1.はじめに
高齢者のファイナンシャル・リスク管理は、企業ファイナンスのそれに比べてはるかに難しい。
その理由は、企業金融では、基本的に競争的な市場での価格評価をモデルに組み入れて精緻 なリスク管理手法を考案することができ、すくなくとも理論的には、デリバティブをはじめと する金融工学を駆使した取引を使って高度なマネジメントが可能である(実際には失敗の事例 は後を絶たないが)。
これに対し、80 年代以降に発達しはじめたパーソナル・ファインナンスでは、とくに人生 100 年時代を見据えた高齢者のファイナンスにおいて、各人の抱えるパーソナル・ファイナン シャル・リスクはあまりに個別的で、その違いも大きい。そこで実務では、まず当人の将来に 思い描くライフ・プランを作成し、それに応じてファイナンスやリスクを管理する手段を工夫 し、かつ実施されている。
この実務上の違いはなぜ生じるか。一つの理由は、コーポレート・ファイナンスでは数字の 量的な見積りに際し、市場で形成される価格を参考に利用できるのだが、パーソナル・ファイ ナンスでは、これがほぼ不可能なためである。つまり、パーソナル・ファイナンスのマネジメ ントで数字を推測するには、市場で決定される均衡価格を参考に使うことはきわめて限定され、
ほとんど市場周縁的な経済活動あるいは非市場的で相対型で決められる取引価格から、数字を 案出して使わなければならないという事情がある。
さらに認知能力が衰えてきた高齢者には、自立・自律の意思決定案件や、「自助」で処置を 求められるリスクは多様で、独りだけで管理することは手に余り、金融機関、地域共同体、
NPO などの「共助」のネットワークの力を借りる必要がでてくる。とくにカネにからむ問題、
たとえば年金や社会福祉の増大などの財政問題は政府の「公助」として大事なことはいうまで もないが、それととともに、個々の高齢者に焦点を合わせた高齢社会のさまざまな法律問題に 対処する公的インフラの整備が求められている。
本稿では、これらの「自助」、「共助」、「公助」が滞りなく作動できる超高齢化社会を構築す
超高齢化社会におけるフィナンシャルリスクと法
Financial Risks and Laws in Hyper-Aging Society
宇 佐 美 洋 *
Hiroshi USAMI Keywords:Financial Risk, Financial Gerontology, Hyper-aging Society, Elder Law
* 多摩大学大学院 Tama Graduate School of Business
るために、従来の単純な加齢ライフサイクル・モデルを拡張した経済学やファイナンス理論に ふれるとともに、それらを分析に応用して高齢化社会で生じている法律問題や、とくに後に紹 介する高齢者が巻き込まれる悲劇的な事件に一貫した基本理念に基づいて対処すべく、アメリ カなどで先進的に構築されつつある「高齢者法」の試みにもふれる。
2.単純なライフサイクル・モデル
高齢化・加齢化のプロセスで従来前提とされてきた資産形成・取り崩しモデルのイメージは、
下図に簡略に表現できる。
図:金融庁「高齢者期における金融サービスのあり方(中間的なとりまとめ)」(平成 30 年 7 月 3 日)
それは大きく 3 つの時期に区分される。まず、現役世代の就労による収入増大の努力期で、
生活資金の余剰は積み立て・運用されるので、これを強調すれば就労期から退職までを金銭的 資産の蓄積・形成期間ということができる。
そして 60 歳くらいに退職をむかえた後では、資産の有効活用により資産維持・有効利用を 考えて運用する期間が続く。
さらにその後の時期は、長生きへの備え、相続・事業承継により資産の円滑な世代間移転の 方法を考えなければならなくなる。そして資産を取り崩しながら豊かな終末に向かって備える 時期を迎える。このように一人の人間が一人格として青年期・壮年期・老年期まで山登りのよ うに山型の登頂・下降の人生をイメージするのが一般的であろう。
だがしかし、超高齢化社会に加齢年齢が増して高齢者が、このように図の屈曲した曲線に示 された資産を形成し生き延びていくことは可能であろうか。ここに描かれたライフサイクルの 単純な山型曲線を見て、退職後にむけて今から真剣に頑張らなくてはなくてはと自分を鼓舞す
る気分になるか、あるいは深い不安を覚えるかもしれない。
