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倫理的価値の普遍性と実在性 : パトナム=ハーバー マス論争を手懸かりに

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(1)

倫理的価値の普遍性と実在性 : パトナム=ハーバー マス論争を手懸かりに

著者 堂囿 俊彦

雑誌名 人文論集

巻 65

号 2

ページ A1‑A27

発行年 2015‑01‑30

出版者 静岡大学人文社会科学部

URL http://doi.org/10.14945/00008092

(2)

倫理的価値 の普遍性 と実在性

―パ トナム =ハ ーバーマス論争を手懸か りに一

堂 固 俊 彦

はじめに

倫理的な価値 は実在するのかという問いは、倫理学の一分野であるメタ倫理 学において大 きな論争を呼んできた。素朴に考えれば、 この問いに対する答え は否定的になるだろう。例えば、末期癌が見つかった患者 に対 して、病状を隠 さずに説明した医師について、 Aが 、 「彼 は誠実だ」 と肯定的に評価するのに対 して、 Bが 「彼 はばか正直なだけだよ Jと 否定的に評価 したとしよう。 このと き彼 らは、あるレベルにおいて、すなわちその医師が包み隠さず説明したとい う事実において一致 しているにもかかわらず、それをどのように評価するのか に関 しては一致 していない。 こう考えることはできる。そしてこの不一致を説 明するありふれた方法は、 「誠実さ」 「ばか正直さ」という価値を、そのように判 断 した人の価値観から説明することである。こうしてこの事態は、 「包み隠さず 言った Jと いう事実 と、

A・

Bが その事実 に付与 した 「誠実」「ばか正直」 とい

う価値評価 とに三分される。

しか しながらこの説明は、われわれを困惑させ もする。例えば別の医師が、

患者の手術中に、治療の上では不必要だが、学問上の理由からさまざまな処置 を行い、 この行為に対 して Aが 「彼 は残酷だ」 と否定的に評価 し、 Bが 「彼は 自分の仕事に忠実なんだよ」 と肯定的に評価 したとしよう。 このとき二人の対 立を、価値観の違い」 キ付けることは難 しい。そしてこの困難を回避する一つ の方法は、 「残酷さ」といった価値を、事実のようなものとして扱 うことである。

なぜならわれわれは、事実は価値観 とは異な り、議論することができると考え ているからである。

そして実際、価値には事実的な要素が含 まれているのだということを示す こ

とにより、事実 と価値の区分 を批判 し、それによって価値の実在性 を示 そうと

する試みは存在する。 とラリー・パ トナムは、そうした試みを展開する哲学者

(3)

の一人である。彼 は、後述するように、倫理的価値

(ethic」

value)の 中には、

事実 と価値 とが絡み合った形で含 まれている「厚い概念」

(thiCk COncept)が

存 在することを指摘 し、価値 に事実的な側面が存在することを示そうとする。そ

して彼はこの試みの中で、われわれが事実だと見なしているものにも認知的価 値

(eplstemic value)が

含 まれていることをくり返 し指摘 し、価値 と事実 とが 絡み合っていることを示そうとするのである。

しかしながらギパ トナムのこのような立場は、ユルゲン・ ハーバーマス との 論争を生むことになる。両者の論争で間われているのは、価値は普遍的である のか、また普遍的であるとしても実在的であるのかとい うことである。そこで 本稿では、両者の議論を比較検討することにより、パ トナムの道徳的実在論 1の 妥当性を検討する

2。

具体的には、以下の形で考察を進める。第 1章 では、パ ト ナムにおける認知的価値 と倫理的価値を概観 した上で、両者の間には、大 きく 二つの相違があることを指摘する。一つ日は、概念の厚 さに関する相違、二つ 日は、概念の実在性に関する相違である。 これら二つの問題を、それぞれ第

2

章および第 3章 において、ハーバーマスの見解 と対比させ ながら検討する。

1.認 知的価値 と倫理的価値

ここでは、第一に、認知的価値及び倫理的価値の基本的特徴および両者の違 いを確認 し、第二に、両者の間に看過できない違いがあることを指摘する。

:実

の ところパ トナムは、自らの立場 を明確 に実在論 と呼ばない。彼 はその理 由を「

r実

在論

Jは

、 現在 きわめて多 くの形而上学的・ 言語哲学的論争 に巻 き込 まれている」(Putnam 1994 177)め ヽ らとする。この ときパ トナムが念頭 に置いているのは、われわれの認識 を超越 した実在 を想定す る立場

(イ

ンフレ的存在論

)で

ある。つ ま リバ トナムは、自らの立場 が この意味での実在論 と混 同されることを恐れているのである。 しか し次のように語 るさい、彼 は明 らかに自らの立場が別

種あ実在論であることを認めている。「道徳的事実は認識を超越 した事実であぅ、あるいはあり

うると想定することな く、メタ倫理学における道徳的実在論者であることはできない、つ まり

『価値判断Jの中には客観的事実の問題 として真であるようなものも存在すると考えることはで きない一― このように想定することにはいかなる理由もない。」(CD 108[1367])

2筆者はすでに、パ トナムの議論に依拠 しつつ、「人間の尊厳Jを「厚い概念」として理解する可 能性を検討した。Cl堂2014 本稿の目的は、その論文の査読過程 において指摘 され、結局の ところ十分に検討することができなかった問題を扱うことにある。査読者の方から指摘された具

体的な問題に関しては、該当論文注53を参照されたい。パ トナムの議論 に含 まれる重大な問題に 気づかせて くれた査読者の方に、 この場を借 りてあらためてお礼申し上げたい。

‑ 2 ‑

(4)

1‑1 

認知 的価値

パ トナムが認知 的価値 としてあげるのは、「単純性」(simplc,)、 「首尾一貫 性 」

(coherence)、

「もっ とも らしさ」 (plausibi■ り

)、

「理 に適 って い る こ と」

(reasonableness)、

「美 しさ」

(beauty)、

「自然 さ」(naturalness)な どで ある

(Putrlam 1981:135‐

136[205 2061 CD:3033[35];EO:67[82])。 これ らが認苅 的であるのは、われわれが これ らの性質 を通 じて世界 を認知 す るか らであ り、

これ らが価値 であるのは、われわれがそ うした性質 をもった世界 は望 ましい、

あるい は世界 はその ようにあるはずだ と考 えるか らである。パ トナムは、認知 的価値 が重要 な役割 を果 たす ことを、次のような歴史的事実 によって説明する。

アインシュタインの一般 相対 1処 論 とアフル レッド・ノース・ ホフイ トヘ ッ ドの重力理論 は ともに、特殊相対性 について は一致 し、 また、両方 とも、

重力によって光が曲げられること、火星の軌道がニュー トンカ学 とは異なっ ていること、月 の正確 な軌道等 々、よ く知 られてい る現象 を予波」していた。

しか し、 アイ ンシュタインの理論が受 け入れ られ、ホフイ トヘ ッ ドの理論 が拒否 されたのは、二つの うちいずれを選ぶべ きかを決 定するような観測 方法 を考 えつ く人 が出る50年 も前の ことであった。明示 的か どうかは とも か く科学者 たちが下 した判断、すなわ ち、ホ フイ トヘ ッ ドの理論 はあま り に「もっ ともらしさに欠 ける」 とか、真面 日に受 け取 るには 「ア ド・ ホ ッ ク」す ぎるとい う判断は、明 らかに価値判断であった (EO:6768[82‑83])。

これに対 して、 ここでの科学者 たちの判断 は価値判断ではない と批判 され るか もしれない。なぜ な らどちらの理論 がよ り「もっ ともらしい Jか 、よ り「ア ド・

