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巻 68

号 2

ページ 21‑39

発行年 2006‑12‑20

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011238

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E・ユンゲルにおける無神論の問題

『世界の秘密としての神』における

The Problem of Atheism in Eberhard Jungelʼ s

上 原 潔

Kiyoshi Uehara

キーワード

ユンゲル、無神論、主観性、形而上学、神の本質と実在、神の絶対性、自己啓示

KEY WORDS

Jungel, Atheism, Subjectivity, Metaphysics, Godʼ  s Essence and Existence, Absoluteness of God, Self-Revelation  

要旨

本稿の目的は、エバハルト・ユンゲルが『世界の秘密としての神』において、無神 論をどのようなものとして分析し、それに対していかなる神学を構築しようと試みた のかを理解することにある。ユンゲルによれば、現代を特徴付けている無神論の萌芽 は近代にある。そこでは、人間的自己が存在、非存在を決定する「基体」となること で、絶対性をその本質とする神の実在が思惟不可能になるというアポリアが生じた。

現代の無神論を規定しているこのアポリアを解消すべく、ユンゲルは絶対性という神 の本質を批判的に解体する。ユンゲルは、神の絶対性をキリスト教的な神理解ではな く、存在者の連関を遡ってその根拠である神を措定するような形而上学の神理解、つ まり「存在神論(Ont-Theo-Logie)」に由来するものであると考える。それに対し、

キリスト教はナザレのイエスにおいて神が自己を啓示したという認識から始まる。こ の神理解によれば、神は決して世界の彼方にのみ存在しているのではなく、むしろ、

世界に「到来」する者であり、それ故に経験や思惟の対象となり得るのである。この ようにユンゲルは啓示神学を構想することによって、無神論に対抗するのである。

 

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SUMMARY

The aim  of this paper is to clarify Eberhard Jungelʼ  s analysis of atheism  and his attempt to construct theology against it. According to Jungel, atheism that characterizes  todayʼs world has begun in the modern period. At the dawn of the modern period, human  Self became “Subject”(subjectum)that judged what did and did not exist. This resulted  in an aporia that the existence of God whose essence is absoluteness could no longer be  thinkable. In order to solve this aporia Jungel destructs Godʼ  s absoluteness critically. He thinks that this absoluteness stems from not Christian, but metaphysical comprehensions  of God. Metaphysics traces back a chain of beings to God, their ultimate source (Onto- 

Theo-Logie). In contrast, Christianity starts from  Godʼs Self-Revelation in the man Jesus of Nazareth. According to this understanding, God not only transcends the world, 

but comes into the world. For this reason, God can be an object of thought and experi- ence. In this way Jungel confronts atheism by constructing a revelation theology.

1.序 問題設定

現代社会を特徴付ける現象として、一般的に「世俗化(Sakularisierung)」あるいは

「無神論(Atheismus)」が挙げられる。21世紀を迎えた今日の世界的な宗教状況を鑑 みるならば、現代社会を単純に世俗的、無神論的と判断することは一面的だと思われ るが、ドイツ、フランス、イギリスを中心とした西欧諸国では、既成教会の礼拝出席 者数の激減などから、世俗的、無神論的な実情が実感を伴って受け止められていると いうことも確かである 。W ・パネンベルクによれば、現代とは「神なしに生きるこ と、また考えることがあらゆる人間の日常だけでなく、キリスト教徒の日常をも規定 している」時代なのである 。この意識はとりわけ20世紀のドイツ・プロテスタント 神学史に色濃く反映されている。そこで提出されている問題に共通する一要素として、

世俗化の問題や無神論との対決といったものをはっきりと認めることができるのであ る。しかもその際、現代神学は、「キリスト教世界(Corpus Christianum)」を前提と していた時代とは異なり、もはや神の存在の「自明性(Selbstverstandlichkeit)」から 出発することはできない。なぜなら、「このような生きた無神論は今日、思惟を営む 全ての意識が持っている自明な出発点となっている」 からである。この時代状況の 中で、「最初から近代的無神論の現象を問題にしないならば、そのような神について の教説は、今日では抽象的な思弁」 にならざるを得ないとも言えるだろう。それ故 に、現代神学は、世俗化した無神論的状況の中でなおも神を語ることができるのか、

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またそれはいかなる方法でなされるべきか、その場合、そこで語られる神とはいかな るものであるのか、そもそも「神について語ることはどのような意味を持っているの か」という極めて基礎的かつ根本的な問いにまで取り組まなければならなかったので ある。

逆に言えば、このような状況こそが、20世紀の神学を豊かなものとしたとも言える だろう。そこでは多くの神学者が実に多様な方法論をもってこの問題に取り組んだの である。本稿では、その中から現代のドイツ・プロテスタント神学を代表する神学者、

エバハルト・ユンゲル(Eberhard Jungel, 1934-)を取り上げ、彼の無神論に対する取 り組みを理解し、把握することを試みる。ユンゲルもまた、世俗化や無神論の問題に 積極的に関心を寄せた神学者の一人であった。比較的初期の諸論文からもすでに、ユ ンゲルがこの問題に関心を抱いていたことを見て取ることができる 。幾分断片的に 留まっていたそれらの言及を詳らかにし、更に、それをルター派の神学者であるユン ゲル自身の「十字架の神学(theologia crucis)」の中に組み込んで体系的に展開した ものが、彼の主著と見なし得る『世界の秘密としての神』(1977年)である。それは、

「有神論と無神論との間の争いの中に十字架にかけられた者の神学を根拠付けるため に」という副題にも示されている。ユンゲルは序文の中で、この本が書かれた状況を 次のように説明する。「無神論の上にも最近の神学の上にも同様に、神を思惟するこ とは不可能であるという暗い影が覆っている。形而上学の歴史の終わりに、神は思惟 不可能になったかのようである」(IX)。そしてこの本の目的は、この無神論的「仮 象」と対決し、再び神を思惟可能なものとすることだとされる(ebd.)。ユンゲルは どのようにこの課題を達成しようとしたのであろうか。本稿の最終的な目的はそれを 明らかにすることである。本稿では主に『世界の秘密としての神』の読解を中心に据 えるが、理解の補助のために必要に応じてユンゲルの他の諸著作も参考としたい。

2.ユンゲルによる無神論の分析 現代的無神論の萌芽としての 近代(Neuzeit)

上述の通り、『世界の秘密としての神』の目的は、現代を特徴付ける無神論と対決 し、再び神を思惟することである。従って、ユンゲルが無神論をどのように分析し、

いかなるものとして把握しているのかを、まず理解しなければならない。

さて、一概に無神論といっても、それは現代にのみ存在した現象ではないように思 われる。仮にここで、無神論を字義通りに、「神を否定する発言ないし思想」と理解 するのであれば、詩篇14篇1節に見られる「神を知らぬ者」による「神などいない」

 

