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(1)

「自主性」の展開と適用

熊    谷 忠    泰

       ま え が き

 本稿はさきに報告した「教育における自主性の概念」 (本学部教育科学研究報告第14号,昭 42年3月)および「弁証法的思惟による学習指導のモメントの摘出について」(同上鋼5号,

昭43年3月)の続篇をなすものである。すなわち前者は,「自主性」の概念を,それが教育 の場において熱心に論議されればされるほど無規定的に用いられることにかんがみ,まず 二つの視点,つまり戦後の日本思想界の一般的潮流と教育思想の変遷という視点から歴史 的な性格吟味を加え,つぎにいわゆる教育史的な「自発性」の概念と対照しながらその本 質において明らかにしたものであるが,その際,以上のような歴史的根拠ないしは性格賦 与を考慮にいれながらも,特に今日的な立場に立って論理的な性格分析を行なった。

 後者は,論理的には必ずしも本稿の前提となるものではないが,「自主性」の教育実践的 適用を図ろうとする場合,その結論が本稿の「適用」の個所の前に位置するものである。

すなわちそれは,学習指導に際して教師は子どもたちの如何なる「能力,機能,態度」を 指導上のモメントとして志向すればよいのか,そのモメントを弁証法的思惟過程の中から 摘出したものであるが,実際の指導にあたっては,このモメントの摘出だけではまだ不充 分なのであった。というのは,そこでは指導のポイントは明らかではあるが,いまだなお クライテリオンが明確化されていないからである。近時「自主性を培う学習指導」とか

「学習の主体化」などが強調されるにおいては,なおさらのことである。

 かくして本稿は,すでに明らかにした「自主性」の諸要素をさらに内容的に明確に規定 し,ついで子どもたちの行動基準ないしは評価基準にまで具体化し,生活指導および学習 指導の際の一つの目安を定めようとしたものである。

 1. 「自:主性」の展開

 前野で分析された「自主性」の諸要素を簡潔に括めれぽ,つぎのように表示することが できる(詳細は上述の報告割4号30頁以下参照)。

      /蕪難騰1=燃1雛

自主

  (註)最後(右端)の欄の諸要素にそれぞれ②⑮が付されているが,④は,その上位概念の内容を  嘗体的・即自的なものとして分析した性格として導出されたものである。従って指導に際しての実践  的原理としては,「態度」「姿勢」「構え」という静的視点に立って取り扱わるべきものである。⑤  ・は@の性格内容を確保するための要件または保障とも見らるべきものであるから,実際上の指導原理  としては,「行為」「実践」「動作」にかかわる動的原理として処理されるべきである。

(2)

30 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第16号

 上に従って,以下8個の要素の性格を展開していこう。

 (1)積極性   この上位概念は強靱性であるが,それは存在の空間的条件として

(つまり存在の条件としての空間であるということに意味があるのであって,決して実体 的ということではないのであるから,この表現を何かしらの個物=実体が空間にあるとい うようなイメージで考えてはならない),それがあくまで自発性そのもの(即自的自発 性)であるという強靱さを意味する。従って「積極」という性格は,「自発性自体」であ って,それ以外の何物でもないということを強く表明するものである。しかもそれが「態 度」「構え」であるところがら,それは常に自ら求め,自ら実践に移行しようとする態度 であり,構えであるということである。

 (2)決断性    これは上述の積極1生を,それが積極的であるように条件づけ,保障

      

する機能である。そのために必要な要件は,自発的であることとそうでないことの区別を 明瞭につけること,区別された両性格の積極面を維持・促進すると同時に消極面を拒否・

排除すことである。従ってそのためには厳しい決断が必要となるであろう。決断は態度や 構えではその実効をあげることはできない。それは実践であり,行為に示されなくてはな

らない。かくしてそれは,自己(自発的であるという積極性)であることの確認,その性 格の表現としての態度の決定,断乎として実践に移行すること,これらすべてに関わる限 界付け(決断すること)の行為である。

 (3)継続性    上記二個が空間的条件であったのに対して,これは時間的条件であ

      

