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西山哲治の「子供の権利」に関する研究 [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)西山哲治の「子供の権利」に関する研究 キーワード:子供の権利、子供の保護、大正新教育、児童中心主義、帝国小学校 教育システム専攻 豊福 明子. 1.目次. どが代表的である。中野は著書『学校改革の史的原像』. はじめに. の中の「日本の新学校と新教育論」では次のように述. 1.先行研究の検討と問題の所在. べている。 欧米の「新教育」の動きに関心をよせ、日本に. 1-1 大正新教育における西山哲治の位置づけ. も「新教育」の思想にもとづく「新学校をとの志. 2-2 「子供の権利」の日本への流入 2.研究の課題と研究方法. を実行に移した教育者たちあらわれた。彼らは活. 3.本論文の構成. 動的で学問的視野も広かった。しかし彼らに共通. 第1部 西山哲治の唱えた児童中心主義と「子供の権. していたことは天皇崇拝者であり、東洋的伝統も 重視していたことだった。彼らは近代国家日本か. 利」-大正新教育との差異- 1.日本における「子供の権利」. ら親子の愛情やきょうだいの親愛等、伝統的家族. 2.児童中心主義を求めた大正新教育と「子供の権利」. のモラルが失われていくことを憂えた。近代の個. の関係. 人主義的家族が古き良き人間関係を解体してい. 2-1 旧教育の弊害に対する批判. くことは一面では歴史の必然であるとしても、他. 2-2 大正新教育における「子供の権利」. 面では歴史的伝統を活かして、新しい時代に継. -及川平治の実践を中心に-. 承・発展させることにこそ新学校の課題があると 考えた。だが、そうした事業は様々な苦難に邁進. 3.西山哲治により教育と児童保護との結びつきに対. する。. する主張. 中野が言うように日本済美学校や成蹊実務学校な. 第2部 帝国小学校に於ける西山哲治の実践 1.帝国小学校と幼稚園の設立. ど新学校の中では私立の学校として最も早く創立さ. 2.帝国小学校の実践事例-赤ん坊審査会と人形病. れているところについては「歴史的伝統を活かして、 新しい時代に継承・発展させることにこそ新学校の課. 院・人形供養のねらい 3.西山哲治による教育実践の特異性. 題があると考えた」と言えるのであろうが、本研究で. 3-1 寄付に頼った経営方針. 取り組む西山哲治の設立した帝国小学校・幼稚園は、. 3-2 アウトサイダーとしての西山哲治. そのような歴史を継承したわけではない。西山は、ア メリカで学んだ「児童中心主義」の教育をいち早く日. おわりに. 本に伝える使命を感じて帰国していることから、アメ リカ流の学校を設立しようと考えていた。. 2.本文. 中野光をはじめとしたこれまでの先行研究は、西山. はじめに. 明治末期から大正期にかけて新たな教育論、いわゆ. の教育実践に着目し西山の教育論に対しての検討な. る「大正新教育」が台頭してきたことは周知のとおり. どは進んでいる。例えば、西山の新教育としてスター. である。大正新教育は、 「児童中心主義」を中心に教. トした帝国小学校の教育実践や西山の学校経営が困. 育実践、教育理論として学校現場に広まって行った。. 難を期したことなどの研究はなされているといえる。. それより少し早く「子供の権利」についての理論を展. しかし、大正新教育と「子供の権利」の両面からの西. 開した実践家がいる。その実践家が今回の論文で明ら. 山研究は、まだ未開発であるといっていい。つまり、. かにする西山哲治である。. 大正新教育については、さまざまな角度から研究が進. 西山の先行研究としては、中野光氏による『大正自. んでいるが、大正新教育としてスタートしたが、その. 由教育の研究』 、小原國芳の『日本新教育百年史』な. 後方向転換を余儀なくされたいわゆる西山の「子供の 1.

