申し子をめぐる〈風景〉 : 徳冨蘆花「漁師の娘」
著者 平石 岳
雑誌名 同志社国文学
号 82
ページ 65‑77
発行年 2015‑03‑20
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014362
申 し 子 を め ぐ る ︿ 風 景
﹀
徳 ︱
冨 蘆 花 ﹁ 漁 師 の 娘
﹂ ︱
平 石
岳
︽は じめ に︾ 徳冨 蘆花
﹁漁 師の 娘﹂ は︑ 明治 三〇 年一 月﹃ 家庭 雑誌
﹄第 九四 号 春期 大附 録に 発表 され
︑約 一年 後に 刊行 され た︑ 蘆花 にと って はじ めて の文 芸作 品集
﹃青 山白 雲﹄
︵民 友社
明治 三一 年三 月二 五日
︶ に巻 頭作 とし て収 録さ れた
︒ 子の ない こと に悩 み︑
﹁朝 夕筑 波さ まを 拝ん で﹂ いた 漁師 の万 作 が︑ ある 日連 れ帰 って きた 少女 は︑
﹁お 光﹂ と名 付け られ
︑万 作夫 婦に 愛育 され る︒ しか し︑ なま じ頭 が良 いた め周 りの 子ど もた ちか らは 距離 をと られ
︑偶 然出 会い 好意 を持 った 若殿 の酒 色の だら しな さに 絶望 する
︒浮 島︑ 霞が 関︑ 筑波 山の 自然 にお 光は 慰め られ るも
︑ 貧困 に苦 しむ 万作 から 妾話 を持 ち出 され 悲し みに 暮れ る︒ そし て︑ ある 夜万 作の 好き な焼 酎を 買い に舟 を出 すが
︑出 水に より 帰ら ぬ人
にな る︑ とい うの が﹁ 漁師 の娘
﹂の 大ま かな 筋で ある
︒
「漁 師の 娘﹂ は︑
﹃家 庭雑 誌﹄ 発表 時︑ 読書 人に は黙 殺さ れ︑ 後の
﹃青 山白 雲﹄ も商 業的 には 成功 しな かっ た︒ しか し︑ 後年 にお いて は︑ 前田 河広 一郎①
が﹁ 方向 転換 の第 一作
﹂﹁ これ から のか れの 書く もの の基 調﹂ とし て評 価し
︑吉 田正 信②
も﹁ 作家 とし ての 立脚 点﹂ と 述べ てい るよ うに
︑﹃ 自然 と人 生﹄
︵民 友社
明治 三三 年八 月一 八 日︶
︑﹃ 青蘆 集﹄
︵民 友社
明治 三五 年八 月二 一日
︶に 代表 され るよ うな
︑自 然を 主題 とし た作 品群 への 萌芽 とさ れて いる
︒作 品論 とし ては
︑布 川純 子③
が蘆 花の 生い 立ち とワ ーズ ワー スの 影響 を中 心に 考 察し てい る︒ だが
︑作 品自 体を 分析 した もの は少 なく
︑蘆 花文 学史 を総 括的 に 検討 する 際に
︑佳 作の 一つ とし て挙 げら れる に過 ぎな い︒ そこ で本 稿で は︑ 吉田 や布 川が 指摘 した ワー ズワ ース の影 響の 他に
︑蘆 花の 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
六五
写生 趣味 と同 時期 の画 壇の 状勢
︑民 友社 の同 僚で あっ た宮 崎湖 処子 の諸 作品 との 関わ りに 注目 する とと もに
︑作 品内 の︿ 風景
﹀が どの よう に描 かれ
︑機 能し てい るの かを 考察 した いと 思う
︒
︽一
︑蘆 花と 画壇
︾
「漁 師の 娘﹂ が発 表さ れた 明治 三〇 年と は︑ 蘆花 の所 謂﹁ 雑文 時 代﹂ にあ たる
︒明 治二 二年 に実 兄・ 徳富 蘇峰 の主 宰す る民 友社 に入 社し た蘆 花は
︑民 友社 系の
﹃国 民新 聞﹄
﹃家 庭雑 誌﹄
﹃国 民之 友﹄ に︑ 雑多 な翻 訳︑ 翻案
︑史 伝︑ 小品 を発 表し てい るが
︑こ れら の大 半は 蘇峰 の指 示に よる もの であ り︑ 明治 三一 年一 一月
﹁不 如帰
﹂の
﹃国 民新 聞﹄ 連載 開始 まで 雌伏 の時 代を 過ご すこ とに なる
︒こ のよ うな 中︑ 外遊 中の 蘇峰 の隙 を突 くよ うに④
︑両 親が 明治 二九 年一 一月 に逗 子転 居を した こと に合 わせ る形 で︑ 蘆花 も再 生を 期し て︑ 逗子 に居 を移 した
︒ この 時期
︑蘆 花は 写生 に熱 中し てい た︒ 明治 二七 年に 結婚 した 妻・ 愛子 は画 を好 み︑ それ に触 発さ れた 蘆花 は二 八年 の一 一月 頃か ら﹁ 写生 狂﹂
︵﹁ 序﹂
﹃青 山白 雲﹄
︑初 出は
﹁写 生帖 画﹂
﹃国 民新 聞﹄ 明治 三一 年一 月一 二・ 一四 日︶ にな り︑ 絵筆 と写 生帳 を抱 えて 様々 な地 に写 生行 脚を する こと にな る︒ ここ で注 目し たい のは
︑当 時の 日本 洋画 壇の 状勢 であ る︒ 蘆花 が写 生に 熱中 して いた 時期
︑画 壇は
︿風 景﹀ につ いて 革新 期を 迎え てい た︒ 明治 二二 年に 設立 され
︑画 壇の 中心 的存 在で あっ た明 治美 術会 は行 き詰 まり を示 して おり
︑そ の中 でフ ラン ス帰 りの 黒田 清輝
︑久 米桂 一郎 とい った
︑所 謂外 光派 が登 場し た︒ イタ リア 系ア カデ ミズ ムの 教化 を受 けて いた 今ま での 明治 美術 会会 員は
﹁旧 派﹂
﹁脂 派﹂
﹁北 派﹂ とさ れ︑ フラ ンス 印象 派 の体 現者 であ った 黒田 と久 米を 中心 とし た一 派は
﹁新 派﹂
﹁紫 派﹂
﹁南 派﹂ と称 され た︒ そし て︑
﹁旧 新二 派あ りて 常に 相反 目⑤
﹂す るこ とに なっ た明 治美 術会 の中 で︑ 黒田 らの 活動 は大 きく 注目 され るこ とに なる
︒特 に︑
﹁南 派﹂ の光 と色 彩に 満ち た風 景画 が多 く描 かれ てい き︑ 青木 茂が
﹁﹁ 風景 画﹂ の成 立し た年⑥
