一 は じ め に
漁業における資本主義の発達は各地域に応じて異なった影響を及ぼすことはいうまでもないことである︒沿岸か
ら沖合へ︑沖合から遠洋へと漁業が発展するにつれて︑仙方では大漁港が形成されるが他方でほその発展が押しと ︑〆
どめられた漁村が広汎に残存する︒しかもひとくちに漁村といってもそれぞれの漁村がそれぞれに異なった様相を
持っている︒漁場の条件とその所有の性格ヽ漁業技術︑市場への距離︑近瀕地域の漁業などの諸条件によって︑自村
内部における生産力の上昇と漁民屑の分解による沖合漁業へ進出のみられる漁村もあれほ︑他地域からの資本制漁
業の浸入により労働力の供給地と化してしまった漁村もある︒また何時までも停滞しておりさらに衰退の傾向のあ
︵1︶ るいわば忘れられているような漁村も数多くある︒筆者は前回に沖合漁業の形成されている漁村の例を報告したが
今回ほ停滞漁村の実態を報告する︒この種の漁村ほ全国に分布しているがここでほ鳥取県での調査例である︒調査
ほ仙九五六年九月に行ったものである︒
㈲ 拙稿 機船底曳網漁業と沿岸漁業 香川大学経済論叢第三十二巻第一号 第三十二巷 第三・四・五号
漁 村 の 停 滞
ー鳥取県青谷町夏泊・長和瀬の場合−
山 名 ︵三七二︶一三一山
伸
卸習胸算軌相補−浮かhU泣↓粕困画風瑚
漁 村 の 停 滞 二 鳥取県の漁業
調査漁村の実態を述べる前にまず鳥取県漁業の概観をしておこう︒
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第1衣 鴇取県漁猥高
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昭和29年鳥取県農林水産統計年報より  ̄と 以F年報.略す
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第2衣1954年主要漁業別漁獲高 単イ立1,000買
・︑.∴∵
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総数 1き機船
1そうまきあぐ
り巾着網
2そうまきあぐ
り巾着禍 いわし流刺網
いか山本釣
22,553.9 ユ,000
101 377 393
︵三七三︶ 三エ
2,280.5 8,507.4
8,858、6
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年報より
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曳網以外でのおもな漁業になると︑第二︑三︑五の各表からみてい
か仙本約︑いわし流刺網︑いわし地曳網である︒規模別漁粉体の表
でも示されているように︑巾着網︑底曳鰯以外にほたいした漁業ほ
ないといってよい︒漁船を使用しない漁撰体が三割以上もあり︑漁
船漁業でも二〇統の指定中型旋胸︵巾着胸︶︑八九統の中型底曳絢
以外にほ︑動力船といってせいぜい一〇トンぐらいまでを使用して
いるにすぎない︒
第七表で地域別に漁獲高をみると︑県漁狩高の八割近くが描二港 第4表
1954年主要漁獲高単イ立1,000貫 第三十二巻 第三・四・五号
くを占めていることにも現われ
ている︒主力である巾着網︑底 ︵三七四︶ 山三四
第仙表によれば︑鳥取県の漁獲高は一九五四年度にはかなり多く︑中国各県
のうちでほ山口県に次ぎ全国的にも上位の方である︒しかし同じ表で累年別に
みれば︑大体二五〇万貰1三〇〇万貰前後を上下していたのが四八年頃から急
角度に上昇してきているのである︒そこで第二表をみると︒漁業種類別でほあ
ぐり巾着鰯によるのが最も多く︑二位の機船底曳網のを合あせると総漁獲高の
︵1︶ 九割近くを占めている︒さらに第三表により︑急激に漁準偽を増加しているの
はあぐり巾着網漁巣であり︑機船底曳網漁業の方ほ年により変動はあるが大体
帆走しているといえる︒このことほ第四表の魚種別でほさば類が全体の五割近
第5衣 許可漁柴許可件数
種 類 t件数】種
− ∴ ・・・ ハ
関 67 鋸 5 89 20 20 1 川 19 娼
1 1 1 2
才7 中 ﹇ 持た と と 狩
刺綱 〝 なまこ桁綱〝
垂 網 〝 曳 網 〝
型機船底曳綱〝
さば流網 〝 捧 受 禍 し き 網 小型建眉網 げんしき禍 手 繰 網
こうがい綱
中型旋璃
〃 〃 〃 〃 〃 〃 ら 綱 つ湘 旋か旋 型曳 お 中也う 薙 い び
2 〃 如隅り 〃
ぴうお経刺網
盲;t
㌣
要覧より
滞6表1954年規模別実漁粉体数
漁 船 淋 業 漁船油
菜総数
有 動 力 船 無動力船
5」.詔10〜甜2。〜もJt5。〜㌧品
2,65511,512l960 65【 59 531 6
年報より
第7乗 組 合 別 漁 獲 高
︵三七五︶ 劇三五
第三十二巻 第三・四・五号 ︵三七六︶ 劇三六
に水揚されていて︑他にほ鳥取市の北にある賀霹︑県中央部の泊︑東部の網代︑田後を除く大部分の漁村ほ︑何れ