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という発言も無神論と取ることができるであろう。もっとも、この発言が現代的な文 脈における無神論とは性格を異にすることも明らかである。現代の無神論はむしろ、

ニーチェが宣言した「近頃の最大の事件」である「神の死」 という色彩を帯びてい るのである(66ff.)。表面的に見るならば、両発言は「神の否定」という点で同一の ものであるが、実際には、ほとんど正反対とも言える「生活の座」に根ざしている。

前者の詩篇における発言は、古代イスラエルの宗教間に生じた「正当な神」を巡る争 いの中で生じたものだということが考慮されなければならない。とりわけ旧約聖書な どに見られる「神は何処にいる」という問いや、その問いに反語的に含まれている

「神などいない」という答えは、ある特定の集団に向けられた挑戦的な発言なのであ って、その発言者が自らに向けた問いではない。つまり、そこで否定されている神は

「あなた方の神」なのである。そのように発言する者も、発言を向けられた者も共に、

神の存在 少なくとも自身の信仰している神の存在 を決して疑ってはおらず、

むしろ自明なものとして前提している(Vgl. 64ff.)。それに対して、後者のニーチェ の場合、「狂人(toller Mensch)」は専ら一人称複数形で「神の死」を語る。つまり、

神の存在は根本から「疑わしいもの・信じるに値しないもの(unglaubwurtig)」とな っている。ニーチェは神の存在そのものを問いに付し、最終的にその非存在を宣言し ているのである。

ユンゲルによれば、現代を特徴付けるこの無神論の萌芽は「近代」にある。精神的 社会的環境の変遷の中で生じた思惟のパラダイムの決定的な転換によって、中世まで 維持されていた統一的な神理解が破綻し始めたことが現代的無神論の始まりである。

そのことはデカルトが「神の必然性の証明」を遂行した際に、次のようなアポリアと い う 形 で 顕 わ に な っ た と ユ ン ゲ ル は 考 え る。す な わ ち、そ の「本 質(Wesen, essentia)」、換言すれば「何であるか(Was-heit)」によれば、神は「絶対的優越者

(Überlegene)」、「我々の上なる神(Deus supra nos)」と思惟される一方で、その「実 在(Existenz, exsistentia)」、すなわち「事実−性(Daß-heit)」に関しては、有限的な 人間の「自己(Ich, Ego)」を通して思惟され、「表象(vorstellen)」されることによ ってのみ確認され、保証されるというアポリアである(165)。このアポリアには相互 に関連する二つの側面がある。一方は、有限な自己が無限の神をいかに表象し得るの かという認識論上の側面であり、他方は、本来は自己を含む全体としての存在者を統 治し、保証しているはずである神が、統治され、保証されているところの自己のもと で表象されることを通して初めてその実在を認められるという、存在論上の側面であ る。

もちろん、前者の認識論的な問題は特段近代に限ったものではない。人間の把握や 判断、その尺度から完全に自由な超越的な神というものは聖書に、世界根拠の認識不

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可能性という思想は新プラトン主義の中にその事例を見ることができる。新プラトン 主義やそれを内に取り込みつつ発展してきたキリスト教神学においては、宇宙秩序、

あるいは被造物の秩序が、その根拠や神を指し示しており、「世界根拠−宇宙秩序」、

「創造者−被造物」という原因と結果の関係から神を類比的に思惟し得るとしてきた 。 しかしそこでは、被造物の秩序を造り出し保持しているものが「神的知性(intel- lectus divinus)」であり、その秩序を把握する人間の知性もまた、神によって造られ たものであるということが前提されている。この前提が、「神−神の知性−被造物の 秩序−人間の知性」という対応関係を保証する。それ故に、不十分であるとはいうも のの、人間は類比的に神を思惟することができ、また、被造物の秩序は神の実在を指 し示すことができるとされていた。

ところが近代に入り、いわゆる「主観性の形而上学(Subjektivitatsmetaphysik)」が 生じることによって、事態は根本的に変化した。あるいは、「近代」という世界史の 年表でいうところの漠然とした時代区分において、主観性の形而上学が生じたという のではなく、むしろ、それ以降の時代が中世から区別され、中世と近代という時代区 分が生み出されたところの時代精神が、主観性の形而上学だとも言えるかもしれない

(Vgl. 16f.)。この「主観・主体(Subjekt)」にあたる言葉は、ラテン語の subjectumに 由来するが、これは元来ギリシア語の hypokeimenonの訳語である。アリストテレス の使用した hypokeimenonとは、直訳するならば「下に横たわっているもの」であり、

文法的には様々な「述語」が属するところの「主語」を、存在論的には諸属性の「下 に横たわっていて」それらを支え担っている「基体」を意味していた。近代の初頭に 至るまで継続されてきた用法では、「主観」とは本当に存在するもの、人間の「心の 外に(exothen)」自存するものを意味しており、むしろ今日我々が使用する「客観・

客体」という意味合いに近しいと言えるだろう。このような「主観」の意味合いの原 義からの反転が、主観性の形而上学と呼ばれるものであり、ユンゲルによれば、それ は近代の初頭において起こった。そこでは、人間的自己が、全ての事物の「尺度

(Maßstab)」であり、全ての存在者を「関係付ける点(Beziehungspunkt)」となる。

例えば、デカルトは方法的懐疑を徹底させることで、「思惟するが故に、存在する

(cogito, ergo sum)」を「不動の絶対的基礎」と考えた。「思惟する自己」が本当に存 在するものとしての「基体」となっているのである(Vgl. 148ff.)。

この変化の中で、絶対者である神を被造物の諸連関から類比的に思惟することが困 難となる。上記の「神−神の知性−被造物の秩序−人間の知性」の一端を担う「人間 の知性(思惟)」が独立し、「創造の秩序」はあくまでも「人間の思惟」によって把握 された存在者の連関に過ぎなくなる。その結果、絶対的な神と有限的な思惟主観とは 分断され、前者は媒介となるものを欠いたまま宙に浮いた形となってしまうのである

 

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(認識論上のアポリア)。また、人間の主観が「基体」となることに対応して、人間主 観が存在、非存在を決定する最終法廷となる。つまり、存在者の存在者性、実在性は、

自己のもとに「現前すること(An-wesenheit)」、自己に「向かい合って−立っている 状態(Gegen-standlichkeit)」、自己の「前に−立てられたさま(Vor-gestelltheit)」、あ るいは「手−前にあること(Vor-handensein)」という意味になる 。しかしそのこと で、絶対的な存在であるはずの神の実在が、人間主観の表象に依存するといった矛盾 した事態が生じてしまう(存在論上のアポリア)。この事態は、先の認識論上のアポ リアによって補完されている。つまり、一方で、有限的自己にとって絶対的な神はも はや思惟し得ず、他方で、自己が思惟し得ないものはその実在を認められないという ことである。以上のように、神の本質と神の実在の間に人間主観が割って入ることで、