る。この場合は空間的に比して理解し易いと思う。この上位概念の永続性は,ある性格,

ここでは自発性という性格が,如何なる時の流れにおいても即自的なものであることを要 求するのであるが,とりわけ継続性は「常に自らである」ために自体性を継続して保持し なくてはならないということを現わすものである。この性格はただ自己の本質を継続して 保持することに重点がおかれるのであって,それ以外の付帯的条件は考慮されていない。

ただ永続性という 1つの性格を故意に分析して考察した場合,「態度」と「行為」という 類型化の作業のなかで,そう考えざるを得ないということになるのである。

 (4)努力性    上の自体的性格付けに対して,⑤項であるこの性格は,③項の保障

      

として可成り複雑である。すなわち逸る性格がただそうであるという場合においても,そ のために必要なことは,内的には自壊作用を防禦したり,外的には外圧を排除しなくては ならないだろう。しかもそればかりではない,例えば誘惑のように,外的誘因と内的動機 が密接に結合して強力な自壊を促す場合もある。加うるにそれらの破壊作用は瞬間的にで はなく,常に永続して存在するのである。従って自発的であることをいつまでも永続させ るためには,相当の努力,意志の努力性を必要とする。かくして自らの意志の弱さや不決 断を乗り切る努力,外部からの禁止やそのための圧力に断乎として抗し抜く努力,甘言や 誘惑にまどわされない意志を堅持する努力,さらには対象自体が,事を遂行するに当って 条件的に極めて不利で非常に困難であっても粘り強く立ち向う努力など,可成り幅の広い 重要な活動領域を占めるものである。

 以上は,「自発的である」という存在条件を全うするために必要な性格上の諸要素であ ったが,「自発性」そのものは本来「ある」か「ない」か,つまり存在に関わるものであ るから,それ自体としては没価値的である。そこで∫それを規制し,教育的な人間の「自

(3)

主性」にまで高めるためには,価値概念である「主体性」がそれに交わらなくてはならな い。主体性は価値によってすでに規制された状態である。

 (5)計画性    この上位概急は合理性であるが,それは主体的な存在が認識上の主

   ●   賦  ●

体であることを確認する徴表である。その合理性を実生活で示すものとして計画性が導出 されたのである。むろん合理性と計画性とは外延上そのまま相覆うものではなく,前者は 存在の態度としてもっと広い意味をもつ概念であり,或る場合には倫理的態度をすら包含 することもあるが,しかし具体的な実生活における生活態度として,後者が前者に包摂さ れることを否定する必要はないであろう。そこで,人間が社会において,またその生活に おいて,認識的にとはいわないまでも,論理的なすじみちに従って生きる態度として,計 画的であることはじゅうぶん主張されることである。

 (6)責任性    ひとが自らの主体において合理的に判断し,それに基づいて計画的

      

な生活設計を立てる以上,彼はその計画の樹立において,さらにはその実施及びそれから 生じる結果のすべてに対して自らの責任を引受けなくてはならない。この責任のない計画 は,その計画そのものに主体性を含まないという意味で,他律的であり,それ自身非合理 的である。このような無責任性は,おのつから計画性を否定することとなる。ただしこの 場合は,特別な場合として,つぎの「批判性」と区別し,それが倫理的・実践的自律性に 関わるものであるのに対して,これは論理的,従って計画された事柄の実施または経過に 関する責任ということに限定する。つまり事柄の遂行に関して起った一切の障害を除去し

て,最後まで論理の筋道通りにやり遂げるという意味での責任である。

 (7)自己立法性    この概念はその上位概念であある自律性と混同され易いし,ま

   ●   ●   ●   ●   ●

たそうした異論も出ようと思うが,本意は,自己の格率を樹立することに限定して用いた ものである。従って外延的に自律性より狭い。概念の真実の意味では,自律は格率の定立       

に限定されず,格率から生じる結果を合法則的に批判し,そのすべての倫理的責任を引受 けるという広汎な機能概念なのである。この限りでは両者を区別して使用することは妥当 的であるのだが,一般的には誤解されるおそれがないわけではない。ともあれ自己の行為 の規範を,たとえそれが主観的な格率の次元であるにせよ主体的に,しかもできるだけ倫 理的に定立しょうとする態度は,教育的に必要であり,不可欠なことであろう。