(2) 権利」や「子供の保護」の実践などに対してはまだ明. 語教授法及米国における女子教育に関する調査・報告. らかにされていない。また、30 冊以上も出版されて. をしている。さらに、西山は W・ジェームスと親交を. いる西山の著書については深く追求されていない。彼. 持ち、プラグマティズムの影響を受けている。帰国し. の著書を分析しないでは西山の研究、ひいては日本に. て『実際主義』 『実際教育の新研究』 『お花は如何にし. おける「子供の権利」の受容と展開に関して明らかに. て教育すべきか』『欧米教育大家意見』『攻究主義の. なったとは言えないのではないだろうか。以上のこと. 教授法』『師範学校教科書教育学』『教授法』『管理. から、西山の研究をする意義は大いにあるといえる。. 法』などの著書を発刊している。さらに地方への講演. この研究で「子供の権利」が「子供の保護」とどの. にも出かけ、自らの主張つまり「児童中心主義」を訴. ように結びついていったのか西山の実践を通して明. えている。. らかにすることができると考える。さらに大正新教育. このように、西山は幼い時に就学猶予であったり師. が児童中心主義といいながら「子供の権利」というも. 範学校を不合格になったりと挫折しながらも日本人. のについては触れていないことも明らかにされるの. 初の「教育学博士号」を取得するまで努力した、面白. ではないかと考える。. い経歴を持つ人物であるといえる。. 本論文では、大正新教育をはじめとして、1920 年. 経歴同様、彼の教育観や実践は大正新教育のそれと. 代に「児童中心主義」や「子供の権利」が日本でどの. は異なる部分があり、特異性を有していた。西山哲治. ように取り入れられ権利観がいかに変化していった. は、大正新教育の先駆者と言われている一方、「子供. かを明らかにすることを最終的な目的とする。. の権利」を児童保護の視点から広めようとした実践家. もう一方で「児童中心主義」といわれる大正新教育. でもあった。それは、彼の著書によく表れている。彼. について「子供の権利」の視点で検討していきたい。. は「児童中心主義」「子供の権利」の理念を学校教育. 大正新教育は「児童中心主義」を主張しているにも関. に取り入れようとしたのである。. わらず「子供の権利」についてはあまり触れられてい. 西山は、アメリカ留学中に出会ったジョン・デュー. ない。なぜ触れられないのか、大正新教育が「子供の. イの「子どもが中心」という言葉に感銘を受けている。. 権利」については論じていないのか、それらから考え. 「これからの教育はこうあるべきだ」と確信に満ちた. られることを述べていきたい。. 思いでアメリカを後にし、ヨーロッパを経由して日本. 今まで、西山の実践はあまり重視されてこなかった。 に帰国している。帰国後、日本の教育にとってアメリ しかし、西山の実践は当時日本では稀なものであった。 カで学んだ「児童中心主義」の教育や「子供の権利」 田村直臣や賀川豊彦などの「児童の権利」論とは一風. の必要性を感じ、日本に帰国直後「児童中心主義攻究. 変わった西山の「子供の権利」論や大正新教育の先駆. 的新教授法」を発表する。その著書には次のように日. けであったことや「児童中心主義」と唱えられながら. 本の従来の教育の批判が書かれている。. も内容はそうでなかったことなどを明らかにする本. 我国に於ける現代教授上の欠点は確かに教師. 研究の意義は重要であると考える。. 中心主義の上にある、学校に於ける教授は教師が 其の大部分の研究をやる、生徒は只教師のする学 修のモデルを傍観して居るといふ形である、何等. 第1部 西山哲治の唱えた児童中心主義と「子供の権. 生徒の努力、苦心、工夫、発明がない従って生徒. 利」-大正新教育との差異-. 西山は、1883(明治 16)年、兵庫県氷上郡竹田村の生. の独立的研究の勇気と生命とを発揮せしむるこ. まれである。12、3 歳の頃から学校の先生になりたい. とが出来ないやうな破目に陥って居るやうであ. と念願しており御影師範の入学試験を受けているが. る。此れ現代教授界の一大通弊ではあるまいか 25。. 体格が悪く不合格になっている。1902(明治 35)年に正. このように、西山は日本の従来の教師が一方的に享. 則英語学校を経て哲学館(現在の東洋大学)に学んでい. 受する教育が一大通弊として批判している。. る。日露戦争の終戦後アメリカに渡りニューヨーク大. 西山は、アメリカから帰国後は精力的に『児童中心. 学で教育学・心理学を学んで 1909(明治 43)年に日. 主義攻究的教授法』 『子供の権利』 『子供の保護』と著. 本人として初めて教育学博士の学位を取得し 5 年間. 書を出版し、大正新教育の先駆けとして日本の教育に. のアメリカ生活を終え帰国している。アメリカ滞在中. 影響を与えている。西山の「子供の権利」もエレン・. には、沢柳政太郎の力により文部省の嘱託となり、英. ケイの系譜上にあると考えられる。それは西山自身も 2.

