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文化成長打巳
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に関する一考察│││
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最近の考古学ならびに先史学的研究が次第に明らかにしてき
たと
ζろによれば︑古代オリエントを中心に成立した高文明の
波動は意外に僻遠の地にまでおよんでいるということである︒
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命Vは︑おそくも紀元前回︑五千俸のころにおζり︑邑落的ま
たは都邑的な古代高文明は︑紀元前三千年前後にオリエントを
中核に確立していた︒そして︑これらの農耕と牧音とを基調と
する村落文化や都市文明は︑つぎつぎに二次的︑三次的な文化
中心地を形成して世界各地に波及していき︑現在僻遠の地に生
活している狩猟採取民といえども︑最近数千年間にわたって地
球上にひろがった農牧的文化や都市的文明の影響から完全に隔
離して生活してきたといえるかどうか疑わしいほどである
ζ
のような歴史的事態に深く想いを致すとき︑われわれとしては
︒向
2
付2 8
伽 いわゆる文明時代以降人類文化の織りなす縞の日を一つ一つ丹念に検討する微視的な研究の進行とならんで︑他商広く世界史的な視野から人類の織りなした文化の網の全貌を大づかみに見渡してみる巨視的な研究の進展もまた︑ひとしお望まれてく
(2
︼るのである︒乙こでは後者の問題視角に立って︑こうした研究
領域における基石的な成果ともいうべきク
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こうした事態については本稿も後段においてたちいっ
て触れるはずであるが︑簡潔な説明を加えたものとして︑
石田英一郎﹁文化人類学ノIト﹂(河出文庫)所収の諾論
文をあげてお︿︒また︑ォりエント古代文明とシナ古代文明
との歴史的連闘を鋭く究明した好個の論文として︑巧
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・であるが︑さすがにアメリカ文他人類学界の長老にふさわしい識見を示
している︒筆者は曲国て右田英一郎教授の講義に列席してこ
の論文を知ったのであるが︑爾来この論文で提起された問
題が絶えず筆者の脳裡から離れないままに今日に至った︒
ここに小論をまとめる機会をえて︑民族学への興味をよび
おとしていただいた岡正雄教授ならびに石田教授の曽ての
御指導に感謝したい︒ただし︑本稿の問題提超が筆者の立
場からなされていることは︑いうまでもない︒なわ︑アメ
リカの文化人類学は次第に世界資本主義の波頭ぞ切って進
むアメリカ資本主義の立場からする世界史の総括町田握へ
の意団を一部し始めており︑この看点からみても決して無視 二二八
しえない役割を果していること︑恰もイギリス資本主義に
対する古典派経済学︑ドイツ資本主義に対する形式社会学
の演じた意義と同断である︒
本稿の題名であるオイクメネl
︒掠
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5
白骨は︑古代ギリシャ人がヘルクレスの柱からインドおよびセ
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レスにまでひろがっているととろの当時彼らの脳裡に函かれた全世界に対して
与えた名称であった︒もらろん数問紀後にはζの名称は︑もはやその本来の意味における地域と照応しなくなったのではある
が︒しかし︑クローバーによれば︑ギリシャ人によって一不され
コ ン ブ レ フ ク ス
たζの地域は︑その歴史的発展過程が一一極独特な文化複合構造
レlyン・ヂ1トルを生みだした文化圏の名称としてならば︑なわ存在理由があ
るというのである︒したがって︑本稿でいうオイクメネーは旧
い﹁人類の分布区域﹂という意味から﹁人類の最も発達した文
化の分布区域﹂という意味にズラして使用されている︒ところ
で︑なんらかの文化のびとたばもレくは一片をとりあげて︑そ
の独自性︑個性もしくは一般性︑普通性等を明らかにしようと
すれば︑既知の文化の総体と述関させて︑比較検討しなければ
ならないcげだし︑﹁比較だけがその文化価値を記述し︑そ心
比重を測定しかっその意義を明らかにすることができる六三七
九頁﹀からである︒クローバーは地球上の諸女化を考察するに
あたって︑既知の文化の縁体に代るものとして︑一地域内に千
年にわたり栢互に結合しゐって高度の文明を生みだしたオリヱ
ヘ1﹀ント(いわゆるコ扇形の沃地帯一司
2
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げ︑これに連関させつつ︑諮文化の展望をおこなっている︒つ
ぎに︑彼の論旨を順を追って検討してゆくととにしよう︒
クローバーは自著﹁文化成長の諸形態﹂
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申立)のなかで若干の主な美的・知的活動の戎長輪廓図を比較検討して︑とくに高度の価値水準を示す
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﹀彫刻の陸中について︑つぎのような見解に到達した︒最初の︑
そして断続的ではゐるがこ
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年を超えて継続した文化活動は︑地中海の一一以の涯エヲプトからメソポタミアにかけての地域
に狭く限られていた︒∞・︒・六
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年頃にとの成長が終末に達
