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坂本 進 『キリスト教と近代西洋政治思想

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ソシオサイエンス Ⅶ1.14 2008年3月      263

博士(学術)学位申請論文審査要旨

坂本  進

『キリスト教と近代西洋政治思想

一平和と自由と民主主義の探求−』

日]本論文の主題

近代の西洋政治思想は,いうまでもなく,キリスト教と密接な関係を持ちながら展開されてきた。とりわけ,近 代西洋の政治倫理は,キリスト教を抜きにしては語れないであろう。本論文は,近代西洋の政治思想や政治倫理が

キリスト教との関りの中で,いかに形成,展開されてきたかを追求し,更に今日の西洋社会が直面している問題に どう向き合っていけばよいかを考察したものである。前者では特に,「平和」,「自由」,「民主主義」の三つの側面 から追求され,後者では専ら「世俗化」の問題が考察されている。平和,自由,民主主義の三つは,キリスト教と 結びつけられ,近代西洋が掲げ達成に向けて邁進してきたもので,今日,平和も自由も民主主義も一応達成された かに見える。だがある意味では,現在それらは厳しい試練に直面しているといわなければならない。平和は束の間 の平和で,自由も虚構の自由であり,民主主義も全体主義をすべて排除できるほど成熟してはいないからである。

けれどもそうした危機的状況も,より広い観点からいえば,キリスト教の世俗化がもたらしたものだともいえる。

キリスト教の世俗化は,キリスト教への信仰の希薄化 キリスト教の上に築かれたヨーロッパ文化の衰退によるも のと考えられる。そして今やこのキリスト教の世俗化が西洋社会の隅々まで浸透していて,社会の無機質化を進め ている。しかし本論文によれば,西洋社会の底辺には,まだキリスト教が脈々と息づいている。それ故,いま一度,

キリスト教とその歴史を見直すことによって,西洋社会が現在陥っている危機的状態を乗り越えることは不可能で はない。そのためには,中世のキリスト教まで遡らねばならず,その後のルターやカルヴァンなどのキリスト教を 冷静かつ正確に把捉する必要がある。またそれは当然ながら,M・ウェーバーの近代化論にも分析のメスを入れな ければならなくなる。かつてトレルチは,18世紀以降際立ってきたキリスト教の衰退を前に,その危機的状況を直 視し,キリスト教文化の見直しを通じて,ヨーロッパの再生を試みたが,そうした試みは,その後も立場はそれぞ れ違けれども,多くの知識人たちによってなされてきた。本論文では,その中でも特に,ブルクハルト,マイネッ ケ,リンゼィ,ニーバーやキュングなどが取り上げられ,それぞれのキリスト教観,政治倫理観が論じられている。

本論文は,トレルチをはじめこれらの思想家がこれまで行ってきた試みの延長上に位置づけられるものである。こ うした試みは勿論,これまで日本においてもなされてきたが,扱っている対象の広さと分析の鋭さにおいて,本論 文は同種のこれまでの研究を大きく超えるものであり,本論文の研究上の意義もそこに認められる。

[2]本論文の構成

___峯論文聖徳或は以下の_通サ_軍あ塁。__なおL杢論文の分量が,_1__頁,40字不30字〒4200字で,__全404頁」脚注を含む),_

約47万字であることを申し添えておく。

目次 序論

第一部 キリスト教と平和の政治思想 第一章キリスト教的平和観の変遷

第一節 キリスト教的平和観の歴史

(一)旧約聖書に見る平和の概念

(二)新約聖書に見る平和の概念

(三)宗教改革者たちに見る平和の概念

(2)

(四)クウェーカー教徒に見る平和の概念 第二節 戦後のキリスト教団体等とヨーロッパ統合

第三節 キリスト教民主主義政党の政策綱領とヨーロッパ統合 第四節「平和の思想」の制度化とヨーロッパ統合の課題 まとめ

第二章キリスト教的神秘主義と平和観 第一節 時代背景と歴史的位置づけ 第二節 人間的考察

第三節 思想の本質一神秘主義 第四節 平和思想

第五節 平和の根源 第六節 クザーヌス批判

第七節 キリスト教的平和観の解釈 まとめ

第三章キリスト教政治思想の系譜

第一節 第一次大戦前までのヨーロッパ統合理論

(一)クウェーカー教徒−ペンとベラーズのヨーロッパの平和的統一構想

(二)サン・ピェールのヨーロッパ永久平和構想

(三)ルソーのヨーロッパ統合理論

(四)カントの平和理論

第二節 両大戦及び大戦間のヨーロッパ統合理論

(一)クーデンホフ・カレルギーのパン・ヨーロッパ運動 第三節 第二次大戦後のヨーロッパ統合理論

(一)ドニ・ド・ルージュモンのヨーロッパ統合思想

(二)ヨーロッパ合衆国論(UnitedEurope)

まとめ

第二部キリスト教と自由の政治思想 第四章 キリスト教と自由

第一節 自由の意味するもの 第二節 自由と倫理

第三節 トレルチとニーバーーキリスト教的自由に関して まとめ

第五章 時代的危機の認識と歴史観 一一一その時代的危機の一認識につ−いて−

第一節 キリスト教的終末論と歴史哲学 第二節 ブルクハルトの非科学的歴史論 第三節 ブルクハルト歴史観の基礎

(一)国家

(二)宗教

(三)文化

第四節 ディスコルデイア・コンコルスDiscordiaconcors 第五節 時代的危機の認識

まとめ

(3)

審査要旨       265 第六章 政治と政治倫理

−R・ニーバーとH・キュングに学ぶ一 第一節 政治倫理のグローバル化

第二節 個人の道徳と社会の不道徳 第三節 国益とパワーポリティックス 第四節 国家理性について

第五節 統合ヨーロッパの倫理的基盤

(一)テクノクラートのヨーロッパか

(二)キリスト教ヨーロッパの復活は

(三)倫理基盤を持ったヨーロッパ まとめ

第七章 国益と国家理性 第一節 国家理性論について

第二節 キリスト教宗教倫理と国家理性

第三節 ヨーロッパ統合に潜む国益擁護と国家理性 まとめ

第三部 キリスト教と民主主義の政治思想 第八章 キリスト教と民主主義

トレルチとリンゼイの遺したもの まとめ

第九章(半)直接民主主義と少数意見 一息づく宗教改革の伝統一 第一節 スイスの政治制度

(一)連邦制

(二)(半)直接民主主義

(三)武装永世中立

第二節 調和せる不調和一地方自治 ゲマインデースイス民主制の原細胞 第三節 スイス宗教改革におけるツヴイングリの功績

(一)ツヴイングリの思想

(二)ツヴイングリの功績

第四節 ヨーロッパ統合へのデイレンマ まとめ

第十章 キリスト教とヨーロッパ精神の形成

−ヨーロッパ統合思想における政治倫理一 第一節 ヨーロッパ精神の形成

トレルチの「ヨーロッパ主義」,「文化総合」と現代的意味 第二節 プロテスタンティズムと政治倫理

(一)政治と倫理の役割

(二)「プロテスタンティズムの倫理」に関するトレルチとウェーバーの比較

(三)カルヴァン派とルター派の比較 第三節 プロテスタンティズムとデモクラシー 第四節 トレルチのキリスト教的自然法と機能論 まとめ

(4)