もきわめて少量の水揚でしかない︒細合貞一人当の漁獲高をその地の漁業発達程度の叫応の尺度としてみれほ︑境
ほ別格として︑仙︑000貰をこえているのはわずかに賀露︑網代しかない︒このとからも鳥取県では二︑三の漁
港のはかほ何れも零細な沿岸漁村であることがわかる︒
近年急激に発展してきたあぐり巾着網漁業ほ境港を根拠地にしている︒山九四九年頃下関方面から巾着網漁船が
きたことから潜まったこの漁業ほ︑五二年に秋さばがとれだし︑魚群探知器の普及とあいまって五三年から周年操
業するようになった︒漁場は隠岐島東南部︑帝谷町沖合︑東部の網代沖が主要漁場であるが︑三月−五月は比較的広
範囲に沿岸で操業するので沿岸漁村の受ける打撃ほ大きい︒鳥取県吼巾着綱ほ五四年以来二〇統︑それに春と秋の
盛漁期には山口︑福岡︑佐賀︑長崎の各県から一七統が入漁してくる︒鳥取県の二〇統のうち︑和船巾着からの転
換が六統︑他漁業からの進出が八統︑六統ほ県外資本である︒平均−・ソ数五四トン︑乗智貝総数∴四〇〇人小≠
鳥取県人は二一山人しかいないぺ 山番多いのほ長崎県の九四四人である︒したがって墟の巾着網漁業の急激な発展
ほ県漁業の発展ではなく︑逆に︑いわし︑さば︑にかなり頼っていた沿岸小漁民はいかんとも対抗の手段がなく︑
やむなくいか一本釣に追いこまれざるをえなくなっている︒一方︑機船底曳網漁業ほ大正中期より始まり戦前すで
にかなり発達していたが︑五二年の九三隻︑平均トン数二三トンをピークにして︑五五年には平均トン数ほ二四ト
ンになったが隻数は七八隻とやや減少している︒これは戦後の乱獲と李ラインによる対島北方での操業が困難にな
ったためである︒底引網のあるのほ東︑田後︑網代︑大岩︑賀露︑赤崎である︒
ところでわれわれの問題である沿岸漁村の生産力の低さほ何によるのであろうか︒一応の理由の仙つとして自然
条件があげられるだろう︒海岸線の長さほ約仙七三粁であるが︑県の西端に突出している弓ヶ浜を除けほ︑海岸線
ほはば東西に走っていて砂丘地帯が多い︒砂丘地帯ほ地曳網とか小さな漁船の段階ではさはど不利でもなかろう
が︑漁港形成にほ著しく不利である︒しかも日本海岸として冬斯の季節風が強く︑飛砂と漂砂によって水域が埋没
するために港の機能が阻害される︒それに小型船でほ冬期の出漁は困難である︒また他の各件として市場条件に恵
まれていないこともあげられる︒こうしたもともと不利な条件のうえに︑這の段階で他地域に形成された沖合漁
発との競争によりその発展はますます困難になりまた衰退せしめられていく︒かくして沿岸零細漁村ほ内部に階層
差を持ちながら全体として停滞しているのである︒
棚 年報と要覧とでほ漁警何の数字に大きな差がある︒このはかの資料間にも数字の食い遵いがあることをお断 れしておきたい︒
三 青谷町夏泊︑長和瀬の漁業
ゎれわれは以上のような沿岸零細漁村の実態を明らかにするために青谷町の夏泊︑長和瀬のニケ所をとりあげて ︵1︶ 調査した︒
青谷町ほ鳥取から西に向って山陰線で約叫時間のところにある︒山九五三年に南部の諸村と合併し南北に長い町
になっている︒第表ほその義分で︑図中斜線部分ほ標高四〇米以上の部分である︒山地が南から北.へ伸びて海
岸に迫り︑青谷町東部の長尾ノ昇ほ日本海へ突出している︒町の主要部ほ駅から北の川沿いと道路沿いの海岸低地
にある︒集落ほ南への二本の谷にそって分布しており青谷町ほ全体として農業が主である︒漁業集落は夏泊と長和
瀕で︑前者ほ半島の西部の窪地にあり後者ほ海岸の小さな低地にある︒
同じ漁業集落であっても︑夏泊と長和瀬でほかなり異った内容を持っているので別々にみてゆくことにする︒第
七八表から夏泊の方が長和瀬より漁業的であるといえるので夏泊からその実態を述べていきたい◇ 漁 村 の 停 滞
、
︵一二七七︶一三七
第三十二巻 第一÷四・五号 ︵三七八︶ 二二八
夏泊の漁業 寛治はその立地からして古くからの
漁業集落であることがわかる︒仙九三六年に完成し
た断崖上を通る道をへて夏泊につくと︑小さな家が
密集していていかにも漁村である︒港は集落を抜け
て降りたところにあり︑三方が倉石に囲まれていて
西だけが空いているまことに小さな湾である︒しか
し無動力船しかなかった段階でほたしかに天如の良
港であったろう︒昔ほ讃谷の船ほ東風の時にはみな
夏泊に避難したということである︒この夏泊の起源
ほ伝承によれは︑朝鮮征伐の後︑肥前から青谷の東
南にある鹿野に移封された亀井民がその時つれてき
た船頭に与えた滝のといわれている︒このように厨
泊ほ古い起源を持つ純漁村であり︑土地の人はまた
能登の戸倉島
ている︒
第九表は夏泊の世帯別調査表を整理したものであ
るが︑漁家が全世帯の九割も占めていて純薄利であ
ることを示している︒二戸当家族数は六人︑漁家だ
1954年漁業別着業統数、航海数、漁狸量
谷 町
油 村 の 停 \滞
総 数 伝屈
二義 長 和 瀬 晃 泊 着発統 数 轡 業 海 航 数 ︐ 獲 遠
晦軌漁獲畠
拉 漁 猟 海 航
一
.
