新約聖書の福音書の中に、イエスが舟の上から大群衆に説教をするという場面がある(マタ イ13:1-35)。イエズス会のジェイムズ・マーティン神父によれば、ガリラヤ湖の湖畔に円形 演技場のような地形をなしているところがあり、実際にその近辺に舟を浮かべて岸部に向かっ て話してみると声が反響して非常に聞き取りやすい(195-98)というのだが、単に声が聞こえ るだけで人が聞きに来るわけではないから、イエスの話にはそれだけの数の群衆を集めるだけ の大きな魅力があった(もしくは、福音書記者がそのような魅力があるとして描写した)とい うことになる。このエピソードに福音書記者の誇張があり、文字通りにはとれないとしても、
イエスの話に大きな魅力があったことはその後の教団の発展を見ればほぼ疑う余地はあるま い。一方、イエスの死後布教に携わるかたわら多くの手紙を残し、キリスト教神学の方向性を 決定づけたパウロの場合は残念ながらそこまでの魅力的な話はできなかったらしく、家の一室
(当然のことだが、ガリラヤ湖畔に比べれば非常に小さい)に集まった人々に話をしていたと き、その「話がながながと続くので」、聞き手のひとりが眠くなってしまい、しまいにはぐっ すりと寝込んだあげく三階から落ちて死ぬというエピソードが『使徒行伝』に出ている(20:
7-9)。パウロの真筆とされる手紙にも、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実 際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」(2コリ10 : 10)〔聖 書の訳文は口語訳聖書によった〕と書かれているから、本当に聞き手が三階から落ちて死んだ のかどうかはともかく、その話のつまらなさには定評があったようである。ガリラヤ湖畔を埋 め尽くすほどの大群衆を引きつける話、聴衆が眠りこけて転落死するような話―このような対 照は新約の時代のイスラエルだけでなく、ありとあらゆるところで見られるものであろう。た とえば現代の教育現場でも、大講堂を埋め尽くした学生を少しも飽きさせない教師もいれば、
小さな教室でわずかな人数相手に教えていても学生が退屈して眠ってしまう教師もいる。ビジ ネスの世界でも、アップル社の故スティーブ・ジョブズのようなプレゼンテーションの天才も いれば、そうでない人もいるだろう。ではいったいこの違いは何から生まれるのだろうか。お もしろい話とそうでない話、換言すれば聴衆や読者の関心を引く話とそうでない話の違いは何
世界を変えたストーリー:
進化論批評による福音書分析の試み
Why Story Matters : Storytelling of the Evangelist Matthew
小 沢 茂
OZAWA Shigeru
キーワード:ストーリーテリング, 進化論批評, 文学的ダーウィニズム, 新約聖書が原因で生じるのだろうか。
イエスが聞き手の関心を引きつけた原因の手がかりを福音書中に求めれば、それは「たとえ 話」(寓話)にありそうだ。「イエスは譬で多くのことを語り」(マタイ13:3)、「譬によらな いでは何事も彼らに語られなかった」(マタイ13 : 34)とある。ここでいう譬とはイソップ物 語のような寓話であり、ひとつのまとまった出来事の叙述を通して何らかのメッセージを伝え るものである。実在の、あるいは架空の出来事の叙述をストーリーと定義するならば、イエス とパウロの話の違いはストーリーテリングの有無にあると言えよう。事実、よきサマリア人の たとえ、放蕩息子のたとえなど、イエスの語る寓話には印象的で感動的なものが多い。一方、
パウロの手紙にはたとえ話はほとんど出てこないから、おそらくその話にも多くはもちいられ なかっただろう。
しかし、ただストーリーテリングが聴衆や読者の関心を引くというだけでは、ある人の話が なぜ魅力的で、別の人の話がなぜ聞き手が熟睡して三階から転げ落ちるほど退屈なのか、とい う問題の半分の解決にしかならない。世の中にストーリーは星の数ほどあるが、印象的なストー リーは限られているし、まして長い時間の試練に耐えて多くの人々を魅了し続けるストーリー ということになるとごくわずかだからである。あるストーリーが別のストーリーよりも読者の 関心を引く原因は何なのか。この問いに答えようとしなければ、読者や聴衆の関心を引く要因 についての問題に取り組んだとは言えまい。
新約聖書の福音書を(聖典としてではなく)ストーリーとして分析することで、ストーリー テリングと関心の問題を考える材料が得られるように思われる。新約聖書に収められている四 福音書はイエスの生涯という同じテーマを扱っていてもその特徴はそれぞれ異なり、伝統的に はそれぞれ人、ライオン、牛、鷲になぞらえられる(フランシスコ会聖書研究所 2)。それ ぞれの福音書から受ける印象も必然的に異なったものとなり、たとえばマタイによる福音書を もとにした映画『奇跡の丘』を監督したイタリアのピエル・パオロ・パゾリーニは「ヨハネは 神秘的すぎるし、マルコは通俗的すぎる。ルカはあまりにも感傷的だ」(Rumble and Testa 18)としてマタイによる福音書を映画化の題材に選んだといわれる。また、福音書を題材にイ エスの受難を描いた音楽を受難曲というが、どの福音書を取りあげるかは作曲家によってまち まちである。ヨハネを除く三人は共通するエピソードを多く記しているのだが、それでも読者 が受ける印象、芸術家に与えるインスピレーションがこのように異なるのはそれぞれの福音書 記者のストーリーテリングの技法の相違にあると考えることができるだろう。同じ題材でも語 り方によって読者に与える印象は大きく変わるのだ。福音書をキリスト教の聖典ではなくス トーリーととらえ、そのストーリーテリングの技法を分析することで、読者の関心を引くストー リーにはいかなる特徴があるのかを明らかにすることができるだろう。
ストーリーテリングが聞き手や読者の関心を引く仕組みについて近年もたらされた新しい知 見が福音書のストーリー分析の手法として力を発揮してくれると思われる。その知見とは進化 論の視点からストーリーを分析する進化論批評である。進化論批評によれば、ストーリーを語
り、それを鑑賞することは人類にとって生物学的な「適応」である、という(Boyd 381)。ス トーリーを語り鑑賞することによって人類は生存と繁殖の可能性を高めてきたために、ストー リーテリングが人類の普遍的な行動になっているというのが進化論批評の立場である。した がって、自らにとって適応的であるストーリー、つまり生存と繁殖の可能性の向上につながる ストーリーに魅力を感じるようになったというのだ(Mar 6)。進化論批評は文学だけでなく 生物学、社会心理学などさまざまな分野の研究者が携わっている学際的な比較的新しい批評理 論であるが、これまであまり重視されてこなかった関心を引く仕組みに焦点のひとつを当てて おり、進化論批評の立場からイエスのストーリーを分析することで得られるものは少なくない と思われる。本論では共観福音書の中で伝統的にもっとも高く評価されているマタイ福音書を とりあげ、進化論批評の視点からそのストーリーテリングの手法の分析を試みる。