ホ ックではない Jか は、真の世界 との一致 によって なされ るべ きであ り、望 ま しいか どうか とは無関係 であるように思われ るか らである。だが、 このような 形 で理論選択 を説明す ることはで きない。 なぜ な らわれわれ は、理論 の「もっ とも らしさ」 を判定す るために、理論 か ら離れて 「真 の世界」 を認知 す る視点 を持 ち得 ないか らである。バ トナムはこのような世界 を「形而上学的実在 Jと 呼 ぴ、 この ような形 の実在論 を首尾一貫 して否定す る。

しか しさらに、「われわれは観測 によって真 の世界 に接す ることがで きるので

あ り、二つの理論 の優劣 は後 に示 された観測方法 を通 じて決 まったのだ」 と反

論 され るかもしれ ない。だが、 「観測 Jと 「真の世界」を結 びつ けるこの考え方

は、観測 されていない ものも事実 として受 け入れ られて きた ことを説 明で きな

(例

えば原子、電子、陽子 など )と 同時 に (CD:2227[2531])、 観測 自体 が

理論 と分 かちがた くか らみあってい ることを見逃 してい るとパ トナムは主張す

(5)

る。後者を訴えるにあたってパ トナムが依拠するのは、分析判断 /総 合判断の 区分に対 してクフインが行った批判である。 この区分は、すべての言明を、事 実内容を欠 く

(数

学や論理学における )も のと事実のみに関するものに明確 に 区分できるはずだという想定に基づ く。 しかしクフインはこうした想定を認め ない。 「物理的世界に関するわれわれの言明は、個別的にではなく、一体 となっ た組織体 としてのみ、感覚経験 とい う裁 きの場に立つ」 (Qunc 1953 41)3か ら である。つまり観測 という事実に関わる言明の妥当性 も、価値 と絡み合った理 論 と無関係 には成立 し得ないのである。

しかし上記の価値判断が、形而上学的実在 との合致によってなされるのでは ないとすれば、どのようになされるのだろうか。パ トナムはこの判断を、 「その ためのアルゴリズムがあるものではなく、つまるところ『山勘 Jで 判断するし かないもの」

(Pu●

latn 1981:132133[201])で あると言 う。 しかしここで言わ れる「山勘」

(seat of dle p狐

劇 cel)は 「当てずっぼう」 ということではなく、

優れた科学者のみがもっている能力である。 「科学者 として成功するようになる かどうか…は、その人が学んでゆ く課程で、そのような判断能力を発達させる かどうかの問題 Jで あ り、こうした能力を身につける上では、 「正規の学習も大 事だが、それ以上に、本人が実際に科学にかかわる経験を通 して学ぶほうが大 事」 (EO:69[74])だ とされる。このようにして育まれる評価的な観点

(cvaluat市e

oudook)を 通 じてこそ、科学は実在する世界を描 くことができるのであり、こ

ことは別 に真に実在する世界を想定することは意味をなさないのである。

1‑2  倫理的価値

次に、倫理的価値を見ていこう。認知的価値が世界の認知に関わるのに対 し て、倫理的価値ははるかに曖味である。パ トナムは倫理を、 「多 くの脚に支えら れたテープル」 (EO:28[32])に

IIRえ

る。すなわち倫理は、日の前で苦 しんでい る人への関心、原理への関心、人間の幸福への関心…といつた多様な関心に支 えられているのであ り、 こうした関心 と関わるものが倫理的価値 なのである。

そして冒頭で述べたとお り、パ トナムが着 目するのは、倫理的価値の中でも、

「残酷な」 「勇敢な」「慈悲深い

J「

粗野な」 「鈍感な」といった厚い概念である (CD:

3た

だ しクフイン自身 は、理論 と価値 の不可分性 に言及 しているわけではない。パ トナムはこの点

を批判す るとともに、クフインが、分析判断 と総合判断の区分 にはいかなる意味 もない主張 した

点 (Ci CD:12[13141)、 そして物理学 によって描かれ る世界 を唯―の実在 として認めた点を批

判 してい る

(Ci EO:83‐ 34[102])。

(6)

22‐27[25‐31])。

これに対 して「薄い概念」としては、 「正

J「

不正」 「公正」「不正

J

「善」「悪」「権利」「義務」「責務」 といったものが挙 げられる (EO:106[128])。

それでは概念の厚 さとは何であ り、 この概念はどのような意味で事実 と価値の 区分 を批判するのだろうかち

伝統的に、価値の実在性を疑 う論者は、価値判断を、記述的意味と評価的意 味に区分 してきた。例えば「このコンピューターはよい」 という発言は、一方 において、そのコンピューターがもつ一定の性質――例 えば、処理速度の速さ、

重量の軽さ、耐久性など―― を伝えるという意味

(機

能 )を もつ。他方でこの 発言は、そのコンピューターを肯定的に評価 し、さらには他人に購入を勧める という意味

(機

能 )を 持っていると考えられる。そして二つの意味のうち、 「よ い」にとって固有なのは、評価的意味 とされる。なぜなら「よい」の評価的意 味が一定であるのに対 して、記述的意味によって伝 えられる性質は、 どのよう な種類の対象が「よい」 とされるのか、誰がこの言葉を使 うのかによって多様 だからである。概念が 「薄い」 というときに意味されているのは、記述的部分 のこの空虚 さである。そして反実在論者たちは、記述的意味

(の

内容 )を 世界 の側に帰属させる一方で、評価的意味を主観の選好に帰属させてきた。

これに対 して厚い概念は、 自らの内に記述的意味をもつ。なぜならわれわれ は、対象を記述するために厚い概念を用いることができるからである。例えば、

歴史学者である秀村の著作には以下のような記述が見 られる。 「ティベ リウスは グルマニアに歴戦 した練達の将軍で、統治の才もあ り、義務観念の強い人物だっ たが、明朗さと温かさに乏 しかった。元老院 との間は表面的にはうまくいった が、じっさいにはしっくりせず、民衆にも人気がなかった」

(秀

196■ 23)、

あ るいは「物質的幸福 と名利に心を煩わされず、摂理 と運命への達観を説 くス ト ア哲学を修めた彼 [セ ネカ ]も 、粗野なコルシカ人の間での、孤独 な生活には 耐えられなかったのである J(秀 村

1967・ 38)。

これらの文章において、ティベ リウスやコルシカ人は非難されているのではない。ティベ リウスの明朗さと暖 かさの欠如は不仲・不人気の原因として、コルシカ人の粗野さは生活の耐えが たさの原因 として記述されているのである。引用文における傍点箇所を、 「よく なかった」 「悪かった」という薄い概念に置 き換えた場合 に、対象の記述 が不十 分になることからも、 これらの概念の厚 さは明らかだろう。

しかしこれだけでは、二分法の崩壊には至 らない。なぜなら厚い概念の記述

4以

下の部分 は、董回

,2014第 2節

の記述 を圧縮 したものである。詳細 についてはそちらを参照 し

ていただきたい。

(7)

的意味 を通 じて伝 え られ る記述的性質が、倫理 的価値 とは関係 ない、明確 な事 実 に還元 され るな ら、依然 として事実

//価

値 の二分法 は維持 されているか らで ある。 しか しパ トナムはこれを不可能 とす る。彼 が挙 げる例 を用 いるなら、 「残 酷 な Jを 「多 くの痛みを与える」 とい う事実によって説明すると、麻酔が開発 され る以前の医師は残酷であ り、苦痛 を与えずに、才能 ある若者 を堕落 させ る 者 は残酷ではない とい う奇妙 な事態 に陥 る。 (も ちろん これは、音痛 を与 える行 為が時 に残酷 だ とい うことを否定 しない。 )結 局の ところ、 「 『残酷 な』の「記述 的意味 Jと は何であるかを『残酷 な』 とい う語や その同義語 を用いずに述べ る ことがで きない J(CD:38[45])の である。実際、 「残酷 な」 を、 「酷 い」 「惨 い」

