(
15
)吐
蕃
王
家
の
祖
先
sToh
Lom
matse
の意
味
一一・一一…山
口
瑞
鳳
は じ め に
チ ベ
ッ トの 伝承に よ る と, 吐
蕃
王家
の祖
先は,Srofi
btsan
sgampo
(=
Khri
sroh
brtsan
=Sroh
lde
brtsan
581
−649
)1) 王 の 前に31
乃 至33
代
を数
え る2) 。
概 算
で 一世 代を30
年
に数え る と, その 間900
乃至1000
年 が あっ た こ とに な る。 つ ま り, 彼 等は, 紀元前
四 世紀か らチ ベ ッ ト の 地 に 王家と し て の 地 位 を保っ て い た とい うこ と に な る。常識的
な 見解に もとつ い てい うと, こ れは , 七 世 紀に い た っ て漸 く 「吐 蕃 }国の 体 裁を完 成 す る3 )部
族が , 一 王家
と してた も ちえた歴 史 的 期 間と考え るに は余 りに も長す ぎる。 こ の 点に 関し て , 従 来, 内 外の 学 者の 誰 もが深 く疑 っ てい ない 4) の で , 疑 念の 拠る所を示 す と 共に ,筆者
の 所 見を 明らか に し たい 。1
吐
蕃
王 家の 第一祖Nag
(gNa )5)khri
btsan
po
がYar
lha
gam
po
, また は ,1Ha
rigyah
do6
) に降
臨 し てDri
gum
btsan
po
(Gri
gumbtsan
po/Khri
gufibtsan
po ?)7)に 至 る まで に 七代を数 えた とい う。 彼等
の 拠っ た と こ ろは, コ ンポの 碑 文に 従え ば , は じめ か
v
)Phyifi
ba
sTag rtse で あっ た よ うに あ る8)が
,
Dri
gum
bstan
po
以前の 王 に つ い て は, そ の 地 に墓
が な く, こ の 説 明の 信 憑性 を
著
し く損ね て い る9)。 しか し, 敦煌 史
料の 言 うとこ ろt°) で は
,
Dri
gumbtsan
po
の 子,9a
khyi
がlha
btsan
po
” )
と な り, sPu
de
guh
rgyal を称
し,
Phyih
ba
sTag rtse に 拠 っ た と具体 的
に 示され るの で , こ れ 以後
の方
はほ ぼ 確 実で あ る。
ga
khyi
の時
に こ の 地 に は じめ て拠 っ た とし て も, そ の 時か らSrofi
btsan
sgam
po
ま で に は , 大略800
乃 至900
年 が 経 過し た こ とに な る。敦
煌 史料
には,
Dri
gum
btsan
po
か ら sPude
guh
rgyal に 至 る くわ しい 説話
の あ とは,
Srofi
btsan
sgampo
の 祖父 sTagbu
sfiagzigs
に 至る まで の 間, どの ような説 話 も伝え られ てい ない 112)。 つ ま り, ほ ぼ
700
年 相 当の 間が 全 くの 空 白 な の である。 従来
の 説 明に よれ ば, こ こ で 突 如 とし て吐蕃
王 家興隆
の発端
が 三』 丶 ○ 冖 ノKomazawa University
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Kom 三1z三1w三1 University
(
16
) 吐 蕃 王 家 の 祖 先 (lll
「1)見
え た こ とにな る の で ある。 し か し, そ の よ う な こ と が果 し てあ り うるだ ろうか。 あ まつ さ え,
Phyih
ba
sTag rtse を 含 むYar
luh
地方L3) は , チ ベ ッ1
・ で は一 等 地に属
する。 こ こ に拠 っ た 一地方豪
族 が , こ れ程 長期に わ た っ て他
の 侵 犯 を うけず, 安 泰で あっ た と考え て よい で あろ うか。 し か も, そ の 間の 伝 承は全 くの 中ぬ け なの で ある。 こ れ らの 点に つ い て , 例え ば , 一 時 代前
の 我 が 国の 占代史 研 究の 場 合な ど を参 考に す れ ば , 似通 っ た事情が推 測で きる の で はない で あろ うか 。 敦 煌 出 土の 編 年 紀, 王 統 紀, 宰 相 記, 年 代 記 等 14)の 原 本 は, お そ ら く,エ
Ba
bshed
に伝
え ら れ る15) と お り,Khri
srohlde
brtsan
が mGos (Khri
bzah
yab
lag
)の 進 言をい れ て , mi chos 編 纂 事 業を 行っ た際に 生れ た もの であろう。 こ の 頃, 吐 蕃は , 軍
事
国 家 と し て完成 し た組織
を もっ て お り, そ の 威 信 に つ い て の 関心 は通 り一.・遍
の もの で は なか っ た16)。 そ の よ う な雰
囲 気 の 中 で , 王 家 の 祖 先 を 悠 遠の彼力
に まで 遡 らせ , 他の 諸氏 族の 祖 先 よ りも特
出 し た位置
に据え るこ とは , 当 然の 措置
と されて い た に違
い ない 。 事 実, こ の 種 の 操 作の 跡が, 敦煌
文 書の 壬統 紀 中に歴 然 と見ら れ , その よ うな意 図の 有 無 を今更
詮議
す る まで もない こ と が知ら れ る。 例 え ば , ペ リ オ 。チ ベ ヅ ト文i
彗1287
の 末 尾 17) にsgyed po
bog
gzugs na /zahs rdobla
nas phab ste rje ruggegso /
bgos
na ni sPu
de
guh
rgyal /grofis na niGrah
mo gnambseb
brtsig
/りgreh
mgo nag gi rje/dud
rhog chags
ky
玉rkyendu
99egso/炉を下に 据え る と, 銅鉱石 18)が 大 よ り下 り , 王 者と な っ た 。 名は 改め 19)て sPu de gufi rgyal (と称 し),住 む2°)に 「天の一角館2D 」 を 築い た、 (か くて )立 ち ある く黒 頭 (人 間)の 王者 ,匍い ある く有 鬣 (馬 )の飼主2 Lコ)と な っ た 23) 。 と あ る うちの 第三 ,
第
四句が , 同:文書128624
)で は 次 の よ うに 示 され てい る。Dri
gumbtsan
pobi sras /sPude
guh rgyal gnamla
dri
bdun
/sale2s
)1egs
drug
bgos
na /sPude
guh rgyal grohs na〃Gruh
mo gnam gserbrtsig
/gSerbrtsig
gisras//
Tho
leg
btsan
