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2 .「法に従わない自由」

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論 説

「法に従わない自由」 と 「アーキテクチャに従わない自由」

成   原     慧

1.はじめに2.「法に従わない自由」

  2.1.事実上の自由としての「法に従わない自由」

  2.2.道徳上の権利としての「法に従わない自由」

  2.3.実定法上の権利としての「法に従わない自由」3.「アーキテクチャに従わない自由」

  3.1.事実上の自由としての「アーキテクチャに従わない自由」

  3.2.道徳上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」

  3.3.実定法上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」4.「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」の意義   4.1.個人の尊厳―秩序形成の主体としての個人   4.2.法概念の再構成―「自主規制」としての法?

  4.3.統治の正統性と柔軟性5.むすびにかえて

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1 .はじめに

  酒匂一郎教授は、グスタフ・ラートブルフらによる法実証主義批判と現代自然法論を批判的に検討しつつ、法における事実・価値・規範の関係、法学における現実主義・理想主義・実証主義の距離について多面的に研究されてこられた 。その際に手がかりとされたのが、ラートブルフらの取り組んだ「悪法問題」、すなわち、道徳的に悪しき法も法として妥当するのか、そして、個人に悪しき法に服従しない権利ないし義務はあるのかという問題である

  個人が(悪しき)法に服従しない権利は「法に従わない自由」と言い換えることもできよう。法哲学において、「法に従わない自由」が認められるのかという問いは、市民的不服従などを題材としつつ、遵法責務論などの枠組みの下に議論されてきた。そこでは、法に従わないことが事実上可能であるという認識を暗黙の前提としつつ、一般に法に従う義務はあるのか、あるとすれば、例外としていかなる場合に法に従わないことが正当化されるかといったことが問われてきたといえよう。

  酒匂教授ら法哲学者が悪法問題や遵法責務論に取り組む中で構築してきた議論は、現代の情報社会における自由と規制のあり方 を考える上でも示唆を与えているように思われる。インターネットの発展などに伴い出現したフィルタリング、ブロッキング、デジタル著作権管理技術(DRM)などを念頭に、二〇世紀末に米国の情報法学者ローレンス・レッシグが「アーキテクチャ」(物理的・技術的構造) による規制を主題化して以来、その性質や問題について法哲学や情報法学において議論が行われてきたが、そこではアーキテクチャが事前に個人の行為の可能性を縮減するがゆえに、それに従わないという選択をとることが不可能であるという性質が指摘されてきた。もっとも、アーキテクチャによる規制についても、例えば、DRMに対抗する文脈などで回避プログラムなどを用いた「電子的市民的不服従」が主張され実践されてきたことからも明らかなように、不服従が常に不可能というわけではないし、実際に行われ、その正当性に

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

ついて論争が生じている。したがって、アーキテクチャについても、法の場合と同様に、いかなる場合にいかなる意味でそれに従わない自由があるのか問う必要があるといえよう。

  そこで、本論文では、「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」を比較しつつ、(いかなる場合に)両者が認められるのかについて、以下の三つの観点から検討を行う。(1)事実上の自由:(いかなる場合に)法/アーキテクチャに事実上従わないことができるのか?(2)道徳上の権利としての自由:(いかなる場合に)道徳上の理由に基づいて法/アーキテクチャに従わない自由が認められるべきか?(3)実定法上の権利としての自由:(いかなる場合に)法/アーキテクチャに従わない自由が実定法において認められるべきか?

  最後に、一定の限度において「法に従わない自由」および「アーキテクチャに従わない自由」を認めることが情報社会の統治と秩序形成においていかなる意義と機能を有しているのか明らかにする。

2 .「法に従わない自由」

  本章では、いかなる場合に「法に従わない自由」を認めることができるのかについて、それを(1)事実上の自由、(2)道徳上の権利としての自由、(3)実定法上の権利としての自由に区別して検討していく。

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2 .1 .事実上の自由としての「法に従わない自由」

  法哲学において事実上の自由としての「法に従わない自由」があることは暗黙ながら自明の前提とされてきたように思われる。当為は可能を含意する(Ought implies can)のであるから、事実上の自由としての「法に従わない自由」が存在し(え)なければ、そもそも道徳上の権利または実定法上の権利としての「法に従わない自由」が認められるべきである(あるいは認められるべきでない)と有意味に主張することはできないし、そのような主張をする実益もないからである。

  経験的にも、法に従わないことが事実上可能である場合があることは明らかであり、事実上の自由としての「法に従わない自由」を認めることができるだろう 。例えば、損害賠償を請求されるリスクを甘受すれば、他人のプライバシーの侵害や名誉毀損など不法行為を行うことは可能である。また、強制履行がなされない場合であって、損害賠償を請求されるリスクを甘受するのであれば、契約に違反して債務を履行しないことも可能である。特に、アメリカ法においては、契約に違反して債務を履行しなかったとしても、損害賠償を支払えば足りるとして、「契約を破る自由」が主張されてきた 。さらに、刑事罰を科されるリスクを甘受すれば、犯罪を行うことすら可能であろう。