第十一章 民主主義政治思想の実践 第一節 欧州共同体における民主主義 第二節 補完性原理について 第三節 ヨーロッパ連邦論の探求

(一)連邦制度の歴史

(二)連邦主義の起源

(三)連邦主義の基本原理

(四)現代における連邦制度

(五)ヨーロッパにおける連邦制度

第四節 キリスト教的平和観とヨーロッパ統合の将来像 まとめ

第四部 キリスト教と世俗化

第十二幸 現代世俗化社会とキリスト教政治倫理 第一節 現代ヨーロッパと世俗化現象 第二節 政教分離とライシテ

第三節 キリスト教政治倫理とヨーロッパ統合 第四節 欧州憲法条約の再検討

まとめ

第十三章 プロテスタンティズムの政治倫理と世俗化

−M.ウェーバーと現代ヨーロッパ一

第一節『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がもたらしたもの 第二節 ウェーバーの宗教理論

第三節 エートスとクラトス 第四節 世俗化現象と現代ヨーロッパ まとめ

第十四章 プロテスタンティズムの倫理と脱世俗化 一過皮の世俗化論への反省一

第一節 世俗化論の伝統的主張とその陸路

第二節 ウェーバーのプロテスタンティズム倫理の欠陥 第三節 宗教市場論

まとめ

第十五章 政治的アイデンティティの形成 一欧州政治統合の実現のために一

一一一一一一第=一節一一一ヨ一・二ロつLパ憲法制定の動−き−−−一一−−−一一一    一一

(一)ヨーロッパ憲法の必要性

(二)ドイツ連邦におけるマーストリヒト判決(プルンナー判決)

第二節 アイデンティティ・EU市民とヨーロッパの民主主義

(一)アイデンティティの意味するもの及びそのルーツ

(二)ヨーロッパの民主主義と市民権

(三)文化的アイデンティティと政治的アイデンティティ 第三節 キリスト教とヨーロッパ文化

(一)ヨーロッパはキリスト大陸一世俗化と色槌せたキリスト教国

(二)神話の意義一政治的神話と政治的アイデンティティ

(三)宗教の変容

(5)

審査要旨      267 第四節 アイデンティティと統合のパースペクテイヴ

(一)ヨーロッパ魂−EUの法的地位

(二)アイデンティティと聖像論争IconoclasticDebate

(三)アイデンティティとヨーロッパ連合一新しいヨーロッパの誕生 まとめ

補章 欧州憲法条約草案と神の記載 第一節 欧州統合と憲法条約

第二節 神の記載に関する問題−フランスのライシテ 第三節 欧州各国憲法と宗教条項一政教分離について 第四節 現代欧州とキリスト教

まとめ 結語

参考文献総括 欧州統合思想史年譜表

[3]各章の概要

各章何れも,数多くの文献を渉猟し,入念に整理した上で簡潔にまとめられており,また独創的・先駆的貢献が 多々見られる。

第一部

第一部では,キリスト教と「平和」の関係が論じられている。西洋の政治思想には,「理性」に基づいて政治思 想を展開したギリシア思想と,天地万物の創造主としての「神」に基づいて,神の似姿としての人間の創造を中心 に政治思想を説いたヘブライ思想があるが,ここでは,後者における平和観が扱われている。

第一章は,『旧約聖書』以降の多様なキリスト教的平和観の変遷を概観し,現代の平和運動などと比較してい る。『旧約聖書』における平和は,時間を超越した終末/永遠の次元で万人にもたらされる状態,『新約聖書』の 平和は神の平和,新しい人類の平和とされる。プロテスタントの平和観は宗派によって異なるので,ここでは,

ルター,カルヴァン,クウェーカー教徒の平和観が述べられている。そして更に,第2次世界大戦後のキリスト 教団体の平和連動やキリスト教民主主義政党の政策綱領を扱い,キリスト教的平和観や社会教説がヨーロッパの 統合にどのような貢献をしているか,また今後いかに必要であるかを探っている。

第二章は,クザーヌスを取り上げ,その形而上学と平和思想を論じている。クザーヌスは「知ある無知」や「対 立物の一致」など,独特な形而上学を展開するとともに,現代にも妥当するような平和論を唱えた。スコラ哲学 の衰退という危機的状況の中で,クザーヌスは平和の理念・和合の精神を説いた。即ち,人間は神の似姿として その自由意志を働かせ,和合と同意を形成し,平和へ向かって向上すべき存在であり,また,信仰と理性の一致 は宗教と科学の一致を導くと論じた。更に,クザーヌスの平和思想の特徴として,宗教的寛容性が指摘されてい 一一る。一勿論,一一このよう一一なクーザ二ヌスの平和思想に対しては批判為−あーり,一ここでは,一一グ11スナ†の批判が取り」二けら−

れている。つまり,クザーヌスの神学は汎神論的で,事物の根底を平和としているため,実践における真剣さに 欠ける,とグロスナーは批判する。これに対して,ヤスパースはクザーヌスの形而上学と平和思想の価値を認め る。

第三章は,キリスト教的政治思想史上 ヨーロッパ統合との関りにおいて,注目すべき平和論を説いた思想家 を取り上げ,その平和思想を歴史的に辿っている。第1次大戦前の思想家としては,W・ペン,ベラーズ,ル ソー,カントなどが取り上げられている。ペンは,平和の主はキリストであると説いたが,その考えを引き継い だのがベラーズである。サン・ピェールは,キリスト教社会連合構想を提示し,その『永久平和論』は,カント に継承された。第1次大戦前の思想家の中で最も詳しく論じられているのはルソーの平和論である。ヨーロッパ には,普遍性とともに特殊性があり,画一的な法律の下で,打ち拉がれてはならないという考えが,ルソーの平 和論の基礎にあった。両大戦間の思想家としては,カレルギーが取り上げられ,そのパン・ヨーロッパ運動の

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土台にあった平和論が簡潔に述べられている。第2次大戦後の平和論としては,連邦主義論を説いたドニ・ド・

ルージュモン,ヨーロッパ合衆国論を唱えたW・ハルシュタイン,C・N・パーキンソン,A・H・ハイネケン などの議論が扱われている。このような西洋政治思想史上の平和論の概観から窺えるのは,キリスト教がヨー ロッパ統合から,次第に沈黙するようになったことである。何故そういうことになったのか,その理由は第12章 以下で考察されている。

第二部

第二部では,「自由」とキリスト教倫理について論じられてい.る。西洋の政治思想史においては,自由は既に 2千年を遥かに超える歴史を持っている。自由は確かに,外部の拘束を受けないものではあるけれども,また自ら に比較を絶した倫理的拘束力を有している。そうした自由が西洋社会においては,長い間一つの絶対的規範とし て,人々の行為や精神の内面を規定してきた。それ故に西洋社会の歴史は,自由の探求の歴史といっても過言では

ない。

第四章では,先ず,クランストンの議論に拠りながら,自由の意味を考察している。クランストンは特に,自 由を能力とするものと,自由を理性の支配とするものとを,取り上げる。前者の代表が,ロックやビュームの自 由で,後者の代表が,ライプニッツ,ルソー,アクトンなどの自由として,それぞれを説明をしている。次に,

自由と倫理の問題が扱われ,西洋の政治思想史上の自由が,ベンサムを唯一の例外として殆どすべての思想が倫 理的意味を有していたと論じられている。ここでは特に,アウグステイヌスとトマス・アクイナスの自由意志説 が扱われている。アウグステイヌスは,神に対する人間の責任を主張し,罪は自由意志によって起こると説く。

トマスはこの考えを継承するが,アウグステイヌス以上に,自由意志に対する恩寵先行性を強調する。最後に特 に,トレルチの議論を取り上げ,キリスト教的自由について論じている。トレルチは,キリスト教の復活を思念 しつつ,自由について深い考察を加えた。トレルチは自由として,自己表現の自由,精神的自由,国家意思形成 に対する個人意思の協力という政治的白丸 の三つを掲げるが,その中でとりわけ問題にしたのは最後の政治的 自由であった。そしてトレルチは,自由を発展史的に考察し,イギリス的自由,フランス的自由,アメリカ的自 由などと区別し,詳しく論じた。