鮎7莞
1
8≡ 469
統 88
4
7
1
13 27 25 15
3
2
40
9
総 数 その他のまき細 いわし流刺綱 その他の刺網 その他のさば釣 いか一束釣 その他の釣 その他の延縄 地 び き 網 採 貝 採 藻
その他の漁業 l;二・:
【 年報より
滞9表 覚 泊 諸 統 ′ 計 1956
けをとると︑二二人褒族二戸︑二人家族
四戸︑八人家族四戸︑七人家族二戸あり家
族数はかな巧多い︒漁家ほ何れも多少とも
農業をやっているが極めて零抑なものであ
る︒夏泊が貧困なことほ出稼ぎ︑行商の多
いことにあらわれている︒漁家だけでほ出
稼ぎ三二戸︑五四人︑行商ほ二七戸︑三四
人いる︒特殊なのは海女のいることで県内
ではここだけである︒海女が山家に三人も
いる家が戸︑二人が七戸︑一人が三〇戸
ある︒
漁獲高ほ第山○表のように五万貫から六
万賃ぐらいを上下しており︑金額にして七
〇〇万円から八〇〇万円までである︒根種
別でほ多いのほいか︑ふぐ︑いわし︑であ
るが何れも値の安い魚種である︒年次別に
比較するとさばの減っているのが目立って
いる︒これは前述のように巾着網漁業の進
︵三七九︶一三九
出によって沖合で漁獲されてしまうからである︒代りに増えているのがいか︑
からであり追いつめられた零細漁村の苦しみのあらわれである︒月別にも魚種︑漁獲高ともに差異があり四月−九 ふ.ぐである︒これらほ容易にとれる
月が盛漁期であり︑それに仙二月にいかがとれている︒何れにしても多様な魚種を季節に応じて漁獲しているのが
沿岸零細漁村の共通の姿である︒
夏泊での主要漁業を順序に述べると︑第一にしいら漬漁業をあげなければならない︒これほ探さ七〇尋ぐらいの
ところに∴尺まわりぐらいの青竹を一五本しぼって浮べ︑その上に目じるしの木をたてておき流されないように血
00尋のロープをつけた石俵を海中に沈めて固定しておく︒そしてこの竹の周囲に近よってくるしいらを旋網で
とる蘭業である︒しいら漬は鳥取県では七︑八ケ所にだけ権利のある古くからの漁業であるが︑夏泊でほ四〇年は
ど前に岩見の技術を真似てそれまで釣でとっていたのが綱を使うようになり漁獲高が増大してきた︒漁場は海岸か
ら一〇里のところが山番近い︒そのため動力船のなかった頃ほ二億で組をつくり︑貸ほ沖で泊りその船が帰って
くるのな他の船が途中で受けつぐという方法をとっていた︒それでも夏は魚をよく腐らせたそうである︒漁期は五月
中旬から十月中旬までで下旬になると時化のため粍が切れて竹が流されてしまう︒Lの漁業の必要経費は材料費︑
抽代で約仙三万円︑網代が年に二︑000円︑永代が一日三〇〇円である︒しいら墳漁業は無動力時代にほ二三蟹
あったのが戦後ほ五隻になり現在ほ三隻に減っている︒この三笠が船も大きく夏泊漁家の最上層であり何れも経営
状態ほよい︒しいら演ほ離合が権利を持つ指定定置漁業権でくじで個人に漁場をぁりあてている︒
山月から三月は大体休漁期間で︑三月1五月はさほ副本約といわし流刺綱の漁期であるが動力船の仕事である︒
転勤力船ほ今でほさば漁ほ不可能になったので四月︑五月に沖合山粁まででのところでほまち︑まるどの山本釣に
従事する︒五月下旬から八月にかけてのしろいかの山本釣もおもに無動力船の仕事である︒四月下旬から五月上旬
には動力船のうち一トン未満の約二〇隻がふぐ延縄をやる︒五月下旬−七月中のとびうお ︵あご︶漁業は比較的大
きい七隻が操業する︒このうち旋網を使う二隻ほこれが終ってからしいら演にかかる︒他の五隻ほ流綱を使ってい
︵三八こ一四一 湊 利 の 停 滞
第11表 動力船所有者個人別水揚高
×シイラ
い・ン数麿力数鵜要芭叢動力弥女㌔行商 l
 ̄】■
滝㌃「蒜諒完言右 畑
摘 バコ
− − − −
番・写 上水揚金矧水揚金額 船1タ ∴=
11230,844】217,838jll1
2‡118,552l147,990≒0.985 4 4 4 8 9 4 8
ーら
0
1 9 ・3
00
3 ∃149,128 4】112,190
○×
× 6の子供
×
0 0 0 現在ほ6の乗 組