(3) 自分の権利論を裏付けるためにエレン・ケイの著書を. れていない、新しい教育理念を持った学校と言えよう。. 引用していることで分かる。エレン・ケイは、著書『児. 帝国小学校には「校憲」と言うものを西山は制定し. 童の世紀』で「小児のその親を選択する権利」 「教育. ている。これは、教育的努力の原動力になるものだと. される権利」 「小児の労働と小児の犯罪」として「養. 西山は言っている。西山は「子供の権利」の主張を実践. 育される権利」を主張している 。西山の主張した「子. へと結びつけようとし、日本における児童中心主義思想. 供の三大権利」も「1.善良に産んでもらう権利」 「2.. の理論家、実践家として先駆的役割を担ったのである。. 善良に養育される権利」 「3.よく教育される権利」. 西山は「子供の権利」を学校教育で取り組むこと で、「子供の権利を保証するためには国家の保護が 必要である」とした。つまり、子どもの教育は、国 家のための教育であり、それを全うするために「人 形供養」を通して修身を中心とした人間形成をねら ったものであった。さらに、「赤ん坊審査会」を通 して母親と赤ん坊の関係や丈夫でたくましい子ど もの育成をねらったのである。 しかし、西山の学校経営は失敗に終わる。それは、 西山が師範閥に属さないアウトサイダーであったこ とではないだろうか。師範学校卒業しているわけでも なく教育界ではあまり知られていない西山がアメリ カから帰国するなり「学校を設立するための寄付をお 願いしたい」と駆けずり回る。西山の経営手腕が問わ れる部分である。彼は、自分の著書とりわけ『子供の 保護』を著名人に送付し、その政策を広めようと努力 したと同時に、その本の売り上げで学校の資金にしよ うとしたのだった。西山の考えは、ある程度評価され るもののそれを教育政策としてさらに福祉政策とし て取り入れようとする国会議員や学校関係者はいな かったのである。西山がアウトサイダーであることを 自ら理解していたとは到底思えない。西山の学校経営 が引き継がれなかった原因として考えられることは、 アメリカの私立学校経営をそのまま真似しようとし たことにあったのであろう。. である。子どもの権利は「受胎と同時に生ずる」と考 えている。なぜなら「子どもは受胎されれば善良なる 保護の下に誕生しなければならないからである。堕胎 はすでに子どもの生命を奪う犯罪である」と考えた彼 にとっては当然のことであった。したがって「善良に 産んで貰う権利」とは妊娠中の母性保護と安全な出産 についての治療と社会制度への要求をふくんでいた。 西山の教育論は「子供の権利」と「子供の保護」が根 底に流れていたのである。. 大正新教育と西山哲治の教育の差異を「児童中心 主義」「子供の権利」に焦点をあて明らかにしてき た。その一例として、大正新教育の実践家である及 川平治に焦点を取り上げた。及川は西山と同じよう にジョン・デューイに大きな影響を受けた人物であ った。大正新教育と西山の教育のねらいは「国体保 持」というものであったが、異なる路線で進んでい ったことが分かる。しかし、西山の教育は「子供の 権利」や「児童保護」を基礎としたものであり、一 方で大正新教育のいう児童中心主義は「子どもの権 利」や「児童保護」とは距離を置いていた。 第2部 帝国小学校に於ける西山哲治の実践. ここでは、西山の実践に焦点をあてて論じたい。 1912(明治 45 年)に私立帝国小学校と幼稚園を開 校している。帝国小学校・幼稚園のスタートは決し て華々しいものではなかった。西山は毎月の不足金. おわりに. を補うために新聞、雑誌社からの原稿料を当ててい. この研究を通して、西山の教育観と彼の実践が明 らかになった。西山は、常に子どもと一緒の教育者 であろうとしたし、常に子どもを中心とした教育を 行おうとしていた。同時に、「子供の権利」を通し て「子供の保護」を主張した人物でもあった。アメ リカから帰国後すぐに、学校を建設し自分の教育論 を実践しようとした西山であったが、経営難にさい なまれることになる。大正新教育とは一線を隔てた 関係であり、それゆえに学校存続が困難を期したと いうこともできる。 「子供の権利」を学校教育に取り入れようと日本. た。西山の生活は、著書の印税のみでまかなわれて いたという。生活がいかに苦しかろうと、西山は自 分の教育理想が着々と実現されていくのに喜びさえ 感じていたようである。 帝国小学校の特色は、 「児童のための学校たる点に ある。学校の全部が児童に与えられている点である。 どこまでも児童本位主義に経営している、子供の遊び 場はあつても職員室は作らない。 」と、西山が帝国小 学校の事を紹介するに当たっては常にこの言葉で始 めている。この特色は、他の公立小学校では取り組ま 3.

