宗 教 概 念 の 普 遍 性
シ ュ ラ イ エ ル マ ッ ハ ー と テ ィ リ ッ ヒ
/
芳 賀
.′′
﹁ は じ め に
現代は宗教不在の時代であると言われる︒なるほど︑現象的には新興宗教の隆盛が一部にみられるにせよ︑少くとも
先進工業諸国においては既成宗教は世俗化の大波に押し流され︑活力を喪失してしまったかのようにみえる︒ヨーロッ
パのキリスト教について言うなら︑宗教の衰退傾向はすでに十八世紀には始まっていると言えよう︒啓蒙主義思潮の席
捲が︑知識層の宗教に対する蔑視傾向を増大させたのである︒この時代︑シュライエルマッハーは︑教養ある宗教蔑視
者に対して宗教を擁護弁証する意図から︑有名な﹃宗教論﹄を著わし︑宗教のロマン主義的解釈を試みたことは周知の
とおりである︒二十世紀の宗教的状況において︑かってシュライエルマッハーがはたした役割はパウル・ティリッヒに よって担われ受け継がれていると言えるであろう︒インゲボルク・へネルによれば︑両者にはいくつかの共通点がある
とされるが︑そのひとつは彼らの直面した精神状況の類似性であ鮎一万が︑理神論・合理主義・啓蒙主義などの隆盛
によって現出した宗教的危機であったとするなら︑他方ティリッヒのおかれた精神状況下では︑宗教は世俗化の直接的
攻撃によって一層根源的な脅威にさらされている︒へネル女史は︑両者のおかれた宗教的危機状況の類似性から︑双方
l
二
の神学の特徴が思弁的ではなく弁証論的︵ap0−0g2−isch︶となっていることを指摘するが︑このことの是非はともかく
両者ともにそれぞれのおかれた宗教的状況に対応しつつ︑宗教についての新たな定義を試みたことは事実である︒もち
ろん︑その時代の精神状況だけが彼らの宗教概念を特色づけたのではないだろう︒それぞれの思想の基本的な構︑孟ら
くる必然性もあろう︒しかし︑ここでは︑両者の哲学的立場については︑直接の主題ではないから言及しない︒小論の
意図及び動機はさしあたり以下のことがらにある︒
後で詳し定義する︒とであるが︑シュライエルマッハーは宗教の本質は﹁直観と感情﹂あるいは﹁絶対依存の感情﹂
であると言い︑ティリッヒにおいては﹁宗教は無制約的なものによって全くとら︑三れていること﹂︑﹁信仰とはわれわ
︵ 4
︶
れが究極的に関わっている状態である﹂などと規定される︒これらの定義表現は一見﹁宗教﹂の拡大解釈とみなされる
ぉそれがあるが︑はたしてそうなのかどうか︒また︑彼らの試みは誤った唆昧さにおわってしまっているのかどうか︒
ぁるいは更に︑両者とも結局は宗教を主観的なものに還元したことになるのかどうか︒そもそも︑彼らの宗教概念の真
の意味は何か︑それはいかなる原理に依拠して提起されているのか︒こうした問題を念頭におきつつ︑彼らのくだした
宗教の本質規定についてより詳細にみてゆきたい︒
二︑シユライエルマッハーの宗教概念 シュライエルマッハーには宗教の問題を直接に主題とした主要著作が二つある︒一は彼をいちやく有名にした冒議
論﹄であり︑他は彼の主著とも言うべき﹃キリスト教信仰﹄︵表に﹃信仰論﹄とよばれてい裏である︒﹃宗教論﹄に
ぉいて宗教は次のように定義される︒即ち︑﹁宗教の本質は︑思惟でも行為でもなく︑直観と感情である︒宗教は宇宙
を直観せんとし︑宇宙自身の表現と行為との中に在って︑敬度の念をもって宇宙に耳を傾けようとする︒宗教は︑小児
のような受身の態度で︑宇宙の直接の影響に依ってとらえられ︑充たされようとする﹂と︒
右の引用文からもうかがい知ることができるが︑﹃宗教論﹄では﹁宇宙﹂あるいは﹁宇宙を直観すること﹂という表現
