早稲田大学教育学部 学術研究︵国語・国文学編︶第五十六号 二〇〇八年二月
﹃大東世語﹄ ﹁識璧﹂ 篇注釈稿
︹ 凡
例 ︺
一︑本稿は︑服部南郭﹃大東世語﹄﹁識萱﹂篇の本文と原注に関する
注釈
であ
る︒
注釈は︑早稲田大学教育学部国語国文学科二〇〇七年度科目﹁特
殊演習0組﹂︵堀誠担当︶ の受講生 ︵前鳥卓・上原菜摘子・青木
悠・大関晶子・浅川有理・松本豊︶ がそれぞれ講読担当話の発表
資料に基づいて原稿化した︒
一︑底本は︑早稲田大学図書館蔵本﹃大東世語﹄ ︵寛延三年八一七五
〇︶刊︶ に依り︑また典拠に関しては同館蔵本﹃大東世語考﹄
︵方寸奄漆鍋稿︑寛延四年八一七五一︶序︶を参考にした︒
一︑﹁識聾﹂篇の都合十六話を︑︹識萱1︺ のように順次表記した︒
一︑注釈は本文の ︹書き下し文︺・︹訳文︺︑原注の ︹書き下し文︺・
︹訳
文︺
︑お
よび
︹
語釈
︺︑
︹典
拠︺
か
ら構
成さ
れる
︒
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
二 ︹書き下し文︺ は︑原則として底本の訓点を尊重しっつ︑適宜こ れを 改め た︒
︹識
窒1
︺
文徳帝︒聞二紀夏井名一召−見①︒夏井衣−履畢弊︒左右威囁レ之︒上目︒
是疲
−駿 也︒ 非二 汝等 所一 レ知
︒逐 有二 殊寵 一︒
︹書
き下
し文
︺
みな文徳帝︑紀夏井が名を聞きて召見す︒夏井の衣履 虚弊なり︒左右威
之れを囁ふ︒上目はく︑﹁走れ疲駿なり︒汝等の知る所に非ず﹂と︒
速に
殊寵
有り
︒
︹訳
文︺
文徳天皇は︑紀夏井の名声を聞き及んで召し出した︒夏井が着ている
衣服も履物も粗末でいたんでいた︒左右の廷臣たちは皆これを笑った︒
すると︑帝は言った︑﹁疲れた駿馬である︒お前達には分かるまい﹂
l
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
と︒かくして︑夏井はとりわけ寵過された︒
︹原
注︺
①夏井︒美濃守紀善等之子也︒身膿雄偉︒眉目清朗︒鳥人温雅︒又
有二才恩一︒撃重野笠一︒既而野歎日︒紀三郎可レ謂二眞撃︒又従二伴
勝雄一習二囲碁一︒工巳過レ師︒文徳帝輿二宮人一戯二歳鈎一︒令二夏井
射手之︒夏井日︒小女青衣而撃一白花一者左手中有レ之︒帝乃得レ之大
喜︒又精二腎撃︒後在二土州一︒山澤所レ在︒采レ薬救レ民︒人多得二効
験 一 ︒
︹書
き下
し分
︺
①夏井︑美濃の守紀善等の子なり︒身髄雄偉︑眉目清朗にして︑人
と鳥り温雅なり︒又た才思有り︒書を野笠に撃ぶ︒既にして野 歎
じて日はく︑﹁紀三郎は眞聖と謂ふべし﹂と︒又た伴勝雄に従ひ園
た く み
某を習ふ︒工なること巳に師を過ぐ︒文徳帝 宮人と蔵鈎を戯る︒
夏井をして之れを射らしむ︒夏井日はく︑﹁小女の育衣にして白花
かぎを響す者の左手の中に之れ有り﹂と︒帝乃ち之れを得て大いに喜ぶ︒
ノヽは又た常襲に精し︒後に土州に在り︒山澤の在る所︑薬を采り民を救
ふ︒人多く放験を得たり︒
︹訳
文︺
からだつき
①夏井は︑美濃の守の紀書写の子だった︒身付は立派で威厳に満
ち︑眉目清朗で︑性格は温厚典雅だった︒又︑才能もあった︒小野
豊に書を学んだ︒小野笠が感心して言った︑﹁紀三郎は本物の聖人
といえる﹂と︒又︑伴勝雄について囲碁を習った︒実力はすでに師 二
を超えていた︒文徳帝は官吏たちと蔵鈎の遊びをなさった︒夏井に
これをあてさせた︒夏井は言った︑﹁青い衣を着た小女で︑白花を
管にしている者の左手の中にあります﹂と︒帝はそれを聞いて大い
に喜んだ︒又︑医薬に詳しかった︒後に土佐に流され︑山沢の到る
所で薬を採集し︑民衆を救った︒多くの効き目があった︒
︹ 語 釈 ︺
文徳帝 文徳天皇︒八二七〜八五八︒第五十五代︒仁明天皇の第一皇
子︒母は太皇大后藤原順子︒嘉祥三年︵八五〇︶即位︒性格は
温恭︑政治に心を費やした︒しかし体質が弱く︑政治は多く藤
原良房によってなされた︒
紀夏井 善琴の子︒書を小野量に学び︑特に隷書に秀でていた︒性格
は温厚で︑囲碁も巧く︑医術芯も通じていた︒文徳天皇の特別
の寵愛を受け︑天皇の崩御の後には︑讃岐国の国司となった︒
農業に力を入れて収穫量が増し︑任期満了の際には農民達から
慰留され︑更に数年間在任した︒貞観七年︵八六五︶には肥後
の国司となり人々から信頼を得るが︑応天門の変に連座し︑土
佐国
に流
され
た︒
紀善琴 生没年未詳︒紀夏井の父︒芙濃の守︒
野董 小野笠︒八〇二〜八五二︒文学者︒参議等守の子︒承和三年
︵八三六︶通庸副使となったが︑大使藤原常嗣の専横に憤り病
と称して命を奉ぜず︑隠岐に流された︒一一年にして召還され︑
刑部大輔︑蔵人頭を経て参議となった︒﹃令義解﹄の編纂に参
与︒和歌にすぐれ︑書をよくした︒
伴勝雄 大伴勝雄︒七七五〜八三一︒弟麻呂の子︒陸奥守兼按察使を
務め
た︒
戒鈎 中国から伝わった遊戯の一つ︒二組に分かれ︑一方の組の者が
握りこぶLを出し︑その中の一人が物を握っ1ているのを︑他の
姐の者が言い当てる︒
土州 国名︒土佐︒
︹典
拠︺
﹃日本三代賓録﹄巻十三︒貞観八年九月廿二日︒︵前鳥 卓︶
︹識 墓2
︺
ママ
︵賂
︶
藤太秀郷①︒翠魂族l在レ東︒圃l平将門興一②︒初欲レ輿レ之︒詣見︒
将門方杭レ髪︒遽喜出週︒髪不レ逗レ理︒衣不レ及レ更︒藤太心巳小豆ハ躁
無㌃量︒既而僕至封−食︒将門下レ箸︒飯迷落汚レ袴︒轍看自彿−拭︒藤
罷謂
レ人
目︒
将門
小里
子耳
︒安
足三
輿囲
二大
事一
︒逐
反伐
滅レ
之︒
︹書
き下
し文
︺
お
こ
く
み
藤太秀卿︑強族を衆めて東に在り︒平将門興ると聞き︑初め之れに輿
