• 検索結果がありません。

佛教学研究 第71号 017吉田, 慈順「初期日本天台における因明研究について : 『愍諭弁惑章』の検討を通して」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教学研究 第71号 017吉田, 慈順「初期日本天台における因明研究について : 『愍諭弁惑章』の検討を通して」"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

初期日本天台における因明研究について

││﹃慾諭弁惑章﹄の検討を通して││

J

I

台をT il.!.'i

初JtlJH本天台における肉明研究につL、て

問題の所在

日本仏教における悶明の研究は、元興寺の道昭(六二九 i 七

O

O

)

に始まる。道昭の入唐した臼維四(六五 一ニ)年には、﹃因明入正理論﹄・﹃因明正理門論﹄の両論が玄突三蔵(六

O

i

六六四)によって訳出されており、 以降、法相宗の学僧を中心にその研績が深められてきた。 閃明は、他説を破し白説を論証することを目的とするものであるため、主として論争・論義の場において活用 された。しかしながら、自宗の教義の中で因明をどのように位置づけるかは、各宗派間で認識が異なっており一 定していたわけではない。本稿が主題とする初期日本天台における因明の研究にはこのことが顕著に表れており、 ソ ザ ン ヤ ヲ ① 開祖の伝教大師最澄(七六七 i 八二二)は、﹃守護国界章﹄(以下﹃守護章﹄)の中でコニ支之量、何顕--法性ご として、因明の三支作法では法性の道理を明らかにすることはできないという見解を示している。詳しくは後に 述べるが、このような見解は初期日本天台の諸師に通底していたようで、この最澄の困明観を出発点として、 - 275

﹁因明は天台の教義を研錯する上で不要な学である﹂という

H

本天台における困明の位置づけが形成されること と な る の で あ る 。

(2)

きて、このような日本天台の因明理解が生じた背景について、武邑尚邦氏は以下の見解を示されている。 たとえば、伝教大師最澄が﹁四記答は智の所須に約す。三支の量、何ぞ法性を顕わさんや﹂といって、因明 は仏教の至極を説く一乗の立場を明らかにする学問ではないと明言しているように、教学の中での明瞭な弘 置付けがないこと、また、﹁外典を習うは万をもて泥を切るが知く、泥は減ずることなく、しかも万は自ら 損するなり﹂という﹃名義集﹄の﹃大智度論﹄引用にも、このことが明らかに示され、ここでは内明因明の 関係は否定的である。 初期日本天台における困明研究について 以上のように仏教の外論である因明を所応学として認めない一乗家の人々が、自らの教えを護るために悶明 を研究することについて、抵抗を感じたのは想像できることである。といって、当時の南都の仏教に対して は、因明を学ぴ、その理論上の争いに勝つことが要請されていたのであ旬。 つまり武邑氏は、日本天台における困明研究は、自宗義の研鍵のためではなく、南都との論争の上でその必要 ③ が生じてきたものであったと述べられるのであるが、これは筆者も同意するところである。 さて、武邑氏の研究に限らず、従来、日本天台における因明研究については、歴史的な立場からその大綱を解 @ 明することに力点が置かれてきた。これら先行の研究によって、現在、日本天台における因明研究の様相はおお よそ明らかになったものと思われる。しかしながら、 そ の 一 方 、 日本天台の人師が実際の論義・論争においてど のように悶明を用いたのか、また、 困明の研究を必要とした当時の状況とはどのようなものであったのか、とい った個別的・具体的な問題については、未だ解明には至っておらず検討すべき課題が多く残されている。このよ うな研究が進展を見ない一つの要因は、当時の事情を伝える資料の多くが散逸していることにあるものと考えら そのような中にあって、第四代天台座主安慧(七九四

?

l

八六八)の﹃慾諭弁惑章﹄(以下﹃弁惑章﹄) れ る が 、 には、当時の天台宗に対して他宗から示された因明による批判、またその批判が実際の講会の場において問題と

(3)

なったものであることが記されており、当時の具体的な状況が窺える極めて貴重な資料となっている。そこで本 稿では、﹃弁惑章﹄に見られる日本天台に対する他宗からの批判と、 それに対する反駁を検討することで、当時 の日本天台における因明研究の実態について考究してみたい。

初期日本天台諸師の因明理解

初期日本天台におけるl現明研究について 本題に入る前に、先ずは初期日本天台の諸師が因明に対してどのような認識を有していたのかを、最澄・慈覚 大師円仁(七九四 l 八六四)・智証大師円珍(八一四 i 八九一)の三師を中心に確認しておきたい。 ス ル リ テ ス ル ヲ ノ ヲ 先ずは最澄であるが、前にも触れた通り﹃守護章﹄巻下之中﹁弾五免食者謬破=報仏知日常-章第三一﹂には、﹁四 ノ ソ ザ ン ヤ ヲ 記之符幻知日所用、三支之口剛一何顕ニ法性ごとして、附明によって法性の道理を明らかにすることはできない、と いう見解が示されている。換言すれば、法性の道理を扱う天台教義において、悶明は不要な学であるということ をいったものであるが、﹁弾段食者謬破報仏知 H 常章第一二﹂では、この考えに基づいて法相義に対する批判が展開 されている。ただし、この言は最澄が因明の論法を用いなかったということを意味するものではなく、法相側の 比量に対して、悶明作法をもって反駁を行う例は、﹃守護章﹄をはじめ﹃決権実論﹄・﹃通六九証破比量文﹄・﹃法 事秀句﹄といった最滋の著作中に散見される。また、最澄の将来円録である﹃伝教大附将来内州録﹄には、﹁附 7 F ⑤ 明疏二巻︿加=注悶明一巻 - v 六十三紙﹂として、最澄が因明に関する典籍を将来していたことが記されており、 最澄が因明に関する知識を有していたことは明らかである。しかしながら、最澄には天台の教義を因明によって 主張するといった積極的な姿勢は確認できず、その因明使用はあくまでも法相の比量を破すことが目的となって いる。この点、最澄の因明研究は、あくまでも対法相宗という目的に特化したものであったといえよ、市。 - 277

