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真宗研究45号 006桃井信之「浄土真宗の「いのち」観――真宗教学では「いのち」をどう捉えるべきなのか――」

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五 六

浄土真宗の

﹁いの中り﹂

||古否一小教学では﹁いのち﹂をどう捉えるべきなのかーーー 本 願 寺 派 桃

は じ め に 我々は、この二十一世紀のはじめに、国境や民族を越えた地球規模的な多くの問題に直面し、それへの対応を迫ら れている。二十世紀は、人類の歴史の中で、実に様々な面において突出した時期であった。その最たるものが科学技 術の進歩・発展であり、そこから人類は多大な﹁恩恵﹂を受けた、この意味は紛れもなく、科学技術によって物質的 な﹁豊かさ﹂を得た、という意味での﹁近代化﹂を成し遂げたということである。 しかし、それはあくまでもそのような﹁近代化﹂を成し遂げた﹁先進国﹂に住む者に限定していいうることであっ て、人類全体・地球全体から見れば、決して二十世紀をそのように断ずることはできない。 すなわち、二十世紀における人口の増大は、異常ともいえる勢いで進行したのであり、それはそのまま栄養不足人 口の増大につながっている。﹁豊かさ﹂を享受しているのは地球上の一部の人間のみであって、全体としては、物質 的﹁豊かさ﹂の最も基本にある食料さえも十分に確保できないというレベルの、﹁豊かさ﹂と無縁に生きていかざる

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をえない者の方が圧倒的に多いのである。 一方で核兵器を頂点とする大量破壊兵器の発明や、 ギ l 不足解消のために次々と作り上げていった原子力発電所が事故を起こし、それを生んだ人間自身の存在を脅かし また、科学技術の発展という恩恵に浴して、人間生活が飛躍的に向上した︵便利なものを次々と作った、という意味 で︶ことも、﹁先進国﹂を中心として事実であろうが、 工 、 ネ ル た て め い に る 存

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球 べ j昆 て 暖 が 化 人 の 問 問 の 題も、人聞が﹁豊かさ﹂を求めた結果として起こっていることはいうまでもない。 このような現代の危機的状況に対して、宗教は如何なる役割を果たしうるかが注目されている。ことに、リン・ホ ワイト・ジュニア︵ドヨロ巧

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7 ︶による、地球環境破壊の原因がユダヤ|キリスト教の教義に由来するという主 ︵ 1 ︶ 張に端を発し、デカルト︵一五九六l一六五 O ︶ の 創 唱 し た ﹁ 機 械 論 的 自 然 観 ﹂ ︵ 一 一 元 論 的 立 場 か ら 精 神 界 と 自 然 界 を 分 離 ︵ 2 ︶ し、生物を含めた自然界を一種の機械であるとするもの︶などのヨーロッパ的な宗教・思想にもとづく自然観や人間中心 主義思想が批判されていく過程で、仏教など、東洋の宗教・思想がこの危機を救う哲学を堤示するものとして再評価 さ れ て き た 。 仏教思想がこの地球環境問題の解決に寄与できる可能性については、既に数多くの論究があり、拙論でも指摘した ことがあるので、ここでその詳細は論じない。ただこれを有り体にいえば、仏教的な﹁いのち﹂の捉え方が今日必要 とされている、ということになるであろう。 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 五 七

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 五 J¥

の問題に応答しうる教学の必要性

親鷲の明らかにした仏教である浄土真宗においても、基本的に他の仏教宗派と共通した﹁いのち﹂の把捉をすると 考えるが、﹁環境問題﹂﹁生命倫理問題﹂﹁平和問題﹂﹁人権問題﹂などの﹁いのち﹂に関する諸問題は、まさに﹁いの ち﹂そのものの存亡に関わる根本的問題であるから、速やかなる現代教学の構築・創造の営為において明らかにして い か ね ば な ら な い 。 教学の創造は、時代の進展、社会の変化にともなって常になされるべき営為である。いうまでもないことであるが、 教学は、教義を現代語に置き換えた知きものをいうのでは決してない。無論、教義の説明に用いられる難解な用語を 現代人に理解できるよう、﹁訳﹂することは必要な作業ではある。しかし、教学的営為・教学創造の営為は、教義の 内実︵本質︶を現代人に理解し得るように︵体験としてもかなり具体的に︶明示していくことを中心とするものであるは ずである。即ち、おおよそ八百年前の日本において説示された親鷺教義を、時間的にも空間的にも議離している現代 人 に 現 代 語 ﹁ 訳 ﹂ と し て 示 し て も 、 ︵ 問 題 と し て 設 定 さ れ て い る こ と が 親 驚 と 現 代 人 と で は 相 当 に 相 違 す る の で あ る か ら ︶ 理 解しがたい面、受け止められない面、または抽象的に受け止められてしまう側面が見えてくる。これは、ある意味で は当然なのである。教学は、教えの本質を理解・認織・体験し得るような、現代人に理解可能な論理・表現を用いた ︵可能な限り具体的な行動規範まで指示する︶ものでなければならないのである。その点、従来の伝統的真宗教学は、そ の基本的枠組みの問題、基本的発想法、使用される用語等、非常に多くの問題を抱えたまま今目に至っている。殊に ﹁いのち﹂に関する諸問題に応答しようとする際、従来の教学を、その発想法から換えていくことが不可避なのであ る 。

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﹁いのち﹂の問題への言及は、近年の真宗教団が発行しているパンフレット、ブックレットを見る限り、徐々に積 ︵ 4 ︶ 極 的 に な っ て き て い る よ う に 見 受 け ら れ る ︵ 一 応 本 願 寺 派 を 念 頭 に 置 い て 論 ず る ︶ 。 し か し 従 来 の 教 学 の ﹁ 枠 ﹂ を 保 持 し たまま﹁いのち﹂の問題に言及する態度は、伝統的教学の根本的問題として指摘されてきた﹁真俗二諦﹂的発想であ るという誹りを免れえない。結論的には仏教の原点である﹁智慧﹂を真宗教学に取り戻し、真宗の宗教体験の中で、 それまで気づくことのなかった自他の﹁いのち﹂を発見していく、そして可能な限り﹁いのち﹂の問題の解決を志向 する主体を輩出していく﹁真宗菩薩道﹂ともいうべき教学構築の必要性を痛感する。