老後から終末期へ向けてゆとりある生活の将来に希望を抱かせるモデルを見つけることは容 易ではない。
3.高齢者の不安
老後の必要な生活費、またゆとりある生活費といった老後の生活費の水準については、様々 な機関で各種の調査が行われている。その結果をみると、むろんばらつきや地域によっても異 なるが、各種の調査結果をもとに、老後の「必要生活費」と「ゆとりある生活費」の単純平均 額(夫婦 1 カ月の月額)を計算すると、必要生活費としては 26 万円、ゆとりある生活費とし ては 36 万円となる。
しかし 36 万円、少なくとも 26 万円を年金ですべて賄えればよいのだが、どれくらい年金に 期待できるのだろうか。その水準は加入している年金の種類と現役時代の所得に応じて異なる が、夫婦二人の場合で受け取るモデル年金額としては、主な受給権者の平均額でみると約 19 万円である。必要生活費とされる 26 万円を大きく下回っている。
この数字を使って、下記のようにきわめて素朴な試算をしてみる(ファイナンスとしては、
リスクや割引率を使って現在価値に直していない値であるという意味できわめて大雑把な数字 ではある)。
65 歳から仮に 85 歳までの 20 年間を年金だけで暮らしていくと考えた場合、65 歳の時点で いくらの準備が必要になるだろうか。下記のように単純計算をすると、ゆとりある生活水準で 暮らし続けていきたい場合は実に 4,080 万円が必要と計算される。必要な生活費水準で計算し た場合は、1680 万円となる。
(ゆとりある生活費 :36 万円-年金 :19 万円)× 12 カ月× 20 年 =4,080 万円
(必要生活費 :26 万円一年金 :19 万円)× 12 カ月× 20 年 =1,680 万円
さて、これだけの額を退職時までに貯金で蓄えるのは無理だと思われる方も多いのではない だろうか。
4.金融ジェロントロジー
そこで近年、高齢化諸課題の解決に向けたより広い視点で共通の価値観をもとに協働する考 え方として注目さているのが「ジェロントロジー」という学際的分野である。金融の場面でも「金 融ジェロントロジー」という分野が登場している。「ジェロントロジー」は、学術的には「老年学」
「加齢学」と邦訳されることが多いが、その性質から「長寿学」「高齢学」「熟年学」「創齢学」「人 間年輪学」「長寿社会の人間学」「人生の未来学」など多様に訳され、今日では「高齢社会工学」
とも称される。
ジェロンロジーではさまざまなテーマがとり挙げられる。そのため医学、生命科、遺伝子工 学、認知科学、進化心理学、社会心理学、社会学、福祉学、経済学、法学、など、あらゆる専
門分野が動員されることになり、学際的な探求が必須となる。ジェロントロジーはこうした幅 広い知見を集積し、集積した情報をもとに超高齢化社会の新たな「自助」、「共助」および「公 助」の再構築を目指す価値創造の試みともいえる。
図の個人の金融資産の動きを見ると、従来は 60 歳で退職金を受け取った直後がピークにな り、退職金の受け取りと同時に仕事をリタイア、すぐに資産を取り崩す生活に入り、資産が減 少していく。しかし人生 100 年時代には退職金を受け取った後の期間が長くなるため、すぐに 取り崩しを始めたのでは途中で資産が底をついてしまう。それを避けるには、図のように退職 時期を延ばして取り崩し時期を遅らせ、資産がピークを保つ状態を一定期間維持し、資産の減 少カーブを緩やかにする必要がある。
資産寿命を延ばすには、資産額を増やすか、取り崩す期間を短くする、という 2 つの方法が ある。最大の手立ては長く働くことで、65 歳を超えて、70 歳、75 歳まで働けば取り崩しの開 始を遅らせることができる。また資産を増やすには、投資信託などで運用し、運用益を得るこ とが重要だ。さらに高齢になったらリスクをコントロールしながら運用を続け、そこから取り 崩す、という方法をとることで、減少カーブを緩やかにできる。
ここで図の下部の枠に「国の検討課題」として挙げられた課題に注目いただきたい。一つは
「フィナンシャル・ジェロントロジーの進展」を踏まえた「自助」努力の方向であり、二つ目には、
高齢者が人生 100 年を生き延びることのできる「多毛作人生」の設計を手助けのできる担い手 の存在あるいは地域の包括的支援システム、すなわち「共助」の構築であり、三つ目が、「公助」