第五章は,現代を危機の時代と捉えたブルクハルトの歴史観と文化的統一体論を取り上げる。ルネサンス以 降,西洋社会はひたすら自由を追求し,多くの成果を挙げてきた。それにも拘らず,自由は現代社会の足初とな り危機的状況を作っている。ブルクハルトは,キリスト教的世界史の理念から離れ,また神学的・形而上学的原 理を想定せず,あくまで人間的立場を貫いて世界史を構成した。そこには,現代を危機と捉える現代批判とキリ スト教への不信があった。ブルクハルトは,すべての歴史的事実に精神的側面を認め,世界を精神的連続体と規 定する。世界史の統一性はこの連続性に求められた。ブルクハルトの歴史観は,国家,宗教,文化の三つの領域 から構成されている。国家論で注目されるのは,権力それ自体悪だとする考えである。また宗教は人間性の不壊 の形而上学的要求とされる。そして,文化は国家と宗教を批判するものとして把捉される。従ってブルクハル トの歴史観は,自由と権力の闘争の歴史であり,権力は自由を否定する文化の敵とするもので,文化を強調す るところにその著しい特徴があった。本来のヨーロッパの理念は,「調和せる不調和」(Discordia concors)であ る−「とブルクハルトはいう。−こ一のような考え−は,」レター派の−ナ一致をConcordia一一一discors−と理解−したスイスのナ神 学者から学んで,ブルクハルトは神学の槍を逆に向け,歴史的肯定の論拠をConcordia discorsからDiscordia concorsを作り出したとされる。ヨーロッパ諸国が武力を誇り,歴史に内在する対立者の闘争から調和が生まれ

ると歴史家が予言していた時代に,ブルクハルトは危殆に瀕したヨーロッパの理念を擁護した。

第六章は,政治と政治倫理の問題を,20世紀の著名な神学者R・ニーバーとエキュメニズム運動の指導者キュ ングの宗教観に依拠しながら考察している。宗教は社会を直接変革することはできないにせよ,社会に対して目 を開かせることは可能であるから,社会問題に積極的に関るべきだと考える点で,ニーバーとキュングは一致し ている。キリスト教には,人間は原罪を持ってこの世に生まれてきたという考えがあるが,ニーバーの政治倫理 はこの原罪を根底に置く。その原罪は人間の原始性の残津ではなく,自分に関心を持つ自我の普遍的傾向のこと である。このような原罪が神の本質と結びつき,罪とは神への不従順ということになる。またニーバーは,歴史 の意味が曖昧な聖書を独自に解釈して自らの歴史観を提示する。即ち,その曖昧さは歴史を通して働く神に応答

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審査要旨       269 することができる,という信仰によって克服可能であり,しかもその信仰は正義と結びついたものでなくてはな

らない,と。キュングはこうした考えを継承しつつ,更にそれを地球規模に拡大して議論をする。つまり,現代 政治はもはや地球規模の倫理への考察なくしては実現しえない,と。それ故キュングは,モーゲンソーの国益を 中核とする政治理論に異議を唱える。モーゲンソーの国益論は専ら,権力と合理性の追求を目指すもので,政治 倫理への考慮が希薄だというのである。

第七章は,前章の議論を受け,マキアヴェリとマイネッケの政治思想を通して国家と国家理性について考察し ている。マイネッケによれば,近代における国家理性の概念はマキアヴェリに始まる。またバーリンも,マキア ヴェリの政治思考全体が国家理性に従った不断の思考だった,という。だがマキアヴェリの国家理性の概念がど ういうものだったかについては,様々な議論がある。ここでは,マイネッケ,バーリン,シュトラウス,クロー チェなどの議論を取り上げているが,要するに,マキアヴェリの政治理論の根本は道徳を無視することではな く,政治の宗教的な道徳や普遍主義からの解放と政治の自律性の確保とにあったとされる。またマイネッケに関 しては,西洋文化共同体論といったものが論じられている。即ちマイネッケは,ヨーロッパの共同感情−それは,

ヨーロッパの権力闘争に対するランケの評価の前提であり,中世のキリスト教世界が残したもの−の再生と,世 界史的思考と生活感情への復帰を説き,こうした方法で世界を救うために国際協調体制の必要性を訴えた。最後 にこの事でも,トレルチの議論が言及されている。キリスト教倫理は国家を超えて,道徳的思想はキリスト教倫 理から国家に流れ込んでいく。国家はこの思想によって,政治的な道徳性を補足し深めることができる。従って 重要なことは,キリスト教倫理が政治倫理に対してなす貢献である,と。

第三部

第三部は,ピ立−リタニズムにおける「民主主義」を検討し,民主主義の在り方を考察する。民主主義はもとよ り古代ギリシア時代まで遡る。しかしまたキリスト教においては,民主主義は平和の理念と一体をなしていてヨー ロッパの政治文化を規定している。そうした意味でキリスト教と民主主義の問題を考察することは大いに意味があ る。

第八章は,トレルチとその影響を受けたA・D・リンゼイの民主主義論を検討している。トレルチの自由論を 引き継いだのがニーバーとすれば,民主主義論を継承したのはリンゼイであった。トレルチはルター派に属して いたにも拘らず,ルター派にカトリシズムと同様,家父長主義の残津を認め,禁欲的プロテスタンティズムのカ ルヴイニズムを支持した。それ故,プロテスタント的民主主義を基礎とする近代史の見方において一致する。ト レルチはキリスト教の核心を人格性の理念に認め,そこに近代の個人主義と民主主義の源泉を見る。リンゼイも 民主主義論をキリスト教信仰から始め,こう論ずる。人は曹神の前で子供であり,平等に貴い価値を持つ存在で ある,民主主義は人々がこうした共通のものを持っていることの上に成り立つ,また民主主義は奉仕の精神で あって,人々は民主主義社会で全体を生かすためには小我を没することを学ぶ,と。

第九章は,ツヴイングリの宗教改革を検証することによって,スイスにおける(半)直接民主主義と少数意見 の問題を考察している。ルターやカルヴァンの宗教改革が世界的規模でなされたのに対し,ツヴインダリのそれ はかなり限定される。しかしスイスの宗教改革はツヴイングリによって演じられたといわれるように,ツヴイン グ且がス_イ_ス_に残_した足跡は大_きい。ツヴイングリは_は上めエラスムスのヒューヱニズム思想の影響を受け,__後 年はルターに傾倒していくが,ルターとも違った独自の宗教論を展開した。例えば,ルターにおいては言葉と霊

とは結び付けられていたが,ツヴイングリにあっては,言葉は霊のみが媒介するとされ,またキリストの身体は,

パンの中にあるのではなくパンの周りに集まった共同体ゲマインデの中にあるとされる。そして,ツヴイングリ にとってキリスト教的都市はキリスト教的ゲマインデであった。スイスで民主主義の原型となったのがゲマイン デである。ここから(半)直接民主主義が育っていった。また,ツヴイングリの宗教改革における貢献は,多数 決原理に挑戦し少数派の意思を実現させようとしたことである。ツヴイングリの指導下にあったチューリッヒは 盟約社団会議の上からの多数決を阻止しようとして,共同体ゲマインデの住民の多数決による宗派を選択した。

