• 検索結果がありません。

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ハラム・モヴィウスと東洋的停滞"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 佐藤 宏之

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 61

ページ 17‑31

発行年 2004‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011491

(2)

一「旧石器提造事件」と日本の前・中期旧石器時代研究

二○○○年一○月に発覚した「旧石器握造事件」は、Ⅲ石器考古学界だけではなく、日本考古学の研究構造そのものを直撃した。二○○一二年五月に開催された日本考古学協(1)会総会で行われた「前・中期旧石器問題の検証」報生ロにより、少なくとも「藤村関連資料」全体の学術的価値の否定とその検証の経過が明らかにされた。筆者もその一端を担った協会の検証調査に対しては、その間多くの研究者や社会の識者から厳しい批判や注文を受けた。中には考古学の学的存立を疑う意見もあった。それらすべてに対して、十分な説明責任を日本考古学が果たしたとは現段階ではと

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤)

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞

ても言えないが、旧石器考古学を専攻する一研究者としては、今後当該分野の再構築を実践する過程を通して応答すべきと考えている。「藤村関連資料」が灰儘に帰した当初、そして一部には現在も、列島には前期・中期旧石器時代そのものが存在せ〈2)ず、その研究史自体を否定する論が数多く提出された。これらの意見に対し、筆者は、「藤村関連資料」を除いても、列島には前・中期旧石器時代の資料は少ないながら存在す(3)ると考追え、その編年的・文化的フレームの見通しを与え、(4)さらに旧石器研究の意義を再確認した。前者に関する筆者の見解は、公表当時悪評でかつ少数派にとどまっていたが、昨年数少ない「藤村非関連資料」である岩手県宮守村(5)金取遺跡(一九八五~六年発掘調査)の旧文化層(第Ⅳ文

佐藤宏之

(3)

化層)から、テフラ分析により阿蘇4火山灰(八万四○○(6)○~八万九○○○年前)が確調池されたことによって、少なくとも列島には中期旧石器段階の遺跡が存在することが確実となった。こうした当該期遺跡が存在とするという事実レベルの再確認作業とは別に、日本における前期・中期旧石器時代の研究史そのものを否定する粗雑かつ感覚的な議論に対しても、検討を加えて行かねばならない。資料体の多くが失われたことと研究史そのものの否定を同一視することは、研究方法と姿勢のみならず、研究行為の構造そのものに根本的な問題を内包している。「藤村資料」の消失を好機ととらえ、それ以前に行われていたいわゆる「前期旧石器存否論争」自体を、「旧石器提造事件」を誘発したという文脈にのみ則って消し去ろうとする試みは、科学的な研究営為(7)「とは呼べまい。むしろ、日本における前期・中期Ⅲ石器時代研究が根本からの再構築を要求されている今日では、たとえ忌まわしい記憶・行為と接続するからといって性急に研究史を断罪するのではなく、研究史に見られた構造的な問題点を洗い出し、さらに研究が行われた時代背景や時代認識といった学的状況を正面から問い直す機会と捉えるべきであろう。「川石器握造事件」を生み出したという深刻 法政史学第六十一号

1学説の登場旧石器時代研究が列島内で完結しないことは、当該期研究の常識である。まして、列島内で人類が発生した可能性が考えられない以上、日本の前期旧石器時代の探求は、周辺大陸・島唄部との一体的な研究視座が当然要求される。従って、研究史においても、東アジアはもちろんのこと、広く旧大陸全体の文化動向や人類進化学説の変遷を理解す(8)る必然性がある。人類進化の研究は、その起源地を求めてアジアからアフリカに探求のuが推移したことは広く知られているが、考古学的な資料に主に依拠して、人類進化の初期世界の構図を描いたのは、モヴィウスの文化圏説を噴 な反省を意識の基軸に据えながら、日本の前期・中期旧石器時代研究の歴史を解体し点検する作業が今こそ要求されている。本論では、こうした状況意識に基づいて、日本だけではなく東アジアの前期旧石器時代研究を規定してきたハラム・モヴィウス]【・の二大文化圏説の言説構造の背景を分析し、それが前期旧石器時代研究に与えた影響を検討する。

ニモヴィウスの文化圏説

(4)