  もっとも、事実上の自由という意味であったとしても、「法に従わない自由」が常に存在するといえるかどうかは疑問の余地があるだろう。法は、違法行為に対して事後に制裁を課す場合のみならず、違法行為を事前に抑制する場合もあり、後者の場合には、「法に従わない自由」を行使することは事実上も不可能ないし困難だからである 。例えば、犯罪は一定の要件の下で法律に基づく警察官の制止により事前に抑制される場合がある 。また、不法行為についても、人格権等に基づき裁判所により事前に差止められる場合がある。

  しかし、日本のような自由主義国家において事前規制は限定的な場面で厳格な要件のもとに例外的に許容されている

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

にすぎず 、また、法による事前規制のエンフォースメントの実効性は事実上の限界を抱えていることから (1

、事後的な制裁による威嚇に比べ限定的な役割しか果たしてこなかったといえよう ((

。したがって、事実上の自由としての「法に従わない自由」は、やはり広範に認めることができると言わざるをえないだろう。

2 .2 .道徳上の権利としての「法に従わない自由」

  事実上の自由として「法に従わない自由」が広範に認められるとして、それでは、(いかなる場合に)道徳上の理由に基づいて「法に従わない自由」が認められるべきなのであろうか?

  この問いに答える上では、自らの属する国家の法一般に従う道徳上の義務(遵法責務)を認めるべきか否かという問題 (1

にまず答える必要がある。遵法責務を認めないという立場(哲学的アナーキズム)をとるのであれば、法に従うべきか否かは、個別の場面ごとの具体的な道徳上の義務の衡量に基づいて判断されることになり (1

、道徳上の権利としての「法に従わない自由」はアドホックに認められる可能性がある。

  一方、被治者の同意、フェアプレイ、統治者への敬譲など何らかの政治的責務に基づいて遵法責務を肯定するのであれば、一般に国民は自国の法に従う道徳上の義務があるということになる (1

。もっとも、遵法責務を肯定する論者の多くも、遵法責務を絶対的な要請とは考えておらず、遵法責務を「一応の義務」と捉えており (1

、例外的に(何らかの形で)「法に従わない自由」が肯定される余地を認めている。このような立場をとる場合、いかなるときに他の道徳上の義務が遵法責務に優越し、「法に従わない自由」が認められるべきかが問題となる。

  他の道徳上の義務が遵法責務に優越し、「法に従わない自由」が認められるべき典型的な場面として想定されてきたのが、市民的不服従(civil disobedience)である (1

。市民的不服従は、さしあたり、個人が自らの道徳的信念に反する法

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に異議申し立てするために法に違背する行為と定義することができよう (1

。市民的不服従が認められるための要件としては、良心に基づくこと、非暴力的であること、公共的・公開的なものであること、刑罰など制裁を受容する意思があることが挙げられることが一般的である (1

  市民的不服従が認められる要件の中でも特に重視されてきたのが、制裁を受容する意思である。すなわち、道徳上の権利として市民的不服従が認められる場合であったとしても、なお実定法の定める制裁は受容しなければならないというのである。これは、市民的不服従を支持する論者の多くが、一般に法体系の正統性を尊重する姿勢をとっていることの論理的な帰結である (1

。ジョン・ロールズによれば、市民的不服従は「法への忠誠の範囲内」での「法への不服従」であり、「法は破られるが…自らの振る舞いの法的な帰結を受け入れる意欲を通じて、法への忠誠が表現される」 11

2 .3 .実定法上の権利としての「法に従わない自由」

  次に、実定法上の権利として(いかなる場合に)「法に従わない自由」が認められるべきか検討していこう。実定法上の権利として「法に従わない自由」を観念することは、一見して背理であるように思われる。というのも、仮に実定法上そのような権利が認められるのであれば、かかる行為は、法に適合しているのであり、法に従っていないことにはならないように思われるからである。「法は法を破ることを正当化できない」。したがって、市民的不服従を法的に正当化することはできないというのである 1(

  もっとも、法を〈法体系全体〉と〈特定の法規範〉に区別した上で、〈特定の法規範〉に従わない自由をもって「法に従わない自由」と捉えるのであれば、実定法上の権利として「法に従わない自由」を語ることにも一定の意義を認める余地があるように思われる。例えば、何らかの法律によれば禁じられている行為であったとしても、その法律が文面

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

上あるいは何らかの適用場面において憲法に違反するのであれば、かかる法律に従わない自由が憲法上保障されていると評価することも可能かもしれない。また、刑法上形式的には犯罪にあたる行為についても、それが正当業務行為、正当防衛、緊急避難など何らかの違法性阻却事由を満たす場合には、当該行為について、犯罪の構成要件を定める法規範との関係で「法に従わない自由」を語ることも可能であるかもしれない。

  特にアメリカにおいては、ハンナ・アレントが指摘しているように、市民的不服従と国の法体系との両立可能性をいかにして構築するのかという法律家に課せられた困難は、アメリカ法における連邦法と州法との二重制と、法律の合憲性を試す目的で行われる違反と市民的不服従との混同によって巧みにかわされてきた 11

