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平成三十(二〇一八)年度 日本東洋美術史の調査 研究報告

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平成三十(二〇一八)年度 日本東洋美術史の調査 研究報告

著者 中谷 伸生, 日本東洋美術調査研究班 , カラヴァエ

ヴァ ユリヤ, 高 絵景, 田邉 咲智, 末吉 佐久子,  西田 周平, 曹 悦, ? 継萱

雑誌名 関西大学博物館紀要

巻 25

ページ 99‑170

発行年 2019‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00018812

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一五三

長春天山の灰釉茶碗について

西  田  周  平

はじめに  前号の拙稿「天山井戸茶碗について」において、陶芸作家長春天山(一九四九

-)が、近年ライフワークとして取り組んでいる天山井戸茶碗に

ついての紹介を行った 。しかし、これまで天山によって制作された数多くの作品が他にも存在することから、彼の作品を十分に紹介しきれていない感がある。そこで本稿では、前号で取り上げた天山井戸茶碗とほぼ同時期に制作を開始した、彼のもう一つの代表作ともいうべき灰 はいゆう釉茶 わん碗と、灰釉花入、灰釉水指(いわゆる灰釉シリーズ)を取り上げ、未公開のものを中心に紹介していきたい。なお、天山のおよそ五十年にもわたる陶歴については、すでに前号の「天山井戸茶碗について」に詳しく記したので、そちらを参照していただきたい。また、特に断りのない限り、作品は個人蔵のものである。

一  灰釉茶碗の誕生について

  我が国における陶磁器の歴史を紐解いたとき、まず無施釉の焼き締め陶器を生産していた期間の、相当な長さに驚かされる。備前、信楽に代 表される六古窯は中世に始まり、今日に至るまで連綿と焼き締め陶器を生産し続けているのである。  釉薬を掛けずに窯に入れたときに、焼き上がった器の表面に緑色のビードロがあらわれることがある。これは、器表に被った灰が焔によって溶け、土と反応することによって得られるのである。窯の中で自然に発生することから、俗に自然釉と呼ばれている。自然釉の登場は、古く須恵器にまでさかのぼることが可能であり、より自然釉がかかりやすいように焚口の近くに置き、あるいは刷毛で釉をあらかじめ塗っておくなどといった探求の積み重ねが、後の灰 かいゆう釉陶器の誕生へとつながったのである。  天山は平成二十五年頃より、灰釉茶碗を制作し始めた。そのきっかけとなったのは、平成二十五年九月に富山美術倶楽部において開催された日本陶磁協会富山後援会主催の茶会の席上で、天山の師であった故林屋晴三氏(一九二八

-二〇一七)とともに、数少ない桃山時代の信楽茶碗

「水の子」と双璧をなす「挽臼」を手に取る機会を得たことである。「挽臼」を前に、林屋氏より桃山の信楽が持つ魅力などについて指導を受けたことが、灰釉茶碗の制作につながったのである。

  灰釉茶碗を制作する上でもっとも重要な事は、土である。「水の子」や「挽臼」のような土の美しい火色は、窯変によってあらわれるものであるが、もちろんすべての土がそうなる訳ではない。たとえ信楽の窯跡から掘り出した土であっても然りである。窯変によって美しい火色が得られる土を探すだけで、数年の月日が経ってしまったという。また、どの木材を薪として用いるかも重要である。そして、窯の中での置き場所にも

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一五四

かなりの工夫が必要である。これらの条件が揃って、はじめて天山が理想とする灰釉茶碗となるのである。

  若い頃より、天山は信楽のような美しい自然釉のかかった焼き締め陶器に興味を持ち、様々に研究を重ねていた。窯変自然釉花入「岩清水」(図一)や、平成二十三年頃に制作した「元源」(図二)は、そうした探究から誕生した物の一つである。美しい火色やビードロがどのようにすれば得られるのか、試行錯誤していた。桃山の信楽茶碗を手に取り、林屋氏が長年にわたって日本中の名碗を手に取って観ることによって得られた研究成果を直接教わることによって、桃山の信楽に迫り、その上天山の灰釉茶碗を生み出すことのできるヒントを得ることができたのである。天山の灰釉茶碗は、人為的に釉薬をかけて焼成したものではなく、無施釉で焼き締めただけのものである。そのため、厳密にいえば、これは灰釉茶碗ではなく、「焼き締めの灰被茶碗」と呼ぶべきものであるが、林屋氏はこれに合格のお墨付きを与えた際に、平成時代に誕生したまったく新しい茶碗であり、信楽とはもはや別格であるということから、新たに「灰釉茶碗」と命名したのである。

