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瀞 宮 式 年 遷 宮 の 歴 史 的 意 義
紀元二千五百八十九年﹁昭和一四年﹂は我がす勢那官に於ける第二十人回目の式年避官の年に村営して .ゐるので ︑
その年の春以木これに開してその祭祀の意義について論ぜられた論文の数もかなりな数に達してるる ︒けれどもを
の数多い諭作を通覧して見て ︑命にかなりの疑問を免れることは出宋なかつた ︒と同時に ︐各々の撃者の意見が千
尭高州でぁった偏めに ︑ひとびとはいかなる所にこの祭住の本質が有してあるが⁝⁝⁝を把援することが或ひはむ
つかしく感せられたこともあったでぁらうと思ふ ︒凡そいがなる研究にあつても .事件に直面し ︑又はその中に入
り切つてるるときには ︑とかくその長相を組み難いものである ︒そのことの長相がはつきり見分けられるまでには
それ相営の時のポ過を待たなければならぬ↓時﹂は歴史の解樺にあたつて ︑正皆な批制を興へるのである ︒事件そ
のものヽゑがく相が大きければ大きいほど .その長の歴史的解樺は徐程の時を経過するのでなければ正営に解群は
なされない ︒例へばかの明治雑新の場合を見よ ︑ひとびとによつてその解澤の有様の多極多様でぁること ︑これに
ど大きなものはないであらう︒
四一部宮式年遷宮の歴史的意義︵ぶ林健三︶
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林
耐宮式年遷宮の歴史的意義︵小林健三︶四二
この意味に於いて ︑すぎ去つた問題をあとがら謙かな反省を以て考察して見ることは圧災家の正になすべき責渉でなければならぬ ︒こヽに余が提出した加言式年遷官の意義についても ぃこヽに取扱ふことの決して時期おくれのものでなく︐始めてその研究が諄かなこヽろを以て十分に考察する徐裕を得たようにも思はれる ︒後で述べるであらうどとくに ︑この問題は囲理全輯の理解を助け ︑腔刑の道の文明災的解群をなすに恰適の問傾であるように思ふ ︒
そこで筆をすよめて ︑遷宮に関係した論文の種類をあけて見たい ︒この遷宮について現はれた母行本を見ると︑
宮地直一博士 ≡阪本慶大郎氏共著の﹁那官と式年遷百﹂を先づあげる ︒その次には赤堀氏の避冨物語とがあけられる ︒次いで雑誌では ︑皇図 ︑刑風 ︑抑泄協含雑誌 ︑討ながら ︑園學院雑誌 ︑園風 ︑凝災教育 ︑前祗 .明治聖徳記念撃含妃要 B日本魂 .青年等の諸誌が之れについて撃者の意見を後表してある ︒︵詳しくは刑荘協曾雑誌二十八ノ十二 .
御薄宮開休論文綜覧参照︶次いで新聞では十月前に連載の形式で ︑この間超を取扱つたのに ︑大阪毎日 ︑東京日力 ︑
新愛知 t︵宮地博士︺報知︵阪本氏︶時事︵大西氏︶迎刊朝日︵閲根博士︶ジヤバンoタイム︵T命Yoて氏︶牛があつた o荷ほラデォ又は話方の學校o公含童o耐職倉などでもこの祭儀の意義について夫々名士の次読のあつたことをこミで記して差く︒
そ で こ 更 筆 に 韓 を じ 考 て 祭
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︒ こ 進 の 官 に つ て い 根 の 木 災
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災 延 . 事 式 類 ︑ 楽 史 酎 皇 ︑ 太 沖 儀 常 式 帳
︑ 大 和 話 甘 雑 事 記
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は 又 進 宮 記 の 録 等 で あ
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て を し メ た 材 料 か 導 ら れ か 結 た
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のは主としてひとびLの尋問的選庄の相違からのょメL思はれる ︒先づ代表的な意見を左に掲けて見る ︒その前に
断つておかなばならないのは ︑こ玉に取扱ムのな慶義の遂宮の儀式o制度等ではなく︑その根本的意義如何といふ
ことに関する意見であるといふことである ︒
A 阪本爾宜の読