○ 弧6売却
0
31、6廃止 梨裁培
○647,524
1 0
0 1 2 ∩ふ
9ト191,510
3 1 5 7 3 ⊥ 1▲ 1 0 0
︑ 苛笥d﹁司 5 1 3 1 1エ l
0 0 0
262,508 324,020 153,898r140,093
2讐,009∈
78,8叫
318,355 141,787
l 1 2 2
49,964 260,519 44,967
281,133 68,308
24,288 202,794 40,578 247,579 43,007
00 中 病 し な 船
7 5 4 PJll心b .﹁⁚ ⁚∴ 2 8 9 1 3 1 2 0 ハU O O 1
三‡……き
4 2 5 1
302,393 303,860
95,045 245,174 80,590
256,834 196,016
228,869 295,065 294,065 105,389 260,007 84,672 201,615 177,879 54,063 262,533
相 乗 31.1売却相乗
O 相乗出稼ぎ○ Cl
;、……l≡喜
二血j_】Ⅵ■▼、__一.邦12未 無動力船所有者個人別水揚高
漁 桐 の 停 滞 稼 出 商 ∴︑ 一 晦
婁 1955年195娼ト
32,641 12,694
16,588 23,449 11,641 10,807
23,030 13,946 38,167 41,697
25,971 __.弓 一 ̄
青谷へ転出
33,2叫 64,325 ○ 3 1山 0 2 2 5 7 8 5 8 2 9 2
8】14,25423,963
O 40
0.42 070 030
9 L 33.316 43,051 26,095 35,955
O 1 2
1 1 1
55,724∩42
7 8 7
3 5 3
720 72,466
4,520 58,402
0 0 0
20,010 46,059 21,068 32,541
/
;喜;≡…;【2。ぷ2
−、 ; ̄ 一二l ̄
1 2
0 0
8,;≡≡l。
老 人255と
1 2 3 4 5 2 2 2 2 2 7 3 6,340
3,419 541 4,041
国力船35に相乗
︵三八三︶ 四三
力船27に.相乗
青谷へ転出
商 人
動力船27に相乗
転 担
相乗 動力船35に.相乗
2人共同のカレイ 延縄
ニー 丁∴、
第三十二遊 軍三・四・五号 ︵三八四︶ 凹四
る︒梅雨頃にほまいかがとれ︑八月になると動力船ほあじをとる︒九月⁝一〇月中旬の秋いかほ背からとっていた
︑ が数年前から血二月まで寒いかも動力船でとれるようになった︒無動力船ほ山○月−山一月にほまちの仙本釣を
する︒
第一一表︑第一二義は個人別水損高に所有船の大きさ︑馬力数と︑別に調査した世帯別資料を組合せたものであ
るが︑完全な表にすることはで︑きなかった︒この表よりすれば︑一九五六年に操業している漁船ほ動力船が三一隻
あり︑そのうち二トン台は二貸しかなく︑∵1二トン未満が一八壁︑八隻は劃トンにも達しない︒一二人は船を持っ
ているが大きさが分らない︒無動力船だけで操美しているのが一九隻︑二人共同が一隻︑大きさ不明なのが五隻あ
る︒船を持っていないのが八人︑他人の船に乗っているのが九人である︒この漁船規模によても夏泊がいかに貧
弱な漁村であり内部分解も進んでいないことがわかる︒個人別水揚高を分類すると叫九五五年の場合︑動力船所有
者でも最高六五万円︑他にほ六〇万円台仙人︑五〇万円合一人︑四〇万円台山人︑三〇万円台山人︑二〇万円台仙
三人︑脚○万円台九人︑一〇万円以下が五人いる︒無動力船になると五万円をこすものが仙人といないといった状
態で︑動力船の水場高が全体の九割を占めている︒
第山三表ほ主要漁業従事者を第二︑山二表の番号で示したものである︒この表のなかの三三番と無動力船の二
人以外ほ何れも二〇万円以上の水揚があり︑とくにしいら演︑いわし流胸をやっているのが最上位を占めている︒
夏泊でともかく漁業によって生活可能なのはこれらの人たちだけであろう◇一〇万円以下の水顔でほ兼業なしにほ