1 ﹁ 生 命 ﹂ で は 表 せ な い ﹁ い の ち ﹂ の 内 実 今日、﹁いのち﹂の語が頻繁に使用されている。それは、テレビ・新聞等のマスメディアや一般的刊行物のみなら ず、学術的刊行物にも頻出する。この﹁いのち﹂は、﹁生命﹂あるいは﹁命﹂と表現されていたものを単に﹁優しく﹂ 表記しているものではない。漢字の﹁生命﹂﹁命﹂では表現しきれない、それを越えた内容をこの語を用いることに よ っ て 伝 え よ う と し て い る の で あ る 。 生化学者の水原舜爾氏は、近年、宗教家と﹁生命科学﹂関係の科学者の聞に、﹁生命とは何か﹂とか、﹁生命科学と 宗教﹂といった演題で、しばしば討論会が持たれるようになったが、﹁それらの議事録を読んでみると、両者の話は まったく噛み合わず、スレ違いに終わっていることが多い﹂と述べ、その原因を次の二つに要約している。①﹁生 命﹂なるものの定義がはっきりしていないこと。これはまた﹁生物﹂の定義がはっきりしていないことにも原因があ る。②科学者の考えている﹁生命﹂なるものと、宗教者の考える﹁生命﹂なるものは、二つのまったく違ったものを 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 五 九

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 六 O 指しているにもかかわらず、両者とも、しばしば混同して使用していること。と指摘し、﹁生物学辞典﹄︵岩波書店︶ ゃ﹁哲学事典﹄︵平凡社︶の﹁生命﹂の項目より、﹁生命﹂とは生物にのみ固有の属性であり、無生物にはないと考え られているが、同時に明確な定義も存在しないことが知られると述べている。少なくともここで問題にしている﹁い のち﹂の語の使用は、水原氏の指摘する﹁宗教者の考える生命﹂にあたるといえるようである。 2浄土真宗教団における﹁いのち﹂の語の使用例 真宗教団が発行しているパンフレット、ブックレットなどにも、近年﹁いのち﹂の語が頻繁に使用されるようにな ︵ 8 ︶ ったが、果たしてその意味内容は、どこまで明確なのであろうか。パンフレットの場合、そのほとんどが見出しゃキ ヤツチフレーズの中で使用されているため、﹁いのち﹂の語のもつ響きは極めて抽象的である、ブックレットの使用 例についても、その前後の文脈よりある程度推測可能なものもあるが、﹁生物にのみ固有の本質的属性﹂という一般 的、乃至は生物学的な﹁生命﹂理解の範鴫を越えて、明確にそれ以上の︵仏教的︶意味を示唆していると受け取れる ものは、決して多いとは言い難い。﹁いのち﹂の問題に応答しようとする限り、仏教や真宗で説く﹁いのち﹂の意味 内 容 が 、 あ ま り に も 抽 象 的 な の は 、 教 学 に よ っ て 明 か そ う と し て い る 内 容 ︵ し か も 、 そ の 核 心 部 分 を 指 す 語 で あ る と 考 え ら れ る ︶ が 不 明 瞭 に な る と い う 意 味 で 、 や は り 問 題 で あ ろ う 。 3仏教の﹁いのち﹂観 仏教が﹁いのち﹂をどう捉えてきたかについては、人間中心主義の問題を契機として相当多くの論考が積み重ねら ︵ 9 ︶ れてきたが、理念になりうるとされる内容は、ほほ一致しているようである。その基調となるのは仏教の根本思想で ある﹁縁起﹂説であり、これはすべての物事の関係性を語るものである。如何なるものも独立存在・独立生成するこ

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とは不可能であり、すべては相依相資・持ちつ持たれつの関係の上に成立していることをいう。ここからすべての ﹁いのち﹂の﹁共生﹂を考える重要な視点が与えられるといえる。すなわち仏教における﹁いのち﹂の把握はこの ﹁ 縁 起 ﹂ を 根 本 と し て い る の で あ る 。 古来インドでは、人間・動物などの有情︵感情・意識を持ったもの︶、植物のような非情も生命あるものと考えてき た ︵ そ の 背 景 に 輪 廻 転 生 の 思 想 が あ る と 考 え ら れ て い る ︶ の で 、 仏 教 に お い て も ﹁ 不 殺 生

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醐 ︶ ﹂ が 出 家 ・ 在 家 を 問 わ ず重要視されてきた。﹁不殺生﹂という戒は﹁慈悲﹂精神に裏づけられたものであったから、少なくとも自己の生命 維持のために食用とせざるをえない植物であっても、可能な限りその﹁いのち﹂を奪うことは戒められてきたのであ る。その展開として、中国仏教や日本仏教では﹁一切衆生悉有仏性﹂﹁山川草木悉皆成仏﹂の語に象徴される如く、 非情にも成仏の可能性としての仏性が説かれていった。また、仏教の目的は転迷開倍にあり、その迷いの根源にある 無明煩悩からの解放を説く。故に自我的欲求が規制・制御され、﹁少欲知足﹂という徳目を重視してきたのである。 このように仏教の﹁いのち﹂の把捉は、﹁縁起﹂的な認識を根本としながら、﹁慈悲﹂にもとづく﹁不殺生﹂﹁少欲知 足 ﹂ な ど を そ の 伝 統 と し て き た の で あ っ た 。 4キリスト教における﹁いのち﹂の理解 ところで、キリスト教では﹁いのち﹂をどう理解しているであろうか。仏教的な﹁いのち﹂の内容を明瞭にするた ︵ 叩 ︶ めには有効と考えられるので、ここではその異同を知るために必要な内容をまとめておく。 聖書における﹁いのち﹂は、聖書全体を通して一貫しているようであり、旧約・新約の聞に根本的な差はないとい ︵刊。旧約聖書における﹁いのち﹂を表すヘブライ語は、通常ハイイ l ム ︵