  たしかに、法規範はしばしば相互に矛盾抵触しており、あるいは矛盾抵触しているように見える。しかし、法規範の間の矛盾抵触は、裁判所により特定の事案において各々の法規範の意味が明らかにされ、そのいずれが優越することになるのか判断されることにより解消される。例えば、ある人がある法律が憲法に違反すると考え、意図してその法律に違反したことにより、その法律の合憲性が訴訟で争われたとしよう。確定判決において当該法律が合憲であると判断された場合には、通常、当該法律に違反した行為は違法とされ、当該行為をなした人は何らかの制裁を受けることになる。一方、当該法律が違憲無効とされた場合には、彼は制裁を受けないが、彼の行為はそもそも合法であった(したがって、そもそも不服従は存在しかなった)と判断されるのであって、市民的不服従、つまり違法行為が法的に正当化されるわけではない 11

  もっとも、「市民的不服従」を行う者または合理的な通常人の行為時の視点からみれば、当該行為が違法と判断され制裁を受けるリスクは、少なくとも主観的には存在したのであり、最終的に当該行為を規制する法律が違憲と判断され、当該行為が合法とされたとしても、行為時のリスクが事後的に消去されるわけではないとも考えられる 11

。結局のところ、実定法上の権利として「法に従わない自由」を認めることの意義があるとすれば、それは、行為時の(行為者または合

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理的な通常人の)法解釈に即していえば違法とされる(可能性のある)行為が、当該行為の適法性を判断する判決時の法解釈に即していえば合法とされる可能性を認め 11

、その可能性に賭けて、不服従者の行為とそれを受けた裁判官の判断を通じて、法のテストを促すことにあるように思われる。

3 .「アーキテクチャに従わない自由」

  本章では、「法に従わない自由」と比較しつつ、いかなる場合に「アーキテクチャに従わない自由」を認めることができるのかについて、それを事実上の自由、道徳上の権利としての自由、実定法上の権利としての自由に区別して検討していく。

3 .1 .事実上の自由としての「アーキテクチャに従わない自由」

  まず、(いかなる場合に)アーキテクチャに事実上従わないことができるのか確認しておこう。アーキテクチャについては、事前に行為の可能性を縮減するがゆえに、それに従わないという選択をとることが不可能であるという性質が指摘されてきた。レッシグによれば、コードが十全に実装されたシステムにおいて市民的不服従は存在しない 11

。すなわち、アーキテクチャについては、事実上の自由としてすらも、それに従わない自由は存在しないと考えられてきたのである。

  しかし、事実上の自由として「アーキテクチャに従わない自由」が常に認められないというわけではない。実際、住居に鍵がかかっていたとしても熟練した窃盗犯はピッキングにより鍵を破り侵入することができるだろうし、著作物にDRMがかかっていたとしても熟練したハッカーはそれを回避して著作物を複製することができるだろう。多くの場合、

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

アーキテクチャによる規制は絶対的なものではなく、対抗する別の技術的手段を用いて回避または破壊することが可能である 11

。このような可能性を考慮すると、アーキテクチャによる規制は必ずしも完全なものとは言い難いだろう 11

  実際、インターネットが普及した一九九〇年代になると、コンピュータなど情報技術を用いて行われる市民的不服従である「電子的市民的不服従」(electronic civil disobedience)が説かれるようになった 11

。近年では、電子的市民的不服従は、ハッキングとアクティビズムを組み合わせた造語である「ハクティビズム」の一種と位置づけられるようにもなっている 11

。電子的市民的不服従は、先述のとおり情報技術を活用した市民的不服従を意味しており、必ずしもアーキテクチャへの違背を伴うものとは限らないが、インターネット上においてアーキテクチャによる規制の役割が増大していくに伴って、電子的市民的不服従もアーキテクチャへの違背を伴うものが多くなっている。例えば、二〇〇〇年代初頭には、著作物の技術的保護手段に対して、当該手段を回避するプログラムの頒布が「電子的市民的不服従」の名のもとに繰り広げられた 1(

  もっとも、光速を越える速さで移動できないように、自然法則をはじめとする、ある種のアーキテクチャによる制約は、違背が不可能である。また、DRMのように、回避可能なアーキテクチャであっても、回避手段を用いることができない人々にとっては、やはり事実上違背不可能な規制として立ち現れるだろう。さらに、技術的手段を用いた回避や破壊などにより違背可能だとしても、それに至るまでのコストを避けられないという意味で、アーキテクチャによる制約は度外視することができない 11

。すなわち、アーキテクチャによる規制は、違背可能であったとしても、違背するためのコスト(技術的能力の習得、回避手段の獲得、労力など)を先払いする必要がある 11

  したがって、事実上の自由として「アーキテクチャに従わない自由」を認めることができる余地はあるものの、それは限定的で、コストの先払いの必要性という留保のついたものであると言わざるをえないだろう。

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3 .2 .道徳上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」

  事実上の自由として「アーキテクチャに従わない自由」を認める余地があるのだとすれば、規範的な問題として、道徳上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」がいかなる場合に認められるべきなのかについて問う必要が生じるだろう。