po /
Dri
gum
btsan
po
の 御 子, sPudc
gufi rgyal , 天で は 七khri
, 地で は六legs
が成婚の時 , (ま た,)sPu
de
gun rgyal が 死ぬ と,Grah
mo gnam gserbrtsig
(が 王 とな る)。(
Grah
mo gnam ) gserbrtsig
の御子 ,Tho
Ieg
btsan
po五
九
上 の 訳文 は
敢
えて つ けて 見た もの で あ るが, 本 交は , 明らか な誤 写の 交であるこ と を知る。
gna
皿la
dri
bdun
は, 誰で も知 る よ うに ,Nag
(gNa )khri
btsan
po
か らKhli
sFe (/Srib
)26)btsan
po
に 至る七 代 を云 う称
で ある。 sale
(/
hi
)legs
drug
とは ,Tho
legs
btsan
po
以下の 六:F
を ま とめ て 云 う称
で あ るこ とも周知 の とお りで ある。 こ の 二 つ の 名
称
の代
りに こ こ で9a
khyi
の 名が あれば ,
’
然るべ ぎで もあろ う
。
gSer
brtsig
gi
sraS に よっ て明
か なとお り,吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口 ) (
17
)舘の 名を 人名と し,
legs
drug
と sPude
guh
rgyal の問
に虚
構の一 代 を挾 ん でい る27)の が
確
か め られ る。 し か し, こ の作
為は , さすが後 代の 所 伝に は 受 け入れ られ なか っ た らし く, その 名は どこ に 28)も見
え て い ない 。 以 上 は, 単に , 吐蕃の 史 家に よ る作 為の 跡を示 すに 留っ た もの で あるが , 次に, 王 の世 系表
に 盛 りこ まれ た虚構
を具体
的に探
り出 して 見よ う。 ]Dri
gum
btsan
po
の 死後
, その 子ga
khyi
が≡E
位に つ き, sPude
guh
rgyal を称 す る。 その 時
彼
を輔
け たの が , 王 の 父系
の 『お じ』 の 子孫
, つ まり,
khu
で ある とこ ろのIHa
1
〕o (/bu
)のDar
]a skyes であ っ た。 従っ て ,彼
が最初
の宰
相に な っ た だ ろ う とい うこ とは想像
する に難 くない 。 今, こ の二 人の 関 係を確か め る た め , 敦 煌 年 代 記 (ペ リ オ ,
PT
文 書 1287 )29) の
抄
訳 を次に 試み よ う3e)。
Dri
gum
btsan
po
はLo
ham
rTahdzi
に 殺 され, 蓋つ きの 銅の 大 箱3D
に 入れ ら れて rTsah32 ) 河 の
中 流に 投げ こ まれ た 。 (箱は)下流の
gSer
tshahsに い た竜女
Ho
de
bed
de
rth mo の腹
33)に 着い た。 (Dri
gumbtsan
po の )二子は
ga
khyi
及 びNa
khyi34
〕 と名づ け られ , rKohyul3s
)
に
追
い や られた 。(
1
.19〜 21 ;DTH , p .98,1
.6 〜10 )。その
後
, (L
・fiam
rTabdzi
)は,彼に屈 服 した3G)
Rhya
の
4
人の 女 を娶
った37)
。 する と, sNa nam 王 と
Shoh
王38)
の
2
人は (憤っ て),魔
39)の 大 犬
r
ス パ イの 上手』 と 『ジ v ン の麗姿
4°)』 とい う,賢
く,偵 察能 力
の高
い 二 匹の 犬 の 毛に
毒
を塗 り, け わ しい 断 崖の , 高い 岩 場を越 え,pho
la
(/lha
)の 兆も吉 と 出た ま まに , (
Lo
ham
rTahdzi
の 住 む )Myah
ro Campo
の 麓に 至 った。 そ こで 方
策
を講 じて, 毛に毒
を 塗 っ てあ っ た 犬をつ れ て,Dabi
rtahdzi
(sNa ・nam ま た は ,
Shoh
の 王 を 云 う)4D が, (
Lo
ham
rTahdzi
の 許に)行 くと,Lo
ham
が 「よい 犬 よ1
と手で 犬を愛撫 し た。Duhi
rtahdzi
が犬の 毛に毒
を塗っ て あっ た の で, 手が よ ごれ て (
L
・ fiam rTabd
・i
は )死ん だ。 (こ うし て) 仇は討たれた (
L21
〜 26;DTH, p .98,
L
10 〜ユ8)。そ の
後
,bKrags
の 子,IHa
bu
Ru
(s)】a skyes一
族と
Rhya
の 一族
が戦
い合
っ て42)
,
Rhya
がbKrags
の 一族 を滅
し, 主 な 家来
も (Rhya
に)服属
させられ た43)。 (こ の時)
bKrags
の 妾 紛 の 一 人 が 逃れ て 里 方45) に 辿 り着
い た。 (そし て,彼女 が) 腹に 46)(IHa
bu Ru (s)la
skyes の)子
を孕
ん で い た の が 生 れ た (L26
〜28
;DTH
, p .98
,1
.18
〜22
) 。(こ の )子が
膝
で 立 っ て (這っ て)歩 け る頃に な るや 47) こ の か た, 母に 向っ て 「人はい か な る人 であろ うと も4B) 主君が い る。 な らば, 私の 主 君は誰な の か。 人は い か なる人で あろ う と も父 が ある。 な ら ば , 私の 父は 誰 なの か 。」と 五 八Komazawa University
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Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
18
) 吐 蕃 王 家 の 租 先 (山 口) 五 七 尋ね た。 「私に 教え て下 さ れ 。」とい うと ,母は 云っ た。 「小童
よ。 大 きい 口をき
くで ない 。 小 馬 も幼い ときは嘶か ない 49) 。 わ た しは 知 らぬ よ。」 と。す
る と, 『sPus (/sPu )の 子50) ,Dar51
) に 生 れ た る者』 が 云 っ た。 「私に 教え て下 さ らぬ な ら, 死の う。」 と。 こ う云 うと, 母は やむ な く 一 部始 終 を 語 り52) , 「お前
の父は
Rhya
に 殺 さ れ た。 お前の 主 君 はbtsan
po
で,Lo
ham
rTahdzi
に 殺された。
屍 体
は蓋
つぎ
の 銅 の大 箱
53)に 入
れられて rTsah
po
の中
流に 投げ
こ まれ た。 (箱は )下 流のgSer
tshafis に い た竜女耳
ode
rih mo の 腹につ い た。(王の )二