(9)矢し」すァ○。モヴィウス以前に行われていた世界の旧石器理解は、十九世紀中頃から後半にかけて確立したド・モルティエによる南西フランスの旧石器編年を世界へと拡張した説が正統とされていた。この単純進化論的な考古学説の背景には、当時の支配的パラダイムであった社会進化論の直接的な適用があったが、それについては次章で詳述することにする。南西フランスを基軸としながら、それを世界規模へ拡張させた単純進化論に対しては、早くも第一次世界大戦後、ヨーロッパ文明の起源地とされていた西アジアにおける旧石器時代の調査の進展により、ヨーロッパとは少し異なる人類文化の進化の歩み、すなわち旧石器文化の変遷が(、)あったとすうO主張がなされた。モヴィウスの主張は、こうした時代背景の中で、モルティエ説の単純な適用が、東アジア旧石器世界では適応できず、世界はもともと二つの巨大な文化圏から出発したとする新たな構図を提出したのである。しかしながら、その解釈には、社会ダーウィニズムの影響を色濃く反映させていたために、その後の論争の基礎を形作ってしまった。

2学説の内容

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) 二大文化圏説を主張したモヴィウスの論文は一一一本ある(u)が、そのいずれもほぼ同じ内容となっている。モヴィウスは、一九三○年代から一九四○年代の初頭にかけて、インド・ビルマ(現ミャンマー)・マレー半島・ジャワ島・中国等の南アジアから東アジアにかけての広大な地域を踏査して、各地で集められた古拙な特徴をもつ大型石器類の中に、層位的に前期旧石器時代に属すると推定される資料が含まれると判断した。そしてそれらの石器類に認められる特徴は、これまでヨーロッパ・アフリカ・西アジアの前期旧石器時代石器群として知られていたハンドアックス(握斧、手斧)とは異なり、粗雑な加工を特徴としていため、チョッパー(片面加工礫器)、チョッピング・トゥール(両面加工礫器)と一括して呼称された。北西インドのプレ・ソァン文化やソアン文化、ビルマのアニャト文化、北部中国の周口店文化、ジャワのパジタン文化、マレー半島のタンパン文化がチョッパー、チョッピング・トゥール石(吃)器群に属するのに対して、インド大陸にはマドーフス文化と呼ぶハンドアックス石器群が分布することから、ヒマラヤ山脈とパキスタン北部を結ぶライン(モヴィウス・ライン)を境に、旧大陸の前期旧石器時代は、ラインより東側のチョッパー、チョッピング・トゥール文化圏とラインよ

(5)

法政史学第六十一号

り西側のハンドアックス文化圏に大きく二分されると考えたのである(第一図)。ここまでの考え方は地質学的推論に川基づいた考古学的分析の成果であるた

Mめ、人類文化初期の見取り図としてき

四わめて斬新なアイデアであったが、問

・汕題はその文化論的解釈にある。次節に

伽問題の箇所を引用して検討してみた 脳い。

文ただし一九四四年の第一論文では一」二の箇所は登場しておらず、一九四九年

、の第一一論文と一九六九年の第三論文に 付見られるが、一九六九年の第一一一論文 御は、一九四六年一一一月一一八日にシカゴ 図で開催されたアメリカ自然人類学者協 翻会とアメリカ人類学協会の共催のシン

ポジウムのプロシーディングスとして一九四九年にアメリカ自然人類学者協会から発行された版のリプリントであるため、ほとんど同時に刊行された第

(6)

3言説の内容以下の文章は、モヴィウスの第二論文二九四九年)のの巨日三二目□C・昌一Eの言(四○七’四一一頁)の最終パラグラフ(四二頁右段下)を訳出したものである。すこし長くなるが、引用する。おそらく、最近十五年間における南・東アジアの新しい考古学資料が指し示すもっとも重要かつ唯一の結論は、文化的観点から見てこの地域が、どんな意味においても「進歩的」ロ○四の①の弓のとは考えることができないという点にある。[衆Ⅱの認めるように、大量に残された遺物のうち年代の明らかな証拠からは、この地域全体が、初期人類文化の発展した一つの中心地(皿)であったとする論を支持することはできない。]旧石器時代の初期段階を通じて、石器類の大部分は、チョッパー、チョッピング・トゥール、ハンド・アッズといった相対的に単調で想像力に欠ける冒言長ヨ四‐弓①アセンブリッジから構成されていた。ティヤー 二論文と内容はほとんど同じである。ちみなに論文の大半を占める考古学的分析の部分は、三つの論文ともほぼ同じ内容となっている。

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) ル・ド・シャルダン博士の観察によれば、中期更新世の非常に長期にわたる期間を通じて、東アジアは、「主要な人類の移住の波の終わり近くで孤立した自己完結的な地域として機能してきた(ちょうど歴史時代の中国と地中海枇界の対照的な関係のように)印象を与える。この時代の主な文化的・人種的関連は、南方との間にあったと思われる」。換言すれば、考古学的・古民族学的資料は、前期旧石器時代のような初期の段階において、南・東アジアは全体としてひとつの文化的停滞【①百二畳目地域であったことをきわめて明瞭に示唆している。それゆえ、この広大な地域が、初期人類の進化にきわめて重要かつダイナミックな役割を演じたとはとても考えられない。初期の非常に原始的な人類が、世界の他の地域では絶滅してしまった後も、長い間この地域では明らかに存続していた。この文章を読むとよくわかるように、モヴィウスが自身の提出した二大文化圏に付した文化論的解釈は、当時の支配的な文明論と結びついた典型的な社会ダーウィニズムの言説であった。ヨーロッパを中心とする西側世界のハンドァックス文化圏は、旧石器時代を通じて、モルティエ編年に基づいて、ショレアン↓アシューリアン(以上ハンド

