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真宗研究46号 011張 偉「『教行信証』の言葉の源――特に漢文的背景と仏教的背景――」

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全文

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の言葉の源

ーーその漢文的背景と仏教的背景||

同 朋 大 学 張

は じ め に ﹃教行信証﹄は、周知のように、漢文で書かれ、多くの仏典の引用から成るものである。それは親驚自身によって 返り点をつけられ、親驚の言葉によって論理づけられたものである。﹁教行信証﹄の中の一語一語は仏教の真髄凝縮 され、奥深い仏教的背景を背負っている。また﹁一字多義﹂など漢文の特徴がよく生かされており、 一 字 一 字 重 厚 な 意味を内包している世界が作り上げられている。 ﹃教行信証﹂は、また親驚の深い人生体験によって生身の人間の血肉が付け加えられたものである。心の深い層か ら汲み上げられた言葉は個人を超えて民族を超えて心を動かす力を持っている。 そういう﹃教行信証﹂は、長い歴史の中で、返り点をつけられた日本語として読まれ、理解されてきた。研究者た ちは一代一代、先輩の研究成果を踏まえつつ、日本文化、日本人の感受性の特徴を持つ﹃教行信証﹄の解釈体系を作 り上げてきた。それは日本文化の一つの系譜として大切にされなければならないと思う。日本人のナチユラルで敏感

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な感受性によって、﹃教行信証﹄が活かされてきて、今も不朽の生命力を有していると思う。 しかし、民族の文化と言語の違いによって、そのような﹃教行信証﹂についての理解は中国人である私の理解と異 な る と こ ろ が あ る 。 私 は ﹃教行信証﹄に出会ってから、その言葉の裏に潜んでいる漢文的背景と仏教的背景を意識して、親鴛に引用さ れた原典を対照しながら読んできた。漢文的背景と仏教的背景を探ることでこれまでの ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 解 釈 の 相 違 点 に 気 づ い て き た 。 例えば﹃教行信証﹂の総序の﹁縞以﹂という言葉は、漢文のままならば、多重的な意味を表わしている。﹁縞﹂は ひそかに。﹁以﹂は思う。﹁縞以﹂は﹁ひそかに惟見る﹂という日本語の意味があるが、また﹁恐れ入りながら思う﹂ という意味があり、即ち、自己の内心を探る意味を表わしていると同時に謙虚な態度で、低姿勢で何かを述べようと する心情も表わしている。返り点がつけられでも﹁縞以﹂という漢字にはそのメッセージがちゃんと保たれている。 しかし読み下し文だけで日本語的に読まれていくと、﹁縞以﹂という言葉の第二の意味が脱落し、言葉の中に内包さ れている豊かな感情的な色彩も言葉の表層の意味の伝達機能に片づけられてしまう。﹃教行信証﹄の全体を貫いてい る感謝と慨憾の気持ちを見れば、漢文が伝えているこの言葉の多重的なメッセージは、﹃教行信証﹄の全体の基調を 定めるものとして欠くことのできないものである。 さらに一例を出してみよう。後序の﹁信順為因疑誇為縁﹂の﹁疑誇為縁﹂という丈は中国語では主 語﹁疑誘﹂と目的語﹁縁﹂との関係が、言葉に内在する論理性によって厳密に定められている。そのためこの一文は、 言葉の置換を許さない構造になっている。すなわち﹁疑誇こそ縁である﹂というニュアンスが言葉の裏に潜んでいる のである。それは後序を総序と対応して読めばわかる。﹁信順為因疑誇為縁﹂という文は、総序の﹁此乃権化仁斉救 済苦悩群萌、世雄悲正欲恵逆詩間提︵これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し世雄の悲、正しく逆諒潤提 ﹁ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 五

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﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 五 を恵まんと欲す。︶﹂という言葉と表裏一体となり、仏教の救済の機縁を表わしているが、また言葉の底に﹁煩悩氷解 成功徳水﹂、﹁転悪威徳﹂という仏教の救済の基本原理が据えられていて、﹁疑誇こそ縁である﹂として理解すべきで あ る 。 しかし、﹁疑誘を縁として﹂という日本語の読み下し文の意味のままであれば、﹁疑誇﹂と﹁縁﹂の関係の中にそう した置換不能の厳密性は保たれていないようである。すなわち﹁置換される危うさ﹂が助詞によって相互関係を定め る日本語の文法体系の中に潜んでいる。さらに仏教的な背景を抜いたら、人によって、さまざまな理解が可能になる。 ﹁ 疑 い 語 る こ と が あ っ て も そ れ が 縁 と な り ﹂ ︵ ﹁ ﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 意 訳 と 解 説 ﹂ 高 木 昭 良 著 ︶ と い う 解 釈 も 許 さ れ る こ と に な る。本論は、﹁権化の仁﹂を例として言葉の漢文的背景と仏教的背景を探る。従来の定説とぶつかるところがあるが、 決して一つをもって、他を否定しようとは思っていない。 一冊の﹃教行信証﹄が中国と日本、異なる民族の者の言語によって読まれること。それは一人の著者による異なる 二つの民族の言語で書かれた書物 一返り点のない漢文の意味のままの﹃教行信証﹄と返り点がつけられ、日本語と して意味づけられた ﹃教行信証﹄として読めることにもなる。そのようにすることで、二つの民族の文化が一冊の ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 中 で 出 会 う こ と に な る 。 新しい出会いによって二つの民族の言語と感受性が互いに補い、活かし合い、それによって﹃教行信証﹄はより豊 かに読まれ、より深く掘り下げられる可能性も生じてくるのではないかと思う。