子
はga
khyi
及びNa
khyi
と名
づけられ, rKohyul
に 追い や られた 。」 (と 云 っ た。) (
1
.28
〜34
;DIIT
, p .98
,1
.22
〜33
)さて, こ うし て , 『sPur (/sPu )の 子,
Dar
に 生 れた る者
』 が云 っ た。 「私
は ,い な くな っ た人の 跡を 辿 り, 水 の 消え失せ る
境
域54)
を探 りあて よ う。」 と。
こ うい い なが ら, (母の もとを)
去
っ て い っ た。 (そ し て)rKohyul
のBre
snar55)
で 王 子
ga
khyi
及びNa
khyi
と会っ た。竜
女耳
ode
bed
de
rih mo とも会
っ た 。 (彼 女に向っ て ,) 「btsan
po
の 屍 体 を 何 な り と徴
しい物
で贖
い たい 。1
とい うと, (彼女は ,) 「他の い か な る もの も欲 し くない 。 (し か し,) そ の 目は , 鳥の よ うに なっ てい て , (まぶ た が)下か ら(上に )閉 じ る 人 56)一人が 欲 しい 。」 と 云 っ た。 (L34
〜38
;DTH
, p .98
,1
.33
〜p .99
,L
2)。(その後) 『sPus (/sPu )の 子,
Dar
に 生れ た る者』 は, 四 方の 天 の 涯 まで 探し たが , その 目が
鳥
の 目の よ うに 下か ら閉 じる者
とは 会え なか っ た 。 そ の あげ
く,食
糧 も尽 ぎ, 靴 も孔があい たの で , 再び母の 前に 至っ て (云 っ た )。 「いな くな っ た人の跡は 辿 りえた。 水の 失せ る場 所 も探 りあてた。 王 子
9a
khyi
及び
Na
khyi
と も会 っ た 。 竜 女 恥de
〔bed
de
〕rih mo と会
っ た時, (王の )屍 体の 代 償に , その 目が
鳥
の よ うに 下 か ら閉 じ る人一 人が 欲 しい と云 わ れ た が, ま だそれ を
得
て い ない の で , これ か ら探
しに 行か ね ば な ら な い 。 だ から,
路
銀を もたせ て 下さい 。」 と。 こ うい っ て , (路銀をもらっ て) 立 ち去
っ た 。(
L38
〜 42 ;DTH
, p .99
,L
2〜10
)。彼が
Gaft
par57
)hphrun
の下
に 至 っ た時
,探
し求
め て い る よ うな人 間58) で , 鳥に似た娘が 一 人 溝を堀 っ てい る59)の に 出会わ した。 その 子 は , 若 く, 器 量 よ し6e) で , 日は
鳥
の 目 と同 じ く, 下か ら 上に (瞼が)閉
じ るもの であっ た 。 そ こ で , 母親に 対 して , 娘 (を欲 しいが,そ)の 代 償に 何が欲しい か と尋
ね た と こ ろ , 母親の 云 うに は , 「他の こ と は望 まな い が , 将 来 い つ で あ れ , 必 ず (次の よ う}こ して下 され ば よい D)(1
.45〜47 ;DTH
, P .99,L
14〜 17 こ の 間の 文 意不 明) その よ うに する気か , しない 気か 。」 との こ とで , その よ うに し よ うと誓
い ,約束
を した後
, 求め て い た 人 間である ,鳥
の よ うな娘
を連
れ て 立 ち去
っ た (L42
〜48
;DTH
, p.99
,L
10 〜20)。(そ し一(,)
竜
女耳
ode 〔bed
de
〕
rih mo の腹
に , (王 の)屍 体の 贖 と し て吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口) (
19
)(鳥女 を)
著
け て送 っ た。Na
khyi
とIHa
bu62
)
(
Rus
la
skyes )の 二 人は (こ う して Dri gum ) の 屍 体 を 手に 入 れた
。 (そ して,)
Gyah
tobla
hbub63
)
の
尾 根
に墓
を築
い た。 弟Na
khyi
が 父の葬 儀
を 出し た の で ある。 兄9a
khyi
は父の仇
を討
ち64) に出
かけたの であ
る。Na
khyi
とは rKohdkar
po65
) の こ とで あ る。 (さて , 兄の方は ,)三 千三 百の 兵 と共に 出か け た 。 (まず,)Pyifi
ba
の 城に 行 っ た の で ある。 (そ こ で ,宣 言 して,) 「父 祖の 国に 主 君が い なけれ ば,外側
の牧
地は 不安
で ザ ワザ ワ の と こ ろ。 父祖
の 地の所
依の 主 66)が い な け れば,楊
柳の (ある村 中の )地は屍 体が ゴ ロ ゴ ロ 67) 。」 と仰
云 っ た 。(そこ か ら)
Men
bPhreh
ba
の 峠を越え (て い っ )た。 (更に,)Tih
srab roh rihs68)
も越え た。
(そ し て,)
Ba
chosguh
dah69
)
に
赴
い た 。Myah
rogam
po70
) に 至 っ た時,
Lo
ha
皿 の 男百 人は ,自
ら銅の 柩に入 り, 頭か ら蓋して 71)自
決 した。Lo
ham
の女
百 人は, sLahha
brafi
峠
72冫を 越 えて逃
れ去
っ た73)。 (こ うし て,)Myafi
rO campo
は陥
ちた 。 立 て る者 (人間)は牢に つ な ぎ, 匍 うもの (家畜一特に 馬) は廏に 入れた7i)後, (再び ,)
Ba
chosguh
dah
に赴
い た。 (そし て,) この 歌 を11呂っ た 。 (歌 詞の 意 味不明 ,
1
.57 〜58 ;DTH
, P .99
,1
.346
〜3
)(それか ら)再び
Pyih
ba
sTag rtse に 至 っ た。 (そし て ,)「父祖の 国 の 主君に な っ た。外
側の
牧
地 は , 不 安の ざわめ きの な い 地 に な っ た。 父祖
の 地 の 所依
の 主 がい るた め ,
楊
柳の ある (村なか の) 地は , 死体
の転
がらぬ 地に な っ た 。」 との歌
を唱っ た 。 (以 下 本 文 16頁 引用 文 続 く。) (
1
.48
〜62
;DTH
, p .99
,1
.20
〜p
.100
,1
.7
)。皿
上の 訳文か ら次の よ うな こ とが確か め られ る。
Na
khyi
と9a
khyi
とを輔
け たの が ,
Lha
bu
Ru
(
s)
la
skyes の遣
児で , sPuskyi
bu
Dar
la
skyes と呼 ばれ るもの で あ っ た。
IHa
bLt
Ru
(
s)la
skyes とは , 『神
の 子 , (王の) 父系
に生 れた る
者
』 の意味
で ,Dri
gum
btsan
po
と同 じ家系