﹂だ と断 定し た︑ 明治 二八 年の 第七 回展 でそ の活 動は 広く 知ら れる とこ ろに なっ た︒ 森鷗 外は
︑明 治二 八年 一一 月二 一日
﹃日 本﹄ にお いて
︑﹁ 今の 日 本は 南派 が意 を得 たる 天地 なり
﹂と
︑こ のこ ろの 画壇 の状 勢を 捉え てい る︒ 加え て高 山樗 牛も
︑﹁ 南派 の出 現は 平板 単調
︑沈 鬱腐 爛せ る我 が絵 画界 に対 して 如何 に大 胆な る一 打撃 なり しぞ
︒題 目に 於て も色 彩に 於て も目 覚ま しき まで に快 活自 由な る是 派の 絵画 は如 何ば かり 旧画 家の 迷妄 を警 醒し
︑如 何ば かり 彼等 の観 察を 胖ふ し︑ 如何 ばか り彼 等の 手腕 を解 放せ しや
﹂︵
﹁南 派の 危機
﹂﹃ 太陽
﹄第 二巻 第 六号 明治 二九 年三 月︶ と述 べて いる
︒こ の後
︑旧 態依 然と した 明 治美 術会 から 抜け 出し た黒 田と 久米 を中 心と して 白馬 会が 結成 され
︑
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
六六
明治 三〇 年代 の画 壇に 大き な勢 力を 持つ よう にな る︒ この 画壇 にお ける
︿風 景﹀ の革 新と は︑ 単に 技巧 上の もの に留 ま らな い︒ 写生 を通 して 起こ った
︿風 景﹀ 意識 の変 革を
︑後 に白 馬会 に加 わる こと にな る三 宅克 己の 回想 から 見て みる
︒三 宅は
︑﹁ 余が 踏め る写 生の 段階
﹂︵
﹃文 章世 界﹄ 第二 巻第 三号 明治 四〇 年三 月︶ と題 し︑ 明治 三〇 年頃 に高 橋勝 造︑ 岩村 透か ら受 けた
︿風 景﹀ の変 革を 次の よう に回 想し てい る︒ 高橋 君の 真似 をし て見 たが
︑ど うも
︑自 分が 単に 檞の 木が 一本 ある 所や 杉の 木を など 描い たの では 趣味 がな い︒ やは り松 の木 があ つて
︑下 に山 門で もあ ると か︑ 種々 面白 い形 が画 面の 上に 現は れて
︑コ ムポ ジシ ヨン の面 白い もの でな けれ ば画 にな らな かツ た︒
/す ると
︑偶 々美 術学 校の 教授 岩村 透氏 が欧 羅巴 から 帰つ て来 られ たの で︑ 会つ て種 々お 話を 聞い て︑ 自分 がそ れま で得 意で 描い たも のを 見せ ると
︑氏 はか うい はれ た︒ 君は 自然 を見 て画 を描 いて ゐる が︑ 実は 画の ため に画 を描 いて いる
︒い けな い︒ 全く 頭を 入れ かへ て︑ 紙や 筆を 棄て ゝ︑ 懐ろ 手で もし て︑ 渋谷 なり 目黒 なり
︑近 郊を 散歩 して みろ
︒歩 いて ゐる と画 の方 には かう いふ 図題 は面 白い か面 白く ない かは 別と して
︑き ツと 恍惚 とし た自 然が 現は れる
︒そ の感 じを 現は す為 めに
︑筆 や紙 を用 ゐて 描け
︒︵ 中略
︶そ れか らは
︑日 本固 有の 特色 など
は捨 てゝ 了ツ て︑ 唯だ 心持 よく
︑美 しく 感じ ると いふ 感じ を中 心と して 描く よう にし た︒ する と︑ 写生 の範 囲が 広く なつ た︒
︵傍 線引 用者
︒以 下同 じ) 蘆花 の写 生に よる
︿風 景﹀ 意識 の変 革は
︑こ の三 宅の 体験 と非 常 に似 通っ てい る︒ 蘆花 の新 しい
︿風 景﹀ は︑
﹁吾 初恋 なる
﹃自 然﹄
﹂
︵﹃ 小天 地﹄ 第二 巻第 七号 明治 三五 年四 月︶ に語 られ てい るよ うに
︑ 年少 のこ ろ﹁ 虚弱 の体 質﹂ だっ た蘆 花が
﹁人 に求 めて 得ざ る慰 藉を 余は 何時 しか
﹃自 然﹄ に求 め﹂ てい た内 面心 情と 結び つい て︑ 次の よう に表 出し た︒ 余は 彼の 自然 を恋 ひぬ
︒然 も多 くの 恋は 盲目 なり
︑何 人も 恋人 の面 目を 鮮か に見 得る 者は 稀な る如 く余 は斯 く恋 しき 自然 の面 目︑ 自然 の性 情を 少し も知 らざ りき
︒況 んや 自然 の奥 に秘 めら れし 意義 をや
︒/ 余が 自然 を盲 愛し て少 しも 自然 其者 を知 らざ るに 気づ きた るは 写生 画の 嗜好 より なり
︒画 は正 式に 学ば ず︑ 今も 茶碗 の輪 郭一 つが 満足 には とれ ざれ ど︑ 芸術 は手 なく て成 らず
︑手 を使 ふに は眼 なく ては かな はず
︒蘆 の葉 一葉 を画 くに も夢 みて は画 く能 はず
︑現 実を 経ざ れば 感も 想も 表は し難 けれ ば︑ 空想 の倨 傲を すて ゝ研 究科 の最 下級 に﹃ アイ ウエ オ﹄ より 学び 始む るに 到れ り︒
「コ ムポ ジシ ヨン
﹂﹁ 日本 固有 の特 色﹂ から 離れ た︿ 風景
﹀を 当時 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
六七
の画 家た ちは 描き
︑そ のこ ろに 写生 を始 めた 蘆花 も︑
﹁空 想の 倨傲 をす て﹂ るこ とで
︑﹁ 自然 の奥 に秘 めら れし 意義
﹂や
﹁現 実﹂ を見 つめ るこ とに なり
︑写 生に 基づ いた 新し い︿ 風景
﹀へ の視 線を 獲得 する こと にな った ので ある
︒ この よう な新 しい
︿風 景﹀ が画 壇に 浸透 し始 めた のと 同時 期に
︑ 文壇 には 志賀 重昻
﹃日 本風 景論
﹄︵ 政教 社 明治 二七 年一
〇月 二七 日︶ が登 場し た︒ 布川 が言 及し てい る通 り︑ この ベス トセ ラー を蘆 花が 読み
︑自 然を 書き たい とい う思 いが 募っ た⑦
こと は注 目で きる だ ろう
︒画 壇の 革新
︑そ して