がめだって多い︒例えば︑﹁宗教をもつということは宇宙を直観すること﹂とか︑﹁宇宙を直観すること︑︵中略︶それは
私の全講演の枢軸であり︑宗教の最も普遍的にして最も高き様式である﹂とか述べられる︒そこで先ず︑シュライエル
マッハーの言う﹁宇宙﹂とは何かについて考えてみたい︒それは単に天文学の対象である宇宙空間を意味しているので
はないことは明白である︒むしろ︑シュライエルマッハーにおいて﹁宇宙﹂は︑﹁無限なるもの﹂とか﹁一なる者﹂とか︑
あるいは﹁一にして全てなるもの﹂﹁世界精神﹂﹁全体﹂などの言葉で表現されるところのものである︒このような意味
での﹁宇宙﹂は︑より身近には﹁人間性そのもの﹂﹁内的生命﹂であるとも言われる︒かくして︑存在および生起の全体
である無限なる﹁宇宙﹂は︑個別的具体的なもののうちに自己を表現しているとの考えが導き出されてくる︒宇宙を直
観するということが︑何か己れの外に﹁無限なるもの﹂を把えるということではなく︑己れの内に人間性を発見するこ
とにほかならないとされるのである︒従って︑﹁宗教を所有せんがためには︑人間は第一に︑人間性を発見しなければな
らない﹂と言われる︒あるいはまた︑﹁人間性の中へ入って行こう︒そこに我々は︑宗教への素材を発見する﹂とも述べ
られている︒ここに︑全体と部分︑無限と有限との統一というシュライエルマッハーの原理的思想構造を︑われわれは
みることかできる︒しかしながら︑有限なる個別が無限なる全体を映しているからといって︑個別的なものを直観する
ことがそれ自体で﹁宗教﹂を成立させるとは言われていない︒なるほど﹁人間性そのものが︑本来︑諸君にとっては宇
宙である﹂と語られてはいるが︑それは︑人間性が無限なるものを映し︑宿しているからそう言えるのであって︑必ず しも︑人間性それ自体が﹁全体﹂なのではない︒なぜなら︑シュライエルマッハーも言っているように︑﹁宗教の最高目
三
四
的 は
︑ 人
間 性
の 彼
方 ︑
人 間
性 以
上 に
お い
て 宇
宙 を
発 見
す る
こ と
﹂ だ
か ら
で あ
る ︒
﹁ 宇
宙 ﹂
︵ d
a s
U n
i く
e r
S u
ヨ ︶
は そ
の 語
か
らして普遍的︵邑責Sa−︶なるものである︒この意味で︑﹁無限なるもの﹂﹁全体﹂あるいは﹁世界﹂とも言われるので
ぁる︒しかし︑この﹁普遍打なるもの﹂は︑その存在が証明されうるような実在︵Eをenz︶のレベルで考︑孟ことは
できない︒むしろ︑それは働きあるいは作用と解されるべきである︒このような意味の宇宙︑﹁間断なく活動し︑我々に
各瞬間に自己を啓示する﹂ところの宇宙は︑ただ感じとられ直観されることができるのみである︒従って︑﹁宇宙を直観
ヽ ヽ
する﹂といっても︑この直観は主観に固有の能動的能力としてではなく︑か︑えって﹁宇宙﹂の働きかけに対する感応︑
反応という意味で理解されなければならない︒彼は︑﹁あらゆる直観は︑直観されるものの直観するものへの影響から︑
即ち直観されるものの本源的にして独立せる行為から出て来る︒而して︑直観するものは︑直観されるものの行為をば
直観されるものの性質に従って受取り︑統括し︑かつ会得す翫︶と言っているからである︒ところで︑直観についての
こうした理解は︑この節の初めに引用した宗教の本質規定の内容に沿うものである︒そこでは宗教の受動性について指
摘されていたが︑われわれはまた︑直観の受動性についてもここから教えられるのである︒
以上みてきたことがらは︑﹃信仰論﹄における宗教規定の内容と直接つながってゆく︒﹃信仰論﹄においては︑﹁宇宙を
