Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 短期 大 學佛教 論 集 第
4
號1998
年10
月 (1
)チ
ベ
ッ
ト
仏
教
に
お
け
る
定 義
木
村
誠
司
1
チベ ッ ト
仏教
を代表す
る宗
派ゲル ク派 (dGe
lugs
pa
)の僧 院で は、 顕 教の 学僧
を、定義
家 (mtshan nyidpa
) 1}と呼ぶ 。 彼 らは、仏教
の 術 語 や 概 念に関
する定義
(
lakSana
, mtshan nyid ) を詳 し く学び 、学
問の 基礎 を固 め る。
定義
とは、 チベ ット仏
教
の 知 的側 面 を端
的に 示す
言 葉か も し れ ない 。 し か し、定義
家達
の 愛 好 する定義
は、 い さ さ か奇妙
なも
の である。彼
らは、定義
を所定義
(mtshonbya
)・
定
義
例
(mtshan
gzhi
)と組み合 わせ るの である。 こ れ は、定義
と定義
され るも
の(
1akSya
) とい う常 識 的 な一 対の組み合 わせ と異 なっ てい る し、 イン ドで は通常
、 用 い られ るこ との ない もの である2)。 奇 妙 な三 つ の組み合わ せ を
論
じた チベ ッ トの 文 献は多
いが、現
存す
る最 古
のも
の は、『量正 理
蔵
』
Tshad
ma rigsPa
’i
gter
で あろう
。 『量正 理蔵』 は、 チベ ッ トを代表
す
る学
僧 の 一人サ キャ パ ン ディ タ= クン ガ ー ギ
ェ ン
ツェ ン
Sa
skyapapdita
Kun
dga
’ rgyal mtshan (
1182
−1251
)〔
以下 サパ ン と略す
〕の主
著であ ワ、 主に、 イン ドの 仏 教 論理 学者
ダル マ キ ー ル テ ィDharmakirti
(600
−660
>の思 想 を扱 っ てい る。 サパ ン は、 三つ の 組み合
わ せを詳細
に論ず
るが、 そ れ も、実は 、 ダル マ キ ール ティ の 説 くプ ラマ ー ナの 定 義 (pramapa
−laksana
)を考察 す
る 土台と な る と考
えた か らで あっ た3 )。 だ が 、 不 思議 なこ とに、 サパ ン は 『量 正理 蔵』 におい て、 こ の組み合 わせの 由来 を
一切語
っ てい ない 。通例
、 サ パ ン は 、 論述 の 過 程 で 、ダル マ キール ティの 著作
を数 多
く引用 し、自
説を補
強す
る。 こ の組 み合 わせに つ い て も、 当然
、 ダル マ キ ー ル テ ィ の 引用が あっ て しか るべ きで あろう
。 ま して、 それが奇妙
なも
の であれ ば なお さらである。 その よう
な筆者
の 予想
は 見事
に裏
切 られた。 サパ ン は、 ある事情
で、 ダル マ キ ー ル テ ィを引用 した くて もで きなか っ たの で ある。 否、 引用する必腰
がなか っ たのか も しれ ない 。 その事情
につい て 、 カ イプ
Leonard
W
.J
. vander
Kuijp
氏の貴重 な報 告が あるの で見てみ よKomazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
2
) チベ ッ ト仏 教に おけ る定義 (木 村)う
。 カイプ氏は、 セ ル ドクパ ン チェ ン= シャ ー キャ
チ
ョ クデンgSer
mdogpa
ロ chenSakya
mchogldan
(1428
−1507
) 〔以下 シャー キャ チョ クデン と略す〕
の 『量の 歴 史』
Tshad
〃z〆’ chos’
byung
と通 称 さ れ る著 作か ら、 以 下 の 記述 を紹介
し てい る。プ ラマ ーナの定 義
(
tshad
ma ’i
mtshan nyid )に敷衍 して 、 定 義 ・所 定 義 ・定義例(mtshan mtshon gzhi
)
という
三っ の規定を詳らか に にするこ と、 これ は、他な らぬ こ の著者 〔チ ャ パ ニ チュ ーキセ ン ゲ
Phya
pa
Chos
kyi
sengge (
1109
−1169
)以 下 チャ パ と略 す 〕の 才覚に よっ て 日の 目 を見た の で あ る。 つ ま り、 その 昔は、 そ の ような 規 定の 詳 細につ い て 、イン ドやチベ ッ トの 如何なる注 釈者 も説 明 してい な
か っ た が 、 この 後の 世 で は、 その 規定は 、 市場に あ る乳 (
tshong
’dus
kyi
’o ma )の よ
う
に 〔あた り前に〕なっ た。(
『量の 歴 史』p
.36
,11
,6
・7
) 4 )tshad
ma ’i
mtshan nyidla
’phros
nas mtshan mtshongzhi
gsum
gyi
rnamgzhag
rgyas
pa
’di
ni /rtsonpa
po ’di
nyidkyi
rtsalgyis
bton
pa
stede
gong
du
de
lta
bu
’i
rnamgzhag
rgyaspar
ni rgyabod
kyi
’grel
byed
suskyang
mabkral
la
/
phyi
ma ’i
dus
’dir
rnamgzhag
de
tshong
’dus
kyi
’o malta
bur
gyur
…定義
・所定
義
・定義
例は、 ダル マ キ ール テ ィに由 来す
るもので は な く、チベ ッ ト人 学 僧チ ャ パ に よっ て創
始 され、 定 着 した ものだ っ たの で あ る。 さ らに 、 カイプ氏
は、 チベ ッ トにおける定義
の 考 察は、 弥勒Maitreya
の 『現 観 荘 厳 論 』 !16
艢 α 卿4y
σlaMha
’ra , miVgonrtogs
rgyan5}に
始
まる と伝
え、 これが 、単に、仏 教 論理学の枠
内に 留ま ら ない 問題であるこ とも知 ら しめた 6}
。 氏は、 報 告の
典
拠として、 シ ャ ー キ ャ チ ョ クデ ン の 『量