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し︑ギリシャ彫刻がそれを西に︑ペルシャ人がそれを東におい
て復旧会せた︒後者は︑さらに順を追って数世紀の聞にインド
やシナに勃興したさらに東によった諸地域における文化成長の
樫に継承きれた︒ギリシャ人の彫刻は西紀前にはほ枯渇してし
まったが︑丁度その頃ロlマ人によって西紀初頭に継承される
に至った︒ローマ人の彫刻は一般に高く評価されてはいたが︑
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しかし︑頑強に固執した一つの技術上
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革新︑すなわち個人の肖像のリアリズムにおいて寄与するところがあったのである︒
インド人の彫刻は︑ほぽ
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年頃に最高潮に達し︑中
国人の彫刻は恐らくそれよりいくらかおくれて唐王朝の前半頃
に繁栄した︒インドから一一関東によった植民地チャムパ・カム
ポヂア・シャム・ヲャヴァ等々では﹀・0
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にわたって彫刻における繁栄の頂点がみられた︒中国人の彫刻 はさらに東にあたる日本に自らの継承者を見いだした︒日本人
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の彫刻は最初は母国である底の絶頂時にほとんど詑行して繁栄 し︑さらにもう一度十二位起に恐らくその絶頂に透したとみら
れる︒一方︑中世教会建築の彫刻はフランスを中心にヨーロッ
パのさらに西と北で栄えた︒このゴチック式の運動は︑ヨーロ
ッパ・ルネッサンスの勃興によって凌担局されるまで続いたので
ある︒以上の素描からわれわれは彫刻の高い生産性によるクラ
イマックスが一層周辺の地域に︑さらにその起源地から外部に
向って溢れ出ていく傾向を一ボすものであることを察知しえよ
う︒事実︑われわれは東方に向つては才ηノエント←ペルシャ←
インド←中国←インド植民地←日本︑また西方に向って︑オリ
エント←クレテ←ギリシャ←口117→西ヨーロッパという伝播
の系列を見いだすのである︒この両者の類似性は恰も何か一つ
の閃光が織物の上に溶ちて徐々に際積し︑最後にはとうとうそ
の織物を通じて次第に周団を侵飾し始めていく様に似ている︒
乙の場合も燃焼する焔はその到達した場所・場所において一番 強まる中心ぞ有している︒そして︑その織物のなくなる空間ま
で焔は燃焼していくのである︒
クローバーは︑このような彫刻芸術のオリエントから周辺へ
の拡散という事誌を一つの手がかりとして︑古代高文明の歴史 花関するアウトラインを示そうとする︒すなわち︑文明の繁栄
中心地がオリエントから離れていく傾向を露呈するとともに︑
例えば絵画・劇・科学・テクノロジーといった諸文化要素が他 の諸文化活動の裡に再現されていく様相をも示しているのであ
る︒ギリシャの科学がどの程度まで自らに先行したオイクメ︑不
九
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ーの高文明に依拠するものであるかが具体的に意識され始めた
のは︑つい最近のことであるoそして︑こうした継承されてい
ピークく交化の高まりは︑東洋に向つては︑インドが︑kF・ O‑
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年︑中国が一三
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年︑日本が一七O
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年二万西津では科学の成長が丁度第四世紀に成会れている︒文明が内包する
最犬の創造力会承継せる諸文明の純一起的な膨脹という歴史附事
態は︑オイクメネ!という用語を単に廃れてしまったもしくは
時代おくれの繊念といったものから復帰させるものであり︑事
実歴史の持つ深さに関する近代的意義を有する用語として有効
であるように思わせる︒クローバーは︑このようにみて﹁一八世
紀の日本に起ったどんなことがらも︑一八世紀のイギリスで起
ったことがらと無関係ではあり得なかった︒﹂﹁両国の発展は︑
遠く隔ったそれぞれの地域におけるぞれとして外見上甚だしく
異なってさえいたが︑両者の進歩した個性的な文明は結局多く
のより高度な文明という共通の根茎ーーーいってみれぽ︑高まり
つつある交明の根茎から流出したものであるが故に︑相互に関
係があったのだ﹂(二一八
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三八一頁)とまで︑ォイクメ︑みl( 3 )
のもつ歴史的意義を強調している︒ハ1
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土地帯をそのようによんだのであるが︑最近になって︑ブ
レッドウッドはエジプトをも含め︑先史学上穀物裁培と家
畜飼育の痕跡のたどられる最古の村落選跡の分布している
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地域を再ぴその名称でよんでいる︒
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に我国では知られていないが︑きわめてすぐれた文化理論
を展開したものとして注目すべきであろう︒
( 3 )
行論上︑こζではその意義に関する検討を︑はぷいた
が︑それについては後段の﹁補論﹂を参照され仁い︒
以上のスケッチは︑おのずからやや異質的な文化に対する観
察に導いてい︿︒クローバーはそのような文化としてイスラム