然らばこの耐宮の式年御造皆といふこと松如何なる次第で起つて末たのであらうかといふことに就いて私の考突
を申逝べたいと思ひます ︒何故式年を定めらるヽに営つて二十ケ年といふことを用ひられたのであらうが ︑これ
就 に て 理 の 的 と し ま て し 何 は 等
歴 史
の 上 に れ こ を 認 め る こ と は 出 来 な い の で あ り ま
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ごヂぐ倉が夢がぜぼ郵ゲβことよ察する次第であります ︒今一つこの式年道審制の成立に就いて注意すべきこと はこの式年制度の成立と共に御造螢の主騨が抑官の手から直接囲家に移つた様に考へられる車をあります ︒⁝⁝
⁝⁝式年制度の創定といふことが天武天皇の思召に成つたといふ古来からの俸税は横にその根擦がある榛に考ヘ らるヽ次第でありまして⁝⁚⁝⁝御永知の如くに天武天皇の御敬神の御念慮の深く在しまLたこと並に国の基本 的制度の確立に誌されたろ数多くの御央賃に考へ合せまして正にこの討言の式年制度の制定といふこともこの大 御世の御治績の一と見奉るが最も安営の様に信する次第であります ︒︵修紬筆者X郡討協令難誌二十八ノ方 ︑耐官式年 御造誉に競て︾
四三評宮式年遷官の歴史的意義冷小林確三ン ↓一
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薄宮式年遷宮の歴史的意義︵小林健三︶四四
B 督 地 碑 士 の 読
一繊日本の建築は ら郡碓の御建物と言はす人生の住居と言はす ︑すべて木辻であります被 ︑永久に保存すること な極めて困難であります o 一定の年限を経過すれば腐朽することは明らかであります ︒⁝⁝⁝⁚その破損に広じ て修理を加へるのみでは不充分でありますから ︑ 一定の保存期間の過ぎた後には建物全悩歩造りかへる必要が生 ホるのは ︐日本の大辻建築に件ふ資際問題であります ︒⁝⁝⁝⁝されば相営の勢力o費用o満月わ壁すとしまして も ︑新しい御沖殿を道ることは次して無意味ではありません ︒⁝⁝⁝⁚されば我が関の古い省性に室毒掛いふこ とがあり .新しい建物が成就したときに客を招いて盛大な宴含を催し︑そこでこの主毒を逃ぺたLのであります ︒⁝ ⁝ ⁚ ⁝ 新 し い 御 殿 に 住 む 喜 び は 天 皇 の 場 合 も 臣 下 の 場 合 も 同 様 で あ り ま す が ︑ ス 抑 力 の 御 柱 に 於 て も 少 し も 温 る 打 な き 共 通 の こ と よ 思 ひ ま す ︒ ぼ ぼ が が ぼ ポ ガ ぜ げ ぱ ボ F ゲ ボ ば ・ が ず ぜ げ 翻 官 が ︑ 一 ば が ば ガ げ 御 ぎ び げ F い
がFどげぼばFズ♪伊肝P伊がいかぜ炉 ︒いや計借︵船狩寿勢いい︺い卦静いかおか勢いの第分体 ・術渉静い術 ば辞が討叫ず智想ボ卵倉♪ぜ宇なや輩ごがいかせ声︒︵惨持筆者×囲澤院雑誌十一一五八 ︑皇大耐宮と遜官︶ 0 遷言要解o和官と式年遷官の読 謎みて接するに耐ばやがゲぜぼずがび沖がガぜぼポrすがか鉾ぼ ︐時を定めて木の否新しき壮殿を御造春申し上げ討儀矛遷奉る事を以て皇超率菊の第一重佐とする事は御鍾左以衆自ら御例となつて衆たのである ︒︵傍期筆者︶︵前者六更 ︑後者四〇頁︾
D 粧木教授の読
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記載が無い様に思なれるが ︑どばば智げばボげががどグゲば鮮Fがぃβゴゲβげびど ヽ萱葺の御屋根 ︑堀立式の
御柱といふ辻り方では ︑二十年は其の保存期間であることを芯職した結果に出でたものと見るのが ︑恐らく正鵠
に中つてはるものであらう︒︵像貼筆者X耐詫協含雑誌二十八ノ十 ︑耐官の式年御造管について︶
E 左 田 嘱 託 の 読
紳 官 遷 座 祭 の 根 木 義 は ︑ ゴ ギ ゴ が ゲ ド 辞 畔 ば 宰 び む か 御 耐 げ ぜ が ︐ ぜ 夢 か が で 附 磐 螢 芦 御 耐 か 伊 勢 い 砕 や 船 伊 仲
F び げ げ 針 ″ P 村 ゲ ぜ 付 び 卵 合 が P な ぃ で ︑ や い 野 芦 耐 静 守 紳 い 野 す か 律 件 な 狩 沖 け じ か か ヂ か 主 ︑ 静 に 基 い て .