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の 強 意 の 複 数 形 ︶ で あ り 、 生 命 もしくは生命体そのものを指すだけでなく、健康な、幸福な状態を伴う﹁いのち﹂を意味するという。それは元来神 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 ム ノ 、

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 ム ノ 、 から与えられたものであって、その生命体に固有のものではない。すなわち﹁いのち﹂は神の支配に属するものとし て 捉 え ら れ て い る 。 また聖書では、からだ︵肉︶と分離すべからざるものとして﹁いのち﹂をネフエシユ︵

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各魂︶という語で表 している。本来は喉、気管を意味していたが、そこから特に息・呼吸の意味を持つようになったと考えられている。 ﹃ 創 世 記 ﹂ ︵ 2

7 ︶におけるアダム創造の場面には﹁主なる神は土のちりでひとを造り、命の息をその鼻に吹きいれ られた。そこで人は生きた者となった﹂と記されている。すなわち聖書では、神から息を吹きいれられた、 つ ま り 神 から﹁いのち﹂を賦与された者を人間と見なしているのである。 そしてこの﹁いのち﹂は、必ずしも地上での生命活動のみを表すものではない。 一 般 的 な ﹁ 死 ﹂ ︵ 第 一 の 死 ︶ の 他 に 、 眠り、体の魁り︵復活︶、裁き等の後、生起するであろう第二の死︵滅び︶を想定し、﹁死﹂の本質はこの第二の死に あると把えている。すなわちキリスト教の場合、信仰によって﹁真の︿いのち﹀﹂︵神の国︶を賦与されたものは﹁永 遠の生命﹂に与るが、そうでない者は﹁第二の死﹂を味わうというように、﹁いのち﹂の問題を実存的・終末論的領 域に展開するものと理解しているようである。 5 ﹁ 脳 死 ﹂ か ら ﹁ い の ち ﹂ を 考 え る ここで、脳死・臓器移植という現代の生命倫理における重要問題を取り上げながら、﹁いのち﹂とは何かを考えて みたい。そもそも﹁脳死﹂という概念が登場してきた背景には、臓器移植推進関係者の思惑がある。臓器移植を実行 す る た め に ﹁ 脳 死 ﹂ ︵ 脳 の 不 可 逆 的 機 能 喪 失 ︶ を も っ て ﹁ 人 の 死 ﹂ と 見 な す ︵ ょ う 法 的 に 整 備 し た ︶ と い う わ け で あ る が 、 ﹁ 脳 死 ﹂ の 状 態 に な れ ば ﹁ 人 が 死 ん だ ﹂ H ﹁ い の ち が 無 く な っ た ﹂ と い う な ら 、 そ の 発 想 は 、 脳 ︵ 脳 細 胞 や 脳 の 機 能 ︶ に﹁いのち︵の本質︶﹂があるという考え方になる。﹁いのち﹂が無くなるということは、人格が無くなるということ

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で も あ り 、 換 言 す れ ば 日 常 我 々 が ﹁ 私 ﹂ ﹁ あ な た ﹂ 民 で

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弓と呼んでいるものを、その肉体は喪失するということに な る で あ ろ う 。 古代インドのウパニシャツド哲学における中心思想は﹁党我一如﹂といわれるが、この思想に相当させて考えれば、 まさにこれが個体の本質であるア l ト マ ン ︵ 悶

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﹁ 自 我 ﹂ ﹁ 我 ﹂ と 訳 さ れ る ︶ に あ た る も の に な ろ う 。 アートマンは元 来﹁気息﹂を意味する語であったが、内在的に理解され、﹁本体・精髄・霊魂・自我﹂を意味するようになったもの である。ならばこの﹁脳死を人の死とす﹂とは、 アートマンが脳にあることを認め、そのア l トマンが肉体から遊離 することを﹁死﹂、すなわち﹁いのち﹂が無くなったと見なすものだということになる。 仏教を生む基盤となった世界観を説くバラモン︵ヒンドゥ l ︶教や、仏教とほぼ同時代にインドで成立したジヤイ ナ教では、脳に﹁我﹂があると主張するわけではないが、回定的な﹁我﹂の存在を認め、その肉体からの遊離と ﹁ 死 ﹂ は 同 義 に 理 解 さ れ て い る と い っ て よ い 。 また先に考察した通り、キリスト教などの聖書にもとづく生命観を説く宗教においても、神に﹁命の息﹂を吹きい れられることによって肉体に﹁いのち﹂が与えられるとい、主一元論的な立場から、﹁いのち﹂︵霊魂︶が肉体を離れる こ と を ﹁ 死 ﹂ ︵ 一 応 こ の 場 合 は ﹁ 第 一 の 死 ﹂ に あ た る ︶ と 捉 え て い る 。 しかし周知の如く仏教は、﹁縁起﹂の理法にもとづいて﹁無我﹂﹁非我﹂をその根本的立場とするのであって、固定 的 な ア l トマンの存在を認めない。ましてや脳︵細胞・機能︶にア l トマンが存在し、そのア l ト マ ン が 肉 体 ︵ こ の 場 合は脳︶から遊離するのを人の﹁死﹂とするという構図の発想は、仏教の立場からはとうてい認められないのではな かろうか。この﹁脳死﹂の例からは、少なくとも仏教が、 アートマンや霊魂の如き固定的な実体として﹁いのち﹂の 本質を捉えていないことが知られるであろう。 小川一乗氏は、我々の存在を﹁縁起﹂すなわち関係性の上に成り立っている遇縁の存在であるというのが仏教の基 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 ム ノ、