 (8)批判性    これは前述のように,倫理的概念として,自己立法に基づく格率の

   む        

実践の結果を厳しく反省する能力である。従って批判に基づいて反省し,改善すべき点が あれば積極的にそれを是正する行為にまで結びつかなければならない。また社会的主体と しての批判は,単に自己の立法や行為に限定されるだけでなく,さらに他者のそれらに対 する批判でもなくてはならない。ここから全体としての社会をよりょくしていこうとする 主体の姿勢が確立されることになる。同時に他からの批判をも卒直に受け入れ,己れの糧 とする度量も必要であろう。このような柔軟性ある批判性によって,自尽立法性をより強 固にし,より高め,ひいては真の主体性を確立することができるであろう。

 2.「自主性」の適用

 「自主性」の分析は,さらに分析肢の説明を必要として上述のような「展開」となっ た。ついでその「適用」を考えなくてはならないが,それは大きく二分されて,生活指導 への適用と学習指導への適用になる。

(4)

32 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第16号

 A 生活指導への適用

 「自主性」が教育において重視されるようになったのは,本来生活指導の面においてで ある。前稿でも述べたように,戦後教育の反省が,子どもの主体性を強調するようになっ た(それは民主教育のかけ声の下になされた教育の結果に対する一部の人びとの批判にも、

よる)ころ,特別教育活動に関する文部省指導書において「生活指導」が「生徒指導」と

      

書き改められたが,この関連は偶然ではないように思われる。そして同時に,その頃「ガ ウンセリング」の語が広く注目されるようにもなった。こうした背景を考えるにつけて.

も,「自主性」という語の響きは,ともすると個人指導中心の感がしないわけではない。

一ころ「ガイダンス」は個人指導か,事柄指導かといった論議があったが,その論議と今 度の場合(生活指導から生徒指導となり,それに伴ってカウンセリング,自主性という個 人指導的傾向が露わになってきたこと)とは可成りニュアンスの相違があるように思う。

この問題については機会を改めて論じるつもりであるが,とりあえずここでは「自主性」

はまず何よりも生活指導に関わるものとして位置づけることにする。

 さて,「自主性」の生活指導への適用は,学習そのものを除くすべての生活の場におい て生活上の諸問題ととりくむ子どもたちの思考,心情,態度,行動をどう評価するかにあ る。従って鉢活はもちろん,校内・校外の一切の生活領域を含む。そこで,その具体的適 用に当っては,上述の各要素の説明(ないし展開)をもう少し具体化しなくてはならな い。すなわち上述の説明は,各要素を自主的な人間の具備すべき性格として,性格自体の 説明に終ったものであるから,つぎにそれぞれの説明に即して「態度」または「行為」と

してそれらを事例化しなくてはならない。たとえば,

基本性格 常に自ら求め,実行しようとする態度

○人に云われなくとも,自分から進んで勉強や仕事をしょうとするか。

○家や学級できめたことを,卒先してしようとするか。

○何事にもよく気がつき,よいと思われることを進んでしょうとするか。

 (などなど)

 8個の各要素について,すでに説明した基本性格を逸脱しないように,そして相互に重.

複しない限り多くの事例を挙げてそれを一覧表に作る。評価に当っては3段または5段の 評定尺度を作り,個々の子どもについて評価を実施していく。

 その処理の仕方はいろいろあろう。

 以下,筆者の行なった調査の結果を参考として提示したい。

 (1)対象及び実施年月

  長崎市立T中学校(昭和37年6月および10月)

  長崎市立Y中学校(昭和38年7月,11月および昭和39年10月)

 (2)方   法

  両校とも全校生徒を対象とした(生徒数はその都度多少の増減があるので省略する   が,T校1220名程度, Y校1350名程度)。

  イ,生徒自身の自己評価

  ロ,担任教師による学級生徒の個人評価

(5)

 ハ,保護者による被保護者の評価

(3)結果の処理

 イ,各学級において指導上注意すべき生徒だけについては,個人的プロフィールを作   つた。(第1図,第2図参照)

 ロ,各学級および学年については,評定尺度の各段階で集計された数を百分比に直   し,各要素別(さらに男女別,学級および学年全体),全要素の綜合に分けて表示   した。

