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(1)

イギリス東インド会社と「国富流出」

松本睦樹

はじめに

1876年にロンドン東インド協会のボンベイ支部で,協会の設立者でもある ボンベイ生まれの実業家ダーダーバーイ・ナオロジー(Dadabhai Naoroji

l)

1825−1917)が「インドの窮乏」と題する講演を行なった。その講演は,何よ りもイギリスによるインド統治を告発するものであった。その中で彼は,

1835−1917年期のインドの貿易を分析して,次のように論じた一

本来ならば,インドは輸出とその利潤,および外債とを合わせた額に等し い額の輸入を行なって然るべきである。しかし,実際にはインドの輸入はそ れよりもはるかに少ない。その差額は,「イギリスが自己の取り分として掠 めた」のであり,「もっぱらイギリスがインドを支配しているという政治的 地位から生じる」(Naoroji〔60〕,p・33)ものである。それはすなわちインド からの「国富流出」(Drain)に他ならない,と。

彼によれば,その原因はイギリスで支出される経費のインド側の負担や私 人による蓄財の送金などであり,また年々「国富流出」額は増大していた0

さらに彼は,イギリス人の行政官が退職してイギリスに帰国した際にその経 験と知識がイギリスに流出することにも言及し,それを「精神的流出」

(M。ralDrain)と呼んだ(QP.cit.,pp・56−57,参照)。また,ナオロジーはか

1)その原稿は2年後にパンフレットの形で刊行されたらしいが(Masani〔42〕,p・68,

参照),後にNaoroji〔60〕に収録された。

(2)

っ て イ ギ リ ス で も 「 同 様 の 国 富 流 出 」 が 見 ら れ た と も 述 べ た 。 そ れ は , 1 3 世 紀 初 頭 に イ ギ リ ス 国 王 が ロ ー マ 教 皇 の 臣 下 と な り , イ ギ リ ス が 事 実 上 教 皇 の 属 領 と な っ て 年 々 教 皇 側 に 税 を 上 納 し て い た 当 時 の こ と で あ る , と ( Q P . c i t . , 

p p .   5 1 ‑ 5 4 ,参照)。

こ の 講 演 の 後 に も , ナ オ ロ ジ ー は さ ま ざ ま な 場 で 自 説 を 展 開 し た 。 彼 の 唱 え る 「 国 富 流 出 」 論 は , 一 方 で は 同 時 代 に 生 き た 多 く の ナ シ ョ ナ リ ス ト に よ っ て 熱 烈 に 支 持 さ れ た 。 中 で も R.C. ダット (RomeshChandra Dutt 1 8 4 8 ‑ 1 9 0 9 ) や L . ラ ー ジ ハ ッ ト ・ ラ ー イ ( L a l aL a j p a t  R a i  1 8 5 6 ‑ 1 9 2 8 ) な ど は そ れ を継承・発展させ,イギリスによるインド支配を手厳しく糾弾した)。しかし,

他 方 で は M.G. ラ ー ナ デ ー (MahadevGovind Ranade 1 8 4 2 ‑ 1 9 0 1 ) に 代 表 さ れ る よ う に , そ の 受 け 容 れ に 慎 重 な ナ シ ョ ナ リ ス ト も 少 な く な か っ た に ま た

2  )ナオロジーの「国富流出」論の原型は,彼が 1 8 6 7 年 5 月にロンドンの東インド協会で 行なった講演にすでに見られるという ( C h a n d r a 0 1 ] ,   p . 6 3 7 ;   Masani [ 4 2 J ,  p . 3 8 ,参 照)。ナオロジーの「国富流出」論についての論考は多いが, G a n g u l i   [ 2 5 J が出色であ る。また,邦語文献としては中村 [ 5 7]が簡単に紹介しているし,また小谷 [ 3 8 J , 1 3 6 ‑ 1 4 6 ページも参考となる。

3) D u t t  [ 2 2 J ,  [ 2 3 J   ;  R a i  [ 6 7],参照。その他にも, 1 9 世紀末から 2 0 世紀初頭にかけて

「国富流出」を論じた書物がインドのナショナリストによって多数刊行された。そのう ち主なものは, Ray [ 6 9 J ,  [ 7 0 J   ;  D i gby [ 2 1 ]   ;  J o s h i   [ 3 3 J   ;  I y e r   [ 3 2 J などであろう。

また, r 国富流出」論を支持する立場からのヨーロッパ人の研究として, H a m i l t o n  [ 3 1 ] ;   Adams  [ I J がある。

4)ラーナデーは当初は「国富流出」論を支持し, 1 8 7 2 年のプネーでの講演以来その提唱

者であった。しかし,彼はイギリスによるインド収奪を告発する最大の武器として「国

富流出」論を用いることは避け,やがて「国富流出」論を前面に出すことにはむしろ反

対と言う立場に移行していった。それは,たとえば 1 8 9 0 年にプネーの第 l 回産業会議で

の講演 ( R a n a d e[ 6 8 J に収録)に典型的に現われている(とくに,仰 . c i t . , p p . 1 8 6 ‑ 1 8 7 , 

参照 J ) o R.P. タッカーによれば,ラーナ.デーは 1 8 9 0 年までには「国富流出」論に対し

て慎重になっていたらしい ( T u c k e r[ 8 4   , ] p .  1 8 1.参照)。ラーナーデーの経済理論に関

する簡潔な論究としては S o v a n i[ 7 7 J が,また邦語文献では田部 [ 7 9 J がある。

(3)

J . ストレイチー以来の主としてイギリス人から多くの批判を浴びた。それ は後に「国富流出」論争と呼ばれ, 1 9 1 0 年代に論争は頂点に達した。「国富 流出」論それ自体はインドの分離・独立という現実の前に実践的な役割を終 えたが,その後もインド経済史やナショナリズム運動史などの研究分野でこ の問題が多様な角度から論じられ:またきわめて論争的な文献が刊行される

5)  J . ストレーチー ( S i rJ o h n  S t r a c h e y  1 8 2 3 ‑ 1 9 0 7 ) は,インド文官職の要職を歴任し,

1 8 8 5 年以から 1 8 9 5 年までインド参事会 ( C o u n c i 1o f   l n d i a   [インド担当国務大臣の補助機 関 J ) のメンバーを務めた人物である。彼は, 1 8 8 4 年にケンブリッジ大学で行なった講演 を基に, 1888年には『インド~ ( S t r a c h e y  ( 7 8 J ) を刊行し, I 国富流出 J を評して「それ は根も葉もない話にすぎない」と断罪した。後に, T . モリソンが 1 9 1 1 年に『インドの経 済変革~ ( M o r i s o n  ( 5 4 J ) を刊行し,反「国富流出」論が大きく勢いづいた。モリソンの 研究は,後に「国富流出 J 論に否定的な論者によって必ずといっていいほどに引用され ることになる(たとえば, A n s t e y( 2 J ;   Knowles ( 3 7 ] ;   T r i p a t h i   ( 8 3 J ;   C h a u d h u r i  06J; 

G r i f f i t h s   ( 3 0 J ,参照)。なお,反「国富流出」論の要点は,インドの対外支払いは外資 に対する利払いなどからなっており,インド側は外資によって自国の発展を築いたとい うことにある。

6) I 国富流出」に言及する戦後の研究としては,たとえばインド経済史の分野では D a t ‑ t a   09J ;  Furber ( 2 4 J   ;  G r i f f i t h s   ( 2 9 J ,  ( 3 0 J   ;  Marshall (40 ;  Sarkar ( 7 2 J   S i n h a  ( 7 6 J などがあるが,いずれもそれぞれのテーマとの関連で「国富流出」を扱って おり,また「国富流出」に関する限り概して戦前の研究の引用の域を大きく越えたり,

あるいは新たな視点を導入するというものではなかった。他方,ナショナリズム運動史 やナショナリストの評伝の分野でも「国富流出」論は避けて通れぬ問題であった。この 分野での研究では,マ

j

レキストとして名高いデリー大学の B . チャンドラ(Bi panC h a n ‑ d r a ) の本格的研究 Chandra0 1]が出色である(他に, C h a n d r a  02J ,  03J も参照)。