二  作品紹介

  筆者は平成二十八年に大阪歴史博物館において行われた「第一回  長春天山灰釉茶碗展」において、幸運にも出品されたすべての作品を手に取る機会を得た。灰釉茶碗の大部分が穏やかな轆轤であり、林屋氏の「思いを込めて、ゆっくり轆轤を引きなさい」という言葉を忠実に守ってい るように思えた。また灰釉は透明感があり、宝石のように眩い輝き放つものもあれば、黄色がかったもの、水色に近い色を呈するもの、何度も窯に入れられたことにより、よく灰を被っているものなど、実に多種多様であった。  天山は平成二十七年五月に、新宿柿伝において、「長春天山陶展」を開催した。柿伝での個展はこれで二回目であったが、この個展のために林屋氏が認めた推薦文中の「過日この展覧会出品作の一部を拝見したところ、灰釉の素直な作行きの茶碗があり、「これでいいのではないか」と独り言をつぶやいていた。」という一文から、灰釉茶碗に対する林屋氏の率直な感想がうかがえる。平成二十八年に刊行した「第一回  長春天山灰釉茶碗展」図録にも、林屋氏は「長春天山の茶碗について」と題した一文を認めているが、その中で「私が例年新宿の柿傳の茶室で催している初釜に昨年から来るようになり、そこで使った光悦作の赤茶碗「大福」を手にして大いに感じることがあったらしく、独特の作振りの手づくねの茶碗に窯変した灰釉をかけた茶碗を昨年の秋に見せてくれた。釉景色と焼き締った土味、それに口造りと高台にも一風ある趣があり、ここまで来てくれたのかと大いに共感を抱いた。彼の窖窯による灰釉は魅力のあるものを生み出す窯であり、これからいい茶碗が生れてくることはたしかだ」と、具体的な感想と今後の制作への期待を述べている。天山によれば、その茶碗は「極寿」(図三)であるという。これは、林屋氏が所蔵していた本阿弥光悦の赤楽茶碗「大福」を手に取ることによって刺激を受けた天山が、その後手づくねで形成したものの一つであるが、なるほどたしかにこれ以上にないといっても過言ではないほどの薄造りであ

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一五五 り、林屋氏のいうように高台と口造りには独特の趣がある。土の火色も緑色のビードロも申し分のないものである。高台回りは灰に埋まったためだろうか、黒く変色している。光悦の世界とはまた違った、極限の境地に至った稀有な茶碗である。  「鹿鳴」

(図四)は、高山市に寄贈された「天運」(図五)や「天謝」(図六)などと同時に完成したものであり、作行はほぼ共通したものである。いずれも高台から口縁部にかけて広がりを見せる、ゆったりとした轆轤である。納得のいくまで何度も窯に入れ、繰り返し灰と焔を浴びたのであろう、土には火色があらわれており、釉もよく溶けて美しい緑色を呈している。

  「鵺」

(図七)は、灰釉茶碗の中でも、特に趣に富んだものである。この茶碗は全体に灰をよく浴びており、黒みがかった灰釉と胡麻のような焦げが随所にあらわれている。轆轤は、碗形に近い素直なものでありながら、胴部には箆で勢いよく削った跡が残っており、天山の灰釉茶碗の中ではもっとも豪快なものである。また内側の見込みに溜まった釉は、天山の灰釉茶碗らしい美しい緑色であるが、口縁付近の灰釉はやはり灰により黒みがかっている。灰釉茶碗にしては珍しい豪快な轆轤と黒みがかった釉、全体に無数の白い長石が器表にあらわれているのが相まって、独特の風格のあるものとなった。