漢文的背景を探る

﹁ 権 化 仁 ﹂ と い う 言 葉 は 総 序 の

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斯乃権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆誇聞提︵これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し世 雄の悲、正しく逆誇閑提を恵まんと欲す o ︶ という﹃観経﹄についての理解を表わす丈から出た言葉である。 ま ず 漢 文 的 背 景 を 考 察 し て み よ う 。 ︵一︶文字と言葉からの考察 ︵1 ︶﹁人﹂と﹁一ことで構成された﹁仁﹂という文字は、第一義に儒教道徳のもとである﹁愛﹂を表す。︵ 2 ︶ そ こ か ら 広 義 的 な 儒 教 美 徳 に 発 展 し 、 ﹁ 聖 者 ﹂ を 意 味 す る よ う に な っ た 。 ︶ ︵ 3 ︶また﹁人﹂と﹁仁﹂は発音︵

REN

︶ が同じである。表音の意味を重んじる古代中国ではこの二つの文字を混用する場合もある。これまでの解釈は前述し た ︵ 1 ︶ l ︵ 3 ︶の意味によって解釈されてきた。しかし、見落とされた 4 番 目 の 意 味 が あ る 。 ︵ 4 ︶﹁仁﹂という言葉は仏教用語として用いられる場合は、衆生︵人、聖者を含む︶に対する﹁仏﹂を意味する 場 合 が 多 い 。 例 え ば 、 ﹁ 仁 尊 ﹂ ︵ 仏 の 徳 号 ︶ 、 ﹁ 道 仁 ﹂ ︵ 釈 尊 ︶ 、 ﹁ 仁 洞 ﹂ ︵ 仏 教 の 寺 ︶ 、 ﹁ 仁 塔 ﹂ ︵ 仏 塔 ︶ な ど 。 一 言 葉 そ の も のの意味でも﹁仁﹂という言葉には、﹁仏﹂を当てはめるべきで、﹁香婆や阿闇世や意提希夫人など﹂の人間を当てる べ き で は な い 。 ︵二︶文法的な考察 この文の主語は﹁権化仁﹂と﹁世雄悲﹂である。述語は﹁救済﹂である。﹁苦悩群萌﹂は目的語である。 文法に応じて、物語の登場人物を当てはめるならば、主語、﹁世雄悲﹂には釈迦如来あるいは阿弥陀如来を、目的 語である﹁苦悩群萌﹂には意提希、香婆、阿闇世などをあてはめるのは明瞭なことである。それによって救済の主体 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 五

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﹁ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 五 四 を人間のはからいを超える如来・永遠無限な真如に保つことにもなる。 文法的にいえば、主語﹁仁﹂の位置に章提希や阿闇世を置くと、救済の主体が人聞になる。従来の解釈は強いて如 来の意志を彼らの裏に置くが、それが一種の理解として認められでも、言葉そのものの中には人間が救済の主になる 可能性は避けられない。 また意提希や阿閣などを﹁救済﹂の主語﹁仁﹂の位置に置くと、目的語の位置が空いてしまう。誰を救済するのか、 意提希や阿闇世が救済するのは誰なのであろうか。 一つの解釈として現実の人聞を置くことになるが、そうすると次 元の異なるものが一つの丈の中での主語と目的語の関係に置かれ、 一種の論理的な混乱をもたらすことになる。 ︵三︶修辞法からの考察 対になる文章表現を、漢文の修辞法では﹁対偶﹂と一言う。二つの文は名調には名詞、動詞には動詞、形容詞には形 容詞が対応し、対応する言葉は互いに対極あるいは対等関係になる。二つの丈は﹁対﹂の関係に置かれ、互いに活か し合い、制約し合う。その対応する言語空間に言葉を超える豊かな意味内容が貯えられる。 権 化 斉 救 済 苦悩群萌 世 雄 悲 正 欲 恵 逆 詩 問 提 ︵ 名 詞 ・ 連 体 修 飾 語 ︶ ︵ 名 詞 ・ 主 語 ︶ ︵ 副 詞 ・ 連 用 修 飾 語 ︶ ︵ 動 詞 ・ 述 語 ︶ ︵ 名 詞 ・ 対 象 語 ︶ 対になる言葉は、その重みもまた対になるように要求される。同じ重みとすると﹁権化仁﹂と﹁世雄悲﹂というこ つの主語はどちらも﹁仏﹂でなければならない。 一 方 が 人 間 に な る と 、 二つの文の重みがアンバランスになる。