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 六 四 本 で あ り 、 ﹁ そ の 基 本 に 立 っ て 、 いのちの私物化を離れた﹂ことを﹁無我﹂といい、﹁したがって人聞が生まれて死ぬ という、その全体をいのちの営みと見ていく﹂のが仏教の立場であると述べる。さらに﹁生まれて死んでいくいのち の、その全体をいのちの営みと見るとき、これから生きようとするいのちと、 いままさに死につつあるいのちと、二 ︵ 日 ︶ つのいのちに差別はないのです。それが﹃いのちの平等﹄ということです﹂と語っている。 厚生省と︵社︶日本臓器移植ネットワークとが発行している臓器移植推進のパンフレットには、﹁いのちへの優し さとおもいやり﹂と大見出しで書かれている。ここでいう﹁いのち﹂とは、まさにレシピエントのもののみを指し、 決してドナーのそれではない。脳死状態の者を﹁死者﹂と見なし、もはやそこには﹁いのち﹂は存在しない、という 発想が如実に現れている。脳死状態の者は、たとえ脳が﹁不可逆的機能喪失﹂の状態にあったとしても、心臓・肺な ど、他の器宮は機能しているのだから、これは生物学的にいっても﹁生命﹂のある状態である。しかし、それを法的 に﹁死﹂と見なすというのが臓器移植を前提とする﹁脳死﹂なのである。このような﹁いのち﹂の表現は、仏教的な ﹁いのち﹂の捉え方とは、完全に対峠・逆行しているといっても過言ではないだろう。 ところで、浄土教では基本的に、死後、即ちこの世の﹁いのち﹂を終えた後に、阿弥陀仏の国土である極楽浄土に 往生することを説く。ではいったい何が往生するというのか。仏教では﹁縁起﹂という発想から固定的な実体として の ア l トマンは否定されている。このことは大乗仏教の﹁空﹂の立場からも変わることはない。 承知の如く中国浄土教の理論的大成者である曇鷲︵四七六 l 五 七 二 ︶ は 、 そ の 著 ﹁ 往 生 論 註 ﹄ ︵ ﹃ 無 量 寿 経 優 婆 提 舎 願 生 偶註﹄︶において、﹁往生﹂の主体についての問答を設けており、そこでは﹁穣土の仮名人・浄土の仮名人﹂という表 現がなされている。人も五蓮仮和合した因縁生の存在であるから、実体がないものに仮に名づけたという意味で﹁仮

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︵ U ︶ 名 人 ﹂ と い う の で あ る 。 親鷺はこの曇鷲を真宗相承の祖師︵七高僧︶の第三祖とし、﹃往生論註﹂のこの箇所を自身の著﹃教行証文類﹄に引 用している。故に浄土真宗では、この曇驚の見解をもって、先の問への応答としてきたようである。 ﹁ 縁 起 ﹂ ﹁ 空 ﹂ ﹁ 無 我 ﹂ と い う 仏 教 的 理 論 の 解 説 を 付 せ ば 、 一 応 こ の 見 解 は 道 理 に か な っ て い る と 理 解 さ れ る 。 し か し、仏教の研究者でもない一般大衆にとって、この説明は、如何にしても﹁我﹂ H ﹁ 霊 魂 ﹂ H ﹁ い の ち ﹂ が 、 肉 体 が 死を迎え、そこを遊離し、彼の世界︵極楽浄土︶に生まれ変わるというニュアンスで受け止められるのではないか。 それは仏教が日本に土着する過程で、日本古来の原初的霊魂観・精霊観の上に仏教・浄土教信仰が受客されてきたと い う 事 実 ︵ こ の 点 は 中 国 で も ほ ぼ 同 様 の 事 情 が あ る と 考 え ら れ る ︶ か ら も 、 ︵ 凶 ︶ 難 く な い 。 一 般 の ︵ 現 代 ︶ 日 本 人 が 懐 く イ メ ー ジ は 想 像 に 承知のように親鷲には、従来の﹁往生﹂の語の解釈を超えた主張が存在する。﹁大無量寿経﹂下巻冒頭の本願成就 文と呼ばれる一節に﹁即得往生住不退転﹂とあり、これを現生、即ちこの世の宗教体験によって成立する事態と理解 したのである。親鷲が示した文字の上では、親驚は﹁即得往生﹂を現生において﹁正定衆﹂﹁不退転﹂位に就くこと で あ る と 語 っ て い る の で あ っ て 、 ﹁ 往 生 ﹂ 上田義文氏の主張に端を発し、今日にまで継続している親驚の往生理解を巡る論争のなかでも再三指摘されているよ 一 般 を 直 ち に す べ て 現 生 の 事 態 で あ る と い っ て い る わ け で は な い 。 し か し 、 うに、もし親驚浄土教が﹁往生﹂の理解において、それまでの見解を超えた事態を説示しているというのであれば、 親鷺の説く﹁往生﹂の本質的な理解を教学的営為のなかで示していかねばならないであろう。それは、現代教学の説 示する浄土真宗が、﹁厭離稼土欣求浄土﹂的な死後・未来のユートピアを期待する型の浄土仏教になるか、﹁現生﹂に おける宗教体験を重視した、それまでの浄土教を超えた浄土仏教となるのか、その岐路となりうる重要なテ

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マ で あ 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 六 五

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 ム ハ ム ハ る と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 少なくとも既に親鷲においては、従来の解釈を超えて、極めて現生の事態を重視する﹁往生﹂の理解が見られるの である。紙数の関係もあり、ここでは、現代真宗教学創造の営為として﹁いのち﹂の問題を考究していくなかで、親 驚の﹁往生論﹂に新たな問題提起をすることが可能であり、伝統的往生理解も再考を促されるであろうことを言及す る に 止 め て お く 。 四 環境問題に対する浄土真宗的視点|特に肉食の問題に関して| 最後に環境問題への真宗教学的視点に関して少しく言及しておきたい。従来の多数の指摘において共通しているこ とは、仏教における﹁いのち﹂の見方は、﹁人間中心主義﹂ではない、ということである。諸法が縁起的存在・無我 なる存在であると捉える仏教においては、人間のみを他の生物に際だって優れた存在とは見なさない。欧米の環境学 者の見解には、この仏教的な発想に強く影響を受けたものが少なくない。﹁動物の解放︵﹀巳