直観すること﹂という表現は全くみられなくなるとはい︑え︑やはり︑宗教の本質が受動性にあるという基本線は受け継
がれる︒すでに﹃宗教論﹄において﹁あらゆる直観はその性質上感情と結合している﹂ことが指摘されていたが︑宗教
を 敬
虞 の
念 ︵
F r
ぎ m
i g
k e
i −
︶ と
し て
心 理
面 か
ら 展
開 す
る ﹃
信 仰
論 ﹄
で は
︑ 宗
教 的
感 情
の 受
動 性
の 問
題 が
議 論
の 中
心 に
な
る︒それにともない︑﹁宗教﹂にかわって﹁敬虞﹂︵宗教心・信仰心︶という概念が多く使用されるようになる︒従って︑
﹃信仰論﹄では宗教の本質は次のように規定される︒
﹁すべての教会団体の基盤をなす敬虞は︑純粋にそれ自体が考察されるなら︑知でも行為でもなく︑かえって或る特
走の感情即ち特定の直接的自己意識である﹈
右の内容についていま少し立入って分析してみたい︒シュライエルマッハーは︑﹁敬虞は或る特定の感情である﹂と規
定してはいるが︑すぐその後に﹁自己意識﹂という語をつづけて付加することで︑敬虞感情が無意識的な感情でないこ
とを先ずはっきりさせる︒更に︑自己意識について言うなら︑﹁直接的︵5mitte−bar︶﹂という限定をこれに付すことに
ょって︑宗教的自己意識は自己省察を通して獲得されるところの﹁自己自身についての表象﹂ではないことを示してい
ると思われる︒つまり︑敬虞感情にともなう意識は直接的無媒介的なものなのであって︑思惟し意欲する己れ自身につ
いての媒介的意識︵反省的自覚的意識︶とは区別されるということであろう︒つまり︑敬虞は知でも行為でもなく感情
であるとされて︑宗教独自の領域が明示されるとともに︑宗教的感情に付随する意識についても︑それが反省的意識と
は異なるものであることがここで明らかにされたのである︒感情が他の二者と異なることに関しては︑更に別の観点か
らも考察されているが︑それを次にみてゆきたい︒
シュライエルマッハーによれば︑感情は自己のうちにとどまりつづけるもの︵insichb−eiben︶であるとされ︑この点︑
知 や
行 為
の よ
う に
自 己
の 外
に 発
現 し
て ゆ
く も
の ︵
A u
s s
i c
g e
r a
u s
t r
e t
e n
︶ と
は 区
別 さ
れ る
︒ た
だ ︑
知 は
そ れ
自 体
と し
て み
れば︑行為のようには自己外発的でないように思われる︒ところが︑シュライエルマッハーは︑﹁知は認識したもの
︵Erkannthaben︶としては主観のうちにとどまるものではあるが︑認識する働き︵Erkemen︶としては主観の自己発現 によってのみ現実的なものとなる﹂と述べ︑そうである限り知もまた行為であると言う︒これに対して︑感情は動かさ
れるもの︵Bewegtwerden︶として主観が自ら作り出すものではなく︑むしろ自己のうちで何ものかによってしかじか
の状態︵例えば︑うれしいとか悲しい︶にされることであるとされる︒つまり︑感情は純粋に受容性・感応性︵Eヨpt
f 許
g −
i c
芹 e
i t
︶ を
そ の
原 理
と し
て お
り ︑
し か
も 全
く 自
己 の
う ち
に と
ど ま
る も
の で
あ っ
て ︑
自 発
性 ︵
S e
− b
s t
t 賢
g k
e i
t ︶
に 基
五
六
づく知や行為とは対照的なのである︒ただ︑この区別は原理的なものであり︑実際に宗教心が精神生活の中核となって
