グローバル市場の行方と環境問題
佐伯嘗思
私の専門はもともと経済学ですが、政治
・経済
・社会、それから歴史・哲学そういうものを全 部総合したかたちで、現代社会の関心のある問題について、自分の見方のようなものを創りたい
というのが私のやり方です
。グローパル経済と環境問題というと、すぐに地球温暖化の問題だとか大気汚染の問題だとか、
二酸化炭素排出の問題など、大きな環境問題のことを思い浮かべられるのはないかと思いますが、
今日話そうと思うことはそういうことではありません。この場合の環境というのは、われわれの 生活そのものの環境であり、われわれ生きていく上での環境、つまり社会、人間関係です。人間 関係もわれわれにとっての環境です。それから情報メディア、マスコミ、これもわれわれの生活 にとっての環境です。
「環境のいいところに住んでますね」と言ったときには、空気がキレイだということを言って いるのではなくて、例えば犯罪が少ないとか、人間関係が良好であるとか、交通の便宜がいいと か、そんなふうなことを意味するわけです。ここで私がお話したいような環境というものも、ど ちらかと言えばそんな「社会環境
Jとか「文化環境」というふうに言った方がいいと思います。
そこで私なりに問題を投げかけてみたいと思います
。ずっと気になっていることなのですが、
50代後半という年齢の者からすると、この
10年あるい は
10数年くらいの日本が、いろんな意味でたいへん悪くなっているという印象があります。かな
りの方がやはりそれに近い印象を持っているようにも見受けられます。
例えば都市の景観もどんどんひどくなっているし、子どもたちの犯罪もひどくなっている、学 校の教育システムがうまく機能していない
。こういうことがこの10年間くらいで著しく目立って きています。経済はここにきて多少景気が回復しているようですけれども、まだ不安定ですし、
外需特に中国だのみの景気回復の仕方が、果たして本当に望ましいかたちのものなのかもよく分 かりません。
ある調査で、いまの日本が住みやすいかという質問をすると、
93年くらいまではそのパーセン テージが上昇していました
。93年で
40%くらいまでいっていたと思います。 しかしその後どんど ん下がってきて、いまは
30%くらいだったと思います。この例を見ても、やはりこの
10年ちょっ との期間で随分と状況が悪くなっているという気がします。
こうした問題、つまり都市景観や住環境、それから情報メディア、そういう問題は人間の精神 と深く関わっています。楽しく過ごし、余裕をもって生活する、つまり生活や文化の環境がよく て初めて、人間はまともなことを考えることができるわけですから
。さて、どうしてこうなってしまったかということについて考えると、基本的な問題は
90年代の
グローパル市場の行方と環境問題
半ばくらいから起きてきた構造改革です。
日本の経済は競争していないと 言われてきました。官僚主導型で、企業が自由に競争しないよ うにしていく 。それから、企業は労働者を 一度雇うと、大体生涯雇用を保障していく 。その結果、
労働者はその中でヌクヌクと半ば怠けながら仕事をやっていれば給料をもらえ、しかも賃金は歳 を経るにしたがって上がっていく 。競争しないことが、日本の経済をダメにしたと言われてきた のです。
90
年代とは、
1990年に社会主義が崩壊したあと、世界中が自由経済、いわゆるグローパル経済 に巻き込まれた時代でもあります。グローパル経済の時代は激しい競争の時代です。そういう市 場競争の時代には、日本型の経営の仕方や官僚主導型の経済は抜本的に変えていかなければなら ない 。これが構造改革という話につながります。
たしかにこういう話は、一見したところ聞こえはよいし、全面的に間違っているわけではない。
しかし改めて構造改革というのは一体何だ 司 ったかというと、こういうことだと思うのです。
生産の三要素と二重構造
経済の基礎になるのは、ものを作る場合の生産要素と、それを集めてひとつに結びつける生産 活動です。生産要素というのは、普通は、まず「資金んあるいは「資本」でもかまいません 。 それから「労働力
Jですね。そして「土地」。普通はその 三つが基本的な生産要素だと経済学で は考えます 。それを結合するのが「組織」であり、この三つを寄せ集めてきて生産する 。 これが、
経済の基本にあることです。
この三つの生産要素というのは、非常に特異なものなのです。企業が物を生産して、その商品 をマーケットで売ります。 商品はマーケットで自由に売買できます。 ところがこの「お金(貨幣) J