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ロ ︶ ﹂ を 主 張 す る ピ l タ l ・ シ ン ガ ー

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日 常 同 ︶ や ﹁ 動 物 の 権 利 ︵ ﹀ 巴 自 由 ] E m E ﹂ を 提 唱 す る ト ム ・ レ ー ガ ン ︵ 叶 O 問 品 目 ︶ などは、その一例である。シンガーは、種差別主義︵

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包による黒人差別、性差別主義

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回 ︶ に よ る 女 性 差 別 が解放運動によって撤廃される方向性にあるのと同様に、種差別主義︵臼官

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︶を批判し、動物解放論を展開した。 ︵ ゆ ︶ その主張の最大の根拠は、動物が[苦痛を感じる]という点にあった。 シンガーなどの動物解放論者に対しては多くの批判が

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初。その中には、動物の権利を認めれば肉食が禁じられる のは当然であり、莱食主義者とならなければならないことになるが、動物は不可だが植物は可という発想は、動物を 特別視して、新たな差別を持ち込むことになるとの主張がある。

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仏教では、仏陀釈尊以来﹁不殺生﹂を戒律として重視してきた伝統があり、総じて肉食は避けられる傾向にあった。 インドでは古来、人間も動物も有情として、その﹁いのち﹂に差を設けていなかった。中国に仏教が伝来してからは、 植物や山川などの非情にも仏性を認めるようになり、﹁いのち﹂と見なされるものの範需が拡大したようであるが、 植物さえも食用としないというのは無論不可能であり、肉食だけが回避される傾向にあったのである。人間や動物と、 植物との聞に﹁いのち﹂の価値としてどれほどの差異を見てきたのかは改めて検討しなければならないが、山川草木 に仏性ありとした仏教の﹁いのち﹂観からは、草木や微生物はもちろんのこと、すべての﹁いのち﹂を﹁いのち﹂た らしめている︵存立させている︶生態系にまで、﹁いのち﹂を見出す発想が窺われる。ならば、たとえ生命維持のため に食せざるをえないといっても、その﹁いのち﹂を奪うことは﹁罪悪﹂となるのである。 しかし、︿仏性のある﹁いのち﹂を心ならずも奪わずしては生きられない﹀といって、その︿﹁いのち﹂に感謝して いただく﹀という構図は、結局は自己の行為を正当化し、免罪してしまうことになりかねないし、建前は﹁いのちは 大切﹂﹁環境破壊をやめよう﹂といいながら、本音は﹁環境破壊も仕方がない﹂というダブルスタンダードに終わる と い う 批 判 を 免 れ え な い 可 能 性 が あ る ︵ 親 鴛 の ﹁ 肉 食 ︵ 妻 帯 こ か ら も ﹁ 免 罪 ﹂ の 可 能 性 が 生 じ て く る ︶ 。 ヒンドゥーやジヤイナの伝統が強いインド的視点からは、我々人間の行為に厳格なボーダーを設け、かなり具体的 な 行 動 規 範 を 示 し て い く こ と も 可 能 で あ ろ う ︵ た と え ば マ ハ ト マ ・ ガ ン ジ ー が 、 ﹁ ア ヒ ン サ lpE 呂 田 副 ︶ ﹂ の 精 神 に よ り 、 ︵ 幻 ︶ 切 の 暴 力 を 拒 否 し な が ら イ ン ド を 独 立 に 導 い た こ と や 、 動 物 愛 護 を 主 張 し た こ と ︶ が 、 今 日 の わ が 国 の ︵ 特 に 精 神 的 ︶ 状 況 や 、 欧米などの肉食の伝統に鑑みるとき、直ちに全面的な肉食の停止を主張してもナンセンスな議論とされることは明白 で あ る 。 しかし、世界の食糧に関するデ l タによれば、肉食、しかも人間にとって﹁美味﹂なる肉を追求することは、大量 ︵ n ︶ の穀物を牛・豚に与える結果となり、それが飢餓をはじめとする栄養不足人口の増大に繋がっているという。この事 浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 六 七

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浄 土 真 宗 の ﹁ い の ち ﹂ 観 六 人 実を直視したとき、仏教者として何ができるか、知何なる行動をとるかが、今、問われているということではないだ ろうか。特に真宗念仏者としての在り方︵状況倫理的な行動規範ともいうべきもの︶というのは、教学創造の営為のなか で提唱できないのであろうか。 親鷲が著した文献中に直接その回答を見出すことはおおよそ不可能である︵方法論的にも問題である︶が、﹁口伝紗﹄ ︵ お ︶ における﹁一切鼎戸側校合の事﹂に示される親驚のエピソードにおいて、親鷺が袈裟をつけたまま魚を食したという意 ︵ M ︶ 趣の延長線上には、真宗者が念仏の教法により﹁いのち﹂を知何に捉えていくかが指示されているのではなかろうか。 すなわち念仏信心の﹁智慧﹂により、この現状が認識されるなら、自己の行動のうちに痛み・悲しみをともなうと 同時に、如来の﹁願い﹂にもとづき、世界経済や社会構造の変革までも射程にいれながら問題の解決を考え、行動す る主体となっていくのではないだろうか。信心の﹁智慧﹂からそのような真宗者の行動規範を語りうる教学の創造が 急 務 で あ ろ う 。

﹁いのち﹂の問題は、真宗の﹁信心﹂と直結する問題である。﹁信心﹂そのものの問題といってもよい。何故なら、 ﹁信心﹂の﹁智慧﹂によって、﹁いのち﹂を発見し、自他の﹁いのち﹂の真の在り様を知ることが肝要だからである。 信 「 知 信 す 心 る の こ 智 と 慧 で 」 あ に る よ 。 る す 「 ハミ し当 て の が ち 無 」

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固 な 定 る 的 存 に 在 、 で 自 あ 己 る の こ 所 と 有 を 物の知く把握することは不可能になる。と同時に、 一切の﹁いのち﹂の価値的平等や連闘が認識されてくることでも ある。ならば、たとえ煩悩・欲望の制御が不可能であったとしても、常に自己の分別心による﹁いのち﹂の線引きが