とい う価値 を含 んだ表現 を抜 きに、一般的 に説明す ることは困難 ではないだろ うか。 そして この ように事実 と価値 が分かちがた く絡み合 ってい る以上、事実

/価 値 の三分法、 さらには記述的意味 によって示 される一定 の性質 に、主観 が 価値

(観

)を 書 き加 えるとい う枠組み 自体 が疑問視 され るのである。

そ して倫理的価値 とは関係 ない、明確 な事実 によって厚 い概念 を説明で きな い とい う事態 は、 アル ゴ リズムのような機械的 プロセス によって概念 を適用す ることが不可能であることを意味す る。 も し可能であれ ば、 そ うした事実 を基 準 として、法則やアルゴリズムを作 ることが可能だか らである。それゆえ認知 的 価値 と同 じように、厚い概念 を適用する上でも、評価的な観点 を持つ ことが極 め て重要になる。

(倫

理 に関する場合、パ トナムはそれをい、 間知」

KM― encrkcnntllsu

とも呼ぶ。

)「

もし適切 な倫理的観点 をいかなる点で も共有 しえない とすれば t厚

い倫理的概念 を獲得 することは決 してで きないであろう」 し、 「そうした概念 を 洗練 された仕方で使 い うるためには、 その観点 と

(少

な くとも想像 の中で )一

体化す る持続的 な能力が必要 J(CD:37‑38[44])な のである。 そ してわれわれ が この観点 を学ぶの も、科学 と同 じように、経験

(実

践 )か らである。 「経験が 増 え、経験 がもっ と洗練 されたものになると、価値 の色調や陰影 も増 え、価値

はもっ と洗練 されたものになる」(CD:103[130])。

1‑3 

二つの価値の相違

冒頭で述べた ように、パ トナムは、倫理 的価値 と認知的価値 の類似性 に訴 え ることによ り、道徳的価値 の実在性 を訴 えてい る。 「事実言明 その もの も、何が 事実で何 が事実 でないかを決定す るためにわれわれが よ りどころ とす る科学的 探求の実践 も、価値 を前提 としているがゆえに、先 の

[事

実 と価値 の ]区 別 は、

非常 に控 えめに言 って も、絶望的 なまでに曖昧 J(Putnam 1981:128[1941)で

(8)

あ り、 「倫理的な価値評価 に対 していっさいの客観性を認 めない過激 な『自然主 義

J5は

、 その主張の一貫性 を保 とうとする限 り、方法論的

[認

知 的 ]な 価値評 価 に対 して もいっさいの客観性 を認 めるわけにはゆかない」 (EO:73[89])の で ある。 しか し本 当に、両者 を類似 したもの として扱 うのは適切 だろ うか。む し ろ両者 の間には、無視 しえない相違 があるように思われ る。

認知的価値 と倫理的価値 の一つ 目の相違点 は、前者 が薄い概念であるのに対 して、後者 が厚 い概念 だ とい うことである。認知 的価値 が 自らの うちに伝 える べ き記述的性質をもたない ことは、「あれは単純だ」 と言われても、われわれに 思い浮かべ られ るものがほ とん どない ことか ら明 らかである。 そ して ここか ら 示唆 され るのは、倫理 に関 して も、む しろ薄い概念 に着 日して こそ、 その普遍 性 を保てるのではないか とい うことである。ハーバーマスはそ うした試みの代 表 的論者 であるが、彼 は 「規範」 とい う薄い概念 に普遍性 を認 める と同時 に、

厚 い概念 も含 めて価値 を総 じて相対的 なもの と見 な しているよ うに思われ る。

パ トナムによる認知的価値 と倫理的価値 の並列が有効 であるためには、規範 と 価値、 さ らには薄い概念 と厚 い概念の関係 を明確 にす る必要 があるだろ う。

二つ 日は、認知 的価値 と倫理的価値 では、前者 が実在的であるのに対 して、

後者 が間主観 的 とい う点で違 いがあるのではないか とい うことである。両者 と も確 かに、価値 か ら完全 に独立 した客観

(形

而上学的実在 )に 関わ ることのな い客観性 を、すなわちパ トナムが言 うところの「客観抜 きの客歓

lL」 (o●

ect市 iw 宙

thout obJect)を

もつ と言えるか もしれない。 しか しここか ら、科学 と倫理 の 客観性 が同 じであると言 えるのか。 この点 について も、ハーバーマス との対比 が有効 に思われ る。彼 は規範 の普遍性 を認 めるが、 この普遍性 は実在性 ではな く間主観性 を意味す る。ハーバーマスの この立場 が適切 な ら、両者 の対比か ら 倫理的価値 の実在性 を主張す るパ トナムの立場 はや は り疑わ しい ものになる。

薄い概念 と厚 い概念

厚 い概念 に着 目す るパ トナムは、薄 い概念 とい う「貧弱 な語彙」 で倫理学上 の争点 を語 り尽 くそうとす る傾 向を、 「哲学が陥っている盲 目」 (EO:73[89])と 批判す る。 そ して この批判 は、 その まま規範 と価値

(あ

るいは正 と善 )を 厳密

に区分する、現代 において主流 をなす立場への批判 につながる。 なぜ ならこの

5パ

トナムは自然主義 とい う用語 を、物理主義、すなわち世界 そのものは価値中立的な第一性質か

ら構成 されている とす る立場 と同一視する。

CI Putnam 19951 39[53]

(9)

立場に与する論者 は、薄い概念を用いて規範を捉えると同時に、価値を総 じて 倫理学の中心から排除することを試みているからである。それゆえパ トナムが、

規範 と価値の区分を重視するハーバーマスを批判 したのは当然のことであつた。

ここでは、ハーバーマスにおける規範 と価値の区分を確認 した上で、 この区分 に対するパ トナムの批判、そしてパ トナムにおける薄い概念 と厚い概念の関係 を検討 し、最後に討議倫理の中にも価値の普遍性を認める余地があることを示 す。

2‑1  規範 と価値

一般的に、規範は行為の評価 に関わ り、価値はそれ以外のもの

(例

えば、人 柄、結果、理想など )の 評価に関わるとされる。例えば殺人 に関 して、 「たとえ 犯人の人柄がどうあれ、殺人 によって彼が目指 した理想がどうあれ、さらには 殺人によって生 じた結果がどうあれ、殺人を為すべきではない

(殺

人 は不正で ある

)」

と言 う人は、この区分を前提 としている。そしてハーバーマスの討議倫 理も、 この区分を重視 している。以下、規範 と価値の区分 を中心に、彼の立場

を概観する。

ハーパーマスによれば、われわれはコミュニケーションの場面において、三 つの妥当性請求 (Geltungsanspruch)を 掲げている。

(妥

当性請求 とは、 「適切な ことを認めるように主張する」 と言い換えることができるだろう。 )一 つ目は、

「客観的世界

(事

実である、もしくはありうるものの総体 としての客観的世界

)」

に関わる確然的真理性 (asseionsche wtt■

eit)。

これを通 して発話者は、 自 らの発言が客観的世界にもとづいた真理であることを主張 している。二つ目は、

「社会的世界

(正

当に規則づけられた間人格的関係の総体 としての社会的世界

)」

に関わる規範的正当性

(llorma歯

e Rchtke■

)。

これを通 じて発話者 は、自ら の発言が社会的規範に照 らして正当であることを主張している。そして最後が、

「主観的世界

(彼

が特権的な通路をもっているところの、表明しうる体験の総体 としての主観的世界

)」

に関わる主観的誠実性

(su●ekdVe wabrhattgkeit)。

こ れを通 じて発話者 は、自らの発言が自分の気持ちや意図に誠実であることを主 張 している (MB:33[43])。 例えば日本の社会において一人の男性が、愛 し合 う他の男性 と一緒に生 きてい くかどうか悩んでいるとする。この男性に対 して、