正 理蔵 密
意 荘 厳正 理の 輪1Tshad ma 再g5
gter
gyi
dgongS
rgyan n’9S
P
α’
i
’lehor
IO
(
以下 『正理の 輪』 と略 す)か ら、次の記
述 を提示 した。
七 部の 御 著 者(sde
bdun
mdzadpa
)〔ダル マ キール ティ 〕の 著 作に、定義式 (mtshonsbyor ) 〔定
義
・所定義
・定義例 〕の典 拠はな くて も、 尊師 弥勒 (rjebtsun
byams
pa
)の 〔般若経に対す る〕 注 釈 的 著 作 (gzhung
’gre1
) 〔『現観荘厳論』 の 〕 〔第
4
章「一切 相 現 等 覚
」
Sarvakfirabhisambodha
,rNampa
thams
cad mngonpar
rtogspak
.13
〕に お い て、 「ある も の に よっ て定義
される時、 その ある もの は定義であると知 られ るべ きである」 と 〔説か れ 、 同章
k
.31
に お い て〕 「 定義さ れ る もの の ように定 義さ れ るの で」 と説か れて い るこ とや 、 そ れの注 釈 に おい て 〔定義 式が〕詳ら か に さ れ て い る と判 断 して、正理 の 自在 神 チャ パ 以 降の 雪 山 国の チベ ッ トの あ らゆ 一
271
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
チベ ッ ト仏教 に お け る定 義 (木 村) (
3
)る論 理 家に〔定義式は〕明瞭に知 られて い る が、 聖 なる国 〔イン ド〕に現 わ れ た 七部
の 注 釈に通 じた者 (’
grel
pa
mkhanpo
)達 や 、 ゴ ク翻 訳官 (rNgoglo
)〔ゴ ク=ロ ーデ ン シ ェ ー ラプ
(
1059
−1109
)
rNgogblo
ldan
shes rab 以 下ゴ ク と略す〕から ギャ メ ル (rGya
dmar
)7 〕の 間の チベ ッ トの偉 大 な る学流の 開祖 に は知 ら れずs}…(『正 理 の輪
」
p
.270
,11
.5
−7
)sde
bdun
mdzadpa
’i
gzhung
na mtshon sbyorgyi
khungs
medkyang
/
rjebtsun
byams
pa
’i
gzhung
’grel
las
/gang
gis
mtshonde
mtshan nyiddu
//shesbya
/zhes
dang
/
mtshonbya
ltar
bur
mtshon pas na //zhesgsungs
padang
/de
’i
’
grel
pa
las
rgyaspar
’byung
ba
la
dpag
nas rigspa
’i
dbang
phyug
phya
pa
tshunchad
kyi
bod
gangs
cangyi
rtogge
pa
mtha ’dag
la
gsal
bar
grags
pa
yin
mod /sde
bdun
gyi
’grel
pa
mkhanpo
’phags
yul
du
byon
pa
dag
dang
/bod
kyi
shirta ’
i
srol ’
byed
chen po mgog
Io
nas rgyadmar
gyi
bar
la
magrags
shing /カ
イ
プ 氏は 、 『現 観荘 厳論
』 の注
釈に関
す る研究の 重 要 性を示 唆 し て報
告 を終 えて い る。 残 念 なが ら、こ の示 唆 を生か す よう
な研究
は 、い まだ行
なわ れ て い な し、他
方 面か らの研究 を 目にするこ ともまれ である9〕 。 した がっ て、定義
・所定義
・定義
例の実像
は、 ほ とん ど闇
の中
である と言っ て も よい の で あ る。本
稿で、 どこ までそ の実像
に迫れ るの か 、心許
無い が 、 以 下に論 じて み よう
。 歴 史 的観 点か らす
れば 、考察
の出
発点 は 『量
正 理蔵』 にす
るのが順 当か も しれ ない。 しか し、 『量正理蔵
』 は きわめ て難 解であ るの で 、本稿では 、 カイプ氏の 示 唆に従い 、 『現観 荘厳 論』 と その 注釈 を始め に取 り上 げる。 そ して 、適 宜、 『量正 理蔵
』 と比較
して み たい 。 な お、 こ こで、定義
・所定義
・定義例
が 、 どの よう
なも
の であ
るのか、 実際
の例だけ で も見て おこう
。 『量正理 蔵 』 で は、 次 の よう
に 述べ られて い る。定義 と は、 これ に よっ て 理 解さ せ る もの (
go
bar
byed
pa
)た る規定者(
rnam ’jog
)とい う因の こ とで ある。 〔牛 を例に取 る と
〕
すな わ ち、 〔牛の 〕瘤 や 垂 れ肉の よ うなもの であ る 〔つ ま り〕 対 象 (
don
, artha ) とい う性質 1°)である。 所 定義 と は 、 こ れが 理解 さ れる もの (go
bar
bya
ba
)た る被規定 者 (rnamgzhag
)とい う果の こ とである。 すな わ ち、 牛とい う名 称 (
tha
snyad , vyavahara )の ような もの で ある 〔つま り〕知 とい う性 質である。 定 義例 と は、 こ こ に おい て理 解 され る基 体
(
rten )のこ とで あ る。 す な わ ち斑 〔牛〕の ような もの である。 (
『量正理 蔵
」
p
.181
,11
.9
−12
)mtshan nyid ni ’
dis
go
bar
byed
pa
rnam ’jog
gi
rgyu ste noglkog
shallta
bu
don
gyi
chos so //mtshonbya
ni ’di
go
bar
bya
ba
rnamgzhag
gi
’bras
bu
ba
lang
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University
(
4