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正しいか否かが﹁智慧の信心﹂によって反省を迫られるということになろう。そのような﹁信心の行者﹂は、必然的 に環境問題等の﹁いのち﹂に関する諸問題へ積極的に応答する主体となるのではないか。そのような主体を生み出す ﹁真宗菩薩道﹂ともいうべき教学こそが現代に不可欠であると考えるのである。 陸 ︵ 1 ︶

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一九六七﹁現在の生態学的危機の歴史的起源﹂︵﹃機械と神﹄青木靖三訳、みすず書房 所 収 ︶ ︵2︶荒井献﹃聖書のなかの差別と共生﹂岩波書店一九九九年七月一 O コ 一 1 二 九 二 頁 、 並 木 浩 一 ﹁ 旧 約 聖 書 の 自 然 観 ﹂ ・ 三好迫﹁新約聖書における自然観﹂︵上智大学中世思想研究所編﹃古代の自然観﹂創文社一九八九年二一月︶、半谷高 久・他編﹃人間と自然の事典﹂化学問人一九九一年一一一月二九八 1 二 一 O 六頁参照。 ︵ 3 ︶拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂︵﹃印度学仏教学研究﹄第四八巻第二号・二 000 年 三 月 ︶ ︵4︶真宗大谷派においては、宗派の発行するパンフレット等には、管見の及ぶ限りでは、本願寺派のように﹁いのち﹂の語 が頻出するものは少ない。ただし、大谷派教団に所属する研究者の記名入りの記事や著述には相当の使用例が見られ︵小 川一乗氏・田代俊孝氏の見解等てその使用法︵この語の示唆する意味内容︶もかなり明瞭である。これは本派・大派の 教学に対するスタンスの違いが大きく影響しているものと思われる。 ︵5︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照。 ︵6︶﹁科学時代の仏教﹄︵大蔵出版一九八四年一一一月一一頁 l ︶参照。生物学辞典の﹁生命﹂の項目には、最初に﹁生命 とは、生物の本質的属性として抽出されたものをいう﹂とあり、その少し後に﹁しかし、以上によって生命の定義が明確 になされているかどうかには、なお問題があり、生命が果たして科学的概念とみなされ得るか否かは議論の対象となりう る﹂とある。また、哲学事典の﹁生命﹂の項目には、最初に﹁生命とは生物にのみ固有の属性﹂とあり、その他に﹁刺戟 に対する反応、適応または調節、生殖など、生物の属性は多数ある。そのいずれか一つをもって生命を定義する試みは、 すべて失敗に終わっている﹂とか、﹁だが、いずれにしても、もっとも普通にいわれるところの生命と死は、個体の体制 的 保 持 と 崩 壊 を 意 味 す る ﹂ と あ る 。 ︵ 7 ︶柳川弘士山氏も﹁生命の起源を探る﹄︵岩波書店一九八九年四月二四頁︶において﹁生命という一言葉は人間の思想や 精神活動においても使われる。だからその立脚点によりいろいろな定義が可能である。たとえば、生物学的、物理化学的 一九七二年一一月 浄土真宗の﹁いのち﹂観 六 九

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浄土真宗の﹁いのち﹂観 七

な 定 義 ゃ 、 哲 学 、 宗 教 的 な 定 義 な ど で あ る ﹂ と 述 べ て い る 。 ︵ 8 ︶ ﹁ お 互 い の ︿ い の ち ﹀ の か が や き を 見 つ め な お す 生 活 ﹂ ︵ ﹁ 自 分 さ が し の ボ ラ ン テ ィ ア | 共 生 ︵ ぐ う し よ う ︶ の 世 界 | ﹂ ︶ 、 ﹁ ボ ク 、 ひ と り の い の ち ? : : : み ん な の い の ち を も ら っ て 生 き て い る ﹂ ︵ ﹁ プ ト ラ ﹂ ︶ 、 ﹁ い の ち 大 切 に ﹂ ︵ ﹁ み 教 え に 生 か さ れて﹂テレフォン法話・ラジオ放送の PR ︶ 、 ﹁ い の ち の 価 値 ︵ ﹁ み ほ と け と と も に ﹂ ラ ジ オ 放 送 友 の 会 の ご 紹 介 ︶ 、 ﹁ い の ち の 軽 視 ﹂ ﹁ い の ち の 輝 き ﹂ ﹁ ・ : 人 間 の 独 善 と 騒 慢 に 貫 か れ て 、 あ ら ゆ る ﹃ い の ち ﹄ を も て あ そ ん だ り 、 : ﹂ ﹁ あ ら ゆ る 生 物の﹃いのちのはたらき﹄を軽視し、それを犠牲にして省みない人聞は、他の弱い立場の﹃いのち﹄や文化を踏みにじる ことになってきました﹂︵ブックレット基幹運動助 3 ﹃環境問題念仏者として環境の破壊について考えよう﹂一九九六 年 六 月 ︶ 、 ﹁ ︿ 異 な る ﹁ い の ち ﹂ の 見 方 ﹀ ﹂ ﹁ ︿ 脅 か さ れ る ﹁ 等 し く 尊 い い の ち ﹂ ﹀ ﹂ ︵ 共 に 歩 む 四 二 号 吋 脳 死 と 臓 器 移 植 ﹄ 基 幹 運助本部専門委員逸見道郎一九九九年二月︶、﹁・:﹃いのち﹂を育む﹃環境﹂問題や﹃家族﹂・:﹂﹁いのちの尊厳と平 等 ﹂ ﹁ い の ち の す ば ら し さ ﹂ ︵ ﹃ 宗 報 ﹄ 二 0 0 0 年 度 基 幹 運 動 計 画 ニ 000 年 四 月 ︶ : : : 以 上 、 本 願 寺 派 。 ﹁ い の ち を 対 象 化 し 、 モ ノ と し か 見 ず 、 そ の 結 果 役 に 立 っ か 立 た な い か と い う と こ ろ で い の ち を 扱 い 、 ﹂ ﹁ 人 間 の 都 合 に よ る い の ち の 選 別 ﹂ ︵ [ 臓 器 移 植 ] 法 案 の 衆 議 院 可 決 に 対 す る 声 明 一 九 九 七 年 四 月 二 五 日 ︶ 、 ﹁ い の ち の 選 別 ﹂ ﹁ い の ち の 尊 厳 ﹂ ﹁ ﹃ 自 我 の 思 い を 超 え た い の ち の は た ら き ﹄ ︵ 無 量 寿 ︶ ﹂ 、 ﹁ い の ち の 私 有 化 ﹂ ﹁ 掛 け 替 え の な い 今 こ の 時 の ﹃ い の ち ﹄ ﹂ の 意 味 に 目 覚 め る ﹂ ︵ 初 め て の 脳 死 臓 器 移 植 に つ い て の 見 解 一 九 九 九 年 一 二 月 一 六 日 ︶ : : : 以 上 、 大 谷 派 。 ︵9︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照。 ︵ 日 ︶ X ・ レ オ ン ・ デ ユ フ 1 ル他編﹃聖書思想事典﹄︵三省堂一九九九年一 O 月 、 五 五 八 ! 五 五 九 頁 、 八 七 一 l 八 七 二 頁 ︶ 、 森島牧人﹁聖書の生命観︵演回悔子編﹃いのち|生命について考える﹄、理想社、一九九七年四月八了 l 一 三 六 頁 ︶ 参 照 。 ︵日︶新約聖書の特色としては、﹁真の︿いのちとがイエス・キリストと結びつけて捉えられていることがあげられる。 ︵ロ︶前出・森島牧人﹁聖書の生命観﹂八一 l 八 二 頁 ︵日︶さらに小川氏は﹁少なくとも、お互いにだれかが死ぬことによって、だれかが助かるという、命のやり取りだけはやめ たほうがいいということです。ヒューマニズムによる人間同士の助け合いは、生きているもの同士で助け合うという一線 を超えるべきではないということです﹂という見地から﹁脳死﹂による臓器移植を批判しているが、仏教的視点からは、 かような結論が導かれると考えられるので、その見解に同意したい 02 仏教からの脳死・臓器移植批判﹄法蔵館一九九 五 年 一 O 月 参 照 。 ︶