﹃日 本風 景論
﹄と いっ た書 物の 流行 もあ り︑ 明治 二〇 年代 後半 から 三〇 年代 にか けて
︑﹁ 美術 と文 学が 帯同 した 風景 への 熱狂⑧
﹂が 巻き 起こ った
︒民 友社 の同 僚国 木田 独歩 の
﹃武 蔵野
﹄︵ 民友 社 明治 三四 年三 月一 一日
︶や
︑﹃ 太陽
﹄に 多く 写 生文
・紀 行文 を発 表し た田 山花 袋︑ 遅塚 麗水
︑大 町桂 月︑ 大橋 乙羽 らが それ ぞれ 自ら の足 と手 で新 しい
︿風 景﹀ を描 き出 して いく
︒正 岡子 規も
︑﹁ 日本 画崇 拝者 で西 洋画 排斥 者﹂ であ った 時に
︑洋 画家 中村 不折 との 交流 によ って
﹁始 めて 眼が 明い
﹂て
︑そ れ以 降︑ 西洋 画の 批判 を聞 くと
︑日 本画 の短 所を
﹁大 得意 にし やべ つて いる
﹂自 らの
﹁気 障加 減﹂ を明 治三 三年 に語 って いる⑨
︒そ して 後に 蘆花 夫婦 も︑ 三宅 と同 じく 白馬 会に 加わ るこ とに なる
︑民 友社 お抱 え画 家の 和田 英作 に水 彩画 を学 ぶこ とに なっ た︒
︽二
︑宮 崎湖 処子 諸作 品の 影響
︾ この よう な画 壇と 文壇 が︿ 風景
﹀に 熱中 して いく 風潮 の中 で︑
﹁漁 師の 娘﹂ の創 案に 大き な影 響を 与え たと 考え られ るの は︑ 民友 社の 同僚 であ った 宮崎 湖処 子の 諸作 品で ある
︒蘆 花は
︑明 治三
〇年 八月 二〇 日付 蘇峰 宛書 簡に
﹁過 去一 年間 の事 正直 を申 せば 湖処 子の 顰に 倣は ざる 可か らず⑩
﹂と 記し てい るよ うに
︑﹁ 漁師 の娘
﹂執 筆期 に︑ 湖処 子に 強い 影響 を受 けて いた こと を告 白し てい る︒ 湖処 子は
︑民 友社 十二 文豪 叢書⑪
のひ とつ とし て﹃ ヲル ヅヲ ルス
﹄
︵明 治二 六年 一〇 月一 七日
︶を 著し
︑日 本に ワー ズワ ース を広 めた 第一 人者 であ り︑ それ と並 行し てワ ーズ ワー スの 汎神 論的 自然 観を 継い だ作 品を 次々 発表 して いく
︒こ のよ うな 湖処 子の 自然 観に つい て︑ 太田 水穂 は﹁ 自然 の観 方に 於い て︑ 日本 従来 の旧 套を 打ち 破つ た効 は磨 すべ から ざる もの
﹂だ と評 価し
︑﹁ おぼ ろげ なが ら天 然の 背後 に生 命を 認め て居 つた
﹂と 回想 して いる⑫
︒こ の時 代の 湖処 子の 作品 に注 目す ると
︑﹁ 漁師 の娘
﹂の プロ ット を構 成す るキ ーワ ード やテ ーマ を多 く見 出す こと がで きる ので ある
︒
「漁 師の 娘﹂ のプ ロッ トに つい ては
︑既 に布 川に よっ て︑ ワー ズ ワー スの 散文 詩﹁ Lu cy Gr ay
﹂︵ 一七 九九
︶を 踏襲 して いる もの だ とい う指 摘が ある⑬
︒こ の指 摘は おそ らく 正し いだ ろう が︑ 湖処 子は
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
六八
﹁L uc yG ra y﹂ を﹁ るう しい
︑ぐ れい
﹂︵
﹃国 民新 聞﹄ 明治 二五 年七 月一
〇日
︶と して 訳出 して おり
︑蘆 花が この 翻訳 に触 れた 可能 性は 非常 に高 い︒ また
︑湖 処子 自身 の詩 作の 中で も︑
﹁小 川﹂
︵﹃ 国民 新聞
﹄明 治二 五年 四月 三日
︶や
︑﹁ とま らぬ 水﹂
﹁流 水﹂
﹁里 の小 川﹂
︵﹃ 湖処 子詩 集﹄ 右文 社 明治 二六 年一 一月 三〇 日︶ など に︿ 流水 と子 ども
﹀と いう テー マが 示さ れて いる
︒他 にも
︑﹁ 雲雀
﹂︵
﹃国 民新 聞﹄ 明治 二 三年 六月 五日
︶に 示さ れた
︿自 然と 孤独 な少 女﹀ とい うよ うな テー マが
︑﹁ 漁師 の娘
﹂と 共通 のも のと して 見出 すこ とが でき る︒ 例え ば︑
﹁と まら ぬ水
﹂の 全文 は以 下の 通り
︒ 里の 小川 を来 て見 れば
︑/ 小魚 とる とて こど もら が︑
/昨 日も けふ もお とつ ひも
︒/ ひね もす 水を すく ふな り︒
/さ ゞれ ゆく 水さ ら〳 〵と
︑/ 絶え ず月 日は なが るゝ を︒
/里 の子 ども はい つま でか
︑/ とま らぬ 水を すく ふら む︒ 後述 する が︑ この 時期 の湖 処子 の詩 作の 大き なテ ーマ は﹁ 水﹂ であ り︑ した がっ て︑
﹁L uc yG ra y﹂ には 示さ れて いな い水 辺の 少女 と 自然 の関 係は
︑む しろ こち らに 大き く影 響を 受け たと 考え られ る︒ 散文 では
︑湖 処子 の出 世作 とな った
﹃帰 省﹄
︵民 友社 明治 二三 年六 月二 七日
︶を はじ め︑
﹁村 落小 記﹂
︵﹃ 国民 新聞
﹄明 治二 四年 六 月二 四日
~七 月三
〇日
︶︑
﹁自 然児
﹂︵
﹃国 民新 聞﹄ 明治 二八 年四 月一
八~ 二七 日︶ とい った
︑地 方の 自然 豊か な風 土と
︑そ の中 で暮 らす 人間 たち の姿 を写 しだ した 作品 群も 注目 でき る︒ また
︑﹁ 漁師 の娘
﹂ の素 材と 類似 する もの に︑ 湖処 子作 の﹁ 漁師
﹂︵
﹃家 庭雑 誌﹄ 第八 八 号 明治 二九 年一
〇月
︶が 考え られ る︒
﹁漁 師﹂ は︑
﹁英 国に 伝ふ る 寝物 語中 の一 話﹂ と但 し書 きが され た︑ 口語 体の 短い 説話 的物 語で ある
「 ︒ 漁師
﹂は
︑浜 辺の あば ら屋 に妻 と住 む漁 師が
︑釣 り上 げた ヒラ メに 様々 な願 いを 叶え られ るも