中世まで維持されていた神の本質と実在の統一性は破綻し、その結果、神概念は崩壊 するのである(Vgl. 165)。

むろん、デカルトもそのアポリアを解消すべく、例えば「生得観念(idea innata)」

や、いわゆる「存在論的証明」などの中世から引き継いだ概念や手段によって説明し ようとした。しかし、かえってそのことで問題が覆い隠されることとなったとユンゲ ルは指摘する(Vgl. 165f.)。いずれにせよ、人間主観を真理の絶対的基礎とすること を目的として、神の必然性を証明するという点に中世との大きな相違がある。この意 味で、デカルトが陥ったアポリアは、まさに中世から近代への移行を特徴付けている。

彼は一方で、人間主観を真理に対する「不動の絶対的基礎」としている(近代)。他 方で、その真理問題の最終的な解決を神に求めるのである(中世)。ユンゲルによる と、デカルトのもとで生じたアポリアが現代的無神論への道を切り開いた。デカルト は、彼が意図していたかどうかはさておき、現代的無神論の「産婆」(23)となった のである。

『世界の秘密としての神』の中でユンゲルは、J ・ G ・フィヒテ、L ・フォイエル バッハ、F ・ニーチェの三人を取り上げ、デカルト以降の現代的無神論の潮流に生じ る見解を例示している。いわゆる「無神論論争」においてフィヒテは、「神はそもそ も思惟され得ない」と主張した。フィヒテによれば、神は実在しない。というのも、

実在とは世界内部的存在者にしか妥当し得ない述語であり、それ故に、絶対的優越者 である超越的な神には実在というカテゴリーは適用できないからである。思惟は実在 するものしか把握し得ないのであるから、神を思惟することは当然不可能だというこ とになる。フィヒテのこの主張は、当時のルター派教会の主流派から「無神論」と判 断されたが、彼の意図はむしろ神の神性の保持にあった(Vgl. 170-187)。フィヒテと 同様の議論を展開しつつ、彼とは逆に積極的に無神論を推し進めたのがフォイエルバ ッハである。彼もまた、神は実在しないと考える。しかし、フィヒテの場合には神に

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帰属されていた「超越性」という属性は、フォイエルバッハの場合には人間に還元さ れることとなる。つまり、「最も完全で無限なもの」という人間が抱く神観念は、神 そ の も の に 由 来 す る の で は な く、人 間 自 身 か ら 生 じ た、あ る い は 分 裂 し た「類

(Gattung)」だと考えたのである(Vgl. 188-195)。ニーチェはフォイエルバッハのこ の議論を一層ラディカルに掘り下げた。フォイエルバッハは、「最も完全で無限なも の」という神観念を、「人間学の秘密」という意味で、人間存在にとってある種必然 的なものと受け止めた。しかしニーチェにとって、そのような神観念は不必要なだけ でなく、積極的に排除しなければならないものなのである。「絶対、永遠、優越」と いった神観念は、此岸的なものに「有限、移ろい行くもの、劣ったもの」という否定 的価値を付し、そうすることで人間の「生」を抑圧し、矮小なものとしてきたからで ある。それ故に、ニーチェは、神として崇められてきたものは「神的」などとは言え ず、むしろ「生に対する犯罪」だと考えるのである(Vgl. 195-203)。

デカルトのもとでは、神の超越性と人間の主観性という二つの極の関係は、アポリ アというアンビヴァレントな形を取って現れている。デカルト以降、とりわけニーチ ェに至って、主観性の形而上学は隆盛を極めることとなり、人間の主観性という一方 の極に重心が移行する形で両極の乖離は一層大きくなった。その結果、超越的な神と いうものは、もはや人間主観にとって何ら説得力を持たないものとなってしまったの である。超越的優越者である神は、「それ自身の完全性のために滅びる。欠陥がない ものとして措定された、最上にして最高度に完全な、自存的<本質存在(Wesen)>

は、人間の主観性によって規定されている<実在>によって滅ぼされる」(278)。ユ ンゲルは、このような無神論の潮流に他の歴史的諸要素が加わることによって、現代 的無神論の自明性にまで発展してきたと考えている 。

3.ユンゲル神学における無神論の位置

このような現代的無神論に対し、ユンゲルはどのような態度をとり、いかなる神学 を構築するのだろうか。本稿では、それを方法論的形式的側面と教義学的実質的側面 とに分けて説明する。先ず、本節では方法論的形式的側面を取り上げる。

ユンゲルの分析によれば、現代的無神論は、自己の主観性と神の超越性という二つ の契機から構成されている。この二つの構成契機に注目した際、ユンゲルは無神論へ の対処法として幾つかの選択肢を考慮する。一つは、「絶対的優越者」、あるいは「最 高存在者」といった神の本質から、神の実在やその「遍在(Omniprasenz)」を論理的 に導き出し、そのようにしてなおも神の実在性を主張し続けるという方法である(存

 

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在論的証明)。このように論理的に保証された神の実在は、人間の認識能力の有限性 ゆえに、もちろん認識の対象とはなり得ない。この方法は、自己の主観性と神の超越 性の両者を同時に保持することを可能にし、また、論理的整合性に訴えるという点で 弁神論的に優れている。上述の通り、これはデカルトが採った方法であったが、ユン ゲルはこの方法を選択しない。すでに述べたように、この方法は根本的な解決にはな らないと彼は考えるからである。主観性の形而上学の時代にあって、もはや誰も実在 と見なし得なくなったような神の実在性を頑なに主張するならば、かえって無神論を

「精神の命運(Schicksal des Geistes)」と見なすことになってしまう。そしてその場 合、キリスト教はもはや「生きた宗教」とは言えず、従って、神学というものも現代 世界にとっては、せいぜいのところ「遺産管理者(Nachlaßverwalterin)」という役割 しか持ちえなくなるだろう(274)。

次に、直接的に克服すべきものとして、無神論の一契機である自己の主観性を取り 扱う方法が考えられる。しかし、この考えは短絡的であり、現代世界に対して無責任 な態度である(166)。なぜなら、近代以降、「基体」としての人間は神に代わって、

世界を「製作(Herstellung)」することにより統治者となったのであり 、現今の経済 システムの中で我々が主観の立場を単純に放棄するならば、人間は直ちに滅びに至る からである(241)。むしろ、彼は主観性の形而上学が引き起こした無神論を「人間的 な人間の、特に円熟した形態」と肯定的に評価して、それにある一定の「真理契機」

を見出す 。つまり、彼は現代的無神論の世界観に、部分的にとはいえ同意すらする のである。

以上のような選択肢を排して、ユンゲルが採用する方法は、「絶対的優越者」とい う神の本質規定、すなわち「神の絶対性に関する公理」(51)を批判的に解体し、神 概念を新たに再構築することであった。この方法の骨子は次の点にある。すなわち、