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文化を例にしている︒イスラムの文化成長はたしかに世界諸文
明の一類型をなしており︑その広漠たるひろがりにもかかわ
らず︑異常なまでの凝集力と画一性を表明している︒しかもア
ラブ人においては︑トインピーにならっていえば︑﹁普通的
な﹂理念の休系もしくは教会のみならず︑普遍的な言語や室日く
もの申ぞ有している︒しかも︑注目すべきことは︑イスラムは他
の偉大な諸文明にみられる重要な諸形象の若干を欠如している
のだ︒イスラム文佑は何らの幼年時代をもたず︑何ら真の成長
をも一示会なかったが︑恰もドイツ世界に決定的なものがヒット
ラーの意志とともに現実に生じえたかに思えるのとなにほどか
類似して︑イスラム世界においてもモハメジドという一人の男
性の人生とともにミネルヴァのごとくに︑その文化は満開した
のである︒イスラム文明の法制は︑モハメッド個人の特異体質
││彼の強欲︑抜け目江さ︑色情︑実用的な智慧と熱情︑知的
蒙昧さなどによって色づけられている︒イスラム文明の発条を
伝す宗教は︑ともに一神教であるユダヤ教およぴキリスト教
の拡充というよりは︑むしろ縮少を示すものである︒それは何
ら目新らしいものがなく︑モハメット個人とその故郷の陀なら
びに曲目てそ乙に落下した隙石といった偶然的な事象をのぞけ
ば︑それに独自なものとでは皆無なのである︒むしろイスラム
の特異性は︑イデオロギー的にはさまぎまな禁止令の存在であ
る︒そζには何らの偶像も他の神々もありえず︑いかなる聖霊
や聖母あるいはメシア像の入る余地もない︒禁酒︑禁賭博︑禁
高利貸菜︑禁工業(ただし︑手工業はのぞくυ︒また貨幣や消費
さるべき蓉修品の隠匿に対する禁止︑等々︒そうだとするなら
ば︑異質的なものをすべて担否した宗教が︑どうして千年にわ
たり存在した文明の興隆に寄与することができたのだろうか︒
そして︑史土第三の文明として西洋やインドや中国といった本
質的に一層豊富な内容をもったす︿明群と競い合うζとができた
のか︒それもしばしば成功裡におこなわれ︑その獲得した領土
の上に明確に他のコ一つの文明から空間的にも識別されるほどに
現在まで維持されてきたのは︑どうしてであろうか︒クローバ
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それに対する説明は︑一切のきらに高度な文明の最初の燈で
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新石器革命といわれる最初の農耕や町々や諸王や諸文字江どの起ったオリエントにおいてイスラム︑が勃興した
という事実の裡にあるように思われる︒しかも︑注意すべきこ
とはそれは歴史構成的に作用する文化の衝撃がその燈から流出
し去ってかなりの時ぞ経てのちに︑それも文化の衝撃波がギリ
シャやペルVャすらをも超えて彼万に移動し去った︑まさに
その時に勃興したのである吋また︑それはオリ工︑J
卜に
品段
通し
た︑イスラムとは恐らく異質的なヘレニズムやイラム文明の死
滅してすでに久レかった︑その時に起ったのだ︒西紀七世紀
にはこのオリエントの地には
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1そこではエジプト・シリア・
メソポタミアの諸社会がつぎつぎに興亡をくり返し︑疲弊レ衰
滅レ去ったのであるが
11
1真に創造的な偉大な文明を生ぜしめ
得べき如伺なる希望も脊在していι広かったのである︒ただ︑
そこには征服され消し去られた文明のために︑そして反ヘレニ
︿ ぴ 者
メム反ササン王朝反キリスト教文明として外国文化の腕から離
脱し︑自らの自由な社会や確立する一つの一チャンスが存在して
いた︒その社会には何らの芸術もなく︑多くの知的好奇心を満
たすべきものや深遠な思想とか慣習法といったものも多くなか
ったが︑問主独立の意欲はきらに熱烈なものがあり︑その文化
水準の高きを問わず︑他の文明を征服することにもっぱら欲求
の充足を感ずる文明の成立しうる余地が残されていた︒
しかし︑この教会と国家の設立者が古代エヲプトやメソポタ
ミアの諾社会の一員ではなくて︑もう一度トイン︑ピlの用語を
借用すれば︑それらの諸民族ならびにグレコ・ローマン帝国凶︑
一 一 一
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出 品
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復興したイラン王朝の外部におこった﹁外的プロレタリアー
ト﹂の一円只でゐったことは︑恐らく無意味とは思えぬ偶然事で
はあった︒モハメッドはアラブ民族
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すなわち︑三了四千年にわたって文明から取り残されつつわずかにその片隅に生活し
てきた民衆の一員であった︒絞らは高文明に接触してはいた が︑それに対して何らの関与もしなかったのでゐり︑文明化さ れる責任性を同避する方を好んだのである︒かくて︑絞らは無 符蒙昧のままにうちすぎ︑他宗に走り無教育で忌想においても
財産の両でも貧困化は進
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一方であった︒しかし︑そのかわりに彼らは誇りをもち貧欲で活気があり激情的であった︒彼らは
まさしく一個のプロレタリアートであったーーだ
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し︑プロレ夕刊
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l卜といっても︑その場合かの首都において圧制的な労
役のために鈍重化されるに至ったそれではなく︑不毛の地にあ