1
昔むかし、首の長いきりんと首の短いきりんがいた。首の長いきりんは高いところにある木 の実を容易に食べることができ、首の短いきりんが必死にえさを探している間に配偶者を探し て子孫を残すことができた。その結果、次第に首の長いきりんの数が増え、首の短いきりんの 数が減っていき、現在は首の長いきりんのみが暮らしている。同様に、昔むかし、ストーリー
―実際に起った出来事、もしくは虚構の出来事についての叙述―を語らない「まじめ族」とス トーリーを語る「おしゃべり族」がいたとしよう。まじめ族は毎日狩猟採集に励み、配偶者を 求め、一切の無駄なく暮らしていた。物語族も狩猟採集、求愛行動をするけれども、まじめ族 が明日の労働にそなえて休息をとり、体力を回復している間に噂話、神話伝説、民話、怪談の たぐいを語り、時には夜も寝ずにストー リ ーを 楽し んだ。ど ちら が生 き残 るだ ろう か。
(Gottschall 18-19)これはブライアン・ボイドが『ストーリーの起源』で提示した(83-84)
思考実験をジョナサン・ゴッチャルが『ストーリーテリング・アニマル』でさらに敷衍したも のだ。常識的に考えれば「まじめ族」の方が勝利するように思われる。しかし現実はそうなっ ておらず、ストーリーを一切語らない「まじめ族」は世界中どこを探しても存在しない。なぜ なのか―このように進化論の視点からストーリーテリングの機能を論じる立場を進化論批評と 呼び、近年学際的に注目されてきている。
進化論批評の立場では、ストーリーが読者の関心を引くことはその機能と密接に関係したも のとして論じられる。多くの進化論批評の論者は、ストーリーを語り、受容することは人類に とって「適応的」であった、すなわち人類の生存と繁殖の可能性を高める重要な機能を持って いたと考え、これが進化論批評の根幹にある。ストーリーが聞き手や読者の関心を引くのも、
人間にとって重要な機能を果たしているからだというのだ。これはちょうど、栄養豊富な食べ 物が魅力的に感じられるのと似ている。自らにとって有用なものであれば、それに魅力を感じ、
積極的に求めるようになるのが進化の帰結であるというわけである。わたしたちがすぐれたス
トーリーに関心を持つのは、それらが役に立つからだ―これが進化論批評の考えである。
ストーリーテリングが受容者に肯定的な変化をもたらし、それゆえにわたしたちの関心を引 く理由は疑似体験による、というのが進化論批評の一致した見解である(Gottschall 57, Boyd 157-58, Clasen 4)。わたしたちはストーリーに接するとき、擬似的に登場人物と同じ経験を するが、これが生存と繁殖の可能性を高めているというのだ。ゴッチャルはフライトシミュレー タのたとえを用いてこのことを説明している。パイロットがいきなり本物の飛行機で練習した ら、事故の確率がきわめて高くなり、命を落としたり、貴重な機材を失ったりしてしまう。そ こでまずフライトシミュレータである程度の時間訓練し、上達したところで実際に空を飛ぶの である。フライトシミュレータなら、墜落しても自分は怪我をするわけではないし飛行機が壊 れるわけでもない。パイロットはその失敗から学習し、操縦技術を磨くことができる。ストー リーも同じだ、というわけだ(56)。作品世界の中でだまされたり裏切られたり殺されたりし ても、読者や聞き手は実生活では何の被害もないわけであるから、安全地帯にいながら実社会 で生き抜くスキルを身につけることができる。したがってストーリーがすぐれた疑似体験とし て機能する場合―たとえば配偶者の選択、地位の維持、欺きといった生存戦略に密接に関わる 問題やその解決が扱われている場合、利他的行動を促進し集団の結束を強める手がかりが得ら れる場合、あるいはクラッセンが指摘するように、闇や肉食獣など、長い狩猟採集時代を通し て人類を脅かしてきた危険な存在とその対処を扱ったものなど(30, 35)―は、読者や聞き手 が払う関心も大きくなることになる。
ストーリーという疑似体験のもたらす効果は知性と協力の二点に集約することができ、これ は受容者の関心と表裏一体の関係にある。ゴッチャルは前掲書の中で、認知的遊びによる認知 能力の向上、社会集団の結束力の強化、そして人間の行動の変化という点からストーリーの機 能を論じている(27-28)。ボイドはその著書
On the Origin of Stories
の中で、「(一) 人 間の認知の中核となる様式──視覚、聴覚、社会性──において精!神!を!洗!練!し!調!整!す!る!。(中 略)(二) 才能ある芸術家の地!位!を向上させる。(三) 人間という社会的な種においては共 同体の調和と協!力!関!係!を改善する。そして(四) 個人的、社会的レヴェルで創!造!性!を涵養す る(381)〔訳文は小沢 347-48〕」と、ストーリーの四つの機能を挙げている。いずれの見方 でも、知性の向上という個人的な側面、そして協力関係の改善(ないし集団の結束力の強化)という集団的な側面に光が当てられているのだ。個人と集団をよりよく変化させる―これが進 化論批評が主張するストーリーテリングの機能であると言えよう。この機能をよりよく果たす ことができるストーリーは、高カロリーの食べ物と同様、人間に魅力を与えるというわけであ る。
ストーリーテリングの疑似体験によって向上する知性のうち、ボイドがとりわけ注目してい る心の理論の発達はとりわけ重要であるから、ストーリーが読者の関心を引くことができるか どうかも、ひとつはこの機能を果たせるかどうかにかかっている。心の理論とは平たく言えば 他者の視点からものごとを眺める能力であり、人類は霊長類の中でも心の理論を高度に発達さ
せていることで知られている。ストーリーはその展開につれて第三者的な「神の視点」を含む さまざまな登場人物の視点から描かれるから(192-93)、鑑賞者はストーリーを楽しみながら 高度な心の理論を身につけていくのだ、というのがボイドの説である。外見と内実、劇的アイ ロニー(読者が知っていることを登場人物が知らないことによって生まれる面白さ)が文学で 重要なテーマになっているのもこれと関係しているという(149)。心の理論は意図的に相手に 誤った信念を持たせる欺きの基盤ともなるため、これを身につけているか否かは集団内、集団 間競争での勝敗を左右する。この説によれば、ストーリー鑑賞によって擬似的にだまされる経 験を積んできた「おしゃべり族」は、そのような経験のない「まじめ族」を駆逐していったの だ。「おしゃべり族」はストーリーというシミュレーションの中でだまされても痛くもかゆく もないが、「まじめ族」は現実でだまされて物資、地位、時には生命を奪われ、進化の舞台か ら退場するほかはなかったのである。このように考えれば、ストーリーの鑑賞によって心の理 論を発達させるかどうかはまさに生存を左右する重大問題であると言えよう。それゆえに心の 理論を効率的に発達させることができるようなストーリーが人々の関心を引くとしてもそれは きわめて自然なことである。