  そこでまず問われるのが、法において遵法責務の有無が問題とされてきたのと同様に、アーキテクチャにも「遵アーキテクチャ責務」のごとき義務を観念することができるのだろうかという問題である。一見して、物理的・技術的構造であるアーキテクチャについて、それを一般に遵守すべき義務を観念するのは困難であるように思える。というのも、アーキテクチャは、事実上の制約にすぎず、それ自体として規範性を有しないため、アーキテクチャに対する遵守をそれ自体の特性から規範的に要請することはできないと思われるからである。また、遵法責務は何らかの政治的責務により正当化されることが多いのに対して、「遵アーキテクチャ責務」のごとき義務を政治的責務により正当化することは困難であろう。例えば、インターネットのアーキテクチャの主要部分を設計・管理しているプラットフォーム企業に対して利用者が何らかの政治的責務を負っていると考えることは困難であろう 11

  仮に「遵アーキテクチャ責務」のごとき義務を観念するとしても、それは、遵法責務を前提とした上で、アーキテクチャが、技術的保護手段の回避規制や器物損壊罪など法による保護を受ける場合に反射的に認められるに過ぎないであろう。

  結局のところ、アーキテクチャへの服従が一般に道徳的に要請されるとは言い難く、個別の場面ごとに具体的な道徳上の義務の較量に基づいて個々のアーキテクチャへの違背が道徳的に許容されることになるのか否か判断されることになるが、その結果、異なる道徳を信奉する者の間の実力闘争を招き、文字通りのアナーキズムが実現するおそれもあ

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

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クチャに従う一般的な義務を前提とした上で例外として自らの不服従を規範的に正当化し 11   「電子的市民的不服従」が主張され実践される際にも、伝統的な市民的不服従の場合とは異なり、法またはアーキテ

、それに伴って制裁を引き受けようとする姿勢は希薄であるように思われる。例えば、「電子的市民的不服従」やハクティビズムの名の下の違法行為を行う者は、自らの行為に注目を喚起しようとする一方で、暗号技術などを用いて自らの身元を明らかにしないことも多く、市民的不服従が認められるための前提とされてきた公共性・公開性の要件や制裁の受容の要件を満たしていない疑いがある 11

。また、暴力が物に対する有形力の行使も含むのであれば、有体物たるアーキテクチャの破壊は非暴力性の要件を満たさないおそれもある。「電子的市民的不服従」がこれらの要件を欠いているのだとすれば、先に見たロールズらの立場からは市民的不服従として正当化することは困難であろう。一方、アーキテクチャ一般に従う道徳的義務が存在しないのであれば、「電子的市民的不服従」も個別の事情次第では道徳的に正当化される余地があるといえるかもしれない。

3 .3 .実定法上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」

  それでは、実定法上の権利として(いかなる場合に)アーキテクチャに従わない自由が認められるべきなのであろうか。法に従わない自由が法的に認められるかという一見してパラドックスを内包した困難な問題とは異なり、実定法上の権利として「アーキテクチャに従わない権利」は認められるかという問題は、理論的な難問ではなく、個別の実定法の規定に即して具体的に検討していけば足りる。

  そもそも、アーキテクチャへの違背は、法により一般的に規制されているわけではなく、一定の場面で、建造物等損

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壊罪(刑法二六〇条)、器物損壊罪(刑法二六一条)、不正アクセス行為の禁止(不正アクセス禁止法3条)、著作物の技術的保護手段の回避規制(著作権法三〇条一項二号等)などに抵触する可能性があるに過ぎない。それら個別の法規制を受けない場合には、「アーキテクチャに従わない自由」は法的に広く認められることになる。

  また、アーキテクチャへの違背が何らかの法規範に抵触する場合であっても、例外的にアーキテクチャへの違背が法的に正当化される余地もある。例えば、アーキテクチャによる情報の囲い込みなどに伴い、ハッキングが表現の自由や知る権利の行使の前提として必要となっている場面が増大していることに鑑み、憲法の人権条項、刑法の正当業務行為、個別法の例外規定などの解釈・適用を通じて、アーキテクチャをハッキングすることにより是正する「ハックする権利」を実定法上承認すべき場面があるということができるかもしれない 11

4 .「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」の意義

  最後に、一定の限度において「法に従わない自由」および「アーキテクチャに従わない自由」を認めることが情報社会における統治と秩序形成との関係でいかなる意義と機能を有しているのか明らかにしたい。

4 .1 .個人の尊厳―秩序形成の主体としての個人

  これまで、法およびアーキテクチャについて、それらに事実上従わない自由が存在する場合があることを前提に、法的および道徳的にそれらに従わない自由がいかなる場合に認められるのかについて検討してきた。それでは、法またはアーキテクチャに従うべきかについて、法的判断と道徳的判断が対立したとき、どちらを優先すべきなのであろうか。

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

究極的にはそれは個人の選択にかかっているといえよう。

  ハートは、ナチス時代のドイツの法律のような悪法について、「これは法だ、しかし適用したり服従したりするには、余りにも邪悪だ」という姿勢を表明している 11

。すなわち、洗練された法実証主義者であるハートは、承認のルールに基づき認定された法への一応の服従義務を肯定しつつも、法と道徳が対立する可能性、すなわち、行為者が法的義務と道徳的義務の間でジレンマに直面する可能性を認め、一定の場合に法に従わない自由の余地を認めるのである。酒匂教授によればラートブルフの受忍不能定式も、この点についてハートに近い立場をとっているとされる。洗練された法実証主義は、法への盲目的な服従義務を説くのではなく、むしろ、法と道徳の間のジレンマを直視し、個人に競合する理由の間の究極的な選択を委ねようとしているのである 11