  「鵲」

(図八)は、全体に薄緑色の釉が掛かった、穏やかな茶碗である。しかし、「極寿」のような、限界に達しているのではないかと思われるほどの薄造りであり、そのために得も言われぬ、凜とした緊張感が漂っているように思われる。見込みに溜まった釉は美しいガラス状になってお り、光の加減によっては、宝石のエメラルドのような眩い輝きを放つのである。一方「水鏡」(図九)は、井戸茶碗風の形である。これは、すでに前号でも述べたとおり、天山井戸茶碗を制作し始めた時期と重なっているために、井戸茶碗を引く練習を兼ねて轆轤引きしたものを、そのまま窯に入れたことにより、井戸型の灰釉茶碗となったのである。全体に薄緑色の釉がよくかかっていることは先の「鵲」と共通しているが、こちらは見込みに溜まった釉が、透明感のない水色となっている。  「寿風」

(図十)は、あまり作例のない高麗桶茶碗を写したものである。高麗桶茶碗は、高台の二か所を桶のように切ることからその名が付いたと思われる。高台から口縁部にかけてほぼ一直線に広がりを見せており、至って素直な轆轤である。内にはやや黄色がかったビードロが片身にかかっている。かつては萩などの高麗茶碗の影響を強く受けた窯場でもつくられていたようであり、数は少ないが伝世品が存在している 。天山は、ある個人が所蔵していた高麗桶茶碗を手に取る機会があり、その時一つでも多くこの茶碗の写しをつくって、この世に残したいと思い立ち、今も制作を続けている。天山の高麗桶茶碗の中で、形体、窯変ともに優れているものとして「福乃雲」「永暦」(図十一)が挙げられる。

  灰釉花入「青龍」(図十二)は、竹製の花入としては一般的ともいえる一重切花入を写したものであるが、天山のつくる花入としてはあまり例のないものである。もっとも美濃の荒川豊蔵(一八九四

-一九八五)は

黄瀬戸で竹花入を制作しており、一重切のものもある。荒川の黄瀬戸は裸で焼かれることが多かったため、桃山時代の「難波」のような明るい黄色ではなくくすみがかった黄色であり、また焦げがあらわれるなどし

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ているため、白竹の清々しさや、その中にあらわれる染みや胡麻などとは異なる、独特な世界を醸し出している。特に昭和二十九年(一九五四)に制作された竹花入は、焼成中に正面と反対側が大きく裂けているが、この裂け目は作為のない偶然のものであり、またこの裂け目が生む迫力は、もはや竹によるものとは比べるまでもないだろう。

  さて、この「青龍」は正面に花窓を設け、その下に節を箆削りで表現し、そこに芽を後から付け加えている。透明感のある灰釉が半身にかかっており、瑞々しい青竹を思わせる。土には美しい火色があらわれており、よく焼き締まっている。下部は灰に埋まって燻ぶったために黒く焦げており、一部には艶も見られる。きわめて焼き上がりのよい花入であると思うのだが、惜しむらくは、窓である。背面に向かってもう少し切り込んでいくことによって、強度に問題が出てくるかもしれないが、より緊張感のある花入になったのではないかと思われるのである。

  灰釉花入「鳳老人」(図十三)は、「寿老人」「福老人」「光老人」「天老人」「龍老人」と同時に完成したものである。「青龍」は灰がよく溶けていたのに対し、こちらは被った灰がほとんど溶けずにこびりついている。僅かに右耳の周辺にビードロが認められる。同時に完成した「寿老人」は、灰はよく溶けて美しいビードロとなっていることから、置いた場所のわずかな違いによる差が、これほどまでにあらわれることに驚かされる。縦にも横にも箆を入れているが、特に最後に入れたであろう縦の箆にはよく力が籠っている。桃山とは異なる箆の入れ方であり、灰を多く被り焦げが非常に多いためにより寂びた雰囲気となり、天山の作陶が新たな境地に至ったことを示唆しているのである。   灰釉水指「南風」(図十四)は、林屋氏より南蛮水指を写すように言われて制作したものである。しかし、何度も窯に入れ焼成したために、自然釉の美しい、南蛮水指とはまったく趣の異なるものとなってしまったために、「焼き過ぎである」とお叱りを受けてしまったというエピソードがある。南蛮の水指を写したものとして見ると、いささか装飾が過ぎるきらいがあり、また釉に全体の半分以上が覆われているため、土味を味わうという点においては、少々不足であるかもしれない。しかし、一つの水指として見れば、形体、景色ともに出来栄えの良い、風格のあるものであり、自然釉の流れが大胆で、迫力もある。そうした点では、大いに評価できるものであるといえよう。共蓋の収まりがいささか悪いのが気にはなるが、これは焼成中に歪んでしまったために生じたものと思われる。最後は窯にすべてを委ねねばならないところが、焼き物を造る上でのもっとも辛いところであるといえよう。おわりに  今回は灰釉茶碗と花入、水指合わせて十三点を紹介したが、天山の茶碗はその時々でまったく様子の異なるものになることが、理解できるだろう。灰釉茶碗の制作にとって重要となる三つの条件に加え、酸化焼成や還元焼成など、窯の焚き方にも結果は左右されるため、同じようなものを二度、三度と繰り返し制作することは不可能である。しかし、そのことがかえってバリエーションが豊富になることにもつながったのである。また釉薬をかけずにこれ程のものに仕上げるためには、何度も繰り