とても生活できない筈である︒漁船漁業以外のものとしてはまず海女がある︒海女は六月一日から九月中旬まで部
落から北の岩場で︑かき︑いがい︑わかめ︑てんぐさをとる︒水揚高ほ最高で年四万円︑最低ほ叫万円ぐらいであ
る︒
月ほとびうお旋禍にかかりこのときは相乗二人を頼む︒それが終るせ叫月までしいら洩︑一〇月下旬−山二月には
一ケ月に一回か二回寒いかをとる︒畑は三反あまり﹂反を煙草︑あとは麦︑甘藷を作りほかに豚二頭を飼ってい
る︒山林一反ほ立木を売却して果樹園にする予定でいる︒娘二人ほ鐘紡と東洋レーヨンに行っているが家への送金
漁 村 の 停 滞 夏泊には水田がなくわずかの畑が重要な生活手段である︒昔は甘藷を作っていた が昭和に入って一〇年代まではたいていの家が養蚕に精出した︒戦後は養蚕は駄目 になったが新しく登場したのが煙草作である︒一九五四年に三戸︑五五年に一七戸 五六年には三〇戸以上が約三町ぐらい栽培している︒果樹ほまだ二戸しかなく︑隊 七頭︑めん羊二頭では問題にならない︒夏泊では海女ほもちろん︑畑仕事ほ女がす る︒女は実によく働き︑魚を持って青谷町の農村部へ行商にも出て行く︒このよう にしてもなお盆活は困難で︑出稼ぎが多い︒女子は大津︑姫路などの紡績関係が多 く︑男ほ林道工事や港湾工事の土方に出て行く︒漁業出稼ぎとしてほ冬の問賀窟の 底曳に行くのが︑五五年に照劃○人あったが五六年にほ二人に減っている︒
ここで漁業者の個別例をみてみると︑現在の組合長ほ質二 二表の六番漁家でもう
三〇年以上もしいら演漁業をやっている︒家族は七人であるが漁業にはすでに分家
している次男を含めた四人と息子と本人が従事している︒現在家へ帰っている長女
は織物工場へ行っていた︒畑は三反持っていて妻と長男の嫁が仕事をする︒煙草は
五五年から⊥反栽培している︒同じくしいら漬を四ひ年前からやっている五番漁
家ほ︑やほり四人の息子とともに三月−五月ほいわし流網とさばの﹁本約︑六月−七
︵三八五︶一四五 \
︵三八六︶一四六 第三十二巻 罪三・四・五号
ほしていない︒家族数は山一人と多い方である︒・水場高で前二者に次ぐ∵五番漁家ほ家族数山一人︑漁業ほ本人と
長男︑二男でやっている︒いわし流刺網のときほ二人相乗りを頼むが毎年決っている人はいない︒動力船は前二者
ほ戦前から所有しているがこの漁家ほ戦後の四七年に持った︒現在の船ほその後の五三年に二〇万円でとりかえた
ものである︒蝿は二反あり五六年から煙草を一反始め︑前年に梨を植付けている︒妾は行商︑嫁は海女をする︒次
女は彦根の近江絹糸︑三女ほ倉吉で女中︑三男が京都で働いているが何れも家へは送金していない︒以上の三者ほ
夏泊漁家の上層である︒上層でもこの程度である︒下層の例として常山二表の三山番漁家があげられる︒一九〇六
年生れの本人は現在病気で仕事ができない︒この人ほ一七才のとき北海道利尻のにしん建網へ行ったが翌年帰って
きた︒二六才で分家し四五才まで本家の船に粛っていた︒現在ほ長男が代りに乗っている︒長男ほ五五年の冬賀露
の底曳に行き五万円稼いできた︒五六年把はその仕事はなかった︒妻は本人が病気になってから行商を始めた︒
行商ほ冬の間︑賀露や香住の魚を青谷で買って妻の望の方の農家へ売りに行く︒夏ほ魚が腐るので危倹で手がだせ
ない︒行商しても仙日のもうけほ八〇円−血三〇円はどでしかない︒五五年に中学を卒業した娘は兵庫県西脇の
織物工場に行っており︑今までに家へ五︑000円送金してき鷲はかに学校へ行っている子供が二人ある︒こ
の家では家計簿をきちんとつけていて︑支出をみると山九五〇年に五・五万円︑有二年ほ六・八万円︑五二年八︒
五万円︑五三年九・八万円︑五四年一〇・二万閂︑五五年一〇︒三万円である︒自給部分のはとんどない漁家の場
合の五人家族の生活費としては極度に低いものである︒毎日の支出内容をみてみても副食費ほ豆腐ぐらいのもので
ある︒
これまで現状を述べてきたが︑次に歴史的経過を聞取と青谷町のK氏の随想録とから辿ってみよう︒叫八七二年