にあっ た こ と を示してい る。 『神の 子』
1Ha
bu
とい うの も, 一族
の呼
び名
と して 用い ら れ たも
の らし く, 『学 者
の宴
75) 』 で は ,彼
76)の別 名 と して
Khu
bo
IHa
bu
smongzufi
を示 し て い る。 こ れに 対 し, 同書で その
子
とされ る mGodkar
を,敦煌 文書
の 宰相 記で は ,
Khu
IHa
bo
mGogar
と示 し てい る。 それ も 『学 者の宴
』 の中
で は単
にIHa
bu
mGodkar
となっ て い る。 訳 出 した本 文中
にrNa
lHa
二人」 とあ るが , 後 者の
IHa
が1Ha
bu
を 云 い ,Dar
la
skyes を指
す こ と も明互
ノ 丶らか で あろ う。 『学 者の
宴
』 は ,実
際は 父方の叔伯
父 を 示 し た筈
のkhu
または
khu
bo
とい う呼び方 と,Khu
とい う氏 名77)
を 不 当に 結びつ け て, 適 当
な説 明を紹 介 し て い るが,
Ru
(
s)
1
丑 skyes をRu
las
skyes と読
み78)
, その 出生
の
説 明
を誤 っ た後代 史家
に とっ て は や むを得
ない 。 敦煌 交
書で は ,Ru
(
s)
la
Komazawa University
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Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
20
) 吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口) 五 五 ね て明 らか に し て い る。 sPus とあるの は,彼
の 名を 説明 する為
に , 「膝で立 つ (spusIa
bgrefi
).」 と示 し た 一 句を 利用 し よ う と す る潜
在 意 識が あっ て , そ の も とで 生 れ た sPu の 異態
字で ある に過 ぎない 。 彼 等の 家 名が , 今 口で は知 られ て い ないbKrags79
)で あっ た こ と は, 訳 文で 見る と お りであ
る。更に ,
Dar
la
skyes と あ る名の意
味は,rShah
shuh のDar
に生 れた」 というこ とで
あ
り, 母の 生家
がDar
にあ
り, そ こ に 逃れ てい て生れ た こ と を 示 してい る。 敦
煌
文 書でNar
とあるの はDar
の 誤 記で あ り, こ の 誤 りは ,Dar
の意 義
を知 ら ない まま古
典 的な史 家の 問で もNar
と伝承 され た8°〕よ うで ある。
Dar
は後
で 見る よ うにShah
shuh のDar
pa
ま た はDar
ma と呼ばれ る もの で , そ の 主 君の称
号はL
{gsfia
cur
であ る。 ま た , 敦爍
に駐 留し た 糸綿 部 落が
Dar
pabi
sde と呼 ばれ て い た こ とも既に知 られ てい る81)。 こ の
Dar
pa
とは
Lig
sfia gur ばか りで な く, 吐 蕃王 家 も深い 関 連 を もっ て い た ら しい 。
その 事は, 王家の 墳 墓の 地が,
Yar
luh
のPhyth
yul
Dar
pa thah と名づけ られ る こ とで も知 られ る。 勿 論, こ れ も
昔
の 史家達
の 知 る とこ ろで は なかっ たs2)。
sPus
kyi
bu
Dar
Ia
skyes と, そ の 父Rus
la
skyes は後代
史料の 中で は同一人 とみ な さ れ ,
Dar
la
skyes の こ とはRus
la
skyes の 名で 言 及 され てい る83)。
Dar
la
skyes の 母はGri
gum
の 妃 と誤
り伝
え られ,Dar
la
skyesの 出生が
Gri
gum の 死 後に あっ たため , 白い 『神人 』 の 子 と され た り,Yar
lha
cam
po
の 了一と され た りし て い るs4)。 ま た ,
Lo
ham
を 殺 し たの も,Ru
las
skyes (Rus
la
skyes ) こ とDar
la
skyes の 所 為 と され る。後
代の 史 料は ,Na
khyi
(Na
khri
) とga
khyi
(ga
khri
) の 他にBya
khri
の名
を加 え,彼
を sPu
de
guh
rgya1 とす るが8f’), これ も, 訳 文で見 る と お り, 正 し くない増広
で ある。念の 為に要 約 す る と,
Nag
khri
btsan
po
の 王 統はDri
gum
btsan
po
を 以て 一旦滅亡 した が , その 傍
系
の一
族 出 身 者
Dar
la
skyes の 努 力に よっ て ,Dri
gumbtsan
po の 長 子ga
khyi
を擁 立 する こ とで 再 興された と述べ られ て い るの で ある。 王 家の 第 一 代と な り , sl )ude
guh
rgyal を称
し たの は , rKohpo
碑交 で もい う通 りsa> , こ のCa
khyi
で ある。 これ に 対 して ,彼
を輔
けたDar
la
skyes が第
一 代の 大 臣で あっ た だ ろ うとい うこ とは当
然であ
る。成 程,
後
代の 史料を 見 る と,Dar
la
skyes をRus
la
skyes と 同一
視
し てRu
las
skyes とはい うが, こ のRu
las
skyes を宰 相 と して の 第…代 とす る8T)
点
で は どの よ うな異 説 も見
当らない 。ひ るがえ っ て ,
敦
煌 文書
を見
る と,意外
な記述
に驚
か され る。 そ の ことは『宰 相 記』 と もい うべ
き
もの B8)の冒頭に 明 らか に されてい る。
btsan
po
IDe
pru
bo
gnaIn gshufi rstan の 御 代以来. 宰 相をつ とめ た歴代に つ い吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口) (21)
て (い う と),太初の 初代は ,
bDal
,】r の 子 sToildah
rjc がつ とめ た。 (彼は) 賢 く勇気 あ り,心 も忠であっ た。 その あとに は , rNegs 氏の
Du
〔l
kyi
rje がつ とめ ,勇気 あ り,賢明であっ た。 そ の あとに は ,
Khu
(bo
である)IHa
・
bo
(/bu
)の lnGogar がつ とめ た。 敵に むか っ て は 勇気あ り,心に 情 あ り, 洞 察力 が鋭かっ た。
上に示 され る文で は ,
IDe
pru
bo
gna