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一文だけでなく、総序全体はほとんど対偶の手法によって構成され、わずかな不均衡も許されないほどの厳密性を 保 っ て い る 。 : ・ ﹂ と ﹁ 世 雄 悲 : : : ﹂ と い う 一 一 つ の 対 を 成 す 文 は 、 総 序 に お け る 始 め の ﹁ 難 思 弘 誓 度 難 度 海 大 船 また、対応関係は文と丈とが対偶になるだけにあるのではなく、段落と段落、巻と巻等にも現れている。﹁権化仁 無碍光明破無明 闇 恵 日 ﹂ と い う 文 と 対 応 し て い る 。 この文は、﹁徳号の慈父﹂と﹁光明の悲母﹂という親驚の考え方によって裏づけられ、如来の誓願と智慧の一一重の 働きを表わしている。即ち、﹁難思弘誓﹂は誓願、﹁無碍光明﹂は智慧の働きを暗験している。それに対応して、﹁斯 乃権化仁斉救済苦悩群萌﹂は、如来が出世の本懐はすべての衆生を一人も捨てずに絶対平等に救済することを、﹁世 雄悲正欲恵逆誇閑提﹂は如来の智慧は正しく﹁逆誇闇提﹂を恵もうとしていることを表わしている。 ﹁ 斉 ﹂ と ﹁ 正 ﹂ と い う こ つ の 副 詞 の 対 に も 注 目 し た い 。 こ れ ら は 文 法 的 に 舌 守 え ば 虚 詞 で あ る 。 そ の 意 味 は 不 固 定 で 、 柔軟性、円滑性を持っている。すなわち、主語と述語の意味するものによって豊かに意味づけられる可能性を持って いる。ここでは、主語が如来と定められるので、斉は﹁すべて・全部﹂、﹁高さが同じ︵高いのも低いのもない︶﹂を 意味して、如来の﹁救済﹂の本質を﹁一人も捨てずに﹂﹁平等無差別に﹂という二重の意味に定めている。また﹁正﹂ は﹁正しく﹂を意味していると同時に、日本語の﹁ l ている﹂という現在時の意味も含まれていて、如来の智慧が生 滅変化の現象に応じて常に動的に働いているニュアンスも表している。二つの副詞が対になり、 二つの丈の中で如来 の 働 き の 本 質 と 現 象 の 対 偶 関 係 を 更 に 強 調 し て い る 。

﹁教行信証﹄の眼目であるこの総序は、救済の主である知来と救済の対象である衆生の関係を主旨としている。従 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 五 五

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﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 五 六 って救済する力・智慧の出る場所としての焦点はずっと如来にしぼられている。それによって救済の主体である真知 の現象と本質という一一元性も保たれている。意提希などの人聞を主語の位置に置くと、焦点が散乱になる。それは文 章の書き方としては論点の散乱という敗筆︵書き損ない︶である。文章の書き方の敗筆によって、意味的な一元の真 如の世界が多元化されてしまう。 ﹃教行信証﹄を繰り返して読むことで、親驚が漢文の深い教養を持っていたことは疑えないことは疑う余地はない。 従って﹃教行信証﹄の語り手を漢文の深い教養を持っている者として想定して、一言葉から文章の構成までを漢文の要 求から考察した。この考察によれば、﹁権化仁﹂に当てはめられるものは﹁仏﹂のほかにないと言えよう。

仏教的背景を探る

仏教的背景に照らして見みれば、次元的な違いが現れてくる。 仏教によれば、世界の全ては真知︵大いなる心・智慧・力︶によって現わされたものである。真如をイメージ化す るものは阿弥陀知来であり、さらに形をとるものとして現れるのは釈迦如来である。真如は常に目に見えない究寛不 変な真実の本質︵真実・如常︶と、目に見える生滅変化している現象︵虚仮・無常︶として働いている。本質と現象 を﹁権実﹂という言葉で表わしている。現象は﹁権﹂、本質は﹁実﹂である。それに応して﹁権実二教﹂という言葉 が あ る 。 仏 教 で は 、 衆 生 に 真 如 ︵ 本 質 的 な 真 実 ︶ に 目 覚 め さ せ る 教 え を 実 教 と 一 言 ヨ ノ O しかし、衆生の心は現象に捕わ れて、日に見えるものしか信じなくなっている。そういう衆生の状況に応じて、形のない真実を仮に形のあるものと して説き、衆生に現象から真実の本質への道を与え、真如︵本質的な真実︶に目覚めさせる方法を教えることを権教 と さ 一 口 、 っ 。

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権化は中国語で、﹁仏・菩薩が衆生を済度せするために種々に身を化現する﹂ことを意味している。儒教の聖人や 道教の神などにも使われる。しかし、仏教の本説の中の権実という仏教の基本的な考えに墓づくと、権化の意味は、 権現と同じ、形のない真如から形のある人間に具像することを意味していて、知来の三身の中での応身︵化身︶を意 味している。﹁権遮﹂という言葉はそれを裏づけている。また﹁本︵本地︶遮︵垂遮︶二門﹂という言葉がある。本 地は法身であり、垂遮は応身或いは化身である。即ち、永遠無限な真知︵真実・知常︶本地は形がないが、真知と人 間との渡し橋を顕すために、形のある姿を人間世界に残す。言い換えれば、永遠無限の実体のない真如法身は垂謹し て姿を現して、応身を現ずることである。八相成道の釈迦如来がそれである。実に対して権といい、本︵本質︶にし て遮︵現象︶という。それについて﹁余光明経最勝王経﹄で次のように説いている。 世尊金剛体 権 化 於 化 身 ︵ 中 略 ︶ 方 便 留 身 骨 法 界 即 如 来 ︵ 世 尊 金 剛 体 、 化 身 に 権 化 ︵ 2 ︶ す。︵中略︶方便として身骨を留むるは諸衆生を益す為なり。法身、是正覚なり。法界、即如来なり。︶ 為益諸衆生 法身是正覚 次の和讃の言葉はこの仏教の基本原理について親驚の的確な理解を示していると思う。 久遠賓成阿嫡陀悌 五濁の凡愚をあはれみて 迦 穆 耶 迦 城 牟 に 尼 は 悌 麿 と 現 し す(め る正し て ぞ 釈迦知来は、形のない真如の世界のことを形あるものしか信じない衆生に伝えるために、真如の世界から、この衆 生の世界に形のあるものとして姿を現してきたのである。﹁如来﹂という一言葉も﹁真如から来る﹂を意味している。 それを﹁権化﹂と舌