取夏泊の戸数は六二戸あり現在とさはど逢っていない︒この頃計では冬二升あれば畠ほいらないといわれ仙応漁業
で生活できていたといわれている︒当時までは青谷は港町で数軒の廻船問屋がいて二〇数壁の千石船があったとい
う︒夏泊にも二隻の帆船を持つ廻船問屋があった︒これらの帆船の船頭にほ夏泊の人もおり北海道へもよく往来し
ていた︒このような関係から明治時代には夏泊から北海道へ移住した人もかなりあり︑前述のように北海道への出
嫁ざの経験がある人が現存している︒また明治未年にほ五人乗りの船で朝鮮へたい釣に出漁した人もでている︒この
頃しいら損ほ一三貸あった︒以上のことほ明治時代にある程度の漁民層分解が進んだことを示している︒明治末−
大正初期にほ漁業従事者ほ大体山00人︑年漁獲高三万円から四万円であった︒この頃すでに夏泊では漁業だけで
ほ生活できないのが大部分であったという︒ここで問題になるのは営業問屋制度である︒これは漁業者が四年を山
期として問屋に契約し︑問屋ほその間漁狸物の販売を独占する︒また問屋ほ漁業者に米︑味噌の仕込をし月末毎に
仕切をするという制掟である︒この制度が何時からできていたかは不明だが︑大正の初めに青谷で哲油菜︑質屋業
を営んでいる前述の鱒氏が新しく加わり︑それまで夏泊全漁家の問屋をしていた夏泊のN氏と対抗し︑倒産させて
巽泊の漁家か二手ににぎった︒大正時代はずっとK氏叫人の独占であった︒K氏ほ口銭として販売高の血割をとり
そのなかから三分五厘を部落の維持費として還元することになっていた︒しかし実際には漁家の赤字は連帯保証別
にしていたので還元されることはなかった︒その頃の漁家ほ米ばかり食べ︑男は酒を呑みばくろに手をだす︑旧の
一〇月から正月まで鱒徒食していたというが︑女は夏ほ海女︑冬は阪神︑倉吉方面に働きに行くという状態であっ
た︒とにかくその頃ほ仕切なすれは必ず赤字になっていた︒さらにⅩ民にとって忘れられない好期が仙九二五年に
やってきた︒この年︑六〇年ぶりに板屋貝が青谷町に大繁殖した︒各地から入漁してきた底曳漁船と地元帆船とは
五〇尋線で境界をつけ︑また殻長二寸五分以下の採捕禁止をした︒そして青谷駅発送最で︑貝柱︑缶詰︑蒸身︑煮
身の合計正二九万円に上った︒翌年の出荷額正二七・五万円であった︒この間三井物産と特約する運動があったが成
︵三八七︶ 叫四七 漁村∵ の 停 滞
︵三八八︶一四八 第三十二巻 第三・四・五号
功しなかった︒この頃夏泊の動力船は三隻だったのがこの大漁のあと五︑六隻にふえている︒しかしブームは二年
間しかなく︑.漁民にとっては賀露の底曳船がこの頃からふえたため仙本釣︑地曳網が打撃を受けるようになった︒
K氏並びに同様な商人ほ大いに利益を上げたのほたしかである︒K氏は二九年に赤崎沖合で板屋貝がとれたときも
一〇燭力の船二隻を持って漁獲している︒Ⅹ民はこうして得た利益を基にして底曳綱に手を出し五饗も持つにいた
ったが︑青谷が港として不利なことすなわち風波の強いときには填まで避難しなければならない事情があり結局失
敗している︒一方この時期から養蚕がさかんになってきて︑夏泊の家の多くほこの頃建て直された︒もっともいぜ
んどしてたいていの漁家は借金から抜けきれなかった︒娘ほ紡績と女中とに行ったのが多い︒山九二九年には夏泊
漁港防波堤が完成した︒昭和に入ってK氏の独占に対する不満がようやく増大し︑青谷の雑貨商丁氏ほか二人の共
同の問屋ができて半数以上の漁家がこの方についた︒K民とT氏との対抗は町政上の争いもからまり相当数しかっ
た︒しかし漁家にとってほ問屋制度が存続する限り漁業資金蓄積は困難であった︒問屋制度の廃止ほ漁民の要求に
もなったが㌣九三七年頃に県の指導の下に共同販売所を設立するという形で実現された︒この時K氏ほ反対してい
る︒この間屋制度の廃止により漁家ほ冬の間借金で食べるということができなくなり︑河川工事の仕事に出るよう
になり生活の節約もするようになった︒こ うして漁家が営業問屋の借金から完全に抜けられたのは第二次大戦にな
ってからである︒ともかく漁民は営業問屋制度がなくなってから生活がよくなったといっている︒動力船が出現し
