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経営と経済第72巻第2号1992年9月

《研究ノート》

武藤長藏と「広東十三行」

−武藤文庫所蔵「広東十三行図」によせて−

松本睦樹

は じ め に

私は寡聞にして長崎大学に赴任するまで「武藤文庫」の存在そのものをま ったく知らなかった。いや正確には,赴任の直前までは知らなかったと言う べきであろう。というのも,近く長崎大学に赴任すると知人に話したところ,

その一人から「武藤文庫」について多少知らされたからである。だから,着 任後の雑事が一段落し,いよいよ図書館(経済学部分館)を訪れることがで きるというときには,同文庫をも拝見できるという一種の喜びと期待が私の 胸に秘められていた。

いざ分館を訪れると,係りの人から分館全体について一通りの案内と説明 をしていただいたものの,当然ながら「武藤文庫」のすべてを一度に見終え ることはできなかった。そこで,まず「武藤文庫」を解説した一冊の小冊子 を係の人から賜わり,いったん図書館を離れてそれに目を通すことにした。

その小冊子には,武藤長蔵の経歴や同文庫設立の経緯,そして目録などが 記されていたが,さらに所蔵の書画などは一部が写真で記載されていた。そ の中に,私の目を止める一枚の写真があった。それは欧米の国旗が翻る洋館 を描いた「ガラス絵」についてのものであり,「広東十三行図」と題されて いた。そして解説書には,「『広東十三行』とは清朝代の外国貿易を独占して いた特許行商人の組織である」と記されてあった。

私はその解説書を手に,さっそく図書館に戻って実物を探した。ようやく

見出した実際の「ガラス絵」は思っていた以上に色鮮やかであり,またそれ

(2)

故に色とりどりの欧米の国旗は見るものに深い印象を与えた。

しかしながら,この美しい「ガラス絵」を見ながら 1つの疑問が頭に浮か んだ。欧米の国旗が翻る洋館がなぜ「特許行商人」なのか,と。そう考えて いるうちに,私の脳裏の片隅に「武藤長蔵」という名がかすかに残っていた ことに気づいた。確かに,ずっと以前にその名に接したことがあった。それ は,もう 0 1 年以上前に広東貿易をテーマとする論文に取りかかっていた時の

ことであった。

近代欧米諸国の対アジア進出と

「広東十三行」

近代ヨーロッパ諸国は香料などの物産を求めて,あるいは自国の製品の販 路を求めて次々とアジアに進出した。まず,ポルトガル人の進出は目覚まし く,十六世紀の中ごろには香料貿易を独占し,アジアに一大帝国圏を築いた。

やがて,あとから登場したオランダ人がそれに代わった。彼らの拠点はバタ ビアであったが,香料貿易に飽き足らず,日本との貿易取引をも営んだ。江 戸時代の鎖国体制下の日本にとってヨーロッパで唯一の貿易相手国で、あった ことは周知の通りである。また,彼らがアジア進出のために設立した東イン

ド会社が株式会社の先駆であったことも有名である。

イギリス人のアジア進出は両国に比べればずっと遅れていた。彼らが 0 0 6 1 年に東インド会社を設立したことはよく知られているが,オランダのそれに 比べてもはるかに規模も小さく,また期待された自国製の毛織物はアジアで は売れず,しかも優れた香料をよく産出するインドネシア方面はすでにオラ ンダ人によって占拠されていた。このため,彼らはインド亜大陸に活動の舞 台を求めることになり,後のインドの人々の運命を大きく左右することにな った。また,フランス人はインド E 大陸でイギリス人との角逐に敗れてイン

ドシナ方面に,さらにスペイン人はフィリピン方面に進出した。

さて,ヨーロッパ人にとって中国との貿易も大きな関心事であった。中で

もイギリス人は通商の拡大にことさらに熱心であった。イギリスでは中国の

(3)

