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は じ め に
本教科書では，分子レベルで生命の機能を理解すること，およびその理解 に基づいた診断や治療，あるいは新薬の探索を指向する有機化学を学ぶ.そ のためまず生化学系の機構と，その研究のために用いられている手法を分子 のレベルで解説する.次に生化学系の中で機能する人工分子の有機化学につ いて勉強する.すなわち細胞中での人工分子の化学反応や相互作用，あるい はその中でそれらとは独立に挙動する反応や相互作用について解説する.最 後にそれらの医療，診断，創薬への応用について述べる.
本教科書を理解するには，大学1年次程度の有機化学の知識が必要である.
生化学についてはアミノ酸や蛋白質，核酸の基本化学構造についての高等学 校程度の予備知識があることが望ましいが，本書だけでも理解できるように 配慮した.
本教科書は同じ主題をもつほかの教科書とはかなり内容が異なっている.
従来の生物有機化学の教科書は，有機化学の研究室で、育った化学者が，その 研究室に在籍したまま生物関連の研究を始める立場で書かれていたようであ る.複雑な立体構造をもっ薬剤の合成，酵素や蛋白質の作用機構の詳細な解 析，生体の精織な構造と機能を模倣した生体モデル化合物の合成などが主な 話題であった.一方，本教科書では，化学者が生化学の研究室に移籍し，そ こにある設備や技術を使って医療や創薬に役立つ研究を始めるような立場で 書かれている.すなわち有機化学の知識と技術のうえに生化学や分子生物学 の考えを導入し，生体反応の人工分子による制御や生化学系の人工的な拡張 を行うことを目標とする.またさらに生体分子や細胞の構造と機能を理解し たうえで，診断，治療，創薬のための新方法を提案することを目標としてい る.
『化学の指針シリーズ生物有機化学~ (宍戸昌彦・大槻高史共著/裳華房)
Vl は じ め に
このように大きく生医学寄りに舵を切ったのは 生物有機化学のゴールと して今後は医療や創薬への応用が中心になることを考えたためである.最近 の生化学や分子生物学の進歩，特に全遺伝子の塩基配列解読や蛋白質の構造 解析の進歩によって，多くの疾病の原因が分子レベルで解明されるように なった.それに応えて現在の医療には，特定の遺伝子や特定の蛋白質などの 分子を標的とする治療や診断，さらに特定の細胞への薬物送達など，分子レ ベルの診断や治療がつよく期待されている.生化学や分子生物学は生物の機 能解明や機構解明などを通して病気の原因究明には大いに役立つている.し かしそれらの学問には，人工分子を自由に作製するという考えがほとんどな いので，診断や治療のための新しい分子の探索や，新しい手法の開発にはつ ながりにくいのである.
例えばがんの治療について考えよう.生化学研究の進歩により現在では細 胞のがん化機構についてはかなり明らかになってきた. しかしがんの治療に ついていえば，細胞内でどのようなことが起こっているかは大きな問題では なく，がん化した細胞をどのように見つけ，どうやって消滅させるかが問題 なのである.そのためには特定の細胞だけに結合する分子を探索すること，
また細胞中の特定の分子だけの機能を阻害する分子を探索することが重要な のである.がん化の機構解明とがんの治療とは，関連しているが異なる分野 なのである.病気の診断や治療，あるいは創薬のためには，生体中や細胞中 に入りそこで機能する人工機能分子の化学，すなわち本教科書で扱う生物有 機化学がどうしても必要なのである.最近このような分野はケミカルバイオ ロジーと呼ばれるようになっている.本教科書はまさにそのような立場で書 かれている.
多くの学生がこの教科書に書かれた知識と技術をもとにこの分野で活躍さ れ，近い将来の治療に役立つ知識と技術を創出していかれることを，心から 願っている.
本教科書を執筆する機会を与えてくださった編集委員会の先生方，および
は じ め に Vll 第7章の一部を執筆していただいた二見翠博士に感謝します.
2008年1月
著者を代表して 宍 戸 昌 彦