って︑いまは空しき自由への情熱に燃えた︑いわば精神上の乞
食の営む労苦という意味におけるそれであった︒そのとき︑モ
ハメッドが現われて彼らに新しい型の社会と文明とを与えた︒
その文明は︑ぞれ︑がプロレタリア主義であるという事慈のなか
にひとつの新らしきがみられた︒一般民衆へのアッピール︑過 去の宿命からの脱皮︑理想の単純化︑その平準化と脅かし︑そ の数多い禁止項目等々︒この所レい社会は主義の固執をのみ求 めてその他はほとんど成員に対して要求しなかったが︑実際上 それを守ることの代償は俊らにとって団結︑成功︑官等の入手
を意味したのであった︒
その結果︑メソポタミアやパルシャの古代イラン文明は︑た
一 一 一
一 一
一
とえ当時滅亡前夜にあったにせよ一朝にして覆えきれ︑やがて 破壊された︒キリスト教社会はなお強大であったが︑急速にか
っ永久にシリアとエヲプトを失なった︒ついで︑その勢力はイ
スラム文明をスペインおよびインドに運び︑さらにアナトリア
へ︑バルカンヘ︑東印度諸島に運んだ︒だがイスラム文化の永
続した故郷︑すなわち人類文明会体に対して構成的な作用を果 した範囲は︑オリエント︑つまりエジプトからペルシャにかけ てのひろがりにとどまった︒その他ではインドの若干の社会階
層に影響をおよぼした︒中国に対してはその影響は軽微にとど
まり︑マレイ人︑トルコ人︑ス!ダン人︑ニグロ等がその影響
のおよぶ限界らかたちゃつくっていた︒
一個の世界文明が半球を横切って拡散するにあたり︑イスラ
ムの文化的貢献はその貧相な点できわだっている︒ζこでかか
る価値判断をおこなう準拠枠は︑技術革新︑新たな附加力︑そ
の前進性にある︒現在のイスラム社会文明は明らかに一千年に
わたって継承されてきたものである︒イスラムの建築構造は︑
古代ロ
1
マのそれであった︒形象化された芸術は禁止された︒純粋に装飾化された図案││それには﹁アラベスク﹂という名称
が特徴的である
il
は一層低水準の代用物奇供給したにすぎなかった︒イスラムの哲学と科学は基本的には︑ギリシャのそれで
あった︒われわれが︑七
00
一 一
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年にいたるまだ一層低水準にゐるヨーロッパの哲学と科学と対照させてみて︑イスラ
ムの潟県を過大評冊ずるきらいが充分にみえる︒レかし︑西洋
のこの文化的退廷は多分オイクメネーからの距離という地理的
宅@
要因に負うところ大きかった︒フランスはウルやメンフィスと
いった古代文明の起源地からは︑またさらにおくれてエデッ
サ︑アレクサンドリア︑ピザンチンからは︑アラブよりも一層
遠く隔っているのである︒ギリシャからわれわれの近代までを
一骨骨か骨骨として一切の科学的発事乞眺めるわれわれの箸る
しい習性が︑たしかにそれが現実にあったよりも一層印象的
に︑ヨーロッパの﹁落胆の泥沼﹂(ヲョン・パンヤンの﹁天賂
内 ヲ
歴程﹂にある)の緑巻禎切るアラビアの橋を隊騰と浮び上らせ
たのである︒イスラムは明らかに政治的・経済的に新しくは何
物も展摘しなかったし︑テクノログlの面でも同様であったと
恩われる︒回教徒によって発明された重要な工夫とか機械をゐ
︿3﹀げることは困難である︒印刷とかカルタといった有用物もコl
ランをめぐる諸タブーによってその導入が惑がれていたのであ
る︒乙れは創意奇伸ばすには全く不都合な雰囲気である︒モハ
メッドの社会がそれ自らのイニシァティlヴとメリットでもっ
て純粋に高い地位を要求するかも知れない文化活動は︑文学で
ある︒ただし︑詩はそれ自らの形式︑韻文︑音の長短︑様式
化せる内容や規準︑汎アラブ的一荷風等すべて前モハメッドのア
ラブ社会がなしとげた成果であった︒との詩は全く異常なまでに力強きと訴える力とを有していたに相違ない︒何故なら︑
それはペルシャ語︑さらには結局トルコ語にまで言語上の障碍
を乗りこえてその形式とスタイルの多くを伝達するζとに成掬
したからである︒ζの場合曽て一帝国と宗教哲学の創出者であ
り一二
CC
年にわたるそれの所有者であったイラン人が︑その
2 r o d g g
ゆ 問ずっと継承した国民文学にその才誌を発揮しないままにおわった点と関連させるとき︑一層注目すべきものがある︒すなわち︑との一小均等な文化発展を一ボすペルシャ人の事情は︑オリエントの社会がその内部にイスラム化への契機を有する文化の一つであった力強い創造的な活動力ぞ有するアラブ人の詩という表現方法が爾余の文学領域を駆遂し去ったという理解によってのみ把握できるかにみえるのである︒かくして︑他の諸文化活動は粗野なままにおかれたか︑または旧式化し化石化したか︑もしくは呉国の文化に合体してしまった︒なお︑それに関連しておくならば︑ギリシャの科学と哲学はアラブ諸国におけるよりはずっとおそくラテンヨーロッパでそれの中世的解釈が与えられたのであるが︑この解釈はキリスト教的な西洋では科学と哲学がそれぞれ独立に発達する上の刺戟となり︑ルネッサンス以降の数世紀にかけては司きわめて生産的な役割を果したの
︿4﹀であった︒しかるに︑同時代をとってみれば︑長い知的暗夜が
イスラムの頭上にそのとばりを下していたのである︒
以上の論議は︑イスラム社会がその文化内容を圧縮させ単純
化したからこそ却って有効かつ成功担に持続しえたととおよび
倍以術革新をつづげつつ進歩する文明の前線がオリエントから周
辺へと移動をおこなったその時期に︑長い働きをなしおえて疲
怨した﹁文明の故郷﹂内部でほ︑どのような文明であっても継
続していく上にはかかる収縮がひとたびは必要であること︑ほ
げ以上の二点を明瞭ならしめるものである︒この推論はやがて
順次
に東
半球
一
ω
主要部分l
ーオイクメネ!の旧い周辺l
ーを通一 一
一 一
一 一
2 r
ロ
B o
g p
a
じて文化の歴史的に連結せる総体という概念の構成を可能なら
しめるであろう︒
( 1 )
イスラム文化に関する研究としては︑当面の問題的関
連からいえば︑つぎのものが参考になろう︒の・開・