武藤長蔵と「広東十三行」   1 0 1

茶に対する需要が大きく, したがってその代価となる商品を中国に輸出しよ うと懸命であった。

しかしながら,清朝は外国貿易にはきわめて不熱心であった。当時中国で 外国貿易に従事できたのは, r 行商 J (Hong ないし Hong t s ) c h a n m e r とよばれ た少数の官許の商人だけであった。そして,西暦 0 2 7 1 年(康照 9 5 年)に清朝 政府は「行商」に対して l つの共同組織を設立させた。それが「公行 J (Co

h o n g

) である。さらに, 7 5 7 1 年(乾隆 2 2 年)には清朝は外国貿易を広東港のみ に限定した。こうして,西洋人が「広東システム」などと呼んだ独自の貿易 システムが完成した。

そもそも中国では政府が官許の商人に市場を独占ないし管理させることは すでに清朝以前から見られた。そうした商人は「牙行」と呼ばれたが,その 中で洋務すなわち貿易や交渉を請け負う「牙行」は「洋貨行」と呼ばれ,や がてその略称である「洋行」ないし「行商」が一般的な呼称となった。

ところで, r 行商 J (洋行)の数は一定していなかった。例えば「公行」設 立当時には 6 1 の「行商」が存在したらしいが,その後も増減をくりかえした。

しかし,実際には「公行」設立以前から彼らは「十三行」の名で呼ばれてい た。そして,外国貿易が広東一港に限定されると, r 広東十三行」とも呼ば れるようになった。いずれにしても, r 広東十三行」とは当時の清朝の外国 貿易を独占した官許商人ということになろう。

これに対して,彼らと取引した欧米の人々はどうであったろうか。 3 3 1 8 年 度まではイギリスの対アジア貿易は同国の東インド会社によって独占されて いたので,それまでは同社の船舶が毎年広東に入港し,本国向けの茶を買い 付けたことは言までもない。しかし,同時にその他のイギリス人や他の欧米 諸国(既述の諸国の他にスウェーデンやアメリカなど)の人々も広東にやって来 て盛んに商取引を行なった。

広東にやって来た欧米の商人は,清朝から許された川添いの一角に商取引

のための住居を建設した。これが夷館であり,英語の y r o t c a f がそれにあた

る。また,日本では商館という語が充てられた。そして,彼らの一部は自社

の名称を中国語でも表示する際に「行」の名を使った。このために,彼らも

(4)

しばしば「十三洋行 J (あるいは「十三行 J ) などと呼ばれた。これは日本語の

「洋行」の意味にほぼ同じということになるが, しかし本来の意味とはまっ たく別の意味で使われたといえよう。

このように,本来「十三行」あるいは「広東十三行」などと呼ばれた官許 の中国人商人と,広東に来航した欧米の商人ないしはその商館とは,まった く別個のものである。しかしながら,後者の商館が前者の敷地の中にあった こと,および後者の商人も時に「十三洋行」などと呼ばれたことなどから,

両者が混同されることがあった。それは,この分野の研究が未だ本格化する 以前にはやむをえないことでもあった。

2  昭和初期までの日本での

「十三行」研究史

わが国においても「十三行」は早くから研究の対象とされるようになった。

たとえば,明治の終わりに田中華一郎は「康東外園貿易濁占制度」を発表し た。それは主に欧米の研究成果 . H (   Morse . B ,  The    d l i G 1   C 0 h i n a ,  1 9 0 9 および . J

B .   Eames ,  The    s h i g l n E   n i C h i n a ,  1 9 0 9 など)を利用したものであるが,その中で 彼は「十三行」について次のように述べている。

「そこで康照五十九年に康東に組織せられた公行の組合員は首初は前に述べたや うに十六人でしたが,乾隆の中頃には二十六人になりました,………それが後に段

コ ホ ン

々減じて十三人になり,十三行と云ふのは公行と云ふのと同ーの固有名詞として用 ひらる

L

やうになりました。 J (田中華一郎「康東外因貿易濁占制度 J

W

慶慮義塾学 報』第 9 7 1 号 , 2 1 9 1 年 6 月,第 2 3 ページ,なお一部の漢字は新字体に改めた[以下,

同じ ) J

さらに次のようにも述べている。

r . . . ・

H

・..濯正六年西紀一七二八年に....・

H

・‑行商は迭に外因商人と支那官憲との媒

介者となった。加之,西紀一七五五年即ち乾隆二十年には外商との貿易をば行商の

濁占とし,之をして貢租に封して連帯責任を負はしむ可しとの上論が設せられ,雑

貨商と行商との匿別も公認せられた。(E s . e a m   . c o l   . t i c   . p 8 1)次で西紀一七五七年

(5)