  また、法に従う場合にも、政治哲学者のジェレミー・ウォルドロンが説くように、個人は通常、国家による強制的な介入を待つことなく、自ら法規範を解釈・適用し、自らの行為をそれに適合させようとする。そして、法は、個人の自己適用に依拠する点において、個人の尊厳を尊重しているとされる 1(

  一方、アーキテクチャの場合には、それに従わない自由が事前に広範に制約されているがゆえに、このような個人の自由と責任における究極的な選択も自己適用のあり方も問われにくいという構造がある。まさに、アーキテクチャは、この点でも、被治者が責任を担う自由な個人であることを必要としていないのである。

4 .2 .法概念の再構成―「自主規制」としての法?

  法と道徳との間で究極的な選択を可能にしているのが、事実上の自由としての「法に従わない自由」である。レッシグによれば、そもそも法規制は基本的に、アーキテクチャによる規制とは対照的に、法を遵守するか、それとも、法を

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遵守せずにサンクションの可能性を引き受けるのかを自ら選択できる機会を規制の名宛人に与えているという意味で、「自主的」(voluntary)なものであり、規制の名宛人にある種の自由を与えている 11

。また、ウォルドロンによれば、法は被治者の「自己適用」に支えられたシステムであった。このような見方を突きつめると、法は、究極のところ、各々の個人が自主的にそれに従うべきか否か判断する自由と責任を留保した「自主規制」のシステムだということもできよう。一方、アーキテクチャの場合には、自動的に執行されるという性質 11

がゆえに、そのような「自主性」の契機は見出し難い。

  また、これまで確認してきたように、法は、単なる規制手段ではなく、規範でもある。そして、規範としての法は、行為規範と裁判規範の二面性を有しており、我々に行為の指針を与えるとともに、他者の行為についての評価の基準も与えている。行為とその評価の間にタイムラグがあり、行為規範と裁判規範が必ずしも合致しないところに、制裁のリスクを引き受けて法をテストする自由としての「法に従わない自由」が存立する余地が生じるのである。

  一方、アーキテクチャの場合には、規範性が欠如しており、行為と評価との間のタイムラグも、行為規範と裁判規範との二重性も見出し難い。もっとも、将来的には人工知能の発展により、人工知能に法の解釈・適用の機能を担わせることにより、アーキテクチャによる規制においても行為規範と裁判規範の二重構造に相当する機能が実現される可能性はあるかもしれない。

4 .3 .統治の正統性と柔軟性

  法規範の意味が、その制定段階において確定されず、その解釈・適用を通じて明らかにされていくとすれば、後者のプロセスについても国民による法の自己適用を通じた民主主義の契機が求められるといえるかもしれない 11

。一方、アー

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

キテクチャについては、そのような契機は見い出し難い。

  また、法であれアーキテクチャであれ、その設計者は全知全能ではなく、設計には限界がある。したがって、その適用・運用を担う主体に一定の権限を委ねるなど、設計の限界を組み入れた設計が求められる。これまで見てきたように、法については、被治者の自主的な遵守に依拠したシステムであるがゆえに、意図的にそれに従わず、法をテストすることが可能となっていることが、設計主義の限界を織り込んだ意図せざる設計として機能してきた。ロナルド・ドゥオーキンが説くように、市民的不服従には、市民による実験と訴訟を通じて法の合憲性を問い直すことにより、法の発展と検証を可能にする意義を認めることができる 11

。ウォルドロンらが説く法の自己適用における個人の判断も、実験による法の発展を促す機能を有しているといえよう。

  一方、アーキテクチャにおいては、法において規制の柔軟性を可能にしてきた契機が喪失するおそれがある。かねてより酒匂教授らにより、法的な交渉・思考・判断の多くがコンピュータ・プログラムに委ねられ、規格的に処理され、フォーマルな法が精確に再現されることになるという「テクノ・フォーマリズム」の可能性が指摘されてきた。そして、テクノ・フォーマリズムの可能性の検討を通じて、翻ってルールの形式的・機械的な適用の限界が明らかにされ、ルールの適用において解釈・価値判断・規範的正当化が避けられないことが明らかにされてきた 11

。テクノ・フォーマリズムは、法の性質がアーキテクチャのそれに接近する可能性を示唆するとともに、そのことが孕む問題も素描しているといえよう。例えば、ブロックチェーンを用いて法や契約を自動的に実現・執行すること(スマートコントラクトなど)が期待されるようになっているが、その際には、自動的な執行により「法に従わない自由」や「契約を破る自由」が不可能になるだけでなく、自然言語で書かれた法規範が厳格かつ形式的な言語で記述されたコードに翻訳されることにより、事前に予測困難なハードケースにおける柔軟な法の解釈・適用が困難となってしまうおそれがあるかもしれない 11