(4)

次に円仁であるが、最澄同様、その著作中に因明の論法をもって天台義を明かそうとする姿勢は確認できない。 しかしながら、将来日録である﹃慈覚大師在唐送進録﹄﹃入唐新求聖教目録﹄﹃日本国承和五年入唐求法目録﹄に 依ると、以下の通り因明に関する典籍は実に十三部が将来されており、円仁当時、因明研究の気運が高まってい た こ と が 窺 え る 。 初期日本天台における因明研究について ②因明入正理論疏一巻 ④十四過類記一巻 ⑥因明論科文一巻 ⑧因明義選上下二巻(中巻欠)沙門誓空録 ⑬因明義範一巻沙門空相 ⑫閃明入正理論義衡二巻(上下)沙門清素撰 ①岡明入正理論疏三巻沙門基撰 ③因明義断一巻沙門恵沼撰 ⑤因明義纂要一巻沙門恵沼述 ⑦因明論義疏三巻沙門利 ⑨因明正理門論述記一巻(下巻のみ?)沙門勝荘述 ⑪凶明義心一巻 ⑬閃明繰抄三巻章敬寺択隣述 ユ ト ノ チ またこのことは、門下への対応からも窺えることで、﹃入唐求法巡礼行記﹄には、﹁十六

H

、為=惟正惟晩日始 ム , 暗 唱 読--国明論疏ごとして、唐の開成四(八三九)年八月十六日に、弟子のために﹁因明論疏﹂の講読を行ったこと が述べられており、さらに、﹃本朝高僧伝﹄巻第八には円仁門下の玄昭律師(八四六

1

九一七)が因明に通達し ていたことを伝える以下の記事が確認される。 ヒ テ ノ -シ テ ノ ヲ シ ノ ヲ テ 7 ヲ ト / 仁和四年、会ユ皇太后五十之生辰い陽成上皇、請ニ諸名徳六十員一講ニ論諸宗妙旨-以慶二寿算 4 昭 与 = 南 京 勢 範 目 ス ノ ヲ ノ ユ シ テ ノ セ ニ ノ シ テ タ ニ へ ル 毛 ヲ ス ト ト ル エ ヲ シ ト ス 対=論因明義斗昭問鋒鋭、範答弁不 v通。時醍醐座主聖宝、歎目、世謂三昭公為=護摩王一今観 v之亦可 v称= t F 因 明 王 一 沙門清遁撰 ここには、仁和四(八八八)年に行われた皇太后の祝会において、玄昭が南都の勢純と凶明義についての対論

(5)

を行ったことが記されているが、勢範は玄昭の鋭い問いに答えることができなかったという。このような記録を 見るに、円仁は南都からの批判に対応するため、自身の門下に因明の研究を課していたものと推測される。 最後に円珍であるが、その将来目録である﹃開元寺求得経疏記等目録﹄・﹃福州温州台州求得経律論疏記外書等 目録﹄・﹃青竜寺求法目録﹄・﹃日本比丘僧円珍入唐求法目録﹄・﹃智証大師請来日録﹄に依れば、円仁将来の典籍と ⑩ 重複するものも含めて以下の四部が将来されている。 初期!日本天台におけるl刈明研究について ① 因 明 正 理 門 諭 一 巻 ② 因 明 入 正 理 論 疏 一 巻 ③ 因 明 論 疏 三 巻 基 ④ 凶 明 疏 繰 抄 三 巻 清 翰 座 主 手 書 本 ス ル ノ ニ さて、円珍の因明理解が明確に示されているのは、﹃授決集﹄巻下﹁徴--他学-決五十二﹂に見られる以下の見 解 で あ る 。 ノ ニ レ ノ ニ シ テ り ニ シ テ ニ 守 タ リ ユ テ 凶明道理与二外道-対、多在ニ小乗及以別教斗若守一ニ法華・華厳・浬繋等経一是接引門、権対 ν機設。終以引 シ テ ム 7 v テ シ テ ラ ニ ⑪ 進、令三邪小之徒会歪ニ真理由也。 すなわち、因明の目的は邪小の徒を真理に引き入れることにあり、小乗及ぴ別教においては有効であるものの、 法華経・華厳経・浬般市経等といった円教の教説に準拠すれば﹁接引の門﹂に過ぎないというのである。これは前 の最澄の見解と共通するものであり、このことから、天台教義を研鍵する上で因明は不要の学であるという認識 - 279

義浄訳 選 は初期日本天台の諸師に通底したものであったと考えられる。 以上のように、最澄・円仁・円珍はそれぞれ因明に対する知識を少なからず有していたことが知られるのであ るが、三師ともに自宗義の研鍍のために因明を用いるといった姿勢は確認することができない。この点、先行の 研究において指摘されていた、日本天台における悶明の研究は他宗との論争において必要となったものであった という見解は、十分に認められるものであるといえよう。

(6)

では、当時の日本天台に対する他宗からの批判とはどのようなものであったのだろうか。次に﹃弁惑章﹄を検 討することで、この点について考えてみたい。 ﹁ 三 中 牛 車 ﹂ 比 量 と ﹁ 大 白 牛 車 ﹂ 比 量 初期日本天台における岡明研究について ﹃ 弁 惑 章 ﹄ は 、 承 和 十 一 ⑫ 撰述された書物である。本書は、天台宗に対して提示された他宗からの批判に対して、全十二章から反駁を行う ス ノ ヲ ス ものであるが、この中、悶明に関する問題が扱われるのは、第七章﹁通乙ニ権一実疑-第七﹂及ぴ第十二章﹁通ニ J F 索 車 不 索 車 疑 -第 十 一 一 ﹂ の こ 章 で あ る 。 ﹃弁惑章﹄の興味深い点は、本書の第七章・第十二章において反駁されているのが、三論宗玄叡 ( ? l 八四 ⑬

O

)