武藤長識と「広東十三行」   3 0 1

乾隆二十二年の十一月には庚東以外の地に於て外園貿易を行ふことを禁じた葱に於 て地利上白から外園貿易を濁占して居った,康東は法律上に於ても之を濁占するこ と

L

なり而して贋東に於ては又公行が外園貿易を濁占すること

L

なった。 J (向上論 文,第3 3 ページ)

今日の研究水準から見るならば, 田中の研究は決して本格的なものとはい えない。また詳細に検討するならば,そこにはいくつかの誤謬が見いだされ る 。 しかしながら,それが明治の末期に行なわれた研究であることを考慮す るならば, それもやむをえないことであったし, また「十三行」に関する限 り概して正しい方向で論を進めていたといえよう。

しかしながら,その 6 年後に同じ田中が前言を翻して次のように論じたと き,彼に対する評価は慎重にならざるをえない。

「前年事報で支那の鎖園時代に康東の外園貿易を濁占して居った公行に就て説明 を試みた際,康照五十九年創設の首時十六人であった組合員が乾隆二十二年に二十 六家と局り, wそれが後に段々減じて十三人になり十三行と云ふのは公行と云ふの と同ーの固有名詞として用ゐらる与やうになりました。(中略 u と記したが,十三

行と云ふのは以下は全く誤解に出でた断定で, w虞東園説』の十三洋行も持た又王 之春の『洋務柔遠記』道光八年の傑に常据十三行之英酋,能通漢字漢語とある十三 行も共に商館のことであって公行のことでは無いのである。(中略)

十三行は即ち公行であると誤解したのは公行の敷が十三であったことがあるから である。 J (田中華一郎「十三行 J W 三田学会雑誌』第1 2 号 第 4 号 , 1 8 9 1 年 4 月,第8 2

‑ 8

5 ページ)

このように,彼は中国の史料などから「十三行 J =  I 商館」と判断し, I 十 三 行 J =  I 公行」というそれまでの主張を放棄した。田中による「十三行」

研究はこうして大きく後退したが, このことは後の研究者にも少なからぬ影 響を与えることになった。

田中についでこの分野で大きな業績を残したのは,稲葉岩吉である。彼は 大 正 9 年から同 0 1 年にかけて『東亜経済研究』誌上に「清代ノ庚東貿易」と 題する論文を発表した。同論文では, 田中が利用した欧米の研究書や漢籍,

そして何より H.B. モース ( H o s e a Ba l 1 0u  Morse  9 3 4 ) 1 8 5 5 ‑ 1 の 新 著 (The ‑ r e t n I

(6)

n a t i o n a l

    s n o i t a l e R   t 1 0   e h   e s e n i h C e r p i m E ,  . 3 v s l o ) ,  8 9 1 1 ‑ 1 0 9 1 などが縦横に駆使さ れているが,その中で彼は「十三行」に関して次のように述べた。

「政府ハ,一層之ニ注意ヲ梯ヒ,乾隆二十五年 ( A .D  ) 0 6 7 1 ヲ以テ,愈々其地 ノ行商 (Hong ) a n t c h m e r ニ公行 o n g C o ‑ h ヲ設立セシメタ,行商ハーニ洋行トモイ ヒ,支那商人ノ康東貿易ニ従フ汎稿デアル。 J (稲葉岩吉「清代ノ康東貿易( 2  ) J   W 東 亜経済研究』第 4 巻 第 3 号 , 0 2 9 1 年 7 月,第 1 4 ページ)

さらに,彼は「専海闘志(巻二五)ニモ下ノ記述ガアル」としてその一部 を引用した上で次のように続けた。

「該記事ニヨリテ吾人ノ知リ得ベキコトハ,康東貿易ハ,園初以来,牙行ニヨリ テ管掌セラレタ,牙行ハ十三行 ( T h e   n e e t i r h T t ) a n c h e r m トモ命ゼラレタノデアル。

十三行ノ名稿ノ起源ハ,明白デナイケレドモ,もーすニヨレパ。康照五十九年代ニ 於 テ . . . ・

H

・ " J (向上論文,第 2 4 ページ)