︑妻 が行 き過 ぎた 願い をし たた めに
﹁獅 子の 様な 激浪 が縦 横無 尽に 暴れ まは
﹂り
︑あ ばら 屋も 元の 通り に戻 って しま うと いう 物語 であ る︒ ここ に︑
︿子 無し の漁 師夫 婦﹀
︿出 水に よる 終焉
﹀と いう 共通 点を 発見 でき る︒ 以上 見て きた よう に︑ 湖処 子の
︿流 水と 子ど も﹀
︑︿ 自然 と孤 独な 少女
﹀と いっ た詩 の テー マ︑ そし て﹁ Lu cy Gr ay
﹂や
﹁漁 師﹂ を素 材と して 採用 し︑
﹁漁 師の 娘﹂ は構 成さ れて いっ たの では ない だろ うか
︒そ して
︑こ れら のテ ーマ は︑ 藤井 淑禎 が﹁ 不如 帰﹂ に見 出し た﹁ 海辺 の悲 劇⑭
﹂ へと 引き 継が れて いく もの と見 てい いだ ろう
︒ つま り︑ 写生 によ って
﹁自 然の 奥に 秘め られ し意 義﹂ を発 見し た 蘆花 は︑
﹁天 然の 背後 に生 命を 認め て居 つた
﹂湖 処子 諸作 品に
﹁漁 師の 娘﹂ の素 材を 求め たと いっ てよ い︒ では
︑そ のよ うに して 生み 出さ れた
﹁漁 師の 娘﹂ には
︑ど のよ うな
︿風 景﹀ が描 かれ てい るの 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
六九
だろ うか
︽ ︒ 三︑ 申し 子の
︿風 景﹀
︾
「漁 師の 娘﹂ の︿ 風景
﹀を 考え る際 に注 目し たい のは
︑﹃ 青山 白 雲﹄ 巻頭 作と して 収録 時に 行わ れた 改稿 であ る︒
﹃青 山白 雲﹄ を構 成す るの は︑ 民友 社期 に執 筆し た小 説︵ 小品
︶︑ 史伝
︑随 想で あり
︑ おそ らく 蘇峰 から の指 示で 執筆 され たも のは 収録 され てい ない
︒収 録作 品と 配列 を見 ても
︑蘆 花の 言葉 通り
︑統 一感 もな く今 まで の著 作を 掻き 集め た印 象で ある⑮
︒そ の中 で﹁ 漁師 の娘
﹂を 巻頭 作と した のは
︑蘆 花自 身が 気に 入っ てい たか らだ とい う証 言も ある よう に⑯
︑ 一応 は自 信作 であ った のだ ろう
︒ では
︑初 出と
﹃青 山白 雲﹄ 版︑ 両方 の﹁ 漁師 の娘
﹂に は︑ どの よ うな
︿風 景﹀ が写 し出 され てい るの だろ うか
︒例 えば
︑浮 島の 春の 描写 は次 のよ うに 行わ れて おり
︑こ の部 分は
﹃青 山白 雲﹄ 版で も改 稿さ れて いな い︒ 背戸 の柳 緑の 糸を かけ そめ て枯 葦の 間か らぽ つ〳 〵薄 紫の 芽が ふく 頃と なれ ば︑ それ 雪は 申さ ず先 づ紫 の筑 波山 霞ゆ ゑに 遠く なつ て名 詮自 称霞 が浦 は一 面春 霞だ
︒其 間に 此処 に一 つ︑ 彼処 に二 つ掌 に載 る程 の白 帆が 走る とも なく 霞の 奥に かく れ行 く其 景色 は︑ 如何 様に ゆか しく お光 の心 に覚 へた であ らふ
︒
「薄 紫の 芽﹂ から
﹁紫 の筑 波山
﹂を 導き 出し
︑﹁ 霞が 浦﹂ の﹁ 春 霞﹂ へと
﹁名 詮自 称﹂ の言 葉遊 びの よう に表 現さ れ︑
﹁白 帆﹂ を
﹁一 つ﹂
﹁二 つ﹂ と数 え上 げて
︑そ の大 きさ を﹁ 掌﹂ を通 して 把握 す るこ の︿ 風景
﹀は
︑写 生趣 味を 思わ せる 描写
︑つ まり
︑色 彩に 注目 しな がら 次第 に全 景が 示さ れて いく とい う方 法に よっ て行 われ てい る︒ そし て︑ その
﹁現 実﹂ をそ のま まに 写し 出せ ると 蘆花 が考 えた
︿風 景﹀ は︑
﹁お 光の 心﹂ によ って 把握 され てい るの であ る︒ 加え て︑ 作中 の︿ 風景
﹀描 写部 分に は︑ 初出 から
﹃青 山白 雲﹄ 版 へ至 って
︑修 正加 筆が 多く なさ れて いる
︒冒 頭で
︑お 光の 歌声 を称 賛す る場 面は
︑初 出で は次 のよ うに 描写 され てい た︒ 夏か ら秋 にか けて は︑ 人身 より も高 い葭 葦茫 々と 生ひ 茂つ て︑ 一寸 見た とこ ろで は何 処に 家が 潜む で居 ると も分 から ぬ︒ 唯此 あた りを 通つ て居 ると
︑蘆 の中 から だし ぬけ に刮 々家 鴨の 騒く 音が 聞え たり
︑朝 夕は 一条 の青 烟が 蘆の 中か ら立 のぼ つた り︑ たま には 蘆の 上に ぬつ と出 た柳 の梢 に赤 黒い 網が かゝ つて 居た り︑ 闇の 夜は 真黒 い蘆 の隙 から 蛍ほ どの 火光 がち ら〳 〵漏 るゝ ので
︑や つと それ と知 られ た︒
﹃青 山白 雲﹄ 版で は︑ この 後に
︑浮 島の 情景 が細 かな 修正 とと も に挿 入さ れて いる
︒ 秋の 夕日 が西 に入 つて
︑紺 色に なつ た馬 掛の 鼻か ら水 鳥が 二羽
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七〇
三羽 すう と金 色の 空を 筑波 の方 へ飛 んで
︑高 浜麻 生潮 来の 方角 が一 帯に 薄紫 にな つて
︑十 六島 の空 に片 破れ 月が しよ んぼ りと 出て
︑浮 島の 黄ろ く枯 れた 蘆の 根も とに 紅色 の水 ゆら 〳〵 と流 るゝ 時分
︑空 より 湧い て清 い一 ト声
︑秋 の夕 の森 とし た空 気を 破つ て︑ 断続 の音 波が 忽ち 高く 忽ち 低く 蘆の 一葉 〳〵 を震 はし て︑ 次第 〳〵 に霞 が浦 の水 の上 に響 いて 行く 時は
︑ワ カサ ギを 漁し て戻 る島 の荒 し男 も身 震い して 橈を とゞ めた
︒ 色彩 と光 に富 んだ この