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M ︶﹃浄土真宗聖典・七祖編︵註釈版︶﹄五五頁 ︵ 日 ︶ ﹁ 行 巻 ﹂ 大 行 釈 。 ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 ︵ 註 釈 版 ︶ ﹄ 一 五 七 l 一 五 人 頁 ︵日︶佐々木宏幹﹃仏と霊の人類学﹂春秋社一九九三一年一月七五 l 七 六 頁 参 照 。 ︵口︶前出拙稿﹁環境問題に応答しうる真宗教学確立の可能性﹂参照。 ︵お︶キリスト教では、その教義の根本に﹁神による創造﹂という世界観・人間観があり、これと深く関係しているために、 いわゆる﹁人間中心主義﹂を直ちに否定することはできない。そこで環境破壊の問題に応答しようとするキリスト教神学 においては、ジョン・パスモア C o 宮 司 同 国 回 目 0 5︶のスチユワ l ドシップ

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唱 R r E 唱人間は神のスチユワ l ド

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芯 唱 恒 三 ・ 神 の 代 理 人 と し て 、 他 の 被 造 物 ・ 自 然 に 対 す る 世 話 を 任 さ れ て い る 、 と い う 考 え 方 : : : ﹃ 自 然 に 対 す る 人 間 の 責任﹄間瀬啓允訳、岩波書店一九七七年参照︶や、サクラメンタリズム P R S B E g

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日自然的要素を神の内在的 な創造活動と捉え、そこに尊敬と畏敬の念を求めることで、自然に対する人間の責任ある倫理を基礎づけ、さらに自然と の共生を志向するもの:::﹃神の創造と科学の世界﹄塚田理・関正勝訳、新教出版社一九八一二年参昭むなどがある ︵ 村 田 充 人 ﹃ 技 術 社 会 と 社 会 倫 理 | キ リ ス ト 教 技 術 社 会 論 序 説 | ﹄ 晃 洋 書 房 一 九 九 六 年 一 一 一 月 一 一 一 一 七 i 一 コ 一 八 頁 、 間 瀬 啓允﹃エコロジーと宗教﹂岩波書店一九九六年一一月四二 l 四 八 頁 参 照 ︶ 。 ︵ M M ︶

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戸 雪 印 ︶ [ 。 ヒ ー タ ー ・ シ ン ガ l 著 、 戸 田 清 訳 ﹃ 動 物 の 解 放 ﹄ 技 術 と 人 間 、 一 九 八 八 年 九 月 ] 叶 O自 何 m m 白戸﹂ r z o E ω 2 5 0 同 ︿ 晶 。

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[ ト ム ・ レ ー ガ ン ﹁ 動 物 の 権 利 ﹂ ︵ ピ l タ l ・ シ ン ガ ー 編 、 戸 田 清 訳 ﹃ 動 物 の 権 利 ﹄ 技 術 と 人 間 、 一 九 八 六 年 九 月 一 一 一 五 l 五 六 頁 ︶ ] ︵却︶動物解放論や生態系保存論に対する批判の論点は、河野勝彦氏によってまとめられているので参照されたい︵河野勝彦 ﹁環境と生命の倫理﹂文理閤二 000 年四月、尾関周二編﹃環境倫理の哲学﹄大月書店一九九六年一一月﹁第 E 章 環 境 倫 理 の 哲 学 的 論 点 ﹂ 参 照 ︶ 。 ︵幻︶インド独立の父と称されるマハトマ・ガンディ l の宗教観を窺うと、インドにおける優れた伝統的思想としてのアヒン サ l ︵ 不 殺 生 ・ 非 暴 力 ︶ の も つ 意 味 が 改 め て 知 ら れ る 。 ヒ ン ド ゥ l 教徒が牛を保護することも﹁期待されている最小限の こと﹂として説かれた義務であり、実は﹁すべての動物を保護する﹂ことが重要とされているのである︵竹内啓二﹃ガン デ ィ l 私 に と っ て の 宗 教 ﹄ 新 評 論 一 九 九 一 年 七 月 第 二 六 節 一 四 一 一 一 l 一 六 O 頁 、 第 三 人 節 二 七 一 i 二 七 四 頁 参 照 ︶ 。 浄土真宗の﹁いのち﹂観 七