 ハ,全校の各要素別(男女別,全校),綜合に分けて表示した。

(4)若干の実例

 イ,T三一M君のプロフィール

         (第1図)      (第2図)

       a,昭和37年6月      b,昭和37年10月       判

@  性

・I:・ニ    ノ立  // /      !  ノ法  ・    

/=,   一 一

批 積     極

@ _   性F三:も決    薮\\断       

性 111    1  1  

ll、

一 ll、

L \\\任 \\、    、    、 性  \、      、    計      画

、、1一一

Aこ

@性 性

     ll

ロ,T校一三2学年

        (第1表)

     各要素中,「積極性」の     第2学年平均     生徒評価       一…一一一教師評価          一・一一・一一父兄評価

       批 積     判

@  性@ 自 /二二己 / /一一

瘁^/滋

一鴨、、、

@ 、、   、

ア\

極  性

ll

\\、、1

    三

氏f    継1ノ

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w

ll、  、  \ 、 \\、 \  、、  、、

@ 、    、、   働噛

ォ  \\一    、、     鞠隔、      、 噛 _

@ 計@   画

  ニノ    ,  一 一

ォ  性

 ,

    (第2表)

  同    左

第2学年1組     生徒評価       教師評価       一・一・一父兄評価    なぬ

,要素瓦分率

100

90 80 70 60 50 40 30 20 10

よ い 普 通 わるい

i84^ i

……圃オ6珍〆窟γ 闘…

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     7N l

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       コ       コ

       ユ コ

   60

(6)

34 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第16号

ハ,Y校一全校

        (第3表)

     各要素中,「批判性」の     全校平均,2力年間     39年度       __一一・・38年度

・。・努罫階

た黙ん惚普通辮た聯

   量         1         1         1 エ…一騨一 m 一『一一卜   卜   ÷一一。儘一一一

@  i摂    l  i   4 』 、1    レ    1

B   索        τ

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批判性

35

Q5

P5

T

  (第4表)

 綜合,全校平均 2力年間     39年度       ....38年度

   段階要素分率

た贈力劃普通辮㌣齢

綜合

35

Q5

P5

T

    l    l    l    ;一一      「r        r騨一ρ一哺檜酔一「楠一一一一一一一マー一一一P一曽,

@   1      1      塵      ■

@   ,      1      犀      l

@   l  l  i  l一一…寄一一一一一†…一一一r…一…十一…一一

 ここでは,調査の内容が問題なのではなく,その結果を例示するのが目的であるので,

.上例の程度の処理例にとどめるが,調査の目的によってはなおいろいろな場合が考えられ

よう。

 最後に調査を通して感じた若干を述べておきたい。

 (1)この調査は全く主観的な評価なのであるから,実施前多少の不安がないでもなかっ たが,結果は予想に反して,二校,それも各回とも自己評価,教師評価,保護者評価はほとん

ど軌を同じくする結果が出た。多数の見る所はあまり狂わないものだと考えさせられた。

 (2)全体的にみて,概して教師の評価が一番替かった(結果として)。生徒自身は自巳 に厳しく,保護者はまた自分の子どもへの期待が大きく,そのため反って厳しい評価とな って現われたものであろう。

 (3)ただ,まれに三者の評価が広く分散したところが見られたが,この点は正に教育上 指導の重点としなくてはならないところであろう。

 (4)継続的に,期間をおいて行なった結果は,例外なしに後の調査ほど良くなってい る。評価自体の甘さによるものでないとしたら,考えられることは,評価の視点を子ども や親が理解して,爾後の生活の中でその指導がなされたか,そうでないとしても生活上の ポイントが自覚され,それが自然に指導的効果を現わしたものであろう。この点は実施し た両校の担任教師が異口同音に訴えていたところである。

 :B 学習指導への適用

 「自主性」の学習指導への適用は,厳密に分析すれば,学習指導の過程とその結果(の

       

生活)において子どもたちがどのように,そしてまたどの程度にまで「自主的な態度や行

     

動」を身につけつつあり,またつけ得たかの評価にあるといえる。とすれば,教師の仕事

・は子どもたちが学習の「指導そのもの」の中で自主的であり,また学習の結果において自 主的となるよう計画し,留意するかにある。前者は学習過程の問題であり,後者はその結

:果の問題であるが,事実的には「学習指導」という時,後者の問題は一おう前者に含まれ

      

