに思います 。 た だ 、 死ぬまでお念仏をして信者がお浄土へ行くということで はなくて 、 日常、平生お念仏が喜ばれていくようになると、 それは、人間形成といってもよろしいか
と思います。それも、死んだら通用しないような人間形成ではなくて 、 永遠に生かされていくそうい う無限の人間の形成 、 ということがそこで考えられる。現在 、 教育と宗教とは全然別になっています が 、 本当は往生と 、 浄土教的な救いと教育とはやはり結び付いていると思うのです 。 生涯教育という 言葉があり ま すが 、 ﹁ 生涯﹂教育どころではなくて 、 永劫にわたる阿弥陀様による人間形成というこ とも 、 素材と し て考えていってもよろしいかと思います 。 それから 、 この観音様の後に 、 ﹁ 能伏外道魔橋慢 ﹂ とありますが、悪魔とかそういうものを征服し ていく 、 これも自分の自力で征服していくということではなくて 、 いつのまにか如来様を心の中に宿 しているとその如来様が働いて下さ っ て悪いことができなくなるとか 、 正しい道を歩むようになると - 27ー か 、 現世の中で如来様のお救いというものがいただけていく 。 そういう方向にこないと、今の若者は 本当についてこないと思うのですがね 。 ただ死んでからのお浄土ということでは:::この辺もまた皆 さんにいろいろお考えいただければ有難いと思います 。 こ ろ
上人の趣旨にかえって
いろいろお話ししたわけですが 、 実際お念仏を申じていましでも、我々の念仏は本当に雑念 ・ 妄想 ばかりで、本当のお念仏なんでできたものではございません 。 しかし法然上人は 、 このようにお っ し やっています 。葦のしげりて 十五夜の月の宿りたるは よそにては 月宿りたりとも見えねども 葦というのは 、 これはもちろん私たちの妄念のことだと思います。今はもうすっかり開発されてアシ とかヨシの生えているところはないですけれども 、 水草がいっぱい生えていると 、 そこにお月様が照 っても、草に邪魔されて水に映っているのはわからないわけですね。 ですから 、 よそにては 月宿りたりとも見えねども よくよく立ち寄りてみれば 葦を 分けて宿るなり ここが本当に有難いと思います 。 我々の妄念をかきわけで 、 いつのまにか如来様が私たちの心の中に - 28ー 宿っていて下さるというのですね 。 妄念の葦は繁げれども 一 一 心の月は宿るな り これは故上人の常にたとえに仰せられしことなり。 ﹂ れ は ﹃ 和 語 燈 録 ﹄ の中の諸人伝説の中に出てきます。だから 、 我々の念仏は本当に雑念 の念仏でも 、 やっぱりいつのまにか月が水に宿っているように宿って 、 そ してそれだけでなく、 ただじっとすんで いるというだけでなくて 、 何か不思議な働きがある 。 真言密教では﹁加持﹂という言葉を使いますが 、 法然上人の月かげのうたの源流を辿っていくと、 例えば 、 ﹃華厳経﹄というのは実に豊かな経典の世界で 、 一つの大乗仏教の世界になってくると思い
ます。例えば、弘法大師が﹁加持﹂の説明をされていますが、 仏日のかげ長星に宿るを加という 弘法大師はお月様じゃなくて太陽が例えですが、﹃華厳経﹄ にも出てくるわけです。太陽が衆生の心 の水に宿るところを加、 といっているのですね。それから、 行者の心随よく仏日を感ずるを持という 構造的に言えば全く ﹁ 加持﹂ということも法然上人の﹁月かげのうた﹂も同じようなものになると思 、 主 九 ト ' o こ 。 こ 、 4 d 、 寸 J 争 J ナ J やはり我々自身がお念仏を喜ぶ中にそういうことがあるわけなんです。どちらかとい のでしょう 。余り まだ徹底していないような感じもするのですが、 いかがでしょうか。 