) チペ ッ ト仏教に お ける定義 (木村 )gi
tha
snyadlta
bu
blo
’i
chos so //rntshangzhi
ni ’di
la
go
bar
bya
ba
’i
rtente
dkar
zallta
bu
’o //この 実
例
は 、決 して難か しい もの で は ない 。 しか し、 何 故、 一対で は な く三 つ なの だ ろう
か。 こ の点
力懈
明さ れ ない限
り、 『量
正 理蔵
』 の記述
は、不
可解
な ま まであ
る。 とも
あれ、 『現観荘厳論
』 とその注釈
の考
察
を行
っ て み よう
。II
始
め に 、ゲル ク派の開
祖ツ ォ ン カバ = ロ プサン タ クパTsong
kha
pa
Blo
bzang
grags
pa
(1357
−1419
)〔
以下 ツ ォ ン カパ と略す
〕の 『般若
波羅蜜 多優
波提舎論
現観 荘 厳
論有
注の広 大な る解
説善
説金
鬘』Shes
rab 初 ゆ 加 roltu
Phyin
ρ〆∫man ngag
gi
bstan
bCOS
mngonPar
7togSPa
’i
rgyan ’grel
Pa
dang
bcas
Pa
’i
rgya cher
bshad
Pa
’i
legs
bshad
gser
gyi
Phreng
ba
〔
以 下 『善 説金
鬘』 と略 す 〕の 記述 を紹
介
しよう
。 そこ に は、 驚 くほ ど多
種多様
な定義
が 示 さ れてい る。 ツ ォ ン − kカバ は 言 つ
。
定義に は、 多くの 同義語 (rnam
grangs
,paryaya
)が あ る。 火の 熱 さの よ うな自己が他 と 共通 しない もの (rang nyid
gzhan
dang
thun
mong ma yin pa)で、ある と定義 する個 別的定義 (rang
gi
mtshan nyid )、 無我や無 常 の ような性 質 〔す な わ ち〕そ れ や そ れでない もの 両者
(
de
dang
de
mayin
gnyis
ka
)を 遍充
する総体 的定 義(spyi ’
i
mtshan nyid )、ひ とつ の 事 物 (dngos
po
, vastu )につ い て も、概念の 土 台(
log
sa)を顧慮 した上 での 多くの 概 念 を具 えた部分的概念 (1dog
cha )で ある区別の定
義
(rnampar
dbye
ba
’i
mtshan nyid)
、主に、 対象
(don
)
に関して、 不 遍充(ma
khyab
, avyapti )や過 大遍 充 (
khyab
ches , ativyapti ) を断つ 異種類の 排 除とい う定 義
(
rigs mi mthun se 】ba
’i
mtshan nyid )、対 象に な くて も、知 の側で疑惑 を払 うた め に定義と して 立て られた 誤解 を排除する定義 (
log
rtog selba
’i
mtshan nyid )〔等が ある〕】1 ) 。 ( 『善 説 金 鬘 』
p
,764
,1
.15
−p
.765
,1
.1
)mtshan nyid
la
rnamgrangs
du
ma zhigyod
do
//me ’i
tshaba
lta
bu
rang nyidgzhan
dang
thun
mong mayin
par
mtshonpa
ranggi
mtshan nyid /bdag
med
pa
dang
mi rtagpa
lta
bu
chosde
dang
de
mayin
gnyis
ka
la
khyab
par
byed
pa
spyi ’i
mtshan nyid /dngos
po
gcig
la
yang
log
sala
ltos
nasldog
pa
du
ma
dang
ldan
pa
’i
ldog
cha ni mampar
dbye
ba
’i
mtshan nyid /gtsobor
don
la
makhyab
khyab
chesgcod
pa
rigs mi mthun selba
’i
mtshan nyid /don
la
med一 269 一
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
チベ ッ ト仏教に おけ る定 義 (木村) (
5
)
kyang
blo
ngordogs
pa
selba
’i
phyir
mtshan nyiddu
bkod
pa
log
rtog selba
’i
mtshan nyid こ の よ
う
に多
くの定義
が 示 さ れ た理 由 は、 『現 観 荘 厳 論 』 の 定義
に関 す る記 述が、き
わ め て難解
だ っ た か らであ
る。 では、 それ は どの よう
な もの だ っ た の だ ろう
か。 『現 観 荘 厳 論 』 第4
章 L 切 相 現等
覚」kk
.13
・31
は 、加
行 (prayoga
, sbyorba
) の定 義 を説い てい る。そのう
ち、特に問
題視
さ れ たの は、先
に も 一部 紹 介 したk
.13
とk
.31
である 。 両偈
の全
文を以
下に訳 して み よう
。 あるもの に よっ て 、 〔加 行が〕定 義される時、その あるもの は、 〔加行の 〕定 義で ある と知ら れ るべ きで ある 。 そ れは、 また、三種 類で ある。 知 (
jfiana
, shespa
)と卓 越 (viSesa ,
khyad
par)と行 為 (karitra
,byed
pa
)で あ る。 さ ら に、何ら か 〔加行〕の 自性
(
svabh 互va , ngobo
nyid)
が定義さ れ るの であ る。k
.13
1akSyate
yena
taj
jfieyam
lakSa
ロamtrividham
catat
/jfianam
vi§e$ahkaritrarp
svabhavoya
§calakSyate
//gang
gis
mtshonde
mtshan nyiddu
/shesbya
de
yang
rnampa
gsum
/shes
pa
khyad
par
byed