また,インドのナショナリストの議論における「国富流出」論に焦点をあてたマグレイ

ン論文 (McLane( 4 7 J ) も興味深い。他にも, Ghose ( 2 7 J   ;  G o p a l a k r i s h n a n  ( 2 8 J  

McLane ( 4 8 J ;   Mehrotra ( 4 9 J ;   H. Mukherjee 

U. Mukherjee ( 5 6 J ;   P a r v a t e   ( 6 5 J ;  

S e a l   ( 7 4 J   ;  Tucker ( 8 4 J   ;  W o l p e r t  ( 8 7]が多少とも有用である。

(4)

こともあった。

ところで, I 国富流出」の定義については論者の間で一致が見られるわけ ではない。ここでは一応,イギリスによるインド支配にともなって生じたイ ンドのイギリスへの支払いとしておこう。それは,植民地政府勘定での支払 いと民間勘定でのそれとに大別できるが,前者を構成する費目である「本国 費」はわが国でもよく知られている。

さて,こうした「国富流出」は,なにも 19 世紀後期に突如として生じたわ けではない。 R.C. ダットや J . C . シンハがとりわけよく究明したように ( D u t t  ( 2 2 ) ,  c h a p . 3 ;  S i n h a  ( 7 5 ) ,  c h a p . 2 ,参照),それはイギリス東インド会 社(以下,会社)のベンガル領有とともに始まったと言われる。また,ナオ ロジーが十二分なスペースを割いて論じたように ( N a o r o j i( 6 0 ) ,  pp.38‑5   , 1 参照), I 国富流出 J そのものについては 1 8 世紀末以来イギリス人の行政官ら がさまざまに論じてきたと言う事実もある。さらに,ナオロジーの「国富流 出」論の先駆が 1 8 世紀末におけるエドマンド・パーク (EdmundBurke 1 7 2 9 ‑ 1 7 9 7 )の主張であったこともしばしば指摘される。

小論では,会社統治期のインドにおいて「国富流出」がどれほどの規模で あったのか,そしてそれを同時代のイギリス人がどのように認識していたの かを検証したい。

7)戦後「国富流出」論そのものを本格的に論じた,または新たな視点から再考した研究

として, r 国富流出」論を支持する立場からの者としてはデリー大学のB.N.ガングリに

よるナオロジー研究 ( G a n g u l i( 2 5 )   および ( 2 6 ) ) ,そしてインド準備銀行の理事を務

めた経歴をもっ A.K. パナージーによるインドの国際収支についての研究 ( B a n e r j e a

( 9 ) ) が挙げられる。他方, r 国富流出」論に批判的ないし否定的な立場からの論究とし

ては,インド経済に占める「本国費」の比重を検討し,かっ外国貿易乗数理論の導入の

必要性を説いたChoudhuri ( 1 6 ) ,さらに「本国費」の費用便益分析などを行なった

M u k e r j e e  ( 5 5 )の両論文などがある。

(5)

I  東インド会社の本国送金と「国富流出」

1  インドの植民地化と本国送金

会社による現地での土地の領有はかなり早くから見られた。例えば 1 6 9 8 年 にはカルカッタ近郊のザミンダーリー(領主権)を購入したし,その後も現 地での領地拡大は続いた。プラッシーの戦い(1 7 5 7 年)以降それは一挙に加 速した。とくに, 1 7 6 4 年にブクサールの戦いに勝利すると,会社はベンガル 州の徴税権を獲得し,ここに事実上ベンガルの植民地化を果たした。

こうして,会社が現地で広大な土地を領有するようになると,会社の性格 も変化することになった。すなわち,本来貿易団体として設立されたにもか かわらず,会社は今や行政・統治機関としての機能も兼ね備えるに至ったか らである。現地では,一方では主に地租からなる莫大な歳入を手にしたが,

他方では広大な領地についての行政・統治の費用をそこから賄わなくてはな らなかった。同時に,領土収入の少なからぬ部分が本国へ送金されるように なった。それは,領土収入の一部を本国向け商品の買い付け(インベストメ ント)などの貿易活動に振り向けるという形で行なわれた i

ただ,当時の会社の会計では貿易業務と統治業務とが海然一体となってい

8  )例えば. T h i r d  R e p o r t  [ 8 1 ) .参照。なお,当時会社の関係者らは何よりもインドの歳

入の剰余を会社のインベストメント資金に充て,そのことによって従来から続いた本国

からの貴金属の持ち出しをなくすことを期待した。それは,たとえばベンガル一帯を領

有した直後の 1 7 6 5 年 9 月にベンガル知事の R . クライヴ ( S i rR o b e r t  C l i v e   [ベンガル知

事在任 1 7 5 8 ‑ 1 7 6 0 ;1 7 6 5 ‑ 1 7 6 7 J ) 側がロンドンの本社取締役会へ宛てた書簡からもうか

がえる。その中では,現地での歳入は軍政・民政の諸経費を控除しても 1 6 5 万ポンド余

りの剰余をもたらし. I イングランドから何らの送金がなくても,将来には我われの歳入

によって会社のインベストメントを手当てすることができるようになるであろう」と報

告されている。さらに,インベストメント費用のみならず,広東の会社当局への資金

供給,並びにインドでの他地域からの需要に応じることも可能であるとみなされてる

( F o r t  Wi 1 1 iam t o   C o u r t  o f  D i r e c t o r s .   3 0  Sep t .   1 7 6 5 .   p a r . 1 3 ‑ 1 4 .   i n   D a t t a  and 

O t h e r s  [ 2 0 J .   vo l .   4 . 参照)。なお,ベンガルの植民地化に伴う会社貿易の変化につい

ては,わが国では松井透氏がいち早く注目している(松井 [ 4 3 J . 参照)。

(6)

たために,現地の財政は歪な姿をとっていた。本国から送られてきた商品 の売り上げ収入なども歳入に組み入れられ,現地での会社の財源とされた。

また歳出面でも,インベストメント費用などのように貿易活動に要する諸 経費が通常の行政経費と同様に計上された。

1 7 9 3 年以後,現地での貿易活動は特別会計扱いとなり,主に統治業務を 担った一般会計から切り離されたが,特別会計は統治業務に関する収支を も扱っていた口また,本国の会計はもっぱらこの特別会計に対応し,貿易 業務に関する収支がその大半を占めた。

これによって,現地の財政収支は以前と比較すればヨリ実態に即したも のとなったといえるが,会社の貿易業務と現地での統治業務とが会計上分 離したわけではなししたがってまたそれぞれの業務や本国送金の実態な どは明らかにできないままであった。実際,この点が後にイギリス議会で も取り上げられ,さまざまな議論を呼んだ。

この問題は, 1 8 1 3 年の特許状の改正によって解決された。新たな特許状 では,会社の行政部門と商業部門とが会計上分割され,以後のすべての取 引が両会計に分けて記帳されることが誕われていた ( 5 3George  m ,  Chap. 

1 5 5 ,  S e c .   6 4 ,参照)。果たして, 1 8 1 4 年 5 月1 日以降の会社の出納は両部門 別に行なわれ,また既存のすべての資産と負債とはその性格に応じて両会 計にそれぞれ振り分けられた。

こうして,インド植民地の経営に関する収支は,貿易活動に関するそれ からは完全に独立した。前者は行政部門の勘定で,また後者は商業部門の 勘定でそれぞれ行なわれるようになったのである。

インド植民地の財政収支について見るならば,歳入は地租を主とする現 地での領土収入と本国での比較的小額の収入から成り,また歳出も現地の

9  )この時期の会社の財政を分析した論考としては,桶舎 [ 6 2 J がある。

1 0 ) こうした経緯については , T h i r d  R e p o r t   [ 8 2 J ,  p p . 3 5 7 ‑ 3 7 4 ;  R e p o r t  [ 7 1 J ,  p p . 2 9 ‑ 3   , 1

参照。また,この点に関しては B a n e r j e a [ 7 ] ,   C h a p . 1 も有用である。

(7)

一般の歳出と本国での支出とに大別された。このうちイギリスでの支出(正 確に言えば,イギリスでの支出超過分)は,当然ながらインドからの送金によっ て手当てされなければならなかった。