兄が「お前のことを愛 している女性 と生 きてい くべきだ」と言 うとき、兄は「お

前 と相思相愛の仲 になれる女性がいる」 という確然的真理性、 「男性 は女性 を

パー トナーとして生 きてい くべ きである」 という規範的正当性、そして「自分

(10)

は心からそう考えている Jと いう主観的誠実性を掲げているのである。

すでにこの区分から明らかなように、規範は規範的正当性 に関わる。 しかし もし弟が兄の妥当性請求に疑間を呈 したらどうか。ハーバーマスは、そのよう な状況から妥当な規範を導 き出すには、実践的討議

(prakischer Diskurs)力

` 必 要であると述べる。この討議において参加者は、 「規則が妥当ならば、各人の利 害関心のために、その規範を一般的に遵守することから生 まれて くると思われ る成果や副次的結果は、すべての人に強制なく受け容れられなければならない」

(ED:12[18])と いう普遍化原則 (Un市 cお aliserungsgmndsatz)に 従 う必要が ある。 この原則の名称からも明 らかなように、規範 は「すべての人に受け入れ られる」 という普遍性 と結びついている。なぜなら「妥当性 をもつ道徳的命令 は、特定の個人に関係 しない普遍的な性格を持つ」 (MB:731105])か らである。

そしてこの普遍性は、原則の内実から明らかなように、各人の利害関心、各人 の同意を公平に考慮することによって成 り立つ。 「討議倫理学は、内容に関する 方向付けではなく、 十分な前提を備えた手続きを、すなわち公平性

0理artdLchkci0

を保証すべき手続 きを提案する」 (MB:132[193])の である。手続 きとしての 公平性 こそ、討議倫理の核 と言えるだろう。

それでは討議倫理において、価値はどのように扱われるのだろうか。すでに 述べたように、ハーパーマスは規範 と価値を明確 に区別する。実践的討議 を通 じて、 「日常の実践 は、規範 と価値 に、すなわち厳密な道徳的正当化の要請に従 う可能性のある、実践的なものという構成要素 と、個々人や集団の生活様式に 統合されている特殊な価値志向を含んでいる、道徳化されえないもうひとつの 構成要素 とに、分離する」 (MB:H8[170‐ 171])の である。この引用から明らか なように、ハーバーマスにとって価値 とは、道徳 に必要な普遍性 を欠いている ゆえに、規範 とは区別 されなければならない。ハーバーマスは、規範 と価値を

「道徳」と「倫理 Jと いう形で区分 した上で、より直接的に次のような形で述べ る。

日常の実践のなかに具体化 している文化的価値、あるいはある人物の自己 理解 を形作っている理想的なものといつたものは、確かに問主観的な妥当 性への要求を伴っている。 しかし、そういったものは、集団的なものであ れ、個人的なものであれ、特殊な生活様式の全体 ときわめて密接に折 り合 わされているので、規範的妥当性などはじめから厳密な意味で要求される

ことはない (ED:35[31])。

先 ほ どの兄弟の例 で考 えよう。 「男性 は女性 をパー トナー として生 きてい くべ き

(11)

である」 という規範が、仮に兄が抱 く理想的な生き方に、あるいは兄が属する 文化に特有な価値に依拠 しているなら、普遍性 を持ち得 ないことは確かであろ う。しかし価値の中には相対的なものがあるにせ よ、同時に、 「様々な局所的な

「生活世界Jの歴史がもつ偶然以上の何かが、価値には存在する J(CD:H7[147]) のではないか、パ トナムはこう問 うのである。

2‑2  薄い概念と厚い概念の結びつき

パ トナムの批判は、ハーバーマスにおける「普遍的な規範 /相 対的な価値」

という区分に向けられる。すでに見たように、ハーバーマスは規範の普遍的妥 当性を、討議を通 じた合意から導 きだしていた。 しかしパ トナムはこれに反対 する。

F色

々な意見は、たとえわれわれ全員が、 どれが正 しくてどれが誤ってい るのかに関して一致 した見解に至 らないときでも、正 しくまた間違ったもので ありうる」

(Putnam 2002●

319)。 すなわち彼の反論の主旨は、合意は規範の妥

卦産た [ら そ必要ネ苛欠な条件ネ慮を」 ヽ とぃぅ点にある。以下具体的に見てい

こう。

パ トナムは次のような例 を挙 げる。 「ある父親力

S、

彼 の子 どもをか らか うこと によって心理的に虐待 しているのだが、彼 は

(鈍

感 さのためか、サデイズムの 傾向をもつせ いなのか )そ の子の涙 が本当に深刻 なものであることを否定」 し、

「彼 は我慢す ることを学 ばなけれ ばならない J(CD:127[160])と 主張す る。 そ して これをきっかけに、親子の関係 に関する規範 を、 この父親 と周囲の人 々が、

三つの妥 当性請求を掲 げ、普遍化原則 に従 って討議 した としよう。 しか しそれ にもかかわ らず、 「泣いている子 どもをか らかうべ きではない Jと い う規範 の合 意 に至 らない とする。 この とき、討議 倫理 の観点 に従 えば、 その規範 は合意 を 欠 くゆえに、妥 当性 を欠 く。 しか し合意 の有無 とは別 に、 この規範 は妥 当なの ではないか。

それでは、 この討議 に欠 けているものは何 か。パ トナムは問題 を次 のように 指摘す る。

… この討議参加者 たちが間違 っている点 は、彼 らが討議倫理 の規範 に従 っ ていない とい うことで はない。何 が間違 っているかは、個 々の倫理的問題 に適 した厚 い倫理的ポキャブラ リーを用い ることによって述べ ることがで きる。彼 らは「

F鈍

感』

(人

間知 をもっている ことの反対物 )で あ り、彼 ら は『サディズムの傾 向』 をもつ

J、

等 である (CD:127128[161])。

問題 は、討議 に参加 してい る人が、価値 を適切 に捉 えることので きる評価 的観

(12)

点 を欠いてい ることにある。 そ うした観点 をもっているなら、 その父親 の主張 が誤 ってい ることを見 て取れ るはずなのである。 もちろん全ての人がそ うした 視点 をもってい るな ら、規範 に関す る合意 は成 り立つだろう。 だが、 この とき 規範 の普遍性・ 妥当性 を支 えているのは合意 自体 ではな く、適切 な視点 を通 じ て見いだされた価値 である。 そ うである以上、規範の普遍性 を支 える価値の普 遍性 を想定せ ざるをえないのである。 「価値の表現 に関する相対主義は、 どのよ うな形 のもので も、 『規範 Jの 客観性 に影響 を与 えず たはおか ない J(Putnaln

2002● 308‐

309)。 確 かに価値 の中には、個 々人 が抱 く望 ましい生 き方 な ど、相 対的 なものも存在す る。 しか しここか らすべての価値 が相対的であると判断す るのは早計である。以下、パ トナムに対 して提起 され うる批判 を二つ検討 しよ う。