「労働力」と「土地」というのはマーケットで自由に取引の出来ない。少なくとも通常の商品と 同様には自由に取ヲ│はできません。
就職活動をする っていうことは、経済的に言えば、自分自身を商品としてマーケットに売り出 すということです。みなさんも自分自身を商品として、できるだけ良い条件で買ってくれるとこ ろを探します。これが就職活動ですよね。 ミもフタも無い言い方ですが……要するに経済学的に
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言えば、就職活動というのは自分を商品化しているということです。
ところが、商品化はするんですけれども、労働の基本となるのは人間です。人間というのは、
多様な感情をもち、人生についてあれこれ悩み、あれをやりたいといいうような人生に期待をも ち、いろいろな欲望を持ちます。ただ労働力として働くだけが人生じゃないわけです。だから労 働力の背後には、や っぱり人問、あるいは人間性というものがあります 。
土地も、商品としては非常に特異なものです。 まず土地は動かすことができません。それに、
バラバラに切り取ることもできません。土地 というものの背後には、とりあえず自然がある 。 自 然というものはある場所から動けないので、例えば長崎の自然というのはもう長崎というこの固 有の場所に深く結びついている 。 これを東京に持ってい って売ることはできません。できるのは 土地を所有する権利を渡すことくらいで、土地を十分なかたちで商品化することは出来ません。
それから、貨幣はちょ っと厄介なのですが、私の考えでは、貨幣の背景には何か宗教的なもの があるような気がします 。まず貨幣も普通の商品とはちょっと違います。普通の商品は、例えば このお茶やテーブ
lレのように、生活の中で役に立つ、人間にと って満足を与える独自の価値をも っ ている、そういうものでしょう 。 ところが千円札とか一万円札そのものには何の価値も無い。た だの紙切れですから 。
何の価値も無いものが、これほど貴重なものにどうしてなるのかというと、それは、要するに、
「カミキレ J が「カミサマ J のように思えるからなのです。貨幣はもともと金や銀から出来てい た。金や銀なら人間はそれを崇拝するからです 。金や銀は食ったり飲んだり出来ないけれども、
人間にとってなにか崇高なもの、非日常的なもの、要するにど っか宗教的なものを思わせるよう な何かだったわけです。マルクスが「貨幣物神性」という言葉を使 っていますが、人間は貨幣と いうものを「物であり、同時に神である j ものとして崇める性向を持っている 。だから、お金の 背後にあるのは宗教的なもの、あるいは超越的、超自然的なものだとい ってもよいでしょう 。
人間の社会は、このような背後にあるものがつながって出来ているんです。人聞は本来、どこ か宗教的なもの、超自然的なもの、それから自然的なものと、そういうふうなものとつながりを も って本来は生きているはずです 。人間というのは有限の存在ですし、「死」について、あるい は「死んだら 一体どうなるのか」ということをどうしても考えてしまいます 。死んだらどうなる のか私には分かりませんが、それを考えていると何か超自然的なものに近づくんです。神という ものを想定するかどうか、無神論であるか、キリスト教であるかどうかという具体的な信仰は別 としても、人間の生の有限性はそういった宗教的な感覚をどこかで必要とします 。
また、人間の生は、ある特定の場所や自然、と結びついています。例えば長崎で生活するという ことは、長崎の海や山に囲まれたこういう土地を、自分の場所として選び取るということですね。
自分の場所としてその場所をある意味で自己の 一部にしてゆく 。その場所に愛着を感じるという ふうに言っ てもいいし、その場所に、責任を持つというふうにいってもよいです。人聞が
lつの 場所で生きるとはそういうことです。
そう考えると、人間の生活環境というものは、こういういくつかの要素が重層構造にな ってい
ると 言いますか、結びつきあ ってできている 。人間的なもの、場所・自然、それらがどこかで結
びついたかたちで、人間は本来生きているはずなのです。仮にコミュニテ ィと呼んでおきますが、
グローパル市場の行方と環境問題