イギリスでの支出とは,インド統治のためにイギリス国内で支出される経 費のことであり,かねてより一括して「本国費 J (Home Charges) と呼ばれ ていた。具体的には,インドに派兵される軍隊の諸費用,インドで使用され る軍需品の代価,ロンドンの本社や付属施設の経常支出,さらにはイギリス に帰国した文武職員の退職金や恩給などがその主たる費目であった。これら の費用は,インドにおける会社の版図の拡大に伴って増大を続けた。

しかし,イギリスに送金する義務を負ったのは,何も「本国費」分だけで はなかった。というのは,本来はインドの一般の歳出に計上される費目であ っても,イギリス国内で支出されるものがあったからである。その大部分は,

会社がインドで発行した社債(インド債務)も元利払いである。すなわち,

インド債務の債権者はヨーロッパ人が多かったが,彼らがインド勤務を終え るなどして帰国した場合には,ロンドンでその元利を受け取ることが求めら れ,会社はしばしばそれに応じた。当然,そのための費用は「本国費」分と は別途にインドの歳出から手当てされなければならなかった。

では,結局のところ会社はインドの歳入のうち,どれだけをイギリスに送 金しなければならなかったのであろうか。それを算定する作業はそれほど困 難ではない。すなわち,ロンドンの本社が行政部門勘定(1

834

5

1日以降

はインド政庁勘定)で支出する費目こそがインド植民地の負担すべきものであ り,したがってロンドンでの各種の収入を控除した残りがインドからの送金 によって手当てされるべき額ということになる。

1 1 )   Vak i 1   ( 8 5 J が「本国費 J と言う語の使用を拒否し,代わりに「イギリス経費」

( E n g l i s h  C h a r g e s ) なる語を充てているのは興味深い。

12)

会社はインド植民地とロンドンの両地で起債した。前地で発行される社債はインド債 務 ( l n d i a nD e b t ) と呼ばれ,またロンドンでの起債分は本社債 (HomeBond D e b t )  

と呼ばれた。

(8)

ここでいうロンドンでの各種の収入とは,小額の経常的な雑収入の他にも いくつかのものがあった。とくに 1814‑1833 年度には特許状の規定に基づき 商業利潤の繰り入れが時に行なわれたし,また 1834 年に商業部門が閉鎖され た後は旧商業部門清算事業益がやはり植民地側の会計(行政部門を継承したイ ンド政庁勘定)に繰り入れられた(1 8 3 0 年代にはその額はかなり大きかった)。い ずれにしても,それらを差しヲ│いた額がインドから送金されるべき金額とな る。したがって,送金額は本社が植民地勘定で支出した額より概して小さい。

1837 年度(1 837 年5 月 1 日 ‑1838 年4 月 3 0 日)の場合を取り上げ,上記の点を検 証してみよう(図 1 . 参照)。本社がこの年度にインド政庁勘定で支出した額

図 1 インド植民地の財政と本国送金(1 8 3 7 年度)

支出

本国費分 2.359* 

その他 8 1 7   計 3 . 1 7 6

現地での 一般歳出

送 金

(単位: 1 :     , 1 0 0 0 )  

受け取り

雑 収 入 8 2   旧商業部門清算事業益 7 5 6  

計 8 3 8

歳 入 2 0 . 8 5 9  

[ 注 J 1)  *  r 本国費」の額としては未調整額であり,インドの歳出に計上される調 整済み金額は 2 , 3 0 4 (x 1 :   , 1 0 0 0 )である。この点については . A p p e n d i x  

[6]. 

p. 

4 8 4 ,参照。

2  )  単年度計算では,本社の支出超過額に相当する 2 . 3 3 8 (x  1 :     , 1 0 0 0 ) が , インド政庁によって本社側へ送金されるべき額ということになる。

[資料出所JA c c o u n t s  and P a p e r s ,  BPP. ,  1 8 3 7 ‑ 3 8  [ 5 8 5 J , 

pp. 

2 ‑ 3  ;  o p .   a t . ,  1 8 5 9  

[ S e s s .   I I  ‑ 2 2 4 J , 

p. 

3によって作成。

(9)

は , r 本国費」分および一般歳出分を合わせて約3 2 0万ポンドほどであった。

これに対して,受け取りはきわめて小額の雑収入(受け取り利息など)と比較 的大きな旧商業部門清算事業益との計 8 0 万ポンド余りであった(インドから の送金に対する受け取り分を除く)。したがって,同年度での本社のインド政庁 勘定での支出超過額は約2 3 4万ポンドであり,それがインドからの送金によ って手当てされるべき額となる。

2  本国送金の規模

会社による本国送金は,数量的にはどのような推移を辿ったのであろうか。

表 1 では, r 本国費 J ,本国での総支出,送金実績額,インドの歳入などの変 化を示してみた。同表では,植民地勘定(当初は商業部門勘定,後にインド政庁 勘定)でのロンドンでの受け取り額が不明であり,したがってインド側が送 金すべき額(必要額)が判明しないという問題点がある。また,既に述べた ような事情のために,全てのデータがそろうのは 1 8 1 4 年度以降についてであ り

, 1 8 1 3 年度以前についてはきわめて不完全である。しかしそれらの点を 考慮しでも同表は会社による送金に関して多くの事実を与えてくれる。

まず,同表から判断する限り, 1 8 世紀末には「本国費」の絶対額が小さか ったのみならず,歳入に占める比率も 2‑3 パーセントにすぎない。しかし,

1 9 世紀に入ると「本国費」の額は増え,とくに 1 8 1 0 年代には絶対額および歳 入に占める比率のいずれにおいても急増している。その後「本国費」の額が 急増するのは, 1 8 3 0 年代後半期である。それは, 1 8 3 3 年の特許状が会社の貿 易業務を否定したために ( 3 &  4  W i 1 1 i a m   N ,  C h a p . 8 5 ,  S e c . 4 ,参照),それま で商業部門から支払われていた会社株の配当金も「本国費」に組み入れられ たという事情によるところが大きい。会社統治期には「本国費」の額はその 後ほぼ一定の水準を維持したといってよい。ただし, 1 8 5 7 年にはインドで反 英暴動(いわゆるセポイの乱)が勃発し,その鎮圧費用が大きく嵩んだために,

「本国費」の額も激増した。

(10)

表 1 インド植民地政庁による本国送金に関する諸データ, 1 7 9 2 ‑ 1 8 7 4 年度 (単位: 1 :     , 1 0 0 0 )  

イギリス イギリス イギリス インド 比 率 ( % )

「本国費

J

での への での での

年度平均 の 額 支出総額* 送金実績額 起債額 歳入

分 A  B 

C  E  D  (A)  (B)  (C)  (D)  (E)  E  E  E 

1793‑1794  167 

. . .   . . .  

8.151  2.1 

. . .  

1795‑1799  271 

  . .

8.466  3.2

  . .

zζ

180

0 ‑

1804  420 

. . .  

12.867  3.3 

1805‑1809  538 

. . .  

15.358  3.5 

. . .  

181

0‑

1814 

  , 1

236  16.829  7.3 

. . .   . . .  

1815‑1819 

  , 1

414  2.429  2.053 

18.476  7.7  13.1  1

1 .

182

0‑

1824  1.675  3.693  3.174 

2

  , 1

672  7.7  17.0  14.7 

1825‑1829 

  , 1

999  3.158  2.920 

22.362  8.9  14.1  13.1 

183

0 ‑

1834 

  , 1

521  3.342  3.419** 

20.788  7.3  16.1  16.5 

1835‑1839  2.364  4.923  3.313 

20.658  1

1 .

4 23.8  17.3 

184

0 ‑

1844  2.670  3.678  3.078  167  22.512  1

1 .

9 16.3  13.7  0.7 

1845‑1849  2.978  4.189  3.792  320  25.636  1

1 .  6 1

6.3  14.8 

1 .