一一一

(7)

アックス文化、前期旧石器時代)↓ムステリアン(ルヴァロワ技法を有する中期旧石器時代)↓ソリュートレアン↓マグダレニァン(以上発達した石刃技法を有する後期旧石(M)器時代)と順調に進化発展するが、中国を中、心とする東側世界のチョッパー、チョッピング・トゥール文化圏は、そのままほとんど進化しないで停滞しやがて歴史時代に至ると解釈しているのである。当時の支配的な歴史哲学は、ゲオルク・ヘーゲルの世界(旧)詞阯識に端を発する「東洋的停滞」發叩であり、カール・マル(焔)クスの「アジア的生産様式」論であったことは一三口を待たないが、モヴィウスの解釈は、「東洋的停滞」や「アジア的生産様式」の起源が、人類史のはじめから認められると主張したのであった。そして、その背景には、ヨーロッパ近代思想の背骨を形成していた社会進化論が存する。ヘーゲルやマルクスの歴史哲学はその歴史学的表現であり、人類学や考古学の表現形としては、社会ダーウィニズムが基軸となっていた。

1近代科学思想と社会ダーウィニズム近代科学の誕生、すなわち科学革命の興隆期は、実験. 法政史学第六十一号

三束洋的停滞と進歩史観 観察器具が改良・精密化し実証的なデータに基づいて検証可能な手法を自然科学に誕生させた十七世紀の科学革命期と、近代国民国家の形成に伴い、各種の科学制度が整い現代に連なる各ディシプリンがとりあえず成立した十九世紀の科学革命期という二者があることが現在了解されて(Ⅳ)いる。前者の科学革命は実証科学の誕生と評することができる一方、後者の科学革命においては、中世以来のキリスト教的世界観から近代合理主義に科学的価値基準が革新されたと言える。そして、そのプロセスは、進化論の受容を〈旧)めぐって行われた。一八五九年の「種の起源」刊行に象徴されるダーウィン革命は、一人ダーウィンだけではなく、ジェームズ・ハツトン、チャールズ・ライエル、ジョルジュ・キュピエ等の(四)地質学者・古生物学者による地層形成の斉一性原理、地噛(、)(Ⅲ)累重則、変化の漸進主義といった科学的思考の集大成の性格を有していた。しかしながら、チャールズ・ダーウィンによって提案された生物進化に関するダーウィニズム自体は、当時その進化メカニズムを説明できなかったため、ひとつの有力な進化学説として扱われていたが、二○世紀初頭にメンデルの遺伝学が再発見され集団遺伝学が発達すると、一九三○年代以降ダーウィ進化論と遺伝学が結びつい

(8)

た進化の総合説として現代生物進化理論の中心に位置付く(血)ようになった。このように、十九世紀後半の段階では進化論のひとつにすぎなかったダーウィニズムと、これも現在は生物進化の原理として杏定されてはいるが当時は最も有力な進化理論と考えられていたラマルキズムを結合させ、文化や社会に適用したのがハーバード・スペンサーの社会ダーウィニズムである。社会有機体論者であったスペンサーは、一八六四年に「生物学原理」を刊行し、その中で、ダーウィニズムの自然選択説と、獲得形質の遺伝を認めるラマルキズムを結合させて、生物進化論を社会進化論に拡張し、当時世界中に勢力を広げつつあった西欧白人社会の人種的・民族的優越を理論的に保証した。スペンサーは、ダーウィニズムの一言う「生存競争」を「弱肉強食」に、「最適者生存」を「優勝劣敗」に一言い換えて、人類の社会は基本的に競争状態にあり、優秀な人種・民族が劣った人種・民族を支配(指導)するのは人類進化の必然と説いた。この学説は、当時勃興しつつあった新しい学問である人類学の創始者ヘンリー・モルガンやエドワード・タイラー等の古典的進化主義人類学説と結合して、社会ダーウィーー