一つ 日は、普遍化原則 は泣 いている子 ども自身の利害関心や同意 を考慮す る ように求 めている とい う批判である。か りに子 どもが まだ十分 に話す ことがで きない としよう。 この とき討議倫理 が求 めるのは、 その ような行為 が 「すべて の人 に よって拒否 され る」 (ZN:79[7月 )か どうか を想定で きるか どうかで あ る。 しか しこの討議 に参加 してい る人 が、 「父親のような行為 は誰 によっても拒 否 され る」 と想定す るとは考 え られ ない。 さらに、か りに本人 が討議 に参加で きた としても、事態 が変わ るわけで はない。子 ども自身 が当該 の規範 が妥当で あると主張 した ところで、周囲が合意 しなければその規範 は妥当ではない

6。

二 つ 日は、欠 けているのは価値ではな く規範であるとい う批判である。すなわち、

欠 けてい るのり ま「人 を残酷 に扱 うべ きではない」 とい う行為の規範であ り、「鈍 感」や 「サディズムの

lrI向

」 といった価値 ではないのだ と。 しか しこの批判 の 内に こそ、規範 に とっての価値 の重要性 が示 されているのではないか。 これ ま で見 て きたように、パ トナムは倫理的価値 の事例 として しばしば 「残酷」を挙 げて きた。 そ して この概念 は、人、意図、帰結 を評価す るために用い られる以 上、価値 と規範の区分 を受 け容れるな ら「価値 Jで ある。だが この価値 は、 「泣 いてい る子 どもをか らか うべ きではない Jと い う規範 を支 える根拠 として、 さ

̀も

ちろん検討 される規範 を「父親 は泣いている子 ともをうヽらガ

,ら

そ も

1じ

Jに

変更す るなら、そ

して子 とも自身が討議 においてノーを言 うのであれは 事態 は変わ つて くるだろう。 しかし討議

に付 されるものは、すでに社会 に■いて適用 している規範である。 その点で は、「か らか うべ き

ではない」 力ζ 討議の俎上 に載 る可能性 が高い。ハーパーマスの枠組みは、 「み なが納得で きるも

のではない

Jと

い う理 由で古 き志 しきものを排除で きる一方 で、同 じ理 由か ら古 き書 きものをも

容易 に″

1除

で きて しまう。パ トナムが問題 にしたのは、討議倫理 が排除す るものと思 しきもの と

の このズンなのである。なお、筆者 は拙稿 において、パ トナムにおける客観性 を収東性 に結 びつ

けたが、 それは全 くの誤 りであった。

Ci堂

201418

(13)

らには「人 を残酷 に扱 うべ きではない Jと い うように、規範 の一部 として も用 い られる。む しろこの批判 は、規範 を考 える上で、いか に価値 が不可欠 なのか を示 している。 「人間 に関す る多様 な価値 がなければ、規範が その中で述べ られ るべ き語彙 は存在 しない」 (CD:119[150])7の である。

最後 に、薄い概念 と厚 い概念 の関係 について確認 しよう。規範 と価値 の関係 をめ ぐるパ トナムの考 えか ら、われわれは、薄い概念 と厚 い概念 も密接 に関連 していると言 うことがで きるだろ う。 「泣いている子 どもをか らか うべきではな い」 とい う規範が「残酷 Jと い う価値 を根拠 としているように、例 えば、「この 国の人たちは本 当によいね Jと い う発言 は、 「誠実」や「快活 Jと いった価値 に 支え られているかもしれない

8。

この ことは、薄い概念 が記述的意味をもたない とい う先 の説明 と矛盾 しない。薄い概念 は、 それ自身 の内 に記述的内実 をもつ のではない。 あ くまでも他 の概念 とのネ ットワークを通 じて 自らの記述的意味 を得 るのであ り、厚 い概念 もその中に存在す るのである。 それゆえその都度用 い られ る薄い概念 の意味を適切 に理解す るためには、厚 い概念 を適切 に理解 し ている必要 がある。ハーバ ーマス は、討議 における根拠 の重要性 を強調す る。

われわれが妥当だ と考 える規範 は、 「なぜ その規範が規範 の受取人

(あ

るいは関 係者 )の サークルの中で承認 を得 るのかを説明することがで きる」 (ED:144[169‑

170])も のである。 そしてパ トナムが問題 にしているのは、価値、 とりわ け厚 い価値 を抜 きにして、 そうした説明が可能 なのか とい うことなのである。

2‑3 

討議倫理 と価値の普遍性

ハーバ ーマスはパ トナムヘの応答 において、従来 の立場 を繰 り返 しているよ うに思われる。彼 は明確 に、パ トナムのように価値 を実 在 として捉 える立場 は、

7ハ

ンス・ ヨアスは、 この論争 をとりあげた論文 において、価値の普遍性 を否定す るハーパーマス を批判 しなか らも、パ トナムにも問題 があるとす る。なぜならパ トナムは、価値 と規範 を区分す るからこそ価値 に客観性力認 められないと考 えているが、 この区分 は実際 に必要であ り、 この区 分から価値 の主観性 は帰結 しないか らである。だが、ヨアスが規範 と同一視す る道徳、すなわち

「われわれを行為の可能性 とい う点で制限 し、特定の目的を禁止 し、手段 を禁 じる

J(Joas 2002:

267)も

のの中に、価値 は含 まれないのだぢ うか。ちなみにパ トナムは、ハーパーマスのように 価値 と規範 を区分することに反対す るが、 だか らといって この区分 が無意味なのだ とは考 えな い。

CI Putnan1 20112■ 312パ

トナムにお ける「哲学的二元論」 と「哲学的区分」 に関 しては、

稿 を改めて論 じることにしたい。

8パ

トナム自身、 そうした概念 のつなが りに言及 している。 「債例上『事実

Jと

見 なされているも

のに対す る探求であろ うと、 「価値

Jと

見なされているものに対す る探求であろうと、 その探求

の結果 を判断するさい、われわれは、その探求 において疑間に付 されない価値判断 と記述の膨大

なス トックを利用す る。J(CD:103104[1311‐

131])

(14)

「倫理的な知識

[価

値 ]が 文化 に特有の妥当性 しかもたず、その知識 が属す る伝 統や生活形式の外 では、方向付 ける力 を失 う」 (Habemas 2004 287)と 述べて いるのである。 しか しこうした 「公正 とい う普遍主義的な道徳 Jと 「生 き方 と い う個別主義的な倫理」 とい う区分 は、別 の面か ら見れば価値 の区分 でもある。

われわれは、 自分 たちの社会 についてだけでな く、 どこで も、人 に苦 しみ を与 えることを 「残酷 Jと 呼ぶ。 しか しわれわれ は、奇異 な感 じを抱かせ る教育実践や結婚儀式 に、 したがって他所 の文化のエー トスの核 となる構 成要素 に異議 申 し立てをす るのが正 当である とは感 じない。 もちろん こう

した構成要素が、われわれの道徳的基準 に、すなわち、普遍主義的 な妥 当 性請求 を通 じて、他 の価値 か ら区別 され る中心的な価値

(zentrale werte)

に反す る場合 は別 である 〈

Habcrrnas 2004:290)。

ここで 目を引 くのが、「中心的 な価値」 とい う表現 である。 この価値 は どの よう なものか。ハ ーバーマス はそれを、 きわめて抽象的な仕方で説明す る。すなわ ちそ うした価値 は、「 『社会的絆』 の解体、 したがって普遍的 な公正基準 の裏面 に過 ぎない、社会 的連帯 にお ける最低 限の ものの損失」 (Habemas 200■

290)