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釈迦如来は、衆生の現象の世界と真如の本質の世界の通路を示すために、使命を担う者とし て現象の世界に現れてきたのである。﹁権化仁﹂はそれを意味している。﹁権化﹂は、形のない本質的なものが仮に暫 ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 五 七

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﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 五 八 く形のある現象として化現することを、人間の計らいで捕えられない真知の次元から仮に目に見えるものとして現れ ることを意味する。つまり、権化仁は同じ如来であるが異なる次元の形の転換を表わしている。 ﹃教行信証﹄はこの仏教の教えの基本原理によって方向づけられていて、﹁権実不二﹂という﹁権﹂と﹁実﹂と ﹁ 水 乳 交 融 ﹂ ︵ 水 と 乳 の よ う に よ く 溶 け 合 う ︶ の よ う な 世 界 を 自 ず か ら 保 っ て い る 。 しかし、今までの親驚の権実という言葉にについての理解は、それと異なる次元のもののようである。﹃真宗大辞 典﹄に﹁意提権実﹂という条目で次のように書いてある。 ﹁章提希夫人は権人なるか実人なるかを論じる問題である。権人とは権化の人といふ意味にて、内徳は悌あるい は菩薩なれども伎に凡夫の身を現じたる者を云ひ。実人とは真実の凡夫といふにて、外相は勿論内面も凡夫なる 者 を い ふ 。 ﹂ この権と実は、両方共に現象世界の次元のもので、人間の眼差しによって判断される﹁真﹂と﹁仮﹂になる。ここ には、日本語の﹁仮︵権︶に化ける﹂という感受性の移入があるのではないかと思う。即ち、﹁権化仁﹂を﹁権に化 けた章提希や阿闇世など﹂とする日本的な理解の仕方には、権化の﹁化﹂を日本語の﹁化ける︵形を変えることと らえる言葉の意味との混同があるのではないか。 それは、次元の異なった理解だと言えよう。﹁化ける︵形を変えることは、﹁形のあるものである A ﹂ を ﹁ 化 け る ﹂ という動作を通して、﹁形のあるものである

B

﹂に変形することである。図式化するならば次のようである。 真 仮 ﹁ 形 の あ る も の で あ る A ﹂ ! + ﹁ 化 け る ﹂ 変 形 | + ﹁ 形 の あ る も の で あ る B ﹂ 化けるもの 化けられるもの 狐 人 間 ︵ 化 物 ︶

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章 提 希 ・ 阿 闇 世 ︵ 化 物 ︶ この図式に見られるように、化けられた﹁形のあるものである B ﹂があれば、必ずそれに化けた﹁形のあるもので あ る A ﹂がある。章提希などを化けられた﹁形のあるものである B ﹂という化物として見るとき、無意識のうちにも はや弧が人間に化けたという感覚で、化けたものの﹁形のあるものである A ﹂のところに知来を置くことになる。即 ち如来を章提希などと同じ次元の対等的なもの、形のある者として感じることになる。そこには一次元のもの、現象 世界しかなくて、現象の裏にある本質的な世界、真如の世界が脱落してしまう。 化けるという言葉によって表わされた﹁真﹂と﹁仮﹂は、現実の人間の目で見ているもの、分別心によって見てい る相対的な﹁真仮﹂であるが、﹁権﹂という言葉の中での﹁仮﹂は仏教用語としては普通の﹁仮﹂と次元的に異なっ ている。それは真如の本質に対していうもので、現象世界の凡てである。即ち私たちが生きている現実、物質世界、 形のある世界である。それらは真如の本質に照らされると、すべて暫く、仮に存在するものに過ぎない。 ﹁権化﹂を﹁仮に化ける﹂として理解することによって真如の次元の存在がなくなる。﹁仮﹂は人間の分別心によ って見る﹁真仮﹂対立する﹁仮﹂であり、それに対する﹁真﹂も、同じレベルのものである。私たちは権化を化物の ﹁仮﹂として見るとき、その基準系になっている私たち自身が﹁真﹂の立場に置かれていることを前提としているの である。そういうレベルで意提希や阿閑世などを﹁仮﹂として見るとき、その基準系になる自分自身の身は﹁真﹂の 立場に置かれてしまう。感受性が一次元になり、即ち低いレベルヘ滑り落ちてしまう。そういう感受性で親驚の教え を理解すると、親驚の視座を真如の世界から俗世間の眼差しに引き下ろすことになる。その教えの中での真如を意味 す る ﹁ 真 実 ﹂ が 脱 落 し て し ま う 。 そういう民族の感受性の中て、権化︵権現︶という言葉の意味は、日本語の中で変質していた。歴史上で、それは 日本で民族信仰に同化され、神道の神に対していわれた。例えば、平安朝の末期にして、権現を以て信仰とするたく ﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 五 九