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) ズムと総称される進歩史観を生み州すことになる。モルガンやタィラーは、人類史を野蛮の昌四、①Q↓未開因閂冨1の日↓文明C三一宮〔一・口の一二段階に区別し、地球上に存在した、そして存在するすべての人類社会は、西欧が辿ってきた経路を必ず通らねばならないと考えた。今日人口に膳灸している「野蛮↓未開↓文明」の発展段階論からなる進歩史観の根本を形成している社会ダーウィニズムは、西欧近代白人社会を頂点に狩猟採集民を底辺として各民族・人種・社会をその下に配列し、「原始的」民族ほど下等であり、人類は内欧白人社会・西欧文明に向かって一線的に進化するのが人類法則であると見なした。この進歩史観と呼ばれる社会ダーウィニズムは、劣った民族を支配・指導し西欧化させるのが人類としての西欧白人社会の使命であるとして、西欧の枇界支配の正当性を保証し、その植民地経営の理論的主柱となった。さらには、同氏総動且体制の実現による欧米列強間競争を勝ち抜くために必然的に要求される、国民国家形成のための求心力と(麹)なっていった。

2東洋的停滞この社会ダーウィニズムを歴史においてもっとも強力に

(9)

うち立てたのは、ヘーゲルの歴史哲学である。今日オリエンタリズムの枠組みを形成したと見なされているへ-ゲルの歴史観においては、世界史はギリシャ・ローマ以来の西洋において成立し展開したとされる。人間の自由意志や自己意識の自覚を獲得する過程として描かれるヘーゲルの世界史においては、帝王のみが自由意志を発揮可能な「東洋的専制」の支配する東洋は、西洋に対立する反世界史的世界と見なされた。従って、東洋においては、歴史の進歩が期待できない「東洋的停滞」社会にとどまることは歴史の必然である。いささか分析が冗長となってしまったが、このように見てくると、モヴィウスの主張の内容とその意図が明確に読みとれるであろう。すでに一九二○年代には、ラドクリフⅡブラウンやブラニスラフ・マリノフスキー等の機能主義人類学によってモルガン・タイラー等の古典的進化主義人類学の一線的な人類進化学説自体が否定されていたにもかかわらず、モヴィウスは、人類史の始めに見られる東と西の異なりという考古学的証拠に世界史的なオリエンタリズムの根拠を認め、新たな社会ダーウィニズムの「確固たる」証左を見いだしたのであった。やがて中国や韓国において、激しい反発と反論が陸続と 法政史学第六十一号

モヴィウスの分析で最も異論が多いのは、その依拠した(妬)資料の性格に関する,ものである。モヴィウスの扱った資料は、周口店以外はほとんどが河床や段丘礫層からの採集品を主体としており、そのため分析は石器群の組成、製作技術、型式学によっており、年代は地質層序・段丘形成年代や伴出動物相によって推定されている。いずれも今日的な視点からは方法的な限界が指摘されうるが、分析当時の方法としては妥当なものと一言える。ただし、その後特に東南アジアでは、これらのインダストリーに該当する石器群は発掘によって検出された例がなく、ホモ・エレクトス化石人骨が出土するジャワ島以外では、前期旧石器時代の遺跡(妬)その‘ものが未確認な状況である。エレクトス化石骨が出土するにもかかわらず、石器類が検出されない状況に対して、木・竹等の植物質製道具の主体的な使用を推定する議(”)論が提出されたが、これらの道具を使用していたとして 二四

(灘)して提出気」れたのは当然のことであった。東アジアの旧石器学にとってモヴィウス学説への反論は、歴史発展からアジアを排除する「世界史」の構図という近代歴史学パラダイムの否定そのものであった。

四モヴィウス文化圏説の今日的評価

(10)

も、その道具を製作するための石製利器目○・一日四宮信〔○・一が必要なことから、その妥当性は低いと考えざるを得ない。狩猟採集民の生業に関する近年の民族考古学的知見によ(犯)れば、熱帯雨林地帯の資源開発は一般に相当困難である。当該地域の考古学的知見を参照した場合、東南アジアの熱帯地域の開発は、後期旧石器時代に相当する現代人の登場以降本格化したと考えるべきではないだろうか。一方中国や韓国では、最近の調査によってハンドアックスの出土例が顕著に増加を見せている。ただしこれら東アジア型のハンドアックスは、ヨーロッパ・西アジア等に見(”)られるアシュール系と呼ばれるハンドアックスとは製作技術を異にしており、基部側に原礫面を残しながら全体を粗く加工し、さらに先端の機能部付近に最低限の調整加工を(釦)施している。責蘭彼等の中国の研究者が一二稜大尖状器と呼〈、)ぴ、賀川光夫によって尖頭状礫器と呼ばれていた石器に相当するが、アシュール系同様、先端が尖るタイプ(ビック、狭義のハンドアックス)と平縁なタイプ(クリーバー)の大きくふたつが存在する可能性が高いので、東アジア型のハンドアックスと見ておきたい。これらのハンドアックスに種々のチョッパー、チョッピング・トゥールが