い
た
ま
さ
に
は
か
せんと欲し︑誇り見る︒将門方に髪を杭る︒遽に喜びて出でて迎ふ︒
お
さ
い
と
ま
カ
髪理むるに達あらず︑衣更ふるに及ばず︒藤太の心巳に其の躁にし
て量無きを小なりとす︒既にして僕至りて封食す︒︑将門 箸を下すと
ほ
と
ば
し
ま
か
き︑飯送り落ちて袴を汚す︒鞭ち看て自ら彿拭す︒藤罷りて人に謂
せ う じ ゆ し い づ と も
ひて日はく︑﹁将門は小里子のみ︒安くんぞ輿に大事を囲るに足らん
﹃大
東世
語﹄
﹁識
堂﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
かへや﹂と︒連に反り伐ちて之れを滅す︒
︹訳
文︺
藤太秀郷は︑強力な豪族を集めて東国にいた︒平将門が立ち上がった
と聞いて︑初めはこれに与したいと思い︑会いに行った︒将門はちょ
うど髪を椀っていたが︑にわかに喜んで秀郷を出迎えた︒髪を整える
ひまもなく︑衣は変えていなかった︒藤太は心の中で︑将門が落ち着
かず度量がないのを卑しんだ︒やがてごちそうが運ばれてきて向かい
合って食事をした︒将門が箸を下したとき︑飯がこぼれ落ちて袴を汚
した︒そのたびごとに将門はそれを見て自分自身で払いぬぐった︒秀
郷は追出して人にこう言った︑﹁将門はただの青二才だ︒どうしてと
もに重大なはかりごとをするのに十分な人物であろうか﹂と︒結局帰
るとこれを攻め滅ぼした︒
︹原
注︺
①左大臣藤魚名之裔︒河内守村雄之子︒爵二武蔵守一︒唱レ義討二平将
門一
︒遽
克斬
レ之
︒以
レ功
受二
賞下
野州
一︒
因稀
二田
原一
︒
②将門︒鎮守府将軍平良格之子︒承平中︒接二線州相馬城一反︒自立
ママ
稀レ 王︒ 置二 設百 官一
︒威 震二 関東 l︒ l藤 秀卿 輿二 平貞 盛一 哉レ カ攻 レ之
︒ 斬l 砲門 一︒ 博二 首京 師一
︒輿 レ薫 皆平 っ
︹書
き下
し文
︺
えい①左大臣藤魚名の裔︑河内守村雄の子なり︒武蔵守と為る︒義を唱
よへて平将門を討つ︒蓬に克く之れを斬る︒功を以って下野州を受賞
す︒
m囚
りて
田原
と科
す︒
三
﹃大 東世 語﹄
﹁識 堂﹂ 篇注 釈稿
︵堀
︶
よ②将門は︑鎮守府将軍平良将の子なり︒承平中︑.線州相馬城に嬢り
そむて反く︒自ら立ちて王と栴し︑百官を置き設く︒威は関東に震るふ︒
あほ藤秀卿と平貞盛は力を載せて之れを攻む︒将門を斬りて︑首を京師
に侍ふ︒集と皆平ぐ︒
︹ 訳
文 ︺
①左大臣藤原魚名の末裔︒河内守村雄の子︒武蔵の守となった︒正
義を唱えて平将門を討ち︑ついに将門を斬り倒した︒この功績で下
野の国を恩賞として受け︑田原を称した︒
②将門は︑鎮守府将軍 平良将の子である︒承平年間に︑総州相馬
城を拠点として反乱を起こした︒自ら立って王と自称し︑もろもろ
の役官を設置した︒その勢いは関東を脅かした︒藤原秀郷と平貞盛
は力を合わせてこれを攻めた︒将門を斬って首を都に送り︑その一
党を
皆平
定し
た︒
︹ 語
釈 ︺
藤太秀郷 藤原秀郷︒﹁卿﹂の字は﹁郷﹂の誤刻︒生没年未詳︒平安
中期の鎮守府将軍︒下野押領使として平将門の乱を鎮圧︑その
功によって下野守となった︒東国武士の小山・結城・下河辺氏
の祖︒別名は田原藤太︒幼い頃京都の近郊の田原の地に居住し
ていたことから﹁田原︵俵︶藤太﹂と呼ばれたという説もある︒
藤魚名 藤原魚名︒七二一〜七八三︒奈良時代の貴族︒北家藤原房前
の五
男︒
親族 強力な豪族︒ 四
平将門 ?〜九四〇︒平安中期の武将︒父は艮持とも良将とも︒承平
五年 ︵九三五︶ 所領争いなどから叔父国香を殺し︑天慶二年
し ん の う
︵九三九︶ 別館を下総猿島に建てて文武百官を置き︑自ら新皇
と称し関東に威を振るったが︑平貞盛・藤原秀郷に討たれた︒
平将門興 ここでは︑天慶二年︵九三九︶平将門が関東に兵を挙げた
ことをいう︒平将門の乱︒同時期の藤原純友の乱とともに承平・
天慶
の乱
とい
う︒
鎮守府将軍 古代︑蝦夷地経営のために陸奥国に置かれた軍政府の長
官︒平安中期以降︑武門の最高栄誉職とされた︒
平良格 ?〜九一八︒平安中期の武将︒﹁艮持﹂とする記録もある︒
桓武平家の祖︑高望王の子︒兄は国香︑艮兼︒子は将門︑将頼︑
将平︒下総国を本拠地とし︑武家平家の実質的な祖とされる︒
鎮守
府将
軍︒
相馬 福島県北東部の市︒もと相馬氏の城下町︒
城 要 塞
︒ と り で
︒
百官 もろもろの役人︒
平貞盛 生没年未詳︒平安中期の武将︒国香の子︒父が平将門に殺さ
れ︑天慶三年︵九四〇︶藤原秀郷の協力を得て将門を討った︒
京師 天子の住む都︒﹁京﹂は大︑﹁師﹂は衆の意で︑多くの人のいる
所の
意︒
薫 悪 い な か ま
︒ 一 味
︒ 理 おさめる︒ととのえる︒つくろう︒
達 ひま︒ここでは︑﹁いとまあり﹂と訓じて動詞︒
遽 に は か に
︒ 急 に
︒ 躁 お ち つ き が な い
︒ 量 度 量
︒ 器 量
︒ 能 力
︒ 人 物
︒ 俵 供え物︒供えた飲食物︒ごちそう︒
封食 向かい合って食事をする︒
小竪子 青二才︒人を見下したり卑しめたりするときの言葉︒
圃 は か り ご と を す る
︒ 伐 敵 を 討 つ
︒ 悪 者 を 攻 め る
︒
︹典
拠︺
﹃ 吾 妻 鏡
﹄
﹁ 治 承 四 年 九 月 十 九 日
﹂
︒
︵ 上 原 菜 摘 子
︶
︹識
豊3
︺
平将門在レ京︒候二吏部王①第一蹄︒平貞盛②後至︒遇レ門︒一晒而過︒
既而
謂レ
王日
︒屠
不レ
具レ
兵︒
不レ
克レ
殺二
里子
一︒
恨鳥
二国
家一
連レ
患爾
︒後
将門
果作
レ逆
︒
︹書
き下