g
ロの
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・イスラム文化の特牲については︑ウェ1パーも彼の著書の諸箇所で鋭い考察を加えているが︑まとまったかた ちでは遂に完成されなかった︒被はイスラム文化を自らの
﹁世界宗教の経済倫理﹂花関する比較宗教社会学的研究の
対象の一つに加える計画を有していた︒
( 2 )
チャイルドはその革命の有する絶大な意義を︑後代の
︑ ︑ ノ
産業革命に匹敵させている︒G・チャイルド﹁文明の起源﹂上
ft︑(岩波文庫)一四頁︑一一
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頁以下を参照︒( 3 )
風車は恐らくその例外である︒アラブ人の地理学者
削
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はそれをペルシャで
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四三年にみた︒そして︑それらは同世紀ではあるがずっとおくれ
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( 4 )
乙の点でプロテスタンティメムと自然科学との密接な
結びつきを鋭く指摘したのは︑ウェlバーであった︒︿
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一七三頁註八参照︒
四 クローバーはいよいよオイクメネ
1の歴史的意義を省察する
にあたって︑あらかじめ文化の三つの面に関して簡単な註釈を 加えている︒すなわち︑あらゆる文化の比較には︑その領域や 持続期間が大であればあるほど重要の度ぞ増し加える文化現象
の三つの側面︑が考慮されねばならない︒それはまず第一に︑文
化がどこから運ばれてくるにせよ︑その間ずっと同質的である かもしくはほぼ同様であるはずの文化内容
2
ロ ロ
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である︒第二は︑地域的にみて一時的に変異を生ずる文化の形 態もしくはそのスタイルである︒とのことが︑いってみれば中 国の文化にインドや西ヨーロッパの文化と異なった総体として もつ質的な特性を与える︑いわば参透力をもった要因である︒
それはたとえば漸次的には変化したにもせよ︑ともかく数千年 にわたって維持されてきた一つの独自な色彩もしくは型を中国 の文化に対して附与するものである︒第三はその達成された文 化内容ならびにスタイルのもつ価値に関する考量である︒その 価値は一つのスタイルによってまとまって保持されている異な
った文化内容の複合物相互間
l l
いいかえれば︑異なった文明
相互間ーーのみならず︑同一文明の継起的な諸時代もしくは諸 段階相互の問においても変るものである︒本質的にいって︑さ
きほど引き合いにだした高度の文化水準を一示す彫刻芸術の移動
に対して考察を加えた場合の問題こそは︑かかる価値に関する
それであった︒ォイクメネ!という文化概念を定立する際に︑
一定範囲にわたって一つの世界が共通してあずかりうる文化の
側肩は︑文化内容である︒それは一一倒のスタイルもしくはマナ
ーがつねに何らかその内容に依存せねばなちぬことおよび同時
にスタイルやマナ1は自らに特徴的な内容を選択しかっ自らを
決定づけねばならぬととから生じてくる︒スタイルの形成は部
分的には諸文明間で抗行して進ひかも知れないし︑それに関す
るアナロUーを提示するかも知れぬQしかし︑わしなべでそれ
らは個性化される傾向を有している︒最後に文化価値は全く特
殊に限定されたかっ一時的のものであるかにもみえる︒価値が
青いほど益々それは坐産的であることは稀になり︑推論するな
らば︑益々価値の創造を刺戟することが稀になる市りである︒し
かし︑価値を生産するかまど︑かこれまでにみてきたような移動
をおこなう事情は︑一つの文化総体としてのオイクメネ!と明
瞭な関連があるように思われる︒したがって︑その問題領域を
明らかにするためには︑つぎにわれわれはオイクメネーにおけ
る文化内容のひろがりかたとその一様化される傾向に対して検討を加えてみなければならなくなろう︒
とζろで︑この場合われわれは文字と記録の発明と前後して
考案された幾つかの生活よの諸文化財については︑それが現在
もはや周知であることから簡単な指摘にとどめておくことにし
キ ﹃び
柁い︒そうしたものとしては︑大麦小麦・稜といった大畑で蕊
せられる基礎的な食用農産物の人工的育成ゃ︑牛・羊・豚その
他の動物の家遜飼育︑最初は青銅製武器︑ついで鉄製武器と関
︒
ι ‑r D G EJ M m w出 時
係のあった冶金術などがあげられる︒現在の見解においては︑
これらのテクニックの多くの起源は西南アジア内部かその近辺
の伺処かであり︑そこから中国やインド︑一一層近くはアフリカ
やヨーロッパに伝播したものと考えられている︒中国にわい
て︑これらの基礎的な諸文化財の到達が比較的遅れたことは︑bしろネガティヴなかたちで証明されている︒そしで︑中国で
そうした文化財に関するわれわれの知識は︑西アジアにおける
のよりも一層後代であること巻教えてくれる︒もとより中国で
は考古学的調査はまだとく最近始まったばかりであり︑われわ
れの知識もきわめて限られたものにすぎない︒だから︑∞・︒・四
世紀以前には中国に牛の引く惣がなかったといったビショップハ1
)
の主張のとときは︑恐らく年代の新らしさを少し誇張しすぎて
いるように思われる︒このことは専門の中間研究者のみが決
定する権利を有する問題領域に属している︒その世紀以前に
留任︒窓口闘の移行期に翠耕が存在したとの説に対しては︑専
門の文献学者はそこで﹁翠﹂として翻訳されたどの一言葉が本当
にそれを忘味しているのかについて疑閥をさしはさむことだろ
う︒だが文化人類学者にとっては︑切・︒・四世紀という世紀が種