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一五七 返し窯に入れて焼き上げる必要があるため、一度に完成する作品の数が少ないのも、仕方のないことである。  灰釉茶碗は、林屋氏が数百年後に名碗として残りうるものとして認めたところに大きな価値があり、林屋氏の亡き今、新たに灰釉茶碗を制作することに何の意味もなく、また目の前には天山井戸茶碗の完成という大きな目標が横たわっていることから、灰釉茶碗がこれより先に制作されることは、二度とないものと思われる。もし再び挑戦するとすれば、これ以上に優れた灰釉茶碗の姿が思い浮かんだ時であろう。

  本紀要の前号に投稿した、拙稿「天山井戸茶碗について」において記した内容に若干の変更点があるので、ここで補足しておきたい。長春天山は岐阜県高山市において作陶活動を行っていたが、現在富山県礪波市に居を移し、制作を続けている。もっとも、穴窯は高山に置いたままであるので、窯を焚くときは轆轤引きした作品とともに高山へ移動するのである。天山井戸茶碗については、京都紫野大徳寺への奉納後、萱振御坊大徳山恵光寺に「晴光」を、比叡山延暦寺に「道心」を、天台真盛宗別格本山西来寺に「龍寶」を立て続けに奉納し、さらに臨済宗相国寺派管長有馬頼底猊下に「彩風」を、また茶道速水流速水宗樂家元にも二碗贈呈したという。また、その後に完成したものの一つに「鶴雲」(図十五)があるが、桃山の青井戸茶碗のような薄い枇杷色、五色の雲、桜の花という従前の条件に加えて、青白い炎のような色という、新たな要素が加わったものとなっており、天山井戸茶碗は以前よりもなお一層味わいが深まっていることを我々に示唆図一  窯変自然釉花入「岩清水」 図  版 している。なお、前号一〇五頁下段七行目の「命じたこと」は、「命じられたこと」の誤りであるので、謝してここに訂正したい。②  河野良輔『萩・出雲』(陶磁大系第十四巻、昭和五十年、平凡社)図版六十八に萩焼の高麗桶茶碗のモノクロ写真が掲載されている。図版出典図一、図二、図四、図七から図十五  筆者撮影。図三、図五、図六

  「第一回

  長春天山灰釉茶碗展」図録より転載。

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一五八

図二  灰釉茶碗「元源」

図三  灰釉茶碗「極寿」 図四  灰釉茶碗「鹿鳴」

図五  灰釉茶碗「天運」岐阜県高山市所蔵

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一五九 図六  灰釉茶碗「天謝」

図七  灰釉茶碗「鵺」図九  灰釉茶碗「水鏡」 図八  灰釉茶碗「鵲」

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一六〇

図十二  灰釉花入「青龍」

図十三  灰釉花入「鳳老人」 図十  灰釉茶碗「寿風」

図十一  窯変高麗桶茶碗「永暦」

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一六一 図十四  灰釉水指「南風」

図十五  天山井戸茶碗「鶴雲」

参照

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平成27年度

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

〔付記〕

「地方債に関する調査研究委員会」報告書の概要(昭和54年度~平成20年度) NO.1 調査研究項目委員長名要

本報告書は、日本財団の 2016

本報告書は、日本財団の 2015

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