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) 伴うというのが大型石器群の基本的な組成のようである。しかも、最近の韓国の調査成果によれば、これら大型石器群が技術的・型式学的変化を見せながら、そして次第に減少しながらも、前期旧石器時代から後期旧石器時代まで継続する可能性が高い。責蘭彼は、中国の旧石器時代を通じて、大型重量石器伝統と小型軽量石器伝統の両者が、遺跡を違えながらも何時(犯)に併存したとする説を提出し、へ7Hの中国旧石器研究の規範的な視座を形成した。黄慰文は、自身の調査した華南の(羽)百色遺跡群から大已呈に出土・採取されたハンドァックス石〈弧)器群を大型重亘呈石器伝統の、華北の泥河湾遺跡群を小型軽量石器伝統の代表と見なし、さらにその両者の同時存在は、東アフリカのオルドワンに対比可能であり、東アジア南部の礫器インダストリーを、アフリカ起源の人類の伝播(妬)の証拠と考逼えた。黄の解釈は、韓国で最初にハンドアックス石器群として注目された全谷里遺跡の表採資料をアシュール系と見なし(妬)た金一兀龍・鄭、水和同様、ハンドアックスの存在をもってモヴィウス・ラインへの異議申し立てを行っている。しかしながら、モヴィウス・ラインの東西で異なる様相をもつハンドアックスがあると見るのが自然ではないか。むしろ、

(11)

法政史学第六十一号

(”)渡辺や安斎等が指摘するように、機能的再適応や生態環境の異なりに起因する適応戦略の違いに解釈を求める方がよ(犯)り有効であろう。黄や金・鄭の異論が、もしも「東洋的停滞」論に関連して自らの地域が西側世界と変わらないことを主張したかったのだとすれば、モヴィウス・パラダイムのもつ進歩史観の変種に留まる危険性を内包することにな

る。モヴイウス学説が提出された当一時の考古学では、社会ダーウィニズムの教義の元で、〈時代1人類l石器〉の一一一(犯)者が対応するのを当然の前提にしてきたが、現在この図式がかならずしも成り立たないことがあきらかとなって(㈹)いる。そのため、人類の生態適応・行動・組織戦略の進化と技術の関係を構造的に把握する方法として、グラハム・くい)(枢)クーフークの案出したモード論が現在注目を集めている。クラークは、石器の技術形態学的特徴に基づいて、考古学上の文化を五つのモードに区分した。単純なチョッパー、チョッピング・トゥールと剥片からなるモード1、形態の整った各種のハンドアックス類からなるモード2、ルヴァロワ方式に代表される調整石核技術に特徴付けられるモード3、真性の石刃技法を有するモード4、細石器石器群に該当するモード5である。モード1と2は前期旧石器時代 に、モード3は中期旧石器時代に、そしてモード4と5は後期旧石器時代に相当するが、世界各地で必ずしも同時に移行したわけではない。モード論の革新性は、各モードが段階として置き換わっていくと考えたこれまでの伝統的な理解とは異なり、時代・時間の進行と共に、各モードが累積的に付加されると考えた点にある。つまり、例えばモード1は、すべての時代に存在したことになる。適応行動の諸場において、人類は、主に長距離移動と組織的・計画的狩猟への傾斜に応じた石器製作運用技術を付加していったと考えられるのである。ハンドアックス石器群とチョッパー、チョッピング・トゥール石器群が対立するという意味でのモヴィウス学説は、現在崩壊していると言える。なぜなら、東側にもハンドアックス石器群が存在するからである。しかしながら、ハンドアックス石器群の中の、アシュール系と非アシュール系の分布的対立というあらたな考古学的解釈によれば、モヴィウス・ラインは今も存在すると言うことができよう。モヴィウス・ラインを境にして東西で大きく石器群が異なるという理解は、現在も有効であるが、それは人種の差や進化の程度差ではもちろんなく、湿潤で森林的な東側と、乾燥してサバンナが卓越する西側という、地球規模で 一一一ハ

(12)