「伝統的(traditionell)」、「形而上学的(metaphysisch)」と形容される神概念 これ らは一括して「有神論(Theismus)」と呼ばれる と、「キリスト教的」あるいは

「福音的(evangelisch)」な神概念とを峻別し、近代以降、無神論によって否定されて きた「絶対的優越者」という神概念を専ら前者に属するものとみなすのである。つま り、ユンゲルは、無神論(フォイエルバッハ、ニーチェ)が「キリスト教の本質」と して描き出し、否定した神概念は何らキリスト教的な神概念ではなく、また有神論

(フィヒテ)が保守しようと試みた神の本質も、同様にキリスト教的なものではない、

いずれも形而上学的神概念なのだと言うのである(276)。ではなぜ、ユンゲルは一見 すると極めて聖書的、キリスト教的とも取れる「絶対的優越者」という神概念や「絶 対性」という神の本質を、非キリスト教的なものと考えるのであろうか。その手掛か りは、ユンゲルの「形而上学」理解にある。彼は『世界の秘密としての神』やその周

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辺の諸論文において、「形而上学」という語を頻繁に使用している。それらの語が使 用されている文脈から察するに、この表現は、人間の推論能力である理性によって

「自然事物の背後に(meta-physica)」遡り、その根拠としての神を措定する営為、つ ま り、い わ ゆ る「存 在−神−論(Onto-Theo-Logie)」を 意 味 し て い る と 思 わ れ る

(Vgl. 275, 278) 。ユンゲルにとって、このような「理性による自然的認識」に依存 する神 、あるいは論理の必然として「要請(Postulat)」された神は、有限的存在者 である人間が推測した「抽象的な」絶対者なる神に過ぎない。そのような神は始めか ら「それより大きいものが思惟できないようなもの」として理解されているために、

最も良い場合でも「全き他者(das ganz Andere)」以上のものとはなり得ない。むし ろ、ユンゲルにとって、このように世界内部の有限的存在者から導き出された抽象的 な超越的神、あるいは絶対的優越者というものは、そもそも神ではなく、「偶像

(Gotze)」なのである 。なぜなら、この場合、神は「神そのもの」として思惟され ていないからである。このような形而上学的神理解に対し、キリスト教的神理解とは、

神を「神自身から」、すなわち「神の自己啓示」から思惟することを意味する。詳述 は次節に譲るとして、このように神の自己啓示から思惟された神は、決して抽象的な 絶対的超越者ではない。すでに「自己啓示」という表現からも推察され得るが、形而 上学的神理解のように、有限的存在者に触れることのない遙か彼方に、静態的に鎮座 する神ではなく、有限的存在者へと動態的に関わり合うのがキリスト教の神であると ユンゲルは考える。ここに、伝統的な「哲学者の神」と「信仰の神」という二分法が 新たな装いのもとに登場する。そして、「絶対的優越者」や「絶対性」という神の本 質は、専ら前者の神概念に属するものとして、非キリスト教的なものだと考えるので ある。

注目しなければならないのは、神は存在するのかしないのかという、神の「実在」

を巡る問題が、一体、その神の「本質」を「どこから(woher)」獲得しているのか という問いに置き換えられているということである。この「どこから」という観点に よって、神理解は、「世界内部的存在者から」神を推測する伝統的形而上学的有神論 と、「神の自己啓示から」神を思惟するキリスト教的福音的神理解とに二分されるこ とになる 。この区別に基づくならば、啓示を看過したままで行われていた「有神論 と無神論との争い」は、本質的にはキリスト教的神理解には関係のないものとなる。

従って、現代に至って無神論が優勢になったにしても、そのような事態はキリスト教 への批判には全くなり得ない。むしろ、キリスト教に少なからず浸透してしまった非 キリスト教的、形而上学的神理解を排除する機会を提供してくれるという観点からす れば、無神論的現状はキリスト教にとっては積極的な意味合いを持つとさえ言える

(Vgl. 61f., 204)。ここに至って、上記の無神論との部分的同意は、極めて積極的かつ  

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戦略的な意義を持って現れることとなる。ユンゲルにとって、現代的無神論の自明性 はキリスト教の妥当性を減少させるどころか、その真理性をより一層明らかなものに する意義を持っている。なぜなら、偶像にも等しい形而上学的神理解は今や現代的無 神 論 に よ っ て 正 し く も 打 ち 砕 か れ、そ の 結 果、有 神 論 と 無 神 論 の「彼 岸

(jenseits)」 に位置するキリスト教こそが、今日唯一可能な神認識となるからである。

ユンゲルが「無神論と有神論との悪しき二者択一を超えた場所での」神の思惟可能 性、あるいは「有神論と無神論の間の争いにおける」神学の再構築といったことを繰 り返し述べるとき、以上に見た形而上学的神理解の否定とキリスト教的神理解の肯定 が意図されている。ユンゲルは現代の無神論的状況にあって、彼の師事した K・バ ルトに倣い、「神は世界の連関からではなく、神自身によってのみ知られる」(Vgl.

43)という命題を強調し、「啓示神学(Offenbarungstheologie)」を構築しようと試み るのである。

4.ユンゲルの啓示神学構想

前節ではユンゲルが現代的無神論に対してとった態度、あるいは神学構想に関して、

その方法論的形式的側面を瞥見した。本節では、彼の神学の教義学的実質的側面に注 目する。

ユンゲルによれば、キリスト教的神理解は、神が十字架のイエスと同一であるとい う認識から出発する。形而上学が「自然事物の背後に」遡って、思惟の「終わり」に、

根拠としての神を措定するのとは対照的に、キリスト教的神理解では、思惟の「始 め」に神が存在している。つまり、神は「我々のもとで(unter uns)」、ナザレのイエ スという人間の存在様態において決定的に自己を啓示し、そうすることで初めて、

我々が神に「近付くことができる(zuganglich)」ようになっている(207)。先に見た ように、主観性の形而上学において実在性は、自己に向かい合って立つ状態としての

「対象性(Gegenstandlichkeit)」という意味に変化した。それに伴い、絶対的優越者、

「我々の上なる(uber uns)」神というものは、その実在性を失ってしまったのであっ た。それに対して、キリスト教的神理解によれば、神はイエスという具体的な人間に おいて、更には、形而上学的に見れば最も神的でなく、此岸的な現象とされるところ の「死」までも引き受けて、「我々のもとで」、換言すれば実在的に自己を顕したので あるから、主観性の形而上学の時代にあってもなお有効に思惟の対象となり得るので ある。また、神はイエスという「一人」の人間において、「決定的に(definitiv)」自 己を啓示したのであるから、イエス・キリストのみが唯一の神の認識「根拠」であり、

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神に至る唯一の「道」だということになる 。ユンゲルはこのようにキリスト論的集 中の道筋を通じて神認識の根拠と対象を確保する。