知性の向上は主として一個人の適応度を上げるにとどまるだろうが、ストーリーテリングは 集団全体としての競争力を上げる効果もあり、読者の関心を左右するいまひとつの要因となっ ている。集団の競争力を上げる効果とは協力関係の改善であり、中でもボイドが注目するのは 特定の価値観を共同体構成員全体に植え付けることで利他主義の規模を拡大するという機能 だ。ボイドは進化論に従って生物の協力行為を相利共生(54)、血縁選択(54)、互恵的利他主 義(57)などに分類しているけれども、それぞれがまったく同じ規模で協力行為が行われるわ けではなく、たとえば相利共生などは二個の個体の協力であるし、血縁選択は親子、きょうだ いといった比較的小規模の血縁集団内の協力である。互恵的利他主義になると少し規模が拡大 してお互いに顔見知りの集団程度まで含むようになるが、会ったこともない相手との協力、た とえば戦争時における国家レベルの協力まで規模を拡大するためには、文化的な規範(利他的 に行動すれば利益が得られ、利己的に行動すれば不利益がもたらされる)が必要となり、それ を支えるのがストーリーの共有である(63-64)というのがボイドの理論である。ストーリー によって特定の価値観を共有し、利他的な構成員が増えることで集団内部で助け合いが行われ るようになれば、その集団の結束はかたくなり、めいめいの構成員が利己的に行動して足を引っ 張り合っている集団との闘争に勝利する可能性も上がるだろう。そう考えれば、ストーリーテ リングは集団全体の存続を左右する重要な機能を持っていると言えよう。ストーリーのこの機 能は人間の社会的感情と密接に関係している。人間を含む多くの種は利他主義者を賞賛し利己 主義者を嫌悪する社会的感情を持つように進化してきた(Boyd 64, 288-89)。したがって主 人公や善玉は利他的に行動する場合が多いし、敵役は利己的な人間に設定されることがしばし ばである。読者は主人公に共感し、悪役を憎むけれども、それは本能的に備わっている社会的 感情のなせるわざである。すぐれたストーリーは読者の社会的感情に訴えることでその関心を
引きつけ、共通の価値観を普及させて集団の適応力を高めるのだ。
進化論批評は適応としてのストーリーの機能を考察することで、どんなストーリーがわたし たちの関心を引き、どんなストーリーがわたしたちを退屈させるのかについての手がかりを与 えてくれる。生存と繁殖の可能性を高めるシミュレーションとして機能しうるようなストー リー、すなわち配偶者の選択や地位の確保などの生存戦略に密接に関わる問題を扱ったもの、
本能的に恐怖を引き起こすような危険な存在とその対処を扱ったもの、心の理論を中心とした 知性の発達に寄与しうるもの、利他的行動を促進しうるようなストーリーが読者にとっては魅 力的にうつるのだ。進化論批評を用いて分析することで、ストーリーが読者の関心を引く理由 の一端を明らかにすることができるだろう。
2
現代の聖書学者は、マタイによる福音書の著者(実際には十二使徒のひとりであるマタイで はないらしいのだが名前が不明であるから便宜的に以後マタイと呼ぶ)が自身の目的やメッ セージを持ったストーリーテラーであることを示している。Bart D. Ehrman による新約聖 書の概説によれば、マタイは1世紀後半、おそらくは紀元後80年から85年前後に、マルコによ る福音書と Q 資料と呼ばれるイエスの言行録のようなものを含む各種の資料をもとに福音書 を書いた(130)。彼はイエスを、ユダヤ人の希望を実現するためにユダヤ人のもとに現れたが、
当時のユダヤ人の指導者によって拒絶されたユダヤ人の救世主として描きだそうとした
(133)。このことはアブラハムにさかのぼるイエスの系図(131-3)、ヘロデ王と東方の三博士 とのエピソード(133-36)を創造したこと(ユダヤの指導者がイエスを殺そうとし、異教徒が 彼を崇拝するという図式は福音書全体を一貫して流れるテーマである)、洗礼者ヨハネによる 洗礼の際、イエスが神の子であることを神が一般の人々に対して宣言しているように改変した こと(イエスを拒絶したユダヤの指導者層に対する批判を強める効果を持つ)(136)、シナイ 山でモーゼが十戒を受けたことにかたどり、イエスの教えを山上の垂訓という一場面に集約し た上、律法を廃するのではなくより実質的な形で守れという形で提示していること(イエスが ユダヤ教の教えに反しているという福音書執筆時のユダヤ教指導者層からの批判をかわす狙い があった)(142)、ユダヤ人の指導者層に向けたたとえ話を織り込み、受難の際もユダヤ人の 指導者層を悪者にしたこと(144-45)などから読み取れる。
マタイが徹底してユダヤの指導者層を批判しているのは、彼〔マタイ〕のいた共同体が 非キリスト教徒のユダヤ人たち、とりわけその地域のシナゴーグにいた影響力のある律法 学者やラビたちから圧迫を受け続けていたからだ、というのがおそらく最良の説明であろ う。律法学者やラビたちは、彼ら〔マタイを含む初期キリスト教徒の集団〕がモーゼと律 法を捨て、無思慮にもイエスを信じることでユダヤ教の背教者となったのだと非難したの
だと考えられる。
キリスト教共同体のユダヤ人の指導者(その高い文学的スキルは彼が高度な教育を受け たことを示唆しているから、彼がこの地で高い地位を占めていたと仮定しうる)であった マタイ(本名は伝えられていない)は、イエスは実際には神の律法をユダヤ民族に与えた モーゼのようなユダヤ人の救世主であったことを示そうとしたのだ。(147)
マタイは単に当時手元にあったイエスに関連する資料を漫然と年代順につなぎ合わせたのでは なく、自身の明確な目的を持ち、それに適合するようにさまざまな資料を取捨選択し、時には 改変し、マタイにしか見られない独自のエピソード―これが M 資料と言われるマタイが入手 した資料の流用なのかマタイ自身の創作なのか不明であるが―を加えて、マタイによる福音書 という宗教的ストーリーを作り上げたのである。
マタイが執筆当初に持っていた、旧約の律法とイエスの教えを齟齬のないものとして提示 し、イエスをユダヤ人にとっての救世主として描くというストーリーテリングの目的は、ユダ ヤ教徒がキリスト教徒を圧迫しているような、マタイが暮らしていた共同体においては直接的 に機能したであろうが、そうした背景のない読者に対しても強い魅力を持っている理由を十分 に説明することはできないように思われる。「初期の教会においてはこの福音書はもっとも人 気があり、広く読まれていたように見える。1967年に聖書日課が改訂されるまで、これが典礼 でもっとも頻繁に読まれる福音書であった」(