pa
ste /ngobo
nyidgarlg
mtshonbya
yang
//真 如 不 可 得 (
tathatanupalambha
,de
bzhin
nyid ni midmigs
)〔等の〕 十 六か ら成る 〔加行の 〕 自性は、 定義 を具 えたもの (
1aksman
)’2 }
の 如く定義され るの で 、第 四の 定 義で ある と説か れ るの で ある。
k
.31
tathatanupalambha
§ca svabhavah $oda §且tmakah
/
lak
§mevalak
$yate ceti caturthalakSapam matam //de
bzhin
nyid ni midmigs
dang
/ngobo
nyidbcu
drug
bdag
nyid/
mtshon
bya
lta
bur
mtshonpas
na /mtshan nyidbzhi
par
bshed
pa
yin
//k
.13
に おい ては 、 知 ・卓越 ・行為
が 「定義
」 であ り、 加 行の 自性は 「 定義
され る もの」 で ある、 と説かれて い る。 とこ ろ が 、k
,31
に お い て、 加 行の 自性は 、第
四 の 「定義
J と さ れ てい る。 加 行の 自性は 厂定義
」であ
り、 同時
に 厂定義
され るも
の」 と説か れ てい るこ とに な る。これ は、 どう
いう
こ とだ ろう
か。 さ ら に、加
行の 自性 と知 ・卓 越 ・行 為が共 に 「定義
」 である として も、両 者は全 同ではない であろう
。 では、 その 違い は どこ にあるの だ ろう
か。 さ ら に 、 ま た 、加 行 自体は 、 どの よう
に 扱 われ るべ きなの だ ろう
か。 これ らの問
題 は、 どの よう
に解決
さ れ たの だ ろう
か。 まず
、イ
ン ドの学僧達
の注釈
に目を通
して み よう
。『現観 荘 厳 論 』に対 する現 存注釈の
う
ち、 最 も古い もの は、ア ール ヤ ヴ ィム クティセ ー 一268
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
6
) チベ ッ ト仏教に おける定義 (木 村 )ナ
Arya
Vimuktisena
の 『聖二万 五千頌般 若
波羅蜜 多優
波提舎
論 現 観荘 厳 論 注』A7yaPaficavim
.Satisa
−hasriha
−−Praiha
−Pa
−ramitoPadeSa 一伽 惚 δぬ’sα〃ηy
跏 那舷 解 一vrtti 〔以下 『現 観荘厳論 注』 と略 す 〕で あ る。 そこに は 、
「そ
う
で あ るな らば 、定
義
は四
種類
となるの である」(
de
Itar
na mtshan nyid rnampa
bzhir
’
gyur
ba
yin
no ,Ka
,159b
ト 2) と の み記
さ れ て い る 。 次 に 古 い バ ダ ン ヴ ィ ム ク テ ィ セ ー ナBhadanta
Vimuktisena
の 『聖 二 万 五 千頌般
若波 羅蜜 多
優 波 提舎
論 現 観 荘 厳 論 頌 評 釈』互
η砂α伽 仞 ゴ廨 傭σ1
嬬 万肋 φηη碗砂 伽 而 緲 αぬ動 蕁お 娵 兢 おα鵬 一alap
zhara 一肋 吻 一惚 漉 曲α〔
以下 『現 観 荘 厳 論 頌 評釈」 と略 す〕
に は、 厂その よう
に 、定義
は 四つ に な る と知 ら れ るべ き である」 (de
ltar
mtshan nyidbzhir
’gyur
bar
rigpar
bya
te
,Kha
,118a1
) と記さ れ て い る にす ぎない 。 こ の よう
に 、彼ら二 人 は 、 こ の 問題に対
して、如何
なる解決 も
もた ら さなか っ たの である。本格 的
な考察
は 、 ハ リバ ドラHaribhadra
に よっ て行
な わ れ た 。ハ リバ ドラ は 、 『 現観
荘厳論
』に対 して 『聖入 千 頌般若
波羅蜜 多
釈 現 観荘
厳論
明』A
η磯
αs4 勿 ε吻 φ鰐 碗4
愬 〃z晦 砂励勿
σ惚 肋 加 卿 卿 跏解航 短Jo
加 と 『般 若 波 羅蜜 多
優 波 提舎
論 現 観 荘 厳 論 注』Abhisamaya
’lamha
−ra ・na−ma −Prapta
“Pa
−ramitoPadesa −Stzstra
−vnti とい う二 つ の 注釈を著わ して い る。 チベ ッ トで は 、
前
者 を 『大 注』 (’Grel
chen )、後 者 を 『小 注 』 (’Grel
chung)
と呼
んで い る13) 。以
下では、 この呼称 を
用 い るこ とに しよう
。 さて、 目下の問題に関
しては、 『小 注 』 の 方が詳しい説
明 を与
えてい るの で、 『小注 』の 記 述 を見
るこ とに したい 。 ハ リバ ドラ は 、k
.13
に対 する注におい て 、手際
よ く問題 を処 理 した。彼
は、 次 の よう
に述べ る。主体 的確 定 (
byed
par
bsgrub
pa
,karana
−sadhana )として、 〔つ ま り〕、 これ は、諸加行 を定 義 する もの (mtshon
par
byed
pa
) として 、 知 と卓 越 と行 為 〔とい う定義〕であり、 客 体 的確 定 (
las
subsgrub
pa
,karma
・sadhana )として、 〔つ ま り〕それ ら 〔加 行の 自性 〕は、 定 義さ れ る もの (mtshon
par
bya
ba
)と し て 自性 といとい う定義なの である。つ ま り、 定義は四種 類である と知 られ るべ きであ る。 (『小
注』
Ja
,128b7
−e)
byed
par
sgurbpas
(readbsgrub
pas
)’dis
sbyorba
rnams mtshonpar
byed
pas
na
/
shespa
dang
/khyad
par
dang
/byed
pa
dang
/las
subsgrub
pas
de
rnamsmtshon