モヴィウスの学説は、今日オリエンタリズムと呼ばれている比較文明論パラダイムの典型である。専制と停滞に象徴される東洋と自由と進歩に代表される西洋を対比して捉える「世界史」の構図では、アジアの停滞は古代から起因すると見なされていたが、モヴィウスは、それを人類史の最初の段階(前期旧石器時代)にまで拡張してみせた。中国や韓国で見られたその後の異議申し立ても、その多くは「肚界史」の構図の枠内での境界の変更論にとどまっている。その原因は、考古学的文化論の解釈のフレームが、いまだ文化の伝播系統論に則っているからにほかならない。考古学的文化は高文化を起源とし、周囲の類似する文化要素は、高文化からの集団移動による文化伝播の結果と解釈する方法である。日本考古学においても、岡倉天心以来の「東洋」史観(「東亜」史観)の影響のもと、石刃技法の起源T現代人の渡来)、神子柴・長者久保文化渡来論 の大まかな生態環境の違いに適応した人類の、ゆるやかな(“)文化的・生活的差異を意味していると考舅えるべきである。問題は、考古学的解釈の整合性を問うよりも先に、文化論的議論が先行してしまったところにある。

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) 五比較文明論的パラダイムの超克 (縄文文化の外来起源)、土器起源論(縄文土器の外来起源)等、すべての文化要素は大陸から渡来し、日本国内で変容・内的発達を遂げるとする比較文明論的パラダイムに依拠する論考がいまだ多い。かつてヨーロッパにおいても、指導的な考古学者ゴード(“)ン・チャイルドが描いた「最古の東方の光」という文化伝播論が支配的なパラダイムであった。チャイルドが、農耕を始めとする土器等の新石器文化要素の起源を西アジアに求め、そこからの文化伝播によってヨーロッパ先史時代の編年的・文化的枠組みを構築したことはよく知られて(妬)いる。しかしながら、この枠組みは、一九六○年代以降発達した科学的年代測定によって根底から覆り、生態学的・文化理論的・認知心理学的・象徴行動論的なあらたな解釈の枠組みが構築されている。(妬)このレンフルュー革〈叩は、わが国ではよく知られているものの、昨今の縄文土器や弥生土器の年代論争を瞥見すると、いまだ本格的には行われていないと言える。日本考古学における比較文明論パラダイムの超克は、喫緊の課題と言えよう。

一▲

(13)

(1)春成秀爾編「前・中期旧石器問題の検証」日本考古学協会、二○○三年(2)小田静夫「黒潮文化論」「東北学」五号、八○’九二頁、二○○|年一中川和哉「九州の前期・中期旧石器時代についてl斜軸尖頭器とはどのような石器なのかI」「旧石器考古学」六一一号、五一’六二頁、二○○一年(3)佐藤宏之「日本列島に前期・中期旧石器時代は存在するかl禺巨日日四一のm8己巳以後l」「科学」七一巻四・五号、二九八’一一一○二頁、二○○一年》同「日本列島の前期・中期旧石器時代を考えるl藤村氏非関与資料からの見通しl」「第一八回東北日本の旧石器文化を語る会予稿集」一二七’一四二頁、一一○○一年》同「後牟田遺跡第Ⅲ文化層の編年的意義と行動論」橘昌信・佐藤宏之・山川哲綱「後牟田遺跡」後牟田遺跡調査団・宮崎県川南町教育委員会、三八一一’三九五頁、二○○二年(4)佐藤宏之「旧石器時代研究の現代的意義」「科学」七二巻六号、五九四’五九九頁、二○○二年(5)菊池強一他「金取遺跡」岩手県宮守村教育委員会、一九八六年(6)二胃の巨旦』》【・二の目・の(目Q目亘&ここ日]:昌昌のヨョーョ四四〔&ご目口ご[・]呂目や。「東北亜細亜旧石器研究」漢陽大学校文化財研究所、四一’五一頁、二○○二年。金取遺跡からは四枚の文化層が確認されており、うち下位の二枚 法政史学第六十一号

の文化層が中期旧石器時代に属すると報告されている(註5前掲書)。(7)註(2)前掲論文。例えば、中川論文で「Ⅲ石器提造事件」を誘発する役割を果たしただけとして否定的に論難されている岡村道雄論文は、加藤真二も指摘するように、中国等の周辺大陸の比較資料に基づいて、Ⅱ本の斜軸尖頭器の存在を議論しているのであり、その逆ではない。岡村道雄「約二万五○○○年前とそれを遡る時期の東アジア旧石器文化と日本の関連」「文化」四○巻一・一一号、一’三○頁、一九七六年》加藤真二「中国北部の旧石器時代における中期Ⅲ石器とは?l折茂刑に答えるl」「博望」三号、三九’四四頁、二○○一|年(8)「旧石器提造事件」をめぐって、列島の前期・中期旧石器研究を否定的に捉える論者の多くには、この視点と検討が決定的に不足している。(9)害一一国日F・二・ぐ旨の》]R・已虐向閂一己三目目二勺}の一の〔・8口のの5‐(一四四℃ご旨の。■弓の日四己屋の【の日シの国.、ご;&言諄SCS言冒§ミミ』ミミ日誌淫胃言8s巴冒巨国ミニ長皀帛昏さロミ&ニー烏湯(ご》『○一・》』①(②)“』‐旨、.》]①一℃円げのPC言の【勺囚}四の○一一〔三DC巨言H①の。{の。■岳の日凹己厘の【①gシの一四・コご畠ロミ・冨旦(言』ミミ同§望一言目言ミ切菖墨・P⑰.ご・一・四②》旨①‐色○・》]①$F○三の毛四一の。一三、冑の宮の。一・四旨の・三のgシの国四己青田閂屡の二口ご墨一言三雪ミヨ、四頁&一亘亘三・三・四・三の一一m・弓・』「‐田・皆〕[冑8○一・m富一勺目一百戸一・P