の﹃大乗三諭大義紗﹄(以下﹃大義紗﹄)の説であるという点である。この﹃大義紗﹄に対する反駁は、﹃弁 惑章﹄中最大の紙数を費やして論じられており、極めて大きな問題意識をもって扱われている。そこで、先ずは ﹃弁惑章﹄が反駁する﹃大義紗﹄の説について確認しておきたい。 ﹃大義紗﹄のコニ車問車評論﹂では 1 天台宗・華厳宗において主張される四車説に対して、以下の三支による (八四四)年五月七日から承和十四年四月十五日までの約三年の聞に、安慧によって 批判がなされている。 ヒ テ テ ハ ノ ヲ チ ス ニ テ テ ヲ タ カ ス ル ノ ノ ハ ニ ナ ル ハ ス カ ノ ト 若汝強分エ二牛異-者、即違 ζ 比量 A 立=比量-云、汝執三中牛車応ニ真実ベ︿宗﹀。汝許二大車所摂-故︿因 v / カ ス ル ハ ニ ザ ル ニ ハ ス カ ノ ト ニ シ カ ス ル J ノ ノ 如=汝許大白牛車-︿喰﹀。汝執大白牛車応 ν ν実︿宗 v 。汝許=大車所摂-故︿因﹀。知=汝執三中牛車-シ カ ン ハ サ / / ハ レ ナ リ ト チ ス ル カ ニ ニ ノ ハ タ キ テ ニ 7 9 テ一--セハ ︿ 喰 v 。若汝不 ν許乙ニ中牛車是大車-者、即違 v 経故。向来徴詰、且就 v轍言。復拠 v法徴、羊車戸問、鹿車 十 リ / / ハ ン ノ ト カ ン レ ト ヤ ン レ ト ヤ シ ハ 山 バ ハ レ ナ リ ト シ ラ ハ チ レ ノ J A -牛 車 仏 乗 。 三 外 臼 牛 為 = 何 喰 -耶 。 為 = 日 疋 菩 薩 一 為 二 是 仏 乗 ベ 若 言 コ 二 回 疋 菩 薩 一 若 爾 即 日 疋 三 中 牛 車 、 応 ν 縁 覚 、

(7)

カ ル ル コ ト 十 ル コ ト -ト 占 7 レ ハ ニ シ テ ヲ ハ タ ト チ ン 買 ハ レ ノ ノ ナ ル コ ト ヲ @ 無 ν ν 別 ニ 大 臼 牛 車 一 何 者 、 経 A H ニ三車-云、声聞・時支仏・仏乗。即知仏乗是三中牛。 先ずは﹃大義紗﹄の初量、﹁三中牛車 L 比量についてであるが、以下の三支から構成されている。 汝が執する三の中の牛車は応に真実なるべし。(宗) 汝は大車の所摂と許すが故に。(悶) 初期日本天台における1M明研究について 汝が許す大白牛車の如し。(喰) ここでは、四車説において大白牛車は真実乗であり、三車の牛車は方便乗であると主張されることに対して、 コ二車の中の牛車は真実乗である﹂という宗が立てられる。次いで、その因として、三車の中の牛車は﹁大車の 所摂﹂であるといい、その上で、﹁大白牛車の如し﹂という喰を示し、大車の所摂である大臼牛車が真実乗なの であれば、同じく大車の所摂である三車の中の牛車もまた真実乗であると主張される。 次に後量の﹁大'日牛車﹂比量であるが、以下の三支となっている。

- 2

8

1

-汝が執する大白午車は応に実に非ざるべし。(宗) 汝は大車の所摂と許すが故に。(因) 汝が執する三の中の牛車の如し。(轍) ここでは、前のコニ中牛車﹂比量を踏まえた上で、﹁大白牛車は真実乗ではない﹂という宗が立てられる。閃 は前と同じく﹁大車の所快﹂であり、これに﹁三の中の牛車の如し﹂という喰が示される。要するに、大車の所 純一である三車の中の牛車が方便乗なのだとすれば、同じく大車の所摂である大白牛車もまた方便乗である、と主 張しているわけである。 以上のように、﹃大義紗﹄は、四車説が論理上成立しないことをコニ中牛車﹂比量と﹁大白牛車﹂比量の二比 量をもって指摘するのであるが、この二比量は、﹃弁惑章﹄﹁通三権一実疑第七﹂において以下のように反駁され

(8)