たのは昭和の初めであるが終戦直後にほ六隻になっていた︒さばがよくとれるようになったのも昭和になってか
らであり︑いわしはここ一〇年がよくとれている︒現状については前述したが︑副九五三年に簡易水道ができて長
年の水汲労働からやっと解放された︒
長和瀬の漁業 第七表によれば長和瀬の一人当漁獲高ほ夏泊よりずっと少ない︒長和瀬の戸数ほ紬二〇〇戸であ
第14表 虚 栄 統 計 1955
漁 村 の 停 滞 るが︑第一四真のようにはとんどが農家であ る︒それも果樹すなわち梨の栽培が主になっ ているっ この点からも夏泊とほかなり様子が ちがっている︒長和瀬への道路は山九三〇年 に通じ︑泊まで連絡したのほその六年後であ る︒長和瀬ほ小さな湾で海岸ほ東西はぼ二〇 〇米の砂浜である︒東端に岩石が露出してい てそのすぐ沖に西北へ八五米の長さの防波堤 が叫九三九年に作られている︒それでも冬ほ 季節風をまともに受けてしまう︒
第七表︑第八表のよ︑ぅに現在組合としては
青谷漁協であり山九五六年九月現在で観合員
ほ仙三九名になっている︒このうち長和瀬以
外に住んでいる二七人と準組合員二八名を除
いた八四人が長和瀬で漁業に従事している数
になる︒これをさらに同 仙 家族ごとにまと
め︑また動力船所有漁家と無動力船所有漁家︑
船ほあっても則九五五年に水揚のなかった漁
︵三八九︶ 劇四九
第16表 無動力船所有漁家
1956第山八表をみると長和瀬でとっている魚種にはしいらはなくたい︑すすきが多い︒ここの漁業は三月下旬から五
月中旬までいわし流絢︑五月中旬−七月下旬までほとびうお旋網の時期である︒それに併行して三月中句−七月にほ
はまち刺綱も行われる︒一九五六年度の操業ほ︑いわし流細が四壁︑とびうお旋網が二隻︑ほまち刺綱が二隻であ 第三十二巻 第三・四・五号 ︵三九〇︶ 山五〇
家と船を持っていない漁家の三グループに分
けたのが︑第側五︑山六︑一七の三表であ
る︒︑これでみると︑動力船所有漁家は叫二戸
漁家総数の二二%であるが︑水揚高の合計ほ
五七八︒九万円で給水揚高六七七︒七万円の八
五%まで占めている︒これほ夏泊の場合Åり
もさらに動力船の比重が高いことを示してい
る︒上位四声ほ船も大きいし水損も夏泊の
上尺より多い︒また長和瀬の無動力船漁家や
船のない漁家は農業的色彩が強く︑水田や梨
栽培が多い︒準軸合点は表にしなかったがた
いてい水田と梨の農家でありそうでなけれほ
他の職業を持っている︒したがって長和瀬ほ
動力船漁家だけが専業的に漁業をしていると
みてよかろう︒
軍17表 その他の漁家 1956
界18表
青谷漁波高 漁
村 の 停 滞
る︒これらの漁業は動力船のうち大き
いのが従事する︒四トンの船だと六人
東るが︑相乗ほ表にもあるように長和
瀬の人である︒相乗の給料ほ水揚高か
ら必要経費を引いね残りの四分を船頭
を除いて平等に分配する︒小さい動力
船全部と無動力船二︑三隻は四月下旬
から年末までたい延縄専門である︒し
かし秋になると海が荒れて出漁回数は
少なくなる︒無動力船だと脚年に一〇
〇回も出漁すれはよいぐらいである︒
無動力船漁家や船なし漁家からは︑旧
盆をすぎると翌年の呑までダム工事や
林道工事へ出稼に出る人が多い︒漁業
出稼としては境の巾着網の乗手になっ
ているのが二人あり︑賀露の底曳にほ
行っていない︒なお磯つき︑わかめなど
を専門にしているのが二婆ある︒夏泊
︵三九こ一石
1
︵三九二︶ 山五二 第三十二巻 筋三・四・五号
と同様に巾着締出現以後はさば︑
であったのに今でほ全然駄目に克ったという︒そういうことで現在たいが主力になっているのである︒たいほ三︑
四年前京都へ試験的に出荷してみたら値がよかったので︑以後は丹波口の魚市場へ共同出荷している︒
長和瀬ほ夏泊とちがってもとは農業集落であった︒明治以前からあった地曳綱ほ農業の片手間に春と秋にいわし
をとっていた︒旧網と新約の二統ありどちらも株仲間組故で︑山時はかなりとれていたが今ではすっかり駄目に