。このようなリスクを避けるためには、アーキテクチャについても、設計主義の限界を織り込んだ設計として、意図的に

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それに従わずテストすることを可能にするような契機を実装した設計を行うことが検討に値するように思われる 11

5 .むすびにかえて

ば、法的制裁のリスクを引き受け既存の法に挑戦する自由という意味で認められる余地があるといえよう。 利として承認することは、法を静態的に捉えるのであれば、背理と言わざるを得ないが、法を動態的に捉えるのであれ 市民的不服従の場合など、一定の要件の下に認められる可能性がある。さらに、「法に従わない自由」を実定法上の権 により、それが(どこまで)認められるのか結論が異なりうるものの、一般的な遵法責務を認める立場をとるとしても、 ると言わざるを得ない。また、道徳上の権利としての「法に従わない自由」は、根拠となる法哲学的・政治哲学的立場   「法に従わない自由」は、事実上の自由としては、かかる行為が事前に抑制されない限り、基本的に遍く存在してい   一方、「アーキテクチャに従わない自由」は、事実上の自由のレベルで事前に抑制されていることが一般的であるが、アーキテクチャへの違背が常に不可能というわけではなく、違背に必要なコストを先払いすれば、それが認められる余地もある。その上で、道徳上の権利としての「アーキテクチャに従わない自由」については、アーキテクチャへの服従が一般に道徳的に要請されるとは言い難く、個別の場面ごとに具体的な道徳上の義務の較量に基づいて個々のアーキテクチャへの違背が道徳的に許容されることになるのか否か判断されることになるが、その結果、異なる道徳を信奉する者の間の実力闘争を招くおそれもある。また、アーキテクチャへの不服従は、著作権法による技術的保護手段の回避規制などのように、法により規制される場合もあるが、個別の法規制がない限り、「アーキテクチャに従わない自由」は原則として実定法上も認められるはずであるし、個別の法規制があったとしても、「ハックする権利」が例外的に認められる余地がある。

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「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

  このように、法についても、アーキテクチャについても、量的・質的な相違はあるものの、事実上の自由のみならず、道徳的あるいは法的にも、それに従わない自由が一定の場面において認められているということができる。そして、かかる自由の存在により、究極的には個人の自由と責任の下で、統治の正統性と柔軟性が促進され、秩序形成における実験が可能になるということができよう。このような不服従の自由が統治と秩序形成に寄与するという自由の逆説的な機能を実現してきた法の賢慮をかかる機能が未成熟なアーキテクチャの領域にいかに翻訳していくのかが、我々の世代の法学者(jurist)に与えられた課題といえるかもしれない。

(1)その集大成を示すものとして、酒匂一郎『法哲学講義』(成文堂、二〇一九年)参照。(2)酒匂一郎「ドイツ連邦共和国司法におけるラートブルフ定式の受容と定式の現代的意義(上)・(下)」法政研究八四巻一号一頁以下(二〇一七年)・八五巻一号一〇五頁以下(二〇一八年)等参照。(3)酒匂教授は、情報社会の秩序と自由のあり方についても、早くから、アーキテクチャによる規制が有する問題に着目しつつ、論じられてこられた。酒匂一郎「法・情報・技術」法哲学年報二〇〇一・六頁以下(二〇〇二年)等参照。(4)LAWRENCE LESSIG, CODEAND OTHER LAWSOF CYBERSPACE(1999). アーキテクチャの定義につき、成原慧『表現の自由とアーキテクチャ』(勁草書房、二〇一六年)一二頁参照。(5)このような経験的で非規範的な自由観は、ヒレル・スタイナーらの説く「純粋消極的自由」に合致する側面があるように思われる。スタイナーによれば、ある行為をすることが他人の行為によって不可能にされる場合にのみ、その人にはその行為をする自由がないとされる。HILLEL STEINER, AN ESSAYON RIGHTS6-54(1994)[ヒレル・スタイナー(浅野幸治訳)『権利論』(新教出版社、二〇一六年)二章、特に二四―二六頁、五八―六一頁参照]。(6)アメリカ法では、契約の債務不履行に対する救済としては、損害賠償が原則であり、強制履行は例外的な場合にしか認められていない。このような制度の下で、契約当事者には、契約を履行するか、さもなければ契約を破って損害賠償を支払うかの自由があるという見解が支持されてきた。樋口範雄『アメリカ契約法[第二版]』(弘文堂、二〇〇八年)四三―六二頁参照。このような見解は、悪人の視点から裁判所の判断を予測したものが法であるとする「法予言説」の立場から、「コモンローにおいて契約を守る義務は、契約を守らなければ損害賠償を支払わければならないという予測を意味しているにすぎない」と述べるオリバー・

(18)