Revised New Jerusalem Bible
3)という、この福音書の圧倒的な人気をどう説明したらよいだろうか。大半の読者は日常的にユダヤ教の ラビから背教者との非難を受けて圧迫されているわけでもなければ、ユダヤ人でもないのであ る。それどころかキリスト教の信者でない読者にも、マタイによる福音書は魅力的にうつるの だ。たとえば冒頭に挙げた『奇跡の丘』を監督したパゾリーニは生涯、共産主義と深い関係を 保ち続けた(Viano 8)。なぜ、マタイによる福音書がほかの福音書をおさえてこれほど多く の人々の関心を引くのか―この問題を考えるためには、マタイが執筆した時代的文化的背景を 離れ、そのストーリーテリングの技法に焦点を当てる必要があるだろう。進化論的分析がその 手がかりになるはずである。
読者の関心を捉えるマタイのストーリーテリングの技法を考える際には、ほかの福音書には ないマタイ独自のエピソードに注目することが必要であろう。マタイ、マルコ、ルカの三人は 扱っているエピソードに重複が多いためにこの三つを共観福音書と称するが、それぞれほかの 福音書にはない独自のエピソードも持っている。マタイ独自のエピソードには有名なマリアの 処女懐胎にまつわる夫ヨセフの苦悩のエピソード、それに続く東方の三博士の礼拝とヘロデ王 による嬰児殺しのエピソードが含まれている。マタイによる福音書の印象をほかのものと大き く変えるひとつの原因はこうした独自の要素なのである。マタイはこれらのオリジナルエピ ソードを通じてどのように読者の関心を引く魅力的なストーリーを作り上げているのだろう か。
福音書の冒頭に置かれ、それゆえただでさえ読者の関心を引きやすいマリアの夫ヨセフの苦 悩のエピソードはあらゆる人間の生存戦略にかかわる問題を含んでおり、読者の強い関心を引 く。この場面は配偶者の選択の問題、妻の子が本当に自分の子で養育に値するかどうかという 男性に普遍的な問題を前景化しているからである。配偶者の選択という問題は人間を含むあら ゆるほ乳類の生存戦略にとってきわめて重要なもので、事実、ボイドが述べているように、「世 界中のストーリーの中核となる焦点は恋愛、ロマンティックではない生物学的用語でいえば、
『配偶者の選択』である」(225)〔訳文は小沢 208〕。換言すれば配偶者の選択以上に読者の関 心を引く要素はそれほど多くない。この点でマタイはきわめてすぐれたストーリーテラーであ ると言えよう。マタイによる福音書の一章、イエスの系図の直後に置かれたヨセフの苦悩のエ ピソードは以下のようなものである。
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、
まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、
彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを 思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しな いでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をその もろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預 言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、
主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知る ことはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。(マタイ1:18-24)
ここでは配偶者の選択の問題は男性側にとっての恐怖と表裏一体となり、さらに関心を引くこ とになる。人間に限らずおよそ有性生殖をする動物であれば、雌は子どもが確実に自分の遺伝 子を受け継いでいることがわかるが、雄はそれを確認する手段がない。したがって子どもが本 当に自分の子どもであるか否か、他人の子どもを育てさせられているのではないか、という疑 問は男性にとっては深刻な恐怖である。クラッセンが指摘するように、恐怖は関心と紙一重で ある(41)から、恐怖をかき立てるようなストーリーには読者は本能的に関心を払う。他の男 の子どもを育てさせられ(てい)るかもしれないというこの恐怖を解消するためには、身持ち がよく浮気をしない配偶者を選ぶことが肝要であり、ここに配偶者の選択の問題が生じる。こ れはあらゆる男性読者にとっては深刻な問題であるから、否応なくストーリーに引き込まれる ことになる。
ヨセフの苦悩のエピソードに見られる読者の関心を引くいまひとつの要素はヨセフの自己犠 牲が引き起こす社会的感情である。「子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった」の「子 が生れるまでは」をどう解釈するかをめぐっては議論があるようだが、マリアは結婚前も結婚 後もヨセフとも誰とも性 的関 係 を持 た な か った とい うカ トリ ック の教 義(
Revised New
Jerusalem Bible
11)にしたがうならば、マリアもヨセフも自らの遺伝子を残すことなく、自分の子ではないイエスに対して教育にかかわる時間とエネルギーという形でコストを支払っ たことになる。ヨセフはマリアを離縁し、他の配偶者を選んで自らの遺伝子を残すこともでき たはずであるから、これはヨセフの自己犠牲であり、マリアにも同じことが言える。彼らは自 己を犠牲にして神の計画を実践しようとする。人間を含む多くの種は利他主義者を賞賛し利己 主義者を嫌悪する社会的感情を持つように進化してきた(Boyd 64, 288-89)。この社会的感 情があるために読者はヨセフの自己犠牲や利他的な行動に本能的に感動し、より多くの関心を 払おうとするのだ。
3
マタイがヨセフの苦悩に次いで語る東方の三博士とヘロデ王のストーリーもまた、進化の結 果として獲得された人間の感情に強く訴える要素を持っている。すなわち重要な人物(高位の 人物)への関心、複数の視点の間の移動、地位の簒奪への恐怖、謀略、そして殺人者への恐怖 である。まずは重要な人物への関心から見ていこう。東方の三博士とヘロデ王のストーリーは 以下のようなものだ。
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からき た博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、
どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきまし た」。
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのか と、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者 がこうしるしています、
『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼ら
をベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかっ たらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。彼らは王の言うことを聞いて出 かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、
その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいっ て、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・
乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを 受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な 子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにと どまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、ヨセフ は立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこに とどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言 われたことが、成就するためである。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわ し、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の 男の子を、ことごとく殺した。こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就 したのである。
「叫び泣く大いなる悲しみの声が ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。(2 : 1-18)
マタイと同様イエスの生誕を物語っているルカによるイエス生誕のストーリーでは羊飼いが礼 拝に訪れるが、マタイのストーリーでは客人は羊飼いではなく「東からきた博士たち」である。
この「博士」が何の博士だったのか、東とはどこなのかという問題は諸説あるようだが、当時 羊飼いが社会の最下層に位置する職業であったとされる(Green 130)のと比べると、訪れる のが博士という知識人―当時のユダヤ社会では学者たちは政治にも携わる(事実、ヘロデ王は ここで部下の律法学者に教えを請うている)支配者層に属するものであったろう―で、「黄金・
乳香・没薬」といった高価なものを捧げることができるような相当に裕福な人物であることは 対照的である。また、彼らが「新しい王」の手がかりを求めて最初に訪れるのはユダヤの王ヘ ロデであり、こちらもまた高位の人物だ。人間は進化の過程で、こうした、さまざまな点で一 般水準よりもすぐれた人物―力の強い人物、見目麗しい人物、地位の高い人物、並外れた知識 を持っている人物―に強い関心を持つようになったとされている。人間は集団で生活しなけれ ば生き延びられなかったが、集団生活においてはそうした人並み以上の人物が指導者になる可
能性が高く、したがって彼らの動向には絶えず関心を払っていなければならない(Boyd 164- 65)。同時に彼らと関心を共有することも重要である―指導者と関心を共有していれば今後集 団がどのように動いていくかを予測でき、自分がどう立ち回っていけばよいかの手がかりにな るからだ。こうした重要人物への関心は人間に特有の行動ではなく、ほかの霊長類にも見られ るものだとされ、それゆえに人間の本能にきわめて深く根づいているといえよう。ボイドは猿 の群れの中での地位を決めるのは、他の構成員から「見られている」回数だという(110)。地 位の高い個体は他の個体から常にその動きを見られているのだ。群れの構成員たるもの、常に 有力な個体の動向を監視し、その関心を共有しなければ生きていけない。マタイもまたこうし た人間の―もしくは社会的動物の―進化した感情に訴える。救世主イエスは人々が誰も顧みな かった影の薄い人物ではなく、在世の王も異国の学者も関心を寄せている重要な存在だと示す ことで、読者はますますイエスに引きつけられていくのである。
ヘロデ王のエピソードでは視点の転換が複雑な形で見られ、これが読者の関心を引く要素と して重要な役割を果たしている。ボイドはストーリーが心の理論の発達をもたらす理由として 視点の転換を挙げている(193)が、知性を進化させるようなストーリーに人間は興味を持つ という説(Mar6)が正しければ、「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた」に至るまで の過程で読者が強い魅力を感じることも説明できる。読者はヨハネの苦悩のエピソードで神の 使が語った「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」という神の視点から、「新しいユダ ヤ人の王」という異邦人の知識人層(もしくは支配者層)の視点を経由して、自らの地位の簒 奪者というヘロデ王の視点へとめまぐるしく移動しながらイエスを眺めることになる。
読者がヘロデ王の視点からストーリーを眺めたとき、関心を引く新たな要素、すなわち地位 の喪失への恐怖が現れる。進化心理学では、人間は長い進化の過程でさまざまなものを恐れる ようになったと考える。それは特定の対象に恐怖を覚えた方が生存の可能性が上がるからであ る。クラッセンはそうした恐怖の対象として、闇(捕食者が潜む危険がある)、大型の肉食獣
(食われる危険がある)、ネズミ(病気の媒介となる)、蛇(ときに致命的な毒を持つ)などに 加え、地位の喪失を挙げている。人間の感情が進化した長い狩猟採集時代においては、強大な 肉食獣に対抗するためには集団で行動せざるを得ず、集団から放逐されることは死を意味した