皿gshuh
rtsan 以後
の 宰 相だ と云 いな が ら, gnah thog ma
r
太 初 の 初 代 s9) 」 とい う言葉
を用い て 最 初の 人 物の資
格
を形 容 して い る 。 こ の 王名
は ,敦
煌 夊 書の 王世系表
go)で見て も ,Dri
gum
btsan
po
や sPude
gufl
rgyal の 遙か後
に 「六人のLegs
」 とZva
gnam
zinte
を距て , 漸 く見え る・名で ある。 し か し,
宰相
の 名は , 先に見
たDar
la
skyes『
Dar
に 生れ た る者』 と非 常に 近いbDahr
(/Dar
)kyi
bu
『Dar
の子』 というもの で ある。 し か も, これ だけに
留
らない 。 『宰 相 記 』は rNegsDud
kyi
rje を距て, そ の あとの 大 臣に
Khu
IHa
bo
mGogar
の 名を ケえて い るので あ る。 】
Ha
bo
mGogar
は, 既に 見た よ うに ,Khu
のRu
las
skyes の 子と され る
IHa
bu
mGodkargl
) と 同一人 物であ る。 とす れ ば, 実は ,
Dar
la
skyes で ある
Ru
las
skyes と, こ の
hDabr
(/Dar )kyi
bu
sToh (1ah
rje が一
致 し, 更に , 吐蕃王家 初 代の 宰相と し て も確 認され ね ば な ら な くなる。 つ
ま り,
bDahr
kyi
bu
sTohdah
rje とは ,後代
史に い うRu
las
skyes で あり, 先に 引用 し た敦 煌 文 書に よれ ば
lHa
bu
Dar
la
skyes と云い か え られ るもの に な るの で ある。
上 の
結論
を受
け 入 れ る とすれ ば ,1De
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan と 云い うの は, sPu
de
guh
rgyal の称
とは別に ,gu
khyi
が もっ て い た 他の一つ の
王 号 とされね ば な らない 。 こ の こ とをよ り
確
か に 云 うに は, 二 つ の 王 号の間
に 介 在 する諸王 の 名が全 くの 虚 構で あ るか , 他の 名を繰 り返 し て伝え てい る
もの で あるか を示 さね ば な ら ない
。
先
ず, sPude
gufi
rgyal に続
く 「六 人 のLegs
」 に つ い て こ の 点を 調べ て .見 よ う 。先に 問
題
に した ]Ha
bu
mGodkar
fr
『学老
の宴
』92)て は ,「六人のLcgs
ごの 最 初の 王Igo
legs
の 宰 相 とし て い る。 とこ ろが, 敦 煌 文 書の 「宰 相 記』 に よ る と, 】Ha
bo
mGo garg3 )は, ]
De
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan代
以降
の 宰相
と して 第三人 目に そ の 名を
連
ね て い る。 こ れ だ けで も,Igo
legs
等をIDe
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan の前
に置
くこ と は 不 可能
であ
り,虚構
である ことが充 分 知 られ る。 念の た め に 「六人の
Legs
1
の 名を見 る と, そ の 名が, 諸 伝承 に よっ て甚だ し く異 り, そ の 不 正 確さは これ に先立つ 「天の 七座」 よ り著
しい 。試
み に 「六人
のLegs
」 を並べ て み る と次の よ うになる94) 。 五 四Komazawa University
NII-Electronic Library Service
Kom 三1z三1w三1 University 口) 吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 (
22
) の b。 一3H
の b。 一δ
の b。 。 一8
一 ・。 』 。3
の ⇔幻 窯 & 。 』 ← oワ b◎ 圃 O い 唱 OH 的 身 りう b心 【 旨 O ぶ 匂り bD 弭 O 訟 円 辞 の b◎ Φ 一 』 い 唱 Ohq 自 身 o 馳 ロ◎ 一 〇 』 の 帽 O 旨 酬 H 身 ロ励 bめ 【 宥 弭 O 潔 円 身 の b。 ω 一 日 コO
続 【 日 喟 。O
。, b。 H ヨ コ O 跳 Φ H 置 コO
続 Φ 宀 ヨ づO
。。 b。 三 。ご
謂 ← の b。 。 【 。ご
滋 ← 的 』。 。 一 。ご
‘ ← ・。 。。3
& 二 ← ω b幻 【 ( 5出
・。 b。 Φ 一 。 ひO
。・ bD 。 【 。 い ∩ ・, ⇔。 【 。 い 〔 【 …。 [ 。 い ΦO
の b。 { 。ご
続 Φ 一3
国 吻 bゆ 。 [ 。 い 一 の b£ 一 。 い く の ・。 Φ 鬥aH
続 Φ 【 。 蜘 く 身 邸 b◎ ℃ 帽 身 づ 口 賃 O 綴 の bo 身 邸 bめ 唱 嘱 O 邸 自 ロ昏 邸 』 】 [ 日 . O 日 噌 計 邸 ρ 剛 邸 の bρ , ρ で 昆 【 コ = . 晦 O 』 O 口 〇 一 の づ α⇒ 吻 bo 【 哨 N 貫 雨 之 ヒρ の bD 開 ヨ 鐔 面 N の b。=
& 匂n ⇔D 一 囓 日 ¢ 口 bめ 喟 N 傷量
。ご
切 b。 ω [ 。 い 国 リワ 域 〇 一 日 5 」 コ O の bρ 【 』 OU 唱 O 」 胡 田 身 q 自 b£ ω 【 一 N 尸 口 記 口 bc 相 一 餡 ・。 ・め 一 。ど
自
砌 bo 囲 喟 囹 』 の 唱 O 旨 m 身 の b。 。 【 。ご
自
。。 bρ 。 【 ヨ コ O の ・。2
。ど
の bめ Φ 一 咽 』 ω 唱 O 』 酬 円 O 切 b。 Φ 【&
bρ 〇 一 喟 謂 の ρ 唱 O 」 胡 田 謁 の b。 一 。 蜘 三 ← の ⇔D 一 弭 一 』 吻 O 」 m 【 身 続 。 【 日 。O
の ⇔。 。 一 ρ 日 。O
・。 一 。ご
日 ・。 b。 {a
ωo
・ ・。 幽&
の 。。 。 一&
oり bo 一 ( $ 〔 【丶 ) ロう 乞 . の ・。 。 一&
・・ 6。 。 【 。3
頃 QoO [ 5 島 hb ゆ O 昌 りり bめ 一 〇 乞 . ( ω ) bD 。 一 。 謁 ← . 邸編
』 嘱 身 ¢ ユ boO 謂 」 ゼ 唱 q5 ‘ 一 辞 帽 出 の Oq 一 邸 臥 6 頴 ■ , O 己 ロ コ 6 冖 冖 【 』 邸 謂 謹 一 口 ¢ Σ o 噛 』 団 【 帽 曲 Hg 脂 翫 口 調 』 の 一 ロ 一 一 而曲
旨 蝿 畠 の ⇔£ 邸 」O
団 トO