認識活動および道徳的実践に影響力をおよぼすような場合には︑感情が知および行為に密接に関わってくると言わざる
をえない︒しかし︑その場合ですら敬虞感情がどこまでも原理的に先にあって︑知および行為は感情の表現手段つまり
媒介契機にとどまるということでなければならない︒その点を誤解すると︑一方で宗教の独自性がそこなわれて︑宗教
が知識や道徳によって基礎づけられることになるし︑また他方では︑逆に宗教の固有領域を狭く限定してしまい︑宗教
が他の精神機能の根底として働くという面が見失われてしまう︒前者の場合について更に述べるなら︑宗教の本質が知
であるとすると︑より完全で多くの知を有する者こそがより敬虞深いということになるし︑また︑行為が宗教の本質だ ということになれば︑宗教は道徳に還元されてしまう︒しかしながら︑シュライエルマッハーにおいては﹁感情が敬虞 深いものであるかぎりにおいて行為も敬虞深いのである﹂と言われていることからもわかるように︑道徳的行為それ自
体が宗教の本質をなすのではない︒以上のように︑知および行為はそれ自体では宗教の源泉でないこと − このことは
﹃宗教論﹄の立場でもあった − をみてきたが︑﹃信仰論﹄では更に宗教的感情は感性的感情から厳密に区別されて﹁絶
対依存の感情﹂と規定されるが︑この点について次に考えてみたい︒
シ ュ
ラ イ
エ ル
マ ッ
ハ ー
は ︑
自 己
意 識
な い
し 感
情 を
規 定
し 構
成 す
る 相
対 立
し た
二 契
機 ︑
即 ち
自 己
措 定
︵ S
i c
訂 e
− 訂
t s
e ︹
z e
n ︶
と 自
己 非
措 定
︵ S
i c
h s
e −
b s
t n
i c
h t
s O
g e
S e
t Z
t h
a b
e n
︶ と
を 区
別 す
る ︒
こ の
二 つ
は ︑
先 に
あ げ
た 自
発 性
と 受
容 性
に 対
応 し
て お
り︑前者は自ら自由に為したとの意識ないし自由感情をともなうのに対し︑後者は何か或る仕方でそのようにされてい
る ︵
− r
g e
n d
w i
e g
e w
O r
d e
n s
e i
n ︶
と い
う 受
動 的
な 意
識 な
い し
依 存
感 情
を と
も な
う と
さ れ
る ︒
経 験
的 世
界 の
な か
で わ
れ わ
れ
は︑このような相反する二つの感情をもつのであるが︑どちらか一万が他にまきって感じられることはあっても︑互い
に独立に︑純粋にどちらか一方だけが意識にのぼるということは普通にはない︒なぜなら︑自由感情は自発性に基づく
とは言え︑それが感情である以上は何ものかによって惹起される︑即ち受容性に依るのでなければならないし︑そうで
あるかぎり︑全く自己自身のうちからのみ発現するような﹁絶対的自由感情﹂は現実にはありえないからである︒仮に
そのような絶対的自由感情が考えられうるとしても︑そのときには抽象的・観念的な純粋我とか︑自ら全てのものを産
む創造者が想定されなければならないだろう︒しかし︑時間内存在者においては︑依存感情を全く含まないところの完
全な自由感情は不可能である︒では︑﹁絶対的依存感情﹂についてはどうか︒これを考えるさいには︑シュライエルマ
ッハーの区別に従って︑対象的自己意識と異なる﹁より高次の自己意識﹂ の次元で問題にしなければならない︒先述の
ように︑自由感情と依存感情の相互限定的並有は︑主観と客観が相対立する対象的世界内での自己意識には不可避的で