(14)

(Ⅲ)の目・□ご・シ・ロ・白・因呉の(&の.)]①ヨニべき蔦』角ミミミミs曽愈二○号己(u)註(9)前掲論文(⑫)ただし、ソアン、パジタニアン、タンパニアンにはハンドアックスも少量伴うとされているが、ソアンのものは隣接するマドラス文化の影響であり、パジタニァン・タンパニアンのものは、内側のハンドアックスとは関係しない内発的発生であろうと見なしている。そこには、東側世界を歴史発展の必然から排除しようとする「世界史の構図」が透けて見える。(Ⅲ)一九六九年の第三論文もほとんど同じ内容であるが、この文章のみ追加されている。モヴィウスの解釈が端的に表れている。(u)モルティエの一八八九年編年。現在の南西フランスの旧石器編年では、シュレアンの存在は否定されており、文化範囲の伸縮といった地域的な差異を含みつつもおおむね、アシューリアン(前期Ⅲ石器)↓ムステリァン(中期Ⅲ石器)↓シャテルペロニアン↓オーリニャシアン↓グラベッティアン↓ソリュートレアン↓マグダレニアン(以上後期旧石器)↓アジリアン(中石器または続川石器)と変遷したと考えられている。(巧)ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル[長谷川宏訳]『歴史哲学講義」(上・下、岩波文庫)、岩波書店、一九九四年

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤) (胆)子安宣邦「東洋的社会」「「アジア」はどう語られてきたかl近代日本のオリエンタリズム」藤原書店、一二七’’四七頁、二○○三年(Ⅳ)廣野喜幸・市野瀬容孝・林真理編「生命科学の近現代史」勁草書房、二○○二年(旧)佐藤宏之「考占学理論とⅢ石器時代研究」「石器文化研究」七号、二六七’二七六頁、一九九九年(四)斉一説己已さ日】旨回目】の日。地球lのある場所で観察された地質現象と法則は、他の場所でも適用可能という原理。従って現在観察される現象は、過去にも起こっていたはずであると考える。(別)層位的に下にある地層は上にある地層よりも古いと見なす考え。(皿)聖書創造説では、生物の変化はただ一回(ノアの洪水)のカタストロフィツクな激変によると見なしていたのに対して、生物の変化は徐々に起こるとした考え。斉一説・地層累重説とともに、考古学を支える基本原理となった。(皿)ピーター.J・ポウラー〔鈴木善次他訳〕「進化思想の膝史」(上下、朝Ⅱ選書)朝Ⅱ新聞社、一九八七年(翌註(旧)前掲論文(型)サハラ以南のアフリカ大陸の旧石器時代は、前期・中期・後期旧石器時代に相当する時代を、各々前期石器時代・中期石器時代・後期石器時代と呼ぶ独自の時代呼称を現在採用しているが、その理由として、サハラ以南では世

(15)

界史的な発展段階・形態を示さない停滞的な様相があるからと説明されている。この地域でも、古典的進化学説に基づく、「停滞論」の残映が色濃く認められる。二巨圖の.四○s『且四三口冒岳の日三一のの〔目:、の一言、の2口のロ8]』m・CCC‐①P三○『の閂:m・呉西国のの囚ぐの【》の。巨[すシ豆8.ご置きミミ』言言ミ信冒一の⑤雪R回P』○二‐』三m・(妬)諸星良一「束アジアに於ける前期Ⅲ石器時代研究についてlモヴィウス仮説の現状と課題l」「法政考古学」二一集、’’二一頁、一九九五年。なお本論文は、一部に控造資料を取り扱っているが、その部分を除いて参照した。(肥)佐藤宏之「日本旧石器文化の構造と進化」柏書房、一九九二年(〃)国貝〔の【の[.【・P・巴。宛の日【①BHの〔曰、三①の○巨[丘8の〔シの一目目‐一四の○一一[亘。・旨の§旨・菖昏言{黒さ言司胃蓬ミ冒冒吻冒書冒昏貝三冒冨豊員ご言い三s》のs〔の:二・匹}の己の三・》弓・筐‐。》シ8口の己n勺『の⑫の。(肥)佐藤宏之「北方狩猟民の民族考古学」北海道出版企両センター、二○○○年》団三・己P・内・gSS冨冒&長雨言蔦吻&記号ミミニ菖誉・宣言}ミミミミ』三・三晶言一二⑮。ご国ミミ富房鳧向書信自己言口員同薑ご言ミミミロ§の鳥。ご己ぐ①邑弓・【ロー】ざ旦口印の②の。(空安斎正人「アシュール系ハンドアックス石器群のアジアに於ける展開」「岡山市オリエント美術館研究紀要」三口看、一’四三頁、一九八三年 法政史学第六十一号