(4) 最初といっていい初等教育段階での学校を創設し、 子どもと共に教育を行った西山哲治を追うことに より、中野光や中内敏夫らがいう「その学習成果を 日本に生かそうとした事実は決して過少に評価さ れてはなるまい」という言葉を裏付けることが出来 た。「子供の権利」に焦点を当てて西山の教育論を 明らかにし、さらに大正新教育そのものを見直した ところに本研究の意義が存する。先行研究では、西 山哲治について著書から具体的に論じられたもの はなく、明治末期から大正期にかけての「子供の権 利」や「子供の保護」の動向と教育との関係が明ら かになったと考える。 さらに、西山の「子供の権利」論は、キリスト教 から論じられた田村直臣や賀川豊彦とは違うもの である。つまり、西山はアメリカで教育学を学び、 J・デューイやエレン・ケイから多くの影響を受け ることで「子供の権利」が必要であるとした欧米の 考え方を基にしているのである。このことからみて も、西山の取り組みはその当時新しい教育論であっ たと言っていいのではないだろうか。 しかし、本論文を通して新たな課題も見えてきた。 それは、大正新教育と子どもの権利の関係について、 及川平治の実践には触れたが大正期の教育につい て「子どもの自主性」や「子供の権利」などを幅広 い形で検証する必要があるということである。西山 が唱えた「子供の権利」 「子供の保護」について更 に深く検討するためには大正新教育と呼ばれる教 育論だけでなく、それぞれの地方の教育会などでの 取り組みが行われていたのかを明らかにする必要 がある。 【文献目録】 〈第一次資料〉 西山哲治『児童中心主義攻究的新教授法』寶文館 1911 年 西山哲治『悪教育之研究』弘学館書店 1913 年 西山哲治『子供の権利』南光社 1918 年 西山哲治『子供の保護』集成社 1920 年 西山哲治『新時代の要求する子供の保護』集成社 1920 年 西山哲治『私立帝国小学校経営廿五年』モナス社 1927 年 西山哲治『私の学校及学級経営法』明治図書 1927 年 4. Key,Ellen, The Century of the Child, G.P.Putnam‘s Sons, 1909 田村直臣『児童の権利』大正幼稚園出版部 1911 年初版 1926 年再版 手塚岸衛『自由教育真義』東京宝文館 1922 年 北原白秋「童謡復興」『芸術教育』2 月号 アルス 1921 年 〈引用文献〉 中野光『大正自由教育の研究』黎明書房 1968 年 中野光『学校改革の史的原像「大正自由教育之系譜 をたどって」 』黎明書房 2008 年 中野光『戦間期教育への史的接近』EXP 2000 年 中野光『大正自由教育と児童文化』41 巻 日本児 童文学研究 2008 年 中野光 『教育研究著作選集①「教育空間としての 学校」 』つなん出版 2000 年 小原國芳編『日本新教育百年史第 2 巻』玉川大学出 版部 1971 年 雑誌『人道』118 号 1915 年 1974 年復刻 『新渡戸稲造全集』第 21 巻 教文館 1987 年刊行 (2001 年復刻 不二出版) J・デューイ『学校と社会』 宮原誠一訳 岩波書 店 1957 年 及川平治『分団式動的教育法』明治図書 1972 年 古川孝順『子どもの権利論 イギリス・アメリカ・ 日本の福祉政策史から』有斐閣選書 1982 年 〈参考文献〉 平塚真樹「日本における子ども「保護」の制度化と 「子どもの権利」(上)」 『社会労働研究』第 39 号 1992 年 村田幸代「田村直臣の子どもの権利思想~その形成 過程と子ども観を中心に~」『龍谷大学大学 院国際文化研究論集』第 8 巻 2011 年 中野光「大正自由教育とデューイ―「日本のデュー イ」といってよい教育者たち―」 『日本デューイ学 会紀要』第 21 号 1980 年 橋本美保「及川平治「分断式動的教育法」の系譜」 『教育学研究』第 72 巻 2005 年.

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参照

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