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トーマス・マン再読 岡 田 浩 平

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Academic year: 2021

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224      第14回研究発表会の発表要旨

『消去』の語り手も,『惑乱』の領主も,遺産の寄贈というかたちで永遠の連鎖に終止符を 打とうとする。最後の可能性は,閉鎖空間に留まりながら,永遠に反転運動をつづけるこ

と。祖型の永遠の反復は,ちょうど壁に掛かって子孫を時睨する肖像画の位置を動かしつ づけるうちに,父の肖像画と母の肖像画が入れ替わるように,記憶は錯綜し,伝統の重荷

から逃れることもできるのではあるまいか。

トーマス・マン再読

岡 田 浩 平

クラウス・バーブレヒトの大著『ThomasMann−EineBiographie』の翻訳作業の過程 で,久 ̄しぶりにマンの著作を読み返す。新 ̄しい発見がいろいろあるが,ここでは大戦後 ̄

トーマス・マンが初めてドイツを訪問する経緯に触れてみたいと思う。

(1)この亡命作家の戦後最初のヨーロッパ訪問は,1947年5月のこと。チューリヒでの

「国際ペンクラブ大会」に出席のためであった。しかしこの100日余りのヨーロッパ滞在期 間中にマンはドイツの地に足を踏み入れようとしなかった。

亡命中のトーマス・マンと国内に留まった作家たちとの間で敗戦直後に始まった論争は,

相互不信と怨念に満ち,感情的にひどくこじれた雰囲気をつくりだしていた。そこに「非 ナチ化裁判」での指揮者フルトヴェングラーの発言。ナチス時代を自分(トーマス)とは 正反対の生き方をした大物芸術家が,その行動を堂々と弁明しドイツ国内で広く共感と喝 采をもって遇されている,という。マンにとって大いに腹をたて苛立ちを募らせる情報に 違いなかった。彼は日記に「Purchhvangler」と書き込む。苛立ちと嘲笑のほどを窺わせる 表記であった。訪問要請がしきりに来ていたにもかかわらず,ドイツ訪問は「時期尚早」

と判断せざるをえなかった。

(2)亡命後初めてのドイツ訪問は,1949年7月のこと。ゲーテ生誕200年記念行事への 招待に応じる形のものであった。7月23日,バーゼルから列車でフランクフルトに向かう。

出発日が近づくとトーマスはしきりに鼻血をだすようになる。医者の診断では神経の緊張

疲労が原 ̄因どのこと㌃ ̄出 ̄発当廿も ̄日 ̄記てこみ ̄じか ̄く ̄「ま ̄るで戦地に赴 ̄ぐまう ̄な ̄気持ち丁 ̄七書

く。現地ではホテルでも市中でも常に四人の警官がトーマスの身辺警護に当たるような有 り様。パウルス教会での記念講演を会場の外でスピーカーを通して聴いていた聴衆から帰 り際に「また来て下さい!」との勇気づけの言葉を投げかけられてはっとする。翌日には ミュンヘン。25年振りにみる町並みのすっかり破壊された光景を,トーマス夫妻は静かに そっと涙ぐみながら言葉もなく見つめていた,という。翌30日ニュルンベルクを通りバイ ロイトに向かう。バイロイトではホテルのオーナーが来客記念帳を出して,トーマスにも 記帳を求める。記念帳をめくると,ワーグナーの祝祭劇の折に投宿した第三帝国のお歴々

の名前がずらりと並んでいた。トーマスの顔に一瞬怒りの表情が浮かぶが,その怒りを抑

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第14回研究発表会の発表要旨      225

えて,白紙のページを数枚飛ばして自分の名前を書くことでどうにかその場を凌いだ,と いう。

7月31日にはヴァイマル。東西冷戦の激化,「ベルリン封鎖」解除直後に当たっていた し,東西ドイツがそれぞれに国を造ろうとしていた時点での訪問であった。トーマス・マ ンは,「真の故郷は占領地区にも左右されない自由なドイツ語だとの思いでいる不偏不党 の物書きが,今日ドイツの一体性を保証し代表してやらなかったとしたら,誰にそれがや れるというのか」と繰り返し主張して,ヴァイマル訪問をあえて実行したのであった。

トーマス・マンのヴァイマル訪問を東側ドイツは,国をあげて歓迎する。と同時に誕生 日前の新生国家の承認のさきがけとして利用する。他方西側ドイツの人びとは,公開書簡 などを通してトーマスのヴァイマル訪問に異義と批判を展開する。こうして16年振りに

ようやく実現したドイツ訪問も,トーマス・マンと生まれ故郷との相互不信やルサンチマ ンをまたもや増幅させるものとなってしまった。

Spitzenstticke.WeiblichesErzahleninRilkes

川′・恒シ/・有′′′′′ご川′信11′′/!′/ノ′′作品!叛甘

ChristineIⅥlNOVI(〕

GuteProsa ,SObehauptetRilkeinseinem\わrtragModerneLyrik(1898) istnicht unbewuL3tes Gestehen,SOndern bewuL3thartes Ringen mit Stofrund Fbrm,ernSte Mannerarbeit・HDasErsetzenderOppositionLyrik−Prosa,dieum1900insWanken

geratenwar;durchdieOpposition unbewuBtesGestehen − harteArbeit ,bertlhrt

ZWar nur an der klischeehaften Oberflache eine ganglge geSChlechtliche Zuschreibung・Diegender−FhgewandeltsichaberimV邑rlaufderArbeitamA4dtezu einem konstitutiven Modell・Die Spannung zwischen dem weiblichem und dem mannlichen Pol bestimmt,das sollim Beitrag gezeigt werden,mqAgeblich Rilkes

Prosabuch−・−Sind−in一一dieses−−Buchjahkeiche」ミeilexionen−auf−dieJM6ghchkeiten一一und

Grenzen,guter Prosa elngelassen,SOlaL3t sich dabei die schonlange zuvor

entwickelte Verbindung von deren Problematisierung mit der gender−Perspektive

nahezu durchgangigbeobachten・Es zelgtSich,daL3,inscheinbarem Gegensatz zu Rilkes fhiherem Diktum,MaltesAqfteichnu7genletztendlich einemiiber Weibliches bestimmten Paradigma gehorchen,dasim Verlauf des eredhlten Geschehens

ZunehmendalsderenPrafigurationentdecktwird・GegenEndederAuf云eichnungen

Wird Malte/Rilke gerade dem Begrifrder Arbeit den der Liebe zuordnen,und

beide,ArbeitwieLiebe,beidenn・aueneherauf云ptirenalsbeidenMannern・

参照

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