(35)。したがって集団内部での地位は死守しなければならず、それを脅かす存在に恐怖を覚え るよう進化してきたのはきわめて自然なことである。ヘロデ王がイエスの誕生におびえたのも まさにこの理由であり、ヘロデ王の視点からストーリーを眺める読者たちもまた彼に感情移入 して同じ恐怖を覚えることであろう。ヘロデ王が現在のユダヤの王であり、そこに「新しい王」
が現れるということは当然、自分の地位が新しい王によって簒奪されることを意味するから だ。クラッセンが指摘するように、恐怖と関心は表裏一体である(41)から、読者たちは恐怖 を覚えると同時に強い関心を持つことになるのだ。
地位簒奪の恐怖にかられたヘロデ王は先手を打って謀略をめぐらすが、この謀略もまた読者 の関心を引く結果となる。なぜならボイドが指摘するように人間において謀略とは相手に意図
的に誤信念を植え付ける行為であり(275)、心の理論と深く関わっているからだ。視点の変化 と同様、謀略の理解もまた心の理論の理解を必要とし、それゆえに心の理論の発達を促す。読 者はそうした心の理論の発達を促すような要素に関心を引かれるのだ。ヘロデ王は博士たちに 誤信念、つまり「わたしも拝みに行く」という信念を植え付け、それによって幼子の居所を探 ろうとする。この場面を理解するためには読者はヘロデ王が博士たちに「幼子を拝みに行く」
という誤信念を植え付けようとしていること、内心は別の目的があること、そして博士たちが それを知らないことを理解していなければならないから、読者の心の理論の発達を促すに足る 複雑な内容であるし、知性を発達させるようなストーリーに読者が本能的に魅力を感じるとす れば、この謀略の場面に読者が関心を払うのもうなずけよう。
一時的なサスペンスの後に主の使が「ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」と いう真相を明かすとき、ストーリーは人間が進化の過程で本能的に持っている殺人者に対する 恐怖を引き起こし、読者の関心をさらに引くことになる。殺人者に対する恐怖についてクラッ センは以下のように述べている。
デーヴィッド・バスが指摘するように、人間は殺人者に魅力を感じるが、それは「進化の 結果獲得された我々の殺人を予防する心理に起因している」(2005, 21)。人類の進化の歴 史を通じて、他者は常に「自然界にもっともありふれた敵対勢力のひとつ」であり続けた
(Duntley 2005, 224)。この過酷な選択圧のために「他者の中に過剰なまでに殺意を読み 取る」バイアスが生まれた。「殺されるかもしれないという可能性を体系的に過剰に見積 もる」(241)ためである。とりわけ不確実性の高い状況ではこれは防衛機構として有効で ある―警報の誤動作は警報の故障よりずっとよいからである。(133)
読者はまさにこの理由のためにヘロデ王の殺意を察知し、主の使によってそれが裏付けられた ときに戦慄する。この戦慄はヘロデ王の次の行動で劇的に増大する。王は「ベツレヘムとその 附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく」殺すからである。親の投資理論におい ても血縁選択説においても、親は自らの遺伝子の半分を受け継ぐ子に愛情と資源を費やす
(Boyd 55)。自らの生存の確率を上げるために自分に対する殺意に敏感になるよう進化したの だとすれば、同じことは自らの遺伝子の半分を共有する子に対する殺意に対する防衛にも言え なければなるまい。嬰児殺しが読者にとって恐怖をかき立て、それゆえに関心を引くのは進化 心理学の考え方から見てきわめて自然なことであると言えるだろう。しかも、ヘロデ王はきわ めて大きなスケールで嬰児殺しを行っている。ベツレヘムのすべての嬰児を殺す! このよう な大虐殺に恐怖を覚え、関心を引かれない読者はいるまい。マタイは否応なしに読者をストー リーに引きずり込んで離さない。
4
ストーリーには価値観の共有という集団の協力行為の改善に関わる機能があり、それが読者 の関心を引く原因のひとつになっているが進化論批評の立場だが、マタイによる福音書が共有 させようとしている価値観は非常にスケールの大きな利他主義である。福音書に見られる、利 他主義を広めるための価値観とは自己犠牲と隣人愛の実践である。これは先に述べたようにヨ セフやマリアなどの登場人物の行動としても表現されているが、何よりもイエス自身の教え、
行動として直接的に表現されている。イエスは自己を犠牲にしてでも自らに従い、神のみ旨を 果たすことを教えたが、具体的にはその教えは隣人愛の実践であった。自分を犠牲にして貧し い者に施しをすることが「天に宝を持つ」ことであるとイエスは教えた(19 : 21)。これは利 他主義の実践に他ならない。イエスの利他主義は徹底しており、利己的な要素をすべて捨象し ようとする。「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(6:
3)とまで言い、誰にも知られぬよう行うよう教える。誰かに知られてしまうと施しをした者 の社会的な評価が上がってしまうからである。人類の利他的行動は、そうすることで周囲の賞 賛を得て実現する地位の向上と密接に結びついて進化してきたとされる(Boyd 299)が、イ エスはそのような見返りも否定するのである。そしてまさにそのような生き方を実践したのが イエス自身であった。彼は現世的な見返りは何も受けることなく、困窮する人々のために行動 し、自身はただひたすらに苦しみを受けて十字架上で死んだのである。自分を完全に捨てて他 人のために尽くせという極端なまでの利他主義1、これがマタイによる福音書が読者に共有さ せようとしている価値観なのである。
マタイはこの自己犠牲と隣人愛の教えを眠気を誘うような教条主義に堕すことなく、読者の 関心を引きつける形で共同体全体に広める。マタイの用いた注目すべき手法はふたつある。ひ とつは「筋の一致」による凝縮と一貫性、そしてカテゴリーの越境である。利他主義者の行為 に対する社会的感情という史的イエスに起因する要素にこれらを加えることで、マタイは読者 の関心を引き、感動させ、その感動のうちに自己犠牲と隣人愛の精神を広めることに成功して いるのだ。
福音書の冒頭に置かれたマリアの夫ヨセフの苦悩のエピソードには自己犠牲と神への献身が あることは既に見たが、マタイはイエスのストーリーをマルコのようにイエスの洗礼から始め るのではなくヨセフの苦悩で始めることによって福音書全体に一貫性を与えており、それが読 者の関心を引く結果となっている。およそすぐれたストーリーとはただ漫然とエピソードを羅 列すればよいというものではなく、一貫したテーマを持っていなければ読者は何が言いたいの かわからず混乱してしまう。ボイドは、トロイ戦争を題材に数多く作られた叙事詩のうちでホ メロスのものだけが生き残った理由のひとつにアリストテレスのいう「筋の一致」を挙げてい