こういうコミュニティというものの中で人聞は本来生きている 。 このコミュニティの価値観を作 り出すものは多かれ少なかれ宗教的なものです。その中で人間は自分の死生観を宗教に求めるこ とができ、自分の生きている場所への安心感をその自然に任せることができる 。そうや って心安 らかに生きることができれば、人間はある程度の時間や労力を労働力として、あるいは商品とし て企業に委ねることができる 。そうすれば企業の方もヒューマニティー、つまり人間的なものか らレイパー(労働力)だけをもら ってきたり、ある場所から土地だけを部分的に切り取 ってきた り、あるいは宗教的なものを背後に持っている貨幣を資本として使ったりできるわけで、それが 生産要素の商品かということなのですね。そうや ってそれらを結びつけて生産活動を行うことが できる 。 もともとはそういう構造にな っていたはずなんです。要するに、「労働力 JI資本 JI土 地jという特殊の商品が生み出す経済世界の背後には、「人間 JI宗教 JI自然 J を結びつけた「社 会的生 J というものがあったはずなのです。この「社会的生」を具体化したものは、広い意味で
土 地jという特殊の商品が生み出す経済世界の背後には、「人間 JI宗教 JI自然 J を結びつけた「社 会的生 J というものがあったはずなのです。この「社会的生」を具体化したものは、広い意味で
自然 J を結びつけた「社 会的生 J というものがあったはずなのです。この「社会的生」を具体化したものは、広い意味で
「コミュニティ」なのです。
構造改革とは何だったのか
しかし、構造改革というのはこの二重構造を完全に潰してしまう 。
貨幣の背景に宗教・超自然的なものがあるということは、極端に言えば貨幣よりも っと高次の 価値あるものが存在するということです。神というものは貨幣よりももっと重要なものです。宗 教的信心というのは、お金を貯めることよりもっと大事なことです。だから、宗教的な精神があ るということは、貨幣よりも重要なものの存在を認めるということですし、逆に言えばそういう 精神を失うということは、貨幣以上のものは存在しないということであり、貨幣よりもっと崇高 なものを認めないということになります。要するに「この世の中で一番大事なものはお金である」、
そういうことです。
労働力についても同じです。本来、人間という有限な人生を何か意味を持たせるべく人生を設 計し、自分の生き方について考えるはずの人聞から、人間性、ヒューマニティーを切り離してし まった。人聞をとにかく労働力として使う 。あるいは、労働力としてしか見ない。経済活動をは み出したところに有意義な人生を見ょうとすることができなくなるわけです。
一連の構造改革の中でこんなことが言われていました。構造改革をやるということは、従来の 効率の悪い部門を全部潰すことになる 。だから例えば商庖街や景気のよくない企業は全部潰れる 。
当然、失業が出るじゃないかということを、野党は質問するわけです。で、そうすると改革推進 派はこういうふうに言うわけです。「確かに失業者は出る 。こちらで
30万人の失業者が出る 。 し かし、こちらには新しい産業が出てきて、例えば規制緩和によって
IT部門で新しい産業ができ、
30
万の雇用が増える 。だから
30万の失業はこちらの
30万で完全にカバーできるから失業は問題に ならない」と 。これは人聞をただの労働力として扱うというだけの話です。
例えば、地方の商庖街に住んでいる人は、ひとつの場所で、
1つの自然に固まれて、それで近 所の付き合いなど、ひとつコミュニティの中で自分の人生を設計しながら、商店を営んで 、 いる 。 しかし構造改革が迫ったのは、「労働力 J という観念にからはそんなことは全部切り離してしま
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えということです。商庖街で酒屋を営んできた人に、酒屋がだめになれば
IT企業で雇用がある からそちらへ行けばいいじゃないかと 言 う 。 これは恐るべき話だと思いますね。
土地についてはもうあれこれ論じるまでもないでしょう 。これはもうよく 言われたことです。
東京周辺にはいっぱいまだ農地が余っているじゃないか。規制緩和を行ってこの土地をどんどん 放出すれば、土地を流動化でき、首都聞の地価は下がる 。そうすればまだまだいっぱいピルを建 てることが出来る 。そしたらいくらでも景気は回復する、と 。
90年代に随分言われたことです。
東京がまさにそれをや った。その結果、東京と首都圏は確かにいっきに景気回復しましたが、従 来の風景もコミュニティもほとんど崩されて高層ビルの乱立になった。 こういう具合にして、人 間のコミュニティを破壊し、われわれの社会を組み立てている二重構造を破嬢し、貨幣と労働力 と土地を全部商品化して、この商品循環の中だけで