のインフラストラクチャーを超高齢化社会を見越して整備されることが今後の課題とされる。
さきの図に再び注目する。横軸の年齢がさらに右方向に経るにしたがって、二つの山型の曲 線がすこし右方向にずらして描かれていることに注目することが重要である。なぜなら、ここ に人生 100 年時代に向けて「自助」、「共助」、「公助」により生き延びる道を拓くという期待が 込められた意図的な曲線のズレと考えられるからだ。
通常の現代経済理論では、金融資産の形成は「収入、支出、金利」といった市場の要因で決まる。
しかし、これ以外にも、金融資産の形成には、広汎な金融資産に関する意思決定に関わる諸要 素、すなわち金融に関する知識、金融リテラシーやリスク回避度・先延ばし行動、衝動といっ た心理的要素、そして計算、情報処理を行う認知機能によっても影響を受けることになる、こ のような心理的な側面に着目して経済行動を研究する分野として行動経済学や行動ファイナン スがある。また認知機能など脳・神経や内分泌が経済行動に与える研究分野として神経経済学 もある。金融リテラシー以外にも、これら行動経済学や神経経済学の知見を参考にし、心理的 要素、認知機能が金融資産運用や管理に与える。
2002 年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、「情動」の影響を受け素早 く判断する「システム 1(自動処理能力)」と、理性的に熟慮の上で判断する「システム 2(制 御能力)」のバランスのもとで行われる意思決定を「二重過程理論」と名づけた。この理論は 行動経済学の一つの重要なフレームワークになっているが、最近ではパーソナルファイナンス の実務でも広く応用されている。
5.「自助」、「共助」、「公助」
「自助」の努力とはある意味では、人生すべては自分の人的資本への投資であるとも考えら れるが、各人の教育への投資、具体的には学校教育、職場での OJT を含む職業教育、社会人 大学や大学院でのリカレント教育、熟年の「知の再武装」教育など、これらすべては「人的資 本」による自己補強によって曲線を右上方向に少しでもシフトする「自助」の努力と見做して よいだろう。
「共助」については、いうまでもなく地域包括医療ネットワークの整備、地域での高齢者の 多様な社会参画の活動支援、企業による退職年齢の引き上げや、退職後の雇用継続や、リカレ ント教育提供、金融教育による資産運用成果の向上努力などが考えられる。
本稿の残された紙幅では、年金・財政や医療・福祉と比べて、ほとんど議論されることのな い「公助」の新しいテーマ、すなわち「法の経済分析」の視点から、高齢化の法律問題を分析 するための先の図に示されたようなライフサイクル・モデルの発展版に含まれるべき要素(説 明変数の候補)を粗描する。
6.「人的資本」と「加齢化プロセス」
人的資本とは、人に体化している技能・技術、知識・教養、ノウハウなどの総称である。労 働者自身や企業による人的資本への投資行動が、人的資本自体のレベルを規定することになり、
人生の諸事万端はすべては自分の人的資本への投資であるとも考えられる。
人的資本への投資には、カネとともに人の時間を費やす必要がある。つまり投資のなかには、
直接的な費用のみならず、経済学でいう機会費用も含まれる。たとえぼ、大学院に進学する場 合には、入学金、授業料、教科書代などの直接的な費用に加えて、大学に進学せずに就職した 場合にえられるはずの賃金が機会費用として加算されることになる。
このような投資行動を、ミクロ経済学の最適化行動という視点から説得的かつ包括的に説明 してみせたという点で、ベッカー(Becker[1962])の貢献ほど大きなものはない。以下ではこ こで関連するだけの、ベッカー流の人的資本理論のエッセンスを概略する。
6.1 一般的人的資本と企業特殊的人的資本
人に体化している一般的人的資本は、どこの企業に勤めようとも同じような生産性を発揮で きる。そうすると、このような人的資本に投資する主体は、本人以外にありえないこととなる。
企業が人的資本に投資する場合にも、カネのみならず労働者の時間をも犠牲にしなければなら ない。たとえば、新入社員にオン・ザ・ジョブで教育訓練を施す場合には先輩社員による指導 が必要となるが、そのためには、先輩社員が本来の業務に費やす時間を削る必要がある。