て 問7 る テ 。

ニ テ テ ヲ シ テ ヲ タ カ ス ル ノ ノ 、 ニ ナ ル ハ ス カ ノ ト ニ シ カ ノ 三車之家立 v 証成=道理由云、汝執三中牛車応ニ真実-︿宗﹀。汝許ニ大車所摂目故︿岡﹀。知ニ汝大白牛車-カ ス ル ハ ユ サ ル ニ ハ ス カ ノ ト ニ シ カ ノ ノ ノ タ 十 ・ ヲ ハ ノ ヲ ン ︿喰﹀。汝執大白牛車応 ν v ︿ 宗 ﹀ 。 汝 許 = 大 車 所 摂 -故 ︿ 因 ﹀ 。 如 二 汝 三 中 牛 車 -︿ 喰 ﹀ 。 如 ν 是 有 二 何 過 -乎 。 ヲ カ ユ ア 0 ・ -リ タ リ ⑮ 答、汝宗有法一分不極成之過。図有ニ法差別相違之過 A 又 有 = 相 符 之 過 斗 以 下 、 ﹃ 弁 惑 章 ﹄ 中最大の紙数を費やして、 ﹂の二比量に対する反駁が詳述されている。そこで つづいてそ の一々を確認しておきたい。 初期日本天台における因明研究について 先 ず は 、 ﹃ 大 義 紗 ﹄ の立てる宗に﹁有法一分不極成の過﹂があるという反論であるが、以下のように解説され て い る 。 7 片 ト カ ユ タ ノ ノ -リ タ ト ト ナ リ ハ ム ヲ レ ナ ル カ ナ リ ハ メ ヲ ル カ 言二有法一分-者、我宗云、三中菩薩有 ν 二。謂地前地上。地前索 ν 。 是 方 便 故 。 地 上 不 ν v車。由ユ証道 シ キ ニ 十 リ ト カ ノ ツ ル ハ ン ス ト ヤ レ ユ ン ス ト ヤ レ ユ シ ハ パ ト ν ハ ザ ナ ル コ ト ヲ シ ハ ハ ト 同 -故 。 A 1 汝所 v 宗 、 為 ν約二是地前﹂為 ν約=是地上-乎。若云ニ地前-者、我不 v v実。若云ニ地上-者、 号 タ ス ヲ ノ ノ リ ニ ノ ノ ノ ヲ レ ハ ザ ニ ヲ ナ リ ニ ア リ ト ⑬ 我亦許 ν之。宗有法処、有=此二差別 A 彼 有 法 一 分 我 不 v許。故云=有法差別一分不極成之過寸 ﹁有法一分不極成﹂は、対論者に承認されない宗の有法、すなわち主張命題の主語(前陳)を用いる過失のこと で、ここでは﹁三中牛車﹂比量の宗にあるコニの中の牛車﹂についてが問題となる。﹃弁惑章﹄は、菩薩には ﹁地前の菩薩﹂と﹁地上の菩薩﹂の二種の別があるといい、﹁地前の菩薩﹂は方便、﹁地上の菩薩﹂は真実である という天台の説を挙げる。その上で、﹁三・中牛車﹂比量の﹁三の中の牛車﹂が、﹁地前の菩薩﹂と﹁地上の菩薩﹂ のいずれを指すのか、と問いかけ、もし﹁地前の菩薩﹂を指すというのであれば、﹁地前の菩薩は真実である﹂ などという主張を受け入れることはできず、もし﹁地上の菩薩 L を指すというのであれば、これは天台において も承認されることでありそもそも議論を要しないという。つまり、﹁三中牛車﹂比量のコニの中の牛車﹂に合意 される一方が天台においては承認できないものであるため、ここに有法一分不極成の過失があると指摘している

(9)

の で あ る 。 初期日本天台におけるl掲明研究について 次に﹃大義紗﹄の悶に﹁法差別相違の過﹂があるという指摘であるが、以下の通りである。 7 ハ ニ ア リ ト カ ニ タ ニ リ ク ノ ト ノ ト 十 リ フ パ ノ ト チ カ ノ ノ ナ リ 7 パ 一言ニ図法差別相違之過-者、我宗云、真実有二二種一謂待二真実絶待真実。一言ニ待二真実一即汝三中菩薩。言ニ ノ ト チ カ ノ ナ リ カ ノ ツ ル ノ ナ ル カ ニ ト ノ ハ ク タ ス ル カ ノ ノ ノ 十 ル コ ト ヲ タ ク ス 絶待真実一即我大白牛菩薩。今汝所 ν立、大乗所摂故因、如三能成=立三中菩薩真実-、亦能成二立大臼 ノ ナ ル コ ト ヲ ニ ア リ ⑫ 牛真実一般法差別相違之過。 ﹁法差別相違﹂とは、宗の法、すなわち主張命題の述語(後陳)について、ここに内含するものと.矛盾したこと いまは﹃大義紗﹄の﹁大事の所摂﹂という凶が問題となる。﹃弁惑章﹄ を証明してしまう因を立てる過失であり、 は、真実には、羊車・鹿車の二に対して牛車を真実とする﹁待二の真実﹂と、比較対立を超えた唯一の真実であ る﹁絶待の真実﹂の二種があるといい、この﹁大車の所摂﹂という困では、﹁待二の真実﹂である三の中の菩薩 - 283

の真実性を成立させる一方で、﹁絶待の真実﹂である大白牛車の真実性をも成立させてしまうため、ここに﹁法 差別相違﹂の過失があると指摘する。 次に﹁相符の過﹂であるが、これは主張者・対論者ともに承認されており、 そもそも議論を必要としないこと を主張する過失のことである。 タ リ カ ニ ク ノ ノ ハ ニ ハ ハ ク ト ニ ラ / ラ ナ ル コ ト ヲ ニ メ テ ク ナ リ ト カ 又有=相符之過﹂我宗云、三中菩薩、未開以前仏説エ真実一故自不 ν ν 。 巳 開 之 日 始 説 二 方 便 二 今 汝 ノ ツ ル パ ン レ メ テ ユ ツ ト ヤ ン レ メ テ ニ ッ ト ヤ シ ハ ハ ス ト ニ レ ハ サ ノ ノ ノ ナ ル コ ト ヲ ニ 所 ν 量 、 為 下 臼 疋 望 ニ 己 開 -立 主 、 為 下 回 疋 望 = 未 聞 司 ・ 立 上 乎 。 若 云 v約=巳開-者、我不 ν許ニ三中菩薩実寸故有法 ア リ シ ハ ハ ス ト -レ モ タ ス ノ ノ ノ 十 ル ヨ ト ヲ ニ ア リ シ ハ パ ス ト 品 一分不成之過。若云 ν約=未開-者、我且許ニ三中菩薩実一故有法一分相符不成之過。若云 ν 三 未 聞 -者 、 ν 宅 ス ノ ノ ノ ナ ル コ ト , ユ ア リ タ カ 品 タ キ テ ノ ヲ ス ト ノ ヲ ノ ニ A ﹃ 之 ﹄ カ ? ア V サ ル コ ト 我許ニ三中菩薩実 J 故相符之過。又我宗云、巳開之

H

、 開 = 方 便 門 -示 = 真 実 相 A 是故、三乗又性、無 ν 非 ニ -ハ テ シ ノ ニ ク リ カ ハ ツ ル ン ス ト ヤ ニ ン ス ト ヤ 品 シ ハ ハ ト レ モ ス 真実寸未開以前都無=此義斗故且有ニ方便一今汝所 v立、為 v約=己問一為 v約ニ未開寸若云ニ巳開-者、我許ニ ト レ ハ ザ ヲ ニ タ ア リ ⑬ 此義 A 故有ニ相符之過寸若云=未聞-者、我不 v ν之。故又有法一分不極成。