見られるように,稲葉は「十三行」の意味をしっかり把握した上で,モー スの研究などに依拠してその起源などを追究したのであって,この点で彼の 研究は前述の田中のそれに比べ大きく進歩したといえよう。

さらに,武藤が後述の「康東十三行園説」を発表する前年(昭和 5 年)に,

東京商科大学教授の根岸倍は「贋東十三洋行」と題する論文を『支那研究』

誌上に発表した。根岸はその中でまず「公行若くは洋行は牙行の一種である。

公行を知らんとするには先づ牙行を知らねばならぬ。」と述べて,牙行の歴 史を古くにまで遡って論じた。さらに,この論文において彼は次のような鋭 い指摘を行なった。

「支那政府が公行若は洋行を設置した目的は,外人取締,関税徴収及貨物評債の 必要から出たものである。(中略)充づ外人取締につきて述ぺんに外園人は唐宋時 代と同じく康東域内に支那人と雑居することを許されないて:夷館即ちファクト リーと稽せらる

L

邸内に居住した。(中略)丁抹,併蘭西,英吉利など十三軒のフ ァクトリーが存する。それで之をも十三洋行と名けるが同名の行商と混同してはな らない。 J (根岸倍「康東十三洋行 J W 支那』第 1 2 巻 第 5 号 , 0 3 9 1 年 , 5 月,第 5 1 ペー ジ)

このように,根岸は欧米の商館と本来の「十三行」が別個のものであるこ

(7)

武藤長蔵と「広東十三行」   5 0 1

とを指摘した上で,両者を混同することを戒めている。後述するように,武 藤論文を評価する上でこのことが大きな意味をもつことになる。

3  武藤長識による「十三行」研究

武藤は「広東十三行図」の「ガラス絵」を入手した翌年の昭和 6 年に「庚 東十三行園説」と題する論文を『東亜経済研究』に発表している。その中で 彼はこの「ガラス絵」を入手するにいたった経緯なども明らかにしている。

それによれば,彼は同様のガラス絵を 2 度見出したもののいずれも入手でき ず,昭和 4 年の夏に新たな「ガラス絵」を長崎の古本屋で見つけ翌年の春に ついに入手したらしし、。

では,彼の言う「広東十三行」とは何であったのか。それを検討するには まず,彼が大正 12年に発表した r~銀行舎館なる名鮮が約二百年前支那に存 せし事寅の設見』補遺」なる論文に注目しよう。そこでは「十三行」につい てこう論じられている。

「この公行なる d l i u G は清園政府より虞東にて外園商人と通商取引する特権を得 たる商人の圏瞳なるが此 d l i u G を組織し之に属するものは行商 (Hong   s ) n t h a r c M e

と稽する康東の商人等也文この公行に属する庚東商人たる行商の敷は十三なりき即 ち The   e n e t i r h T s   a n t e r c h M h e   ( T   n e t e r i h T ) " s r m i F なりし也。而してこれ等の行 商 (Hong s ) n t h a r c M e の私有に属する s e i r o t c a F の建物場所を贋東に来りし外園商 人即ち夷商 n g i e r o F ( ) s r e d a r t に貸附せり

外園商人即ち夷商は冬期庚東滞留中は批等 s e i r o t c a F 内に居住せり F

a c t o r i e

s の敷は十三ありて行商の理論名目上の数 e h t (   l a c i t e r o e h t ) n u m b e r と一 致せり即ち十三行 n e e t r i h T ( ) s e i r o t c a F なりき。 J (武藤長蔵 w r 銀行合館なる名辞 が約二百年前支那に存せし事費の設見』補遺 J W 商業と経済』第 4 冊 , 1 9 2 3 年 7 月 , 第 4 6 1 ページ)

行商が公行を設立したこと,行商の数が 3 1 であったこと,外国商人が行商

の敷地に s i e o r c t F a を建設したことなどに関しては,武藤の主張には決定的

な誤りはない。しかし彼は e s o r i c t F a が1 3 あることをもって「十三行」と

(8)