に関わ るものである。 それで は連帯 とは何 か。ハ ーバーマス によれ ば「連帯」

とは、 「間主観的に共有 された生活形式のなかで結びついた仲間の福祉 を目指す

J

(ED:70[761)も のだが、 これが公正基準の裏面であるのは、 「個人 の平等 な権 利 と自由は、隣人 とその隣人 が属す る社会 の福祉 がなければ守 ることがで きな い J(ED:70[77])か らである。つ ま り「個人 の平等 な権利 と自由」 の維持 に とって不可欠 なものが連帯であ り、 その存否 に関わ るものが中心的 な価値 なの である。迫害 のような残酷 な行為 が福祉 とは相反 す ることを考 えれば、「残酷」

を中心的価値 と見 なす ことはで きる。

(す

べての残酷 な行為が連帯 を破壊するも のではないにせ よ。)ハ ーバーマスが残酷 を「道徳的に含みのある表現」 (Habermas 2004290)と 呼ぶ背景 にはこうした繋が りがある と思われ る。

そして ここで言われ る「中心的 な価値」 は、普遍的 な価値 とのつ なが りをも つ。ハーバーマスの討議倫理 に とって、「倫理 に関 しては自由な、道徳 に関 して は平等 な、規範 と根拠 に合わせ る生物」 (ZN:74[69])と い う人間のあ り方 は、

重要 な意味をもつ。すでにこれ まで見て きたように、討議倫理 は、討議参加者 が、一人一人多種多少 な人生 の 目的

(す

なわち彼 が言 う価値・ 倫理 )を 選 ぴ取 ることを認 め る一方で、普遍化原則 にもとづ き自分 と他者 を公平 に考慮 し、間 主観的に承認 され た根拠や規範 に従 うことを前提 としている。 そ してハーバー マス は、 こうした人間のあ り方 を、普遍的な価値 として語 ろうとす る。 なぜ普

‑13‑

(15)

遍的なのか と言 え │よ この人間のあ り方 は、「さまざまな文化 が人間『 とい うも の』 について もってい る像、 どこへ行 っても一一人間学的な普遍性 とい う意味 で―一 同 じである像 J(ZN:72[68])だ か らである。そしてなぜ価値 なのか と言 え │よ ここで語 られているのは、 「私 たちは どうあ りたいか」 とい う自己理解 の 問いであ り、 「私 は何 をなすべ きか」 とい う問いではないか らである。 (こ の区分 はここで もまた、かな り疑わ しい ものであるが

9。

)そ して ここにおいて、道徳 と価値の位置づけは逆転する。これまで見た討議倫理では、規範は価値に優先 する。なぜなら討議において重要なのは、特定の個人や文化に特有な価値では なく、誰にでも公幸た隻み入れられる連島だからである。しかしこの優先関係 にもとづく人間や社会のあり方は、 「先行する、すべての道徳的人格によって共 有されている、人類の倫理的自己理解にその支えを持っている J(ZN:74[69 701)の である

10。

まとめよう。ハーパーマスは、討議倫理 が想定す る人間のあ り方 を、人類 が 共有 している一つの望 ましい

(価

値 ある )人 間のあ り方 として提示 している。

それゆえ、 そ うした人間のあ り方 と密接 に関わる 「中心的価値 Jも 、普遍的な もの と見 なされ る可能性 は十分 にあるし、 その中にパ トナムが強調 した 「厚 い 倫理的価値 概念」が含 まれ る余地 はあるだろ う。 こうして見 る と、両者 の違 い はそれほ ど大 き くない ように思 える。 それにもかかわ らず両者 の間 には、依然 として大 きな隔た りが、す なわち価値 の実在性 を認 めるか どうかに関 して、大 きな隔た りがある

11。

ハーバーマス にとって、規範や価値 は普遍的なものであ

'ハ

ーバーマスは、 「道徳全体 の評価 は、 それ 自体道徳的な判断ではな く、倫理 的な、類倫理的な

判断である

J(ZN 124[1221)と

述べ ることで、人間像 の問題 が価値 の問題であることを強調す る。しか し望 ましい人間のあ り方 を問 うことは、 「私や私の文化力河 を望むのかにかかわ らず、私 は何 をなすべ きか」 とい う問い と本当に切 り離せ るのだろうか。

10こ

こで確認で きるのは、少 な くともハーバーマス とパ トナムの間では、普遍的価値の存在 に関 し て一致できるとい うことだけであ り、実際 にそのような価値 力落 在するとい うことではない。た だ しヨアスは明確 に、 「普遍主義的な価値 システムは論理的に可能であ り、経験上現実

IISで

ある

J (Joas 2∞2:275)と

述べ る。 この点 に関 しては今後の課題 とする。

11マ

ーティンは、ハーバーマス とバ トナムが、同 じようにパースの真理概念か ら出発 しなが らも、

異なる仕方で距離 を取 り、 それが どの ように両者の間の諭争 に反映 されているのかを描 き出す。

パースは真理 を、探求の究極 において正当化 される見解 とした。つ まリパースにおいて、真理 と

は理想的条件の もとで正 当化 された意見 なのである。 しか しパ トナムは後 にこの立場 を放棄す

る。 「真理 は時 には理想的な場合です ら検証 可能ではないかもしれない

J(CIl:1231%[156])か

らである。そしてハーパーマス も後 にパ トナムの この考えを理論的知識 に関 しては受 け容れなが

らも、 「道徳 的正当性

[道

徳 における真理

]の

概念 を、理想的な正当化 とい う認知 的用語 によつ

て説明す る」

(Marth 2009 85)こ

とを止 めなかった。 なぜ なら正 当化 と真理 の結 びつ きを維持

することによって、規範 を「いかなる疑わ しい道徳 的事実 ない しは形而上学的性質 からも解放す

るJ(Martln 2111,80)こ とがで きるか らである。両者の究極的対立 は、道徳の実在性 にある。

(16)

り客観的なものと言える。 しかしこの客観性は間主観性 を意味するのであり、

実在性 を意味するのではない。 「平等主義的な普遍主義は近代の偉大な成果 とし て広 く一般に承認されている」(ZN:155[1倒 )か らこそ、上で述べた人間のあ

り方は普遍的で客観的なのである。

3.実 在性 と客観性

パ トナムはハーバーマスからの応答に対する再反論の冒頭、 「ハーバーマスは 彼の立場に対する私の主要な批判に、 どこでも答えていない」 (Pumam 2002a 306)と 苛立ちをあらわにしている。確かにハーバーマスは、規範 と同 じく価値

も普遍的ではないかというパ トナムの問いかけに対 して、ほとんど語 ることは なかった。 しかしすでに見たように、ハーバーマスにとって価値の普遍性は一

― その価値がパ トナムと同様のものであるかどうかはともか く――受け容れら れてお り、むしろ問題はその価値を実在 として語ることが適切かどうかであっ たのではなかろうか。その意味で、ハーバーマスが自らの応答の中でパ トナム の実在論を主題にしたのは適切である。 ここではまず、ハーバーマスがパ トナ ムの立場を批判する背景、それに対するパ トナムの応答を確認 し、最後にパ ト ナムにおける討議の位置づけを明らかにしたい。

3‑1  規範 と事実

ハーバーマスのパ トナム批判は、先に言及 した確然的真理性 と規範的正当性 という妥当性請求の区分に基づいている。

2‑1で

確認 したように、 「何が事実 であるのかを述べる確然的判断は、何が定言的拘束性をもつのかを述べる道徳 的判断 とは別の妥当性意義をもつ。道徳的認識は、経験的判断 とは別の意味で