(釦)責蘭彼「中国大陸上的遠居古民」天津人民出版社、一九七八年(Ⅲ)賀川光夫「黄土地帯紀行1人類の起源を求めてl」六輿出版、一九八四年(皿)註(別)前掲書(聖佐川正敏編「百色旧石器l中国広西百色遺跡群のハンドァックスの比較研究l」東北学院大学文学部、二○○○年(弧)衛奇・謝飛「泥河湾研究論文選編」文物出版社、一九八九年(妬)黄慰文「中国的手斧」「人類学学報」六巻一号、六一’六八頁、一九八七年》同「中国華南地方の初期人類が残した礫器文化」鈴木忠司編「大分県丹生遺跡群の研究」古代学協会、四○七’四一五頁、一九九二年》同「中国前期旧石器文化研究の新展開」「Ⅲ石器時代の考古学」学生社、一一九七’三○六頁、一九九八年(鉛)金元龍・鄭水和「全谷里アシューリアン両面核石器文化予報」「震檀学報」四六・四七号、五’五五頁、一九七九(Ⅳ)二四口目ワの出』①の①目言S・弓①[‐S・弓旨、〔・◎’8日□|の〆・{の山の[の9塁煙》目①〔言・肖冨の。一・四s|‐の8一・四B-Hの①〆昌言〔一・Pご量ミミミ言号目&侶冒二言言8戸酉『一s】l』m・砺安斎正人「理論考古学lモノからコトヘー」柏書房、一九九四年笏&宴》【」①置二①三○ぐ旨の}ヨのR①8コの一ロ①【&もの【⑫ロ①。‐〔言の。己呂の①三の目四一①。一三:{田の〔の日凹の一四・冒高ミミ寄書

(16)

(妬)宛の目望『も」①「①(乞田)切言『、ロミ言言胃二へ記&ご‐BごC罵宛ミミミご苫ミョコ蟇冴ご葛ら向ミg⑩・勺①ロ、已口団。○丙の。 (蝿)註(翌前掲論文(必)O亘}Qの〕ご・の」①$(己四一)之、ミト錆冒§尋、二sい『』冒忌員向昌一・宛○昌一の□ぬの四ロー【①、四二勺四巳・(妬)のニロの》ぐ・の。]①窒(]①、①)、忌吝房ご菖向ミ崎日言冨冒向忌‐ご鳶・少三目・己。]。、百一℃昌一冨弓どの・》チャイルド・G(今来陸郎・武縢潔訳)『歴史のあけぼの』岩波書店、’九五八 (望安斎正人「石器から見た人の行動的進化」「考古学」一号、七八’一二八頁、二○○三年》註(弱)前掲の呂冨 (翌例えば、〈前期旧石器時代lホモ・エレクトスーアシューリァン〉〈後期旧石器時代l現代人1石刃技法〉といった対応関係をアプリオリに前提視した。(釦)佐藤宏之「後期旧石器人の社会はどう変化したか」「科学」六八巻四号、一一一三七’一一一川囚頁、一九九八年(虹)C貰云』・の□』①①室三ミコ冨言ごミニ』冬ごSミミ・●目】‐ ご尋、串{房(》①&(①ニウ]幻・OCqこCQ①(四一・》つつ.、⑦①‐、①①ご石四日目○巨貝●。『ごロ]巨已●四〔ご己のOCRごロ色ご『・(胡)藤本強『東は東、西は西l文化の考古学l」平凡社、一

ハラム・モヴィウスと東洋的停滞(佐藤)

論文 ワユロ、P 九九囚年 藤本強

参照

関連したドキュメント

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

○齋藤第一部会長 もう一度確認なのですが、現存の施設は 1 時間当たり 60t の処理能力と いう理解でよろしいですよね。. 〇事業者

一般法理学の分野ほどイングランドの学問的貢献がわずか

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

当事者の一方である企業者の手になる場合においては,古くから一般に承と