し文
︺ 平将門 京に在るとき︑吏部王の第に候して締る︒平貞盛 後に至り
たまて︑門に遇ふ︒一晒して過ぐ︒既にして王に謂ひて日く︑﹁属たま兵
よ
く
う
ら
む
ら
の
こ
を具せず︒里子を殺すことを克せず︒恨くは国家の鳥に患ひを遺す
なのみ﹂と︒後に将門果たして逆を作す︒
︹
訳
文
︺
−
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
平将門が京にいたとき︑吏部王の邸に伺候して帰った︒平貞盛がその
後からやって来て︑門で出遇った︒一目見て通り過ぎた︒その後で王
に言うことには︑﹁折悪しく兵を連れていませんでしたので︑あやつ
を殺害することが出来ませんでした︒残念ながら国家の為に厄介を残
すことになりました﹂と︒後に将門は果たして反乱を起こした︒
︹原
注︺
①教案︒宇多帝之子︒一品式部卿︒
②鎮守府将軍図番之子︒将門従兄也︒
︹書
き下
し文
︺
①教案なり︒宇多帝の子︑一品式部卿なり︒
②鎮守府将軍囲香の子なり︒将門の従兄なり︒
︹訳
文︺
①敦実のことである︒宇多帝の子で︑一品式部卿となった︒
②鎮守府将軍国香の子で︑将門の従兄である︒
︹語
釈︺
平将門 ︹識萱2︺ ︹語釈︺ ﹁平将門﹂参照︒
吏部王 式部卿の唐名︒ここでは重明親王を指す︒
平貞盛 ︹識萱2︺ ︹語釈︺ ﹁平貞盛﹂参照︒
晒 横目で見る︒流し目で見る︒
屠 た ま た ま
︒
さ だ み
宇多帝 宇多天皇︒第五十九代天皇︒l光孝天皇の皇子︒名は定省︒親
政を行おうとしたが︑関白藤原基経に阻まれた︒基経の死後は
五
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
菅原道真を起用して摂関政治の弊害を改めるのに努めた︒後に
出家して寛平法皇・亭子院と称した︒
平固香 ?〜九三五︒平安中期の武将︒高望王の子︒常陸大稼鎮守府
将軍に任ぜられ︑東国に土着︒甥の将門と争い︑殺された︒
︹典
拠︺
﹃今昔物語集﹄巻第二十五﹁平将門発謀叛被誅語第こ︒︵青木 悠︶
︹識
萱4
︺
天暦帝︒令下江朝綱①菅文時各揮二日集塵巻詩一首一︒別封−上㌔帝啓レ
之︒則同采下達三斎庭土遊二翳南l之作㌔帝歎日︒卿等萱識︒何乃符−合
②︒︹
書き
下し
文︺
おの天暦帝︑江朝綱・菅文時をして各おの白集の墜巻の詩一首を揮びて︑
別に封上せしむ︒帝 之れを啓けば︑則ち同じく﹁粛庭土の翳南に遊
ぶを送る﹂の作を采る︒帝歎じて日く︑﹁卿等の撃識︑何ぞ乃ち符合
せる
﹂と
︒
︹訳
文︺
天暦帝は︑大江朝綱と菅原文時にそれぞれ自氏文集の中で圧巻と思わ
れる詩を一首選ばせ︑別々に封をして献上させた︒帝が開いてみると︑
二人とも﹁責盛土が翳南に遊ぶを送る﹂という詩を選んでいた︒帝は
感嘆して言った︑﹁あなた方の物を見る目は︑どうして符合したのか﹂
と︒ 六
︹原
注︺
①江相公音人之孫︒少納言玉淵之子︒能登守︒
②江
毎語
レ入
日︒
後乗
必以
二吾
輿一
レ菅
鵠二
一堂
一︒
︹書
き下
し文
︺
①江相公音人の孫︑少納言玉淵の子なり︒能登守なり︒
つね②江 毎に人に語りて日く︑﹁後来必ず吾と菅とを以て一隻と鳥さ
ん﹂
と︒
︹ 訳
文 ︺
①江相公音人の孫で︑少納言玉淵の子である︒能登守である︒
②大江朝綱は常々人に語って言った︑﹁将来はきっと私と菅原文時
とを︑一対の者とみなすだろう﹂と︒
︹ 語
釈 ︺
天暦帝 村上天皇︒九二六〜九六七︒H醍醐天皇の十四皇子︒母は藤原
基経の娘中宮穏子︒後世︑天暦の治と称される︒
江朝綱 大江朝綱︒八八六〜九五七︒H平安中期の漠詩人︑学者︒中国
古典に精通し︑村上天皇の勅命により﹃新国史﹄を撰進した︒
民部卿︑文章博士︑左大弁を歴任︑参議に至る︒祖父音人の江
相公に対して︑後江相公と呼ばれる︒︹言語23︺ ︹語釈︺ ﹁朝綱﹂
参照
︒
音人 大江音人︒八二〜八七七︒平安前期の文人学儒︒江家の始祖︒
︹徳
行5
︺
︹語
釈︺
﹁
江音
人﹂
参照
︒
玉淵 大江玉淵︒
菅文時 菅原文時︒八九九〜九八一︒平安中期の儒者︒道真の孫で︑
高視の子︒実学である文章道に名を挙げ︑源為憲や大江匡衡ら
の文人もその添削を請うた︒︹言語23︺ ︹語釈︺﹁文時﹂参照︒
自集 ﹃自氏文集﹄を指す︒
送藷盛土遊県南 自居易の七言律詩の詩題︒詩句は以下の通り︒
能文好飲老粛郎
身似浮雲馨似霜
生計抽来詩是業
家園忘却酒馬郷
江従巴峡初成字
猿過巫陽始断腸
不酔新中寧去得
磨園山月正蒼蒼
︹典
拠︺
﹃古今著聞集﹄巻四 文を能くし飲を好む老茄郎︒身は浮雲に似て 髪は霜に似たり︒
なげう
生計 拗ち来りて詩は走れ業︒
家園 忘却して酒を郷と為す︒
は き や う
江は巴峡より初めて字を成し︑
ふ や う
猿は巫陽を過ぎて始めて腸を断つ︒
いかで酔はずんば新中に学か去り得ん︒
ま い さ ん げ つ
磨園山月 正に蒼蒼︒
文学﹁天暦の御時︑大江朝綱・菅原文時に白氏
文集第一の詩をえらばしめ給ふ事﹂︒︵大関 晶子︶
︹識
塁5
︺
栗田公在衡①︒才筆不二必虞博一︒而前−識過レ人︒毎レ有二帝問一︑應封
明−
詳︒
薮コ
接典
−故
一︒
末二
嘗有
一レ
窮︒
毎二
朝−
上一
︒車
中行
且披
二党
一書
一︒
及三人承二顧問一︒必其書事也︒又格−勤見レ構︒一日風雨甚︒衛士相謂︒
設是在衝︒恐不レ可レ参︒言未レ華︒雨−衣珍−澄︒衝占目乃至︒
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
︹書
き下
し文
︺ 栗田公在衛︑才筆は必ずしも康博ならず︒而して前識 人に過ぐ︒帝