している。つまり,彼のいう「十三行」とは彼の表現を借りるならば The T

h i r t e e n

  Merchants ではなく, Thirteen  e s r i c t o F a すなわち1 3 存在したとい う商館のことである。

8 年後の「康東十三行園説」では Factory に「商館」という語をしばし ば充てるなどしているものの,上記の主張はそのまま踏襲されている。その ことは,彼が例えば次のように述べる時,とりわけ明白である。

「康東の十三行 e h t (   s e i r o t c a F   f o n ) t o C a n の建物の所有者は行商 e h t ( Hong  M

e r c h a n t s

) で,行商中特に主として Howqua (伍浩宮)及び k e i q u a P w a n の所有に 属して居った。(中略)

…即ち特許商人たる個々の行商(洋行商とも穏す)が s e i r o t c a F の建物を所 有して居るのである。 J (武藤長蔵「康東十三行園説 J

W

東亜経済研究』第1 5 周年記 念号, 1 3 9 1 年 , 4 月,第342‑344 ページ)

したがって,

「第一園即ち私の所識する康東十三行の硝子給の中央に米園旗 n c a e r i ( A m   ) g a l F を掲ぐる商館即ち i c a n A m e r   y r o t c a f (康源行)は最も立派な大なる建物である。夫 が明に示されあるのは注意すべきではあるまいか。

第一固には A m e r i c a n s g a l F 中のーツである米圏旗 l a n o i t a N ( ) g a l F が m e r i c a n A hong の直前に接近して建てられた旗竿の上に翻って居る。然るに第二固には建物 から相首の距離の慮に珠江 l a e P ( ) r e v i R に沿へる柵に接近して樹木の傍に旗竿が建 てられてある。これは米園旗に限らず他の丁抹の旗西班牙の旗端典,英園,和蘭等 の旗皆珠江に沿へる柵に接して建て

L

ある。第二闘の米園旗の建て

L

ある珠江の岸 と商館との聞の康き空き地が A m e r i c a n G a r d e n ではあるまいか。 J (向上論文,第 3

3

6

7 3 3 ページ)

と言うように,この論文において武藤が論じているのはもっぱら欧米の商 館についてである。わずかに見出し「十二」および「追記三」の箇所で「行 商」を扱っているものの,残念ながら本格的な研究とは言い難い。

他面,彼は自説に強い自信をもっていたわけでもなかったようである。彼 は同論文で次のようにも述べている。

「以上を以て不充分ながら十三行及十三行街,其他街路の画面的説明を終り,結

(9)

武藤長蔵と「広東十三行」   7 0 1

尾として十三行及び行商等の意義由来等に就て,前文説いて詳しならざりし黙を明 に示す筈なれど,賓はこれには幾多の疑問あり,私の如き未だ研究の大に足らざる を感ずるものである。(中略)

試みに京都帝園大皐教授矢野仁一博士の近著『近世支那外交史』を讃むに,第十 七章虞東貿易時代のイギリスの通商関係の部に,十三行,行商等の意義由来等に就 て次の如く書いてある。(中略)

私の手許にある中外通商始末記巻八(王之春編),道光八年春正月,英大班部棲 頓遁回の部に『十三行之英商,能通漢字漢語』云々の文句がある。

又巻九,道光二十一年夏四月の部に『英船入旋十三行前』云々の句がある。

十三行と十三洋行の意義匿別如何。

其他矢野博士の所論と,本稿のはじめに掲げた稲葉氏,故田中華一郎博士等の所 論,文モース氏,ハンタ一氏,文 e s n e i C h y " r o t s i o p e R 等の所議と封比して疑問 百出の感がある。 J (向上論文,第 7 5 3

0 6 3 ページ)

このように武藤は,自らが依拠した文献や他人の研究成果を綿密に検討し でも,なお不明の点が多々あったことを認めている。しかも,それは「十三 行」の意味と言う決定的な点についてである。