2  185

0 ‑

1854  2.839  4.378  3.873 

28.295  10.0  15.5  13.7 

1855‑1857  4.319  8.367  3.998 

  , 1

896  3

  , 1

953  13.5  26.2  12.5  5.9 

直轄

1858‑1864  7.317  9.392  2.834  4.542  37.922  19.3  24.8  7.5  12.0 

統治

1865‑1869  8.373  9.157  5.023  2.071  47.951  17.5  25.5  15.0  4.3 

187

0‑

1874  10.270  12.215  7.201 

  , 1

989  50.124  20.5  27.9  23.4  4.0 

[注] 1 )   1 8 1 3 年度以前の場合は会社の商業部門と行政部門(植民地政府)とが会計上 分離しておらず, したがって「イギリスでの支出総額 J , r イギリスへの送金実

績額」および「イギリスでの起債額」を算出することはできない。

2 )   * 1 8 1 4 ‑ 1 8 3 3 年度については,会社本社の支出のうち商業部門勘定での支出額。

1 8 3 4 ‑ 1 8 5 7 年度については,会社本社の支出のうちインド政庁勘定での支出額。

1 8 5 8 年度以降については,イギリスにおけるインド政庁の支出額。

3)  **1832 ,  1 8 3 3 の両年度については数値が不明。したがって,残り 3 年度の平均 値 。

[資料出所 J

Accounts respecting the Annual Revenues and Disbursements of the East lndia  Company

各年次分

AnnualAccount of the East lndia Company in  Great Bri‑ tain各年次分 StatisticalAbstract relating to  British lndia各年次分 Home Accounts of the East lnd

Company各年次分 Appendix[ 

4  J ,  p p .  5 3 8 ‑ 5 6 5  ; 

Appendix 

[6 J ,  p p .  1 3 8 ‑ 1 3 9 ;  

Minutes 

[ 5 1 ] ,   Appendix ,  p p .  4 2 ‑ 4 3   &  5 2 ‑ 7 9 ;  

Minutes 

[ 5 3 J , 

QQ. 

7 8 9 2 ,  7 9 3 0 ,  7 9 5 8   ( D i c k i n s o n ) ;  

Accounts and Papers

, 

BPP.

,  1 8 1 0   [ 3 6 3 J ,  p .   78; 

Op.  cit.

,  1 8 1 0 ‑ 1 1   [ 2 5 0 J ,  p .   414; 

Op.  cit.

, 

1 8 3 0   [ 2 2   , ] p .   1 7   ;印•

cit.

,  1 8 3 0   [ 4 9 9   , ] p .   2 ‑ 4 7 ;  

Op. cit.

,  1 8 3 0 ‑ 3 1   [ 1 6 8   , ]

p p .  1 4 ‑ 1 7   ;印•

cit.

,  1 8 3 3   [ 2 2 9 J ,  p p .  3 2 ‑ 3 7 ;  

Op. citリ

1 8 4 2 [ 5 7 4 J , p p .  6 ‑ 1 9  ; 

Op. cit.

,  1 8 5 2   [ 5 3 3 J ,  p p . 3 0 4 ‑ 3 0 5   &  3 1 1 ‑ 3 1 9 ;  

Op. cit.

,  1 8 5 7 ‑ 5 8   [ 2 0 ト 珊 J ,

p .   3 4 ;  

Op. cit.

,  1 8 5 9   [ S e s s .   I I  ‑ 2 2 4 J ,  p p .  2 ‑ 3 によって作成。

(11)

他方,イギリスでの支出総額を見れば,会社統治期に関する限り,絶対額 は漸増し続けたが,この間にインドの歳入もほぼ同じテンポで増えたために,

歳入に対する比率を見れば1 8 2 0 年代以降大きな変動はない(会社統治期最後の 年度は既述のように「本国費」の絶対値が急増したために,この比率は 1 0 ポイントほ ど大きくなったが ) 0 1 8 3 0 年代後半期にその値は大きく跳ね上がったが, しか し当時は会社の商業部門(1

834

年に閉鎖)を清算したことにともなって生じ た利益が多額に達したので,インド植民地側の負担は実際にはその数値ほど は大きくはなかった。こうした点は,会社による本国への送金実績額を見れ ばわかる。その額は 1 8 2 0 年代以後ほぼ年間3 0 0 万一4 0 0 万ポンドであった。そ

して,歳入に占める比率もほぼ1 3 ‑ 1 7 パーセントの間で推移した。

いずれにしても,会社による本国への送金の規模は 1 8 2 0 年代に一応の水準 に達し,会社統治期には例外的な年を除けば大きな変動はなかったといえる であろう。なお,その送金方法は, 1 8 3 3 年度までは主に会社自ら行なうイン ドから本国への(一部中国を経由した)輸出貿易によって,また 1 8 3 4 年度以降 は基本的には為替によってそれを実現し d i また,会社による本国への送金 は大半は貿易外支払いと言えるが,しかし軍需品や行政資財などに関するも のは当然ながら輸入財に対する支払いであり,貿易収支に計上されるべきも のである。後者は全支払い額の 1 0 ‑ 1 5 パーセントを占めた。

次に,会社統治期についてこれまで検討してきた数値を,会社統治の後,

すなわちイギリスの直轄統治期の場合と比較してみよう。なるほど, r 本国 費」の額,イギリスでの支出総額の双方で,金額は大きく増えている。また,

それらが歳入に占める比率で見ても,やはり同じことが言える。さらに送金 実績額もきわめて大きい。 1 8 5 8 ‑ 1 8 6 4 年期には一時的に送金実績額は会社統 治期のそれよりも少なくなったが,しかしそれは送金が十分に行なわれなか ったと言う事実を意味しているにすぎない。そのことは,送金不足分を補う

13)  1814‑1844

年期の会社による本国送金については松本

[46J

,また

1834‑1857

年期のそれ

については同 [ 4 7]においてそれぞれ詳しく分析されている。

(12)

ためにインド植民地が同じ時期にロンドンで多額の起債を行なったと言う事 実に目を向けるならば,容易に理解できょう。

少なくとも,ナオロジーが「国富流出」論を打ち出した 1 8 7 0 年代前期の場 合には, 1 8 2 0 ‑ 1 8 5 5 年期の会社統治期に比べ, I 本国費」やイギリスでの総経 費は絶対額で3 ‑ 5 倍,歳入に占める比率でも 1 . 5 ‑ 2 倍,また送金実績額も倍増 している。さらに少なからぬ額の起債をせざるをえなかったにのことは,

もはや外資の借入がなければイギリスへの支払いを行なうことが不可能になったこと を意味している)。

3  本国送金とインドの貿易

これまで見てきたように,会社による本国への送金は 1 8 2 0 年代には一応の 規模に達したと言えるが,民間勘定での送金はどうであろうか。民間勘定で もインドからイギリスへ少なからぬ規模の送金が行なわれていたことは想像 に難くない。インドに勤務する会社職員らが帰国後に備え,あるいは家族等 の扶養のために給与や蓄財などの一部を,またイギリス人の企業が利潤の一 部などをそれぞれ送金していたと察することができるからである。

ところで, 1 9 世紀前期のインドの国際収支を推計する試みは全くなく,し たがって民間勘定での送金額を推計することなど不可能に近いと言える。し かし, 1 8 2 3 年にロンドンで刊行された小冊子の中で同時代人がそれを試みて いる)。そして,それが一応の信頼をもって今日でも利用されている。そのデー タを利用し,かつ会社による送金との二重計算を排除するならば, 1 8 2 0 年ご ろの民間勘定での送金額はおよそ 1 5 0 万ポンドと算定できる。

1 4 )   P r i n c e p   [ 6 7],参照。著者の G . A . プリンセプ(J o h n  P r i n s e p  [ P r i n c e p ]   1 7 4 6 ‑ 1 8 3 0 )  

はカルカッタのプリンセプ商会のパートナーであり,彼の一族はベンガル経済で活発な

活動を行なった。彼の小冊子の意義などについては,すでにK. N. チャウドリが十分論

じているしに h a u d h u r i [ 1 4 J ,  p p . 7 ‑ 8 ,参照),またわが国でも中里成章氏がプリンセプ

の推計値を利用している(中里

[59J

,参照)。

(13)