週期的の遷官を行つたのが ︑木材建築の耐久力を基数として ︐式年の制度が定められ ︑それに文化の進展に件ふて 起る思想上の愛化によつて ぃ極力後出的の意義が加味せられ ︑師力囲家的廠儀として鞍扱はれるようになつた ︒ と云ふべきでぁる ︒殊に往古は前述の岬く討官の例祭日とも稲すべき刑事祭 ︑印ち外官は九月十五回 ︑内官は同 十六日と定められてゐたことを考ふるならば ︑他乱の場合の例祭と同様 ︑本質的に前を認識する必的作用を基礎 として祭祀の一の表れであると云ふ前段の所読を一居明確に立諭するのではなからうか ︒aレ瑞筆者X耐討協含雑誌 こ十八ノ十 ︑神宮式年遜宮の根本義︶
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辞宮式年遷すの歴史的意義︵小林健三︶阿ハ
しかも一方法式月式日一方は定例日 ︑いづれも動かぬを以て木儀とする ︒是に於て遷百は中学祭の斜めといふ時
代 一があつたのでなからうかと思うてもよくはなからうか ︒少くとも其の目的に共通のものがあるのではあるまい
かといふ疑問だけなしてもよいやうである︒そこで諦善祭の意義を調べてみる⁚⁝⁝⁝前甘祭依皇耐が新球きこ
しめすことで ︑皇配に於かせられては先つ聖貨大抑に奉られ ︑後大御親きこしめし御北を新しせさせ結うて天の
下を見はるかし生すに封して ︐陛下には勅使をして特れを泰らしめ給ふお祭である ︑さうして刑学校新尊 ︑新掌庄
大曽と同し義 ︑大学は敬碑兵耐の御術なるは勿論 .一面皇御訴奪 ︑天皇金の御光の新に輝き捨ひ ︑英の御光を高民
に別ち拾ふ御儀である ︒とすればびげぼ車耐げ伊rが押げゴ貯ゴど舛ヂ御察 ヽ栞びいがどがい︐伊かが沖けい貯ゴ辞声減斜FいF伊P摯オがいやのかいや つむ辞いが坤い升ヽきやいで ︑いな ︑から ︑う ︑か ゃ⁝⁚⁚i更に考へたい
ものは ︑式年遷宮9ある和油の共通現象 b郵ちお荘柄に似合はす御本殿のお小さいといふことを一出孜鞘としての
推究である ︒⁝⁚⁝⁝是に於て顧みたいものは我が団本末の砒殿の二大系統である ︑帥ち邸宅系流の止殿と抑籠
系統の砒殿である ︑邸宅は永久を目的とする ︑前能は常任を目的としない ︑空の結果は前者は非造替を本儀とし
後肴は造啓を本儀とする ︑士春を求むる鹿に式年制が発生する .耐官は勿論諏訪其の他悉く和雛系統の雅殿であ
る ︑比較上お小さいのも式年も賛はお建物の性質上のもので ︑御崇敬の厚前は勿論 ︑用材の耐久力の如何が ︑第
一係件ではないといへると思ふ .那離は祭毎に抑の御衆陥を話ふのである ︑那の御光が新しく輝書浦ふのである c
︵傍新筆者X抑確協令雑誌二十人ノ十 ︑沖宮式年遥宮の意義︶
G 寛 辞 士 の 読
争孝増ヽままま一ユ≡まま宗歓筈≡撃ユ≡許一≡≡年ま急予ま濫題登猛掛ユ監
が 恰 も 天 皇 様 が 輔 々 新 た し く 皇 耐 奪 を 奉 菊 し 給 ふ こ と に 営 り ︑ 更 に 肇 囲 の 基 を 管 現 し ︑ 討 た 人 と ︑ 皇 と 民 と の 本
質 及 開 係 を 新 た に し 給 ふ 第 一 歩 で あ る ﹂ ︵ 俸 粘 筆 者 × 那 な が ら ニ ノ 十 一 ︑ 郡 宮 正 逮 宮 の 本 質 ︶
以 上 あ け た 七 人 の 撃 者 の 意 見 に つ い て 更 に 分 類 し て そ の 内 容 を 明 か に す る ︒
帥 ち 以 上 を 更 に 衝 約 し て 示 す と 次 の 如 く な る ︒