か く き よ
問有る毎に︑應封明詳なり︒典故を要接し︑未だ嘗て窮すること有ら
ゆくず︒朝上する毎に︑車中行ゆく且つ一.書を披覚す︒入りて顧問を承る
に及びて︑必ず其の書の事なり︒又情動科せらる︒一日風雨甚だし︒
.も衛士相謂はく︑﹁設し是れ在衛も︑恐くは参ずべからず﹂と︒言末だ
畢らざるに︑雨衣疹渡して︑衝冒して乃ち至る︒
︹訳
文︺
粟田公在衡は必ずしも幅広い知識を持っていたわけではなかったが︑
有職故実は人より優れていた︒帝が何か尋ねるたびに的確な返答をし
た︒過去の典故を調べて確認し︑答えに窮することはなかった︒朝宮
中に参内するときに︑車中である書物を開いてみる︒宮中に入って帝
から尋ねられることは︑必ず来るときに見てきた書物にある事柄だっ
た︒ま七︵粟田殿は︶律儀な仕事ぶりを讃えられていた︒ある日︑雨
風が激しい日があった︒衛士たちは互いに︑﹁東田殿であったとして
も︑来ることはできないだろう﹂と讃した︒そう言い終わらぬうちに︑
雨よけの着物をびしょぬれにして︑悪天候をついてお見えになった︒
︹原
注︺
①中納言藤山蔭之孫︒但馬守有頼之子︒字藤文︒以レ撃累進︒仕二天
慶時
一︒
及二
園融
帝一
︒至
二左
大臣
l︒
裏年
七十
九︒
親日
二粟
田一
︒
︹書
き下
し文
︺
①中納言藤山蔭の孫︑但馬守有頼の子なり︒字は藤文なり︒撃を以
七
﹃大
東世
語﹄
﹁識
窒﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
て累進す︒天慶の時に仕ふ︒園融帝に及んで︑左大臣に至る︒尭年
七十九︒祝して﹁栗田﹂と日ふ︒
︹訳
文︺
①中納言藤原山蔭の孫︑但馬守有頼の子である︒字は藤文︒学問に
よって昇進を重ねる︒天産年間に仕え︑円融帝の時に左大臣に昇進
した︒享年七十九歳︒栗田と号した︒
︹語
釈︺
栗田公 藤原在衛︒八九二〜九七〇︒天慶四年︵九四一︶参議となり︑
安和二年︵九六九︶︑安和の変によって右大臣となる︒天禄元
年︵九七〇︶左大臣となる︒栗田左大臣︑あるいは万里小路大
臣とも呼ばれた︒
藤山蔭 藤原山蔭︒八二四〜八八八︒清和天皇の側近︒従三位中納言︑
民部
卿に
至る
︒
有頼 藤原有頼︒従五位下但馬守︒
前識 有職故実︒
広博 学問の知識などがひろいこと︒
薮接 しらべ︑たしかめる︒﹁薮﹂は︑調べる︒﹁接﹂は︑よりどころ
に
す
る
︒
一
披覧 ひらいてみること︒
顧問 問う︒相談する︒元は天子が臣下を顧みて意見を問うこと︒
情動 つつしみ勤める︒
設 も し
︒ 仮 定
︒
l\ノ
雨衣 雨よけの着物︒
蓼澄 漏れ滴ること︒
衝冒 つきおかすこと︒
︹典
拠︺
﹃古事談﹄巻六−三十三話﹁在衛︑精励ノ事﹂︵第四二一話︶︒
﹃ 十 訓 抄
﹄ 第 六
− 二 十 八 話
︒
︵ 浅 川 有 理
︶
︹識
萱6
︺
丹後
大守
藤保
昌遵
レ任
︒輿
−佐
山中
︒遇
下白
髪武
人乗
ll
匹馬
一者
㌔状
頗聾
−
轢︒
見二
大守
来一
︒引
避二
樹後
一︒
傾レ
笠駐
−立
︒導
騎尤
二其
不一
レ下
︒乃
欲レ
詞レ
之︒
保昌
止レ
之日
︒第
往︒
此翁
非レ
凡︒
其駐
レ馬
之形
︒甚
有二
着格
風一
︒
既過︒復遇下故衛尉平致経︒多率二従属一行上︒致経乃迎揖︒且問日︒先
有二一華嘗レ過︒田舎翁︒寧復無レ失二値l 於大軍邪︒是僕父耳︒乃別︒
保昌顧二従者一日︒向翁印平致頼也︒汝曹殆且失誤①︒
︹書
き下
し文
︺
ひ つ ば
丹後大守藤保昌 任に還る︒輿佐の山中︑白髪の武人の匹馬に乗る者
か く し や く
に遇ふ︒状頗る聾轢たり︒大守の来るを見︑引きて樹後に避け︑笠
お
.
と
が
を傾けて駐立す︒導騎其の下りざるを尤めて︑乃ち之れを討せんと欲
ただす︒保昌 之れを止めて日はく︑﹁第往け︒此の翁凡に非ず︒其の馬
と
ど
も
と
を駐むるの形︑甚だ蓉格の風有り﹂と︒既に過ぐ︒復た故の衛尉平致
経の︑多く従属を率ゐて行くに遇ふ︒一致経乃ち迎へ揖し︑且つ問ひて
日はく︑﹁先に一老有り常に過ぐべし︒田舎の翁︑寧ろ復た樽を大守
に失すること無からんや︒走れ僕が父のみ﹂と︒乃ち別る︒保呂 従
さ・き者を顧みて日はく︑﹁向の翁は即ち平致頼なり︒汝が曹殆んど且つ失
誤せ
ん﹂
と︒
︹訳
文︺
丹後太守藤原保昌は任国に帰った︒与佐の山中で︑l・白髪の武人で馬に
乗る者に会った︒姿は非常に元気できびきびとしていた︒大守が来る
のを見て︑馬を導いて木の後ろに避け︑笠を斜めに傾けてそこにとど
まってい.た︒先導する騎馬武者は︑その武人が馬から下りないのをと
がめて︑叱咤しようとした︒保昌は押し止めて言った︒﹁そのまま進
め︒この翁はただ者ではない︑その馬をとめている姿には武将であっ
た風格がある﹂と︒こうして通り過ぎると︑元の左衛門尉である平致
経が多数の軍兵を率いて行くのに出会った︒致経は迎えて挨拶し︑あ
わせて尋ねて言った︑﹁私の前に一人の老人を通り過ごしてきたはず
です︒田舎者の翁ですが︑大守様に無礼を致しませんでしたでしょう
か︒その者こそ私の父であります﹂と︒かく挨拶して致経は別れた︒
保呂は従者達の方を振り返って言った︑﹁先程の翁はまさしく平致頼
殿であった︒お前達はもう少しで無礼をはたらくところであった﹂と︒
︹原
注︺
①源頼信︒藤保昌︒平維衛︒平致頼︒世稀二四雄一︒皆教著二武功一︒
︹書
き下
し文
︺
しば①源頼信︑藤保日日︑平維衛︑平致頼︑世に四雄と科す︒皆教しぼ武
功を
著す
︒
﹃大
東世
語﹄
﹁識
塁﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