子まき穀物や牛や運搬車輔や濃密な人口および都市とか政府と
いっ
た社
会組
織︑
ζうしたものをすでに有して久しかった古代
中闘の人々が牡牛にひかせる翠を導入する時期としては︑むしろ遅きにすぎるくらいだとの評価を下したくなるのである︒
そのほかに大陸南辺に限られている米や砂糖黍といった植
物︑また大陸北辺や高地にみられる蕎麦がそれに附け加わる︒
主
︒日
OZEO付
ロ 酔 これらは大陸の内部にはずっと後年になって緩徐にかつ恐らく 隅発的な事情でひろがった︒にわとりは︑動物の中では板東の 熱帯地方で最初に入閣に捕獲されたのではあるが︑こうした気 候にほとんど左右されぬととが立証されている︒乙れに反して
どな
か凶
馴鹿は明確に気候に制約されているのである︒事実その有用さ
から家玄同化された鹿類のなかで唯一のものである馴鹿は︑同じ
く家畜化された牛や馬に比して︑当時の人々がむしろオイクメ ネーから内陸へと後退し︑不判な環境におかれたために牛や馬 の代用物としてそれを飼畜したとみられうるのである︒馴鹿文
化の総体は︑かくてオイクメネlの周辺にみられる環境への適
応的反映であるといわねばならない︒したがって︑あらゆる牧 民生活が馴鹿とともに始まったいう理論は︑実際にありそうな
ことよりもむしろ思いもよらぬζとを発見するのに一層興味をへ
24 もつ者の単なる思いつきであるように思われる︒しかし馬の飼 育ほ︑その正確な起源は多くの家資化された動物や植物のそれ らと同様にその場所や年代に関しては依然として不明ではある が︑あるいは内陸アヲアで作出されたかも知れぬ一群の少数の
文化財の一つとして興味をそそるものをもっている︒
東洋と西洋が共にその形成に関与せる社会制度の面では︑記 録の上では西洋の万が一層早くみられるのではあるが︑そうし
たものとして︑一方では殉死の風習︑他方では堤﹂めや運河や城
壁や宮殿︑寺院︑墓の建設に徴集される大量な労働または賦役 を領有する王縫の神格化といったものがある︒殉死の放棄は中
︿3
)
国では西洋よりも遅れ︑日本は一一周おそかったようにみえる︒
二一 二六
この風習が極東で確立︒︒れる以前巳メソポタミアとエ
は断念されてしまったとみるζとも可能なのである︒
特別に興味深いものとして︑官官制がある︒それはメソポタ ミアでは局部の儀礼的切断という側面に関していえば約四
0 0
0
年前までその痕跡を遡及できる︒しかしながら︑その慣行は西アタアの起源地をこえて四万に広汎なひろがりかたをしな かったようである︒後官官官制は明白にずっと後代の制度であ る︒それは周王朝時代の中国ではすでに確立きれたものとなっ ており︑したがってそれよりもずっと旧くからあったとみなけ ればならない︒官官制の学問的な比較研究は︑その単なる事実
よりもわふ呆いわ勝柏町じ紗紛れ山卦普わ冊わか骨を強調すべきで
ーあり︑動物去勢の歴史との関述において︑なお研究の余地なら
びに必要が布在レている︒
官官制はピザンチン帝国のユスチニアヌス帝治下のコンスタ
ンチ
ノ
1プルおよびモハメッド帝国のオスマン王朝のコンスタ
ンテ
ノ
lプルにおいて確立されたのであるが︑商欧寸︿明では遂
にその真の足場を得ることはなかった︒ζ
の と と は ま ず 十 中 八︑九まで確実にその制度が明瞭な抵抗につきあたったことを 意味している︒それはまた朝鮮から日本へは対島の線を境界に して決して入ってとなかった︒ここにおいてわれわれは︑かな
り早い時代にユーラシア大陸の主妥幹線を横断することはで山き
たが︑二つの対窃的な周辺部(西ヨーロッパと日本)を頁串す ることは遂に成功しなかった一つの制度を指摘できるのであ
る宇
﹀
Oこの二つの周辺部が官官制の導入を阻止できた原因は︑ ブトで
乙の制度が当時まだ時代おくれになっていないとすれば︑恐ら
くすでにこの慣行がオイクメネlで衰預か守勢に入った時期に
これらの地域が高文明に加わり始めたためにその伝播H参透力
が弱化していたことにあろう︒そのことは他の人身供儀や出産
・月経︑死を不浄視すること等々にまつわるタブlおよび人聞
の身体や生理の社会的な承認や強調(たとえばイレズミといっ
た)についても同様である︒中国︑インド︑西アヲア官官制は
長い間王権の威厳や盛大さと絡みあっていたし︑王権は中国で
は一九一一年まで存続したのであった︒しかし︑乙の趣味は︑
いってみればオイクメネーでは余りに早く進みすぎたために︑
かえって後年ヨーロッパと日本で新しい地盤を獲得する乙とが
不可能であったのであろう︒
西半球でもそれに対応する部分を有しはするが︑東半球で相
互に関連せる文化成長の帰結とみなされる魔術的H儀礼的な慣
コンブ行システムの一群が存在する︒そのシステムは流血供儀の複合
体︑動物の一部を用いる占ト︑占星術︑錬金術である︒乙の レソクヌ
場合犠牲複合体は宗教上の鋒げ物として動物の生命を奪うばか
りでなく︑その血を流すものも含められている︒
また︑それは肉が大量にその私拝者たちによって消費される
ことも含まれる︒かくて︑結局神々への供儀と肉の饗宴とは︑
ほとんど同義にまでなるのである︒それに加えて︑酸酵させた
飲料の順序だった献納とそれの消費︒五
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年前までは︑われわれはまだ歴史記録といった直接の証拠に対する補足として︑事
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態の間接的な証明の点で効果を発揮する﹁蓋然性による歴史﹂
︒ 口 内
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の方法が有する漬極的注意義に気づいていなかった︒ボルネオ
とルソン島における異教種族の供儀︑雲南のロロ族の供儀︑イ
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h v諸族の供儀︑西アフリカニグロ諸族の供