A ︑ 御 建 物 の 耐 久 年 数 を 限 度 と す る 読 ︵阪 本 爾 宜 ︶
B ︑ 新 御 般 成 就 の 祀 賀 的 氣 分 の 読 ︵ 督 地 博 士 ︾
c ︑ 清 海 純 潔 読 ︵遷 ど 草 解 ︑ 神 官 と 式 年 遷 ど ︾
D B A に 同 じ
E ︑ み あ ・れ の 信 仰 を 基 礎 と す る 読 ︵座 田 嘘 託 ︶
F ︑ 納 学 祭 と 同 意 義 矛 一主 張 す る 読 ︵星 野 掌 典 ︶
G ︑ 巡 幸 神 意 の 夜 現 と す る 読 ︵ 寛 博 士 ︶
こ の 中 で ︑ A と B と な 何 れ も C を 含 ん で そ の 上 に 立 つ て ゐ る と 見 ら れ る ︒ 元 末 ︑ 市 荘 及 び そ れ に 奉 仕 す る 人 々 の
根 本 僚 件 が 清 浄 潔 白 を 重 ん す る と い ふ こ ︱ は こ よ に 夏 め て 読 く を 要 し な い 位 明 白 な 事 餐 で あ ら う ︒ 而 し て A ︑B ︑ に
競 い て は 候 に 星 野 掌 典 の 指 摘 ゼ ら れ た 如 く ︑ A は 建 物 を 本 位 と し ︑ B は 岬 様 を 本 位 と し て ︑ そ れ が 清 輝 純 潔 を 術 ぶ
瓜 で の 上 に 識 の 根 接 を お め て ゐ る こ と は い ふ ま で も な い ︒ け れ ど も ︑ こ れ だ け で は 術 ほ そ の 耳 和 に 達 し ■ ゐ る と は
和 官 式 年 運 営 の 原 史 的 意 義 ︵ 小 ホ 健 三 ︶ 囲 七 一︱ ≡ ≡
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瀞宮式年遷宮の歴史的意義︵小赤健三︾ 四八
思はれないふしがある ︒共
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にははいなゞ御遷すの哲学的解群ともいふべきもので ︑ mの長理依存するものよ︑
之れを以て一般を誌ふことは蓋し難しとせなければならぬと思ふ ︒そこで蛍然E ︑F︑が問題の焦鞘る地位を占む
ることおなるであらう︒Eはネ致撃の上に立つた意見であり︑Fは耐曽祭の本質から聯開を求める祭祀上がらの一
種の直覚一説と見られる︒而して両若何れもその目標は一つのところを射適してるるかの如く見ゆる ︒吾人は次に逃
べるところで明白なるが如く︑この論を以てそのE撻を貫いた一説でぁるとするものである ︒さり乍らこの読に賛成
するのは次の係件を考慮の上においてからのことである ︒それは何か? 白王祀沖として那宮が木事する天照大和の
経封無比なる抑格がこれである ︒勿論 ︐和営の式年遥営であることめゑ .EFの識何れも皐耐岬を考慮に入れてゐ
ることは申すまでもない ︒けれども伊勢の式年の迂官とは他のいかなる耐孔の迂宮ともかくだんの差違を以て現は
れてこなければならぬ ︒普通常識的に考へて見て ︑皇耐碑としもいへば直ちに天照大和をおきし中すことヽなつて
あるのであるが ︑記紀ニキの古典から類推して見てそこに何年かの疑期に営たることはないであらうか ︒換言すれ
ば ︐いま古革記によると皇安の御祀加として天御主和が最初に高天原に成りませる耐であるとし ︑日本書記ではそ
の本文に図市立奪をあけてゐるのであつて ︑天御中主耐若しくは聞市立奪のいづれかゞ我囲を開かせられた具配岬
としてそのかみたしかに考へられてるたことは必らすしも石定し去ることは出爽ないと思ふ ︒けれども ︑現在我が