1つの閉じられたシステムを作ろうとしてい る 。それが構造改革です。
そして、 「労働」の背後に「人間」があり、 「資本」の背後に「宗教(貨幣物神化)があり、 「 土 地」の背後に「自然、」があるからこそ、生産活動は、それらを「うまく
J切り取り、「うまく
J結びつけなければならないのであり、そこに「組織」の重要性もでてくるわけです。
本来、オーガニゼーション(組織)というのは資本と労働と土地を、その背後にあるものから うまく引き離しつつ結びつけるものなのです。いま仮に、「資本 J を代表するものを株主という ふうにしておきましょう 。それから「労働力
Jとしての従業員。そして企業が立地している地域 や場所。もともとこれらをどうやって結びつけるかということをやるのが、「オーガナイズする j ということなのです。ここに「経営 J という固有の仕事がでてくるのであり、それこそが本来は 経営者の仕事です。
ところがこれも構造改革の中で全部パラパラに切り離されてしまいます。特に優先されるのが 株主の利益です。すべてを「株主
Jの利益のため、としてしまえば、オーガニゼーショ ンは事実 上、もうオーガナイズする必要はなくな ってしまった。全てを株主の利益というひとつの尺度で 測るようにな ってしまったわけです。 ほかの生産要素、労働(従業員)や土地や地域のことはも
う考えなくてもよくなってしまった 。
例えば長崎で、ある企業が重要な産業を担っていたとしましょう 。 しかしもう長崎ではどうも 採算が取れない 。 どうも中国の方が賃金も安いし利益もあがる 。さっさと長崎を切り捨てて、中 国に行きなさい 。そうすると短期的には利益はあがる 。すると株価もあがる 。 株価をあげて株主 中心に考えれば、こういうことになる。 もはや経営というものが地域(場所)を考慮するという ことがなくなった 。従業員も、株主利益のためにはいつでも辞めてもらう 。こういう話です 。
ステークホルダーとストックホルダー
本来この三つを結びつけるものを「ステークホルダー」と呼びます。利害関係者と 言いますか、
そういう企業に関わるような人たちのことです。従業員、株主、それからその地域、それらの利
益をどうやって結びつけていくか。株主の利益も考えるし、従業員の生活のことも考慮し、地域
に対しても配慮する 。そういうものを全部配慮してや っていくのがステークホルダー型の経営で
グローパル市場の行方と環濠問題
す。これが日本型の経営の最大の特徴だというふうに言われていたわけです。
それに対してアメリカ型の経営というのは、「スト ックホルダー j といわれ、株主の利益を優 先させるという経営です。株主の金銭的利益だけを考えて、他のものは切り捨てていき、それに 従属させる 。これがアメリカの経営だというふうに言われる 。 しかし、このアメリカ型の経営と は正に、マルクスの 言 う「貨幣物神jが完全に出来上がった世界ですよね。貨幣以上のものは存 在しない、 全てがお金という尺度で計れるんだ、という世界で、経済活動において、「貨幣 ( 資 本) J を代表するのは株主なのです。そうすると株主の利益だけを考えることにな ってしまう 。
日本の場合にはこう批判されました 。 日本は株主の利益を優先しない 。従業員の生活を優先し、
それから地域に対する配慮をしてみたりする 。合理的な利益計算に基づいて海外に工場移転した り資本投資しようとしない。 コミュニテイのしがらみにしがみついて地域を守ろうとしたりする 。 また、従業員の生活にまで責任をもっという合理的計算とは無縁のことをしている 。 これはある 程度コストがかかることで、経営の効率は悪くなります。中国に出かけてい った方がも っと利益 が上がるのに中国に行かない。長崎に固執しているのは、経済的にはコストがかかりますよね。
そういうことをや っているから日本の経済がうまくいかないんだ っていうふうに言われています。
しかし、日本のそういうステークホルダーの構造がどうしてできあが ったかというと、それは 日本社会が上で述べた二重構造をしているからなのです。経済活動の背後に「社会的生
Jがある からです 。労働力をただ労働力として売るのではなくて、その背後に人間というものがある 。土 地の背後に頑として動かない自然というものがある 。貨幣の背後に、貨幣よりもも っと大事なも のがある 。そういうふうに考えてきたから、その結果としてステークホルダーという、こういう 二重構造ができたのです 。それを
90年代に崩してしま った。その最後の仕上げが小泉政権だ 、 っ た わけです。