いけにえ儀︑ホ171の﹁百頭の牛の生軸
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﹂︑レグィティクス時代におけるアl
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の火あぶりの供儀等にみられ
る相互の類似性は︑その当時は年代や地域および境遇とは無関
係に︑したがって歴史の織りなす文化の網の自の外側で︑相互
に独立して自然発生的に人聞のつくりだした文化であると思わ
れてきた︒しかし現在では︑それらのことがらすべて︑少くと
も東半球のすべては一つの本源から伝播︑派生したものだとい
う蓋然性はきわめて高く︑そのことを疑うことの方がかえって
むずかしいのである︒
占トは多種多様な技術を随伴している︒しかし︑こ乙でもま
た動物の一部分をもってするときに一番効果が現われるとみる
占トが本来のシステムをかたちづくっていたように思われる︒
はらわたそれらは生賛の腸︑とくに肝蔵もしくは胆嚢の検査を含むもの
である︒また︑鹿や羊の一周甲骨や亀甲もしくはそのたぐいのも
( 5 )
のを火にあぶって生じた裂け目の解釈︑あるいは腿の骨の小穴
にすべりこまされた剛毛の型の解釈といったものも含んでい
る︒それらの技術のもつ専断性は供儀を伴う組織の頻度(H
合理化﹀と結合して︑事実上は出たらめなもしくは偶発的な因
果律を抑止するものである︒ただ︑亜寒帯北部を横断して分布
( 6 )
する鹿の肩甲骨占い以外は︑アメリカ土人には欠如している︒
飼養されたもしくは野生の鳥類の行動からする占トは︑それに
二三七
︒ F 2 5 0
ロ 伽 関連して派生した技術であるかも知れぬ︒しかし銭引きなどは 異質的な原理によるものであり︑歴史的よりはひしろ論理的ないし心理的関連を有するにすぎない︒
占星術の基本的な起源は西アジア︑とくにメソポタミアで獲 得されたに相違ない︒それは曜日が附加されたのにみるごと く︑アレクサンドリアで一層発展した︒そしてヘレニズム
Hロ
ーマ文化の入ってきてのちは︑西欧文明とイスラム文明の両者 に伝達されたのである︒同様にして︑そのシステムは東洋に向 つてはインドおよびそれから派生した諸文化の聞にひろがっ た︒そ乙では西洋人の七曜日が安息日に関連させてではなく︑誕 生時の星位図や個人の未来の決定を射どるものとされている︒
これの普及は次第に勢力を失いつつもパリ島にまでひろがって いる︒そこはいわば中世ヒンズー教の穏遁所なのである︒他国 中国では曜日の風習はそれほどひろがらなかった︒そこでは地 ト法︑すなわち天と地︑風と水芯ロ聞各丘︑超自然的な影響に 関する解釈が代って支配した︒それとともに︑風水占トは安南
ハ7﹀
と朝鮮に伝わった︒しかし︑日本でその占める地歩は一時的な
(8
﹂
ものであり︑むしろ軽い意義しか持たぬようにみえる︒
錬金術︑すなわち﹁中世紀の未熟な化学﹂は︑占星術のあと しばらくしてアレクサンドリアで最初の西ヨーロッパ的形態を うけとったのであるが︑すでにセリグマンの指摘したとと
︹9
) く︑あるいは極東起源のものであるかも知れない︒ごく大づか みにいって︑文化成長に関して東洋と西洋との間にみられる地 理的・空間的なギャップは︑そこに現われる歴史的・時間的な
入
間隔よりも一層はなはだしいものがある︒しかし︑魔術または 似而非科学の体系である錬金術の基本理念
1
i卑金属から金を
つくること︑さらにこのことのためばかりでなく︑そのときに 同時に永生不死を願って調剤を使用すること︑そして深奥な︑
しかも秘められた哲学をつくりあげようとする要求i│乙れら すべては︑すでに中国では漢代の初期に相当程度にまで発達し ていたのである︒とれは西洋の記録よりはるかに古い︒ところ で︑中国から西洋にこの思想と技術が伝播したとみる見解に対 して︑それがどんなに早くとも一世紀か二世紀を要しようと批 判する向きに対しては︑いかに多くの文化がこの長安各自問田口
からアレクサンドリアへのルl
トを利用して伝達されたか明瞭 なこと︑その若干はほとんど急行列車のようなスピードできた
事実を指摘するにとどめる︒
国・︒・六世紀の時代が││恐らくはその世紀をさらにこ・=一百
年づっ区分けできようが│!老子・孔子・仏陀・ゾロアスタア ならびにギリシャ哲学におけるタ
lレスとその継承者たちから
プラトンにいたるまでの人物を空んだということは︑とくに﹂記 憶しておいてよいことである︒そして︑切
b
・ 二OO
年にはそれ
の文化成長の面で創造性が過去のものとなったかもしくは急速 に終局に近づきつつあったこともまた︑明らかなのである︒か かる不思議なほど洋の東西で一致した理由については︑第一に は﹁偶然なことがら﹂であるかも知れない︒すなわち︑さま︑ざ まの原因が同時代的に類似の諸事態を生みだすようなかたちで 現われたのかも知れない︒第二には︑それはまだその本質を明
らかにしえないところの︑歴史の底を貫いて流れる潮流もしく
は神の摂理とでもいった陛史に内在する力のごときものの発現
であるかも知れない︒第三には︑その実例の年代考証が充分で
ないとはいえ︑文字の確立にみられるような︑これらの諸地域
においてそれぞれに先行した歴史的事情の裡にみられるかる知
れない︒第四には︑伝統主義が単に経験の積み重ねにもとづく
雑然たる慣習の複合体であるのに対して︑問題探求の精神や思
惟の理性的な体系を要求する心的態度(日エトス)の接触伝播
に由来する直接的なひろがりにあったかも知れない︒とれら幾
つかの可抽出佳のうちで駿一の原因を棺摘するまでにはまだいた
って
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iパーはそのうち最初の三つについてすでに
検討を読みている
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その後彼はさらにつぎの理由から︑す
なわち︑前述せる流血供儀と生物の局部占トおよび直らに継承