企業の投資により労働者の生産性が上昇すると便益が発生する。ところが、労働者にはこの ような賃金を受け入れる便益は存在しない。というのは、労働者は転職市場が発達していれば、
自ら一般的人的資本をもっと高く売ることのできる機会を企業の外にいつでも見つけることが できるからである
他方、企業特殊的人的資本とは、一般的人的資本以外の人的資本をさす。企業特殊的人的資 本は、彼(女)が転職してしまうと目減りしてしまう。企業特殊度は、採用されている生産技
術のハード・ソフト的な特性、生産物市場や労働市場の競争条件などのさまざまな要因に左右 される。たとえば、非常にユニークな生産システムを誇っている企業で働く従業員にとっては、
そこで蓄積した技能・技術、知識やノウハウをそのままそっくり他企業で生かすことがなかな か難しいし、目減りの程度もかなり大きいと考えられる。
6.2 加齢化プロセスと「流動化知性」、「結晶性知性」
人的資本は、物的資産と同様に減価する。加齢化プロセスの進行により人的資本の減価は記 憶の喪失や適応能力の減退のようなかたちで現れる。この人的資本の減価は、最近のように激 変する環境では、特定の知識や熟練の価値が陳腐化するスピードも速い。そこで人は、死亡・
老齢・引退などの事態に陥らない限り・減価した人的資本の更新によって投資費用を回収する ために必要な稼得レベルを維持する努力が必要になる。
リカレント教育による「知の再武装」とは、この意味では、企業特殊的人的資本を一般的人 的資本に解釈・翻案し直し、ジェネリックな知識として他の職場に転職しても利用できるもの に知識変換することである。
また人は若年者から高齢者に移行するに際して、加齢に伴う認知的変化によって創造力と知 識・経験のバランスが変動する。加齢に伴う能力減退は、個人の自由裁量によるプロセスでは なく、持続的かつ継続的な一連の自然発生的プロセスである。
アリストテレスは『弁論術』のなかで、若年者と高齢者との関係を対峙的に考察する際に、
両者における人生の見通しが異なることを重視している。また高齢者と若年者のさまざまな相 違を挙げている。
「若年者の人生は、記憶によってではなく期待によって満たされている。期待とは、将来へ の思い入れであり、記憶とは過去への思い入れである。若年者は、その人生における将来への 長い時間と、その人生における過去という短い時間しか持っていない。人間が生を享けた瞬間 には、思い出すべき過去を全く持っておらず、全ての期待をその前途に向けることができる」。
他方、高齢者は、若年者とは反対に、「彼の人生は希望というよりも、むしろ過去の記憶によっ て生きている。彼の人生の残りの日々は、彼の長い過去に比べるとあまりに少ない。希望とは 未来であるが、記憶とは過去の残影に過ぎない。」
すなわち、人間の理性に関する主要な構成要素として知識と想像力について考えるならば、
この二つの要素のバランスは加齢に伴って変化する。この知識と創造力の関係は、近年の進化 心理学における「結晶的」知能と「流動的」知能の関係にほぼ相当する。
アリストテレスも指摘しているように、想像力と経験的知識は相互補完関係にある。
すなわち、若者の想像力の減退と高齢者の知識の蓄積の間での重要な相互作用は、流動的知能 と結晶的知能の間の相違に関係している。
流動的知能は問題解決能力に関連する知識と深く関係しており、また結晶的知能は日常習慣 的な知識がその基礎をなしている。若年者がこの仕事をする場合、高齢者のそれと比較すると、
経験から学ぶよりも思考をモデル化する能力に強く依存する傾向が現れる。彼らは、これまで 経験した同種の状況での判断方法を利用するのではなく、一般的な解決方法から特定状況での 解決方法を探りだすという思考方法を採用する。この思考方法は、高齢者が経験に依拠する傾 向があるのに対して、若年者は経験に頼ることが少ない特性として表現される。
進化心理学者の多くは、加齢に伴って流動的知能は、結晶的知能よりも急速に低下する事実
について実証している。高齢者は、想像力に依存するのではなく経験に依存する傾向が強く現 れる。これは、高齢者がさまざまな経験を持っているという理由によるのではなく , 彼等は問 題解決に想像力を活用する思考方法にもはや追随するのが難しくなっているからである。