三 五 三 N工 工一Eleotronio Library吐 蕃 王 家 の 祖 先 (
LI
」 口) (23
)最 後の 三 例は,
Hu
lan
deb
ther に二 回見
え る1
go
legs
の 名を夫 々修
正して 出
来
一L
っ た もの であ
る か ら, 独立 の 例 とみな しが た く, その 点か らい え ば, 前の 六 例 の み を考
察の 対象
とすべ きで ある。 これ らにつ い て見
る と, 六 王 の世代
順位
が頗 る不安定
な こ とを知
る。 こ れで は , 六 王 の 問に 本 来 順序
が あっ た と到 底 考え ら れ ない 。 つ ま り, 今 日見
ら れ る各 種の 順位
に如 何
な る必 然 性 も なか っ た とい うこ とである。 従っ て , 「六人のLegs
」 は , 吐蕃王 家 と 限 らず
,初
め か ら如
何な る世系 表
と も関わ りの ない 名 称 群だ っ た と云わ ねば
な ら ない 。 こ うし て 「六 人 の
Legs
」 の 名が ,Grah
mo gnamgseh
brtsig
と同
様
, 吐i蕃
王家の 先 祖を古
くに 遡 らせ る た め に後
人に よっ て挿
入 され た もの で あるこ とを確 認で きるの て ある。
そ れで は こ の
1
六 人 のLegs
」 が何
に 出来 して い るか と云 うと, 確 証 を挙げる 二 と は困 難であるが ,
Nag
khri
btsan
po
に服 従 し た とい うBod
ka
g
・yag
drug95
)とか , 或い は,
Yab
bbafis
rusdrug96
)な どに 類 す る もの か ら
引
き出 さ れ た の か と考え られ る。 こ れ は,gnam
la
khri
bdun
/sale
(/hi
)legs
drug
とい う一節が あら わ す対 応を 「天神七 座 」 対 し 「地
L
で 彼 等に 服 属 し た 六 王 」 と解す
る こ とで推 定
され る。「六 人 の
Legs
」 の あとに くるZva
gnam
zin te に つ い て は , 二 つ の解釈
が成 り立つ で あろ う。 一 つ は ,
IDe
pru
bo
gnam
gshufi
rtsan の 父 と し て の 位置
か ら彼にDri
gum
btsan
pcl
の 位置
を与え, そ の 別 名とし て処 理す る方 法であ る。 こ の
方
は ,後述
の よ うに 難点
が多
い 。 しか し,多 少支持
を与
え る資
料 もな い で は ない 。 有 利 な点 をまず 明 す と次の よ うで あ る。
一 般 に
, 彼 と
lDe
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan を含む 「八 人のlde
」は 「墓を 河 の 中 流に 残し た 」97)
と され , その 為, 湖に 落ち た雪の 如 く (跡を残 さ な く) なっ た
98) とい
われる。 つ ま り, 彼 等は歴 史 的 な存 在 を 必 ら
ず
しも保
証されてい ない わ け なの で あ る。 ただ , その なか で
Zva
gnam zin te の み ぽ , 後 代の 書 物で あるが,
gTam
gyi
tshogs thegpahi
rgya mtsho の 中で99)
Phyifi
yul
Dar
po
(/pa)thafi に墓を残 し た と記 され, た だ一人 現 実 性を見せ て い る。 彼に 比定
され よ うとしてい る
Dri
gum
btsan
po
は, 敦 煌 文 書に よればGyah
tobla
hbub
に, 古 典 的 な 史 書の あ る もの に よれば, や は り,Phyih
yul
Dar
(
pa )
thah
に 墓を残 した と さ れ るか ら1°°), 古 典 的な
史 書
の 説を取
れ ば,Dri
gum
btsan
po
と彼との比 定は成 功 す る こ とに なるの である。第二 の
解釈
は ,第一 の
解釈
が と る唯
一 の根
拠を逆 用 し て成立する。 先 ず「八
人の
1de
」 の うらの 二番
に 来る ]De
prubo
gnam gshuh rtsan は , 既に 見たよ うに , 『宰 相 記』 の 冒頭 に 来る王 である か ら, そ の 存 在は
最
も現 実 的, 歴史 的な もの と み な され た上 , 議 論が進め られ て よい わ けで ある。 とす れば,
Zva
gnam
zin te に与
え られたDar
po
(/pa
)thah とい う現実的
な墓
地名 も
,Komazawa University
NII-Electronic Library Service
Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(
24
) 吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口)む しろ, 彼に 与 えられるべ ぎ もの が 誤 っ て伝 えられ たの で は ない か と
先
づ疑
わ れ ねばな ら な い 。 そ もそ も,
Dri
gumbtsan
po
の 墓 に つ い て は , 敦 熄 交書で
Gyah
tobla
hbub
に 造 営 された とあ
る以上,古
典 史家
の 説 明す るPhyi
血y
ロlDar
(pa )thah を捨て , そ れに従
わ ねばな ら ない の で あ る。 とす
れば,彼
に比 定 し よ うとす
るZva
gnam
zin te の 墓が ,譬
え,Dar
po
(/pa )thahに あっ た と さ れ て も, 両者の 同一性 を支 持 する有 効な根拠 と し て そ れ を採 り
上
げ
るわ けに は い か な い の を 知る。と,こ ろ が, 今,
Zva
gnam
zinte
を大 胆に , 王名
で は ない とし て ,IDe
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan を修飾す
る副
詞 句と解
す る と, 問題
は 一一挙
に解
決 する。
IDe
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan が第一代の 王 で ある とす れば , 少な く とも, 彼の 名に だ けは , 特に , sa
gnam
bzin
te 「天地 を 掌 握 して 」 とい うような 句を先 行させ る こ とが 許され た で あ ろ うし, そ れ が い つ の 間に か
Grah
mo
gnam
gseh
brtsig
の よ うに ,一 代の
王 名と し て 利 用 され るに 至 っ た と
して も自然で ある。
Zva
をSa
と読み 替え る こ と も, 敦 煌 文 書で zla!