された占見術と錬金術等が明白に大陸を横断してひろがったよ
うにみえる理由から第四の可能性として文化の伝擦をつけ加え
た︒とにかく︑イデオロギーの面における連続性は︑明瞭に︑
川神人同形的な力が要求する感覚的な宥和と偏愛とに直接魔術
的・儀礼的に方向づけられた祭紀︑閉それはまた非人橋他され
た︑かっ非物活論化された思惟のプラグマチックな研究方法を
反動的に随伴した︒しかしこれはまた再び︑間再物活論化され
た科学の模造品によって再反援された︒乙のイデオロギーにお
ける三つの発達段階は地中海から大平洋にいたる広汎は地域において妥当する︒もし︑第一と第三の段階が伝播にもとづくも
のであれば︑この間にはさまれる段階の生起もまた伝播によっ
︒ 円 r c c s g m
たのではないかと推定することが有効性ぞもちうるであろう︒
もちろん︑心的態度のひろがりかたが儀礼的な慣行の複合体や
魔術的信仰のひろがりかたと同様であるとは認められないであ
ろう︒クローバーはこの点については試論的に述べているが︑
ウェパ!の有名な﹁プロテスタンテイズムの倫態と資本主義の
精神﹂という論文は︑まさレくこの心的態度ハウェ
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トスという)のドイツからフランス︑ネ!デルラント︑スコア
トランド︑イングランド︑北アメリカへの伝播過程ならびにそ
の変容過程を追求した労作として︑クローバーの推論を補足す
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る資料になりえよう︒
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一三・はヒショップによって引用されて
いるが︑ラウファlの趣旨はそれとは逆である︒絞は牛H
小麦コムプレックスを中国と西洋とによってともに関与さ
れた例にあげている︒
ハ2
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遊牧文化の起源については︑今日一連の論争史がゐ
る︒最初エドアルト・ハl
ンは
著名
﹁家
富国
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において︑牧畜の発生は農業を前提にすると考え︑西南ア
ジアの原始農耕民が宗教的・祭間的動機から牛を飼育し︑
九
︒待
︒己
目︒
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ついで翠耕に牛を用いたζとを︑きっかけに山羊←羊←馬←
騒舵の順に草原地帯で家一治化され︑かくて遊牧民社会が成
立したと説明した︒とζろがその後二C世紀に入ってグレ
ープナlやヴント︑ホ1ニッヒスハイム︑フレーザー︑
w ‑
シュミットなどがそれに異論をとなえ︑とくにW
・シ
ュミ
ッ
トは牧民文化はその構成要素および分布区域からいって母
権的農耕民や父権的ト[テム的狩猟民のいずれとも発生的
関連にあるのではなく︑南方のζれら諸文化圏よりも一層
古くユーラシア大陸の北半に分布していた狩猟民文化(極
北原文化)につづいて中央アジア北部の草原地特に形成さ
れ︑のちにヨーロッパ︑アフリカに分布したものと考え
た︒すなわち︑その地帯で馴鹿飼育を発端に罵・騒院が家
畜化きれ︑その後牛や水牛がとの地帯の南端で馴致された
と主張した︒この説はデンマークのハットの雪靴と馴鹿狩
猟に関する研究︑アメリカのハロウェルによる熊祭りの研
究︑デンマークのピルケブト・スミスによるエスキモー文
化の研究によって支撲され︑ウィーンのブ日ノッツ・フロー
アは﹁家畜と牧民文化﹂(一九三
C )
という論文で家畜牝の
時間的順位を犬←馴鹿←馬←牛という︑犬をのぞいては旧
来の定説と逆の結論争だした︒かくて︑ハlンの学説ば学
界から葬り去られたかにみえたが︑最近西南アグアの最古
の村存遺跡の発掘が進むにつれ︑シュミットの学説の難点
が指摘されだした︒
ω
中央アグア草原地帯に人類のひろがったのは︑シ寸了ミットらの考えるよりもずっと後代であ
。
四る︒的最近のソ連考古学は馴鹿飼育が予想されていたより
もずっと新しい段階のものであるととを立証した︒間馬の
飼育はオワエントの牛飼育よりも古くはいばかりか︑馬も
オリエントで家畜化された痕跡︑がみられる︒的気候︑環境
の百で困難さがあろcかくして︑以上心諸点から最近再び
ハlンの学説が復活してきた︒
問 J H
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王朝に関してそれを立証している︒切・︒・二一
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年に死んだ始皇帝
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四己によって中国での最後の実行が
なされた︒日本紀
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日によればその慣習はP
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世紀に日本では廃止となった︒もっとも︑その日附は伝説
的な古事記によるとき︑その事実からさらげい数世紀以前に
まで遡及できるかも知れないcとくに中国の紹介が﹀・ロ・
二四七年に女王皐弥呼とともに彼女の多数の従者吾埋葬し
たととを記録した以降についていわれよう︒当・の
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なお︑日本がアタアで有するこうしたす人化的・社会的
独自性に対しては︑最近ウイットフォ1ゲルが別個の視角
から
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