更に、ユンゲルはその認識方法を限定する。なぜなら、イエスにおいて認識可能と なった神の実在は、未だ自然的神認識による神の本質規定に対して解釈上の余地を残 しているからである。ここでユンゲルは、神の本質から神の実在を導き出すという神 の存在論的証明と逆の手順を踏む。つまり、形而上学的神概念や理性の推論などによ って得られた神に関する一切の前理解を排して、神の実在を神の本質として、あるい は「本質の総体(Inbegriff)」として理解せよと要求する(254, Vgl. 259f.) 。神に関 する一切の事柄は、すでに神の唯一の認識対象であるイエス・キリストの出来事、す なわちイエスの生と死と復活という「十字架の言葉(Wort   vom  Kreuz)」に「内包

(Implikation)」されており、神の本質はそれを分析的に「展開(Explikation)」するこ とで獲得されるべきものである。この認識方法においては、形而上学的神理解の採用 はもちろんのこと、他宗教の神理解を参考にした十字架の言葉の解釈も認められない。

キリスト教神学が「極東の知恵」 を借用することについて、それが多かれ少なかれ

「惨め(kummerlich)」なことだと評されるのは驚くことではないが(XII)、キリスト 教の成立期における、ユダヤ教の神理解からの影響もまた否定される。ユンゲルは次 のように述べる。「神<思想>というもの(der Gottes

gedanke

)は、この[イエスに おける神の自己啓示の]出来事の結果として生じたのであり、従って、その出来事が 前提としているものではない」(207括弧内筆者)。つまり、キリスト教の神思想は当 時のユダヤ教の神思想を先ず前提とし、それに変更を加える形で成立したのではなく、

イエスにおける神の自己啓示という出来事のみによって、「無前提」に成立したのだ、

とユンゲルは主張するのである。彼は啓示を解釈するに当たって、十字架の言葉に先 立って与えられている、神に関するいかなる「外郭概念(Rahmenbegriff)」も認容し ない 。「神は神によってのみ知られる」、「神はイエスという一人の人間において自 己を決定的に啓示した」という二つの命題にあくまでも固執する。そうすることで、

世界の側から神を思惟する一切の可能性を断ち、啓示によってのみ獲得されたキリス ト教的神概念の中に、形而上学的神概念が流入するのを防ごうとするのである。

神は神によってのみ知り得るのであって、世界の側からは知ることはできず、従っ て、キリスト教的神理解は無前提に生じたのだという以上の主張は、言い換えるなら ば、神の自己啓示はその「根拠」を世界の中に持たない、つまり世界的な「必然性」

を持たないということである。それ故に、ユンゲルは「最も必然的な存在者」という 伝統的な神理解に反対し、大胆にも「神の世界的非必然性(weltliche Nichtnotwengid- gekit Gottes)」(19-24)を語るのである。この「神の世界的非必然性」は、もともと 有神論が論理的な必然性を用いて神を証明したのに対し、無神論が人間や世界の自律

 

(13)

性の発見に基づいて、「神は必然ではない(Gott ist nicht notwendig.)」と主張した事 柄である。この notwendig はまた「必要」とも訳すことができ、その場合、この主張 は「神は必要ない」という「神の否定」を意味することとなる。

「必然性」は原因と結果の関係を表すカテゴリーに属するが、「Aは B にとって必 然的である」、あるいは「Aであるならば必然的に B である」と言われる場合、一見 すると Aは B の原因・根拠であり、その意味で Aは B より高次のものであるかのよ うに思われる。確かに、「事柄そのものの順序」からするとそのように言い得る。し かし、我々の「認識の順序」からするならば、第一に存在するのは B である。それ 故に、「Aは B にとって必然的である」と言われる場合、Aはむしろ B を前提にして おり、B に依存した Aだということになる。つまり、Aは Aそのものとしては考え られておらず、B の説明のための A、B から遡って考えられた Aだということにな るのである。従って、世界にとって必然的な神というものは とりわけ「認識の順 序」が「事柄そのものの順序」を規定する主観性の形而上学の時代にあっては 、 世界から遡って考えられた形而上学的な神と言えるだろう。それ故に、ユンゲルは無 神論と共に、そのような神は「必要でない」、また、そもそも神は「必然ではない」

と主張するのである(Vgl. 16-43)。

しかし、この「神の世界的非必然性」が持つ消極的意味は、神が世界内部でイエス と同一になったことを考え合わせるならば、反転して非常に積極的な神の本質規定に なる。「神の世界的非必然性」と「神とイエスとの同一性(Identitat)」という二つの 事柄からユンゲルが導き出すのは、「神は必然以上である(Gott ist mehr als notwen- dig.)」(43) という命題である。そのようにして、神の自己啓示としてのイエス・キ リストの出来事は、世界の側からではなく神の存在そのものから、また論理の「必 然」としてではなく「自由な生起」として「説明(Explikation)」されることになる。

この命題は、神が必然性というカテゴリーに属さないことを表現している一方で、同 時に神が「必要以上」に存在することを意味する。つまり、ユンゲルは notwendig を

「必要」という意味で捉え、また、「繫辞(copula)」の seinを「存在する」という動 詞的な意味として理解するのである。Überflußが、「余計な・必要ない」という意味 と、「過剰・豊富」という意味を合わせ持つのと同様に、「神は世界にとって必然・必 要 な の で は な い、必 要 以 上 に 存 在 す る」と い う こ と で、神 は「満 ち 溢 れ る 存 在

(uberstromendes Sein)」(302)であるということが表現されている。そのような満ち 溢れる存在である神は、神自身にとって必要である以上の存在を有している。それ故 に、神は「自身」の過剰な存在を「他」へと引き渡たす(hingeben)こととなる。こ の「引渡し(Hingabe)」こそ、啓示なのだとユンゲルは考える。自身を「他」へと引 き渡すことは、すなわち「自己−献与・献身(Selbst-hingabe)」である。「献身」は

(14)

「愛」の本質と考えられるが故に(439ff.)、神は愛なのである。愛は決して強制され たものではなく、「自由」に生じるのであるから(301)、神の啓示もまた「自らに由 来するもの」である。神は、いわば世界の側へと手繰り寄せられるのではない。神は 自ら世界へと「到来(Kommen)」するのである。このようにして、ユンゲル神学に おける三つの基本命題、「神は必然ではなく、必然以上である」、「神は愛である」、

「神の存在は到来の中にある」が成立することになる。

しかし、この段階では世界との「必然性」の関係は未だ解消されていない。愛する 者は、愛される他者を「必要」とするからである。ユンゲルはここで生じた問題を、

三位一体論的に解決しようとする。それは、神の存在に「存在論的差異(ontologis- che Differenz)」を設けることによって次のように説明される。すなわち、神が「外 に向かって(ad extra)」、存在的(ontisch)に「他」、つまり世界へと到来するのは、