『客観的』 J(Habennas 2004 285)な のである。 しかしパ トナムは、事実 と価値 との絡み合いを、さらには規範 と価値の絡み合いを訴えることにより、 「われわ れの文法的な直観に反する点で奇妙な… [す なわち、べ しを合意する ]事 実を 要請する」(Habcrmas 2004 284)事 態に陥っている。 これがハーバーマスの批 判の骨子である。以下、 この点を詳 しく見ていこう。

経験判断 〈 事実的言明 )と 規範的判断

(規

範的言明 )の 違いを .la明 するため に、ハーパーマスは次のような例 を挙げる (MB:63[90])。

①   この机は、黄色い。

②   適切な事情で嘘をつ くことは、正 しい。

(17)

文の形式 のみでは類似 したものに見えるが、ハーバーマスは、メタ言語 を使 う ことで、両者 の述語表現の違いが明 らかになると言 う。

③  <① >と いうことは、真である 〈 事実である

)。

④   く② ≧ということは、正当である

(命

じられている

)。

そしてさらに彼は、両者の違いを正 しく認識することにより、われわれは、そ れぞれの妥当性 を支える手段の違いにも目を向けることができると述べる。

道徳的真理を捉えようとする直覚主義の試みが失敗せざるをえなかったの は、そもそも、規範的文 というものが立証された り反証 された りせず、そ れゆえ記述的文 と同 じルールによっては検証 されないからである (MB:64

[91])。

すでに見たように、アインシュタインとホフイ トヘッドとの理論上の争いを解 決する上では、観測が一定の役割を果たしていた。 しかしある規範が正当か ど

うかを観測によって立証 /反 証することは困難であるように思われる。それゆ えハーバーマスは、 「確然的話法が主張された事態の実在によって説明されるよ うに、義務論的話法は、命 じられた行為が、すべての可能な当事者 によって同 じように関心をもたれるものであることによって、説明される」(ED:130[153]) と述べるのである。 しかしすでに見たように、すべての可能な当事者によって 関心をもたれるかどうかは、基準 として不十分である。 この問題は

3‑3で

考 察することとし、 ここでは、以上の立場 とハーバーマスの生命倫理上の立場 と の関係 を確認する。

ハ ーパ ーマスが生命倫理 の問題 として取 り上 げるの は、着床 前診 断

(Praimplan●

ns山

町nos■ 、以下 PID)や 優生学的介入の問題である

12。

まず 確認 しておかなければならなぃのは、討議倫理の枠組みにおいて、 ヒト胚は人 間の尊厳の主体、すなわち人格 とは見なされないことである。なぜなら討議 を 重視する彼 にとって、人格 とは「言語能力・行為能力をもつ諸主体」 (ED:219 [2631)だ からである。 しかし人格のように「不可侵

(unantastbar)」

という絶 対的保護ではなくても、 L卜 胚は「好き勝手に取 り扱つてはならない

Kunve』

=baう 」 (ZN:59[56])存 在 として保護されなければならないとハーバーマスは述べる。

彼の議論は、 「主体的なもの・ 自然発現的なもの」と「客体的なもの・製作され たもの」という「直観的な区分」〈 ZN:85[80])を 出発点 としている。この区分 は、対象の側の区分に基づ くのではなく、対象に対するわれわれの態度に根差

′ハーバーマスは本書においてもう一つ、と卜胚研究を扱っている

^実

際に考察の中心になって いるのは、遺伝子を操作された子ともが生まれて くる事態である。

(18)

している。前者に対する態度は「実践的・臨床的」

(praktiSChAInisch)、

後者 に対する態度は「技術的」

(technisch)と

呼ばれる。植物を例 にすると、伝統的 な農耕の場合、人は 「自己調整をする自然の独 自のダイナ ミズムを尊重する」

(ZN:81[76])。 つまりここでは、植物の主体性 。自然発現性が一定の役割を果 たしている。 しかし植物の遺伝子を改変する場合、 もはや「自然の独 自のダイ ナミズムヘの順応 という臨床的様相」 (ZN:83[781)は 見 られないのである。

しかしヒト胚 に対する介入を広 く認めることにより、上記の区分は混乱 して くる。なぜなら「胚 を扱 う人 にとり、胚 に見 られる、いわば主体的な自然は、

外的な、客体化された自然 と同じパースペクティブヘと移動する」(ZN:89[841) からである。そしてさらに、 「このような見方は、人間のグノムの構成 に影響を 与えることと、成長 しつつある人格を取 り巻 く環境に影響を与えることとの間 には本質的に違いはないという考えを示唆する J(ZN:89[84)。 だがこのよう にして遺伝子に操作を加えることは、人類が共有する価値 を損なう可能性があ る。第一に、 この操作は、子 どもの自由を奪 うかもしれない。なぜなら子 ども は自分 自身を「製作されたもの」と見なすことになってしまい、結果 として「自 らの行為 と要求の原著者であるという意識」 (ZN:103[100])を 持ち得なくなる かもしれないからである。第二に、不公平な関係 を生み出すかもしれない。 「

[プ

ログラムによる ]産 物は、自分の側でデザイナーをデザインすることはできな いJ(ZN:1121109])。 通常の親子の従属関係は、「子 どもが大人になり、世代が 交代することによって解消する」 (ZN:110[107])が 、優生学的介入によって生 じる従属関係では、 「彼 らの社会的位置を交換することが原理的に排除されてい る J(ZN:112[109])の である。それゆえわれわれは、普遍的価値を守 るために こそ、 ヒト胚 を保護 しなければならないのである。

それでは、以上のようなハーバーマスの議論は、パ トナムとの論争にどのよ

うに関わるのであろうか。すでに述べたように、ハーバーマスにとってパ トナ

ムの問題点は、確然的判断と規範的半

J断

、理論理性 と実践理性の違いを見損なっ

ている点にあった。そしてこうしたパ トナムの立場は、 「主体的なもの・ 自然発

現的なもの」 と「客体的なもの・製作 されたもの Jの 区分、 「実践的・臨床的態

度 Jと 「技術的態度」の区分を軽視することにつなが りうる。なぜなら規範的

判断は、その妥当性の根拠を、主体的に、実践的に討議 をする人々のうちにも

つが、この判断を確然的判断 と同一視することは、他者を含めすべてを客体的な

もの、技術によってカロ エ してよいものと見なすことにつなが りうるからである。

(19)

3‑2  実在の多様性

それではパ トナムは、 こうしたハーバーマスの批判・危惧に対 して、 どのよ うに答えるのだろうか。パ トナムは、ハーバーマスが、 「議論にさいして、一定 の前提、すなわち私

[パ

トナム ]が 受け容れていない前提を自明なものとして 前提 している」 (Putnam 2002■ 309)と 述べ、 この前提を批判することでハー バーマスに応えようとする。

一つ目の想定は、 「すべての具体的な経験的言明は同じ妥当性をもつ」

(Putnaln

2002と

310)と いうものである。パ トナムにとってハーバーマスの問題点は、彼

が経験的言明として科学的なものだけを想定 している点にある。 この場合、経 験的言明の妥当性 は「科学的に真」を意味する。そしてこのような同一視は、

経験的実在性も科学のみに限定する結果をもたらしかねない。だが、 「 H20は 水 である」といつた科学的言明以外にも、 「猫は鼠を捕まえる」「メアリーはジョン を愛 している」 といったさまざまなものが経験的言明として妥当でありうるの であり、その中には、 「経験的言明…であると同時に、価値判断である」(Putlam 2002a:312)よ うなものも含 まれるのである。パ トナムカ判 として挙げるのは、

「ヨーロッパの入植者による原住民の扱いはしばしば残酷であった」というもの である。経験的言明は多種多様であり、その多様さに応 じて妥当性や実在性 を 語ってもよいのではないかというのがパ トナムの主張である。