︿風 景﹀ は︑ 黒田 や久 米が 日本 洋画 壇に 広 め︑ そし て蘆 花自 身が 写生 によ って 実践 する こと を目 指し たも の⑰
で あり
︑そ の新 しい
︿風 景﹀ への 視線 が︑
﹃青 山白 雲﹄ 版に 至っ て文 章に 適用 され たと いえ る︒ この
︿風 景﹀ 描写 は作 品世 界と も密 接に 関係 して いる
︒﹁ 此絶 景 を占 領し て居 る万 作が 家は 主人 だけ 無風 流﹂
︑﹁ 頓着 もな い万 作が 眼 には 何も 見え ぬが
︑お 光の 眼に は四 季刻 々う つり かは る景 色が 如何 様に 面白 く珍 しく 見え たで あら ふ﹂ と︑ 作中 では 霞が 浦の
︿風 景﹀ は︑ お光 のみ が理 解で きる 対象 であ るこ とが 繰り 返し 喚起 され
︑む しろ
︑お 光と いう 存在 によ って 霞が 浦の
︿風 景﹀ は浮 かび 上が って いる のだ
︒ だが
︑お 光は
︑﹁ 心を 育て 上げ たも のは 筑波 と霞 が浦
﹂と いう 世 離れ した 少女 であ るが ゆえ に︑ 同じ 小学 校の 子ど もた ちか らは
︑
﹁学 才す ぐれ て﹂ いた こと も相 まっ て︑ のけ もの 扱い をさ れて しま う︒ 初出 では
︑こ のお 光の
﹁学 才﹂ を万 作夫 婦は 次の よう に語 って いる
︒ あゝ 若し 此児 を斯 る漁 師の 女に しな いで
︑英 国の 教育 ある 家庭 に生 れし めた れば
︑フ ロレ ンス
︑ナ イチ ンゲ ール とな つた かも 知れ ぬ︒ 若し 此児 を平 安の 宮廷 に生 れし めた れば 紫清 両女 の其 一と なつ たか も知 れぬ
︒人 も生 れ所 と育 ち様 によ つて 大し た幸 不幸 の差 があ るも のだ
︒併 し也 知造 物有 深意
︑故 遣佳 人在 空谷 で︑ 却つ て其 が仕 合せ であ つた かも 知れ ぬ︒ 兎に 角万 作夫 婦は 日々 に生 いた つお 光に 慰め られ て蝶 花と 愛し みな がら
︑﹁ 妙な 子だ のウ
﹂﹁ 妙な 子だ よ﹂
︑斯 く語 り合 つた
︒ しか し︑
﹃青 山白 雲﹄ 版で は︑ 右の 点線 部は 削除 され
︑﹁ 生れ 所と 育ち 様に よつ て﹂ お光 が人 間社 会に 認め られ る可 能性 すら も示 され るこ とは ない
︒ これ らの 改稿 が明 確に する のは
︑︿ 風景
﹀へ の視 線を 持っ てい る こと によ って 生じ てし まう
︑お 光と 人間 社会 との 隔た りで ある
︒
﹁漁 師の 娘﹂ は︑ 子無 しの 初老 夫婦 が筑 波山 に拝 むこ とに よっ て子 が授 けら れる とい った
︑所 謂申 し子 譚の 構造 をと る︒ 柳田 国男 は︑
﹃桃 太郎 の誕 生﹄ 中の 一節
﹁申 し子 の霊 験﹂ で︑ 瓜子 姫・ 桃太 郎の 物語 が生 まれ た背 景を 次の よう に述 べて いる⑱
︒ 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七一
特定 の方 法に 依り
︑若 しく は特 定の 条件 を具 へた 人の みが
︑さ うい ふ不 思議 に出 逢ふ のだ とい ふ解 釈が
︑昔 話を 発生 せし めた ので あつ た︒
︵中 略︶ 第一 に其 爺婆 の善 人で ある こと
︑殊 に児 の無 いこ とを 唯一 つの 苦労 にし て居 る処 へ︑ 拾は れて 来て 育て られ ると いふ こと は︑ 恐ら く此 種の 民譚 の最 初の 要件 であ つた らう と思 ふ︒ これ を﹁ 漁師 の娘
﹂に あて はめ るな らば
︑柳 田の いう
﹁特 定の 条 件﹂ こそ
︑申 し子 とし て登 場す るお 光が 持つ
︿風 景﹀ への 視線 なの であ り︑ その 視線 を持 つが ゆえ に︑ お光 は人 間社 会で うま く生 きて いく こと がで きな い︒ そし てそ れは
︑﹃ 青山 白雲
﹄版 での 改稿 でさ らに 強調 され
︑方 法と して 意識 され てい るの であ る︒
︽四
︑﹁ 博覧 会的 風景
﹂︾ だが
︑﹁ 漁師 の娘
﹂に 示さ れる のは
︑決 して 写生 的な 新し い︿ 風 景﹀ だけ では なか った
︒そ れを 確か める ため に︑ 霞が 浦の 夏の 描写 を見 てみ る︒ 初出 では 次の よう に︑ 夕月 の光
︑夜 の蛍 とい う描 写に 留ま って いる
︒ 夕月 がの ぼる
︒霞 が浦 は夜 なが ら東 雲だ
︒そ れ闇 夜は 千万 億数 限り もな い蛍 が水 の上 蘆の 間に 小さ な燈 火を 掛け て︑ 水も 草も 蛍く さい
︒お 光の 心は 如何 様に 涼し く感 じた であ らふ
︒
﹃青 山白 雲﹄ 版で は︑ この 部分 は次 のよ うに 改稿 され た︒ それ 夕立 だ︒ 筑波 の頭 から 空を 劈い て湖 に落 ち込 む電 びか り〳 〵と 二筋 三す じ︑ 雷が 鳴る
︑真 黒の 雲見 る〳 〵湖 の天 に散 つて
︑波 吹き 立つ る冷 たい 風一 陣︑ 戸口 の蘆 のそ よと 言ひ 切ら ぬ内 に︑ 麻生 の方 から ざあ と降 り出 した 白雨 横さ まに 湖の 面を 走つ て︑ 漕ぎ ぬけ うと あせ る釣 船の 二は い三 ばい 瞬く 間に 引包 むか と見 るか 内に
︑驚 き騒 ぐ家 鴨の 一ト 群を 声諸 共に 掻消 して
︑ つひ 鼻先 の柳 の樹 をさ つと 一刷 毛薄 墨に ぼか して しま ふ︒ 晴 るゝ
︑暮 れる
︑真 黒い 森の 背ぼ うつ と東 雲め て上 る夕 月︑ 風な きに 散る 白銀 の雫 ほた 〳〵
︒闇 は墨 絵の 蘆に 水︑ ちら り〳 〵ほ の見 へて
︑其 処ら ぢう 蛍く さい
︒お 光の 心は 如何 様に 涼し く感 じた であ らふ