︹ 訳
文 ︺
①源頼信︑藤原保昌︑平維衝︑平致頼は︑世に四雄と称えられる︒
皆た
びた
び戦
いで
手柄
をあ
げて
い
lる
︒
︹ 語
釈 ︺
丹後 地名︒旧国名︒今の京都府の北部︒
藤保昌 藤原保昌︒九五八〜一〇三六︒父は藤原致忠︒母は元明親王
の娘︒弟に盗賊として名高い藤原保輔がいる︒藤原商家に属し︑
女流歌人の和泉式部の夫︒丹後守・摂津守・山城守・肥前守・
日向守を歴任した︒また藤原道長・頼通父子の家司も務めてい
る︒武勇に秀で︑﹃今昔物語集﹄の盗賊﹁袴垂﹂︵保輔と同一人
物と言われる︶ との説話でも有名である︒︹雅量4︺ ︹語釈︺
﹁藤
保昌
﹂参
照︒
平致脛 生没年不詳︒平致頬の子︒大箭左衛門尉と称された武勇の士︒
歌にすぐれ︑詞花和歌集に一首みえる︒名は致恒とも書く︒
平致頼 ?〜一〇一一︒平公雅の子︒伊勢の所領をめぐり︑同族の維
衝と争うが隠岐に流される︒通称は平五大夫︒
登轢 老人がきびきびと元気に振る舞うさま︒
導騎 先導する騎馬︒
失誤 あやまちをおかす︒
四雄 藤原道長に仕えた﹁道長四天王﹂藤原保昌・源頼信・平維衡・
平致頼︒﹃十訓抄﹄には優れた武士として︑﹁この四人がもし互
いに相争うのならば必ず命を失うはずだ﹂と書かれている︒
九
﹃大
東世
語﹄
﹁識
堂﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶ 源頼信 九六八〜一〇四八︒源満仲の三男︒源頼光や源頼親の弟︒武
人としての逸話が今昔物語集にみえる︒平忠常の乱を戦わずし
て鎮
圧︒
平維衡 生没年不詳︒平貞盛の四男︒伊勢守を務め伊勢平氏の祖となっ
た︒
︹典
拠︺
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 第 一 三 五 話
︒
︵ 松 本 豊
︶
︹識
窒7
︺
御堂
相公
出レ
塗︒
見下
小童
逐二
駄馬
一︒
行且
披上
レ書
︒乃
金工
近−
前一
視レ
之︒
果具二奇骨一︒目有二重瞳一︒公乃取賢−給︒令下就二江匡衡一①専畢㌔後
逐作
二名
士l
︒廣
才博
覚︒
無レ
不二
兼綜
一︒
又侍
二修
養方
一︒
有二
寿考
稗一
︒
郎江撃士時棟也︒
︹書
き下
し文
み︺
ち
い
ゆ
く
ひ
ら
御堂相公 塗に出づ︒小童の駄馬を逐ひて︑行ゆく且つ書を披くを見
る︒乃ち近前せしめて之れを視るに︑果たして奇骨を具す︒目に重瞳
有り︒公乃ち取りて資給し︑江匡衛に就きて専ら撃ばしむ︒後に遂に
な
す
つ
た
名士と作る︒虞才博覚︑兼ねて綜べざること無し︒又た修養方を侍へ
し よ う
て︑寿考の稗有り︒即ち江華士時棟なり︒
︹訳
文︺
御堂関白︵藤原道長︶が外出した時︑馬を追いながら書物を広げて読
んでいる子供を目にした︒近くに寄らせて︑よく見ると︑果たして優 一〇
れた骨相を備え︑瞳の中にもう一つの瞳があった︒道長は子供を引き
とって生活の費用を支給し︑大江匡衛の元で学問に専念させた︒後に
はついに名だたる学士となった︒広い学才と広い見識を備え︑習い修
めないものはなかった︒また養生の法を伝え︑長寿の評判が高かった︒
この人こそが学士の大江時棟である︒
︹原
注︺
①匡
衡見
レ後
︒
︹書
き下
し文
︺
①匡衡 後に見ゆ︒
︹訳
文︺
①匡衝は後に出てくる︒
︹語
釈︺
御堂相公 藤原道長︒九六六〜一〇二七︒平安時代の政治家︑摂政太
政大臣従一位︒関白兼家の第五子︒詩歌の道に巧みであった︒
伊周と権力を争い︑伊周を左遷した︒後に出家し︑法成寺を建
立し
た︒
︹徳
行8
︺
︹語
釈︺
﹁
御堂
公﹂
参照
︒
出塗 外に出かけること︒﹁塗﹂は道の意︒
江匡衡 大江匡衡︒九五二〜一〇一二︒漢学者で歌人︒七歳で書を読
み︑九歳で詩を賦した︒博学であり︑甲斐権守などに命ぜられ︑
三十八歳で文章博士となった︒詩集に ﹃江吏部集﹄︑歌集に
﹃大江匡衡朝臣集﹄がある︒︹言語16︺ ︹語釈︺ ﹁匡衡﹂参照︒
奇骨 普通の人とは違った骨相︒
重瞳一つの目に瞳が二つあること︒帝舜や楚の項羽がそうであった
と相承される優れた人物の相︒
賢給 貨財をめぐみ与えること︒
無不兼綜 ﹁綜﹂はおさめる意︒
修養方 養生の法︑摂生の法︒
寿考 寿︑命が長い︒長寿︒
時棟 大江時棟︒生没年不詳︒平安朝時代の文章家︒摂政道長が匡衛
に子として養わせた︒経史子集に通じていた︒河内︑三河等の
守を
歴任
した
︒
︹ 典
拠 ︺
﹃十
訓抄
﹄第
三−
十四
話︒
︵前鳥 卓︶
︹識
萱8
︺
源左府雅信①少時︒平納言時望②︒詣二其父吏部王一③︒見二雅信一︒
謂レ王云︒位官址極高︒願以二下官子孫一託レ之︒後果如二其言一︒時望巳
卒︒
左府
以二
其知
レ己
言一
︒鳥
二其
孫惟
伸一
︒毎
−事
保−
存︒
︹書
き下
し文
わ︺
か
い
た
源左府雅信少き時︑平納言時望︑其の父吏部王に詰る︒雅信を見て︑
なら王に謂ひて云ふ︑﹁位宮地びに極めて高からん︒願はくは下官が子孫
しゆつを以て之れに託せん﹂と︒後に果たして其の言の如し︒時望巳に卒
して︑左府其の己を知る言を以て︑其の孫惟仲が篤めに︑毎事保存す︒
︹ 訳
文 ︺
﹃大
東世
語﹄
﹁識
竪﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
源左大臣雅信が若い時︑平納言時望が雅信の父である吏部王を訪問し
た︒雅信を見て︑吏部王にこう言った︑﹁位も官職もいずれも極めて
高くおなりになるだろう︒どうか私めの子孫をこの方に託したい﹂と︒
後に果たしてその言葉の通りとなった︒時望がすでに亡くなってから︑