これに,既に算定した 1 8 2 0 年代における会社の送金額を加えると, 4 5 0 万 ポンド程度ということになる。ここから会社勘定での軍需品や行政資財の輸 入代価など貿易収支に属する額を控除して貿易外支払いに限定しでも,その 額は 4 0 0 万ポンドを下回ることはなかった。この額が当時のインドのイギリ スに対する貿易外支払いであるとみなしても大過ないであろう i

では,当時インドはイギリスに対してこれほど巨額の支払い義務を履行す ることができたのであろうか。 1 9 世紀の前半期といえば,イギリスからの資 本輸入はきわめて限られている。とすれば,インドがイギリスに対してこれ だけの支払いを行なうには,結局はそれに匹敵する額の貿易黒字を生み出す

しかない。

図 2 は , K.N. チヨードリが当時の史料に基づいて作成した 1 8 2 0 年代末期 から 1 8 3 0 年代のインドの海外貿易の相手地域別の収支表を図式化したもので ある。同図から明らかなように,この時期にインドはほとんどすべての地域 に対して恒常的に貿易黒字を計上していたこと,中でもイギリスと中国とに 対する黒字額が圧倒的であったことが明らかである。そして,インドの貿易 黒字は合わせて平均 5 0 0 万ポンド以上に及んだ。それはイギリスに対する支 払いを可能とするに十分な額であったといえる。

このように, 1 8 2 0 年代前後にはインドはイギリスに対する巨額の支払い義 務を負い,それを恒常的な貿易黒字によって賄っていたのである。すなわち,

後にナショナリストが「国富流出」の証左などとみなしたインドの恒常的輸

15)

ちなみに前述のナオロジーは,

1835‑1839

年平均の「国富流出」額を

534.7

万ポンド と計算している ( N a o r o j i

(60J

, 

p.34

,参照)。また, K . N .チヨードリは

1814‑1858

年期 の会社の本国費と民間勘定による送金をそれぞれ

350

万ポンドと

150

万ポンドと算定し,

これに「本国費」分以外の会社勘定での送金額を加え,インドからイギリスへの送金総 額として

500

万 一

600

万ポンドという額を示している ( C h a u d h u r i ( 1

4J

, 

pp.35‑36

,参照 [ c f .   C h a u d h u r i   ( 1

5J 

])。さらに中里氏は

f1820

年前後におけるインドからイギリスへの 年間送金総額」として

400

万ポンドという数値を算定している(中里

(59J

76

ページ,

参 照 ) 。

(14)

図 2 インドの海外貿易, 1 8 2 8 ‑ 1 8 3 9 年度平均

( 単 位 万 ポ ン ド ) イギリス 大陸ヨーロッパ 中国

2 1 1 .   7  2 2 0 . 4  

同三¥ふ!乙/荒川合

l

〆 メ 「 ¥ ¥ 礼 二

[注] 矢印は,その国・地域に対して表示額だけインドが輸出超過であることを示す。

[資料出所] C h a u d h u r i   [ 1 2 J ,  p p .   4 6 ‑ 5 0 によって作成。原資料は l n d i aO f f i c e  L i b r a r y ,  C o m m e r c i a l  R e p o r t s ,  B e n g a l ,  Madras ,  Bombay  1 8 2 8 ‑ 1 8 4 0 .  

出構造がすでにこの時期に明白な姿をとって現われていたのである。ただ,

ナオロジーの活躍した時代が1 8 2 0 年代と異なるのは,インドの貿易黒字がイ

1 6 ) この点で加藤裕三氏の「三角貿易」論には首肯し難い。加藤氏は「三角貿易 J を定義 した上で, [""アジア三角貿易」について次のように言う。

「三角貿易は,二国間貿易のアンバランスを,三国間貿易にすることによってバラ ンスをとる形態である。……イギリス→インド→中国→イギリスというように(出 発点はどこでもよ L 、 ),商品が流れる。時計の反対廻りに,グルグル動いているよう なものである。これを逆転させる商品の流れもやがて現われてくるが(その典型は イギリスの『綿花飢僅』のときインドから綿花がイギリスへ輸出されたように),こ れはあくまでも全体の流れを補完するにすぎず,逆転させる力にはならない J (加藤

( 3 5 J ,  1 4 3 ‑ 1 4 4 ページ)。

また,その起源についてはこう述べる。

「中国→イギリスの茶貿易が,すでに一八世紀初頭には確立し,一七八 0 年代に急

速に伸びる。これにたいするインド→中国のアヘン貿易が一七七三年に専売制とな

(15)

ギリスに対する貿易外支払いを賄うことができず,外資の借入れに依存する ようになったということである。別言するならば, 1 9 世紀の第 3 四半期に至 って, I 国富流出」の額がいわばインドの支払い能力を越えたのである。

り,一七九 0 年代には相当の量に伸びる。イギリス綿布の輸出構造ができる以前に,

この二つの商品の貿易構造ができあがっていた。そこにイギリス綿布が,イギリス

→インドを結ぶことになる。それは遅れて一八二 O 年前後のことである。

…・・これが一九世紀のアジア……とイギリスを結ぶ三角貿易の原型である J ( 同 ,

122‑123

ページ)。

そして, r 一八二五年段階」の「三角貿易の概念図」を別図のように掲げている。

別図 加藤裕三氏の「一九世紀のアジアの三角貿易概念図」

紅茶

2

934 (95.2) 

イギリス 4

綿製品

822  (27.0) 

.インド

(単位

1

000

ポンド)

中 国

アヘン1,

196  (49.6) 

綿花1,

042  (43.2) 

)内は 2 国聞の輸出総額に占める表記商品の比率(%) [資料出所]加藤

(35J

122

ページより転載。

加藤氏の「三角貿易」論では,イギリスは対中国貿易での赤字額に匹敵する金額分が

対インド貿易で輸出超過でなければならない。すくなくとも, r 一八二 O 年前後」にはそ

うした貿易構造が形成されていなくてはならない。しかし,加藤氏はそのことを示すデー

タを掲げていない(加藤氏の「三角貿易」論については,加藤

(34J

,(

36J

も参照)。こ

れまで述べてきたように,当時イギリスの対インド貿易は輸入超過であった。この意味

で , r まず第一に,インドは三角貿易の出発点であり,イギリスはその終点である。この

貿易の原動力は(インド帝国と密接に結びついたイギリス人から成る)インド権益

(the  Indian interests)であり,イギリスの製造業の権益ではないJ

,とする

Chung(

1

8J 

の「三角貿易」論にむしろ共感を覚える。

(16)

I I   i 国富流出」に関するイギリス圏内での議論

会社が 1 8 世紀半ばにベンガルで土地を領有して以来その歳入の一部をさま ざまな名目で本国に送金していることは紛れもない事実であるし,またその ことは会社関係者であるか否かを問わず多くの人々によって知られていた。

例えば, 1 7 7 3 年にはイギリス下院の秘密委員会がその報告書で会社による本 国への送金の方法などを明らかにしている ( T h i r dR e p o r t  

(8

1],参照)。また,

後にベンガル総督を務めることになったジョン=ショー ( S i rJ o h n  S h o r e   [ ベ ンガル総督在任 1 7 9 3 ‑ 1 7 9 8 J ) は 1 7 8 9 年に次のように述べた。

「会社はインドの統治者であると同時に商人でもある。後者の資格で会社はイ ンドの貿易を独占し,また前者の資格でインドの歳入を占有している。歳入のヨー ロッパへの送金は,会社が買付けるインドの商品によって行なわれるのである。

(中略)

インドの地代のかなりの部分が会社側に支払われる。そして,会社政府の要求 するものを手当てしたのちに残った余剰分をイングランドへ送金すべく,インド の製品が利用される。このことにより,イギリスの商業と歳入が増大する」

( M i n u t e  o f   M r .  S h o r e ,  d a t e d   1 8   J u n e   1 7 8 9 ,  r e s p e c t i n g  t h e  P e r m a n e n t  S e t ‑ t 1 e m e n t  o f   t h e  L a n d s  i n   t h e   B e n g a l  P r o v i n c e s ,  c i t e d  f r o m   Appendix  ( 3 J .   p p . 1 8 3   &  1 9 4 ) 。