てしまうし,また一般には前者のみが論じられてもいるので,ここでも論を前者のみに限 ることとする。しかしそう限定した場合においても,評価する教師の側からいえば,過程

(7)

そのものを対象にする場合と学んでいる子どもを問題にする場合の視点の差は依然として

       

残る。生活指導の場合と違って,教材という媒介物が入って教師と子どもとの関係が直線 的ではないことに由るのであるが,論を複雑にしないためと,子どもの活動を直接に問題 にすることは生活指導の評価によって可能であるという点から,いまは専ら学習過程のみ にしぼりたい。そしてそれは前稿の「モメントの摘出について」の線(論述の方向)を生 かすことにもなるからである。そうだとすれぼ,ここでは生活指導の個所で用いた8要素 のチェックリストはそのま瓦の形では用いられないということになる。

 さて,われわれはさきの「モメントの摘出について」の稿において,学習指導の一般的 過程を論理あるいは認識過程の特徴に従って三段階に区分し,そのそれぞれにおいて指導:.

に当って特に留意すべき視点をつぎのように指摘した。すなわち第一の感性的段階におい       

ては,指学的に機能すべき子どもの能力として感性と悟性(それもむしろ知覚的悟性),

       

つぎに学習上の態度としては対象に対する懐疑的な態度,そして総体的な学習機能として

      

は否定的な(矛盾を放置せずに積極的に追求する)機能を,第二の理性的段階において       

は,それぞれ認識的悟性と理性,思考的な態度,分析と綜合および言語機能を,さらに 第三の実践的段階では行動力,改造的あるいは創造的な態度,確認と習熟および応用の機1

    の

能を挙げた。以上の二段階で挙示したそれぞれの能力,態度,機能は,改めてくり返すま でもなく各段階のもつ論理と認識過程の本質から導き出されたものである。そこで指導上.

の視点がそのような論拠から出たものであるならば,同様に「適用」の視点もまた同一の 地平から導き出されなくてはならないであろう。

 前山で述べたように,感性二段階は認識過程としては知覚と知性によって対象を認知、

      

し,つぎに思考によってさきの認知による弁証法上の「規定」を即自的なものと他者とに

「区別」し,そうすることによって事物を法則的に把握する段階であった。しかし論理過 程の面からすれば,ここでの現象一物の本質一法則性という過程はまさにく否定〉作用に

よって媒介され,展開されるものである。そこでこの段階での指導の目安(前稿参照)は 対象や事実に潜む「矛盾を露呈させること」におかれたのである。それはまた「問題の所 在・性格を明らかにすること」といX直してもよいであろう。

 「矛盾を露呈させ,問題の所在・性格を明確化すること」は,矛盾の「存在」を確認し その意義を把握することである。とすればそれはさらに矛盾を「時・空」の中でとらえる ことでもある。そこでそのような機能を果す能力を「自主性」の8個の要素の中に求め れば,その主導的なものとして①一a・積極性(空間自体)と③一a・継続性(時間自 体)を,そしてそれへの保障機能を果すものとして②一b・決断性と④一b・努力性を見 出すことができる。主導的なさきの2要素は, 「自発i生」全体における特徴的な「行動 的」性格を分有しているという点で弁証法上のく否定〉の機能を果しながらも,自体的に はaという静的概念 (ここでいう静的の意味は,概念の性格がそれ自体静の状態であるということ ではなく,上位概念の内容を静の状態で,つまり自体的に示すということである。換言すれば内容的 に顛似だということを示すものである。一望稿参照)として「矛盾」それ自体を即自的に探求

し,深化する機能を充足させるものである◎しかもこれらがそれぞれ空間自体,時間自体・

の性格を充たすものとして「自発性自体であること」を空・時(=存在規定)両面から規

      つ    

定するものであることは,いまだ厳密なカテゴリー操作(それが行なわれるのは理性的段 階において環ある)が加わらないいわば透明な「感性」 (的段階)であることを表明する

(8)

36 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第16号

ものとして,まさに感性的段階にふさわしいものでもある。また爾余の保障的,換言すれ ば副次的な他の2要素については,それらが対象とする主導的なものの位置付けに随って 必然的に配置が決定されることになろう。