左大臣︵雅信︶は時望が雅信自身の立身を見抜いた言葉によって︑
︵時望の願いに違わず︶彼の孫惟仲のために万事にわたって力添えを
した
︹ ︒
原注
︺
①一條左大臣︒
②惟
範之
子︒
③親
王敦
賓︒
︹書
き下
し文
︺
①一候左大臣なり︒
②惟範の子なり︒
あ つ み
③親王教案なり︒
︹訳
文︺
①一条左大臣である︒
②惟範の子である︒
③敦実親王である︒
︹語
釈︺
源雅信 九二〇〜九九三︒敦実親王の子︒参議︑左大臣を歴任︑従一
位に至る︒一条左大臣︑鷹司殿と呼ばれ︑名臣の評判が高かっ
一一
﹃大
東世
譜﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
た︒
︹政
事2
︺
︹語
釈︺
﹁
源雅
信﹂
参照
︒
平時望 八七七〜九三八︒平惟範の子︒延喜八年︵九〇八︶参議とな
る︒その後︑従三位︑中納言に進み中宮大夫を兼ねた︒︹政事
3︺
︹
語釈
︺
﹁時
望﹂
参照
︒
惟範 平惟範︒八五五〜九〇九︒累進して従三位︑中納言兼右近衛大
将となる︒文才に富み詩人としても活躍︒また﹃延喜格﹄の編
集に
参加
した
︒
吏部王 式部卿の唐名︒ここでは敦実親王を指す︒
親王敦宜 敦実親王︒八九三〜九六七︒宇多天皇の一第八皇子︒宇多源
氏の祖︒中務卿︑式部卿を歴任︒出家後は仁和寺に住む︒和歌︑
管弦︑蹴鞠などをよくし︑源家音曲の祖と言われた︒
下官 役人の謙称︒
惟仲 平惟仲︒九四四〜一〇〇五︒平珍材の長男︒藤原兼家に抜擢さ
れて参議︑中納言に進み︑長保三年︵一〇〇一︶大宰権帥︒同
五年︑従二位にのぼるが︑宇佐八幡宮の中の反惟仲派と衝突し
て訴えられ︑権帥を解任された︒︹政事3︺ 完昭釈︺ ﹁惟仲﹂参
照︒
保存 失わぬよう大切に保っておく︒﹃漢語大詞典﹄によれば︑愛護・
保全の意︒﹃世説新語﹄方正篇に﹁蘇峻時︑孔軍在横塘︑鵠匡
術所逼︒王丞相保存術︒﹂の用例がある︒
︹ 典
拠 ︺
﹃江談抄﹄第二﹁平中納言時望相一條左大臣雅信事﹂︒︵上原 菜摘子︶
︹識
萱9
︺
平珍材①︒馬レ介二讃州一時︒納レ婦生二惟伸一︒後惟仲輿レ母倶東レ京︒珍
材見轍日︒兄嘗レ到二亜相一︒但復有二以レ貪損一︒他日宜レ債︒惟仲作丁一太
宰帥一︒坐レ事中層︒後復作二大納言一︒
︹書 き下 し文
︺
す け た
平珍材︑讃州に介為る時︑婦を納めて惟仲を生む︒後に惟仲 母と倶
に京に来たれり︒珍材見て轍ち日はく︑﹁見常に亜相に到るべし︒但
だ復た貪を以て損すること有らん︒他日宜しく慎むべし﹂と︒惟仲
な太宰帥と作る︒事に坐して中ごろ腰す︒後に復た大納言と作る︒
︹訳
文︺
つま平珍材が讃岐次官になった︒婦人を要って︑惟仲が生まれた︒後に惟
仲は母親とともに都にやって来た︒珍材は︑会うとすぐさまこう言っ
た︑﹁お前は大納言にまで至るだろう︒ただ欲深さのために損をする
ことがあろうから︑将来慎むかよかろう﹂と︒その後︑惟仲は大事府
の長官となったが︑事件に連座して中途で官を廃され︑後にまた大納
言と
なっ
た︒
︹原
注︺
①
時望
之子
︒
︹書き下し文︺ ①時望の子なり︒
︹訳
文︺
①
時望
の子
であ
る︒
︹ 語
釈 ︺
平珍材 生没年不詳︒父は従三位であった平時望︒︹政事3︺ ︹語釈︺
平時望
讃州
介
納婦
平惟仲
兄
亜相
他日太宰帥
坐事
中麿︹
典拠
︺
参照
︒
︹識
竪8
︺
︹語
釈︺
﹁
平時
望﹂
参照
︒
讃岐の国の別称︒現在の香川県︒
すけ︒四等官で国司の第二位︒守の次の位︒昔の地方官の一つ︒
﹁納﹂は︑入れる︑妻を迎えること︒﹁婦﹂は︑おんな︑婦人︒
︹識
萱8
︺
︹語
釈︺
﹁
惟仲
﹂参
照︒
子ども︒ここではわが子を呼んだ語︒惟仲を指す︒
大納
言の
唐名
︒
後日
︒将
来︒
大宰
府の
長官
︒
事件がもとで罪になること︒連座すること︒r
中途で官職を廃されること︒
﹃江談抄﹄第二 ﹁平家自往昔為相人事﹂︒︵青木 悠︶
︹識
塁1
0︺
承保中︒詔二江匡房一︒捜二朗詠集線句一︒具二四韻一上︒章二於五月蝉撃
送二 歩秋 一①
︒遍 索二 全詩 一未 レ得
︒或 税二 一詩 二五
︒是 也︒ 江看 未レ 過日
︒
是手話可三便作二此佳句一︒不レ采︒後購得二其本一︒果恨作也︒人服二其
竪 一 ︒
︹書 き下 し文
︺ 承保中︑江匡房に詔して︑朗詠集の飴句を捜し︑四韻を具して上せし
﹃大 東世 語﹄
﹁識 萱﹂ 篇注 釈稿
︵堀
︶
もとむ︒﹁五月蝉馨 奔秋を送る﹂ に至りて︑遍く全詩を索むるに末だ得
ず︒或るひと一詩を硯して云ふ︑﹁是なり﹂と︒江看て末だ過ぎずし
こ
な
ん
て日はく︑﹁是の手話ぞ便ち此の佳句を作るぺけんや﹂と︒采らず︒
こ▼つ後に購して其の本を得たり︒果たして恨作なり︒人其の萱に服す︒
︹訳
文︺
承保年間に︑大江匡房に詔して︑﹃和漢朗詠集﹄に摘句された詩の残
りの句を捜しだし︑四韻︵八句︶ をそろえて献上させた︒﹁五月の蝉
の声は麦秋を送る﹂ の句の番になり︑詩句のすべてを捜し求めたが見
つからなかった︒ある人が一つの詩を見て︑﹁これだ﹂と言った︒匡
房はご覧になると︑目を通し終わらないうちに言った︑﹁この手の詠
作者では︑どうしてこの良い句を作れるだろうか﹂と︒採用しなかっ
.もとた︒後に本となる詩篇を捜し得て︑果たしてある人の示した詩篇は偽
物であった︒人々はその日利きに感服した︒
︹原
注︺
①李
嘉柘
詩︒
︹書
き下
し文
︺
①李嘉砧の詩なり︒
︹訳
文︺
①李嘉柘の詩である︒
︹語
釈︺
承保 白河天皇朝の年号︒一〇四七〜一〇七七︒
江匡房 大江匡房︒一〇四一〜一一一二︒平安後期の貴族︑学者︒匡