では,その金額はどれほどになるのか。イギリス議会ではその額に関して

いくつかの証言や報告がなされた。たとえば, 1 8 3 0 年の特別委員会で証言台

に立った会社関係者は,当時の送金額は会社勘定で年間 3 0 0 万ポンド,また

民間勘定では同じく 1 0 0 万ポンドと証言した ( M i n u t e s ( 5 0 J .   Q Q . 4 3 3 8 ‑ 4 3 4 0  

[ M e l v i l l ] ) 。また, 1 8 3 1 ‑ 3 2 年の「東インド会社の業務に関する下院特別委員

会」の報告書でも当時の会社勘定の送金額を年間 3 0 0 万ポンドと算出してい

る (R φ

o r t ( 7 1 J ,  p . 5 0 ,参照)。時期的にはすこし後になるが, 1 8 4 7 ‑ 4 8 年期の

下院の委員会では,当時会社の取締役会総裁であったジョージ=タッカー

(17)

( H e n r y  S t .   G e o r g e  T u c k e r  1 7 7 1 ‑ 1 8 5 1)が会社と民間の送金を年間それぞれ 3 7 0 万ポンドと 5 0 万ポンドと証言した ( M i n u t e s [ 5 2 J ,  Q Q . 1 2 4 0 ー 1 2 4 1 ,参照)。

ちなみに,これらの数値は,前節で算出したそれと大差はないと言えよう。

ところで,当時の一部の会社関係者らは,このようにインドから本国に向 けて多額の送金が公私にわたって行なわれていることを公言したが,しかし それだけではなかった。そうした多額の送金がインド側にとって何を意味す るのかという点にも言及する者がいた。

1 7 8 3 年の 6 月にイギリス下院の特別委員会が提出した『第 9 報告書』は,

この点できわめて興味深い。同報告書によって,この問題は初めて本格的な 議論の対象となった。この報告書では,会社によるインドでの土地の領有以 降イギリスーインド聞の貿易関係に変化が生じたことなどが詳しく検証され ている。同報告書では, 1 7 6 5 年に成就した土地の領有によって貿易に生じた 変化を「一大草命」と呼び,それ以来会社がもはや恒常的にインドに貴金属 を輸出することはなくなったことが指摘されている。さらに,次のようにも 述べられている。

「長年にわたりベンガルの歳入の一部がイングランドへの仕向け商品の買い付 けに充てられてきた。そのことは,インベストメントと呼ばれる。このインベス トメントの規模が大きいということが,会社の幹部職員の功績を測る基準として 余りに広く認識されてきた。それはインド窮乏化の主因であるが, しかし一般的 にはインドの宮と繁栄の目安として受け取られてきた。東洋の最も高価な商品を 積載した大型船からなる無数の船団が毎年ますます着実にイングランドに帰港 し,それを目撃する大衆の目には当然、のこととしてインドの平和と繁栄が映し出 される。……しかしながら,一方的な貢納やインドに利益をもたらさない商取引 が,こうした見せかけの,そしてまた思い違いの外観を呈しているにすぎない。

(中略)

ベンガルとイングランドとの間で行なわれている取ヲ I (それは商取引ではない)

を考えるならば,最も説得力ある見地に立つ時に,歳入に由来するインベストメ

(18)

ント制の弊害は明らかになるであろう。そうした見地に立てば,インドの輸出物 産の全ては(会社に関する限り)物々交換されたものではない。そうではなく,

何らの対価ないし代価の類いもなく持ち出されたものである。しかるに,商取引 の観点からすれば,イングランド側はベンガル側に対してほぼ全ての取引につい て支払いを拒否しているわけである。もっと正確に言うならば,インドは毎年 1 5 0 万ポンド相当の製品と物産を掠奪されているわけである J ( N i n t h  R e p o r t  

[ 6 1 ] ,   p p . 5 4 ‑ 5 5 ) 。

この報告書はエドマンド・パークの手によって作成されたものである;

パークがインド問題に大きな関心を抱いていたこと,とくに 1 7 8 0 年代に彼が 精力的に会社批判を繰り返したことはよく知られている i 中でも,彼が同じ 1 7 8 3 年 1 2 月 1 日にイギリス下院で行なった「フォックスのインド法案に関す る演説 J ( S p e e c h e  i n   H o u s e  o f   Commons o n  t h e  M o t i o n  f o r   g o i n g  i n t o   a  Com‑

m i t t e e  o n  M r .   F o x ' s  l n d i a  B i 1 1 ,   i n   P a r l i a m e n t a r y  H i s t o η[64) ,  Vo 1 .   2 3 ) は,イ ンドの人々への同情と会社による統治に対する憎悪とが満ちている。実際,

1 9 世紀末以来インドのナショナリストが唱えた反イギリス主義にパークの幻 影を見いだす研究者もいる(例えば, C h o u d h a r y   C 1 7 ) ,   Vo 1 . l ,   p . 6 0 ;  W o l p e r t   [ 8 7 ) ,   p .  1 0 6 ) 。いずれにしても, i 国富流出」問題がパークによる会社攻撃の 材料の l つであり,第 9 報告書がそれを反映していることは事実であろう i

しかし,この問題が特異な政治的立場にある者によってのみ論じらたとい うわけではない。少なくともインドを統治する側にあった人々,すなわち現 地の行政官や会社の関係者らの一部も, i 国富流出」問題を明確に認識して いた。たとえば,軍人ないし植民地行政官として歴史上著名な c . コーンウ ォーリス ( C h a r l e sC o r n w a l l i s ,  1 s t  Marquis 1 7 8 3 ‑ 1 8 0 5   [ベンガル総督在任 1 7 ) 実際,パークの著作集にも収録されている。例えば, ( B u r k , )   [ 1 0 J ,  Vo 1 . 1 1,参照。

1 8 ) この点に関しては, M a c p h e r s o n  [ 3 9 J ,  C h a p . 3 ; 中野 [ 5 8 J ,第 1 0 章;松井 [ 9 0 J ,参照。

1 9 ) 例えば A . トリパティは,第 9 報告書において「国富流出」問題が「初めて体系的に述

べられた」と断った上で, r そこには会社に対するパークの思い上がった偏見が満ちてい

る」と評している ( T r i p a t h i[ 8 3 J ,  p . 2 5 5 ,参照)。

(19)

1 7 8 6 ‑ 1 7 9 3 J ) は 1790 年に次のように述べた。

「イギリスにとってインドの真の価値は,ヨーロッパへの年々の巨額のインベ ストメントを行ない,また広東の会社当局側に大規模の支援を行なう……などの 能力を維持できるかどうかにかかっている。

上述の原因から生じる巨大な富の流出に加えて,私的な蓄財の送金にともなう 富の流出もあり,その影響はずっと以前から見られた。そして,いまでは流通貨 幣の激減やそれに伴う農業や商取引一般の不振という点で顕著である。

インドが繁栄を取り戻し,またインドが……イギリスの権益と権勢とを強力に 支援し続けることを可能とするためには,我々の統治システムの原理に抜本的な 変更を加えることが必要不可欠である J( S e c o n d  Minute o f  Lord C o r n w a l l i s   d a t e d   1 0 t h  F e b .   1 7 9 0 ,  c i t e d  f r o m   A p p e n d i x   [ 3 J ,  p . 4 9 3 ) 。

1 7 9 0 年と言えば,彼がベンガル総督在任中の時期である。したがって,こ の一節はベンガル総督としての発言である。

1 9 世紀に至ると,公的な場でインドからの「国富流出」が論じられること も珍しくなかった。とくに, 1 8 3 0 年代初頭に会社の貿易業務の終駕が日程に 登ろうとしていたとき,イギリス議会では次のような質疑応答が行なわれた

ことは興味深い。

i ( 議長)インドのような l国が,ヨーロッパの別のある国に対する政治的な支 払いのために,何らの等価を受けることなく,また漸次かっ着実に貧窮 化することともなく,毎年2 0 0 万一 3 0 0 万ポンドの規模で海外に国富を流 出させられるということがありうるだろうか。

(証人)思うに,インドの生産力はきわめて高く,またその物産も非常に価値 の高いものであり,そのためにインドの商品を通じて必要な支払いを行 なうことには何らの困難もまったくないでしょう。