par
bya
ba
yin
pas
ngobo
nyidkyi
mtshan nyidde
/mtshan nyid nirnam
pa
bzhi
shespar
bya
’o//
14 )こ こでハ リバ ドラは、
定
義
に 「定義
す
る もの」 と 「定義
され る もの 」 の主・客
二面 一267
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty チベ ッ ト仏 教に おけ る定 義 (木 村) (
7
) が あるこ とを説
い てい る。 さ らに 、彼
は、 知 ・卓 越 ・行 為 を前者
に含
め 、主
体 的確 定 と命名
し、 一方
、 加行
の 自性 を後者
に配 当 し、客
体 的 確定
と名
付 けた。 また、 加 行は 、知 ・卓越 ・行為 に よっ て 「定義
され るも
の 」 である と言明 し た。 こ の よう
に 、 ハ リバ ドラ は 、明快に問題 を解決
した が 、彼
に とっ て 、 それは 、表
面 的な解
決にす
ぎなか っ たの か も しれ ない 。 ハ リバ ドラは 、 次に 、きわめ て難解
な、 しか し、ま
た 重要 な注釈 を展 開 す るの である。k
31
を彼は 、次の よう
に注釈 する。その ように 、 十 六 の 〔加 行の 〕自性に よっ て、三っ の
一切 智 性 (
thams
cad mkhyenpa
nyid, sarvajfiata )の諸 加 行が 、正 しく、定
義
を具え た もの (mtshan nyiddang
ldan
pa
,
lak
$anavat )の 如 く定義され て い るの で、 そうで あるの な らば、第四 は 、自性の 定義である と御 主 張に な るの である。 (
『小 注
』
Ja
,131b6
)de
ltar
na ngobe
nyidbcu
drug
gis
ji
lta
ba
bzhin
du
thams
cad mkhyenpa
nyid
gsum
gyi
sbyorba
dag
mtshan nyiddang
ldan
pa
bzhin
du
mtshon pasde
ltar
na
bzhi
pa
ngobo
nyidkyi
mtshan nyiddu
bzhed
do
//15冫こ こ で、
先
には、 「定義
され る もの 」 であっ た加 行の 自性は 、加 行 を 「定 義 す るも の 」 に変
え られてい る。 した が っ て 、 三種 類の 「定義す
るも
の 」 と 「定義
さ れ るも
の」 が説かれた こ とになる。 それを
図示 して み よう
。定義
す るもの定義
さ れ るものA
知 ・卓 越 ・行 為加
行の 自性A
知 ・卓
越 ・行 為
加行
B
加行
の自性
加 行 ハ リバ ドラは 、 何 を言お う してい るの だろう
か。実
の とこ ろ、筆
者は 、何
度、 繰 り 返 し読ん で も、微妙
に表 現 さ れ るハ リバ ドラの 文 章 を理解で き なか っ た。 しか し、 イン ドの学僧達
は、 この難解
な文章
に ハ リバ ドラの 意 図 を読
み取 っ た。 た とえば、 ダル マ キー ル ティ シ ュ リーDharmakirtiSri
という学 僧
は 、 次の よう
に述
べ て い る。 説 明 された定 義 を加 行 と切 り離 して理 解 する こ と は ない の で、 加行は定 義に他ならない と 〔考えるこ とは〕不適 当である か ら、 「諸加行は定 義 を具えた もの の 如 く」 と
〔ハ リバ ドラ は〕述べ たの である 。 ( 『般若波羅 蜜 多優波提 舎論 注 現観 荘厳 論の 難 解明
注』 、
4
δ傭 α嬲y
σ勧 2舷彫 ・η4
脚 「ρη瞬 砂伽 α 〃Zガ夛0勿4
θ5
α一伽 惣 ・V?’tti
−durbodha
“loh
α一厩 〃 観 一
雄
4 〔以 下 『難解明 注』 と略す〕Ja
,231bB
−232a1
)
−266
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
8
) チベ ッ ト仏 教 にお け る定義 (木村 )sbyor
ba
las
thadad
par
bshad
pa
’i
mtshan nyid rtogspa
medpas
sbyorba
n 量mtshan nyid
kho
nar mi ’thad
pas
sbyorba
dag
mtshan nyiddang
ldan
pa
bzhin
du
zhes smospa
yin
no //ダル マ キール ティ シュ リー は、 こ こで、 「
定義す
るも
の 」 と 「定義
され る もの 」 と いう
言葉
を使用 してい ない 。 しか し 、 お そら く、彼は、 ハ リバ ドラの句
に 、 「定義
す る もの 」 と厂定義
され るもの 」の別 異性の 主張 を読み取っ た と思わ れ る。 これ を、 仮に 「定義 す
る もの 」 と 「定義
され る もの 」 の別体
説と名付
けておこう
。これに 対 し、 ラ トナ ー カラシャ ー ン テ
E
Ratnakara
§anti
という
学僧
は 、 全 く逆 の見解 を
示 した。 彼は 、次の よう
に述べ てい る。どうして、 これ 〔加行の 自性 〕を定
義
であ る と御主張に なるの だろう
か。 〔 ハ リバ ドラは〕定義例 (mtshan
gzhi
)として定義 するの で と述べ て い るの で ある。 なぜ なら、 こ れ 〔加行の 自性〕は 、〔加行 を〕定 義するの でと述べ て い るの であ る。 何 故 、こ れ〔加 行 の 自性 〕は、定義例 なの か。 なぜ な ら、 〔加 行は〕、「定
義
を具 えたもの 」で あ り、こ れ〔加行の 自性〕は、定
義
さ れる もの なの で、定義 例なの で ある。 それを、定 義と説いたの である。 ( 『 現 観 荘 厳頌 注
清 浄 智』
Abhisamaya
’lamkdira
一 舷 吻 一VtttiSuddhamati
〔以下 『清浄智 」 と略 す〕Ta
,188a5
−6)ji