1 筆者はイエスの常人では考えられない自己犠牲と利他主義は、ボイドのいう「超正常刺激」(94)として読者に作用す るのではないかと考えている。
る。オデュッセウスの放浪という長いストーリーを「帰郷」という一点に凝縮して語ることで
「筋の一致」が実現されており、それが読者の関心をつなぎとめる効果を挙げている(224)と いう。同じことはマタイによる福音書にも言えるだろう。マタイによる福音書は「自己犠牲と 神への献身」という、ヨセフの苦悩に見られたテーマで一貫しているからである。ヨセフは生 物の生存目的である自らの子孫を残すという行為をあきらめて神の子イエスの養育に尽くし た。ペトロは召命を受けると網を置いて従い、生存に必要な資源へのアクセスを自ら放棄する
(4 : 20)。徴税人マタイも不正な利得を得ることができる魅力的な仕事(フランシスコ会聖書 研究所 21)を捨ててイエスに従う(9 : 9)。父親の葬儀に行きたいので待ってくれという人は
「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と言われる(8 : 21-22)し、全財産を貧しい 人に施せと言われてそれができずに去った人は「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らく だが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と否定的な見本として示される(19 : 23-24)。捕縛 を前にしたイエスは苦痛を予見して、できることならこの苦しみを遠ざけて欲しいと祈るが、
あくまで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(26 : 39)と 付け加える。個人の快適な生活、場合によっては生存すら、神の計画の前では否定されるべき 存在なのだ。旧約では重視されていた血縁関係も否定される。洗礼者ヨハネはアブラハムの子 孫であることに誇りを持つユダヤ人に対し「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を 起すことができるのだ」(3 : 9)と警告し、母やきょうだいが表に来ていると告げられたイエ スは「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また 母なのである」(12 : 50)と諭す。そして「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、
嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである」(10 : 35)と教えるのである。神への義務 と家庭的な義務が相反した場合神を優先せよというのがイエスの教えであった。もちろんこれ らのエピソードはマタイの独創ではなく他の福音書にも見えるから、Q 資料ないしマルコに取 材したもので、おそらくは史的イエスの発言にまで遡るものであろう。しかし事実を単に列挙 することと、それらをひとつのテーマに沿って一貫性を持たせて語ることは全く異なる。神に 絶対的な信頼を置き、自分も家族も捨てて―生物の本能である生存と繁殖(家族を捨てること はすなわち子孫を残さない、もしくは顧みないことである)の行為を放棄して―神に従うこと、
これがイエス生誕時のヨセフの苦悩から磔刑時の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨 てになったのですか」(27 : 46)というイエスの叫び(ここでは苦しみの中で神に絶対的な信 頼を置けるかが問われている)に至るまで、マタイによる福音書を通底して流れるテーマであ る。『オデュッセイア』が帰郷についてのストーリーであったとするなら、マタイによる福音 書は自己犠牲と神への献身についてのストーリーなのである。この筋の一致がストーリーに凝 縮性と一貫性を与え、読者の関心を引くのだ。
カテゴリーの越境もまたマタイのストーリーテリングの巧みさを物語るもので、これによっ て読者は自己犠牲と利他主義の生涯を送ったイエスにいっそう引きつけられることになる。人 間は既存のパターンから逸脱しているものに強い関心を引かれる(Boyd 91)が、複数のカテ
ゴリーに属するものに対する強い関心(Boyd 115)もその延長線上にあるといえよう。たと えばスフィンクスはライオンの体に人間の顔がついている。ケンタウロスは上半身は人間だが 下半身は馬である。こうした異種混合のキャラクターはフィクションの定番であるが、それは このような複数のカテゴリーに属する存在がパターンからの逸脱であるために関心を引きつけ るからだと考えられる。イエスもまた複数のカテゴリーに属する存在である。すなわちイエス は 神 でもあ り 人でも あ る―これ は キ リ スト 教の根本的な教 義 で あ る(
Catechism of the Catholic Church
464)。したがって必然的にイエスのストーリーは読者の関心を引くことに なるのだが、ここにストーリーテラーにとっての難題が持ち上がる。イエスを人間的な要素と 神的な要素の両方を備えている存在として描き出さなければならないからだ。数々の奇跡や超 自然的な出来事、復活などで神的な要素は表現できるが、イエスの人間的な要素をどのように 打ち出せばよいだろうか。マタイはルカと異なり、十字架上のイエスの描写について、典拠と なったマルコによる福音書をそのままとどめておくことでこの難題を解決している。十字架上 のイエスは以下のように描かれる。さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエ スは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わ が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(中略)イエス はもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下ま で真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒た ちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、
多くの人に現れた。百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、い ろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。(27 : 45-54)