(議長)そのことは送金手段を与えるかもしれない。しかしある国が恒常的

かっ恒久の政治的支払いを行い,その対価がまったくないというのであ

れば,そのような支払いの必要性は当該国を貧しくすることにならない

(20)

のか。

(証人)もしその支払いが当該国の物産で行なわれるならば,そのようなこと はないでしょう。インドの住人に税という形で課された貨幣は,ヨーロ ッパで需要のあるインド物産に再支出されることは明らかです。したが って,国富流出というものはある程度は存在するでしょうが,それはき わめて小規模で、あって,インドの繁栄を左右するほどのものではないと 思います。

(議長)要するにそれは現物での貢納 ( t r i b u t e ) ではないのか。もし,たとえ ばフランスに貢納が課されるならば,フランスは所与の量のワインやオ イルで毎年支払い,その対価はまったく戻ることがないということでは ないのか。そのことは,当該国は貨幣での貢納が課される場合と同様に 窮乏することにならないのか。

(証人)同様ということではないでしょう。なぜなら,ワインやオイルを栽培 する際の実際の消費支出がフランスに留まるからであります。

(議長)インドが年々の政治的貢納を行なう……と仮定するならば,そのこと はインドにとって恒久的な弊害となる状況をもたらさないか。

(証人)そうは思えません・ー… J ( M i n u t e s   [ 5 1 ] ,   Q . 1 4 4 1 ‑ 1 4 4 4 ) 。

ここでは, I  (国富)流出 J( D r a i n ) という語が議長と証人に違和感なく使用 されているし,さらにそのことによるインドの窮乏化が論じられている。ちな みに,ここでインドの窮乏化の可能性を強く否定している証人は,当時イング ランド銀行総裁であった ] . H . パーマー ( J o h nH o r s e l y  P a 1 m e r   1 7 7 9 ‑ 1 8 5 8 ) である。

I 国富流出」に関するマーチンとウィンゲート 1  マーチンの「国富流出」論

これまで見てきたように,イギリスの行政官や会社の関係者らは会社の統

治期からすでにインドからの「国富流出」を意識していた。このことは否定

のしょうがない。しかし,そのことに対する彼らの評価・判断はさまざまで

(21)

ある。また,そのことをめぐって充分な議論がなされたとは言えない。そも そも「流出」問題自体を本格的に論じた者は決して多くはない。

そうしたイギリス人の中にあって R.M. マーチン (RobertMontgomery  Martin 1803?‑1868) の「国富流出」論は注目に値する。彼は会社の取締役会 のメンバーをも務め,またアジアに関する多くの著書を残した人物であるが,

1838年に刊行した『東インドの歴史・風習・地勢・統計~ ( 全 3 巻)の第 l 巻 の序文において,次のように述べた。

「・・・・ーイングランドは年間2 0 0 0 万ポンドを課すが,そのうちの3 0 0 万ポンド以 上が貢納の形でロンドンへと毎年送金される。

英領インドからの年々 3 0 0 万ポンドに及ぶ国富流出は, (インドでは通常の利率 である) 1 2 パーセントの複利計算では3 0 年間に 7 2 3 , 9 9 7 , 9 7 1 ポンドもの巨額に達 し , 5 0 年間について年間2 0 0 万ポンドと少なく計算しでも合わせて8 4 億ポンドに なる。

もしそれほど恒常的かっ累積的な国富流出がイングランドから行なわれたと すれば,イングランドでさえ即座に貧窮化しているであろう。いったいインドに 及ぼす影響がどれほど深刻であろうか。インドでは労働者の賃金は

1

日あたり

2

‑3 ペンスにすぎないのであるJ ( M a r t i n   [ 4 0 J ,  Vo l . l ,   p .  x i i ) 。 さらに,第 3巻の序文でも次のように論じた。

「我われは半世紀にわたってインドから年に 2 0 0 万ないし3 0 0 万ポンド,ときに

は4 0 0 万ポンドを奪ってきた。それは,商業投資の不足を手当てしたり,債務の

利払いや本国の施設の維持のために,あるいはインドで暮らした人々の蓄財をイ

ングランドの地に投下するために,イギリスに送金されてきた。インドのように

遠く離れた国から毎年3 0 0 万ポンドから4 0 0 万ポンドが絶えず流出し,インドには

いかなる形でも還流することがない一こうした悪影響は人の創意によっても何

ら克服できないというものではないであろう。……この痛ましい事態を考えたと

きに,我われは必ずや次のように自問することになろう。我われが与えた苦しみ

を和らげるためには何をなすべきか,と。…

(22)

現在の状況下ではインドからイングランドへ貢納として年に 3 0 0 万ポンドが流 出し続けることが不可避であるとすれば,インドの永続的な資金の枯渇に起因す る諸作用を和らげることこそ,我われの義務である。そう,神聖にして絶対必要 な義務なのである J (仰. c i t . ,  Vo l .   3 ,  p p . : x x i ーロ i i ) 。

このような彼の主張には,後述するインドのナショナリストらが主張した

「国富流出」論に通じるものが見られる。

2  ウィンゲー卜による「貢納」論

1 8 5 8 年に始まったインドでの反英暴動が鎮圧された頃,一冊の小冊子がロ ンドンで出版された。著者のジョージ・ウィンゲート ( S i rG e o r g e  W i n g a t e   1 8 1 2 ‑ 1 8 7 9 )は,会社付属のアディスコン士官学校を卒業した後にボンベイ工 兵部隊に入札やがて少佐で退役した人物である。この小冊子は『財政をめ ぐるインドとの関係についての小論』と題されており,主にインドの財政・

金融問題をイギリスとの関連から論じたものである。

ウィンゲートは,同書の第 1章において「インドは保持するに値するか」

という問題設定を行なったうえで,イギリスがインドからどれだけ多くの利 益を得ているのかを論じた。その中で彼は次のような興味深い記述を行なっ た 。

「驚くべきことに,イギリスの側では 1シリングも出費することなくインドを 併合した。いや,それどころかインドはイギリスに巨額の貢納 ( t r i b u t e ) を定期 的に行なってきた。その額は今世紀中には 1億ポンドという驚異的な規模になる

と考えられる J ( W i n g a t e   [ 8 7 ] ,   p . 7 ) 。

彼によれば,イギリスの人々はこの「貢納」について考えたり,あるいは 理解することはほとんどなかった。したがって,その性格等を説明すること が必要であるとして,次のように説明を加えた。

「貢納とは,征服の結果としてある国から別のある国に対して行なわれる支払

いのことである。それは,従属国の年々の歳入の一部を支配国へ移転することで

(23)

あり,その物的対価は存在しない。もちろん,そのために一方の国は貧しくなり,

他方の国は豊かになる。こうした条件が満たされる場合には,年々の支払いが貢 納という名称であろうとなかろうと,貢納が行なわれているといえる。インドを 征服して貢納を強要していると言ってしまっては,イギリス人の耳には非情で非 道な響きが残る。そこで,こうしたインドに対する賦課の真の性格は注意深く,

しかし多分無意識に,イギリスの人々から隠され, r インド政庁の本国費』とい う当たり障りのない呼称がそれに充てられた J ( O p .   c i t . ,  p p . 7 ‑ 8 ) 。

こうして,彼の分析の対象は「本国費」に向うことになる。彼はイギリス 下院文書を基に, 1 8 3 5 ‑ 1 8 5 0 年度の 1 7 年間に「本国費」の総額が 5 , 7 6 0 万ポジ ドに達したことを明らかにし,さらにその構成に言及した上で, r 本国費」

の性格を次のように評した。

「……こうした支出によって資金がイギリスの住民の間で使われるので,それ は彼らに利益をもたらす。のみならず,その資金はインドの住民の税から供給さ れるので,インドの人びとには全く利益をもたらさない。それは明らかに,イン ドの歳入から得たところの我が国の年間所得の増加に他ならない。そして,実際 にはインドからイギリスへの貢納である。それはインドの資金の一部をイギリス に移転するものであり,その分だけ一方を貧しく,他方を豊かにする J ( O p .   c i t . ,  p p . 9 ‑ 1 1 ) 。