一 29 -うと浄土宗では 、 ﹁ 捨 此 往 彼 ﹂ の方を強調しますが 、 ﹁月かげのうた﹂の方は浄土宗歌にもなっている 浄土宗学というのは大きく分けて、﹁捨此往彼﹂の側面と﹁月かげのうた﹂ の両方の側面があって、 どちらも大切ですが、むしろ晩年の法然上人の宗教体験の上から言いますと、 ﹁ 月かげのうた﹂ の 方 が重みをなしている感じもするのですね 。 四十 三 歳で一向念仏に魅せられて、最初のうちはとにかく お浄土に行くということだったのですが、 だんだん念仏が喜ばれてきますと、月かげのいたらぬさと はなけれども 、 ですね。生きていても死んでいても如来様の光明の中にある。そしてどこにいても、 そこが如来様の光明の中にある 、 と。そういう体験の実感が晩年になればなるほど強くなっていった というような感じがします。
最 初 に 、 ニヒリズムの克服ということを申しました。最終的に結論を申しますと、 一ヒリズムとい う病気が起こってきた最大の原因は、ものごとを対照的にしか考えられなくなったことです。すなわ ち、科学的な考え方だけが唯一の人間の考え方で、それ以外は全部迷信だとかどうでもいいものとし て排除してしまったわけです。だから、 お念仏なんていうのも、科学の立場から見れば、何か浮つい た底のない、空想的な、迷信的なものになってしまったのですが、むしろ、 いまのヨーロッパの最先 端の哲学者たちは、 みんなそういう立場から脱却しようとしているわけですね。 ハイデッガーのお話 をしましたけれど、もう一人ヤスパ
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スという哲学者もやはり、主観と客観との分裂を超えるような 思惟がどうしても必要だ、 といっているのですね。主観と客観との分裂J
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ロ ∞ = と - 30 いうものを融和しないで超え出ていく思惟というものが、本当の思惟だというんですね。我々が普通 常識で考えている科学的な思惟なんてものは実に限定されたもので、 そういうものだけを唯一の思惟 と考えるのは極めて貧困だ。もう問題にならないという考え方をしつつあるわけです。それは哲学だ けではなくて、自然科学の世界でも起こりつつあるわけです。 例えば、最近ベストセラーになっているアメリカの原子物理学者でカプラ!という人の本を読んで みますと、物理学の本なのに﹃華厳経﹄だとかウパニシャツドとかの引用ばかりなのですね。今まで の考え方では原子とかいう問題に取組むときには 、も う全く役に立たない。だから 、物理学の本を読 んでいながら﹃華厳経﹄をやっている、 そういう科学になってきているわけです。 ニ ュ l サイエンスの第一線の科学者によって科学そのものが変革しつつあるわけです。 このようなニュ l サイエンスに対してニュ l 浄土教というものをいっぺん考えてみようではないか。 それは決して法然上人の趣旨と離れるものではなくて、万人の救済という法然上人の趣旨を体して一 生懸命お念仏をして、 しかも現実の二十世紀を生きるために、 どうしても新しい浄土教の展望を出し たい。それがほんとうの時機相応というものではないだろうか、 と感じるわけです 。 何かとりとめのない話ばかりをして皆様の実践と違うことを申し上げたかもしれませんが、大学な んかにいて学生相手に神学をやっていますと、 無責任な話になったり話が飛躍したりしていかがかと 思いますが、 またいろいろ皆様からもご指示をいただいて、精進させていただきたいと思います 。 本 当にどうもありがとうございました 。 - 31ー
研
究
所
員
研
究
成
果
報
告
高齢化社会を迎えて
我が国では近年平均寿命の伸び等に応じて高齢化が著 ① し く 、 種々の問題等がクローズアップされてきた。老年 人口(六十五歳以上)の動態を見ると、昭和二十五年に は総人口約八、三OO
万人に対して約四OO
万人(四 ・ 九%)であったものが、昭和五十五年には総人口約一億 一 、 七OO