皇室が御泄抑を祀ろ宮居として最重要な祭儀を執行はせらるよのは伊勢大碑言にましまし ︑こゝに木事する那は天
御主前にもあらせられす︑又閲常立奪にもましまさないで ︑ひとり天照大加にましますのである ︒敬和崇耐の住哨
が和走寿事の現本的様式であなとすれは ︑御紐刑たる天御中主耐もしくは図市立奪を斎章肥れる那泄が存在しても
よい章である︒然るにひとり天照大耐が皇祀那たる紀封的地位を占め︐れ ︑我が団盤の本源と .せらろi財以はそも そもいかなる鞘に存するのであらうか ︒ この根昨的問題ル外にしては
︐ ; ︲ ︱ ︲ 官の読明はその的を外れてある如く見ゆる ︒従つて式年遷どもその意護が不鮮明 に畢る ︒かよる所へ ︑吾人をしてこの幅題に新らしい光明を興へて下すつたのが ︑黒板博士の﹁呈直沖﹂なる論文
である ︒
博士は先づ之れの読明として上代に於ける政行組織が血族回戦から構成されてある恥を指摘し︑皐室の御耐抑は その■族圏鰐のネ家として中極的地位にあつたと述へ﹁ヽ事記 ︑日本書紀に悼らる生成誼話中に諾再0が囲上 ︑皇 幸の御油先 ︑我年の先祗をつゴ′ぐヽに産み給うたとあるのも︑かくの如き砒→組織を早んだ人々の間にあつて ︑初 めて登生しほ立することが出来た市話でなければならぬ﹂とし﹁既に上代に於ける戒倉純縦がかく血旅的□悩から ない︑早くから定仕的生活が螢まれてるたとすれば ︑彼年の宗教意識中に耐先崇邦の信仰が池つたとしてもあなが ち不思議の現象とはし難いであらう﹂と論方を進のられ ︑次いで
﹁かくて自らに被生したものが ︑祀先崇奔の念であつて ︑思ふに我が皇室に於かせられてほ天距大和が﹁ハツク ニララス﹂最初の御方であらせられたとの代そのいひ権ぎ語わ催ぎが ︑天照大抑を皇耐耐″して之矛末祀するこ とになつたので ︑之が賃に伊勢大辞宮の起渡でなければならない ︒高してそれが三極の加器の一である御耐銑こ 結び付き ︐大御郡の御抑霊が有りますとの信体からこの御銃を五十鈴の用上に奉菊することになつたのである﹂ とされ ︑天孫降座の降下し給うた神効の意義を深刻に次の如く説明されてある ︒
︲ 耐官式年遷宮の雁史的意義︵小ホ健三︶ 四九
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討宮式年遜官の歴史的惹義︵小林健三︶ すユ〇
﹁待にこヽに併ゼ一言すべきは ︐我々耐先岬の理想とする所ほ ︑その家を六久に連績せしめる鮎にあつたことで
天肝大沖の御耐効に天駆無窮の皇抗を祀一隅し給うたのは ︑この思想の如質に表現せられた占のと解することが出下衆る ︒印ちそこには未楽への耐高は多分に変見せられても ︐過去に向つての性憬の念は柳も示されてるない ︒拠
言すれば大御計の前効な子孫愛主主義の表現と解するのが最も皆つてあるのである︒随つて皇主の皇配に封する
崇敬 ︑魔くいへば我聞の祀併一崇葬は隣邦支那に於けるそれが専ら孝道に基いた封過去のは想とは趣を異にし ︐祀
先の理想を賓現する意味に於て之務祀ることが洒先の意志の意志に合致するものといはねばならぬ ︒﹂
斯の如くして天照大刑の皐耐脚にまします所以のものが最も明僚にせられたことヽ思ふ ︒而してその祀先崇葬の
精神が支那思想のそれの如く決して理論的のものでなく ︑そのうちには生力とした曖い血液が流れてゐることも明
かとなつたと思ふ ︒
がくの如き意味に於て ︑我々園民がすべて皇耐御として伊勢前宮に天照大那を奔し薄敬し茶る至誠を捧けること