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浄土真宗の﹁いのち﹂観 七 ︵幻︶筑波常治著﹃米食・肉食の文明﹄日本放送出版協会一九六九年三月、ワールドウオッチ研究所編著、山藤泰監訳﹃地 球データブック一九九九 l 二 000 年﹂ダイヤモインド社一九九九年七月、レスタ l ・ 河 ・ ブ ラ ウ ン 著 、 今 村 奈 良 臣 訳﹃だれが中国を養うのか?﹂ダイヤモンド社一九九五年一二月、同著、同訳﹃食料破局﹄ダイヤモンド社一九九六 年 一 O 月、久保国博二著胃自宅

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回目巴話九アジアと食料﹄家の光協会一九九九年二月参照。 ︵お︶﹃浄土真宗聖典・原典版﹂九四六頁。﹃口伝紗﹄は、親鴛の曽孫に当たる覚知が著した親鴛の言行録であるが、すべて 伝聞、或いは創作︵脚色︶であり、親驚から直接聞いた話は皆無である。覚如は本願寺教団の事実上の創始者とされる人 物であり、真宗教団における自己の位置とその教学の正当性を主張した人物であるため、相当の脚色があることは言を待 たない。しかし、たとえこのエピソードが全くの覚如の創作であったとしても、その内容は念仏の教えに照らして自己の 行為に限りない罪悪性を見出し、自他の﹁いのち﹂の在り様を見つめるという、浄土真宗的な﹁いのち﹂の見方、方向性 を示唆する︵行動指針を示す︶ものではなかろうか︵無論知何に解釈していくかという課題が残る。たとえばこの場合、 袈裟の功徳にポイントをおいて解釈されると、おおよそ親鷲的でなくなってしまうということ︶。即ち厳密な意味での史 実が如何様であったとしても、このエピソードの伝えようとしている精神は、まさしく親驚の﹁いのち﹂観、殺生を犯さ ざるを得ない自己の現実的対応の真実を言いかえているのではなかろうか。即ち﹁無戒名字の比丘﹂と称し、戒律の無意 味な時代を自覚した親鴛にとっては、なおしかし殺生を直接的・間接的に犯すことに罪悪性を感じていたのである。 ︵ M ︶菊藤明道氏は、篤信の真宗念仏者とされる﹁妙好人﹂のエートスとして﹁不殺生﹂が重視されていることを指摘し、そ れは親鷲の﹁殺生﹂への深い思いにもとづくものであると述べている︵﹁環境倫理と浄土仏教|真宗信徒﹃妙好人﹂の エ ー ト ス を 中 心 と し て | ﹂ : : : ﹃ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹄ 第 四 十 七 巻 第 二 号 一 九 九 九 年 三 月 ︶ 。 ︵お︶森岡正博氏は、﹃生命学への招待﹄︵勤草書房一九八八年四月四 l 五頁︶のなかで﹁生命にかかわる専門領域の壁を爆 破し、生命にかかわるあらゆるテ 1 マをひとつの鍋の中でゴツタ煮に﹂し、﹁それらすべての相互関連性を、思想問題と し て 深 く 掘 り 下 げ ﹂ る 新 し い 学 問 領 域 と し て ﹁ 生 命 学 ﹂ を 提 唱 し て い る 。 そ の な か で ﹁ 生 命 へ の 聞 い を 、 特 定 の 宗 教 や 、 ある神秘的な体験に基づいて語り出す人々がいる。彼らは、行き詰まった現代物質文明から、宗教を背景とした精神世界 への回帰を説く﹂と述べ、﹁生命学﹂の神秘主義からの訣別を説く。しかし、生命にかかわるあらゆる事柄の相互連関性 が個々人に見えてくる契機︵主体的契機︶は、やはり仏教が説く基本的認識作用である﹁智慧﹂の獲得にかかっているの で は な い か 。 ﹁ 智 慧 ﹂ の 獲 得 は 森 岡 氏 の 批 判 す る 神 秘 思 想 と は 一 線 を 画 す る と 考 え る が 如 何 な も の か 。 ︵ M m ︶ 森 岡 正 博 氏 は 、 ﹁ 生 命 ﹂ ﹁ い の ち ﹂ を 正 面 に 押 し 出 し て 議 論 を す す め る 言 説 が 目 立 っ て き た の は 八 0 年代に入ってからで

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あり、このいのち論の特色は、今ここで生きている﹁私﹂や﹁あなた﹂のいのちの姿をもう一度見つめなおすことで、生 き方が変わり、世界の見方が変わり、価値観が変わり、ひいては現代文明の矛盾の解決にも寄与することができるように なる、と考える点にあるといい︵﹃生命観を聞いなおす﹄筑摩書房一九九四年四月一 O 日 一 O 六頁てさらに﹁生命とし て生きていくということは、他の生命と助け合い、調和して生きていくことであると同時に、他の生命を抑圧し、それに 暴力をふるい、それを支配しながら生きてゆくことなのだ。生命を抑圧する原理は、生命の内部にこそ巣食っている﹂ ︵同一二五頁︶と語っているが、私が考えている﹁智慧﹂を重視し、﹁いのち﹂に関する諸問題に積極的に応答する宗教 的主体を輩出する﹁真宗菩薩道﹂ともいうべき真宗教学の創造・構築は、この文脈で表現されている内容と基本的に合致 す る 。 浄土真宗の﹁いのち﹂観 七

参照

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