構造改革が完成すると同時に、そういう日本のシステムが壊れていきます。壊れてい った結果 が、先ほど述べたような、様々な犯罪をもたらし、いろんな地域の疲弊をもたらしたのです 。
とくに、人間の聞の相互不信感が一番の問題だと思います。 コミュニティというものを支えて きたものとして、最近の経済学者や社会学者がよく使う概念に、社会資本 ( ソシアル・キャピタ
lレ )というものがあります 。社会資本とは何かというと、要するに人間相互の信頼のことなので すね。 日本の場合には良かれ悪しかれ社会資本が強くて、これはプラスにもなるしマイナスにも なるのですが、日本の場合には、ある場所に住んで共通の空気を吸うことである種の安心感とい うか信頼感が生まれてくる
、とい ったことは事実です。そういう「空気」のようなものが先ほど の、問と自然と、それから宗教というものを結びつけていく 。そして、そこに無意識のうちにあ る種の信頼というものが生まれてきます 。
コミュニティが崩れてくると問題になるのは、信頼、つまりソシアル
・キャピタルが崩れると いうことです。キャピタルという言葉が付いているということは、こういう信頼が実は組織の中 でも非常に重要な役割を果たしているということなのですね。組織というものは、先ほども 言い ましたように、労働者・従業員を同時にヒューマンなものとして扱い、時には家族のことを考え てみたり、福祉や福利厚生を行ったりしていました。 それから、地域に対して責任を持って、ちょ っ
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と業績が悪くな ったからといっても簡単には工場を移転したりしませんでした 。 もちろん同時に 株主のことも考える 。それらの聞のうまい調整を可能とするものが、ソシアル・キャピタルなの です。
従業員の問、株主と経営者の問、地域と企業の聞の意思疎通を非常に簡単に、容易にできると いうことが、社会資本(ソシアル・キャピタル)の力です。従業員の聞に信頼関係があり、上司 を信頼する 。上司も経営者のトップを信頼し、それから、地域の者も企業を信頼し、そして株主 もその企業に対しである程度、愛着を持つ 。そういう信頼によって結ぼれることで、その企業は うまくいく 。信頼というのは、そういう意味でキャピタルになり得たのです。少なくともそれが 日本的経営というものの決定的に重要なポイントだ 、 っ たのです。 日本的経営というものは、もと もと信頼をキャピタルに転化して、そのことによ って組織としてうまく機能させてきたのです。
最近、社会資本についての研究が、特にアメリカで進んできています。代表的なものにパット ナムという政治学者の『ボウリング ・ アローン』という本があります(ロノ
Tート・パットナム 『 孤 独なボウリング : 米国コミュニティの崩壊と再生』柏書房、
2006年) 。 これはこの
20年ほどのア メリカを舞台とした社会資本の研究で、レーガン大統領の新自由主義的な競争政策によ って、ア メリカの中でいかにそういう信頼関係が失われてきているかを示した本です。パットナムの結論 は明らかに、
80年代あたりから、アメリカで、コミュニティの信頼関係が失われてきている、ソ シアル ・ キャピタルの力が弱ま ってきている、ということです。
アメリカは、もともとサロンやクラブ、ボラ ンテイア、そういうものが発達した文化なのでしょ うね。 しかし、そういうものの勢いが急速に落ちてきているということが、ある程度、統計的に も検証できているようです。
グローノりレ化 とアメリ カ
さて、構造改革がコミュニティを崩壊させることになる、というお話をしました 。ところが、
構造改革にはもうひとつの無視できない面があります。それは構造改革が、アメリカからの要求 であ ったということです。先ほど、構造改革とは、社会主義が崩壊した後のグローパルな市場競 争の世界に適応するためのものであると 言いましたが、グローパリズムというものは、簡単に言 えば一種のアメリカ化です。ちょ っと強引に言っ てしまうと、 一種のアメリカ中心の世界になる ということです 。
80
年代のアメリカは経済的にかなり弱体化していた。 レーガン大統領の時代にアメリカ経済は かなり状態が悪くなって、ほぼ日本に追いつかれてしま った。85 年には 一人あたりの
GDPが日 本と同じになってしまい、ハイテク 、自動車、それから機械、そういうものは日本製品の方がよ くなってしまった。アメリカは非常に危機感を募らせました。 レーガン大統領はアメリカ経済再 生の一環として日本に対する様々な経済上の要求をしてくる 。その最大のものが、日本の経済構 造を変えろという要求です。