万人に対して約一 、 一OO
万人(九 ・ 一 % ) と絶対数及び総人口に占める割合共に増加している。今 後も高齢化は急速に進展し 、 四十年後には総人口に占め る割合は二十%を超えるものと推測されている。即ち成 人三人に対し一人の割合になる。 ② 高齢社会の中でも六十五才以上の年齢構成の将来推計 研究所員(関東支部)稲
村
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によると 、 六十五歳J
六十九歳の年齢階層は昭和五十五 年に三七・二%であったのが、その四十五年後の昭和一OO
年 には二四 ・ 一%に下降し、代って八十歳以上では 同じく一五 ・ 三 %だった比率が二六 ・ 八 % と 一 一 ・ 五 % も上昇し 、 超高齢化が進むと推測され、社会の変化が憶 ③ 測されよう。しかも六十五歳 J 六十九歳の年齢階層では 痴呆性老人の出現率が一 ・ 二%なのに八十歳 J 八十四歳 では二二 ・ 一%、八十五歳以上では二三 ・ 四%との推計 @ 値が報告されており、寝たきり老人の発生率については 六十五歳i
六 十 九 歳 で 一 ・ 五九%に対し、八十歳以上で は 九 ・ 九%と推計されている。 - 34 このような状況において、一人暮らし ・ 寝たきり ・ ボ ケ等の老人の問題、就労対策の問題、経済的な問題、医療的サービスの問題、生活環境整備の問題、介護の問題 等々難聞が 山積 の状態である。これらは全て生老病死の 四 苦の問題に 他ならない 。 それでは現在行政サイドにおける高齢化対策の現状を 見 て お き た い 。 所得に関し て は 、 各種年金の制度があり昭和六十一年 四月より全国民が共通する 基礎年金制 となり、将来的な 年金収入の不足の危機は脱せられたようであるが 、 老齢 ( 退 職 ) 年 金 ・ 障害年金 ・ 遺族年金が支給されている 。 雇用に関 しては、定年延長策が計られ、 高年 齢者 雇用 確保助成金制度や定年退職者等雇用促進助成金制度 、 高 年齢者短時間雇用助成金制度が設けられ 、他方 各地にシ ルバー人 材 セ ン タ ー や パ l トパンクなどが設置されつつ あ る 。 保健医療に関しては近年老人保健法が改正され大幅な 国庫補助の削減と自己負担の増加となったが 、 本来的な 弱者である老人の救済を考えていただきたい。病院では 、 ⑤ 老人病院(特例許可と許可外合計)は全病院数の七 ・ 一 %しか無く、知事認定除外の病院を含めても主に老人を 対象とした病院は一O%未満 ( 昭和五十九年五月 一 日 現 在)にすぎず 、 今後の増床 、 増院対策が待たれる。 福祉に関しては在宅老人を対象として 、 家庭奉仕員の 派遣、日常生活用 具の給 付、寝たきり老人の短期保護や デイサービス(通所と訪問)等が設けられているが 、 こ れらに従事する人材の不足が今後深刻化しそうである 。 また施設においては 、 ①特別養護老人ホ l ム 、 ②養護 老 人 ホ l ム 、 ③軽費老人ホ i ム ( A ・ B 型) 、 ④有料老 人 ホ l ムの四種があり 、 ①と⑧は措置施設で③と④は契 約施設で 、 こ れらを 時 口 計すると昭和五十八年十月一日現 在 二 、 七O六施設 、 定員一九七 、 九 六七人で 、 要入所者 数の増加を考えると不充分であろう 。 - 35ー 生活に関しては 、 高 齢者無料職業紹介所の設 置 、 老人 クラブへの助成 、 農山漁村における高齢者の活動促進 、 高 齢者コミュニティセンター建 設 、 老 人 福 祉 セ ン タ ー ( A 型 ・ 特 A 型 ・ B 型 )、 老人憩の家 、 老人休養ホ l ム 等 の設置が行なわれている。 その他 、 住宅政策でも公営 ・ 公団住宅での対応 ( 独居 老人向はまだ無い )、 税制上の諸々の優遇措置 、 生活保