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﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 六 O さんの神社を生じ、これを権社と称する。例えば、熊野三所権現、日吉権現、白山権現、箱根権現、伊豆権現など。 歴史のなかで、藤原鎌足が談山権現と、徳川家康が東照大権現と勅許されることもある。﹁権迩﹂という仏教用語を 元にして﹁本地垂誠一﹂という思想も生まれた。神は、本地としての仏が、この世に遮を垂れた者として見、神に権現 という称号が与えられたとのことである。平安末期から鎌倉時代にかけて、それぞれの神に本地として、それぞれの ︵ 5 ︶ 仏が選定された。例えば、天照大神は大日如来の垂遮、八番大神は観世音菩薩の垂紘一などである。 実は、﹁権化仁﹂は如来があてられるところに﹁権実一一教﹂の教えが潜んでいる。釈尊がこの世界で説いた教えは、 全て形のある現象世界しか信じない人間に信じられるレベルのもの、一言葉、事実、イメージなどで、それは権教であ る。しかし、その全ての中に、真加の本質の世界のものが溶かされている。それらは絶えず人々の感覚の中に沈殿し ていて、人々を真如の本質へと目覚めさせている。即ち、権教の中に実教が浸透している。 釈迦知来がこの現象世界に現れたこと、釈尊が受胎から浬繋に至る、この人間世界で過ごした八十年の人生を﹁権 化﹂として見ることには、仏教の重要な教えが潜んでいる。釈迦如来を見る度に、その来た場所、また戻る場所であ る真如の世界、釈尊の裏に広がっている絶対な真実、永遠、無限な真知の世界の存在が感じられる。人々は知らず知 らずうちに、人生の上に永遠無限なものがあるという真如に目覚めるように育まれている。それと同時に、釈迦如来 の真如の世界に照らされると、生死の苦海でもがいている私たちの生の本質も思い知らされることになる。即ち、 ﹁権化仁﹂という言葉の裏に真如の本質の真実へ、実存的な真実へ覚醒させる教えが働いている。 しかし、従来の理解は権化仁を親驚によって汲み上げられたそういう仏教背景から切り離した。﹃真宗大辞典﹄の 解 釈 を 例 と し て み よ う 。 これはまったく極楽浄土の聖衆がこの世界に出現し来って或は阿閤世となり或は章提などとなって一大悲劇を起 し、以て如来の本願の正為の機を顕はすための善巧手段であったと認めて、摩掲陀王家の悲劇に関係したる人々

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︵ 6 ︶ を悉く権人なりと判定せられたのである。 この解釈の仕方によれば、まず真如の世界が﹁極楽浄土﹂として実体化された。絶対的・形のない永遠無限な真如 が感じられなくなる。それと同時に章提、阿闇世などを﹁極楽浄土の聖衆﹂﹁権人︵化けた人間︶﹂として見るとき、 彼らを苦悩に満ちた生身の人間の現実から切り離してしまう。彼らの身に感じられるべき生身の人間的実感は、ドラ マを見る感覚に転換される。王舎城悲劇の中から発してきた意提希の絶望的な惨烈な悲鳴、泥沼の中でもがきながら 心身ともに苛まされた阿闇世の痛烈な岬きは、全て一幕の劇の中に戯劇化され、倭小化されてしまう。 知来の裏に広がっている永遠征⋮限・大いなる真如への感覚、生身の人間の痛みと苦しみによって伝わってくる暗黒 な実存的な生身の生への実感はともに消えてしまう。 ﹃教行信証﹂をよく味わうならばわかることであるが、仏教の基本原理は生き物の血脈のように﹃教行信証﹂に張 り付いている、言い換えれば、仏教の基本原理は、﹃教行信証﹂ の命であり、それは各巻・段落・文・一言葉・文字に 息 づ い て い る 。 一つ一つの言葉の中のその血脈を無視して捕えるならば ﹃教行信証﹄が言葉の破片に分割されてしま 、 つ ノ 。 そのように見れば、王舎城の悲劇に登場している人物、意提希、阿闇世、香婆、また阿闇世の父頻婆裟羅などはさ まざまな苦悩の群萌の代表で、罪悪生死の暗閣の中でもがいているうちに知来に出会うことによって救われる人々で ある。彼らは﹁凡聖逆誇斉廻入﹂の中での﹁凡聖逆誘﹂、海に流れ込む川の一つ、救済されるもので、菩薩や仏によ っ て 変 身 さ れ た 者 で は な い 。 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 ム ノ、

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﹁ 教 行 信 − 証 ﹂ の 言 葉 の 源 ム ノ、

仏 典 を 根 拠 と し て 見 ょ う 。 王舎城の悲劇の中での章提希の役割は﹃観経﹂の中で釈尊によってはっきり定められている。 ﹁ 汝 是 凡 夫 、 心 想 車 劣 、 未 得 天 眼 、 不 能 遠 観 。 諸 仏 如 来 、 有 異 方 便 、 令 汝 得 見 。 ﹂ 釈尊の言葉の意は最も明瞭である。即ち意提希は凡夫であり、凡夫の心で優劣善悪を分別する。仏の方便力によっ て 仏 土 の 荘 厳 を 見 る こ と が で き る と の こ と で あ る 。 しかし、その﹃観経﹂に定められた意提希のことは、慧遠をはじめとする中国の仏教で﹁大権引実︵大権をもって 実を引きことして章提希を菩薩として理解している。例えば ﹁意提夫人実大菩薩︵章提夫人をもって実の大菩薩である 0 ︶ ﹂ ︵ 品 配 ︶ ﹁章提希本住法身為欲発起浄土因縁一不同凡法︵意提希は本法身に住し浄土因縁を発起せんとす為に凡法に示同 し ︶ ﹂ ︵ 戒 度 ︶ ﹁意提実大菩薩者。此顕章提希求住法身。為欲発起浄土観法故示同凡。︵章提夫人をもって実の大菩薩である。 此 、 意 提 希 は 本 、 法 身 に 住 し 浄 土 の 観 法 を 発 起 せ ん と す の ゆ え に 凡 に 同 じ 示 す 。 ︶ ︵ 知 礼 ︶ 等 。 ﹁意提大土自為及哀感末世五濁輪廻多劫徒受痛焼故、能依遇苦縁諮問出路諮諮然。﹂︵意提大士、自ら為及び末世 の五濁の衆生の輪廻多劫にして徒に痛焼を受くるを哀慰するが故に、能く仮に苦の縁に遇いて出路を諮問し、都 然 た り 。 ︶ ︵ 道 線 ︶ 仏典を調べて見るとほとんど一致している。その理由は章提希が凡夫ならばそんなに簡単に仏に成るはずもないと