 つぎに理性的段階は,知覚と印象の反覆によって認識の過程にく飛躍=転化〉が生じ,

ついに概念=法則が発生する段階であるが,この際特に指導的な能力としては専ら悟性と 理性が挙げられたように, これら高次の認識能力によって判断・理解・推理,分析・綜 合,定義(内包・外延の両面からの概念規定)作用などを介して事物の本質,現象の諸規 定間の本質的関係としての法則,本質と現象の統一としての現実性,本質の本質でありま た存在と本質の統一としての概念,そして最後に現実性と概念との関係である真実の認識 が得られるのである。これら一連の概念の関連は認識の抽象から具体への事実的な高まり を示すものであるが;この関連は論理過程として「矛盾」,すなわち「規定」一「区別」

一「統一」の過程を常にく否定〉する作用とそれから生じるく転化〉の不断の反覆によっ てのみ成立するので,さきに指導の目安としてどこまでも「矛盾を解決しようとするこ と=探求の連続」と規定したのである。

 しかし「連続的な矛盾の探求」はもはや単に論理の領域だけには止まらない。ヘーゲル が「理性の諸規定はわれわれの思想である」 (「ヘーゲル哲学入門」武市健人訳,岩波:文 庫,P,150)というように,理性という高次認識能力によって得られた内容=思想は,単 に主観的なものでなくして客観的実在性をもち,また単に所与でなくしてわれわれの自我 によって生産されたものである。この限り認識の体系でもある思想は,認識であると同時 に単なる認識ではなく,むしろそれを超えてすでに人倫の領域に入り込んだもの,という

よりむしろ人倫を包含するものである。         、

 従って評価に関してこの段階に位置付けされる「自主性」の要素を探るとき,⑤一a・

計画性と⑦一a・自己立法性を主導的なものとし,⑥一b・責任性と⑧一b・批判性を副 次的・保障的なものとして発見する。主導的な前二者は,自己の所属する最高類概念であ

る「主体性」の根拠としての「社会的」性格をaという静的概念の性格規定の上で即自的 に満足させるものであるから,その点において必然的に「価値」を分有するものとして,

換言すれば価値的性格において,一つは認識の主体として,他は実践の主体として「規 範」の生産または実現に関わり,従ってそれが論理過程の側面からは「連続的な矛盾の探 求」 (=〈否定〉の反覆)という機能を果すことに結びつくものである。それゆえにこの 二者は,副次的にこれらのものを保障する他の二者とともに,まさしく理性的段階に配置 されるにふさわしいものである。

 最後に実践的段階は,論理過程に関してはすでに述べた前二段階のさらに高次の展開と

       

して改めてふれるべきものはないが,特徴的な点は認識の過程である。それはまさに「実 践」の段階であって,概念,法則および認識の諸成果を現実に,つまり自然と歴史の世界

に綜合的に適用し,論理的には理念と実践との統一を図り,実践的には技術において諸成 果を検証しながら,かくしてさらに成果の発展を期しつつ現実をより豊かに稔りあるもの へと改造していく段階である。以上の点からさきに指導の目安としては「法則の検証」が 掲げられていたのであるが,実際的には単に検証に止まらず,子ども一人ひとりに理論や 思想の「改造」から生活や歴史の「創造」へと立ち向う態度や行動力を身につけさせるべ

く指導されなくてはならないのである。

 そこでこの段階には,評価の視点として②一b・決断性,④一b・努力性,⑥一b・責

(9)

任性および⑧一b・批判性を配置する。いうまでもなくこれらの諸要素はすべてbの動的 概念としての性格を有するものであるからである。むろんこの静・動の概念区分は,すで に前哨で述べたように,当該概念自体が静・動のいずれかの事実上の性格を有することに よってなされたものではないが,少くとも動的概念(b)はaの保障機能を果すものとし てaの背後(または措定の根拠)からa概念を補なうものであるから,静的概念(自体規 定性格)とは異ってそれ自体動的性格を有しなければならないものである。それで,この 段階には静的概念の保障機能を果すものではあるが,性格上それ自体が動的であるこれら