一三
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
衝の曾孫︒江帥と祢される︒︹言語12︺ ︹語釈︺ ﹁江匡房﹂参照︒
朗詠集 ﹃和漢朗詠集﹄︒藤原公任撰︒全二巻︒寛弘九年︵一〇一二︶
頃の成立︒白楽天︑菅原文時らの漢詩文の佳句を五八八首︵多
くは七言二句︶ とり︑紀貫之・柿本人麻呂らの和歌二一六首を
添える︒春・夏・秋・冬・雑に分類し︑朗詠の用に供した︒佳
句麗藻の集として広く愛読された︒
五月蝉聾送変秋 季嘉祐の詩句︒﹃和漢朗詠集﹄ の上巻・夏・蝉に見
える︒また︑﹃和漢朗詠集﹄ の先駈けとなった﹃千載佳句﹄ の
上巻・四時部・夏興・二一七に﹁千峰烏路含梅雨︑五月蝉聾送
葬秋﹂ の句が見える︒詩題は﹁発育泥店︑至長余県西涯山口﹂︒
﹃千載佳句﹄は大江維時編の漠詩集︒全一一巻︒天暦頃成立︒唐
の詩人一五三人の七言詩一〇八三首から二句ずつ抜き出し︑部
門ごとに分類したもの︒この詩句をめぐっては︑植木久行
﹁﹃和漢朗詠集﹄所収唐詩注釈補訂︵八︶﹂ ︵﹁中国詩文論叢﹂第
十四集︑一九九五年十月︶ に詳密な考証がなされることを付記
する
︒
︹典
拠︺
﹃今 鏡﹄
﹁す べら ぎの 中﹂
︒﹁ もみ ぢの みか り﹂
︒
︵大関 晶子︶
︹識
窒‖
︺
源義
家︒
従二
父将
軍一
①︒
東−
征十
二年
︒平
レ奥
而還
︒詣
二宇
治公
一︒
話二
征戦事一︒江帥側聞レ之︒先退出︒私自言︒渠有二格才一︒惜未レ知二兵 一四
道一︒時義家従者︒聴得而意︒待二其主出一而告レ之︒義家日︒此公必
有レ教︒追及謹請︒逐執二弟子藤一受二兵書一︒後寛治中︒拝レ将征二奥武
衡一
︒方
レ攻
二金
澤城
一︒
行見
二腐
正格
レ下
︒忽
復乱
過去
一︒
日︒
是江
公所
レ
教︒
必嘗
レ有
レ伏
︒令
二軍
避過
一︒
果威
数百
在二
其野
一②
︒
︹書
き下
し文
︺
源義家︑父将軍に従ひて︑東征すること十二年︑奥を平らげて還る︒
い
た
か
た
か
た
は
ら
宇治公に詣り︑征戦の事を詰る︒江帥側 にして之を聞き︑先に退き
ひ
そ
か
か
れ
出づ︒私に自ら言ふ︑﹁渠 格才有り︒惜しむらくは未だ兵の道を知
︐し・カらず﹂と︒時に義家の従者︑聴き得て志り︑其の主の出づるを待ちて
之れを告ぐ︒義家日はく︑﹁此の公必ず教ふること有らん﹂と︒追ひ
て い し れ い
て及びて謹みて請ふ︒速に弟子の確を執りて兵書を受く︒後に寛治中︑
し
や
う
う
あ
た
ゆ
く
将に拝して奥の武衝を征つ︒金澤城を攻むるに方りて︑行ゆく腐正
おに格に下りんとして︑忽ち復た乱れて過ぎ去るを見る︒日はく︑﹁是
れ江公の教ふる所︑必ず昔に伏有るぺし﹂と︒軍をして避けて過ぎし
やむ︒果たして威数百其の野に在り︒
︹ 訳
文 ︺
源義家は︑父である将軍頼家に従って東征すること十二年︑奥州を平
定して都に帰還した︒宇治公︵藤原頼通︶ のもとへ参上し︑征戦の事
を語った︒大江匡房は側でこれを聞いており︑先に退出した︒そっと
独り言を言うことには︑﹁彼には将軍としての才能がある︒惜しむら
くはまだ戦の方法を知らない﹂と︒時に︑義家の従者が聞きつけて腹
を立て︑その主が出てくるのを待ってこのことを知らせた︒義家は︑
﹁このお方はきっとご教示下さることがあるに違いない﹂と言って︑
追いついて行って謹んで教えを請うた︒かくして弟子の礼をとって兵
書の教えを受けた︒その後︑寛治年間に︑将軍の任を授かって奥州の
清原武衝を征伐した︒折しも金澤城を攻めるにあたり︑道すがら雁が
ちょうど今にも地上に降り立とうとするも︑たちまち乱れ飛んで過ぎ
去って行くのを見た︒義家が言うことには︑﹁これは江公 ︵匡房︶ の
教えて下さったことだ︒必ずや伏兵がいるはずだ﹂と︒軍に命じてそ
の地を避けて通過させた︒果たして戯兵数百人がその広野にはいたの
だっ
た︒
︹原
注︺
①頼義︒左馬頭源頼信之子︒陸奥守鎮守府将軍︒永承中奥安貞任反︒
詔二
頼義
一以
二征
東大
将軍
一︒
率二
束諸
州兵
一征
討︒
凡十
二年
克平
︒
②孫子日︒鳥起者伏也︒
︹書
き下
し文
︺
①頼義なり︒左馬頭源頼信の子にして︑陸奥守鎮守府将軍なり︒永
そむ承中に奥の安貞任反く︒頼義に詔するに征東大将軍を以てす︒東の
よ諸州の兵を率ゐて征討す︒凡そ十二年にして克く平らぐ︒
②孫子に日く︑﹁鳥起つは伏なり﹂と︒
︹訳
文︺
①頼義である︒左馬頭源頼信の子で︑陸奥守鎮守府将軍であった︒
永承年間に奥州の安倍貞任が反乱を起こした︒天皇は頼義に詔して
征東大将軍に任命した︒東国の諸州の兵を率いて討伐に向かった︒
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
およそ十二年で平定できた︒
②﹃孫子﹄に︑﹁鳥が飛び立つのは伏兵がいるからだ﹂とある︒
︹ 語
釈 ︺
源義家一〇三九〜一一〇六︒平安後期の武将︒頼義の長男︒通称は
八幡太郎︒前九年の役の武功により出羽守に任命︒永保三年
︵一〇八三︶陸奥守兼鎮守府将軍となり︑後三年の役を平定し
たが︑朝廷はこれを私闘とし功賞を行わず︑私財をもって将士
を労って東国に源氏の基礎を築いた︒
頼義 源頼義︒九八八〜一〇七五︒平安中期の武将︒頼信の子︒名将
の聞こえ高く︑安倍頼時・貞任父子の反乱に前後九年の長きに
渡って戦い︑遂にこれを平定︒一東国源氏の勢を強化した︒
源頼信 九六八〜一〇四八︒平安中期の武将︒満仲の子で河内源氏の
祖︒左馬権守︑各地の守を歴任し鎮守府将軍となった︒
安貞任 安倍貞任︒一〇一九〜一〇六二︒平安後期の陸奥北上川流域