(10)

ここで﹃弁惑章﹄は、菩薩を﹁未聞の菩薩﹂と﹁己開の菩薩﹂の二種に分類し、法華が聞かれる以前の、三乗 が方便であることを未だ理解していない段階の菩薩を﹁未聞の菩薩ヘ一乗真実・三乗方便を解する法華開会以 後の菩薩を﹁己聞の菩薩﹂に分類する。その上で、﹁三中牛車﹂比量は、﹁未開の菩薩﹂と﹁巳聞の菩薩﹂のいず れに対して立てられたものであるのか、と問いかける。つまり、﹁巳聞の菩薩﹂は、三乗が方便であることを既 初期日本天台における悶明研究について に解しているのであるから、コニの中の牛車は応に真実なるべし﹂という宗は成立しないこととなり、ここに先 と同様、有法一分不極成の過失があるという。一方で﹁未開の菩薩﹂についていえば、法華経以前は、三乗が真 実であると説かれるのであるから、﹁三の中の牛車は応に真実なるべし﹂という宗は議論を要するまでもなく、 互いに承認されることであり、ここに、相符の過失があると指摘しているのである。 以上、﹃弁惑章﹄寸通三権一実疑第七﹂における﹃大義紗﹄の二比量に対する反駁について確認してきた。一 さて、玄叡の﹃大義紗﹄には、ここに確認した﹁三車四車評論﹂に限らず、広く他宗の説に対して因明の論法制 をもってこれを破折しようとする姿勢が随処に見られる。また、本書の一種独特な論述形式については、大西龍一 峯氏が次のような見解を示されており、注目されるところである。 例えば、通常は自宗が答者の側にたって、他宗の批判を受けて答えるというのが一般であるが、本書では時 に自宗が問者の側にまわって、他宗の学説を問いつめていくという形も見られ、これなどは当時の具体的な 対論に取材することによっヤ生じたものではないかと推察され旬。 前に確認したような因明による批判が、論義の場において大きな効果を発揮したであろうことは想像に難くな い。この点、﹃大義紗﹄が﹁当時の具体的な対論に取材することによって生じたもの﹂であったという推測は十 分にあり得ることであると忠われる。いずれにしても、﹃弁惑章﹄がその反駁に最も力を注いだものが﹃大義紗﹄ の説であったという点は、日本天台における因明研究に三論宗が大きな影響を与えていたことを示すものであり、

(11)

興味深い点であるといえよう。 四 ﹁ 所 説 一 仏 乗 ﹂ 比 量 次に、﹃弁惑章﹄﹁通紫車不索車疑第十二﹂に見られる﹁所説一仏乗﹂比量に対する反駁を雌認することにした ¥.-) 初期日本天台における同1I}1liJf:先について 天台の四車説に対して﹁有る ﹃ 大 義 紗 ﹄ の二比量について再説された後、 ﹁通索車不索車疑第十一一﹂では、先の 人﹂が立てた次の比量が問題とされている。 ル ニ サ ン カ ヲ テ テ ヲ ク キ ヲ キ テ ニ 有 人 、 為 v -四 車 -立 ν 回 一 云 、 除 ニ 絶 待 門 -就 ニ 相 待 門 い 十 ル カ ニ キ ハ ノ ノ ユ レ テ ノ ノ ヲ シ 来故。若ニ諸仏乗-者、皆既離=三中大乗-而無=別体-ノ ハ レ テ ノ ノ ヲ ニ カ ル 所説一仏来、離二三中大乗回応 v = 別 体 -シ ノ ノ ノ @ ︿ 困 ﹀ 。 如 何

E

?

中 牛 車 -︿ 轍 ﹀ 。 レ 是 仏 ︿ 告 示 ﹀ 。 - 285

が如何なる人師であったかが問題となるが、 ﹃ 弁 惑 章 ﹄ そ こ で 、 の蹴文 ﹁ 有 る 人 ﹂ このことについては、 こ の に以下のように記されている。 イ テ ニ ナ リ ツ ル ニ ハ 右一箇比量、下野州薬師寺別当僧、法相宗知日公、承和十四年四月十三日、於ニ国分塔会-所 ν 也 。 会 庭 卒 ニ モ ハ ヌ ル コ ト ヲ ヒ テ ヌ ル 二 ノ ノ ヲ ク リ テ ス ヲ ノ イ テ 爾 不 ν v ν 失、今追尋エ其所立三支-多有ニ所犯イ例以為=似比量-也。天台宗沙門伝灯法師位安慈、於ニ ノ ニ カ テ シ ル シ テ ハ ク ハ シ キ レ ニ ユ レ ス ル コ ト @ 下野大慈寺菩提院遊行之次一柳以紗記畢。伏庶幾、同 v我後哲、幸莫=峻咲-失。承利十四年四月十五日。 つまり、この﹁有る人﹂の立てた比量は、承和十四(八四七)年四月十三日に下野の薬師寺において行われた 国分搭会において、﹁法相宗の知日公﹂なる人物が主張したものであり、安慧はその場ではこの智公の比量に応え ることができなかったという。 凶明の三支作法を用いて対論者へ反論を行う例は最澄にも確認されるものであるが、﹃弁惑章﹄最大の特徴は、

(12)

これが実際の講会の場において立てられた比量であるという点にある。これは、当時の状況を伝える文献が多く 散逸している現状にあって極めて貴重な資料であり、 ﹂こから当時の日本天台が置かれていた具体的な状況を窺 うことができるのである。 そこで、この智公なる人物が立てたという三支であるが、 所説の一仏乗は、三の中の大乗を離れて応に別体なかるべし。(宗) これを整理すると以下のようである。 是れ仏乗なるが故に。(困) 初期日本天台における因明研究について 三の中の牛車の如し。(喰) 一仏乗は三車の中の牛車と同一の車である、という宗が立てられている。因の﹁是れ仏乗なる が故に﹂、憾のコニの中の牛車の如し﹂というのは、仏乗は三の中の大車を離れて別にあるものではなく、 ﹂ の 三 支 で は つ ま る と こ ろ 、 大臼牛車と三車の中の牛車とは同一の車である、 ということをいったものである。 これに対して、﹃弁惑章﹄は、この シ テ ク J J ・ -リ ノ 今破云、此量宗有二聖教相違失 4 相 違 失 句