すでに見たように,この「庚東十三行園説」が発表される前年に根岸倍が

「庚東十三洋行」と題する論文で「丁抹,併蘭西,英吉利など十三軒のファ

クトリーが存在する。それで之をも十三洋行と名けるが同名の行商と混同し

てはならない。」と明言していた。にもかかわらず,武藤が上記のように論

じていると言う事実をどのように受けとめるべきであろうか。武藤は根岸論

文を読まなかったのかもしれない。実際

t

r 庚東十三行聞説」では,田中翠

一郎や稲葉岩吉の研究には言及があるものの,根岸論文はまったく触れられ

ていない。確かに,武藤論文には欧米の研究書などに対する渉猟ぷりでも見

るべきものがある。しかし,国内の最新の研究成果に言及しないのはなぜな

のか。いずれにしても,このために武藤論文の評価は難しいと言わざるをえ

ない。

(10)

4  武藤論文への批判

武藤論文 ( r 康東十三行固説 J ) に対する他の研究者の側からの反応は早かっ た。同論文が発表されたその年の終わりには早くも松本忠雄が『支那』誌上 で武藤への疑問を呈示した。松本は,まず「支那の海洋貿易の初期に於ける 康東の行商の存在は相首研究すべき興味ある問題である J ( r ハシガキ」より) と述べて,日本での「十三行」の研究史をたどっている。その中で,田中華 一郎,稲葉岩吉,根岸信の研究に言及した上で,武藤論文についてこう評し ている。

「更に本年四月の東亜経済研究には武藤長蔵氏の『康東十三行固説』の援表あり,

私共後皐の徒が潟に有益なる資料を興へられる

L

と共に,大いに啓渡せらる

L

庭が あった,殊に武藤教授の論文中には疑問を指摘して賂来の研究に侯たれたものも少

くなかった………。 J (松本忠雄「康東の行商及夷館[上 J J

W

支那』第 2 2 巻 第 2 1 号 , 3 1 9 1 年 2 1 月,第 2 6 ページ)

そして, r ハシガキ」につづけて「行商と夷館 J という見出しを設けて,

行商と夷館(商館)の違いを論じている。しかも彼は,武藤も利用した w . c . ハンターの著者 . w (   H . C r t e u n ,  T h e     n a F ' K w a e '     C t a n o t n a ,  ) 2 8 8 1 などを引用

し行商と夷館が混同されている点で,それらの著書を批判している。その上 で,彼は武藤論文に対して次のように述べている。

「武藤教授は康東十三行固説に於て『私は本稿に於て贋東十三行園説を試み前人 の未だ徹底的に試みなかった広東十三行の各行に就いて詳説し疑問は疑問として其 貼を述べて置いた~ [別刷六十四頁]と云って居られるが,此武藤氏の研究は康東 十三行の夫れと云ふよりも,寧ろ康東にあった各因の夷館 ) y r o t c a F ( の研究に力 を致されて居る様に見える,殊に武藤教授が『十三行と十三洋行の意義匿別如何』

との疑問を投げかけて居らる

L

貼から見又『特許商人たる個々の行商』を註して『洋 行商とも稿す』と云って居らる

L

貼等から考へでも,同氏も多少 Hong と y r o t c a F

を混同して居らる

L

貼が無いであらうか。J(向上論文,第 27‑28 ページ) さらに,こう続けている。

「此貼に至つては根岸教授が『丁抹, 1 弗関西,英吉利など十三軒のファクトリー

(11)

武藤長蔵と「広東十三行」   9 0 1

が存在する,それで之をも十三洋行と名けるが同名の行商と混同してはならない』

と注意を興へて居るのは,正確なる認識として大に敬意を表せなければならぬ。 J ( 向 上論文,第 8 2 ページ)

やや遠慮、がちな表現ながら,武藤論文に対する評価は厳しいといわざるを えない。やはり,同論文に先行して根岸論文が発表されているだけにそうな のであろう。

武藤の「康東十三行間説 J に対する批判は海外からもなされた。「十三行」

の 1 つ 天 賓 行 の 末 奇 で あ る 梁 嘉 彬 は 中 華 民 国 6 2 年(西暦 7 3 1 9 年)に上海で大 著『贋東十三行考』を発表し,この分野での研究水準を大きく引き上げたが,

そこでは日本での研究にも言及し,武藤論文にも触れている。

「日本人の著書に至つては多く汎論である。根岸倍著の『康東十三洋行』の如き は頗る濁到の黙多く,既に中園歴代の封外貿易制度及びその事費を引設し,また『行』

(Hongs) と『夷館~ ) s e i r o t c a F ( の相違を排別し得てをり,誠に敬服に堪へない ところである。然しながらその内容を討究すればこれ亦汎論たるにすぎない。(中 略)