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いうものである。それらの解釈は真如の本質への覚醒の教えとして働いているが、苦悩の人聞の生の現実から章提希 を切り離したので実存的な真実の一面が弱くなると思う。 善導は、敢えてほとんど定説になっている従来の解釈を是正した。﹃観経疏﹄の中で善導は次のように解釈した。 此明知来恐衆生置惑。謂言夫人是聖非凡。由起疑故。即自怯弱。然意提現是菩薩。俄示凡身。我等罪人。無由 比及。為断此疑故、意提言汝是凡夫也。︵中略︶此明若依心所見国土荘厳者、非汝凡能普悉、帰功於悌也。 此、如来恐らくは衆生が惑いを置いて、夫人は是れ聖にして凡に非ずと謂言て、疑いを起こす由るが故に、即 ち自ら怯弱を生ぜん。然も、章提は現に是れ菩薩なり、仮に凡身を示す。我れら罪人に、比び及ぶに由なしとい わん。此の疑いを断せんが為の故に、汝是凡夫と言、つなり。︵中略︶此れ、若し心に依りて見る所の国土の荘厳 ︵ M M ︶ ならば、汝凡の能く普く悉するに非ず、備に功を帰することを明す。︵善導︶ 即ち、普通の者が意提希を菩薩として見て、自分のような罪人とは比べることができないように思うことを心配し て、釈尊は特に意提希が凡夫であることを強調し、彼女の救済はごく普通の凡夫の救済であり、その救済は仰の力に よ る も の だ と 、 基 耳 忌 専 は ﹃ 観 経 ﹄ の 言 葉 を 解 釈 し た 。 意提希を凡夫として見なければ、彼女の救済は普遍的な人間救済としての意味がなくなると善導は会得したであろ ぅ。意提希をもって凡夫とするばかりでなく、﹁観経﹄は凡夫往生を説く経典であると、善導は ﹃ 観 経 疏 ﹄ の 中 で 一 不 し た 。 て救われる。それを善導は﹃観経疏﹄ ﹁凡夫往生﹂とは、罪悪生死である凡夫の存在を凡夫の実存的な真実としてとらえ、その凡夫こそ如来の力によっ の中で﹁二種信心﹂として明示している。 そういう善導の言葉に﹁正信念仏偽﹂の中で親驚は、 あ 円 哀 定 散 与 逆 悪 善導独明例正意 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 ム ノ、

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﹁ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 六 四 と 明 言 し た 。 ﹁独﹂という一言葉に、親驚はたくさんの解釈を読んだ上で善導唯一人だけの解釈に共鳴したことが伺える。すなわ ち、たくさんの中国仏典の解釈の中でただ一人﹁意提希が凡夫である﹂と断言した善導こそ如来の真意を会得したと、 親驚は善導の解釈だけに深く領いた。 その上で、章提希を凡夫のレベルの善悪の中での善︵定善と散善︶としてはっきり示している。このようにはっき りと態度を表明した親驚が、せっかく善導によって凡夫として定められた意提希を再び仏・菩薩からの変身者の場に 返らせるはずもない。 最後に従来権化仁に章提希など人聞を当てはめる証拠になっている次の親驚の和讃の言葉について管見を述べよう。 弥陀釈迦方便して 阿難・日連・富棲那・意提 達多・閤王・頻婆裟羅 香婆・月光・行雨等 大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみびとを 方 逆 便 悪 ヲ|も 入 ら せ さ し ぬ め 誓 け(願 り~に ここでは、意提希などを仏してとらえているのは確かだが、権現の意味はない。言葉を孤立に見なくて、それを和 讃の全体の流れの中に見るならばわかることであるが、和讃の中で語っている章提希などは、もともと仏であり人間