それに先んじて神が「内に向かって(ad intra)」、存在論的(ontologisch)に「自身」

へと到来するからである 。神は存在論的次元において、「生気を欠いた孤独者(das leblose Einsame)」(105)ではない。そうではなく、神自身の内に、いわば愛すべき 

「存在論的他者」、あるいはユンゲルがバルトに倣って表現するところの「神の人間性

(Menschlichkeit Gottes)」を予め持っている。そして、そのことに由来して、神は自 身の外に愛すべき「存在的他者」、すなわち我々人間や世界を持つのである。このよ うに考えることで、神と世界との「必然性」の関係は解消される。神の我々に対する 愛は、神の神自身に対する愛に由来するのである。

以上の存在論上の構造は、「神は、神から(von)、神へと(zu)、神として(als)

到来する」という命題で説明される(521-532)。父なる神は「自ら」、子なる神「へ と」到来し、自身の存在を献与する。しかし、そのことで父なる神は、神であること を放棄するわけではない。永遠なる父は永遠なる子に到来し続ける。自身と自身とを 永遠に結び付ける「仲介(Vermittlung)」であり、永遠の神「として」存在し続ける 存在様態が聖霊である。この聖霊はまた、父と子の愛の関係を結び付ける「満ち溢れ る愛(uberstromende Liebe)」 とも表現される。形而上学的な不変不動の神とは異な り、ユンゲルによれば、神の存在は「生成(Werden)」にある。三位一体の三つの位 格はいずれも、子に対する父の「自己献与」、父に対する子の「従順(Gehorsam)」、

両者の「仲介」としての聖霊といったように、「自己自身を携えて自己を超え出て行 く こ と(Mit-sich-selbst-uber-sich-hinaus-Gehen)」(302)と い う「脱−自 的(ek- statisch)」な性格を持つとユンゲルは考える。神認識の際の、本質と実存との同一視 という要求を意識して次のように述べられる。「神の脱自存在(Ek-sistenz)が、神の 本質である」(Vgl. 303)。このようにして存在論上の構造が外へと存在的に反映され て、ただ一度、ナザレのイエスという人間の存在様式において、神は世界へと到来し、

 

(15)

決定的に自己を啓示したのである。

ではなぜ、過去の出来事であるにもかかわらず、現在においてもイエスが神である と気付き得るのだろうか。それは、「外に向かっての三位一体の業は不可分である

(opera trinitatis ad extra sunt indivisa)」が故に、世界へと到来し続ける聖霊が、聖書 を通して、イエスと神とを結び付け、イエスをキリスト「として」述べ伝えるからだ と言えよう。聖霊が人間の言葉に到来するこのような出来事、つまり神の「言葉への 到来(Zur-Sprache-Kommen)」が、「信仰の出来事」であるとユンゲルは考える。信 仰の出来事によって、神認識の「根拠」に「確信(Gewißheit)」が与えられるのであ る 。その際、根拠が確信に、確信が根拠に依存するという循環が生じることになる が、ユンゲルはそのような循環は「悪しき循環」ではなく、むしろ信仰にとって本質 的なものであると考える。従って、信仰の出来事を、信仰を離れて(remoto fide)論 証したり、基礎付けたりする必要はもはやなく 、ただ喜んでそれを受け入れること が重要になる。そのようにして、「思惟するが故に、存在する」という命題に代表さ れるような、自己によって自己自身を基礎付けなければならない主観性の形而上学の 労苦からも解放される。なぜなら、愛である神は何の「必要性」もなしに人間の「人 格」を 肯 定 す る か ら で あ り、そ の 結 果、人 間 主 観 は 安 心 し て 自 己 を 放 棄 し

(verlassen)、神に自身を委ねる(verlassen)ことができるようになるからである。む ろん、このことによって人間が「世界を製作することで統治する者」という立場から 解放されるわけではない。ここで、ユンゲルは古プロテスタンティズムの「人格と業 の区別」を現代的な文脈において想起することを勧める。つまり、「業」においては、

人間は徹底して自律的に生きなければならないと考えているのである(266)。

5.結びにかえて ユンゲルの神学的アプローチとその批判的評価

現代の無神論的状況にあってユンゲルが採った方法は、形而上学的神理解とキリス ト教的神理解を峻別した上で、世界の側から神を把握しようとする一切の形而上学的 な試みを放棄し、キリスト教の原点であるイエス・キリストにおける神の自己啓示の みに集中することであった。彼は一切の前理解を排して、この神の自己啓示を三位一 体論的に展開することで、神を今日再び思惟可能なものとしようと試みる。この方法 はすでに、『世界の秘密としての神』の序文の中で予告されている。「本書の目標は、

神の人間性の経験から、神について語る可能性を明らかにし、神についての明白な語 りに基づいて再び神を思惟することを学ぶことである」(IX)。ユンゲルは、自身の この方法を「内から外へと、特殊なキリスト教的信仰経験から普遍妥当性を要求する

(16)

神概念へと進む」道(Weg)であると表現している(X)。このような表現を用いて ユンゲルは 彼の師であるバルトがかつてそうしたように 、「宗教的なもの」

という「普遍」から、キリスト教信仰という「特殊」へと向かう方向性のもとで営ま れた、いわゆる「自由主義神学(liberale Theologie)」と袂を分かつ。とりわけ同時代 的に見るならば、さしあたって神から離れて(remoto deo)、無限なものへと差し向 けられている人間存在から神学を構築しようとするパネンベルクに対し、意識的に対 決姿勢をとっている(Vgl. 10)。ユンゲルは、パネンベルクの「自然神学構想」に対 し、自身の「啓示神学構想」を「より神学らしい神学(theologischere Theologie)」

(3)、「<より一層>自然な神学(naturlich

ere Theologie)」 と呼ぶ。むろん、ユンゲ

ルがパネンベルクに比べ、キリスト教の普遍性に関心を抱かないということではない。

むしろ今日、キリスト教の普遍性こそが問題であると考えている 。その際、彼はキ リスト教の固有性を堅固に保持しつつ、そこから普遍妥当性を要求する神概念を目指 すという困難な道を選択するのである。

このようなユンゲルの神学的アプローチにおいて、「普遍妥当性を要求する神概念 へと進む」という課題がこの本の中で、実際にどの程度達成されたのかということに は疑問が残る。確かに、ユンゲルは特殊なキリスト教的信仰経験を集中的に語る。し かし、それはキリスト教が歴史の中で構築してきた神概念や人間理解の多くを、自ら が設定した「伝統的有神論」という枠組みの中に押しやった後に残った姿なのではな いか。そのような極端なまでに切り詰められて描き出されたキリスト教が、果たして 神学史的、教理史的に見て、普遍妥当性を要求できる立場にまで進み得るだろうか。