が出英るので ︑こヽに最も伊勢耐官遷官の根本問題がひそんであるのである ︒さればこそ碑甘遷すが側家重大な低
確として歴朝深厚なる崇牧を捧けさせられ ︑岡費を以て御造皆せられる次第であるので ︐しかも御遷首はその皇融
神天照大沖の御委を奔しその御光りをいよ/ヽ金々弧く仰ぎ奉る御儀式であるので ︑初代災の杖幹 ︑我が囲悩の大
元がみなこの中に入つてゐるのである ︒郵ち星醤掌典の言英をかりていへば
﹁束天紅 .韓鳴二聾! 五十歴に退散し孝神は現はれる ︑朝日が出れば霜が沿える ︑天岩戸が開けば ︐あはれ ︑あ
!!︱! ! 11! 一 !⁝■︱!!!︐1!■︱︱⁝≡≡i■!⁝⁝≡tl■!!︐!■︱■≡⁝!⁝︐す≡≡■一・一■・■︐■十■i≡一一︐︱⁝!≡≡⁝一≡≡■・■1≡・≡≡≡≡■≡≡⁝⁝≡≡一
本! !■
ヽ子勢挙筆
な お き し ろ ︑ あ な た の し ︐ あ な さ や け ︑ お け ■ 抑 の 御 光 0 輝 ↑ 鹿 に 幸 薦 到 宋 民 雨 増 進 一 那 の 側 出 現 . 部 の 御 恵 s
碑 の 御 光 ︐ 耐 の 御 光 の 新 し い 輝 き ︑ か う い ふ こ と が 千 々 の 奉 仕 の 機 験 に 於 い て ︑ 學 的 の 駁 究 に 於 い て 感 得 さ れ る ﹂
と い ︑ の に つ き る と 思 ふ ︒
以 上 述 べ た と こ ん は 式 年 遷 ど の 意 森 に 開 す る 内 画 的 考 察 で あ る が ︑ 之 れ を 外 面 的 ︑ 換 言 す れ ば 歴 史 的 に 見 る と 如
何 ︒ そ れ を 吾 人 は 外 囲 人 の 槻 察 に よ つ て 考 へ て 兄 た い ︒ そ の ひ と つ は ︑ ジ ヤ バ ン ∴ タ イ ム ス の 泄 読 で あ る ︒ 左 に そ
の 原 文 と 諜 と を 掲 け る ︒
⁚⁚⁚⁚二Rす↑ すす● 均営弓Foo 色一一 時ヽ一月oC一一ユC︶デCて●イ命︼ヽ く︐こ ↑ro ●0■巳5FoFOo o︐さ すo oひりo︼︼一一つ中 申︼︐こ の中淳■r︼淳︐ユ︼pp島︵一一o申a︼
.召o︐o ︼Ho︻0︼︼ ヽ声このoの中●一ダO︹E再oLC︐≡︼的Cヽすデ中 o﹁各︼申声c↑中臣∞ o∞o厚↑︼や︼り︻︻CP︐▼ H自︐﹁中︐∞ 的︼やめ
︐ ︶r つ 一島ゴP↑ す︐こと一キすやす ´キCE一一
ヴo ︺日一〇tO F︵ュ■︼母一 ユデ申F一oいo令汗 中︐ 一FO ︼●0すo︐一︐︼①︻モ一6りの中Op O︐ すrOm句 ﹁︐中一宮口F 一デO﹁o︻﹁ ︼じこ︶一︼︻︺︼胸●︹DCc Cヨ︐一電︼0も ︑︐●とギ
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蒋 宮
年 式
遷 宮
歴 の
史 的
惹 義
ハ 小
林 健
三 ︶
五
一
評宮式年遷官の歴史的意義︵小林健三︶ 五二
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巧O︼︼●P︐っo●c C︹ ↑デo デ︼ゴ︼O ︼じつ︼ 研0 の伸一毎 す〇 すo O草0 一〇 一の﹁O︼︼︻ロツo●工巨︼p︐oDOつし ︼者︐浄一G中ヽ〇﹁o︻伊一すo宮P再一︼Op︼ひついoo●︼o
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︱︱︱︹︼つモ脚停月rじoコOo干博・自〇詢マ円o︼臣伊F●巨Oo一OH巨●︼日″Fo厚oOし︱︱!