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に変身した者になったことを意味するのではなく、逆に彼はもともと人間・ごく普通の凡夫であるが如来の救済によ って仏になっていることを意味するのである。同じ﹁人間・仏﹂という二重身分であるが、﹁人間←仏﹂か、﹁仏←人 間﹂か。とらえ方にによって言葉の役割は大きく違っている。親驚は、善導と共に従来の解釈と峻別して、意提希な どを苦悩に満ちた生身の人間としてとらえている。彼らは両足が罪悪の械土に踏みながら如来の救済によって仏とし て生き、浄土に向かう人々であり、さらに﹁自利利他﹂の使命をにない、﹁凡愚底下のつみびとを逆悪もらさぬ誓願 に方便引入せしめけり﹂者である。即ち、﹁人間←仏﹂ならば、言葉の中に仏教の救済の基本原理、本願の不思議な 力が働いている。逆に﹁仏←人間﹂ならば、言葉は変身の劇を語るものに過、ぎない。 この和讃の言葉が語っている人間と仏との関係は、決して化けると化けられる関係ではない。また浄土と人間世界 も決して隔てられた天上と地上の二つの世界でもない。それについては他の論に任せるが、ここでは参考までに親驚 の 言 葉 を 引 用 し て お こ う 。 信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は悌性なり ︵ 日 ︶ 備性すなはち知来なり ﹃ 浬 繋 経 ﹄ 一 言 、 大 慈 大 悲 名 為 悌 性 。 何 以 故 。 大 慈 大 悲 常 随 菩 薩 如 影 随 形 。 一切衆生畢定首得大慈大悲、是故説言一 切衆生悉有悌性。大慈大悲者名為悌性。悌性者名為如来。 ﹃浬繋経﹄に言わく、大慈大悲を名づけて悌性とす。何を以ての故に。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随 一切衆生畢に定んで嘗に大慈大悲を得ベし、是の故に説きて一切衆生悉有働性と言えるなり。大慈大悲は ︵ 口 ︶ 名づけて悌性とす。悌性は名づけて如来とす。 う が 知 し 。 ﹁ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 ム ハ 五

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﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 ム ハ ム ハ 又︵法事讃巻下︶、云。従偽造遁帰自然、自然即是悌陀園、無漏無生還即真、行来進止常随側、詮得無為法性 身 ︵又︵法事讃巻下︶、云わく。悌に従いて遁遣して自然に帰す、自然は即ち是悌陀の固なり、無、漏無生還りで は即ち真なり、行来進止に常に仰に随いて、無為法性身を誼得す、と。︶

五民族心理に原因を探る

前述した理由もあって﹁権化仁﹂の仏教的な意味は、形のない真如の世界から形のある人間の世界に暫く仮に姿を とって現れる知来を意味している。即ち、権とは、暫く、仮に。化とは。化現する。仁とは、仏、如来である。それ は意提希と阿闇世などに当てはめられるはずもないのである。しかし今までの解釈はほとんど一致して﹁権化仁﹂に 章提希と阿閣世などを当てはめている。解釈者たちは、他の解釈の可能性さえも考えずに、意提希らが仏から人間に 変身した者である意味を唯一の理解のしかただと思い込んでいて、それを前提としその解釈に理由づけるためにいろ いろと工夫しているようである。それはなぜであろう。 その理由をまとめて見れば主に次のようであろう。 ﹁仁﹂という言葉の漢文での人間という意味にとらわれ、第四義︵仏教用語として﹁仏﹂を意味すること︶が 見 落 と さ れ た 。 ﹁権化﹂の権実の意味を仏教的次元から世間的な次元に引き下ろした。 和讃の言葉を全体の流れなら抜き出して、またその裏に裏づけになっている仏教の基本原理から切り離して、 解 釈 の よ り と こ ろ と し て 使 っ た 。

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このなかで民族文化の影響、民族の感受性の移入が最も重要だと思う。以上に述べたように、権化仁の持つ多次元 的な︵無形の真如と有形な人間との相関関係の︶感受性は平面的に理解されているようである。それは日本語の中で ﹁仮に化ける﹂として意味づけられ、さらに日本人の神仏習合の感受性の中に納められた。その中で、仏を実体化さ れ、仏教の次元的な転換︵無形から有形への転換︶が感じられず、権化仁は平面的な変化︵有形から有形への転換︶ に変質された。従って、従来の解釈者たちは、かまわずに如来の座に人間を座らせて、当たり前のように意提希など を権化仁に当てはめた。その結果、言葉の裏に潜んでいる真知の世界は自ずから抹消されてしまうこととなった。 ここまで、﹁権化仁﹂という言葉について考察してきたが、これはただの一つの言葉の理解の問題にとどまらない、 ︵ 印 ︶ ﹃教行信証﹄を理解する次元の問題だと思う。なぜかというと、﹁園融至徳﹂として如来の名号を語っている﹃教行 信証﹄そのものは﹁固融﹂の世界である。その﹁圏一融﹂の世界を築き上げた一つ一つの言葉はその裏に実教・高次的 な真実が潜んでいて、その全ては私たちを真如の世界に導く貴重な教えである。それは真如の次元から引き下ろされ る な ら ば 、 いかに意味が有りそうな解釈が与えられでも、人間の計らいのレベルのものになってしまう。そうしたら、 言葉そのものは ﹃教行信証﹄の真実の世界に入る障擬になるのではないかと思う。 お わ り ﹃教行信証﹄と出会ってから十一年。この問、﹃教行信証﹄の言葉を一字一字丁寧に繰り返し味い、言葉の裏に潜 んでいる無限な広がりと深みを実感している。 今私たちが取り組んでいる親驚は、﹃教行信証﹂とともに生きている親驚である。生身の親驚聖人は八百年前にな くなった。しかし、﹁教行信証﹂とともに生きている親驚は今も私たちに語り続けている。﹃教行信証﹂の言葉を語つ ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 六 七