あるが︑この次元の自己意識は﹁感性的自己意識﹂とされ︑最低次の動物的な混濁せる自己意識 − ここでは主客の対
立は未だ生じていない1−−と︑再び主客の分裂が解消されて︑一切が主観と同一なものとして包括される最高次の自己
意識との︑中間に位置づけられる︒この最高次︵あるいはより高次とも言っている︶ の自己意識が絶対的な依存感情に
はかならない︒ここに至って︑自己がそれに絶対的に依存していると感じさせるその当のもの即ち神が︑同時に問題と なってくる︒﹁自己を絶対に依存していると感ずること﹂と﹁自己自身を神との関係のうちにあるものとして意識するこ と﹂はひとつのことだとされるからである︒この間題に関して更にたち入って考えてみたい︒
一般に︑依存感情の契機をなす受容性を考えてみると︑そこでは主観が﹁何か或るものから関わられている︵−rgend・
W O
h e
r g
e t
r O
f f
e n
s e
i n
︶ ﹂
と い
う こ
と が
合 意
さ れ
て い
る ︒
つ ま
り ︑
依 存
感 情
は そ
の 何
か
︵ W
O h
e r
︶
に 依
拠 し
て い
る と
言 え
る︒この意味での.依存感情は︑主客対立の構造を内にもつ対象的意識においても︑もちろん成り立つものではある︒な
ぜなら︑依存感情を惹き起す﹁何か﹂は依存の対象であるから︒しかしながら︑絶対的な依存感情の由来︵WOher︶ に
ついては︑これを主−客といった対立的な関係性のなかに求めることはできない︒それ故︑このWOher即ち神は︑村
七
八
象的に実在として表象されうるようなものではない︒﹃宗教論﹄における﹁宇宙﹂はまさにそうであった︒主観と客観を
統一する全体としての﹁宇宙﹂という概念は︑明らかに伝統的な人格神の観念を超えている︒かくて︑﹁神は宗教におけ
るすべてではなくしてひとつのものであり︑宇宙はそれ以上である﹂とされていたのである︒ところが︑﹃信仰論﹄で﹁神﹂
と言われるときには事情が異ってくる︒ここでは︑﹁神﹂は先の﹁宇宙﹂と同じく︑有神論の神を超えた意味をもつので
ぁる︒ところで︑シュライエルマッハーによるまでもなく︑言葉は表象とひとつのものであり︑そうであるかぎり︑﹁神﹂
という表現も疋の表象を前提している︒しかし︑﹁リンゴ﹂が或る対象物の表象とひとつであるのと同様な仕方では︑
﹁神﹂は対象的表象を許さない︒﹁神﹂は︑﹁自己が神との関係のうちにある﹂との表象をのみ前提するのである︒また︑
すでにみたように︑﹁自己が神との関係のうちにある﹂ことと﹁絶対依存感情﹂は同一のことであるから︑シュライエル
マ ッ
ハ ー
に な
ら っ
て ︑
﹁ 神
は ︑
絶 対
依 存
感 情
の う
ち に
あ っ
て そ
れ を
卦 か
卦 卦
レ 千
い か
か 絆
︵ d
a s
M i
t b
e s
t i
m m
e 邑
e ・
︶ で
あ る﹂と言ってもよいだろう︒つまり︑絶対に依存していると感じることそれ自体が︑それを共に規定するところの神に
拠 っ
て い
る の
で あ
り ︑
し か
も こ
の 神
は ﹁
所 与
の 根
本 内
実 ︵
a n
g e
g e
b e
n e
G r
巨 d
g e
h a
− こ
﹂ と
い う
意 味
を も
つ の
で あ
っ て
︑
あらゆる神表象はこの事実からのみ導き出されるべきであると︑彼は言うのである︒このことを更に敷術すれば︑﹁神は
われわれの感情のうちに根源的な仕方で与えられている﹂ことについての意識が同時に絶対依存の感情にほかならない