護 、 独居老人の保護等身様々な対策が行なわ れ て い る 。 以上公的な対策について概 略 を見たが 、 まだまだ現在 でも不充 分 な点が見受けられ 、 将来的な充実が早急に計 られなければなるまい。そこに民間のボランティア団体 、 民間の営利団体等が加わり 、 老人対策が成されているの が実情であろう。今後シルパーサービスと呼ばれる民間 の営利企業の進出に注目したい。需要と供給の関係にお いて成立する訳だが 、 主 に 、 住居に関する有料民間老人 ホ│ムや在宅ケアサービス 、 福祉機器等の電動ベットや 介護用品の開発 、 金融商品 、 レジャー関連など今後急成 長を遂げようと恩われ 、 サ ー ビスの質の向上や健全な産 ⑦ 業としての発展が期待される 。 更に注目したい制度とし ては有償のボランティア活動があげられる。東京の武蔵 野市福祉公社による ﹁ 有償在宅サービス ﹂ を主としたも の で 、 資産を管理しながら有料で在宅サ ー ビスを実施し ている。これは武蔵野方式と呼ばれ、今後の在宅ケアの 一方向性を示しており 、 サービスを受ける側と供給する 側相方に良い成果をあげているようだ。 以上現在の高齢者対策の実情を考察すると 、 宗教的 、 仏教的な要素が希薄なようである。 生老病死といった苦の自覚を超越する事を説く仏教に おいて 、 現代的なアプロ ー チは少ないようだが 、 宗内に おいては D ・ E ・
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白 円 )臨死 問題研究会において積極的な研究がなされている。ホス ピスやタ ー ミナルケア 、 脳死の問題 、 臓器移植の問題等 、 生ある者を極楽へ導く前段階として今後宗門及び諸寺院 は積極的に検討 、 対策を講じる必要が迫っているように 思う。これらに関して先進的な方策を実施している例は 札 幌市の新善光寺における札幌慈啓会がある。特養老人 ホ l ム ・ 養護老人ホ l ム ・ 慈啓会病院の三施設を主とし 老人福祉と医療と宗教の連携がなされている数少ない例 であり 、 他にも寺院と病院との連携 、 寺院と老人福祉の 連携がなされている例も有るようだが、まだまだ未開発 の感は免れない 。 寺院においては伝統 ・ 格式を重じる傾向が強く、古来 からの老人対策と思われる例も掲げてみよう。講や結社 の類 、 婦人会 、 一 詠 唱 会 、 本 山 等への団参 、 法要等の説教 、 別時や十夜の法要 、 五重相伝会 、 授戒会等々が有り 、 そ - 36れぞれに大切な役割を果していた訳だが 、 最近では隆盛 の話をあまり聞かれないのは残念である。今後は従来の 方法に加え現代的なアプローチも必要な時代になりつつ あ る よ う だ 。 老人問題を考える上で
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主宰の藤木雅清師が ③ ﹁ い か に 老 い 、 いかに死すかの問いを自身にすることで ある。﹂と述べ、死というものと老いるという事を各自 で真剣に検討する必要を述べている。また壬生台舜先生 ⑨ は ﹁ まず自分の死に直面すると、最初に襲いかかるのは 死の恐怖である。:・中略:・徐々に死ぬのかなという予感 と共に 、 死そのものの恐怖がある。第二には死の瞬間の 苦しみがある 0 ・ : 中 略 ・ : 死 の 瞬 間 の 苦 し み 、 つまり呼吸 の止まる苦しみは大変らしい。第三には死後の不安があ る 。 ﹂と述べ 、死に臨んだ時を分析されている 。死とい うものの恐怖を乗り越えるだけの覚悟とは並大低のもの ではないだろうが 、 決して避けて通れないもので 、各自 がどのように受容するかが 問 題 であろう。そこに臨終の 前段階としての善知識が必要となってくる。 