sla の交
替
が 見られ る事 実か ら承認 され るで あろ う。 こ の よ うな仮 設を支 持 する かの よ うに , rGyal
po
bkah
thah やGrags
pa
rgyal mtshan の 王統 記に はZva
gnam zin te の 名が 含まれ てい な い tot)。 他 方,Bu
ston の 仏教 史le2)では ,
Za
rnam zinlde
の 名を載せ るがIDe
pru
bo
gnam
gshun
rtsan の 名の
方
を収め て い ない 。 こ れは,後者
の方
を説明的
に把
えた1°3)
結
果で は ないか と
思
わ れ る。 以上 の とお りならば,Zva
gnam
zinte
を葬
っ た と さ れ るDar
po
(/pa )thah に は ,1De
pru
bo
gnam
gshuh rtsan の 墓が あ るこ とにな る わ けで ある。 彼の 墓地 が
Dar
pa
thah と呼ば れ る 理 由に つ い て, 通 俗起 源 説1°4)
は と もか くと し て , 以 下に 述べ る
所
を参 考
に供
し た い と思 う。N
五
以 上の 説 明に よ っ て,
1Dc
pru
bo
gnam
gsthuh
rtsan と は ,ga
khyi
改め ての sPu
de
gufi
rgyal そ の 人で あ り, そ の 大臣
bDahr
(/Dar )kyi
bu
sTohdafi
rje とは , sPuskyi
bu
Dar
Ia
skyes に他な ら ない とする所 似
に つ い て大
方
の 同意
が得
ら れた もの と思 う。 上 の 判 断に もとつ い て, 敦煌 交書
に 見ら れ る或
る記 述
を考 察
する と, そ こ に得
られ る結 果か ら, 既に 下 し た判断
に つ い て更に 具 体 的な説 明が 得 られ るよ うに な る。 これ は, 我々 が 下 した 判断に 対 する, も う 一 つ の有
力な 同意を示 す 事 実に 他 なら な い 。 以 下に ,今
言及 し た ぼか りの そ の こ とに つ い て 考察
を始め よ う。か つ て , 故
M
・ ラ ル ウ教 授 は, “Catalogue
des
principaut6s
du
Tibet
ancien ” 「古 代チ ベ ッ ト の 小 王 国の カ タ ロ グ」 と
題
して , い わ ゆ る “ rgyalphran
” 小王 国に つ い て , 敦煌
文 書に見え る各種
の 名称等
を整理 して示し た。 N工 工一Eleotronlo Llbrary吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口) (25) これ に よっ て
話
をす すめ た い と 思 うが, そ こ に 示 される王, 大 臣 等の名称
一 般に つ い て , 先 ず 筆 者の 意 見を明らか に し て おき
た い 。 既に , そ の よ うに 理解
して利 用 し て きた の で あるが L°5) , これ らは 個人の 名を 示 すもの で は な く, 国王 , 大 臣に寄
せ られ てい る称
号で あり, 場合
に よ っ て は ,夫
々 の 歴 史 的 な 由来 も示 す 名 称の よ うであ る。同 カ タ ロ グに は ,
Shah
shuh の 王 とし てDar
pahi
rjobo
Lig
sfiagu
’r (P
.1286
),Dar
mahi rjebo
Lag
sfiagur
(P
.1290
)とあ り, 既に 言 及 し た と こ ろてある が, こ の 王 を
Dar
pa
(/Dar
ma ) の 主君と示 し てい る。
Lig
sfiagur
の称
号は , 『敦 煌 編 年 紀』の643
年
の条
その他
106)
に も見え, その 名は 『敦 煌 年 代 記』
le7 〕に
見え る よ うに ,
Lig
myi rhya で あ った と思わ れ る。 sfia
gur
の称
は他
の 同時 代
交書
[08)
に も見 られ,
Lig
氏に1
垠られた 称 号で は なか っ た らしい 。 こ の
Shah
shuh のblon
po
と し て 示 され てい るの は ,
Khyufi
poRa
sah rje (P
.1286
,P
、1290 )と, 他に 一人 あっ て,sToh
Lom
matse
(P .1286), sTofiLam
rma rtse (P
。1290
)と され る。 今, 前 者の
称
号に つ い て い うと, 以前
に も述
べ た よ うにleg’
, 殆ん
どが その 領地名に 由来 して い るc,
Khyuh
po
の 名は, 彼 等が古 くに拠 っ て いた
Khyuh
luh
のKhyuh
か ら得られ て い る もの と 思 わ れ るの に 対 し,Ra
sahsrje の 称は ,
Khyuh
po
Puh
sad zu tse が rTsah (/Sahs
)Bod
(Rva
を含む)2
万 戸を領有
した後
に得
た もの 11 )と考え られる。こ こ で , ひ る が え っ て,
IDe
pru
bo
gnam gshuh rtsan の 大 臣hDahr
kyi
bu
sTohdah
rje の 名を考 えて 見る と,bDahr
(/Dar )kyi
bu
は,Dar
la
skyesとい うの も 同 じで ,
一種の 渾 名で あ り
, 出 自を示 し てい る。 こ れに 対し て ,
sToh
dah
rje とい うの は , sT1 ,h
drafi
rje , sTohbrah
rtse田 )な ど と云 うの
と 同義で ,
rsToh
部
の 大酋
」 とい う意
味に 解せ られ, む し ろ, 称 号 的な もので , そ の
資格
を表わ して い る。 先に 引用 した sTohLom
ma tse (/Lam
rmartse)の sToh は, そ の 王
Lig
sfiagur
がDar
pa
(/ma ) の 主 君で あ る と され る こ とか ら考え合せ て も,
h
])ahrkyi
bu
sTohdah
rje の sToh と 同 じ もの を指 す と して よい であろ う。
ま た, 既に 見た よ うに ,
Dar
la
skyes はKhu
ま た はKhu
bo
を もっ て呼ばれ るの で
あ
るが,r
編年 紀
』に は ,Shah
shuh の 叛乱
に 言 及 した後
の678
年
と
680
年
の条
112)に , こ のKhu
(の子孫 ) とRa
sah rje をめ ぐ る事件
が , 二回 に わ た っ て並べ て
述
べ ら れ てい る。 こ こ で もRa
sah rje と並ぶ こ と か ら,Khu
と sTohLom
ma tse とを重ね合せ る こ とが可 能に な り,
Khu
とDar
la
skyes との 結びつ きか ら,
Dar
la
skyes sTohLom
ma tse とい う名称
の 連合
が想定
され る。 こ れがbDahr
(/Dar
)kyi
bu
sTohdah
rje と同一
内容
を五
Komazawa University