第十章は,トレルチの生命統一体と自然法の議論を通して,ヨーロッパ精神の形成について論じている。トレ ルチのヨーロッパ文化の生命統一体論は,マイネッケの西洋文化共同体論,ブルクハルトの文化的統一体論に相 当する。トレルチの中心にある思想は文化総合にあるが,それは家庭,法,科学,芸術,宗教,経済などの諸価

(8)

値からなり,ヨーロッパにおいてはその中心にキリスト教がある。それがトレルチのいうヨーロッパ文化の生命 統一体論である。次に,プロテスタンティズムの倫理に関して,トレルチとウェーバーが比較されている。両者 の相違点の一つは,ウェーバーが合理性に近代西洋の本質を見るのに対し,トレルチは近代世界を成立させてい る合理化過程を無条件に肯定しない点にある。最後に,トレルチのキリスト教的自然法について言及されてい る。キリスト教にとって,自然法は外来分子の侵入だが,それはキリスト教の教義に適合せしめられ,社会的・

政治的プログラムの基礎となった,と。

第十一章は,キリスト教的視座から,ヨーロッパの民主主義,補完性原理,連邦主義を検証している。キリス ト教的平和観が現代のヨーロッパに寄与しているものは,何よりも民主主義である。民主主義の理念は,神の平 和の統治が現実となる社会を望んだ預言者のメッセージに起源を持つ。ヨーロッパ中世の都市において,市民意 識や自治の精神,また団体精神が育まれた。それは教会での信者たちの共同生活から生まれたもので,民主主義 の原理となった。ヨーロッパはこの民主主義の原理を継承して現在に到っている。補完性原理はマーストリヒト 条約の中で,キリスト教の社会教説として存在する唯一のものである。それはトマス・アクイナスの遺産であ り,ローマ教皇ピオ十一世の社会回勅『クァドラジェジモ・アンノ』に由来するといわれる。そしてその思想的 枠組みを提供したのが社会科学者のグンドラッパであった。補完性原理は,国家に対する人格や,社会の段階的 秩序における下位の共同体の自由保障原理である。また同原理は,より小さな集団に各々の意志決定権を保持す ることを保障していて,社会や地域文化の多様性を保つ可能性を残していて大いに意義がある。しかし,EUに とって補完性原理がより重要性を帯びてくるのは今後であろうという。連邦主義も民主主義と同じく,キリスト 教的平和観の顕現だといわれる。それはヨーロッパ統合理論の究極の目標とされてきた。連邦的考え方は『旧約 聖書』にその起源があり,人と神との間の連携・契約を意味した。3千年も前,イスラエルに種族的連邦制度が あったといわれる。中世では7百年前に,スイスで連邦制の実験が行われた。近代的な連邦制度は,2百年前に アメリカで導入された。欧州でも,第2次大戦後,ヨーロッパ連邦ないしヨーロッパ連合結成についての議論が 活発になされてきた。ここでは,ドニ・ド・ルージュモンの連邦主義理論や,連邦主義をめぐる最小主義者と最 大主義者,ハミルトニアンとプルドニアン,それぞれの間の論争を検討している。

第四部

第四部では,現代の西洋社会を襲っている「世俗化」の問題が総合的に考察されている。近代西洋社会はプロテ スタンティズム,とりわけカルヴァンの職業倫理によって形成発展してきたが,しかし他方,それが西洋社会の世 俗化をもたらし,キリスト教を基盤に形成されてきた西洋社会の非キリスト化を加速させているともいわれる。そ れを検証するため,ここでは特にウェーバーの議論が取り上げられ,批判の狙上に載せられている。

第十二章では先ず,西洋社会における世俗化の原因について論じられている。これまで世俗化の原因の説明に は大別して四つある。1,人間の理性的自律説。これはP・バーガーの説で,人間が近代的な理性の自律に基づ いて伝統的宗教から自己を解放したため,世俗化が生じたとする説。2,不信仰・信仰の生命の枯渇説。ゴーガ ルテンなどは,世俗化と世俗主義とを区別し,世俗化はキリスト教信仰の合法的結果で正当なものだが,信仰の 生命が枯渇し死滅する時に世俗主義へ転落する。3,利益社会の発達説。テンニースによれば,世俗化は社会が 一利益社会の段階に入り,一一宗教の公共的妥当性が失われていく過程である。−ウェーバーの近代化論も−この中で言及 されている。4,宗教の純化・再生の過程説。R・N・ベラーなどによれば,世俗化は必ずしも宗教の衰退では なく,宗教が他の社会制度から分化していく過程である。次にキリスト教と政教分離の問題が扱われている。政 教分離の考えは,本来一神教の世界で生まれたもので,キリスト教の歴史と一体をなしている。即ち,それは神 に属するものとシーザーに属するものとの区別に由来している。そのため,ヨーロッパ諸国では,これを憲法上 に明記しているところが多い。しかし政教分離の原則は,現実には第一義的には,信教の自由を保障するための 制度である。それ故に政教分離原則の存在をもってしても,なおキリスト教信仰の政治への関わりと責任は免除

されない。

第十三章は,専らウェーバーの宗教を論じた著書や論文を取り上げ,プロテスタンティズムの倫理と世俗化の 問題を考察している。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において,資本主義的経 済活動とプロテスタントの宗教信仰の間に親緑関係はないか,また,企業家の精神とプロテスタンティズムの禁

(9)

審査要旨       271 欲的な職業倫理の間に歴史的因果関係はないかを追求した。前者については,カルヴイニズムを中心とする禁欲

的プロテスタンティズムに見られたこと,後者については,プロテスタンティズムの宗教倫理が近代資本主義の 精神の母胎であること,をそれぞれ明らかにした。これは近代資本主義の精神が,たまたまプロテスタント的倫 理を備えていたということだが,一方でウェーバーは逆に,資本主義の精神がプロテスタンティズムの倫理を具 備していたことも示し,更には資本主義を擁護するかのような議論をしている。このためウェーバーの議論はプ ロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神をもたらし,資本主義の発展を促したと解釈される。しかしこれ は,宗教的倫理によって経済的富の追求が肯定されたということであって,経済的富の追求が今度は信仰の腐朽 化 即ち世俗化をもたらすことになった。また資本主義の精神の重要な要素は合理化だが,その合理化がまたキ リスト教の世俗化を加速させることになった。もっとも,ウェーバーも将来の資本主義が「末人」のはびこる荒 涼たる社会になるだろうことを予見してはいたが。

第十四章は前章を受け,過度に世俗化が進んでいる現代社会への反省から,キリスト教を含めた宗教の意義と その見直しの必要性を検討している。先ずウェーバーとの関係で,ブレンターノとゾンバルトの議論が取り上げ られる0ブレンターノも近代資本主義発展に対するカルヴイニズムの意義は認めたが,宗教と経済については,

宗教倫理と資本主義が求める営利活動とは基本的に対立関係にあると考え,ウェーバーとは反対の立場にあった とされる。ゾンバルトもカルヴイこズムに資本主義の合理的営利の精神を導いた役割は認めるが,ゾンバルトが あくまで近代資本主義精神の経済的合理性を主として経済的技術の賜物と見たのに対して,ウェーバーはその原 因を,合理的生活態度を持ち厳しい戒律の宗教人という新しい型の人々の出現に帰している点では,両者の間に は多少の違いが見られた。次にウェーバーの仮説を,プロテスタント社会と他の宗教的文化(特に,カトリック 社会)との比較を通して検証している。例えば経済倫理に関しては,プロテスタントは他の宗派に劣後している という結果が出ていて,ウェーバーの仮説は裏切られている。また,ウェーバーは科学技術への信念が宗教的信 仰を衰退させていると説いたが,ノーリスやイングルハートは,宗教的衰退は科学知識や教育の普及を反映しな いともいっており,この点でもウェーバーの仮説は疑わしいという。最後に,近年議論されるようになった宗教 市場論について言及されている。これは,教会と国家を分かち,異なる宗派の崇拝や寛容の宗教的自由を保護す る制度が存在する時に,宗教への参加は極大化するというものだが,ここでは同議論に疑問が里されている。

