経営と経済第72巻第2号1992年9月
《研究ノート》
武藤長藏と「広東十三行」
−武藤文庫所蔵「広東十三行図」によせて−
松本睦樹
は じ め に
私は寡聞にして長崎大学に赴任するまで「武藤文庫」の存在そのものをま ったく知らなかった。いや正確には,赴任の直前までは知らなかったと言う べきであろう。というのも,近く長崎大学に赴任すると知人に話したところ,
その一人から「武藤文庫」について多少知らされたからである。だから,着 任後の雑事が一段落し,いよいよ図書館(経済学部分館)を訪れることがで きるというときには,同文庫をも拝見できるという一種の喜びと期待が私の 胸に秘められていた。
いざ分館を訪れると,係りの人から分館全体について一通りの案内と説明 をしていただいたものの,当然ながら「武藤文庫」のすべてを一度に見終え ることはできなかった。そこで,まず「武藤文庫」を解説した一冊の小冊子 を係の人から賜わり,いったん図書館を離れてそれに目を通すことにした。
その小冊子には,武藤長蔵の経歴や同文庫設立の経緯,そして目録などが 記されていたが,さらに所蔵の書画などは一部が写真で記載されていた。そ の中に,私の目を止める一枚の写真があった。それは欧米の国旗が翻る洋館 を描いた「ガラス絵」についてのものであり,「広東十三行図」と題されて いた。そして解説書には,「『広東十三行』とは清朝代の外国貿易を独占して いた特許行商人の組織である」と記されてあった。
私はその解説書を手に,さっそく図書館に戻って実物を探した。ようやく
見出した実際の「ガラス絵」は思っていた以上に色鮮やかであり,またそれ
故に色とりどりの欧米の国旗は見るものに深い印象を与えた。
しかしながら,この美しい「ガラス絵」を見ながら 1つの疑問が頭に浮か んだ。欧米の国旗が翻る洋館がなぜ「特許行商人」なのか,と。そう考えて いるうちに,私の脳裏の片隅に「武藤長蔵」という名がかすかに残っていた ことに気づいた。確かに,ずっと以前にその名に接したことがあった。それ は,もう 0 1 年以上前に広東貿易をテーマとする論文に取りかかっていた時の
ことであった。
近代欧米諸国の対アジア進出と
「広東十三行」
近代ヨーロッパ諸国は香料などの物産を求めて,あるいは自国の製品の販 路を求めて次々とアジアに進出した。まず,ポルトガル人の進出は目覚まし く,十六世紀の中ごろには香料貿易を独占し,アジアに一大帝国圏を築いた。
やがて,あとから登場したオランダ人がそれに代わった。彼らの拠点はバタ ビアであったが,香料貿易に飽き足らず,日本との貿易取引をも営んだ。江 戸時代の鎖国体制下の日本にとってヨーロッパで唯一の貿易相手国で、あった ことは周知の通りである。また,彼らがアジア進出のために設立した東イン
ド会社が株式会社の先駆であったことも有名である。
イギリス人のアジア進出は両国に比べればずっと遅れていた。彼らが 0 0 6 1 年に東インド会社を設立したことはよく知られているが,オランダのそれに 比べてもはるかに規模も小さく,また期待された自国製の毛織物はアジアで は売れず,しかも優れた香料をよく産出するインドネシア方面はすでにオラ ンダ人によって占拠されていた。このため,彼らはインド亜大陸に活動の舞 台を求めることになり,後のインドの人々の運命を大きく左右することにな った。また,フランス人はインド E 大陸でイギリス人との角逐に敗れてイン
ドシナ方面に,さらにスペイン人はフィリピン方面に進出した。
さて,ヨーロッパ人にとって中国との貿易も大きな関心事であった。中で
もイギリス人は通商の拡大にことさらに熱心であった。イギリスでは中国の
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茶に対する需要が大きく, したがってその代価となる商品を中国に輸出しよ うと懸命であった。
しかしながら,清朝は外国貿易にはきわめて不熱心であった。当時中国で 外国貿易に従事できたのは, r 行商 J (Hong ないし Hong t s ) c h a n m e r とよばれ た少数の官許の商人だけであった。そして,西暦 0 2 7 1 年(康照 9 5 年)に清朝 政府は「行商」に対して l つの共同組織を設立させた。それが「公行 J (Co
・h o n g
) である。さらに, 7 5 7 1 年(乾隆 2 2 年)には清朝は外国貿易を広東港のみ に限定した。こうして,西洋人が「広東システム」などと呼んだ独自の貿易 システムが完成した。
そもそも中国では政府が官許の商人に市場を独占ないし管理させることは すでに清朝以前から見られた。そうした商人は「牙行」と呼ばれたが,その 中で洋務すなわち貿易や交渉を請け負う「牙行」は「洋貨行」と呼ばれ,や がてその略称である「洋行」ないし「行商」が一般的な呼称となった。
ところで, r 行商 J (洋行)の数は一定していなかった。例えば「公行」設 立当時には 6 1 の「行商」が存在したらしいが,その後も増減をくりかえした。
しかし,実際には「公行」設立以前から彼らは「十三行」の名で呼ばれてい た。そして,外国貿易が広東一港に限定されると, r 広東十三行」とも呼ば れるようになった。いずれにしても, r 広東十三行」とは当時の清朝の外国 貿易を独占した官許商人ということになろう。
これに対して,彼らと取引した欧米の人々はどうであったろうか。 3 3 1 8 年 度まではイギリスの対アジア貿易は同国の東インド会社によって独占されて いたので,それまでは同社の船舶が毎年広東に入港し,本国向けの茶を買い 付けたことは言までもない。しかし,同時にその他のイギリス人や他の欧米 諸国(既述の諸国の他にスウェーデンやアメリカなど)の人々も広東にやって来 て盛んに商取引を行なった。
広東にやって来た欧米の商人は,清朝から許された川添いの一角に商取引
のための住居を建設した。これが夷館であり,英語の y r o t c a f がそれにあた
る。また,日本では商館という語が充てられた。そして,彼らの一部は自社
の名称を中国語でも表示する際に「行」の名を使った。このために,彼らも
しばしば「十三洋行 J (あるいは「十三行 J ) などと呼ばれた。これは日本語の
「洋行」の意味にほぼ同じということになるが, しかし本来の意味とはまっ たく別の意味で使われたといえよう。
このように,本来「十三行」あるいは「広東十三行」などと呼ばれた官許 の中国人商人と,広東に来航した欧米の商人ないしはその商館とは,まった く別個のものである。しかしながら,後者の商館が前者の敷地の中にあった こと,および後者の商人も時に「十三洋行」などと呼ばれたことなどから,
両者が混同されることがあった。それは,この分野の研究が未だ本格化する 以前にはやむをえないことでもあった。
2 昭和初期までの日本での
「十三行」研究史
わが国においても「十三行」は早くから研究の対象とされるようになった。
たとえば,明治の終わりに田中華一郎は「康東外園貿易濁占制度」を発表し た。それは主に欧米の研究成果 . H ( Morse . B , The d l i G 1 C 0 h i n a , 1 9 0 9 および . J
B . Eames , The s h i g l n E n i C h i n a , 1 9 0 9 など)を利用したものであるが,その中で 彼は「十三行」について次のように述べている。
「そこで康照五十九年に康東に組織せられた公行の組合員は首初は前に述べたや うに十六人でしたが,乾隆の中頃には二十六人になりました,………それが後に段
コ ホ ン