これまでも経済学では若年者と高齢者の間での認知的・感情的・倫理的その他の加齢に伴う バランス変化を抽象的なレベルで考察してきた。
しかし近年、(Posner1995)を先駆者とする「法と経済学」の新しい分析アプローチでは、
これまで顧みられることのなかったアリストテレスや進化心理学者の加齢に伴う知識と創造力 のバランス変化を経済学的な用語に翻訳することで、高齢化・加齢化社会での法律や制度の経 済的分析にも重要な役割に転換させることを目指している。
これに関連し、つぎに高齢者が思いがけず遭遇し、予想もしないファイナンスリスクが発現 した法律事件に簡潔にふれる。
7.高齢者法の出現
7-1.ある鉄道事故の例
2007 年、愛知県大府市で、認知症(要介護 4)の 91 歳男性が線路に入り込んではねられて 死亡した。
JR 東海はその事故による遅延その他の損害 720 万円を遺族に対し請求した。民法 714 条は 重い認知症のように責任能力がない人の賠償責任を、「監督義務者」が負うと定めており、JR 東海は同居して介護を担っていた当時 85 歳の妻(彼女自身も要介護 1)と、当時横浜市に住 みながら介護に関わってきた 53 歳の長男に賠償を求めた。
事故は自宅で介護していた妻が目を離した間に外出し、徘徊していた夫がホーム端の階段か ら線路立ち入ったためとみられる。一審の名古屋地裁は横浜に在住し 20 年も同居していなかっ た長男の監督責任を認め、また妻の過失責任の両方とも認めた。二審の名古屋高裁は長男の監 督責任は認めなかったが、配偶者に請求額の半額 360 万円を支払うように命じた。
これはだれが読んでも、法律家が条文にあまりに囚われすぎて、高齢者社会の実態を認識し ないでだした判決としてしか理解できないのではないか。こんな判決が通れば、監督責任を負 わないには認知症患者に関りをもたない方法しかなく、誰も高齢者を監督する責任者になるこ とをためらうのではないか。このような判決で超高齢化社会を乗り切れるはずがないのではな いか。
さすが、最高裁は 2016 年 3 月 1 日、二審判決を破棄し、家族の賠償責任を認めない判決を言 い渡し、JR 側の逆転敗訴が確定した。その間すでに一審判決から 9 年が経過していた。
7.2 高齢者法
JR 東海事件が問題の一解決策として、高齢者が起こす事故を不可避とみて、その減少を図 る制度、たとえば高齢者特有のリスクと損害を分散する保険制度のように広くリスクを社会全 体に分散するような仕組みを構築することが考えられる。このように高齢者の問題を法律体系 のなかにうまく組み込むことを「高齢者法」と呼ばれている。
高齢者法といっても、そのような名前の法律があるわけではない。高齢者が直面する法的課 題を扱う分野を総称して高齢者法と呼ばれはじめている。それが注目されるようになってきた
のは、超高齢化社会にスビードを増して変貌しているわが国で、従来の条文解釈中心の法律運 用の考え方では対処できない上述のような事案がつぎつぎと法廷に、あるいは立法府に持ち込 まれるようになっているからだ。
問題は上述のような事件に遭遇した不幸な高齢者だけの問題ではもはやなく、わが国の法体 系がはたして今後、高齢化社会を支える持続可能なシステムとして機能するかが試される時代 にすでに突入しているということだ。
7.3 高齢者に対する法的アプローチの基本問題
1995 年には、高齢社会対策基本法が制定されている。その法律の前文を掲げてみよう。し かしそもそもわずか 6 箇条の法律で高齢社会への対策ができるわけがなく、これはまさに「基 本法」に過ぎない。
高齢社会対策基本法では、高齢者の直面する問題を「dearu 就業及び所得」、「健康及び福祉」、
「学習及び社会参加」、「生活環境」という四つの側面に分けて整理していた。これは、要する に高齢者の生活全般にわたって問題があるということを意味し、そのための対策を講ずること を国や地方公共団体に求める内容となっている。他方で、同法には、「自立した日常生活」と いう言葉が 2 度繰り返されており、高齢者の自立を支援するという方向性が打ち出されている。
だからこそ、国民に自主的な努力を求める義務を明記しているのである。
(樋口 2019)は、高齢者法のキーワードとして、次の 3 つを挙げている。① ex ante(事前)、
② personalized aging(年の取り方もそれぞれ)、③ empowerment(権利や力を与える支援)