ltar
’di
mtshan nyiddu
bzhed
ce na /mtshangzhi
ru ni mtshanpas
na zhesbya
ba
smoste
/gang
gi
phyir
’di
mtshon pas na zhesbya
ba
smoste
/gang
gi
phyir
’di
mtshangzhi
ste /mtshan nyiddang
ldan
zhing }di
rntshonpar
bya
ba
yin
pas
mtshangzhi
’o //de
ni mtshan nyidbstan
pa
’o/
/ラ トナー カ ラ シャ ー ン テ ィ は、 お そ ら く、同 じ句に、 「定
義す
るもの 」 と 「定義
さ れ る もの 」の 同一性
の 主張 を見たの で あ る。 こ れ を、仮に、 「定義す
るもの 」 と「定
義
され るもの」 の 同体 説 と名
付 けてみ よう
。で は 、 『小 注』 におい て 、同体 説 や
別体
説が 説か れて い るの だ ろう
か。 とりあ えず
、 モ ー クシ ャ カラ グプ タMokSakaragupta
の 『論
理の 言葉
』TarhabhtZSa
を参
考に して、 ハ リパ ドラの見解 を再 現 して み よう
。 モ ー クシ ャ カラ グ プ タは、次の よう
に言う
。世 間 で は、 主体 ・客体 で あ る こ と (
karma
−kartptva
)は、 木(
vrk $a)
と大 工 (satradhara )の 両者の よ うに、 全 くの 別体 (bheda
)と し て 認知 さ れ てい るの であ る。 ( 『論 理 の 言 葉 』p
.16
,11
.9
−10
) 16)karmakart
τtvam
caloke
bhedenaiva
prasiddham vrk $asUtradharayoriva
/一
265
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty チベ ッ ト仏 教に お け る定
義 (
木村)
(9
) こ の記
述の伝 え る よう
に、 イン ドで は 、通常、主・客
関 係にある もの は 、別
体 と さ れてい る。 ハ リバ ドラ は 、 図中
のA
に お け る 「定義す
る もの 」 と「定義
され るもの 」を
主・客 関係
と して い る。 とす
れ ば、A
は別 体説
を示 してい る。 で は、A
’ は どう
だ ろう
か。 『小 注 」に おい て、A
とA
’ を区別 す
る要素
は ない の で、A
も別体 説 を
示 し て い る と考
えて さ しつ か え ない であろう
。 ま た、B
に おける厂定義 す
る もの 」と「定義
さ れ る もの 」を別体
と考
えるこ とは不
可能
であ る。 した が っ て 、B
は、 同体 説 を 示す も
の とな る。 こう
してみ る と、 『小 注 』 には、 同体 説 と別 体 説の 両 方が説か れ て い る と言 え よう
。 だ が、 ハ リバ ドラ 自身
が、 どち ら を支持
したの か は不
明瞭
であ る。 彼は 、二 説を
並存
させ て い る にす
ぎない 。 で は、 二説
は並存
され た ままでよい の だ ろう
か。す
で に見
た通
り、 ハ リバ ドラ以 降の イン ドの学僧達
は 、 並存
を許 さな か っ た。 彼 らに とっ て 、二 説 は、 決 して相容
れ ない もの だ っ たの であ ろう
。 さて、 同体 説 を取るか、 別 体 説 を取 る か とい う問題は 、チベ ッ トに おい て 、 さ ら に、複雑
な展開
をみ せ る よう
になっ た。実
は、本
稿の主
題 で ある定義
・所定義
・定義例
は、同体説
・別体 説
と深
く関
わっ て い るの で ある 。 こ の 二 説 を巡る対 立は、定
義・所定義
・定義
例の使
用の 是非
に、 直結
する。 だ が、 ハ リバ ドラ を始め とす るイ ン ドの 『現観 荘 厳 論」 注 釈 家達に とっ て、 定義
・所 定 義 ・定 義 例 とい う三 つ の組み合
わせ は、夢想
だ に しなか っ た もの であ ろう
。 そ れが、 何 故、 チベ ッ トで は、 『現観
荘厳 論」の注 釈におい て論 じちれるよう
になっ たの だろう
か。 その 経緯
につ い て は、後の考察
に譲 り、以 下 で は 、 まず、チベ ッ トに お け る 同体 説 と別 体 説の 対立の有様
を見
て み よう
。 その 過程 に おい て、 三つ の組み合わせ の内
容 も明 らかになる で あろう
。III
ツ ォ ン カバ は 、別体 説支持者
であ
る。彼
は 、 まず
、主
・客 関係
と して の 「定義
す るも
の J と 「定義
され るも
の 」す
な わち、II
章
の図にお け るA
を第
一義
的
な もの と して 、 次の よう
に 述べ る。 例 え ば、 料理 ( ’tshed
pa
)とい うの は、 料 理 さ れ るもの と料 理 す る もの 〔つ ま り〕 主・客(
bya
byed
)と結び付 け られ.る言葉なの で、 その 二つ に導くこ と が で きるように 、 定義とい うの も 「定義す る もの 」 と 「定 義 され るもの 」 とい う主 ・客両者と 結 び付 け られ るこ と を 意 図 して、 尊 師 〔弥勒〕は、 最 初の 三 つ 〔知 ・卓越 ・行 為 〕
を 「定
義
する もの 」、 最 後の もの 〔加行の 自性〕を 厂定 義され る もの 」 とな さっ たの 一264
一Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 University (
10
) チベ ッ ト仏教に おける定 義 (木 村) で ある。 その 主 ・客二 つ に対 して、 阿 閣梨 〔ハ リバ ドラ〕 は、 主 体 的確 定 と客 体的 確 定 とい う表現 をなさ っ た の で ある。 ( 「善説金 鬘 』p
。766
,1
.17
−p