ユンゲルは有神論批判として、「神は世界の側からは知りえない。神は神自身によっ てのみ知られる」ということを繰り返し語るが、「なぜ世界は神的被造物であるにも かかわらず、神の神性を隠してしまうのか」という問いには根本的に答えていない。

パウロは「ローマ信徒への手紙」1章19‑20節において「自然的神認識」の可能性を認 めているわけであるが、ユンゲルはこの発言をどのように受け止めているのであろう か。バルトの『否 』や、ユンゲルと同様に「世俗化論」を展開した F ・ゴーガル テンの『近代の宿命と希望』では、自然的神認識の可能性は、人間の罪に関連して否 定ないし限定されていた。しかし、ユンゲルの『世界の秘密としての神』には、これ にあたる説明がない。人間の罪が語られることもなく、世界そのものが 『世界の 秘密としての神』と題されているにもかかわらず 語られることもない。教義学の 中で重要な位置を占めるこれらの諸概念を欠いた彼の神学は、はたして、普遍性を担 い得るものであろうか。

あるいは、この「普遍妥当性を要求する神概念」を、「無神論者にも普遍に妥当す る」という意味ととるならば、この課題は達成されたと言えるのであろうか。ユンゲ

 

(17)

ルは「なぜ信仰が可能であるのか」ということについて一方的に語る。しかし、「無 神論の可能性」を根本的には否定し得ていない。つまり、無神論的世界観に対してキ リスト教的世界観を並置させただけで、どちらの世界観が普遍妥当性を有するのかと いうことは未だ不明である。主観性の形而上学が「人間的な人間の、特に円熟した形 態」だとするならば、その主観性の形而上学の頂点をなすニーチェ、しかも牧師を父 に持ち、幼少期には聖書を精読していたそのニーチェが、キリスト教への信頼を失っ てからその生涯を終えるまで、なぜ、神の「確信」を二度と持つことがなく、無神論 者であり続けたのであろうか。むろん、神がニーチェに語り掛けなかったからだ、と 答えることは可能である。この場合、ニーチェ自身が神の言葉を聞かなかったからで ある、という答えは除外されなくてはならない。なぜなら、上述の通り、神は何の

「必要性」もなしに、つまり「無前提」に語り掛けるからである。ユンゲルの言葉を 借りるならば、「誰かある人を、神への確信が欠如しているとして非難するほど愚か なことはないだろう。もしそのようにするならば、そのときそれは神を非難している ことになるのだから 」 。しかし、そうだとするならば今度は、なぜ、神は満ち溢 れる愛であるにもかかわらず、人間主観に対して沈黙することがあるのかという問い に答えなくてはならないだろう。一方で近代以降に主観性の形而上学が進展し、他方 で神が永遠に世界に到来するのであれば、そもそも現代の無神論的状況など起こり得 ず、キリスト教的神理解を持つ人間の数は近代以降、確実に増加していることになり はしないだろうか。それとも近代以降、愛である神は何らかの理由で、満ち溢れなく なったとでもいうのだろうか 。

ユンゲルは「語る者(der Redende)」としての神を、余りにも自明なこととして語 る。確かにそれは信仰にとっては自明なことであるのかもしれない。しかし、不信仰 にとっては「沈黙の神」の方がより一層自明であろう。無神論的現状にあって、「普 遍妥当性を要求する神概念」を目指すのであれば、「選ばれた者」だけでなく、「選ば れなかった者」にまで言及する必要があったと思われる。

今日、これらの点を考慮しないまま、なおもキリスト教的神理解の普遍妥当性を主 張するならば、そのような神学は「外から内へと、普遍妥当的な神概念から特殊な信 仰経験へと」内向し、周囲を高い壁で囲い込み自閉することでその中を世界全体と考 え、そこでのみ普遍妥当性を有する「高度な異言(hohere Glossolalie)」 を語り合っ ているだけだ、との見方をされる可能性すらあるだろう。そのようなことを避けるた めにも、『世界の秘密としての神』はあくまでも「出発点」として捉えられなければ ならず、その後に更に「普遍妥当性を要求する神概念」が模索される必要があるので はないだろうか 。以上のような、極めて素朴な問いをもって、筆を擱きたい。

(18)

本稿は、日本基督教学会近畿支部会(2006年3月15日、同志社大学)における研究発表に加筆、修正した ものである。なお、本研究の一部は、21世紀 COEプログラム「一神教の学際的研究 文明の共存と安全 保障の視点から」の研究助成による。

1 例えば、以下を参照。小原克博「EU時代の宗教―宗教多元社会の熟成に向けて」、小倉襄二他編『EU 世界を読む』所収、世界思想社,2001年。

2 Wolfhard Pannenberg,Die Frage nach Gott, in: Grundfragen systematischer Theologie. Gesammelte Auf- satze, Gottingen, 1979(3Aufl.),(=GT).,361.

3 ebd.

4 Gerhart Ebeling,Elementare Besinnung  auf verantwortliches Reden von Gott, in:Wort und  Glaube, Tubingen, 1960, 359.

5 Vgl. Eberhard Jungel,Vom  Tod  des  lebendigen  Gottes. Ein  Plakat, 1968, in:Unterwegs zur Sache  

Theologische Erorterungen I, Tubingen, 2000(3.Aufl.), ders,Gottals Wort unserer Sprache, 1969, in:

a.a.O., 81.

6 本文中の括弧内の数字は、E. Jungel,Gott als Geheimnis der Welt⎜Zur Begrundung der Theologie des  

Gekreuzigten im  Streit zwischen Theismus und Atheismus, Tubingen, 2001(7. Aufl).からの引用ならび に参照した頁を指す。

7 Friedrich Nietzsche,Die froliche Wissenschaft, Kroners Taschenausgabe. Bd.74, Leipzig, 141.

8 Vgl. W. Pnnenberg,Typen des Atheismus und ihre theologische Bedeutung, GT, 356f. (W・パネンベル ク『組織神学の根本問題』近藤勝彦。芳賀力訳、日本基督教団出版局、1984年、280頁。)山田晶『在り て在る者―中世哲学研究第三―』創文社、1979年、特に385‑406頁参照。

9 ユンゲルの「主観性の形而上学」理解の基本路線は、M・ハイデッガーのそれと極めて近似している。

ハイデッガーのデカルト解釈については Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd.6.2,Nietzsche II, Frank- furt am Main, 1997. S.124-148.を参照。

10 『世界の秘密としての神』における上述の無神論の歴史的展開は、主として、いわゆる「理論理性」の 観点から述べられたものであり、それ故に、無神論の自明性は単に「可能態(Moglichkeit)」としての み問題とされている。ユンゲルは、無神論の自明性の「現実態(Wirklichkeit)」のためには、更に、道 徳の基礎付けに対して神が必然的なものではなくなったという条件が必要だと言う(Vgl. 203. Anm.99)。

11 主観の形而上学が、近現代の世界的な工業化(世界製作)を生んだという着想は、ハイデッガーのいわ  

(19)

ゆ る「集 立(Gestell)」理 論 と 重 な る。「集 立」と は、有 用 性 と い う 観 点 か ら、存 在 者 を 表 象 し

(vorstellen)、製作し(herstellen)、用立てして(bestellen)、機能化へとせきたてる(herausfordern)よ うな「技術」の本質のことである。(Vgl. M. Heidegger,Identitat und  Differenz, Frankfurt am  Main, 1990(9. Aufl.), 23f.)