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Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
(26 ) 吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 口)
四
九
指 定 す る もの に なるこ とに は ,
勿論
,疑 念
を挾
む余
地も
ない 。 お そら く, ここ に 見え る sToh は , rus chen
bshi
の sToh と も結びつ くもの である に 違い な い 113)。
で は ,
Lom
ma tse (/Lam
rma rtsc)は ど うい う意 味か とい うと, こ れは ,Ra
sahs rje の 場 合か ら類 推 し て,Lom
ma の 称の 由来 を 明 らか に す れば 埋解で きる もの と知ら れ る。 そこ で , 再び
1
カ タ ロ グ」に よ っ て調べ る と114),Myafi
rocom
po
の 王 の称号
がLoh
mabyi
brom
tsha
(P
,1286
)Loh
ham
rje tahham
chaphyi
brom
dkar
po
(P .1060 ) とあるの を見
る 。既に 見た よ うに , こ の
Myafi
rogam
po
はLo
ham
rTahdzi
の 拠 っ た地 であ り,
9a
khyi
の 軍に よ っ て征 服 さ れ た 。 今, 右に見
られ る称 号
を整
理 してみ るに ,
P
.1286
か らはByi
brom
を ,P
.1060
か らはPhyi
brom
dkar
poを 除 い て
考
えた 方が わか り易い 。 す る と, 残 っ た もの は ,Lofi
matsha
とLoh
ham
rjetah
ham
cha にな る。 後 者の
Tah
ham
cha は,
Lofi
ma tsha と類 似の 他の一
称
号ら しい が, こ こ で は 問題外
の こ とで ある か ら, 省い て, 考え ない こ とに する。 する と,
Loh
matsha
とLoh
ham
rje の 二 つ が考
察の 対象
と し て 残る。 一見
して 明らか で ある よ うに, 一方
が他方
の 異 態 字で 示さ れ て お り, 全 く同一 の称
号と見て よい 。 tsha は cha と共 に 「君 主 」の 観 念 とか か わ りの あ る意 味を 示す もの ら し く, 夫 々縮 小 辞を伴っ た 形の tshehu , chebu , rtse , rje に よ っ て 「君主 」に近い 意 味を表わ
す115)
。 結 局,
Loh
ma tsha ,Loh
ham
rje は , 我 々 の 探 し てい るLom
matse
(/Lam
rma rtse )の 異態
字である こ とが容 易に 承 認で きる。
Loh
ma −Loh
m −Loh
ham
−・Loh
haln
→Lo
ham
LL
。fi
.m m 。_L
。m maこ うし て, sToh の 君 主が,
Myah
rogam
po
の 王 の称
号を もっ てい た こ とが わか る。 他 方,
Dri
gum
btsan
po
を殞したLo
ham
rTahdzi
が,Myah
ro
gam
po
に 拠 っ て い た こ と を 思 い 合せ て み る と,彼
の称
も また , こ のLoh
ma に 由来 し て い た こ とが歴 然 とする116)
。
で は , sToh の 君 主が ど うし て
Myah
rocam
po
の 王 に し か 許され ない筈
の
称
号を もっ て い た の で あろ うか。 こ の よ うな事態
が存在
す る ため に は , 次の よ うな事
実
が その 前 提 条 件と して 是非 と も 必要
に な っ て くる。 即 ち , sTohを
統
べ る 或る王 が, 少 くと も一一時, 現 実に
Myah
rogam
po
を領 有 し た とい う
事実
であ
る。 既に見
た とこ ろに よれば,bDabr
kyi
bu
sTohdah
rietl
こ対 し てな ら, こ の 事
実
を 立派
に適
用で きる の で ある。 彼Dar
la
skyes は ,吐…
蕃
王家
がLo
ham
rTahdzi
a
こよっ て覆
さ れ た後
, これ を再 興 するに当っ
て, 運 動の 原 動 力に な っ た 。 こ の こ とを踏 まえて, 当時の 事 情をふ りか え っ
吐 蕃 王 家 の 祖 先 (山 「
D
(27) て み る と,Ca
khyi
は 軍勢
を率い てMyafi
rogam
po
を襲
い ,Lo
ham
rTabdzi
の 旧領 を 悉 く手 中に お さめ た 上で,Phyih
ba
sTag rtse に 即 位し た。「天 地 を掌 握 し て」sPu
de
guh
rgyal の 高 御 座に 登 り,Lde
prubo
gnamgshufi
rtsanr1De
の化現者
, 天の御 中
主 』 と称
した。 その 時,彼
は , 吐蕃
王家 再 興の 大 功 を 嘉 し て, sPus
kyi
bu
Dar
Ia
skyes に 酬い た 。 何を以て で あっ た ろ うか 。 い うま で もない 。
Lo
ham
rTahdzi
の 旧領
Myah
rogam
po
を彼に 賜わ っ た の で ある。 こ れに よ っ て
Dar
la
skyes , つ ま り,hDabr
ky
玉bu
sTohd
εh
rje は , 以後
,Lom
ma tse (Loh
ma tsha ,Loh
ham
rje)を併称
す るこ とに なり, sTofiLom
ma tse の 称 号が世に 行われる に 至っ た ので ある。
お わ り に
本
稿
で は,ga
khyi
改
め て の sPude
gufi
rgyal が1De
pru
bo
gnam
gslluh
rtsan に
他
な ら ない こ と を,後者
の大
臣bDabr
kyi
bu
sTohdafi
rje が , 実は
ga
khyi
の 大 臣Dar
Ia
skyes その 人 で あ る とい う串:実か らつ ぎと め, 一
人に 対 す る二 王 名の 間に , 「六人の
Legs
」 とZva
gnam
zin te とが挿
入 され てい る の を と りあ げ, それ ら を 不当な もの と し て 吐蕃王 の 世系 表か ら除い
た。 し か し, 最 初に述べ た疑 点は, これ で もまだ解 消 しきっ て い ない 。
何
として も,
IDe
pru
bo
gnam
gshuh
rtsan の あと,Sroh
btsan
sgampo
までに
十
四代
の 王統
を数
えるの で は , 色 々 な 理 由か ら ま だ不 当に長い とい わ ねば ならない か らである。 今は , 残 念な が ら加え て論 ず る場 所 もない の で , 稿を改
め て 残 りの 問 題を論 じ たい と思 う。 BShCPT
CTB
略 号 表DMS
DTH
GGG
R .
A
,Stein
:Une
ch roniquri anciennede
bSam
−yas:sBa ∂.き蛔,
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