︒ この よう に︑ 夕立 に覆 われ る人
︑家 鴨の 群れ の声 に注 目さ せな が ら︑ 一過 の蛍 の光 を描 写し てい る︒ 初出 では 静的 なも のと して 描写 され てい た︿ 風景
﹀が
︑﹃ 青山 白雲
﹄版 では
︑音 響を 巧み に取 り入 れな がら 動的 なも のと して 表現 され てい るの であ る︒ そし て︑
﹁一 刷毛 薄墨 にぼ かし
﹂﹁ 白銀 の雫 ほた 〳〵
﹂﹁ 闇は 墨絵 の蘆 に水
﹂と い う表 現を 用い て︿ 風景
﹀を 描写 して いる
︒こ こに は写 生的 な︿ 風 景﹀ の描 写で はな く︑ 水墨 画を 思わ せる 描写 が用 いら れて いる
︒さ らに
︑物 語の 末尾
︑消 えて しま った お光 の行 末の 場面 を見 てみ る︒
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七二
一人 が言 ふに は︑ お光 坊が あま り美 しひ 娘だ から 浦の 水神 様が 御嫁 に貰 はつ しや つた ので かな あら ふ︒ 他の 一人 がい ふに は︑ いや 〳〵 お光 坊は 平生 筑波 さま と大 の中 よし であ つた から
︑筑 波さ まの 不便 と思 つて 貰い つ子 にさ つし やつ たの であ らふ
︒/ 或は さう かも 知れ ぬ︒ 併し 此は 秘密 だ︒ 霞が 浦に 千日 水垢 離と つて
︑筑 波さ まに 百度 踏ん でも
︑恐 らく 此秘 密を 知る こと は出 来な い︒ これ に対 して
︑﹃ 青山 白雲
﹄版 では 次の よう に改 稿さ れた
︒ 尤も 此は 其後 の話 だが
︑島 の次 郎八 と云 ふ漁 師が
︑或 朧月 の夜 晩く ワカ サギ を漁 して 帰る 時︑ 幽か に聞 た歌 の声 が︑ 全く お光 の声 の様 で︑ 耳を 澄し て聞 くと いよ 〳〵 夫れ に違 ひな い様 だか ら︑ 次郎 八は 声を しる べに 舟を 漕い で行 くと
︑何 処ま て行 つて も茫 々と した 朧月 夜の 湖で
︑人 の影 もな い︒ よく 〳〵 聞く と︑ 其歌 ふ声 が水 の底 にあ るや うで もあ り︑ 空に ある やう でも あつ て︑ 稍久 しく 迷つ て居 たが
︑終 に思 ひ切 つて 舟を 返す と︑ 其歌 の声 は遠 くな り近 くな り久 しい 間幽 かに 響い て居 たと 云ふ こと であ つた
︒併 し其 は水 鳥の 声だ と云 ふ者 もあ つた
︒/ 苦調 凄金 石︑ 清音 入杳 冥︑ 蒼梧 来怨 慕︑ 白芷 動芳 馨︑
/流 水伝 瀟浦
︑悲 風過 洞庭
︑曲 終人 不見
︑江 上数 峰青
︑
「水 神様
﹂や
﹁筑 波さ ま﹂ がお 光を 引き 取っ たか のよ うに 暗示 し
てい る初 出に 対し
︑﹃ 青山 白雲
﹄版 では
﹁お 光の 様な
﹂歌 声が 幽か に響 きわ たる 結末 を迎 えさ せ︑ 作中 で繰 り返 し述 べら れる お光 の歌 声を 印象 付け た︒ さら に︑
﹃青 山白 雲﹄ 版で は末 尾に 銭起
﹁湘 霊鼓 瑟﹂
︵﹃ 銭考 功集
﹄ 巻六⑲
︶の 一部 が引 用さ れて いる
︒こ の漢 詩は
︑舜 帝の 死の 悲し みに
︑ 湖水 に身 を投 げ神 霊と なっ た娥 皇と 女英 の伝 承を 背景 とし てお り⑳
︑ 特に
﹁曲 終人 不見
︑江 上数 峰青
︑﹂ の部 分は
︑禅 語と して 茶道 の掛 け軸 など に多 く用 いら れて いる よう㉑
に︑ 有名 な対 句で ある
︒水 辺に 聞こ える 流水 のよ うな 痛ま しい 瑟の 音色 が聞 こえ なく なる と︑ そび えた つ青 々と した 山々 に気 づか され ると いう 意味 だが
︑こ の山 々に は筑 波山 が重 ねら れて いる だろ う︒ 聴覚 から 視覚 への 転換 で締 めく くら れて いる この 五言 詩を
︑﹃ 青山 白雲
﹄版 では 物語 の末 尾に 付け 加え
︑い なく なっ てし まっ たお 光の 声が 湖水 に響 くの と同 時に
︑
︿風 景﹀ を浮 かび 上が らせ てい るの であ る︒ 筑波 山に つい て考 えて みて も︑
﹃万 葉集
﹄や
﹃常 陸国 風土 記﹄ な どに 見ら れる よう に︑ 筑波 山は
﹁歌 垣﹂ が催 され
︑男 女が 集う 生︑ 性の エネ ルギ ーを 持っ た山 とし て古 来か ら有 名で あり
︑ま たそ の遠 望か ら︑ 男体 山・ 女体 山の 男女 二神 の生 殖神 とし て︑ 山岳 信仰 の対 象と なっ てい た㉒
︒つ まり
︑筑 波山 をま るで 親代 わり のよ うに 感じ る お光 の意 識は
︑蘆 花が 新た に生 み出 した
︿風 景﹀ への イメ ージ では 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七三
なく
︑民 間信 仰と 結び つい て存 在し てい た既 存の イメ ージ なの であ る︒ この よう に︑
﹃青 山白 雲﹄ 版﹁ 漁師 の娘
﹂で は︑ 漢詩 を巧 みに 取 り入 れる こと など によ って
︑新 古入 り乱 れた
︿風 景﹀ 世界 を作 り上 げて いる
︒こ のよ うな
︿風 景﹀ 世界 は︑ 遡及 する と︑ 湖処 子諸 作品 に素 材を 求め たこ とと
︑写 生趣 味に よっ て新 しい
︿風 景﹀ への 視線 を得 たこ とで 作り 上げ られ た︒
「漁 師の 娘﹂ の素 材と 考え られ る︑ 湖処 子作 の﹁ 小川
﹂﹁ とま らぬ 水﹂
﹁雲 雀﹂ は︑ 新体 詩の アン ソロ ジー
﹃抒 情詩
﹄︵ 民友 社 明治 三
〇年 四月 二九 日︶ に﹁ 水の おと づれ
﹂と 題し て収 録さ れた㉓