又,£

F

相 一 符ノ仏

失警

比量は以下の過失を犯しているという。 タ タ ナ リ ユ リ ノ タ q ノ ト ヒ 又云立巳成。因有二共不定失寸又有二決定相違失及有法差別 先ずは、宗に対して指摘される﹁聖教相違の失﹂であるが、これは自らが信奉する教学(聖教)と矛盾したこ とを主張する過失のことをいう。 ノ 7 ノ ト ハ キ ノ ノ ノ タ ナ リ 所 ν言違教失者、知ニ華厳・大集・大般若・法華・浬繋等-諸大乗経中、皆説=四乗 4 ・ : 中 略 : ・ 知 ν是、経論 ニ ノ タ / ハ ス ニ ス ル ニ レ テ ノ ノ ヲ ユ リ ル ニ カ ノ ツ ル ニ ハ ヘ リ パ レ テ ノ ノ ヲ ニ 中所 ν説四乗文義非 ν 一。準知、離乙ニ中大乗﹂別有二仏乗イ然汝所 ν立宗、云下唯一仏乗、離=三中大-之外 シ ト ル コ ト タ ン ハ チ ス ノ J J ・ -ノ タ ニ ユ 7 ナ リ ノ ア リ ト @ 無歩有二別体寸無=別体-者、即違=於如上諸大乗中所 v説四乗之文寸故云=聖教相違失﹂ ﹃弁惑章﹄は、華厳経・大集経・大般若経・法華経・浬繋経等から、 間乗を真実とする経証を示すことで、﹁三

(13)

の中の大乗を離れて応に別体なかるべし﹂という﹁所説一仏乗﹂比量の主張がこれらの経説と相違したものであ 初期日本天台における闘明研究について ることを指摘し、これをもって聖教相違の失としている。 次に、同じく宗の過失として指摘される﹁相符の失﹂であるが、 7 パ ト シ サ ハ / ノ ユ レ 号 ス レ テ ノ ノ ヲ ユ シ ト ル コ ト ル ニ ハ シ テ ラ カ ノ ヲ テ テ ヲ ク 言-相符-者、若約二三中権仏乗-者、我許下離ニ三中大乗-之外無歩有・-別体ベ然汝不 v ニ 我 宗 義 一 立 -定 量 -云 、 ニ ノ ハ レ テ ノ ノ ヲ カ ル ノ ニ 7 ナ リ ア リ ト @ 応下所説仏乗離ニ三中大乗-無申別体 U H 疋故、云ニ相符之失一 として、そもそも三車の中の大乗を、天台宗では権仏乗であると捉えているのであるから、権仏乗と三の中の大 乗が同一である、というのであれば、主張者・対論者ともに承認されることでありここに議論の必要はない。よ って、この主張は相符の過失を犯していると指摘している。 次に凶に対して指摘される﹁共不定の失﹂であるが、﹁共不定﹂とは、困の有する概念が広範に過ぎ、職の中 - 287

の同日聞にも奥口川にも及んでしまう過失をいう。 7 ハ ノ ト ン キ ハ カ ノ ス ル ノ ノ ハ レ ナ リ ニ レ テ ノ ノ ヲ シ ト ヤ ン ク レ ノ ノ ツ ル 一 育 ニ 北 ハ 不 定 失 -者 、 為 下 如 ユ 汝 所 v執、三中牛車是仏来、故離ニ三中大乗弘山中別体 ν 為下如二我所 v立、大白牛車 レ ナ リ ニ レ テ ノ ノ ヲ リ ト ヤ ユ ク ノ ト @ H 疋仏乗、故離ニ三中大乗-有中別体 U 故名ニ共不定失 A ﹁仏乗なるが故に﹂ ﹃弁惑章﹄は、﹁所説一仏乗﹂ という因では、 比量の ﹁三の中の牛車は仏乗である つ ま り 、 から三の中の大乗を離れて別体がない﹂ という主張が成り立つと同時に、 ﹁大臼牛車は仏乗であるから三の中の 大乗を離れて別体がある﹂ という主張も成り立ってしまうことを指摘し、 ここに共不定の過失があると指摘して いるわけである。 次に指摘される﹁決定相違の失﹂は、正当な三支作法を踏まえた上で、相互に矛盾した主張の成立することを フ 三宮

1=司7 決 定 相 違/ 失ト 者 レ テ ノ ノ ヲ ニ ル 離 二 三 中 大 乗 -応 ν ニ 別 体 - 十ルカ--権実別故︿因﹀。 立 ν量破云、 所 説 仏 乗 、 ホ シ カ ノ 酋

H

K

庁 ι M A -4 t H f v ︿ 告 示 ﹀ 。

(14)