彼らの頭にあ ったことを簡単に言えば、日本とアメリカが競争してアメリカが負けるわけがな
い。ではどうしてアメリカが負けたのか。それは日本が不正な競争をしたからだ。こういう理屈
グローパル市場の行方と環境問題
です。 不正な競争とは何かというと、日本の経済システムが自由な競争をせず、官僚によって守 られ、集団主義という特有の文化に支えられた公正ではない経済であり、市場競争になっていな い、という 。
こういう認識のもとで、アメリカは日本に対して「構造協議
Jを要求してゆく。構造協議とい うものは、
SII、ストラクチヤル・インベデイメンタル ・ イニシアティブです。「インベデイメン ト
Jというのは「障害の」という意味ですから、「構造的な障壁に関するイニシアティブj とい うことを、アメリカは日本に対して言ってきたのです。 日本の構造的障害を取り除くために、ア メリカカ
fイニシアテイブを耳見る、というふうに 。
ところが、この
SIIは日本では「日米構造協議 J といわれます 。だから、アメリカがイニシア テイブを取るということをアメリカがはっきりと 言っているのに、日本語では日米構造協議と言 い直して、 二つの国がそれぞれ協議をしてお互いに妥協点を見出しましょう、という話になって
しまった 。その「日米構造協議」が変形されて、「構造改革」になってしまったのです。
アメリカにしてみれば冷戦が終わった後の世界、つまり社会主義崩壊後の世界では、アメリカ がどうしても世界的な大国にならなければならなかった 。そのためには、アメリカ経済がトップ にならなければならない。 じゃあ、アメリカ経済がトップになるためにはどうしたらいいかとい うと、アメリカが得意な分野で世界を制覇するしかない 。アメリカが得意な分野というのが何か というと、情報と金融です。これだけはアメリカが圧倒的に優位にたっている 。 ものづくりでは 日本に負ける 。ですから、アメリカはものづくりではないような部門、金融と情報にシフトした。
そこで、クリントンは、直接的にも間接的にも情報部門と金融部門を支援しました。ゴア副大 統領のいう「・情報ハイウェイ構想」というものありましたね。
情報や金融は、これは、産業や技術の性格そのものからして本質的にある程度グローパルなも のです。生産労働というものが必要ありませんから、最初から、土地も人間性も何も関係ありま せん。だから「組織」も不必要です。そうすると、そういうグローパルな経済を作れば、情報金 融産業でアメリカが有利に立つことは歴然としていた。実際にこれをやったのがクリントンです。
考えてみれば、情報部門でアメリカが強いのは当たり前で、戦後一貫して政府が巨額の公共投資 をしているわけです。
NASAにしろ、それから軍事産業にしろ、アメリカでは情報に対して政府 が、大変なお金を出しているわけです。
金融もやはり同じですね。
80年代にレーガン大統領の下、宇宙開発がかなり縮小され、軍や
NASAの人材が民間に流出しました。そうすると、高度な数学的テクニックを持った技術者が、
民間分門に流れていきます。そういう人たちが、情報技術と結びついた高度な金融工学の分野を 開拓し、新しいヘッジファンドなどにもそういう理論が使われるようになった。これはアメリカ の金融部門のきわめて有利な点なのです。だから、この部門で、アメリカが優位に立つのは当た
り前といえば当たり前です。
それにも関わらずアメ リ カは自由競争 、自由競争と言っています。クリントン政権の経済的な アドヴァイザーであったステイグリッツという経済学者がいますが、彼などは、クリントン政権 の時代を振り返ってこう言っています。 自由主義だとか自由貿易だとか言うけれど、とんでもな い、クリントンがやったことはある種の管理政策であり、戦略的な経済政策だった、と 。要する
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に、クリントン政権は囲内については特定の産業を優遇して、戦略的な産業政策や経済政策を行っ ていたけれども、同じことを外国がやると自由主義に反するといって、市場開放や自由貿易を要 求したというのです 。
環境としてのコミュニティ
ただ、ついでに言 うと、アメリカという国はやはりある意味ですごいところもあります 。一方 で、こういう完全な市場競争の世界がある 。 しかしその一方で、場合によればアメリカの方が日 本よりも っと、コミュニテイが残っているかもしれない、という面もあります。一方でアメリカ では、リベラリストの影響力は強く、特に現在のネオリベラリスト ( 新自由主義者)までくると、