第十五章は,現在のヨーロッパに欠如している政治的アイデンティティの形成について考察している。ヨー ロッパのアイデンティティはキリスト教を除いては論じ得ない。確かに中世以降,キリスト教はヨーロッパのア イデンティティに深い影響を与えた。だが,キリスト教のヨーロッパ文化的要素は必ずしも単純ではなかった。

ルネッサンス・ヒューマニズムがヨーロッパにアイデンティティを与えたことは間違いない。しかも今日,世俗 化の進行とともに,キリスト教信者の数は年々減少してきている。現代では当然,宗教はその機能と実質の両面 で修正を余儀なくされている。しかし,宗教が文化とともに,アイデンティティの形成に大きな影響を与えるこ とは変わりない。ここではアドリアーンセンやH・R・ニーバー(R・ニーバーの弟)などの議論が検討されて はタ、るが,決定的な視座は与えてはいない。こうした中で,ヨーロッパの政治的アイデンティティはどうすれば 形成されるのか。本論文は,ハーバーマスとともに,こういって締め括っている。「経済的な期待だけでは,新 にそ鉛名一に億章一る一政治的兢合一と心うー遥かにサスクに富み,一遥かに到達困難なブロージェケトへ向かっての政治的支 援を動かすことはできない。EUの経済的利益はそれが物質的利益を超えて拡大する時においてのみ,EUの更

なる建設のための議論として有用である。」

補章では,欧州憲法条約草案と神の記載についての意見が述べられている。

[4]分析と評価

審査員から出された意見等を摘示すると以下の通りである。

第一部

序論 ベルジャーエフについては,序論だけでなく他の箇所でも取り上げられているが,近代の自然観がキリ スト教的自然観から導かれたというベルジャーエフの議論についての言及はない。近代西洋の理解には近代的自

(10)

然観の発生,形成の考察は欠かせないのではないか。

第一草 本論文全体の議論において,キリスト教的平和観は極めて大きいウェイトを占めているにも拘らず,

その変遷の歴史,特に『旧約聖書』と『新約聖書』に見られる平和の概念,についての記述が少ないのは物足り ない。しかし,『旧約聖書』の平和観と東洋の平和観について興味深い比較がなされている。

第二章 クザーヌスの「対立物の一致」を可能にする神と,仏教にいう存在としての「無」とが比較されるな ど,比較思想という視点が見られ評価できる。クザーヌスの思想をめぐるグロスナーとヤスパースとの論争に関 する議論もよく整理されていて理解しやすい。

第三章 キリスト教的政治思想の系譜ということであろうが,ホップズの平和論についての記述がない。しか しホップズのような平和論も,西洋においては紛れもなく喧しく議論されてきたのであり,無視することはでき ない。ホップズの大著『リヴァイアサン』の後半の宗教論において,宗教的熱狂がいかに平和の実現にとって危 険であるかが論じられていて,その現代的意義は失われていない。

第二部

第四章 トレルチの自由論がニーバーによって継承されたという議論には説得力がある。ルターの自由論は力 のための力の称揚を行ったというのが,トレルチのルター観だとするボルンカムやトーマス・マンの議論は一面 的だという批判は鋭い。トレルチの思想がドイツよりも英米などで注目された,という議論を更に進めるなら ば,もっと面白い議論が出てくるかもしれない。クランストンも国別に自由の特徴を分析しており,トレルチの 自由論と比較したならば,あるいは興味深い結果が導かれたかもしれない。

第五章 K・レーヴイツトに拠りながらも,敬虔なカトリック教徒であるヴイーコの歴史哲学に論及してい て,議論に厚みを加えている。また,ヴイーコの歴史哲学を,僅かだが,ヘーゲルのそれと比較し,両者の違い を明らかにしている点も見逃せない。もっと欲をいえば,ヴイーコのような歴史観に立った場合,現代西洋社会 の様々な問題はどのように捉えられるのか,そうした側面からの議論も面白いのではないか。ブルクハルトの議 論も要領よくまた適切にまとめられている。ランケとブルクハルトとの比較は大変興味探いことなので,もっと 詳しく議論してほしかった。「歴史の危機」の時代には,現実から一歩退いて,自らを様々な運動の外に置き危 機の過程を冷静に見極めようとするブルクハルトのごとき人間が必要だという指摘には納得させられる。

第六章 キュングの議論に拠りつつ,モーゲンソーのナショナル・インタレスト論を専ら権力と合理主義の追 及に貫かれていると批判しているが,そうした側面からのみの批判でよいか。モーゲンソーの根底には,「大き な悪」より「より小さな悪」を選択することが,道徳的行為の実践だという哲学があったし,またナショナル・

インタレスト論は勢力均衡の維持による自他の共存を保障するもので,それ故に道徳的尊厳性が付与されている ともいわれる。

第七章 国家理性あるいはマキアヴェリ学説について,マイネッケ,バーリン,シュトラウスなど多くの研究 家の議論を取り上げ説明している点は評価できるが,どの説をここでは支持しているのか,いま一つ判然としな い。また前章では,キュングの議論によって,マキアヴェリの権力論を,政治を超越した基礎を持つ道徳を抑圧 するものであると批判しているが,七草ではこのキュングの議論はどうなっているのか,もう少し説明してほし かっ−たもーマキアザェサーには一古代−ローマ思想を継承したものと,一古代や中世とは一線を画す思想とがあサ,−そ−の点 を理解して議論する必要があろう。例えば,徳を公的責務とみなしているのは前者であり,力としての秩序制度 を重視するのは後者である。しかし後者も,マキアヴェリの時代が政治共同体崩壊の時代だったことを考慮すれ ばある程度納得できるのではないか。

第三部

第八章 トレルチの自由論がニーバーによって継承されたとする議論と同様,トレルチの民主主義論がリンゼ イによって継承されたとする議論にも説得力がある。しかし,リンゼイの民主主義の議論は短く物足りない。近 代民主主義の起源をピューリタンの「会衆」における経験に求めるリンゼイの議論は,本論文の中でもっと生か せたのではないか。また,リンゼイの「社会の意志」と,本論文でもしばしば顔を出すルソーの「一般意志」と どう違っているのか,といった点も議論してほしかった。

第九章 ツヴイングリの宗教思想がスイスの(半)直接民主主義や少数意見についての考えにいかに大きな影

(11)

審査要旨       273 響を及ぼしたか,ツヴイングリがどういう訳で「スイスの預言者」であったかが説得力をもって議論されている。

律法についてのルターとツヴイングリの見解の違い,抵抗権を特徴とするツヴイングリの国家教説などについて も詳しい議論がほしかった。

第十章 プロテスタンティズムの倫理をめぐるトレルチとウエーバーとの比較,ルター派とカルヴァン派との 比較が,簡潔で適切になされている。トレルチの自然法理解は大変興味深い。このトレルチの議論をもっと深め