.777
,1
.2
)dper
na ’tshed
pa
zhespa
gang
’tshed
pa
dang
/gang
gis
’tshed
pa
bya
byed
dang
’
bre
董ba
’i
tshig
yin
pas
de
gtlYis
sudrang
du
rungba
bzhin
du
/mtshan nyid cespa
yang
gang
g
童s mtshonpa
da
ηg
gang
mtshonpa
’i
bya
byed
gnyis
ka
dang
’brel
ba
la
dgongs
nas rjebtsun
gyis
dang
po
gsum
gang
gis
mtshonbyed
dang
tha
magang
mtshonbya
ru mdzaddo
//byed
pa
dang
bya
ba
de
gnyis
la
slobdpon
gyis
byed
sgrubdang
las
sgrubkyi
tha
snyad mdzaddo
//
さらに 、 ツ.オ ン カバ は、
A
とA
を同 内容
と見
る立場か ら、 次 の よう
に述べ て い る。なぜ、 最 後の もの を、客体的確 定 と言 うの だ ろ うか と言 うなら ば、 〔答 え よう〕。 こ れは、三智 (mkhyen
gsum
)の 加 行の 自性 なの で、 前三 者に よっ て、定 義され る もの だ か らである。 能 力 (nus
pa
)が定義されるの ではない か。 どう して、 加行が定義さ れ るの か、 と言 うな らば 、 〔答え よ
う
〕。 その 二 つ 〔能 力と加 行〕 は 、別体で はない (
dngos
potha
midad
pa)の で、 過 失はない の である。 (『善 説金 鬘』p .
767
,
ll
.17
・20
)ci’
i
phyir
tha
mala
las
sgrub cesbya
zhe na /’di
ni mkhyen
gsum
sbyorba
’i
ngo
bo
yin pas snga ma gsum gyis mtshon parbya
ba
yin pas so //nus pa mtshonbya
mayin
namjHtar
sbyorba
mtshonbya
yin
zhe na /de
gnyis
dngos
po
thami
dad
pas
skyon medde
/こ こ で は 、 加 行の 自性 ・能 力 ・加 行は 、 全 く同 じもの と して扱わ れ てい る。 故に、 ツ ォ ン カバ は 、
A
とA
「 を同 内容 と見 な してい るこ とになろう
。 さ て 、ツ ォ ン カバ は 、B
を無視 す
る わけで はない が 、同体 説 を
示す
B
は 、彼
に とっ て、副
次的
なも
の にす ぎない 。 彼は、 こう
述べ てい る。 これ 〔加行の 自性〕が 「定 義さ れ る もの 」 であるなら ば、 どうして、 定 義であ り得 るの か、 と言 うな らば、 〔答え よう〕。 定義 とい う言葉は、 主 ・客 両者と結び付 く と 述べ なか っ た だ ろうか 。 また 、十六 自性 に よっ て 、三智の 加 行 の 自性が 知 ら され るの で、 「定義 するもの 」 で もあるの であ る。 (『善説 金 鬘』
p
.768
,11
.1
−3
) ’di
mtshonbya
yin
naji
ltar
na mtshan nyiddu
rung zhe na /mtshan nyidkyi
sgra
bya
byed
gnyis
ka
dang
’brel
bar
ma smras sam /yang
ngobo
nyidbcu
drug
gis
mkhyengsum
gyi
sbyorba
’i
ngobo
shespar
byed
pas
mtshonbyed
kyang
yin no //−
263
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
チベ ッ ト仏教にお け る定義 (木 村)
(
11
) ツォ ン カバ は 、 「 加 行の 自性」が、基 本 的に は、 「定義
される もの」であるこ とを確
認 した上
で、B
につ い て簡
単に触 れて い るにす
ぎない の で ある。 こ の よう
に、 同体 説に対 して は、 ご く冷 淡に言及 し、 ツ ォ ン カバ は、定義
・所 定義
・定義例
の考察
へ と向う
。 ツ ォ ン カバ は、 次の よう
に述べ てい る。〔加行の 自性は〕、加 行 を定 義す るもの で も、 別 体 (
don
tha
dad
pa
)を通 じて定義してい ない の で、 主体 的確 定 として 設
定
さ れ な い の で あ るが、 前三 者 は、 適 宜に(
ci rigspar
)そ れ 〔加 行〕と離 れてい るの で 、 主体的確 定 と して 設定さ れ て い るの で ある。で は、そ れ ら 〔前三者〕は、 定義例 や 実 体 (
dngos
po
)が別なの だ か ら、定 義 ・所定義 として は ふ さ わ し く ない 。 そ
う
で ない の なら、 壷 も牛の 定義に 〔使 用さ れ ることもあ り得るの で〕逸 脱 す るこ と になろう、 と言 うなら ば、 〔答 え よう〕。別体 (rang
bzhin
tha
dad
)で も、 そ れ ち を通 じ て知 ら しめ られ る場 合 、「そ れ に よっ て定 義さ
れ るの で ある」 と言 わ れる定義 として仮設 される にす ぎ ない の で、 規定 者 ・被 規 定
者とい う定 義 〔の 類い 〕で はない の である と説 明 され 終わ っ たの で ある。 そ
う
で ある な ら、 主体 的 と客 体 的の 意味や 定義方 法は、 『〔現 観 〕荘厳 論 』 の 注釈 者 達 に お い
て 、 緻密に 明 か さ れ なか っ たた め 、理 解 困難な ま まで あ るか ら、私が 詳 しく説明 し
て奥 義を極め たの で 、知 恵 明 らかな者 達は喜び な さい 。
(
『善
説金 鬘」p
.768
,11
.4