.諸概念を充て瓦,じゅうぶんである。

 以上で,学習指導を行なうに当って指導過程をどのように構成するか,換言すれば学習 過程の中でどの点に留意しながら指導するか,従って結果的には授業評価の視点を,論理 あるいは認識事実の分析に立つ「自主性」という側面から理論的に導出された諸要素を配 置することによって,明らかにした。しかし抽象的なこれらの「自主性」の構成要素は実 際指導に際して,さらに具体化されなくてはならないであろう。ただ注意すべき点は,評 価の視点を学習過程,それも特に教師が学習指導を行なうにあたって子どもたちに「自主 的」に学習させるためにはどうすればよいかに絞ったので,前例に挙げた生活指導の場合

とは観点が逆になるということである。

 感性的段階に適用された諸要素の展開。

 この段階において教師のなすべき重要な指導は,導入,問題(子どもにとってはまだ問 題といわれるほど明確な構造をとってはいないが)の提示,問題解決への仮説の設定であ る。従ってこれらの作業とさきに配置した諸要素(積極性,継続性,決断性,努力性)が どのように交錯するか,その接点の情況を明らかにするのがこの段階での作業である。

 (以下,理性的段階,実践的段階における問題のとり上げ方もこれと同様であるので,以下ではこの  叙述を省略する。)

(要 素)

①積極性ミ\\

         /1導          /         /

③継続性 !!

       !1

      / !つ髄翫ミト遍問題の所悩求を続けさせる

②決断性〜フ、/      \④追求に当っての諸[礁緋除する

      塾_恐く難聴〕1盤繋1

①努力性ζ//

         (展 開)

      1積極性(自発性)を喚起する導入     /②導入への決断(気持を整理させるなど)

入舗)既習慨知)事項との連関

   \\一(iD既習事項想起のための努力を促す        積極的に矛盾を発見させる(情況観察)∠濃の榔なるものの区別をつけさせる

、\\i1)設定にいたるまでの継続的努力を促す  \\   ④同 上

(註)1.要素の頭に付した番号と展開の部分の番号は照応するものである。

  2.実線は主導的な要素の,点線は前者を保障する要素の関係を示すものである。

(10)

38 長崎大学教育学部教育科学研究報告 第16号

 理性的段階と実践的段階に適用された諸要素の展開。

 理性的段階と実践的段階は,それぞれ矛盾の解決(問題の解決)と法則の検証・応用・

実践への適用を目指すものであり,教科によってその実態はいろいろと万別であるが,こ こでもし模式的な型を示すとすれば,前者においては「問題の本質探究」と「法則化・概 念化」を,後者にあっては「検証」と「確認・習熟・応用・適用」を挙げることができ

る。

 そこでそれぞれの段階に配置された諸要素を前例に従って展開すれば,目指す指導の視 点を見出すことができるであろう。

 学習過程を対象として「自主性」を適用してきた上述の説明は,視点を逆にすれば(「自 主性」の構成要素の内容を具体化するとき能動態とすれば)学習に際しての子どもたちの

「自主的なあるべき姿」を想定することができよう。それは生活指導の場合の評価とは違 った新しい視点を教師に与えてくれる。

 またその視点は何れにせよ,われわれに授業評価の一つの基準を与えることにもなろ        

う。その用い方はいろいろあろうが,要は内容分析または具体化に当って論理を逸脱しな いよう厳密に作業を行なうことが肝要である。

 あとがき

 「自主性」と一口に人びとがいうとき,その意味はそれを口にする人の個人的な主観に よってさまざまである。世間にはこのような曖昧なことばが無数にある。教育に関してす ら「愛国」 「国を守る」 「民族」 「平和」 「正常化」 「自治」 「自由」など,挙げれば無 限である。しかもそれが全く独善的な使用に一任されたり,時にことばの彩として用いら れたり,我田引水的に使用されるところに暖昧さを通りこして危険をすら感じる。大衆は そのことばの響きに魅せられて一片の批判心すらなく海辺の潮足の去来するようにときに つき,ときに離れる。

 しかしことばは生きた内容をもつとともに生活に正しく適用される論理をもつものでな くては,真に大衆を説得することはできない。その意味でことばは論理と倫理に耐えるも のでなくてはならない。以上は,それほどの抱負をもつたものではないが,少くともそれ を目指し, 「自主性」の内容を吟味し生活現実への論理を教育的に見出そうとしたささや かな一つの試みである。

参照

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