ていくと,ヘブライ思想とヘレニズム思想のそれぞれの特徴と重なり合うところが,より鮮明に理解できるかも しれない。

第十一章 西洋社会の宗教離れの原因を作った一つとして,ニーチェの反キリスト思想が上げられているが,

その西洋社会に与えた衝撃の大きさを考えると,もっと詳しく論じられてもよかったのではないか。それに関連 して,ダーウィンの進化論がキリスト教社会に与えた衝撃も非常に大きかったし,その影響は今日まで引き摺っ ている。進化論のキリスト教に与えた影響といった議論も必要ではなかったか。最後に言及されているドストエ フスキーは,現代文明の矛盾とキリスト教の復興とは一体だといっているが,具体的にはどう議論しているのか,

聞きたいところである。

第四部

第十二章 世俗化はキリスト教西洋社会に特有な現象とされ,東洋,日本おいては,世俗化は問題にならない とし,ベラーの議論に言及されている。ベラーによると,徳川時代の日本では,倫理的義務が第1次的地位を占 め,宗教的行為は第2次的地位にあった。ベラーの議論はともかく,キリスト教社会では宗教と倫理は分かち難 く結合していたのに対し,東洋,特に儒教圏においては,宗教と倫理は,ある程度だが,区別されてきたという 事情がある。そう考えると,政教分離は一神教のヨーロッパ精神文化圏で誕生したというここでの議論と結びつ

いてくるのではないか。つまり,キリスト教が一神教であるがゆえに宗教と倫理は不可分の関係にあるのではな いだろうか。宗教と文化の関係についてティリッビヤT・S・エリオットなどの議論に言及しているのは適切で ある。特に,ティリッヒは本論文の文脈においても重要な位置を占めるものと思われる。従って,ティリッヒと R・ニーバーあるいはブルトマンとの思想的関係に論及すればもっと深い議論ができたのではないか。

第十三章 ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の議論は本論文の中で最も異彩を放っ ていて面白い。終わりの方で,世俗化が進んでいる中で,宗教復権の動きについて論じられているけれども,議 論が短く惜しまれる。最後に,H・ラスキの「プロテスタンティズムはむしろ先に近代政治的自由主義と結びつ

くべきであった」,という主張を引いているが,本論の中で取り上げ論じてもよかったのではないか。

第十四章 ウェーバーとプレンクーノの比較,ウェーバーとゾンバルトとの比較,は簡潔で適切になされてい る。ただ,ゾンバルトには厳しい近代合理主義批判があるので,それについても,できれば本論文のコンテキス

トの中で,議論してほしかった。宗教市場論という近年の動きにも細心の注意が払われていて評価できる。ま た,ノーリスやイングルハートなどの最新の文献が使われていることも評価できる。

第十五章 H・R・ニーバーの宗教の多元化時代に照らすべきパラダイムは非常に興味深いが,箇条書き的説 明に終っていて惜しい。聖像論争にっての議論ももっと詳しくやってもよかったのではないか。というのは,聖 像論争は∠\プライ_と_ギ11シア遺産_と_の対立であり,_へプラ4ズム_とへ_レニズムとの此敦が求められ,本論文に厚 みを加えるのではないだろうか。

全体

本論文は,大部な上に数多くの思想や思想家を取り上げ考察しているが,議論の大きな流れは明瞭に読み取れ る。近代の「平和」,「自由」,「民主主義」といった政治理念は,何れも宗教としてのキリスト教あるいはキリスト 教倫理と,密接不可分に形成され普及していったものであること,しかしその後,現代社会で「世俗化」が進行し たため,それらの政治理念は,窒息 腐敗,形骸化し危機的状況に陥っている,社会が再び本来の平和,自由,民 主主義を取り戻すには,世俗化を食い止め克服する必要がある,というのがそれである。本論文はこのように,現 代の深刻化する世俗化への問題意識によって貫かれている。それはまた,今日の西洋社会の問題意識とも一致し ている。例えば,現代西洋を代表する思想家,J・ハーバーマスやC・テイラーなどが,最近相次いで,世俗化

(12)

の問題について発言していることからも,それは窺える。ハーバーマスと現在のローマ教皇ラツツインガーとの 対話『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(岩波書店,2007年)は,日本でも話題になっているし,テイラーの大著,

ASecularAge(鳳eBelknapPressofHarvardUniversityPress,2007)も世界の思想界に衝撃をもって迎えられている。

ただし,この二著は本論文完成後に出版されていて,本論文では言及されていない。

本論文は以上のような問題意識によって展開されているので,議論は首尾一貫しているが,近代の政治理念の形 成・普及と世俗化の原因究明とが,共にプロテスタンティズムによって論じられていて,カトリシズムヘの論及が 見られず,プロテスタンティズムの功罪だけで議論が進められている。審査委員会で最も議論されたのはこの間題 であった。近代社会において,確かにプロテスタンティズムは広く受け容れられていったが,しかし何故,中世 ヨーロッパを支配していたカトリシズムはその支配力を維持できなくなったのか。この二つは同一問題の裏表のよ うなものであるから,両者を同時に論じてもよい訳である0例えば・J・ロールズの「包括的教説」(comprchensive doctrine)や「政治的リベラリズム」(politicalliberalism)といった用語を使えば,こう論ずることもできよう。カ

トリシズムもプロテスタンティズムも包括的教説であるから,何れにせよ,近代の多元的社会では,諸教説・思想 と共存していくには政治的リベラリズムといったところで,折り合いを付けなければならない。プロテスタンティ ズムの包括的教説の方が柔軟だったため,近代社会への適応が比較的容易だったということだろう。一方,カトリ シズムもプロテスタンティズムの挑戦を受けたからこそ,他の教説・思想と共存していくことを学んだといえる。

それが宗教戦争をともかくも終結させ,近代社会を諸教説・思想の共存可能な社会へと導いていったと考えること ができる。この問題と同様に,世俗化の原因は,プロテスタンティズムだけでなくカトリシズムにもあったと思わ れるし,その他,近代の自然観や科学・技術の急速な発達などにも求められるのではないだろうか。そういった側 面からの考察があれば,本論文はより説得力を持ったものになったであろう。

それにも拘らず,本論文では,入念・精赦な考察に基づいて,太くて一貫した議論が展開されている。それは,

トレルチ,ブルクハルト,マイネッケ,リンゼィ,ニーバー‥・と継承されてきた思想である。本論文の成果と して最も高く評価されてよいのは,ウェーバーの思想との対比で,これらの思想家を論じたところにあるといえ る0 しかし,これらの中で,繰り返し学ぶべきとしているのはトレルチである。ウェーバーは「政治と倫理との峻 別」を説いたが,トレルチは「政治と倫理との妥協」を説いた。「宗教は精神生活の意味と目的に関るが,政治は そのための物質的基盤に関る前提・準備段階である。宗教は政治の粗暴な要求に対し抵抗し影響を与え,政治を宗 教や精神生活に奉仕するもの」である,というのがトレルチの根本思想である。このトレルチの思想に共鳴しつつ それを導きの糸として,キリスト教と近代西洋政治思想との関係を歴史的に論じたのが,本論文である。非常に大

きなテーマを扱っているにも拘らず,本論文が思いの外スッキリした形でまとめられたのは,もとより考察対象が 限定されたからではあるのだが,しかしそれは,トレルチ思想の研究を通して,対象を見る目が鍛えられたからと いってよい。本研究によって得られた知見が,上述のように,現在世界的規模で行われている世俗化論議に,一石

を投じ得るものと信じている。

以上を総合的に判断した結果,本論文が,「博士(学術)早稲田大学」の学位に値するものと認める。

2007年11月27日

主任審査委員  早稲田大学社会科学総合学術院教授  経済学博士(早稲田大学)

審 査 員  早稲田大学社会科学稔合学術院教授  博士(政治学)早稲田大学 審 査 員  早稲田大学政治経済学術院教授    Ph.D(政治学)シカゴ大学 審 査 員  早稲田大学社会科学籍合学術院教授