︒こ の
﹁水 のお とづ れ﹂ を回 想し た﹁ 文学 から 宗教 へ﹂
︵﹃ 文章 世界
﹄第 五 巻第 一二 号 明治 四三 年九 月︶ では
︑当 時︑ ワー ズワ ース 親炙 によ る﹁ 自然 を透 して 其背 後に ある 或物 を諷 詠す る心 持﹂ によ って 詩作 をし てい たが
︑﹁ 柳宗 元の 文﹂ にも
﹁何 とな く造 物主 とい ふも のが 此の 自然 の背 後に 伏在 して 居る とい ふこ とが 見﹂ え︑ 詩集 の題 を
﹁水 のお とづ れ﹂ とし たの も︑
﹁潺 湲た る渓 水の 音に も何 等か の深 い 意味 が罩 つて 居る よう に思 はれ た故
﹂だ った と湖 処子 は述 べて いる
︒ つま り︑ 先の 太田 水穂 の回 想に もあ るよ うに
︑湖 処子 諸作 品は ワ ーズ ワー スの 汎神 論的 世界 観だ けを 受け 継い だも ので はな く︑ 漢詩 の世 界観 をも 包含 して 成立 した もの だっ たの であ る︒ そし て︑ 湖処
子に 強い 影響 を受 け︑
﹁写 生狂
﹂で あっ た蘆 花は
︑﹃ 青山 白雲
﹄﹁ 序﹂ に︑ 写生 を始 めた ばか りの ころ の自 分の 画に つい て次 のよ うに 語っ てい る︒ 無鉄 砲な る画 家︵ 引用 者注
・蘆 花自 身︶ は未 だ鉛 筆の 種類 及び 作用 をだ に知 り得 ざる に水 彩を 弄し つゝ 脳底 を捜 りて 曾て 見た る景 色人 物を 取り 出し
︑勝 手次 第に 配合 して 咄々 怪事 の画 を造 り始 めぬ
︒︵ 中略
︶松 は土 佐の 骨法 を伝 へ︑ 水は 倪黄 の神 理を 学び
︑飛 鳥に 米遷 君の 腕を あら はし
︑雲 はバ アビ ゾン 派の 胎を 奪ひ
︑和 漢洋 を一 幅の 中に 集め て大 成し たる 博覧 会的 風景
︑其 他凡 そ法 とし て破 らざ るな く怪 とし て有 せざ る無 き奇 妙不 可思 議の 画は 日々 ダー スを 以て 製造 せら れた り︒ これ に示 され るよ うに
︑﹁ 漁師 の娘
﹂に 描写 され た︿ 風景
﹀世 界 は︑ 自ら の初 修段 階の 画と 同様 に︑ 水墨 画を 思わ せる 描写 や漢 詩の 挿入
︑そ して 新し い︿ 風景
﹀を 用い るこ とで
︑﹁ 和漢 洋を 一幅 の中 に集 め﹂ た﹁ 博覧 会的 風景
﹂に なっ たの であ る︒ 蘆花 は︑ 黒田 や久 米が 持ち 込ん だ︑ 色彩 や光 を特 徴と した 新し い
︿風 景﹀ への 視線 を︑ 写生 趣味 を通 して 獲得 した
︒し かし
︑ワ ーズ ワー スの 世界 観を 継ぎ なが ら︑ そこ に漢 詩の 世界 観を 感じ てい た湖 処子 の諸 作品 に︑ おそ らく
﹁漁 師の 娘﹂ は素 材を 求め てい る︒ そし て︑
﹃青 山白 雲﹄
﹁序
﹂に 示さ れて いる のは
︑絵 筆に よっ て︿ 風景
﹀
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七四
を描 く際 の問 題意 識が
︑文 字に よっ て︿ 風景
﹀を 描く 場合 にも 持ち 込ま れて いる こと であ る︒ この よう に︑
﹁漁 師の 娘﹂ は︑ 申し 子譚 とも いえ る説 話的 な構 造 と︑ 自然 の背 後に 超越 的存 在を 見る とい う︑ ワー ズワ ース
︑湖 処子 の自 然観 の両 面を 取り 入れ た︑ 写生 趣味 と創 作小 説の 融合 的実 践で あっ たと いえ るだ ろう
︒
︽お わり に︾ 最後 に︑
﹃青 山白 雲﹄ の﹁ 序﹂ で︑
﹁今 旧稿 一二 を蒐 むる に当 り︑ 聊か 懺悔 を書 して
︑以 て序 に代 ふ﹂ と文 章を 結ん でい るこ とに 注目 した い︒ これ は初 出の
﹁写 生帖 画﹂ には 見ら れな い文 言で あり
︑ この よう な前 置き をし た上 で︑ 巻頭 作﹁ 漁師 の娘
﹂は 開か れ︑ 読ま れる こと にな る︒ 自ら の画 が﹁ 博覧 会的 風景
﹂で あっ たこ とを 自嘲 的に 語る のと 同時 に︑
﹃青 山白 雲﹄ 所収 作品 の︿ 風景
﹀が
︑そ の写 生趣 味に よっ て産 み出 され たこ とを 表明 して いる ので ある
︒前 述し たよ うに
︑﹃ 青山 白雲
﹄収 録作 品や 配列 に何 らか の法 則性 を見 出す こと は難 しい が︑
﹁序
﹂と
﹁漁 師の 娘﹂ に限 って は︑ 対照 させ なが ら読 むこ とを 作為 され てい るの だ︒ 明治 三〇 年前 後と いう 時代 は︑ 画壇 に突 如現 れた 外光 派が
︑当 時 の日 本洋 画壇 に対 して
﹁快 活自 由な る﹂
﹁解 放﹂
︵樗 牛︑ 前掲
︶と し
て︑
︿風 景﹀ への 異な る視 線を 持っ てい たよ うに 語ら れて おり
︑こ のよ うな 時代 に行 われ たの が︑ 伝統 的な 申し 子譚 の類 型を 用い なが ら︑ 写生 の視 線と
︿風 景﹀ を活 用し た︑
﹁漁 師の 娘﹂ の方 法だ った ので ある
︒ 明治 三〇 年代 末か ら﹃ 自然 と人 生﹄ など に収 録さ れた 蘆花 の叙 景 文は
︑文 範と して 国語 教科 書に 採用 され
︑人 口に 膾炙 する よう にな る︒ 蘆花
︑そ して 明治 後期 の日 本人 たち が知 覚し た文 字に よる
︿風 景﹀ 史を 考え る上 で︑ 当時 の画 壇と 文壇 の︿ 風景
﹀へ の熱 中と 呼応 する もの とし ても
︑﹁ 漁師 の娘
﹂と いう 申し 子を めぐ る物 語は 捉え られ るの であ る︒
︽注
︾
① 前田 河広 一郎
﹃追 はれ る魂
復活 の蘆 花﹄ 月曜 書房
昭和 二三 年八 月 三一 日
② 吉田 正信