く り や
の豪族︒父頼時から陸奥岩手部を譲られ︑前九年の役には厨
かわ川柵に拠り︑天喜五年︵一〇五七︶源頼義の軍を破ったが︑康
平五年︵一〇六二︶清原武則・光頼の援助を得た頼義に殺され
た︒
征東大将軍 征夷大将軍の別称︒本来は蝦夷征伐のため任ぜられた臨
時の
官︒
宇治公 藤原頼通︒九九〇〜一〇七四︒平安中期の公卿︒摂政・関白︒
従一位︒道長の子︒後一条・後朱雀・後冷泉三代の天皇の摂政・
一五
﹃大
東世
語﹄
﹁識
彗﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
関白︒父道長と並んで藤原氏全盛期を現出したが︑天皇外戚と
なりえず︑摂関家の後退を招いた︒出家後︑′宇治に平等院鳳風
堂を建立し︑宇治の関白︑あるいは宇治殿と称された︒
征戦 戦いにおもむくこと︒
江帥 大江匡房︒︹識萱10︺ ︹語釈︺ ﹁江匡房﹂参照︒
渠 かれ︒あの人︒三人称を表す︒
兵道 用兵の術︒
意 い か る
︒ 腹 を 立 て る
︒
謹請 謹んで請い求めること︒
兵書 戦をする方法や戦術を書いた書︒
武衡 清原武衛︒?〜一〇八七︒平安後期の武将︒武別の子︒後三年
の役の後半の中心人物︒甥の家衛が沼柵で清衡・源義家の軍を
撃退すると家衝に加担し︑金沢柵に拠って抗戦を主張︒敗れて
降伏を願ったが︑許されず殺された︒
金澤城 金沢柵︒前九年・後三年の役の舞台となった︒
伏 伏 兵
︒
孫子 中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書︒﹁孫子の兵法﹂
とも︒全十三編︒﹃孫子﹄行軍篇に﹁烏起者伏也︒﹂とある︒
︹ 典
拠 ︺
﹃古今著聞集﹄第九 武勇第十二﹁源義家︑大江匡房に兵法を学ぶ事﹂
︵第
三三
七話
︶︒
・︵
上原
菜
摘子
︶
︹識
塁1
2︺
九層塔修︒或云︒上層金⊥導V窺以二牛皮一換焉︒帝①命二悌工某一︒登
税二倍否一︒某乃登半而下︒懲−催殊甚4乃流レ涙謂レ人目︒窮且不レ暇︒
安能壷レ層︒而排二其黒白一耶︒乃奉レ公︒亦但鳥レ身爾︒寧復甘コ受不レ
遽レ命之罪一︒上憐二其痴状一︒笑不レ罪︒其事亦棲︒時人皆言︒凌雲之
憾︒故應二爾爾一︒藤願隆日︒伊故自作レ此︒令二監着発lレ罪︒其愚不レ
可レ
及也
︒
︹書
き下
し文
︺
ひそ九層の塔修す︒或るひと云ふ︑﹁上層の金造︑轟かに牛皮を以て換ふ﹂
と︒帝 彿工某に命じ︑登りて信否を税しむ︒某乃ち登ること半ばに
ち
よ
う
く
み
して下り︑懲催殊に甚だし︒乃ち涙を流して人に謂ひて日はく︑﹁窮
い
づ
こ
く
ぴ
や
く
ペ
ん
すら且つ暇あらず︒安くんぞ能く層を悉くして︑其の黒白を排ぜん
や︒乃ち公に奉ずる︑亦た但だ身の寅のみ︒寧ろ復た命を遂げざるの
ち罪を甘受せん﹂と︒上 其の癖状を憐み︑笑ひて罪せず︒其の事も亦
や
り
よ
う
う
ん
1
.
.
−
も
と
じ
じ
た棲む︒時人皆言ふ︑﹁凌雲の催れ︑一故より應に爾爾たるべし﹂と︒
カ
こ
と
さ
な
藤顧隆日はく︑﹁伊れ故らに自ら此れを作して︑監者をして罪を免れ
しむ︒其の愚は及ぶべからざるなり﹂と︒
︹訳
文︺
︵法勝寺の︶九重の塔を修理した︒ある人か一手っことには︑﹁上の階層
の金物は︑こっそりと牛皮を用いて作り換えた﹂と︒白河帝は仏工の
某に言いつけ︑登ってそれが本当か否か調べさせた︒仏工の某はそこ
で塔に登ったが︑半ば程で降りてきた︒ひどくおそれている様子だっ
た︒︵某は︶ かくして涙を流して︑人に言った︑﹁自分の身さえ保つゆ
とりがありません︒どうして塔の上層まで全うし︑その白黒をつける
ことができましょうか ︵いやできない︶︒こうして帝にお仕えします
のはただ自分の身のためだけです︒命令を成し遂げなかった罪を甘ん
じてお受けします﹂と︒白河帝はその愚かしい状態を気の毒に思い︑
笑って罰を科さず︑その事は沙汰止みになった︒その当時の人々は皆
言った︑﹁凌雲台に上った恐怖というのは︑もともとこうしたものな
のだろう﹂と︒藤原顕隆は言った︑﹁彼がわざと愚かしい事をして︑
工事を監督した者の罪を免れさせたのだ︒その愚かしい行いは並々で
はないものだ﹂と︒
︹原
注︺
①白
河帝
︒
︹書
き下
し文
︺
①白河帝なり︒
︹訳
文︺
①白河天皇である︒
︹語
釈︺
九層塔 白河天皇の勅願によって建立された白河︵現在の岡崎公園︑
京都市動物園付近︶ の法勝寺の八角九重の塔︒
窺 窃 か に
︑ こ っ そ り と
︒ 彿工 仏工︒仏像彫刻師︒
﹃大
東世
語﹄
﹁識
萱﹂
篇注
釈稿
︵堀
︶
白河帝 白河天皇︒一〇五三〜一二一九︒後三条天皇の第一皇子︒仏
教を信じ︑法勝寺などを建立した︒︹言語12︺ ︹語釈︺ ﹁白河帝﹂
参照
︒ 懲催 おそれる︒
黒白 良いこと悪いこと︒是非︒
排 弁ず︒区別をつける︒けじめをつける︒
癖状 愚かしい姿︒
凌雲之催 凌雲は︑﹁雲をしのいで高く聾える﹂ の意︒親の明帝が建
てた高楼に凌雲台があり︑誤ってこの楼の額の字を書かずに打
ちつけたので︑能書家の葦誕は寵で引き上げられて額の字を書
いた︒下りた時には恐怖と心労で葦誕の頭髪が白くなっていた
という故事︵唐・張懐埴﹃書断﹄所載の﹁章誕﹂︒﹃太平広記﹄
巻二〇六﹁書一﹂﹁葦誕﹂は﹃書法録﹄を引く︒︶を踏まえる︒
爾爾 然り然り︒
藤願隆 藤原顕隆︒一〇七二〜一一二九︒藤原為房の次男︒白河上皇
の側近として権勢をふるい︑﹁よるの関白﹂とあだ名された︒
通称は葉室中納言︒
監者 看守人︒番人︒ここでは塔の工事を監督した者︒
︹典
拠︺
﹃十訓抄﹄第一〇−七十七話︒︵松本 豊︶