武藤長蔵著の『康東十三行園説』は頗る苦心せしものではあるが,然、しその研究 せるものは寅は十三夷館(夷館を日本人は商館と稽してゐるが, [中略J ) に過ぎず して十三行ではない。藩文詩(明官, Minqua) が設けたところの行は中和行

( C h u n g w o

 H o n g ) であり,夷館はこれを寓源 (Man n e ) Y u と名づけたのである が,西洋文の書籍に於ては常にこれを混稽して s ' u a g q n h u C Hong となしてゐるの で,武藤の如き少なからざる誤解を惹起せしめたのである。 J (梁嘉彬『庚東十三 行考~, 7 3 9 1 年,上海,第 4‑6 ページ[山内嘉代美訳,日光書庖, 4 4 9 1 年,第 6

‑9 ページ ) J

では,商館(夷館)研究としては武藤論文はどうであろうか。この点につ いても,梁による評価は厳しい。

「夷館の建物は華麗を極め,その塀も亦甚だ高くして且つ厚かった。………その 詳細なる構造に閲しては阿片戦争より数年前庚東に於て出版された e s e n i h C ‑ i s o p e R t

o r y

" 巻ー,頁二一一以下の k e c s b O 著の n o i t p i r c s e D   f o " s e i r o t c a F なる一文を参

照されたい。武藤長蔵著の『底東十三行園説』はこの書を参考して専ら十三夷館を

(12)

論じたものであるが,惜しむらくはその引用するところが,たど n o i p t i r c e s D   f o t

h e

    y t i C   C f o o n " a n t 等の文に限られて未だ n o i t p i r c s i D   F f o " s e i r o t c a に及んでゐな いため,時に錯誤が見出される。 J (向上書,第 6 4 ‑ 3 6 3 3 ページ[山内訳,第 7 2 4 ペー ジ ) J

こうして史料批判までされては,武藤論文はもはや立つ瀬が無い。同論文 に対する評価はこれによって確立した。以後,武藤長蔵という名は「十三行」

研究史上では行商と商館を混同したもの,また商館研究としてもきわめて不 徹底なものとして残ることになった。

お わ り に

このように, r 十三行」の研究史上において武藤が果たした役割はあまり 大きいとは言えないであろう。とはいえ,武藤の学問研究はきわめて広い領 域に及んでおり, r 十三行」の研究はその lつにすぎない。したがって,武 藤の「十三行」研究の誤謬と不徹底さが指摘されたとしても,それが彼の研 究者としての評価を低めることはない。また,本稿にもそのような意図はな L  。 、

ただ,武藤は松本忠雄や梁嘉彬らによる指摘をどのように受けとめたので あろう。そもそも彼らの研究に目を通したのであろうか。気になるところで ある。もしそれらを読んだなら,自説を訂正しただろうか。あるいは逆に 自説の正しさを強弁したであろうか。いや実際に,後年何らかの場でそのこ とを明らかにしていたかもしれない。しかし残念なことに,私には確認でき なかった。

ところで,武藤文庫が所蔵する問題の「ガラス絵」についてであるが, r 広

東十三行図」という題が果たして適切であろうか。なるほど,広東の商館(夷

館)も「十三行 J と呼ばれることがあった。この意味では,この「広東十三

行図」という題もあながち誤りとはいえないかもしれない*。じかし,その

ような用法は本来の意味から転じて使われたことに基づくし,またこの意味

での「十三行」という語には商館あるいは夷館なとどいうように他に適切な

(13)

武藤長識と「広東十三行」   1 1 1

用語がある。それらの事実を考慮するならば,この「ガラス絵」のそのよう な題はきわめて不適切と言わざるをえない。やはり正しくは「広東の欧米商 館の図」または「広東の夷館の図」などであろう。

*  但し, i 十三行」をそのように解する場合, W i 広東十三行』とは清朝代の外国貿

易を独占していた特許行商人の組織である」という武藤文庫の解説小冊子 ( i 武藤

文庫主要稀書,資料及びその解説J ) の解説文はきわめて不適切であると言わざる

をえな L 。 、

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