ということである︒このように︑絶対依存感情の起源︵WOher︶である神は︑主−客の対立した図式に基づいて表象さ
れることはできず︑あくまで︑神意識が同時に自己意識︵絶対の依存感情︶であるような︑主客が統一された表象にお
いて正しくとらえられるのである︒ところで︑こうした意味での絶対依存感情は︑絶対的自由感情をともなうところの
純粋我が現実には存在しえないのに対して︑相対的自由感情および相対的依存感情− この両者の相互並存こそが対象
的自己意識の必然であった と相並んで︑現存在のうちに場を占めうるとされる︒それは︑宗教が超現実的で心霊上
特殊な事象では決してなく︑あくまで経験的事実であるとの前提に彼が立っていることに由来するのである︒
以上のように︑シュライエルマッハーの宗教概念を特徴づける構造は︑二焦点によって形成される楕円にたと︑えられ
よう︒神は楕円形の一万の焦点であり︑もう一万の焦点を成すのは主観としての自己である︒この二極性はどこまでも ひとつの意識のうちでの区別であって︑主−客という相対関係にあるのではない︒同一のものが︑主観面からみれば絶
対的な依存感情と言われ︑客観面からみれば神とよばれるのである︒それぞれの面からとら︑えられた全体を︑﹃宗教論﹄
では﹁人間性﹂および﹁一なるもの﹂と表現していた︒そこに神秘主義的要素をみることもできようし︑またその形而 上学的立場を汎神論ないし万有在神論︵panentheism︶ として概括することもあるいは可能だろう︒しかしここでは︑
シュライエルマッハーがもっぱら主観の経験する心理的事実から﹁宗教﹂ の意味を解明している点に注目をし︑これを
考察したのである︒
三︑ティリッヒの宗教概念
パ ウ
ル ・
テ ィ
リ ッ
ヒ の
﹁
究 極
的 関
わ り
︵ u
− t
i m
a t
e c
O ロ
C e
r n
︶ ﹂
と い
う 概
念 は
︑ 宗
教 の
定 義
と し
て は
余 り
に 不
明 確
で 応
用
の幅が広いために特定の意味を失っていると評する宗教学者がいる︒たしかに︑﹁関わる﹂ということを主観の能動的働
きかけとみれば︑人間は何に対しても自由に究極的関わりをもちうる︒この意味で︑関わりの究極性・無制約性はあら
ゆる行動規範に適用可能であるから︑このことをもってただちに﹁宗教﹂ であると規定することは︑明らかに宗教の拡
大解釈ということになろう︒しかし︑こうした﹁関わりの主観的究極性﹂ の要素は︑宗教を構成する重要な一面である
ことは否定しがたい︒ティリッヒ自身は︑宗教を人間の精神機能のひとつと把︑え︑原理的には全ての人が何らかのかた
九
ちで宗教的在り方を有する︑言い換えれば神をもっているとみるが︑それは︑究極的関わりの主観的側面を特に指して のことである︒もちろん︑もう一万では究極的関わりの対象の側の問題がある︒即ち︑何を神とするかという信仰の内
容ないし対象の問題は︑それを信ずる者にとっては無限に重要な意味をもつにちがいないが︑信仰の秒卦卸を卦のため
にはさしあたり重要ではない︒そこで先ず︑関わりの主観的側面をみよう︒人間は他の動物同様︑その生存を条件づけ
るものに関心をはらうが︑他面︑動物と異なって精神的諸関心をも有する︒そして︑それらのうちのどれかが個人ある
いは民族の生活および社会活動にとって無制約的重要性をもつに至ることがあるとティリッヒは言う︒このことが起る
ときには︑関心の対象はそれの究極性の要求を受け容れる者に対して献身を求め︑この要求に従うことによって全町舟
実を約束する︒逆に︑無制約的要求に服従しないときには︑約束された充実からの排除が科せられることになる︒これ