︵ ⁝ ⁝ ⁚ ⁝ け れ ど も 日 本 人 が 訂 慣 し た も の は 本 質 的 な る 生 命 析 討 の 永 久 性 で あ つ た o 誕 生 や 死 去 姓 母 に 此 の 大 透 な 本 質 的 潤 流 中 の 作 用 中 に 於 け る ひ と つ の 体 止 に す ぎ な か つ た ︒ 新 の 買 理 を 把 握 す る な ら ば ︑ 精 和 的 な も の よ 物
彊 堤 ギ 十 一堤
だ だ 一 堪 擢
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︻ 彊 彊 嘘 堤
質的表現の中に ︑その原始的校現に於て満新にして且つ純棒な自然の穴久性を求めちことは何ょりも最も自然的 !
なことであらう︒天皇の御印位式に対しても︑シエストモンスター寺院も ︐印位の石も要求せられぬ︱︱深い深
き付統が充市してゐる ︒火災や何か大きな災事が起ればクエストミンスター寺院や彼の石そのものすらも沿大す
るかも知れない ︒けれどもその附局物印ち御卸位の本質的儀式たる大曽祭に用ひられる恨合は .春に前出る若草
のやうなものであるから ︐不減なものである11最も脆劾な物質的形憩の中に ︑永遠にして不愛なる式る粘抑を
表現してゐる ︒
而してこれと同様なことが二十年毎に造番さる▲伊勢碑官に就いても言はれうる ︒︼県白き棺材で造られ ︑影色
なく ︑装飾な津その耐股は ︐同の女前にして此の民族の沖聖なる先耐にまします天照大加の評鏡″奉事してある ︒
今回迄二十七回隣接の地域へ伊勢沖官は新殿を設けて迂御あらせられるので ︑此の木曜日︵ ︒十月一 一一日︶の抑院ま
でに耐鏡は第二十八□出の抑般へ滑りなく安置され給ふであらう︒かくの如くして神rの愛易はそのいに不愛な
る所に基因してゐるといひ律る ︒ 一方オし一千年以上昔に式建築家が或建物をそれだけの年代の間存綾させよう
と努めたとしても ︒今回それほ恐らく駿嘘となつてゐることであらう ︑夏に言へば ︑その力結がそれほど賦く︑
その残輸の獄を見るような .物質的表現の上におかれてゐたなら⁚⁝⁝諦言自端の本質的精討松丈は危くされて
ゐたかも知れぬ ︒
我力の信するところによれ ︑は ︑日本人のこの精耐的教養は災善に直面したときの ︑その弾援力となり B適膝性
や勇氣なりのだ灯となるところのものである ︒物質は単に本質的なものぶ一表現にすぎぬといふェ︶とを認めてら
沖宮式年遥宮の歴史的意義︵小林健三υ 五三
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!一一塩
賢評宮式年逮宮の歴史的意義︵小恭健三︾五四一
る 閉 民 に と つ て ︑ か の 大 震 災 の 際 に 於 け る 東 京 及 積 な の 金 滅 も そ れ 依 母 に 花 わ 萎 れ さ 十 嵐 に す ぎ な か つ た ︑ 花 は 雨 と 春 と が 衆 れ ば 再 び 唆 ふ の で あ る ︒ 若 し 此 伊 勢 大 和 官 の 建 物 す ら 住 に 二 十 年 間 存 総 す る に す ぎ な い も の と す れ
ば ︑たとへ務市のひとつやふたつが破竣サ ・られたからとて ︑それが何程のことがあらうぞ? 再び此囲民が新し
い文化や外囲の影響の墜迫に直面するとき ︑日本人は恐らく他の凶民の何れよりも ︑ 一居明快に ︑本質的態度に
於いては飽くまで日木人であるてふ立場を失ふことなくして ︑その新しいものを己れの立場に適謄せしめヽるの
である ︒まこと二十年目毎に造春さるヽ
市 ︲ ︲ i
聖なる荘偉の不可思議なる現象は ︑吾人をして此の日本民族の特異な
る天才と勢力の根源とが那混に布するかを悟らしむろに一道の光明を投するものである ︒︶
いま比のタイムスの通を考察して見たい ︒この解澤は式年遷宮の外部から観察した批許であるが ︐よく遷■の
文化災的意義を間明してゐるように思ふ ︒嘗て支部の漢日の畑光国が我囲に来たとき ︑こういふ話がある ︒彼等ほ