12 E. Jungel,Eberhard  Jungel, in: Henning, Chr./ Lehmkuhler, K.(Hg.),Systematishce  Theologie  der  

Gegenwart in Selbstdarstellungen, Tubingen, 1998. 192.

13 もっとも、「形而上学的」と並列して使用される「伝統的」という語に関しても同様のことが言える。

語彙の選択に関しては十分に注意を払うユンゲルだが、議論の核心に触れる問題であるにもかかわらず、

これらの歴史的負荷を担った語について明瞭に規定しているとは思えない。

14 この問題に関しては、以下を参照のこと。E. Jungel,Das Dilemma der naturlichen Theologie und  die  

Wahrheit ihres Problems. Überlegungen fur ein Gesprach mit Wolfhart Pannenberg, in: Entsprechungen:

Gott-Wahrheit-Mensch, Tubingen, 2002(3. Aufl),(=ES) 158-177.

15 E. Jungel,Gottesgewißheit, ES, 257f.

16 ユンゲル神学と形而上学との関係についてマクグラスは次のように説明している。「ユンゲルは、デカ ルトの世界観と結びついた形而上学は、神学に悪い影響を与えたものの一つであると批判している。

……J・ G・フィヒテ、L・フォイエルバッハ、F・ニーチェの神の理解(それゆえ彼らの反キリスト 教)は、このような形而上学の伝統から生まれたものであって、キリスト教の伝統から生まれたもので はないと主張した。しかしユンゲルは、啓示の中に適切な形で形而上学が入ってくるのを恐れなかった。

実際に彼の三位一体論は、神学の中に形而上学を持ち込んだことにより初めて成立したのである」

(A・ E・マクグラス,稲垣久和,岩田三枝子、小野寺一清訳『神の科学⎜科学的神学入門』教文館、

2005年,289頁)。しかし、この説明は正鵠を得ていないと思われる。ユンゲルが批判したフィヒテ、フ ォイエルバッハ、ニーチェの「形而上学」と、マクグラスの述べるところのユンゲル神学の中に持ち込 まれた「形而上学」は、別のものを意味している。ユンゲルはフィヒテたちの形而上学を、形而下に対 する「形而上」、現実的なものに対する「観念的、思弁的なもの」、機能的説明に対する「存在論的説 明」ということで批判しているわけではない。

17 Vgl. E. Jungel, ..keine Menschenlosigkeit Gottes... Zur Theologie Karl Barths zwischen Theismus und  

Atheismus, in:Evangelische Theologie, 31, 1971, 377.

18 E. Jungel,Gottesgewißheit, ES, 257.

19 ユンゲルは形而上学的神認識を含む伝統や思惟伝承に関して一概に否定的な態度をとっているわけでは ない。どのような神学者も過去の神学体系なしに、一からはじめることはできないことはユンゲルにも 自明である。それ故にまた、ユンゲルは神学が常に批判的(kritisch)であることを要求し、「形而上学 に対して全く自由だとは言わないが、少なくとも形而上学に対して自由に振舞える神学」(62)を構想 する。しかし、この両者の関係は慎重な検討を要するだろう。

20 ここでは久松真一の名前が挙げられている。

(20)

21 E. Jungel,Das Dilemma der naturlichen Theologie und die Wahrheit ihres Problems, ES, 177. 本稿にお いて、この方法の是非を検討することはできない。ここでは、はたしてこのような手法が解釈学的に見 て正しいものであろうか、あるいは、宣教史を鑑みたときにこれは現実に即したものであろうか、また、

ユンゲル神学の中でこの方法は本当に一貫しているのであろうか、という問いを立てることに留めてお く。

22 E. Jungel,Gottes Sein ist im  Werden, Tubingen, 1986(4Aufl), 113.

23 E. Jungel,Das Verhaltnis von »okonomischer«und »immanenter«Trinitat―Erwagungen uber eine biblis- che Begrundung der Trinitatslehre―in Anschlußan und in Auseinandersetzung mit Karl Rahners Lehre

 

vom  dreifaltigen Gott als transzendentem  Urgrund der Heilsgeschichte, Es, 275.

24 E. Jungel,Gottesgewißheit, ES, 259.

25 Vgl. E. Jungel,Das Dilemma der naturlichen Theologie und die Wahrheit ihres Problems, ES, 173f.

26 これは、彼が激しく批判するところの「自然神学(naturliche Theologie)」に対して使用した語である。

「キリスト」教神学は、自然的神認識より、キリストに集中する方が、より「元来的(naturlich)」であ ろう、ということを表現しているのである。Vgl. E. Jungel,Gott-um  seiner selbst willen interessant, ES, 197.

27 また、ユンゲルの「普遍妥当性への要求」に対する関心については、『神の存在は生成にある』の第三 版(1975年)以降に所収された「エピレゴメナ」が示唆に富んでいる。Vgl. E. Jungel, Gottes Sein ist

  im Werden, 131ff.

28E. Jungel,Gottesgewißheit, ES, 259.

29 ユンゲルと同様に、近代以降、主観性の形而上学が進展し、ニーチェに至ってそれは頂点を極めたと考 える M・ハイデッガーは、中期から後期にかけて「存在の歴史(Geschichte des Seins)」を構想したと きに、まさにこのように考えていた(彼の場合は「神喪失」ではなく「存在忘却」ではあるが)。つま り、存在忘却は、人間が存在を忘れることに由来するのではなく、存在が人間を見捨てる(verlassen)

ということに由来しているとハイデッガーは考えるのである。拙論「存在の真理と最後の神 マルテ ィン・ハイデッガー『哲学への寄与』における 」、『基督教研究』第66巻2号所収、2005年、63‑86 頁。

30 W. Pannenberg, a.a.O. 351.

31 なお、『世界の秘密としての神』においてユンゲル神学が「特殊から普遍へ」と進み得ていないという 批判については、深井智明「有神論と無神論との間で十字架につけられた者の神学の基礎付け⎜エバー ハルト・ユンゲルにおける神認識の問題」、『聖学院大学総合研究所紀要』第33号所収,2005年,435‑

463頁。ならびに、近藤勝彦「E・ユンゲルにおける神の問題 その「十字架の神学」の理解と批判

」、『現代神学との対話』所収、ヨルダン社、1985年を参照。

 

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