である。
①は、これまで多くの法律家が関心を注いできた事後的な対応に対して、事前のプランニン グや紛争予防を高齢者法ではより重視すべきことを意味する。事後的な利益や損害の調整以上 に、事前に第二の人生設計を助け、紛争予防を図り、合意に代わるルールをつくるわけである。
②は、高齢者への対応において、画一化以上に個別化を重視する視点である。
③は、力を削ぐのではなく、権利や力を与える、エンパワーメントするような法にするとい うことである。
こうした観点を重視すると、たとえば多くの欠点を指摘される現行の成年後見制度以外にも、
生前信託等により、それぞれの人生設計を可能とする法的支援の仕組みを構築していくべきこ とになる。事後的に利益や損害を調整するのではなく、第二の人生(長期の高齢期)を事前に 計画することで紛争を予防していくとともに、自身の意向にあった個別の高齢期を自ら設計す るのである。
7.4 金融ジェロントロジーへの応用
金融取引における「高齢者保護」の難しさ高齢者の金融取引に関してまず対応しなければな らないのが、高齢者をいかに「不適切な取引」から保護するかであろう。その中には、いわゆ る振り込め詐欺をはじめとする「特殊詐欺」の未然防止も含まれる。
詐欺のような極端な事態を除くと、何が高齢者にとって「不適切な」取引なのか、区分する ことが難しい。一般に、加齢と共に記憶力や理解力が低下するとしても、高齢投資家が行いた いという取引を他者が不適切であるといった理由でやめさせるのは、個人が自分の資産を自由 に扱う権利を制限することになりうるからだ。
金融関連の諸法で投資勧誘全般に適用される「適合性の原則」がある。適合性の原則とは、
金融機関が個人に対する投資勧誘を行うにあたり、その取引が顧客の知識、経験、投資目的、
財産状況に照らして適当かどうかを確認し、不適当と思われる場合は勧誘してはならないとす るルールである。例えば、初めて投資を行う人に対して過度に複雑な商品を勧めるといった行 為は、適合性原則に反する可能性がある。金融機関の投資勧誘には、法律制度によりその取引 が顧客にとって適切かどうかを判断するという行為がビルトインされていると言える。
資産寿命の伸長のキーワードも事前設定の例である。事前に保険料を払い込み将来の給付を 確保する年金保険も 1 つの方法であるが、それ以外にも投資一任口座や信託といった金融サー ビスを活用することが考えられる。これらのサービスにおいて予め資産の目的や権限の委任先 を明示しておけば、詐欺被害の防止はもとより、本人が自分の従前の意思に反するような行動 を取ってしまうことの未然防止にもつながりうる。
心身機能低下の可能性を踏まえた「事前設定」を行うことが、高齢投資家及び家族と金融機 関とのトラブル防止といった防衛的な理由にとどまらず、より有効な資産管理のサポート提供 という観点からも鍵を握る。家族との連携を強化することの意味合いも広がってくるだろう。
参考文献
1. 『ジェロントロジー宣言』寺島実郎、2018、NHK 出版新書 2. 『新老年学第 3 版』大内尉義・秋山弘子編、2005、東京大学出版会 3. 『金融ジェロントロッジー』清家篤編、2017、東洋経済新報社
4. 『エッセンシャル金融ジェロントロジー』駒村康平編、2019、慶応義塾大学出版会 5. 『行動健康経済学』依田高典・後藤励・西村周三著、2005、日本評論社
6. 『医療現場の行動経済学』大竹文雄・平井啓編、2018、東洋経済新報社 7. 『アリストテレス 弁論術』戸塚七郎訳、岩波文庫
8. 『高齢者法』樋口範雄・関ふ左子編、2019、東京大学出版会
9. 『高齢者の交通事故と補償問題』堀田一吉・山野嘉朗編、2015、慶応義塾大学出版会 10. “THE PREHISTORY OF THE MIND” Steven Mithen, 1996, Thames and Hudson
11. “HUMANCAPITAL”GaryS. Becker, 1962, the National Economic Bureau of Economic Research,Inc.
12. “AGING AND OLD AGE”Richard A. Posner, 1995, The University of Chicago Press