ウェンデル・ホームズの見解(Oliver Wendell Holmes, The Path of the Law, 10 HARV. L. REV 457, 462 (1897))に起源を見出すことができる。もっとも、アメリカ法において、契約違反は、故意によるものであったとしても、不法行為にはあたらず、懲罰的損害賠償も課さないことから、事実上の自由にとどまらず、法的にも承認されているとの見方も可能であろう。(7)STEINER, supra note(5) at 30-31[スタイナー・前掲注(5)五九―六〇頁]参照。(8)安藤馨は、警察官職務執行法五条が警察官に犯罪・法益侵害の遂行を制止する権能を与えていることを例に、法はそもそも事前規制にコミットしていると論じている(安藤馨「アーキテクチュアと自由」東浩紀=北田暁大編『思想地図 vol.3』日本放送出版協会(二〇〇九年)一四八―一五〇頁)。(9)注(8)の安藤の見解に対し、大屋雄裕は、同条の規定について、生命・身体への危険あるいは財産への重大な損害が生じることを条件に、急を要する場合において行為の制止を許容しているにとどまり、事後の損害回復等が難しい場合に限って例外的に事前の強制的な介入を認めているにすぎないと読むべきであると指摘している(大屋雄裕「功利主義と法」法哲学年報二〇一一・六六―六七頁(二〇一二年)等参照)。(

( 10STEINER, supra note5 at 31-32)()[スタイナー・前掲注(5)六一頁]参照。

( 11)成原・前掲注(4)一〇一―一〇二頁参照。

( 濱竜也『遵法責務論』(弘文堂、二〇一六年)九頁等参照。 12)遵法責務問題は、不正な法に直面して、それに従うべきかどうか判断しなくてはならないときに、特に切実な問題となる。横

( PRINCIPLEAND POLITICAL OBLIGATIONS 193-1951979.() See, A. J. SIMMONS, MORAL義務ないし道徳的理由の衡量に基づいて個別の法について服従する義務が生じる可能性を認めている。 13)シモンズの説く「哲学的アナーキズム」は、遵法責務を裏打ちする政治的責務の存在を否定する一方で、さまざまな道徳上の 14)横濱・前掲注(

( 12)九、二五九―二六一頁参照。

15)横濱・前掲注(

12RAWLS, infra note18 at 298-312)一三頁以下、()[ロールズ・後掲注(

( supra note13 at 24-28.() 18SIMMONS, )四四九―四六九頁]、

に反するものではなく、むしろ遵法責務の遂行として理解されることになるかもしれない(横濱・前掲注( 裁を甘受することで、統治者に一定の敬意を払い、法の改善可能性を信頼している点で、法服従=法の尊重に適っており、遵法責務 16)もっとも、法服従の意味を法を尊重することと理解し、遵法責務を法尊重責務として捉える立場からは、市民的不服従は、法的制

( 12)三〇―三一頁参照)。

17Carl Cohen, Civil Disobedience and the Law, 21 RUTGERS L. REV. 1, 31966)()、横濱・前掲注(

ズムと市民的不服従』(慶應義塾大学出版会、二〇〇八年)一七一頁等参照。 12)二三頁、鈴木正彦『リベラリ

(19)

「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

Cohen, supra note17 at 2-3, 5-6方については論争が行われてきた。()、鈴木・前掲注( ―四八五頁]。もっとも、これらの要件の全部または一部を不要とする論者もおり、市民的不服従が認められるための要件のあり REVISED EDITION 319-323 1999()[ジョン・ロールズ(川本隆史ほか訳)『正義論[改訂版]』(紀伊國屋書店、二〇一〇年)四七八 18 Hugo Bedau, On Civil Disobedience, 58 21 JOURNALOF PHILOSOPHY 653, 6611961.JOHN RAWLS, A THEORYOF JUSTICE, )()()

( 等参照。 17)一七一―一七二頁、二〇一―二三六頁

( see, Cohen, supra note17 at 3, 6.の正義を十分に顧慮して、法を改善しようとするために自らを犠牲にしていると解くものとして、() 19)市民的不服従を行う者は、革命家とは異なり、確立された権威の枠組みと法大系の一般的な正統性を受容しているのみならず、法 20RAWLS, supra note18 at 322)()[ロールズ・前掲注(

( 18)四八三頁]。

( 21Cohen, supra note17 at 7-8.)()

( 22)ハンナ・アレント「市民的不服従」同『暴力について』(みすず書房、二〇〇〇年)四九頁。

( をとるとしても、処罰を阻却されることをもって、当該行為をなす自由が権利として保障されているということは困難であろう。 See, e.g., Harrop Freeman, Civil Disobedience and the Law, 21 RUTGERS L. REV. 17 1966されている。()。しかし、仮のこのような立場 の自由を保障した修正一条の下で尊重を受ける行為として位置づけることにより、当該行為の処罰を阻却すべきという見解も主張 23 Cohen, supra note17 at 7-8.symbolic speech)()もっとも、アメリカでは、市民的不服従をある種の象徴的言論()と捉え、言論 24)鈴木・前掲注(

( PRACTICE 13, 13-14 1970.() 17Joseph Betz, Can Civil Disobedience be Justified?, 12 SOCIAL THEORYAND)二〇四―二〇五頁参照。()

( の関係では「法に従わない」行為について、裁判規範との関係では「自由」を認めることが可能になるのである。 25)このようなリスクは、法が行為規範と裁判規範の両面を有していることの反映といえるかもしれない。すなわち、行為規範と

( 26Lawrence Lessig, The Zones of Cyberspace, 48 STAN. L. REV. 1403, 1408 1996.)()