人間の死後の儀式については葬儀社と共に我々に全権 力が委ねられているが、残された者への布教は成し得て も浄土へ旅立った人に対して果して善知識となり抜苦与 楽がなされたかというと現在では困難であろう。老いる という事は死に至るまで一歩一歩近づく事で 、 死への恐 怖や苦痛を抱かない人は無いであろうし、ましては病老 人や独居老人などは一一層その感を強くするであろう。 四 浄土教思想の根本でもある﹁厭離械土、欣求浄土﹂の 考え方にしても死後の住生を目的として捉え、また臨終 に関しても浄土教では源信の﹃往生要集﹄の中で臨終行 儀を説き、直接的に死というものを回心の機会として捉 えている。善導大師の﹃発願文﹄でも﹁命終の時に臨ん で心顛倒せず 、 心錯乱せず 、 心失念せず 、 身心に諸々の 苦痛なく﹂と願っている。 - 37ー 死に臨んだ時の心構えが重要であることがポイントで あるが、年を老いていくに従い漠然と訳の分らない恐怖 感にさいなまれ、何かにすがりつきたくなる時聞が人そ れぞれにあるだろう。この時期に仏縁の機会が設けられ る人は臨終の心構えを得ることができ、また様々な境遇 に置かれた老人達にも同様の機会があれば精神的に安楽が与えられよう。これがホスピス ・ ターミナルケアの考 え方と浄土教との重複する部分である。現代の臨終行儀 、 善知識がそれに該当するのである。 五 それでは我々仏教者は高齢 化 対策として何をしたら良 いのだろうか。基本的には死というものを自覚した上で 、 死の教育
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白 2 0 ロ )をしなければならない。 現今の風潮として生をも含め死というものを正視しない 傾向に歯止めをかける必要がある。現在人生の出発であ る誕生と終鷲である臨終という人生の一大ドラマは関係 者だけの中で執り行なわれ 、 家 族 、 特に幼児 ・ 児童には 知らされていないのが実状である 。生 と死は ﹃ 生 死事 大 ﹄ である事を念頭におき、幼少期から愛頑動物の飼育 や祖父母との交流を通じ、愛し愛され、かっ、愛し愛さ れたものとの死別を経験する事が大切であり 、 青年期以 降は死という必ずやって来るものを認識した上での生き 甲斐のある生活を送り 、 老齢になってから弥陀 ・ 聖衆の 来迎を願う念仏生活を送る事が理想ではなかろうか。前 出の藤木師は文末において﹁これはお寺の 問 題であり 、 皆の問題であるのだ。相互に﹁公益の財産をいかに利用 するか ﹂ を検討する必要があるだろう ﹂ と述べ、より聞 かれた寺院のあり方を提案しているようだが 、 具体的に 考えれば 、 本堂を開放して老人向仏教セミナーや勤行を したり 、 境内を開放してゲ l トボ l ル場を設営したり 、 老人の通園施設としての﹁養老園﹂既存の幼稚園 ・ 保育 園に老人クラスを併設した﹁幼老園﹂ 、 電話相談日や悩 み事相談日を設けたり他にも様々な高齢者対策が立てら れよう。残り少ない人生をより充実した内容のあるもの にするべく生き甲斐を見つける方策を考えていったらい かがだろう。そういった事業を実施する事により一言の 言葉で救われる人も居るのではないだろうか。特別な施 設を持たなくても今あるだけの努力を払うだけで良いか ら浄土教本来の ﹁ 万人が救われる ﹂ え る 。 - 38 一端を荷えればと考 そして最終的な理想としては各人が法然上人の﹁禅勝 房に示される御詞﹂にあるような心境に到達して臨終時 を迎えたいものである。 いけらば念仏の功つもり 、 しなば浄土へ ま い り な ん 。とてもかくても此身には、思ひわづらふ事ぞなきと思ぬ れば死生ともにわづらひなし。 ① ② ﹃老人福祉対策の 現状と問題点 ﹄ 一 九 八 六 年 総 務 庁 行 政 監 察 局 篇 ﹃ 日 本 の 将 来 人 口新推計について ﹄ 一九八一年厚生省 人口問題研究所 ﹁老人の生活実態及び健康に関する調査﹂ 一 九 八