審 査 員  早稲田大学社会科学総合学術院専任講師 博士(政治学)早稲田大学

郎 郎 蔵   之   元

次一勝   恵   昇 雅 賀 見 島   田   迫 古 厚 飯 池 奥

(13)

概 要 書       275

博士(学術)学位論文概要書

『キリスト教と近代西洋政治思想』

−平和と自由と民主主義の探求一

坂 本   進

1.本論文の目的

本論文は特定の思想家を個人として微細に亘り総合的に論ずるモノグラフでも,また近代欧州西洋政治思想を網 羅する思想史でもない。本論文は西洋においてキリスト教と政治倫理を共通の土台に持ち,相互に深く関連し合う 三つの主題,即ち平和,自由,民主主義を探求したものである。

かつてトレルチは西洋において18世紀以来際立ってきたキリスト教的文化の解体を目の当たりにして,それを

「巨大なる破局」と慨嘆し,キリスト教文化の見直しを通じ,ヨーロッパの「文化体系」の再建のための「ヨーロッ パ文化綜合体」の必要性を唱えたが,本研究もささやかながらトレルチの主題の文脈に位置するものと言ってよい。

もとより西洋政治思想には,一方にギリシア思想の主流があり,現代に至るまでその影響は文化の隅々にまで極め て鮮明に刻み込まれているが,キリスト教的政治思想は言わばギリシア政治思想のさらにその下層に厚く堆積した 地層にも似て,ギリシア政治思想と相携えて,近世から現代に流れ来たった。

政治思想,わけても本論文で採り上げる政治倫理は,宗教的なものとの関わりなしには考察不可能である。それ は倫理が西洋では性質上宗教に胚胎していて,政治倫理はキリスト教を抜きにしては考察しがたいからである。

一般に思想は現在の時点で永遠なものに思いを馳せ,相対的なものよりも絶対的なものに,そして個別性よりも 全体的なものへと飛躍展開しがちな性質のものである。しかし,豊かな思想も文化の多様性や民族の創造性の上に 培われるもので,文化や習俗が均質化され,須らく合理性の追求のみに堕した時に,思想もたちどころに萎む。

世俗化が社会の隅々にまで浸透し,高度の科学文明が支配する現代といえども,なお文化の底辺にキリスト教が 脈々と息づく西洋の地で,筆者はキリスト教の見直しにより,人間的潤いに満ちた揺るぎない社会の再来を思慕す るものである。社会の無機質化の進行を多少とも食い止め,潤滑油として組織に潤いを与えるのはキリスト教を含 む宗教をおいて他に見当たらないように思われる。西洋社会を徒らに巨大化や合理化のみに専念させることなく,

人間社会の原点に立ち帰り,キリスト教が西洋社会の牢固たる絆となり,不断にヒューマンな潤滑油を注入してこ そ,伝統に恵まれ,活力と精神性に富み,現代に相応しい健全な社会が整ることが期待され,その可能性を上記の テーマ,即ち平和,自由,民主主義を探求するのが本論文の目的である。

2.本論文の構成

本論文では,キリスト教に焦点を絞り,西洋諸国の相互交流がいっそう探化し,一体化の思想が芽生えた中世に ま_規って政治思想の検証盈試み_嵐。__これは合理化を指向する_現在の西洋政治理凱こ比して重要性において聯かも_

劣るものではなく,21世紀の西洋社会の発展を占う上で貴重な試金石のひとつとなると確信する。西洋政治思想上 に表わされたキリスト教の影響を考察するにあたって,私は「平和」,「自由」,「民主主義」の三つの角度から考察 することとした。それは,これら三点こそ西洋社会がその達成に向けて邁進してきた政治目標であったからであ り,またいずれも歴史的にキリスト教と深く結ばれているからである。そしてこれらに通底するのはキリスト教的 倫理,とりわけその政治倫理であると考える。このため,私のこれまでの研究もこれら三点をキリスト教的倫理と

の照合の下に考察してきた。その上でこうした考察が現代の西洋政治の行く手に何を示唆しているかに論及しよう としたものである。

キリスト教的視点に絞って近代西洋政治思想の軌跡を探る主たる理由は,第一に,西洋諸国の相互緊密化の契機 は,11世紀末に始まったイスラムのヨーロッパ大陸侵入に備えたキリスト教徒による十字軍の結凰 およびキリス ト教国の結束にあったこと,第二に,中世から近世にかけての宗教改革の時期を中心に,キリスト教徒同士の激し

(14)

い争いを無くしたいという強い希望のあったこと,第三に,現実に西洋政治思想の始祖とも称すべき14−15世紀の 論者はキリスト教聖職者が主流を成していたこと,第四に,ヨーロッパにおいてはヘレニズム思想と並びユダヤ・

キリスト教思想が圧倒的な影響力を有してい たこと,そして第五に,先に不調和に終わった欧州憲法条約に象徴さ れるように,その原因は西洋諸国に共通する経済的パフォーマンスの低調さにも増して,西洋社会を結ぶ紐帯とな るべきアイデンティティの不鮮明さ,即ちアイデンティティ・クライシスにあって,それはキリスト教を抜きにし ては考察しがたいこと,等が挙げられる。キリスト教的平和達成に向けてのキリスト教国園実現は,等しくヨー ロッパ人の胸中に去来する悲願であったからこそ,欧州統合の父ロベール・シューマンは,いみじくも西洋諸国一 体化の基本構想に民主主義とキリスト教という二つの支柱を挙げたのである。彼は民主主義を基本理念に据え,専 ら民主主義国家のみによる共同体を想定,キリスト教が民主主義と並んで,西洋諸国における政治倫理原則として 機能すべきであるとした。本論文はこのような視点に立つもので,以下の四部15章ならびに1補章より構成され

る。

まず序論で全体構成ならびに論文の趣旨を概括する。

第一部では,キリスト教と平和の政治思想の関係を概観する。西洋思想はギリシア思想とヘブライ思想の二つの 基盤の上に成立しており,西洋政治思想においてもこの関係は概ね同様である。即ち人間の自由・平等の追求と,

理性主義を唱導してその後の政治思想の発展に多大の影響を及ぼしたギリシア思想と,キリスト教信仰,即ち天地 万物の創造主としての神を基本に据え,神の似姿としての人間の創造を軸に神の愛を説くヘブライ思想であり,第 一部では後者即ちユダヤ・キリスト教を主に取り扱う。

第1章では多様なキリスト教的平和観の変遷と現代との比較に照準をおく。キリスト教はユダヤの信仰を国際化 し,普遍化(catholicize)して,ヨーロッパ人の思想形成に役立てるとともに,逐次世界中に通用する形の宗教と して伝播した。しかし平和の尊さを唱導し,平和を死守するのが使命であると唱えたキリスト教にも拘らず,開発 と戦争の世紀といわれた20世紀における戦争に参加し,主導した諸国の大半が「キリスト教国」であった。戦争を