パ トナムのこうした反論の背景には、 「概念の多元性」

(conceptual pluralsm)

という考え方がある。この多元性は、ある事態を記述する二つの仕方が両立 し、

なおかつ「一方または両方を、基礎的で普遍的なただ一つの存在論へ と還元す るように要求されることもない」場合 に成 り立つ。パ トナムが挙げるのは、 「部 屋の内容物の一部を記述するさいに場や粒子にかかわる専門用語を用いること があるという事実 と、同じ部屋の一部を記述するさいに机の前に椅子があると 語ることがあるという事実」

(EO:48‐

49[58])で ある。ある事態は、机や椅子 によっても、粒子によっても語 ることはできる。 しかしこのことは、一方を他 方に置き換えなければならないことを意味しない。そして実際、机や椅子をす べて物理学の用語に置 き換えてわれわれが生 きてい くことは不可能であろう。

「われわれが日常において数多 くの異なった種類の語 り方…を採用 していること には、それなりの必然性があう」(EO:2122[24‐ 25])の であ り、「語『存在す る』には、何 らかの方法で与えられた、ただ一つの『真なる』意味、ただ一つ の「字義通 りの』意味が・¨存在する」

(EO:84‐

85[103])と いうのは誤 りなので

‑18‑

(20)

ある

13。

道徳 に関す る語 り方 と科学 に関す る語 り方 とが異 なることは、倫理的 判断が個別 の人や行為 な どを対象 とす るのに対 して、認知的価値が理論 を対象 とす ることか らも明 らかである。 そして この相違 は、一方 は存在す るが他方 は 存在 しない とい うことを意味 しない。 む しろこの事態 が意味す るのは、存在 は 多様 に語 られ るとい うことなのである。

しか しハーバーマスは、 「科学的言明 に言及 したのはあなたが科学における認 知的価値 を語 ったか らであ り、私 も経験的言明の多様性 を受 け入れている」 と 述べた上で、 それで も道徳的言明を経験的言明か ら排除す るか もしれない。 な ぜ な ら道徳的事実、 しか も「べ し」 を合意す るような道徳的事実 が存在す ると 考 えるのはあ ま りにも奇妙 とハーバーマスは考 えるか らで ある。道徳的事実 の 奇妙 さに関 してパ トナムは、別 の論文 で次の ように述べている。

あるものが多 くの痛みを伴 うとい う知識 は、特別 な状況 の場合 には、私 が それを望 む ことを、もしくはそれをしようとすることを妨 げないであろう。

しか し「他 の事情が同 じであるな ら」、あるものが多 くの痛みを伴 うとい う 知識ゆえに、私 はそれを是認 しない し、 それ を勧 めない ようにす る等 々で ある (Putnam 1994:157158)。

1‑2で

述べたように、痛み

(が

生 じること )そ れ 自体 は、倫理的価値 とは区 分 され る一つの事実、 しかも「物理学 の世界観 と両立 しない ことな どまった く ない」 (Putnam 1994:157)一 つの事実 である。 それゆえに 「 『べ し』 を合意す る事実 な ど奇妙 だ」 と主張するマ ッキーさえも、痛み とい う事実 は認 めるだろ う。 そ して痛み とい う事実 は、通常 「それ をさけるべ きだ」 とい う仕方で、行 為 を導 くのである。パ トナムの妻、ルース・ アンナ・ パ トナムが指摘す るよう に、「物理学の見方 はおお よそ正 しいだけにとどまらず完全 であると想定 してい る場合 にのみ、行為 を導 く性質 は存在論的に奇妙であると推論で きるJ(Putnaln

2002231)の である。 しか し概念 の多元性 が示 してい るのは、物理学 の完全性 とい う発想 自体 の奇妙 さである。 「実在 のすべてを記述することができる、たっ た一種類の言語 グームがあ りうるなどと考 えることは、幻想 に他 な らない」(EO:

22[24‐25])。

それで もなお、次 のよ うに批判 され るか もしれない。 「机 や苦痛 に関 しては、

人 々が

(あ

る程度 は )合 意す ることがで きるのであ り、 それゆえそ うしたもの が存在す ると考 えることはで きる。だが、倫理 はお よそ合意 とは無縁 なのだか

概念の多元性は、ツィ トグンシュタインによる意味の使用説に基づいている。

Cf E0 41 148]

(21)

ら、存在 に関 して語 っているのではない。」

2‑2で

述べた ように、パ トナムに とって合意 は道徳の客観性 に必要不可欠 なもので はなかった。 しか しお よそ存 在 について語 ってい るな らば、 ある程度 の一致 は存在す るはずで はないだろう か。倫理上の不一致 に関 して、パ トナムは次 のように述べ る。

最初 に、倫理上 の争点の中には、お よそ倫理的 な生 に身 を置いている人 な ら誰 もが合意する倫理的問題がある。例 えば、無実 の相手 を殺 めた り、詐 欺、 強盗、等 々を働いた りす ることの是非 を問われた ら、 しかるべ き倫理 感覚 を備 えた人 な らどこで もこれを不当 と見 なすであろ う。 しか し

[第

二 に ]… 倫理 にかかわ る問題 は、現実 には実践的な問題 の一種 であ り、実践 的 な問題 には、価値評価 のみな らず、哲学上・ 信仰上 の信念、 さ らには、

事実 に関す る信念 までもが複雑 にか らんで くる。 …・妊娠 中絶 の正 当化 を め ぐる問題 が仮 に解決 不可能である として も、 そこに示 されているのが倫 理的な論争 の「解決 不可能 さ」 だ と頭か ら決 めつ けるのは明 らかに筋が通 らない。例 えば、 それが示 してい るのは、形而上学的な論争 の解決不可能 さではない、 となぜ言 えよう (EO:75‑76[92])。

すなわ ち、第一 に、倫理 に関 しても合致で きる場合 はあ り、葎二 に、合致 を妨 げてい るのは、価値以外の要因かもしれない とい うことである。例 えば妊娠 中 絶 をめ ぐっては、 「いつ胎児 は人 になるか」 とい う形 で議論 が設定 され、受精、

快苦 を感 じる能力 をもった時、 自己意識 をもつ ようになった時… といった様 々 な基準が提示 されている。 しか しこれ らの立場 はいずれ も、人格 とい う価値概 念 を、倫理的判 断 とは関係 ない、明確 な事実 によって説明で きる と考 えている 点で、不適切 な

(そ

の意味で形而上学的な )前 提 を共有 してい る。彼 らの対立 は、解決不可能 な形而上学的な論争 なのである。問題の扱 い方が不適切 であれ ば、不一致 が生 じるのは当然であろう。

ずいぶん回 り道 をして しまった。 あ らためてパ トナムによるハーパーマスヘ の応答 に戻 ろ う。ハーバーマスが批判 にさい して前提 としてい ることの二つ 目 は、 「

F真

』 とい う言葉 は、 この種類

[経

験的言明 ]の 妥 当性 に対す る名前で

o

る J(Pumm 2002a:310)と い うものである。

3‑1で

確認 した ように、ハ ー

バーマスは、規範 とは区別 された経験的言明に確然的真理性 とい う妥当性請求

を認めていた。 そして同時 に彼 は、 「道徳的正当性 の妥当性 概念 は、正当化 を超

越する真理概念 にある存在論的な含意

(ont01o」

sche Konotauon)を 失 ってい

るJ(Habermas 2004 291)と 述べることで、確然的真理性 をもつ経験的概念に

のみ実な性を認めようとしているのである。なぜなら「真理概念には実在 との

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