﹁徳 冨蘆 花
︱
人と 文学
﹂︵
﹃徳 冨蘆 花集
﹄別 巻 吉田 正信 編 日本 図書 セン ター
平成 一一 年二 月二 五日
︶
③ 布川 純子
﹁徳 冨蘆 花﹁ 漁師 の娘
﹂に つい て﹂
︵﹃ 成蹊 国文
﹄第 二六 号 成蹊 大学 文学 部日 本文 学科
平成 五年 三月
︶
④ 蘇峰 は︑ 明治 二九 年五 月か ら翌 年七 月ま で欧 米視 察旅 行を 行っ た︒
⑤
「明 治美 術会 員の 紛議
﹂︵
﹃東 京朝 日新 聞﹄ 明治 二九 年六 月六 日︶
⑥ 青木 茂﹃ 自然 をう つす
東の 山水 画・ 西の 風景 画・ 水彩 画﹄ 岩波 書店 平成 八年 九月 二七 日 申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七五
⑦ 注③ に同 じ︒
⑧ 藤森 清﹁ 崇高 の一
〇年 蘆
︱
花・ 家庭 小説
・自 然主 義﹂
︵小 森陽 一ほ か編
﹃岩 波講 座文 学
つく られ た自 然﹄ 岩波 書店
平成 一五 年一 月二 二日
︶
⑨
「画
﹂︵
﹃ホ トト ギス
﹄第 五巻 第三 号 明治 三三 年三 月︶
⑩
﹃蘆 花全 集﹄ 第二
〇巻
蘆花 全集 刊行 会編
新潮 社 昭和 五年 六月 五
⑪ 日 明治 二六 年七 月一 八日 に出 版さ れた 平田 久﹃ カー ライ ル﹄ をは じめ と して
︑外 国文 学者 一一 名︑ 日本 の文 学者 六名 を扱 った 全一 七冊
︵号 外五 冊を 含む
︶の 民友 社編 集発 行の 評伝 叢書
︒
⑫
﹁韻 文界 の時 代創 始者
﹂︵
﹃文 章世 界﹄ 第三 巻第 一〇 号 明治 四一 年八 月︶
⑬ 注③ に同 じ︒
⑭ 藤井 淑禎
﹃不 如帰 の時 代﹄ 名古 屋大 学出 版会
平成 二年 三月 三一 日
⑮ 後年 蘆花 は︑
﹃青 山白 雲﹄ を﹁ あら ん限 りの 中か ら掻 き集 め﹂ た﹁ 雑 纂﹂ だと 回想 して いる
︵﹃ 冨士
﹄第 二巻
福永 書店
大正 一五 年二 月一 一日
︶︒
⑯ 木村 毅は
︑﹃ 明治 文学 展望
﹄︵ 恒文 社 昭和 五七 年一 月三 一日
︶の 中で
︑
﹁私 の友 人が 諸家 短編 集を 出し た時
︑氏
︵引 用者 注・ 蘆花
︶か らは この 作を 入れ て呉 れと の自 筆の 返事 が来 てい たの を︑ 見せ られ たこ とが あ る﹂ と証 言し てい る︒ 該当 の書 簡を 見つ ける こと はで きず
︑こ の﹁ 友 人﹂
︑そ して
﹁諸 家短 編集
﹂も 不明 であ る︒ 数少 ない 蘆花 の理 解者 であ り︑ 蘆花 全集 の刊 行に 尽力 した 新潮 社の 創業 者︑ 佐藤 義亮 かと も推 測さ れる が︑ 確信 をも って 判じ るこ とは でき ない
︒
⑰ 蘆花 夫婦 の写 生の 力点 はは っき りと 異な って いた
︒﹁ 線の 正確 は︑ 所 詮駒 子︵ 引用 者注
・愛 子︶ に及 ばぬ
︒鉛 筆チ ヨオ クの 臨摹 は駒 子に 譲つ
て︑ 熊次
︵引 用者 注・ 蘆花
︶は 直ぐ 色彩 に走 つた
﹂︵
﹃冨 士﹄ 第一 巻︶ と ある よう に︑ 写生 対象 の輪 郭を 忠実 に写 し出 そう とす る駒 子︵ 愛子
︶に 対し て︑ 蘆花 をモ デル とし た熊 次が 力を 入れ たの は︑ 対象 の﹁ 色彩
﹂で あっ た︒
⑱ 初出 は﹁ 瓜子 姫説 話
︱
昔話 新釈 の二
﹂︵
﹃旅 と伝 説﹄ 第三 年第 五号 昭和 五年 五月
︶︑ 後に
﹃桃 太郎 の誕 生﹄
︵三 省堂
昭和 八年 一月 一日
︶に 収録
︒な お︑ 引用 は﹃ 柳田 国男 全集
﹄第 六巻
︵筑 摩書 房 平成 一〇 年一
〇月 二五 日︶ によ る︒
⑲ 田部 井文 雄編
﹃銭 起詩 索引
﹄︵ 汲古 書院
昭和 六一 年六 月︵ 日の 記載 なし
︶︶ を参 照し た︒
⑳ 植木 久行
﹃唐 詩物 語﹄
︵大 修館
平成 四年 四月 一〇 日︶ を参 照し た︒
㉑ 有馬 賴底 監修
﹃茶 席の 禅語 大辞 典﹄
︵淡 交社
平成 一四 年二 月一 一日
︶ に立 項あ り︒
㉒ 大町 桂月
﹁春 の筑 波山
﹂︵
﹃一 蓑一 笠﹄ 博文 館 明治 三四 年二 月二 五 日︶ では
︑明 治三
〇年 に桂 月が 登っ た筑 波山 につ いて
︑﹁ 当年 士女 が此 に来 りて 蹈舞 せし 歌垣 の名 残は
︑今 も絶 えず して 筑波 祠前 には 六箇 の妓 楼あ り﹂
﹁女 体山 の上 には
︑伊 邪那 美の 命を 祭り
︑男 体山 の上 には 伊邪 那岐 の命 を祭 れる 小祠 相接 し︑ その 数︑ 百に 下ら ず﹂ と述 べて いる
︒民 間信 仰の 歴史 につ いて は︑
﹃筑 波町 史﹄ 上巻
︵筑 波町 史編 纂専 門委 員会 編 精興 社 平成 元年 九月 一〇 日︶ に詳 しい
︒
㉓
﹁と まら ぬ水
﹂は
︑﹁ 水の おと づれ
﹂で は﹁ 里の 子﹂ とし て収 録︒ また
︑
﹁水 のお とづ れ﹂ 中の 一編
﹁お そよ
﹂は
︑あ ばら 屋に 住む
︑酒 飲み の父 を持 つ少 女を 詠っ たも のだ が︑
﹁漁 師の 娘﹂ 執筆 以前 に発 表さ れた かは 不明
︒
︹付 記︺ 本稿 で用 いた
﹁漁 師の 娘﹂ の本 文は
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄第 九四 号春 期
申し 子を めぐ る︿ 風景
﹀
七六
大附 録︵ 明治 三〇 年一 月︶
︑﹃ 青山 白雲
﹄︵ 民友 社 明治 三一 年三 月 二五 日︶ に所 収の もの であ り︑ 引用 に際 して 旧字 は新 字に 改め
︑ 振り 仮名 は適 宜省 略し た︒
/は 改行 を表 す︒ 申し
子を めぐ る︿ 風景
﹀
七七