( Versa)?, 263 BERKELEY TECH. L. J. 1367, 1379-1381 2011.()() 27Helen Nissenbaum, From Preemption to Circumvention: If Technology Regulates, Why Do We Need Regulation (and Vice)

( 28Charles Fried, Book Review: Perfect Freedom or Perfect Control?, 114 HARV. L. REV. 606, 6282001.)()

( CIVIL OBEDIENCE AND OTHER UNPOPULAR IDEAS1996()にあるとされる。 29 Stefan Wray, On Electrical Civil Disobedience, 111 PEACE REVIEW 107 1999.CRITICAL ART ELECTRONIC)()()この概念の起源は、

一七年)五六頁参照。 30)ハクティビズムについては、成原慧「アーキテクチャの設計と自由の再構築」松尾陽編『アーキテクチャと法』(弘文堂、二〇

(20)

( Universal City Studios v. Corley, 273 F.3d 4292d Cir. 2001(). は、DeCSSの掲載差止めは表現の自由を侵害し修正第一条に違反するとの被告の主張を退けて、当該規制の合憲性を認めた。 ウェブサイトに掲載していたハッカーに対し、映画会社がDMCAを根拠に掲載差止めを求め提訴した。第二巡回区連邦控訴裁 コントロールとして搭載された暗号技術であるCSSを解読し回避するDeCSSというコンピュータ・プログラムを自らの 31Corley)二〇〇一年の事件では、デジタルミレニアム著作権法に対する「電子的市民的不服従」を掲げ、DVDにアクセス・

( 32LESSIG, supra note 4, at 236.) 33)成原・前掲注(

( 11)一〇三―一〇四頁参照。

( 自由を、同意理論に基づいて道徳的に否定することは困難であろう。 うし、利用者以外の個人がプラットフォーム企業の設計・管理するアーキテクチャをハッキングなどにより破壊したり回避する ないが、昨今の個人情報の利用目的や提供の同意について争われているように、同意の有効性・真正性が問題になりうるであろ 34)利用規約への「同意」を根拠にして利用者によるプラットフォーム企業への「政治的責務」を観念することができるかもしれ

( 三一―三三二頁等参照。 35)ジュリアン・アサンジらのハクティビズムを批判的に検討する中で同様の問題を指摘するものとして、成原・前掲注(4)三

( Margins, and Technological Management, 263 BERKLEY TECH. L. J. 1321, 1324, 1327-1331 2011. ()() See, Roger Brownsword, Lost in Translation: Legality, Regulatory 従または不服従のあり方にも反映されているといえよう。 36normativity)法からアーキテクチャに翻訳される過程で規制の規範性()が喪失するという問題は、アーキテクチャへの服

( 37Mathias Klang, Civil Disobedience Online, 2 INFO, COMM & ETHICSIN SOCIETY 75, 80-81 2004.)() 38)ハックする権利につき、成原・前掲注(

( 30)六一―六二頁参照。

( 〇一四年)三二二―三二三頁]。 39H. L. A. HART, THE CONCEPTOF LAW 208 3 ed. 2012H. L. A.)()[ハート(長谷部恭男訳)『法の概念〔第三版〕』(筑摩書房、二rd

( 書店、二〇一四年)参照。 解釈が示されている。毛利透「「旧ヨーロッパ的」あるいは「実存主義的」ケルゼン」石川健治(編)『学問/政治/憲法』(岩波 規範として受け入れるか否か、法と道徳が衝突する場合にどちらを優先するかは個人の決断にかかっているとする実存主義的な 40)酒匂・前掲注(1)九七―一〇〇頁等参照。代表的な法実証主義者とされるハンス・ケルゼンの根本規範論についても、法を

( 41JEREMY WALDRON, DIGNITY, RANK, AND RIGHTS 52-532012.)() 42Lawrence Lessig, Constitution and Code, 27 CUMBERLAND L. REV. 1, 3-4 1997. )()

(21)

「法に従わない自由」と「アーキテクチャに従わない自由」(成原)

( 二四六―二四七頁参照。 43LESSIG, supra note 4, at 236-237)、松尾陽「アーキテクチャによる規制作用の性質とその意義」法哲学年報二〇〇七(二〇〇八年)

( 竹内昭夫『法の実現における私人の役割』(東京大学出版会、一九八七年)九―一七六頁参照。 44)国民が裁判等を通じて自らの権利を主張し実現することによる「法における民主主義」の強化を説くものとして、田中英夫=

( 〇頁(木鐸社、二〇〇三年)]、成原・前掲注(4)一一八頁参照。 45RONALD DWORKIN, TAKING RIGHTS SERIOUSRY 212-217 1977)()[ロナルド・ドゥオーキン(木下毅ほか訳)『権利論』二八三―二九

( 46)酒匂・前掲注(5)一〇頁以下参照。

( 47PRIMAVERA DE FILIPPI & AARON WRIGHT, BLOCKCHAINANDTHE LAW 199-2042018.)()

(勁草書房、二〇二〇年刊行予定)参照。 48)成原慧「AIネットワーク社会における法とアーキテクチャのデザイン」稲葉振一郎ほか編『人工知能の研究《社会・人間編》』

参照

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