らの要素が︑宗教を究極的関わりとして理解するさいの共通の特徴であるとティリッヒは考︑享いる︒﹁究極的関わり﹂
というときのこうした動態的構造理解を十分踏まえたうえではじめて︑形式的には物質的と精神的とを問わずあらゆる ことがらについて﹁信仰﹂は成り立ちうるということが把︑去れなければならない︒この観点からティリッヒが︑民族・
成功・地位・富といったものに究極的にとらえられている状態を︑つまり特定の価値を絶対視しこれのために他の全て
を犠牲にすることを︑信仰形態として分析するのも︑従って当然のことである︒
このように︑主観的には何でも究極的な関心の対象となしうるーこのことが信仰の形式的定義の前提であったー が︑客観面についての議論即ち﹁何が真に信仰の対象でありうるか﹂という問題は︑どうでもよいことであるわけでは
決してない︒ティリッヒ自身も言っているように︑﹁究極的関わり﹂という概念は信仰活動の主観的側面と客観的側面を
統こて含んでいる︒﹁関わり﹂ということがら自体をみても︑そこには関係の両契機が前提されている︒﹁関わり﹂状
態は主観の側からは能動的に表現しうるが︑客観の方からみれば受動的に記述される︒つまり︑﹁或るものに関わる﹂と
﹁或るものから関わられる﹂は︑関係状態としては同一のことがらであるはずである︒信仰が究極的関わりであるとされ るなら︑主観および客観のどちらを欠いてもそれは成立しえない︒つまり︑信仰はそれが向けられている対象ないし内 容をもたないでは成り立ちえないし︑また︑信ずる主観なしにはありえないということである︒たとい空想的観念を信
仰の内容とする場合でも︑この構造はみとめられるだろう︒ただし︑究極的な関わりという場合︑関係の究極性・無制
約性は関わり自体が主客の両契機をみたすことによってはじめて可能となるような関係性を指しているのであって︑単
に主観の究極的態度だけでなく︑対象︵客観︶ の究極性をも含まなければならない︒この観点に至ってはじめて︑宗教
の実質的定義が問題にされうる︒それをティリッヒは信仰の真理の問題として取扱うのである︒主観的には︑或る信仰
が究極的関わりを正しく表現しているならその信仰は﹁真﹂ である︒他方客観的側面からは︑信仰が﹁真﹂ であるかど
うかは信仰の内実︵対象︶ が真に究極的なるものであるか否かにかかっているのである︒第一の側面からすれば︑信仰
のどの象徴・どの類型にも真理は含まれることになるし︑この観点からして︑ただひとつの信仰だけが真理を有すると
いった排他的立場は否定される︒しかし︑第二の側面からみるなら︑信仰の諸象徴のうちのどれが真に究極的なるもの
の究極性を表現し︑究極以下のものを否定しうるかという点にこそ︑真理はかかわることになる︒そして︑後者の基準
にてらすなら宗教史は全体として審さの下に立つ︒なぜなら︑全ての信仰は究極的なるものへの関わりから︑究極なら
ざるものへの関わりへと転落する危険性をはらむからである︒本来は究極性を表現するべき宗教的象徴が︑究極以前の
有限なるものを指し示すようになるとき︑その信仰は偶像崇拝へと頒落するとティリッヒはみるのである︒この事態は︑
ティリッヒのよく用いる概念で言えば︑信仰の魔化︵D粧mOnisierung︶ と言ってもよいだろう︒真の信仰と偽りの信仰
︵偶像崇拝︶とが静態的に区別されてあるのではなく︑いかなる信仰もつねにそれの額落態であるデモーニッシュな偶像
崇拝に転落する可能性をもつという動態的観点にティリッヒは立っている︒彼が﹁究極的関わり﹂ に対して﹁予備的関
一一