この記述はマルコによる福音書とほとんど同一であるから、マタイは単にマルコをそのまま利 用しただけで、独自性は見られないではないか、という意見もあろう。しかし、典拠にした記 述を敢えて改変しないことがストーリーテラーとしてのマタイの面目躍如であったように筆者 には思われる。なんとなれば、マタイもルカのように、十字架上のイエスを超人的な、苦痛を ものともしない存在に改変することもできたからである。ルカの描写は以下のようなものであ る。
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、
わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有 様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景
を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、こ れらのことを見ていた。(23 : 44-49)
マタイのものに比べるとルカの描写の方が、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」とせり ふが改変されているので、死の瞬間まで神を信頼しているという印象を与える。自己犠牲と神 への信頼を一貫したテーマとして扱っていたマタイにしては、ルカのような改変を行わず、神 を疑うような印象のある「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」をそのまま用いているところが疑 問のように思われるかもしれない。しかし実はこれこそマタイの巧みなストーリーテリングの 技法なのだ。すなわち、マルコによる福音書にあったせりふをそのまま改変せず用いることで、
カテゴリーの越境が実現され、それが読者の関心をいっそう引きつけるのである。ルカ版のよ うに苦しみの中にあっても最後まで超然としている超人的な姿よりは、苦しみの中で神への信 頼が揺らぎ疑う人間的なマタイ版イエスの方がより魅力的に思えるのだ。ルカ版ではイエスの 死においてはカテゴリーの越境がそれほど顕著ではなく、どちらかといえば神的な色合いが濃 い。マタイ版ではイエスはしっかり人間的な弱さを思わせる部分を残しているから、「神でも あり人間でもある」というカテゴリーの越境が生じ、読者はそれを魅力的に感じるのである。
5
マタイのストーリーにおいて筋の一致によって強調された神への絶対的な信頼は、個人の適 応度を高めると同時に集団全体の適応度をも高めており、知性と協力の進化という進化論批評 で注目されるストーリーの二大機能をお互いに絡み合うかたちで実現しているから、読者に とってきわめて魅力あふれるものとなっている。
知性の進化については、マタイはホメロスのように「全世界は原則的に人間精神によって理 解されうるという自信をギリシア文化圏内の彼の後継者に植え付けることによって、知性その ものを発展させ」(Boyd 281)〔訳文は小沢 258〕ることはなかったが、筋の一致によって神 への絶対的信頼を前景化し、知性の進化の副産物である未知なるものへの不安を解消すること で個人の適応度を高めており、それが読者の関心を引く要因であると考えられる。知性の進化 にともなって不安が生じることについて、ボイドは以下のように述べている。
直観的心理学の一部として進んだ心の理論を発達させるために、わたしたちは誤信念を持 つことの可能性と結果に直観的に気づくようになる。わたしたちは相手が何を知っている かを知らないことによって状況をどのように読み誤るかを理解することができる。ほかの 動物たち、とりわけ雑食性の動物たちは自分たちが知らないかもしれないことに対して好 奇心を示すけれども、彼らと異なり、わたしたちは同じことに対して不安も感じるのだ。
自分たちの知識が過度に不足する事態がありうると知っているために、わたしたちは余分 な情報とより深い説明を追い求めるのである。しかしどのようにしてそれ〔より深い説明〕
を得るのだろうか。説明は容易には得られない。(199)〔訳文は小沢 184〕
人間は心の理論を進化させ、そうすることで高い知性を手に入れることができたが、その副産 物として、自分にはわからない(知り得ない)ことがあり、その結果自分が危険にさらされる 可能性があるという不安に絶えずさいなまれることになった。それは災害への不安であるかも しれないし、病気への不安であるかもしれない。集団内の誰かに裏切られるという人間関係の 不安かもしれない。では災害や病気、裏切りなどがもたらすものは何か、と考えていけば、そ のようなさまざまな不安は畢竟、個人として生存できなくなるのではないかという不安、もし くは集団の構成員として生存できなくなるのではないかという不安に集約されよう。マタイの ストーリーは、神への絶対的信頼によってその両方の不安を解消する。まず個人としての生存 に関する不安は、端的に食物が得られなくなるのではないかという不安に象徴的に置き換えら れた上で、神への絶対的信頼によって消滅する。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のこ とで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にま さり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ること もせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養って いて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたの うち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
(6 : 25-27)
不安を抱くのは人間だけであると言うボイドの指摘を想起したい。空の鳥は人間のように高次 の心の理論を発達させなかった代わり、不安に悩まされることもなかった。イエスは過剰な不 安が精神的ストレスというコストになるだけで何の利益も得られない―寿命をわずかに伸ばす こともできない―ことを指摘し、現に人間のような知性がなく、計画的に労働をすることがで きない鳥ですら神によって生かされているのだと主張することで読者の不安を解消しようとす る。またさらに、集団内での生活ができなくなるのではないかという不安については、社会的 動物である人類が発達させた服飾文化に象徴させた上で―人類にとって衣服は単に暑さ寒さを しのぐためのものではなく、集団内での生活を営む上で不可欠であり、着るものがなければ社 会的生活は送れないから、着るものがなくなるのではないかという不安は社会的生活が送れな いのではないかという不安と同義である―同様の教えが説かれる。