「必要な悪」,あるいは「より小さな悪」,として是認する風潮がキリスト教そのものになかったか。キリスト教の 唱道する「平和」とは何か,「平和問題」はときにキリスト教に対して投じられるべき「問い」ではないか。現在 のキリスト教に西洋社会における精神的支柱としての役割を期待できるか,を検証する。第2章では,キリスト教 的神秘主義と平和観につき,クザーヌス(1401−1464)の平和思想の基本を採り上げる。ルター(1483−1546)や カルヴァン(1509−1564)に先行して歴史に登場したクザーヌスを,彼らより後から採り上げる理由は,クザーヌ スの傑出した平和観にある。クザーヌスは,「知ある無知」,「対立物の一致」,「隠れたる神」,などの独創的な思考 で,15世紀の当時としては勿論,現代にも十分通用する平和論を展開した。その壮大な思想体系や,宇宙的でトー タルな人間思考のパラダイムは,科学技術のみが人間知能の集約ででもあるかのような現代に対する警告の思想を も内包していた。それまで西洋宗教思想の主流を成していたスコラ哲学の狙トマス・アクイナスの主知主義に対し て,神との直接的な合意を求める立場で,原理的には救いを仲介する組織としての教会を必要としないと主張する キリスト教的神秘主義の思想をとるもので,20世紀に本筋を逸したとも思われるキリスト教の平和観を見直すのに 相応しい理論と考える。第三章では,キリスト教政治思想の系譜につき平和実現を目指す主要な西洋政治思想を回 顧する丁これ−ま−での幾多の西洋政治理論の中でも,一特に非西洋世界一との対峠を契枚に提唱された理論は,t一一西洋キリ スト教諸国の結束により,内には永久平和の実現を目指し,外には西洋キリスト教諸国の団結により対抗すること を目的としたものであった。多数の政治理論を通底する基本思想がキリスト教聖職者を中心に唱えられたキリスト 教的平和観に基づく政治理論がその基礎を成すことを論証する。

第二部,キリスト教と自由の政治思想においては,自由とキリスト教倫理について論じる。欧州政治思想史にお いて,「自由」はすでに二千年以上に亘って,極めて重く,倫理的な意味を持った概念であり,一つの絶対的な規 範として,人間の行為や精神的内面性を規定してきた。人類の歴史,特に西洋社会のそれは,「自由」の探求の歴 史であるといえる。「自由」とは外部の何ものからも拘束を受けない「自由」ではあるが,自らに比較を超越した倫 理的拘束力を有した。こうした「自由」に打ち拉がれて「自由」を放棄することは,自らの人格の否定であり,生存 者としての「人間」の資格を放棄することにもなった。

第4章では,キリスト教と自由について採り上げる。自由を考える場合,特に西洋においては倫理との結びつき

(15)

概 要 書       277 が強く,自由主義政治思想においても,政治倫理との強い関連を抜きにしては考えられない。また各国の辿った歴 史の相違から,自由にも各国夫々にニュアンスの差異が生じた。独立を理想とし,個々の民族が出来るだけ議会的 な自治と自由な自決に達するように望む英国的自由,人権に対する意思が強く,フランス革命に象徴されるように,

いざと言う場合腕力にでも訴えるほどの激しさを秘めているフランス的自由,英仏両国に対する文化的後進性から 両国の後塵を拝した面も強い自由思想を持つが,概して自由は権利に存するよりも義務に存し,自由は宗教的義務 感情が世俗化したものと言われるドイツ的自由,等の相違がある。アメリカの自由思想との対比の下に欧州諸国が 求める自由とは何か,並びに「自由」の限界について考察する。第5章では時代的危機の認識と歴史観についてブ ルクハルトの文化的統一体論を採り上げる。人間の歴史の果実たるべき「自由」と「民主主義」とが現代社会の足 棚となっているとして,キリスト教とともにある伝統的進歩史観に貴重な一石を投じたのがブルクハルトである。

「自由」と「民主主義」がもはや人類の抑止できぬほどの過度の文明化をもたらし,人間を進歩よりもむしろ退廃 へと導いているとしている。ブルクハルトの歴史観が彩なす美と偉大さのヨーロッパで,ディスコルデイア・コン

コルス(調和せる不調和,多様性の中のヨーロッパの一体性)に象徴されるとする文化的統一体とは何か,忍び寄 る真の時代の危機の一早い認識の必要性とは何か,を考える。さらに第6章では政治と政治倫理と題してグローバ ル化とグローバル倫理観の問題を総括する。ここではニーバーとキュングとを採り上げる。宗教は社会を変革する

ことは出来ないものの,社会に対して目を開き,その間題をしっかりと受け止め,積極的に関わり合わなければな らず,その「社会的機能」は「一定の理想的視点から現実を批判すること」であり,「汚れなき理想を提示すること」

により,人ネに政治や社会の不正を見分ける「研ぎ澄まされた限」を保持し続けさせることである,というのがニー バー,キュングに共通したところであり,人間は原罪をもってこの世に生を享けており,人間社会における悪の根 源も原罪のなせるものとの解釈の上に成立していると主張する。歴史において人間は不断に自由を求めるが,求め た自由によって人間は不安に陥る。そして,自由のあるところに罪が芽生え,腐敗が生じる。また,ここでグロー バリゼーションの進展に伴う国家共同体における政治倫理のあり方を考察する。もとより政治倫理の醸成はひとり 宗教のみに侯つべきものではない。しかし宗教がその母体として大をなすものであることに鑑み,特に宗教的観点 に絞り論述せんとするものである。第7章では国家と国家理性についてマキアヴェリならびにマイネッケの政治思 想を検証する。近代に至り政治と倫理との対立が鮮明になり,この関係をどう取り扱うかが近代政治に課せられた 課題となった。この課題の先駆者・マキアヴェリとともに近代西洋における国家理性の理念史が幕を開いた。この ため,近代西洋の政治は国家理性の発展史,ないしマキアヴェリズム実行の歴史と言われる。彼は近代西欧におけ る国家理性の理念の始祖と崇められ,その政治思考全体も「国家理性」にしたがった不断の思考であった。マキア ヴェリ学説の本質は,政治の宗教的な道徳や普遍主義からの解放と,自律性の確保にある。マイネッケについては,

併せて彼の西洋文化共同体論を論述する。かつて近代政治の発展の一翼を担った政治理念としての「国家理性」の 分析を通じた,国際的な政治の広域化の有り方に関する考察への一試論である。飽くまで政治倫理的立場からの論 文であり,「国益」の極大化方策や,「国益」擁護の正当化策研究,すなわち「ナショナル・インタレスト」(国益)

の解明ではない。

第三部キリスト教と民主主義の政治思想ではピューリタニズムにおける共同社会の民主主義などを検証し民主主 義の_あカ_方を考察する。_キ具ス_ト教に淵源を有する_補完性原理を基本理念に蔽う_EUで,_形式上建前ばか_りが先行

し補完性原理の原点が忘れ去られているのではないかと思われるからである。第8章で,リンゼイの民主主義論を 検討する。民主主義はキリスト教精神と並び欧州統合の基本構想の二大支柱であるので,民主主義の検証は極めて 重要である。トレルチの影響を強く受けたリンゼイは,特にキリスト教と民主主義との関係を捉えて民主主義論を 展開した。17世紀イングランドのピューリタニズムの民主主義を中心に人間社会のあるべき姿を探る。続く第9章 で半・直接民主主義と少数意見の問題につきツヴイングリの宗教改革を検証する。宗教改革は「エラスムスが卵を 産んでルターがこれを育てた」と言われるようにエラスムスに胚胎した改革思想をルターが膵化したものとされる が,スイスの宗教改革はツヴイングリとブリンガ一によって演じられた。カルヴァンに僅かながら先行し,その改 革はツヴイングリの自伝として取り扱われる。ルター,カルタァンが世界的規模で宗教改革を為したのに対し,ツ ヴイングリは専らスイス中心に強い足跡を残した。スイスの連邦制と半・直接民主主義,並びに多数決原理と少数 意見の採用に言及,民主主義の原点を探る。第10章ではキリスト教とヨーロッパ精神の形成につきトレルチの生命

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