ツ ル ノ シ テ シ ハ ス ル コ ト ヲ ニ タ ノ ト @ 立理智-︿喰﹀。両宗講返、因・喰各成、不 ν ν生=決解寸故名=決定相違失↓ ここで﹃弁惑章﹄は、﹁所説一仏乗﹂比置と矛盾する以下の三支が成立することを示し、﹁所説一仏乗﹂比量が 決定相違の過失を犯していると指摘する。 所説の仏乗は、三の中の大乗を離れて応に別体あるべし。(宗) 権実別なるが故に。(因) 猶ほ汝が立つる所の理智の加し(喰) 初期日本天台における闘明研究について つまり、仏乗は三の中の牛車を離れて別に存在する、と主張し、これが正当な閃明作法によって成立している ことを示すことで、﹁所説一仏乗﹂比量に決定相違の過失のあることを指摘しているのである。なお、困・轍が 今ひとつ理解しにくいが、因の﹁権実別なるが故に﹂とは、仏乗は真実であり三車の中の大乗は方便であるから この両車は別であるという意で、喰の﹁理智の如し﹂とは、法相唯識において、無漏智である理智と有漏智であ る事智との別が説かれるのと同様であるという意であろうか。 最後に因の過失として指摘される﹁有法差別相違の失﹂についてであるが、これは、宗の前陳が内含する意味 と矛盾したことを成立させてしまう過失をいう。 フ ハ ノ ト ノ エ リ ノ ユ ハ ノ チ レ ノ ノ ナ 9 エ ハ ノ チ レ ノ 言=有法差別相違失-者、有法之家仏乗、有ニニ差別寸一歴別仏乗、即是三中権仏乗。二純円仏乗、即日疋三 ノ ナ リ レ ヲ ケ テ ス ト ノ ナ ル カ ニ ハ タ タ ス ル カ レ テ ノ ノ ヲ タ シ ト タ タ ス レ テ ノ 外実仏乗。是名為=有法之差別斗彼仏来故之困、知 T 能成丙立離ニ三中大乗-亦無 z 別 体 炉 亦 能 成 下 立 離 = 三 ノ ヲ ニ ル ユ 7 ト @ 中 大 乗 -応 h v = 別 体 斗 故 云 = 法 差 別 之 失 由 也 。 ここでは、﹁所説一仏乗﹂比量の宗の﹁仏乗﹂には、権仏乗である﹁歴別の仏乗﹂と実仏乗である﹁純円の仏 乗﹂というこ種の差別が存在するとし、これをもって有法差別相違の過失があると指摘したものである。つまり、 ﹁所説一仏乗﹂比量が立てる﹁仏乗なるが故に﹂という因では、﹁︹権仏乗は︺三の中の大乗を離れて別体がな

(15)

い﹂という主張が成立するとともに、﹁︹実仏乗は︺三の中の大乗 ( H 権仏乗)を離れて別体がある﹂という主張 も成立してしまうことになるという指摘である。またこのことは、宗の後陳である﹁三の中の大乗﹂が﹁実仏 乗﹂を指すのか、﹁権仏乗﹂を指すのかにも関連するため、ここに﹁法差別相違﹂の過失をも含むことになると ぃ 、 フ 。 初期日本天台における図191研究について 以上、智公の﹁所説一仏乗﹂比量に対する﹃弁惑章﹄の反駁について確認してきた。前に挙げた﹃弁惑章﹄の 肱文の通り、この智公による論難は、承和十四年に下野の薬師寺で行われた講会の席で問題となったものである。 この当時の束図は、道忠(七三五頃1八

OO

頃)の流れを汲む教団と徳一(?1八四二?)の流れを汲む教同と @ の問で論争が行われており、いわば東国布教の最前線であった。また、﹃弁惑章﹄の著者安惑は、もともと道忠 , , 門下の広智(生没年未詳)の弟子であり、﹁通索車不索車疑第十二﹂を記したという﹁下野大慈寺﹂は広智の住 した寺院である。このようなことを考えると、﹃弁惑章﹄撰述の背景には、当時の東国において行われていたこ ニ ハ ニ ハ ヌ ル コ ト ヲ の論争の影響があったものと推測されよう。さて、欧文には﹁会庭卒爾不 ν ν ν 失 L として、智公に対して その場で反論することができなかったことが記されているが、前のような事情を考えると、このことは、安慈の みならず天台教団にとっても大きな打撃であったものと忠われる。前に、円仁が門下のために﹁凶明論疏﹂の講 読を行ったこと、また円仁門下から玄昭のような凶明に通達した人師が現れることを紹介したが、その背景には、 - 289

当時の天台教団の置かれていたこのような状況があったものと考えられるのである。 五

これまでに述べてきた通り、天台教学の中で凶明をどのように位置づけるかについては、最澄が﹃守護章﹄に

(16)

おいて﹁因明は天台の教義を研鎖する上で不要な学である﹂という見解を示している。このような認識は、初期 の日本天台諸師に通底したものであったと考えられるが、その一方で、最澄をはじめ、円仁・円珍は、ともに悶 明に関する研究を行っていたことが知られる。つまり、この三師には自宗義の研績とは別に因明を研究する必要 があったものと考えられるのであるが、では、それは具体的にどのような状況であったのだろうか。本稿では、 安慧の﹃弁惑章﹄に見られる悶明に関する議論を検討することでこの問題について考究してきた。最後にその検 討結果をまとめておきたい。 初期日本天台における因明研究について ﹃弁惑章﹄において第一に注日される点は、本書の﹁通三権一実疑第七﹂﹁通索車不索車疑第十二﹂において最 大の論敵となっているのが、玄叡の﹃大義紗﹄の説であったという点である。﹃大義紗﹄には、他宗の教義を批 判する際に因明の論法が多く用いられるのであるが、その中、﹁三車四車評論﹂においては二つの比量によって 天台の四車説への批判が展開されている。これに対して﹃弁惑章﹄は-本書中最大の紙数を費やしてこの二比量 に対する詳細な反駁を行っており、極めて大きな比重をもって取り扱われている。 従来、日本天台と他宗との論争については、最澄と徳一との論争が後世に大きな影響を及ぼすものであったた め、天台対法相といった観点からこれを窺うことが主流となっている。しかしながら、こと因明に関していえば、 天台義を論難する姿勢は、むしろ﹃大義紗﹄に強く見られるものであり、その影響の大きさは﹃弁惑章﹄の対応 からも窺えるところである。この点、日本天台における因明研究を検討する上で、三論宗の影響について改めて 考究する必要があろう。 次に、﹃弁惑章﹄寸通索車不索車疑第十二﹂における、智公の寸所説一仏乗﹂比量に対する反駁であるが、ここ で注目されるのは、この比量が実際の講会において問題となったものであるという点であり、これは、当時の状 況を記した資料がほとんど残されていない現状にあって極めて貴重なものとなっている。