且ってしまい︑いたいていほ農家で豚を飼ったりしている︒長和瀬ほ一八九二年と九四年に二度大火がありそのため
に田畑を手放した人が多くでた︒このことが契機となりそれに長和瀬にも小作地な持っていた当時の県水産会長の
仲介で夏泊との漁業権の調整ができて︑長和瀬のたい延縄漁業が始まったのである︒明治末にほ五人乗の和船仙二
隻小漁船一〇隻あり︑たい延縄︑とびうお流綱をやっていた︒鹿二次大戦頃から小わしがとれ始めまたさば延縄も
始まった︒現在の組合長の父の代ほ︑長さ三〇尺の五人乗漁船で︑一﹂二月はたこ延縄︑二月−五月ほいわし流網
四月−五月にさば延縄︑五月1七月がとびうお旋綱︑七月から年末までがたい延縄というやり方であった︒当時は
交通未発達のためたいほ焼鯛にして売っていた︒営業問屋ほ長和瀬にもあって︑最近雑貨・酒屋を始めている長和
瀬のY氏が先代以来やっていた︒始めセの︑は一八九〇年頃からで最初は漁業もやっていたが一九二〇年頃からほ
問屋専業になっている︒Y民の場合ほ金の前貸が主で米の仕込ほはとんどしなかったようであをじ長和瀬でもY氏
の抵抗を排して問屋制度をなくしたのほやほり山九一二七︑八年貯なってからのことであった︒Y氏の最良の時期は
Ⅹ氏と同様に板屋貝のとれた二年間であった︒山九二六牢にY氏が扱った売上げは五・八万円︑当時の長和瀬の漁
獲高が平均年で万円だったときの話である︒動力船ができたのも夏泊と同じ一九一ニ○年頃である︒二︑三年おくれ
て二隻ふえ︑この頃動力化した人たちは最近動力船をやめた一人以外ほ現在も上位を占めている︒戦後動力船孤数
がふえ︑五〇年に恨二ハ隻までふえたのが頂点で今では一二蟹に減っている︒長和瀬でも二応の生活安定ができた
のほ養蚕の時期である︒梨は戦前にほ五︑六戸しか栽培していなかったのが戦後急速に増えたのである︒かつてほ
農業から転業して漁業に変っていたのが現在ほ逆になり︑少数の漁業専業者以外の人にほ農業の方が主になって
いる︒田畑を持っていない人たちがもちろんいるが︑その人たちほ出稼ぎに出て行く︒
闇 夏泊︑長和瀬については︑小沼勇著 日本漁村の構造類型 束大出版会一九五七年の仙二三頁︑二ハ六1
八頁に記述されている︒
び 四 結
以上われわれは沿岸零細漁村の例として夏泊と長和瀬の漁業をみてきた︒今日の日本漁業のなかでほとるにたり
ない︑いわば忘れられている零細漁村である︒しかも両者ともに最近の沖合漁業の発展により停滞というよりも衰
退させられつつある︒内部的にみても動力船漁船は辛うじて漁業者といえようが︑無動力船漁家と船のない漁家ほ
もほや半失業者である︒とくに夏泊ほ農業もはとんど問題にならない︒ところで古くからの漁村である夏泊ほもち
ろん長和瀬にしても今日まであまり漁業が発展しなかったのほどのような理由によるのであろうか︒たしかに自然
条件にめぐまれていなぃ︒夏泊の港でほ大型漁船を収容することはできないだろうし︑長和瀬の砂浜にして同様で
ある︒それに市場条件にも不利な位置にある︒しかし停滞の理由ほそれだけであろうか︒営業問屋制度が長く存続
したこともその山つにあげられるのではなかろうか︒問屋制度が成立したことはたしかに低生産力と市場からの孤
立性によるものであろうが︑仙旦成立した問屋制度は漁業者に資金蓄積を不可能にし生産力発展を阻止したことほ
いなめないだろう︒そして問屋制度から抜けでた時にほもはや日本漁業発展からほ取り残されてしまっていた︒し
かし地先漁場でともかくやっていけるかぎり︑それなりに階層分化しながら少数の専業漁家は存続し︑他方に停滞
漁 村 の ′停 綜 ︵三九三︶ 山五三
第三十二巻 第三・四・五号
的半失業層が堆積している状態でほなかろうか︒
附
この調査ほ東京大学飯塚浩二教授が水産庁より依頼を受けた研究の刷部として︑山九五六年九月︑東京大学古
賀正則氏︑江汲戸昭民はかと筆者が行ったものである︒但し本稿の責任ほ筆者にある︒飯塚教授︑共同調査者を
始め︑御迷惑をかけた東京大学大野盛雄氏︑成城大学矢橋謙一郎氏︑鳥取県水産課︑夏泊︑長和瀬の関係各位に
厚く感謝の意を表する︒ ︵三九四︶ 副五四