彼によれば,何もこうした「公的送金 J ( p u b l i c  r e m i t t a n c e ) のみがインド からの「貢納 J を構成するわけではない。巨額の「民間送金 J ( p r i v a t e   r e m i t ‑ t a n c e ) も行なわれている。それは,本国の子弟や親戚の扶養のため,あるい はインドから帰国する場合に備えての私財の本国への移転のために行なわれ る。その額を正確に見積もることは難しいが,上記の 1 7 年間にはそれぞれ 1 0 0 万ポンドを大きく下回ることはない。したがって, r 公的送金」と「民間 送金」を合わせるならば,同期間中には 7 , 0 0 0 万ポンドを下らない,と ( O p . c i t . ,  p p . 1 1 ‑ 1 2 ,参照)。

彼は, r 貢納」の規模を算定する別の方法にも言及している。

(24)

「インドの貢納の額はもう 1 つの計算方法によって概算できる。インドから資 金が引き出される際の唯一の方法は,インドからの地金や物産の輸出によるもの である。実際には,インドは地金を輸出することはほとんどなく,物産の輸出に よって外国への支払いを行なっている。さて,もしインドが上述の貢納を行い,

あるいは実際にそれほどの資金を失ってきたのであれば,そのことは当該期間中 のインドの輸出入額に現われているはずである。インドの諸外国への輸出額は,

貢納の分だけ,諸外国からの輸入を超過しているはずである(地金の輸出入を含 む)。…… 1 8 3 4 ‑ 1 8 4 9 年度を見れば,貴金属を含むイギリス領インドの輸出総額は,

貴金属を含む輸入総額より 6 7 , 5 4 5 , 7 7 7 ポンドだけ,年間では 4 , 2 2 , 1 6 6 1 ポンドだ け大きい。これらの数値は当該の 1 6 年間の貢納を表しているといえよう。そして,

1 8 5 0 年度分を加えるならば, 1 8 3 4 年度から 1 8 5 0 年度に及ぶ 1 7 年間にインドがイギ リスに対して行なった貢納の総額が 7 , 0 0 0 万ポンド以上であることがわかる」

( Q P .   c i t . ,  p p . 1 2 ‑ 1 3 ) 。

このように,ウィンゲートはインドからイギリスへ多額の「貢納」が行な われていることを指摘し,その事由などを検討したのみならず,インドの輸 出超過という貿易構造がそれに対応したものであることを説いている。この 点で,彼の「貢納」論は前述のマーチンの「流出」論より一歩進んでいる。

そして,このような方法論は,後述するインドの初期のナショナリストによ る「流出 J 論に大きな影響を与えたと思われる。

ただ,ウィンゲートの視点はイギリス側にあり,彼の意図は何よりもイン ドがイギリスに大きな利益をもたらしているということを明らかすることに ある。この点で,彼の「貢納」論は本質的にはインドのナショナリストによ る「流出」論とは相容れないかも知れない。いや,むしろインドのナショナ リストの「流出」論の裏返しの論理である。しかし彼の「貢納」論で明ら かにされた事実をインドの人びとの側から見たものが,インドでの「流出」

論であるといえよう。すなわち, I 貢納 J とはイギリスによるインド収奪そ

のもの,あるいはその表現ないし結果に他ならない。この意味で,彼の「貢納」

(25)

論は後のインドのナショナリズムに容易に結び、つくことになる。実際,彼の 小冊子はインドのナショナリストによってしばしば引用されることになる。

お わ り に

植民地期インドの国際収支を明らかにしようとする試みは, Y . S . パンデ ィットや A.K. パナージーらによって行なわれた。ただ残念なことに,彼ら の研究では 1 9 世紀中期以前すなわち会社統治期は対象外となっている。しか しながら,彼らの研究成果が本稿で対象とする時期について何らの手がかり をも与えてくれないというわけではない。とくに,バナージーによる研究は 多くの事実を教示してくれる。彼は 1 9 世紀後期のインドの国際収支を推計し,

その特色を指摘した上で次のように述べた。

「例外的な年を別にすれば,民間勘定で生じる貿易黒字が民間および政府 ( 1 8 5 8 年以前には東インド会社)の両勘定での貿易外支払いを賄うという特徴は,

1 8 世紀中・後期以降のインドの対外経済取引に見られる J( B a n e r j i   [ 9 J ,  p .  1 7 6 ) 。 むろん, 1 8 3 3 年以前には会社自身も貿易活動を行なっていた。したがって,

その時期について言うならば,貿易黒字は民間勘定のみならず会社勘定にお いても生み出された。この点で,バナージーの指摘は不十分かもしれない。

また, 1 8 世紀の場合にはインドの貿易外支払いが果たしてどの程度の規模で あったのかを数量的に確認することは事実上不可能である。

とはいえ, 1 8 世紀中期に会社がベンガルで土地を保有するようになって以 降,パナージーの述べるような傾向が,その程度はともかくとして,植民地

2 0 )   1 8 9 8 ‑ 1 9 1 3 年期のインドの国際収支については P a n d i t[ 6 3 J が,また両大戦間および 1 9

世紀後期のそれについてはそれぞれ B a n e r j i[ 8 J   ,  [ 9 J がすぐれた研究を残している(他

に G u r t o o[ 8 9 J も有用である)。わが国での主な研究としては,竹内 [ 8 0 J が B a n e r j i[ 9 J  

を詳細に再検討しているし,矢内原 [ 8 8 J , [ 9 2 J ,第 5 草;山田 [ 9 1],第 2 章も植民地

期インドの国際収支を論じている。

(26)

インドに生じたこと自体は多くの研究者が認めることろであろ主それを数 量的なデータによって証明することはできなくとも,そのこと自体に異議を 唱える者は多くはないであろう。

本稿では限られた史料によって, 1 8 世紀末以降の会社勘定での送金のデー タを検証した。その結論は, 1 8 2 0 年代には送金の絶対額で見ても,またイン ド歳入との比較で見ても,インド側にとって大きな負担となっていた, とい うことであった。さらに,民間勘定でのイギリスへの送金の推計額を考慮し たとき,インドは巨額の貿易黒字を恒常的に生み出すことが要請されたこと が判る。現実にも,当時の貿易統計はインドがそれを果たしていたことを示

している。別言するならば,当時にはインドのイギリスへの支払し、はインド の貿易によって一応は解決できたのである。

さて,会社統治期インドのこのような対外経済関係に対して,支配する側 の立場にある一部のイギリス人らが強い関心を示したり,あるいはそのこと が議論の対象となったのは当然のことであろう。そうした中に「国富流出」

論の先駆を見いだすことは決して困難ではない。インドのナショナリストで あるナオロジーが「国富流出」論を提起するに際して,イギリス人行政官の 報告や証言などを詳細に検証し,またとりわけマーチンやウィンゲートの研

2 1 ) たとえば,松井透氏は最近刊行した著書において,この点ついてやや視点は異なる ものの次のように述べている。

「……プラッシーの戦い(1 7 5 7 年)を端緒とするベンガル植民地支配は,わが国で 余りにもよく知られている。イギリスはこの植民地支配を通じて,さまざまの貿易外 の支払い請求権をインドに対してもつことになる。この『植民地収益』とも呼ぶべき ものによって,以後貿易上のイギリスの赤字が相殺され始めたのである。あるいは逆 に,イギリスに対する『植民地収益』の支払いに迫られて,インドはつねにイギリス 向けの輸出超過を保つ必要があった,というべきかもしれない。一

その後二世紀に及ぶ植民地支配の全期間にわたって,イギリスのアジアにおける『植

民地収益』は世界市場の構造に組み込まれて日常化することになる。インドからの『富

の流出J],あるいはインドの肩にかけられた『本国費』の支払いなど左呼ばれて,後年

大きな論議の対象となるのはこの問題にほかならない J (松井 [ 4 4 J , 2 1 6 ‑ 2 1 7 ページ)。

図 2 インドの海外貿易, 1 8 2 8 ‑ 1 8 3 9 年度平均 ( 単 位 万 ポ ン ド ) イギリス 大陸ヨーロッパ 中国 2 1 1 .  7  2 2 0

参照

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