日本の御川を見てこんな狭い所かと非常に軽麗する ︑伊勢の大廟を見てもこんな粗末かといつて電蔑する ︑桃山の
御 陵
見 を て こ も
ん な
飾 り
何 も も な い も の か
と い
つ て
荘 蔑 た し
︑ 常 非 に 本 日 の 子 天 様 含 を 敬 て し 本 日 に き
た と
ろ こ が 驚 た い
︑ あ い ヽ 稚 ふ 威 の な の い が 本 日 の 皇 室
か と
い つ て 非 常 に 木 日 皇 の
室 を
侮 蔓 た し と ふ い 話
⁝ ⁚
⁝ れ こ 敦 を 術 し
て ヽ入 田 秀 女 郎 氏 は
つ﹁
く か ヽ と そ れ は さ
は ヽ ラ
ふ
︵的
動 時 腋 班 校 ウ
の 意
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︶ さ
う い ふ こ と を 考 丈 る と 口 北 廟 を 見 れ ば
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徒 ︵
等
︶ は
感
心 す
だ る
ら
と う
思
ふ ︒
北 日
廟
徳 は
川 家
康
祀 わ
つ て
あ
る ︑
徳
家 川
度
江 は
城 戸
築 を
た い
り ︑
光 日
廟
持 を
へ
たりする .徳川としてはさういふ威勢を天下に示す必要があち ︑日太の天子様なさういふ威勢を示す必要がない ︑ さういふやチな心持といAすのは朝鮮人や支那人にはさつぱ駒分らテ告もない⁝≡ ・⁚⁝私の感じを只云ムとさ︐い
運 が 藁 森 い難 某 韮 藁 藁 凝 艇 襲 譲 睡 軽 中範 襲 艇 堤 娼
況 や 我 々 の 心 器 か 云 ら
へ ば
清 輝 潔
白 と
い ふ
こ と
が 耐 ︑ 先
以 来
億 統 的 の 我 の 々 気
分 で
あ
つ て
彼 ︑ の 伊 勢 の 大 廟 な ど の 清 る 輸 休 白 な い 租 末 な 造 り 方 を し て ﹁犀 ね る ︑ あ れ で ぁ つ て 初 め て 我 た は 有 離 い と 思 ふ ﹂ ︵蜘 輸 航 抑 翻 郷 に 人 ノ 五 ︶ と い は れ た が
︑ 全
く そ
の 通
り で
ぁ ら う と 母 ふ の で あ
る ︒
野 純 ほ も の よ 初 め で あ り ︑ 市 し て も の 氏 終 り で あ る ︒ 色 は 白 を 以 て 最 初 と し 而 し て す べ て の 色 は 重 な つ て 大 遂 に い に 遣 ろ ︑ 一 は 高 物 の 初 で ぁ り ︑ ■ 最 後 で あ る ︒ 物 質 は 精 神 的 な る も の ヽ ひ と つ の 表 現 に 外 な ら な い ︒ 物 質 が 物 質 で 徹 底 す る 最 後 は そ れ は 自 然 現 象 に す ぎ な い ︒ 討 宮 の 建 築 様 式 は 二 千 年 以 上 の 古 代 建 築 の 面 孝 で あ る ︒ し か し そ れ
がつぎつぎに光春されてつねに厚の形をのこして雄 む ︒敬那崇耐といひ ︑報本反始といふ ︒その言葉が寸一亀も註り なく適肥せらろヽのはひとう耐宮の式年造官と遷宮のみでぁる ︒相封なるものは結局相期にとゞまる ︒けれども湘 封は現賃の相である ︒羅封はその本慢の相である っ耐宮遷官が東西の御致地に変互に御避言なさるヽのは網数の衣 現である ︒けれどもその現資の相の中に日那の大遇なる御光りがかゞゃいてゐる︒ 日本文化は表面から見ると ︑御有のものが妙いといはれてゐる ︒就中紳道はその誤解の最も激しいものであらう︒ これを竪純に朝成宗教と比較したり︑その宗教的偵値とを云角してゐる︒併しながら抑遺は従災先輩の意見にある ように ︑之れを理論化しようとすれば ︑その三相 ︑本質は見逃がされて了ふ ︒それは説者の夙こ喝破してめるよ︐ に ︑政治的 ︑宗教的 ︑道徳的なる4の蛍輝然と含一したものであるからである ︒こゝに吾人僣這価の意凡をジヤバ ン●アドパータイザーに段見する︒五五