(17)

さて、この﹁所説一仏乗﹂比量は、蹴文の記載から下野の薬師寺で行われた講会において問題となったもので あったことが知られるが、安慧は知日公の問いに対して、その場で反論することができなかったという。この当時 の東国では、道忠系の教団と徳一系の教団とによって論争が行われており、安慧自身が道忠系の出身であること からも、﹃弁惑章﹄撰述の背景にはこの論争が大きな影響を持っていたものと推測される。このように考えると、 当時の東国布教の最前線にあって、知日公の論難にその場で対応することができなかったという出来心事は、安慈の みならず天台教団にとっても痛恨事であったことと忠われる。﹃弁惑章﹄に記されるこのような状況を鑑みるに、 初期

u

本天台における凶別研究について 当時の日本天台が置かれていた状況は相当に深刻なものであり、このような状況こそが、初期日本天台の諸師が 閃明の研究を必要とした理山であったものと考えられるのである。 ③ ② ① 註 口 可 U つ 白 伝 全 二 ・ 五 六 七 。 武邑尚邦﹃悶明学起源と変遷﹄、法蔵館、昭和六一年一二月、一五二頁。 以下の通り、日本天台における因明研究を通史的にまとめられた藤本文雄氏も同様の見解を示されている。 日本天台における因明学の研究は、法相唯識に対する論争への必要性から学ばれていったと一面では考えられる。 因明は論敵に対して立者が筋みちを立てて難ずるので、論評においては最も効果的であった。特に南都の三会に 参加することは、公に自説が主張できる場所であったため、初期日本天台においては利用すべき場であったと考 えることができる。(藤本文雄﹁日本天台の因明学研究と論義﹂﹃印仏﹄一二六

l

二、昭和六三年三月、五八九頁) ④佐伯良謙﹃困明作法変遷と著述﹄(法降寺、昭和四四年)、中村元﹃日本人の思惟方法(中村元選集[決定版]第三 巻 ) ﹄ ( 春 秋 社 、 平 成 元 年 ) 。 ⑤伝全四・三六六。 ⑥最澄が本書を将来したことは、弘仁二(八一二年七月十七日の﹃御経蔵宝物聖教等目録﹄に寸天台悶明抄等一軟 ︿ 岡 、 日 録 在 v別。﹀(伝全問・三四五)﹂と記されていることからも確認できる。

(18)

初期日本天台にiヲける因明研究について ⑦以上のような最澄の因明観は、中国の仏性論争における一乗側、取り分け法宝(六二七 1 七

O

l

O

六頃)の見 解を引き継ぐものであったと考えられる。拙稿﹁最澄の因明批判│思想的背景の検討

l

L

(

﹃ 天 台 学 報 ﹄ 五 六 ・ 平 成 二 六 年 一

O

月 ) を 参 照 さ れ た い 。 ⑧﹃日仏全﹄一一三・二

O

四 下 。 ⑨﹃日仏全﹄一

O

ニ・一四四下 1 上 。 ⑬実際に存在したか否かは明らかではないが、華厳宗の鳳揮二六五四 1 一七三八)の﹃因明入正理論疏瑞源記﹄の 巻末にまとめられる﹁因明本支経論疏記総目 L に は 、 ﹁ 四 相 違 記 ︿ 一 一 一 札 智 証 翻 大 師 述 ﹀ ﹂ と し て 、 円 珍 に ﹃ 四 相 違 記 ﹄ なる著作のあったことが記されている。 ⑪ 大 正 七 四 ・ 三

O

九 中 。 ⑫﹃弁惑章﹄の成立時期については、拙稿﹁﹃慰諭弁惑章﹄の位置づけ│最澄・徳一論争の展開上において│﹂(﹃印 仏 ﹄ 六

O

ー一、平成二三年一二月)を参照されたい。 ⑬三車四車を巡る﹃弁惑章﹄と﹃大義紗﹄の論争については、木内尭大﹁初期日本天台における三車四車誇論につい て ﹂ ( ﹃ 印 仏 ﹄ 五 九 ・ 二 、 平 成 二 三 年 三 月 ) の 論 考 が 詳 細 な も の で あ る 。 ⑪ 大 正 七

0

・ 二 ハ 八 中 1 下 。 ⑬ 伝 全 三 ・ 四

O

四 1 四

O

五 。 ⑬ 伝 金 三 ・ 四

O

五 。 ⑪ 伝 全 三 ・ 四

O

六 。 ⑬ 伝 全 三 ・ 四

O

五 i 四

O

六 。 ⑬大西龍峯﹁﹃大乗三論大義抄﹄の思想史的考察﹂(﹃三論教学の研究﹄、,春秋社、平成二年、五九六頁) ⑫伝金三・四三九 i 四 四

O

。 @伝全三・四四四。 @ 伝 全 三 ・ 四 四

O

。 ⑫ 伝 全 三 ・ 四 四

Ol

四 四 二 。 @伝全三・四四三。

(19)

@伝金三・四四三。 @伝全三・四四三。 @伝全三・四四三。 ヲ ス ヲ イ テ ユ シ ノ ヲ ス イ テ カ ヲ @﹃弁惑章﹄の序文には、寸東隣有二誘法者﹂邪執積 v年学者成 v市。於 v斯者二一十二条義章-干ニ於我台宗 4 三・三六七)﹂として、当時の東国において天台義を批判するグループのあったことが記されている。 キ ー ワ ー ド 困 明 、 安 惑 、 ﹃ 地 銀 剛 弁 惑 章 ﹄ 、 玄 叡 、 ﹃ 大 乗 三 論 大 義 紗 ﹄ 初期1:1本天台における閃l別研究について ( 伝 全 - 293

参照

関連したドキュメント

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

このように,先行研究において日・中両母語話

巻四いやな批判●うはか年代記にて、いよいよしれす(1話)

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

本節では本研究で実際にスレッドのトレースを行うた めに用いた Linux ftrace 及び ftrace を利用する Android Systrace について説明する.. 2.1