個人が自分の能力を最大限に発揮して、自分の能力に応じる報酬を得ればよいという自己責任論 と市場競争論を展開する 。
こういう人たちに対してコミユニタリアンといわれる人たちは、人々の自発的共同体としての コミュニティこそが大事だと 言 うのです。そしてコミュニティの核にあるものは、やはり宗教な のです。教会を中心としたコミュニテイのまとまりを非常に重要視していて、ボランティア活動 や自発的な集会を重視する 。教会を中心として、ひとつのコミュニテイができる 。そこに学校が あり、ボランテイア団体が集まったりして、人々がお互いの信頼関係を作り出し、それが社会資 本 ( ソシアル・キャピタル)を作っていく 。
個人主義にたつリベラリズムでは、どうしても個人が従う規範や社会的規律というものが議論 しにくい。つまり、社会の秩序形成をうまく議論できないのです。 これに対して、コミユニタリ アンは、個人というものは、常にある集団 ( 共同体)において価値や規範を付加された存在であ るほかない、というわけです。
そういうコミュニティこそが、社会秩序の基礎になるべきだと主張する人たちも、やはりアメ リカには多くいて、政治哲学においては、
90年代には、ネオリベラリストよりもコミユニタリア ンの方が勢いが強いといってよいでしょう 。個人の権利と自由な活動、機会の平等などを軸にす るリベラリズムより、後者のほうが議論の上でも優勢です。 ところが、日本では、政治哲学の中 でも、コミユニタリアンの議論はほとんど紹介されないし、紹介されでもあまり好意的に扱われ ていません。 日本では、ネオが付くかどうかは別として、リベラル系の方が圧倒的に強いです。
日本の思想そのものが偏っていると 言わざるを得ません。 自由競争の本場であるアメリカの方が、
まだそれでもコミュニティを守ろうというような運動も同時にでてくるのです。
結局、コミュニティの中からしか、倫理は出てこない。ただ、アメリカの場合にはその倫理と
いうものがキリスト教と結びついていて、コミュニティを守るということは、ある意味で教会を
守るということになります。これは日本に適応することは非常に難しい 。 日本でこれと同じこと
をやろうとしたときに、どういうものをわれわれが想定したらよいのかはたいへん難しい問題で
すね。昔の窮屈な、相互監視的な共同体というものは誰も支持しないでしょうし、そんなものに
戻れもしません。そういうものとは違 った、日本的な、新たな地域の共同体を作っていかないと
いけない。
グローパル市場の行方と環境問題
しかし、共同生活体としての地域のコミュニティがあって始めて、われわれは、「人間的なも の J (生の価値や目的)と「自然的なもの J (土地や風景、景観、場所の記憶や故郷など)と「宗 教的なもの
J(集合的な価値や死生観、超越的なものへの配慮)を生きた形で結びつけることが できるのです。結局、このコミュニティというものが、別の言葉で言えば、環境だと思います。
社会環境です。環境を守るということは、この意味でのコミュニティを創出してゆくことです。
またコミュニティを守る中から、そういう環境についての意識や、倫理、規範も具体的な形で出 てくるはずなんです。それをどういうふうに立て直すかというのは、これからの非常に大きな課 題です。ただそのためには、まずは、
90年代以降起きた日本の状況というものがどういうもので あったかということを、われわれは認識すべきです。
さらに言えば、
90年代に日本がアメリカから輸入した経済についての考えや構造改革というも のは、アメリカの冷戦後の世界的な戦略から出た部分が大きい。 しかし同時にそれは、ウオール 街やシリコンパレーを中心とするあくまでアメリカの一部であって、アメリカのもうひとつの部 分である、トックヴィル的な伝統、つまりコミュニティを大事にするというもうひとつの側面を、
われわれは受け入れなかった。議論としてもほとんど入ってこなかった 。そういうこともやはり、
われわれは知らなければいけないのです。それを知るところから、次のステップが始まるのでは ないか。このように思います。
具体的な提案も何もなくて申し訳ないのですが、ちょっと何か考える際の参考にでもしていた だければ幸いです。どうもありがとうございました。
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