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﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 一 六 人 ている親鷺は生身の親鷲の命と知識の限界を超えて無限な可能性を持っている。なぜかというと、思想体系や作品は 創作されたとき、心の深い層に入れば入るほど、個人的・民族的・時代的な限界を超えて、普遍的な人間の真実を捕 えることになるからである。そういうものは個人的な文化と教養を超えて、民族文化の枠を破り、異なる時代、異な る文化の教養を持っている人によって広められ深められる可能性を持っている。釈尊によって始められた仏教もそう であり、親鷲に聞かれた真宗の道もそうだと思う。 親鷲の持つ力、その深層的な普遍性によれば親鴛は世界的な現代思想と対話する可能性、世界の人々を納得させる 可能性を持っていると思う。しかし、今はまだそこに至っていないようである。 その大きな理由の一つとして民族文化の拘束が上げられる。前述の理由で、親驚の研究は親驚の深いところに入れ ば入るほど、民族文化の殻から脱皮して、全ての人が共有する普遍的なものを発見することができるのであるが、そ れに対して、浅いところにとどまれほとどまるほど、個別的・民族的・個人的な色が強くなるからである。そこにこ そ親驚と現代の世界の人々とが対話する大きな障擬が有るのではないかと思う。 本論は漢文の本来の意味にそって忠実に親驚の言葉そのものが何を語っているかを追求し、仏教的背景を探ること が主旨である。それを入り口として﹃教行信証﹂ の深層部に入る道を探り、そこに世界の人々、少なくともアジア仏 教丈化圏の人々の心の深い層に通じる道が生れて来る可能性もあるであろうと期待している。 註 ︵ 1 ︶ ① ﹁ 権 化 仁 者 、 若 依 初 義 者 指 側 、 即 是 世 雄 、 上 下 難 殊 、 是 非 別 也 。 若 擦 後 義 者 、 通 指 調 達 ・ 閣 世 ・ 意 提 。 発 起 衆 也 o ﹂ 権 化 の 仁 と は 、 若 し 初 義 に 依 ら ば 悌 を 指 す 、 即 ち 世 雄 、 上 下 殊 と 難 ど も 、 是 れ は 別 に 非 ざ る な り 。 若 し 後 義 に 拠 ら ば 、 通 じ て 調 達 ・ 閣 世 ・ 意 提 を 指 す 。 発 起 衆 な り 。 ② ﹁ 仮 に 凡 夫 の 姿 を と っ て こ の 世 に 現 れ て 来 ら れ た 権 化 の 方 々 ﹂ ︵ 星 野 元 豊 ︶ ③ ﹁ い ろ い ろ の 姿 を 現 し て 私 た ち を 仏 教 に 導 き い れ て く だ さ る 人 々 ﹂ 。 ④ ﹁ 意 提 希 は 釈 尊 の 意 志 に よ っ て 現 れ た 権 人 ﹂ 、 ﹁ 親 驚 聖 人 は こ こ で 章 提 希 を 権 化 の 人 と し て 、 浄 土 か ら 私 た ち を 救 う た

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めにあらわれた、非常にすぐれた人だと主張されるのであります o ﹂ ︵ 栴 渓 順 忍 ︶ ⑤﹁︵前略︶︵権化の仁は︶香婆、阿閤世、意提希等の人々を指すのである。﹂︵山遺習字赤沼智善︶ ⑥﹁︵前略︶聖人は、香婆や阿閣世や章提希夫人なとを権化の聖者と見られたのである。仁は慈悲のこと。﹂︵高木昭良︶ な ど 。 ︵ 2 ︶﹁金光明経最勝王経﹄第一﹃大蔵経﹄第十六巻四 O 六 頁 ︵ S ︶﹁真宗聖教全書﹂二四九六頁 ︵ 4 ︶﹁真宗大辞典﹂ ︵5 ︶ ﹃ 広 辞 苑 ﹂ ︵ 岩 波 書 店 一 九 九 二 年 ︶ ﹃ 望 月 仏 教 大 辞 典 ﹄ 、 ︵ 世 界 聖 典 刊 行 協 会 ︶ 等 の 辞 書 の ﹁ 権 現 ﹂ 、 ﹁ 本 地 ﹂ 、 ﹁ 神 仏 習 合 ﹂ の 条 目 を 参 照 。 ︵ 6 ︶ 同 ︵ 8 ︶ ︵ 7 ︶﹁真宗聖教全書﹄一五一頁 ︵ 8 ︶﹃観無量寿経義疏﹄﹃浄土宗大典﹄三六九八頁 ︵ 9 ︶﹃観無量寿経義疏正観記﹂﹃浄土宗大典﹄四二八四頁 ︵日︶﹃観無量寿経疏妙宗紗﹄巻第四﹃浄土宗大典﹄四八四頁 ︵日︶﹃安楽集﹄﹃真宗聖教全書﹄一三七九頁 ︵ロ︶﹃仏説観無量寿仏経疏四巻﹄﹃浄土宗大典﹂二一七七五頁 ︵日︶﹃真宗聖教全書﹂二五二頁 ︵U︶﹃真宗聖教全書﹂二四五頁 ︵日︶﹃真宗聖教全書﹄二四九五頁 ︵日︶﹃真宗聖教全書﹂二四九七頁 ︵

η

︶﹃真宗聖教会主百﹂二六二頁 ︵時︶﹃真宗聖教会者﹂二二四 O 頁 ︵ m w ︶園融は仏教用語として真如の差別・現象に対して真如の無差別・本質を表わす語である。園は鉄日なく円満なる意。融 は融和の意。万有は津然一体の調和統一の平等無碍の世界である。即ち、真如の本質の世界である。 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ の 言 葉 の 源 一 六 九

参照

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