−12
)sbyor
ba
mtshonpar
byed
kyang
don
tha
dad
pa
’i
sgo nas mi mtshonpas
byed
sgrub
tu
mabzhag
la
/snga rnagsum
ci rigspar
de
las
bzlog
pas
byed
sgrubtu
bzhag
go
//’o nade
dag
mtshangzhi
dang
dngos
po
tha
dad
pas
mtshan mtshondu
mi ru ste /gzhan
du
nabum
payang
ba
lang
gi
rntshan nyiddu
ha
cangthal
zhe na /rangbzhin
tha
dad
kyang
de
dag
gi
sgo nas shespar
byas
pa
Ia
des
mtshon no zhes mtshan nyiddu
btags
pa
tsam
yin
pas
rnampar
bzhag
’jog
mtshan nyid
pa
mayin
no zhesbshad
zin to //de
ltar
nabyed
pa
dang
las
kyi
don
dang
mtshontshul
rnams rgyangyi
’gre1
pa
rnarns su zhibpar
mabyung
bas
rtQgs
dka
’bar
’dug
Pa
’i
phyir
kho
bos
rgyaspar
bshad
nas gtingtshugs
par
byas
pas
blo
gsal
rnamsyid
dga
’bar
byos
shig /こ こ で 、 ッ ォ ン カバ が、
定義
・所定
義
・定義例
につ い ての所 見 を語 っ てい るの は明 白である。 規 定者
・被 規 定 者という
表現 は 、 三つ の組み合わ せ の代 名
詞 と言 えるか らであ る。1
章
の末
尾に示 した 『量
正理 蔵 』で も、 同 じ表現 が使 わ れて い た し、別
の個所
で、ツ ォ ン カバ は「規定 者
・被
規定
者としての定義
・所定義
」 (rnam
par
bzhag
Komazawa University
NII-Electronic Library Service Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
12
) チベ ッ ト仏教における定義 (木村 )’
jog
gi
mtshan mtshon ,「善 説金鬘」
p
.767
,1
.20
)
と述べ てい る。さ て、 上の
記述
か らす
れ ば、 三つ の組み合わせ を、 ツォ ン カバ は同体 とみ な して い る。 これは、 正確
な理解
だ ろう
か 。 確か に、 先の 『量正 理蔵
』で例
示 さ れて い た定義
= 瘤や垂れ 肉 、所定
義
= 牛、定義例
= 斑 牛を
、同体
の 三局面
とみ なす
こ とは可能
であろ う。 しか し、 そ れだけで は不十 分 なの で 、 『量 正 理 蔵』 をさらに精 査 した ところ、 次 の よう
な記
述 に 目が 止 っ た。定 義 と所定
義
は 自性結 合 (rangbzhin
’breD
で あり、 その 二 つ と定 義例は暫定結合(
gnas
skabs ’brel
)である が 、 自性結合 もある。 (『量正 理蔵」p
.203
,
ll
.6
・7
)mtshan nyid
dang
mtshonbya
rangbzhin
’brel
zhingde
gnyis
dang
mtshangzhi
gnas
skabs ’brel
la
/rangbzhin
’grel
pa
’angyod
…こ の
後
半 部で は、 定義
・所定義
・定義例
は自性
結合
と さ れ、条件
付 きなが ら、 それ らが同体であるこ とが 明示さ れ てい る。こ う して 、三つ の 組み合わせ が、 同体 であ るこ とは 、一応、確
認で きた。で は、 ツォ ン カ バ は 、 それ
を
どう
評価
して い るの だ ろう
か。 『善
説金
鬘 』 の記
述 か らは、定義
・所定義
・定義例
が 、 当時の代 表的
な定義
の 形式であっ た こ とを伺い 知 るこ とがで きる。 三つ の 組み合わ せ は 、ツ ォ ン カバ の時代
、完全
に定着
して い た の で あ る。 ツ ォ ン カバ に しても
、定義
・所定義
・定義 例
それ 自体
を否定 して はい な い 。 しか し、先
に見
た よう
に、ツォ ン カバ は、別 体 説支持者
である。 彼は、 こ こ で、 別体説
を示す
A
・A
’を
注 釈の 基本
に居
えるべ き であり 、 同時
に、 同体
で あ る定義
・所定義
・定義例
の使
用 を止め るべ きで ある という
見解
を、 強烈 な 自信 を もっ て 、 表 明 した と思わ れ る。事実
、 ツ ォ ン カバ は、 三 つ の 組み合
わせ を 一 切使
用せず
、kk
.13
・31
を注釈 し てい る。で は、 チベ ッ トに深 く浸透 した 三つ の組み
合
わせの使
用 を拒 否 するこ と で、ツ ォ ン カバ は 、 どの よう
な注釈 を展 開 したの だろう
か。 さ らに、 探 っ て み よう
。ツ ォ ン カバ は、 次の よ
う
に、kk
.13
−31
に対す
る彼の基 本 的理解
を示 してい る。結果
Cbras
ba
)に よっ て原 因 (rgyu )を定義 するこ と が こ れ 〔「現 観 荘 厳 論」〕の 目的で あ るとも、 雪 蔵 〔チベ ッ ト〕の大学匠は御 主張に な り 17)、 偈 と注 釈 の 真 意なの で ある。 ( 『善 説金 鬘 』
p
.766
,II
.1041
)
’
bras
bus
rgyu mtshonpa
’di
’i
don
yin
par
yang
gangs
can gi shinglta
chenpo
bshed
de
/rtsa ’grel
gyi
dgongs
pa
’o //こ こで 、 ツ ォ ン カバ は、
因
・
果 を力説
してい る。 これは、 次の