一六
物
自 と 實
存︑/
﹂︑カントの物悪罵の剛考察一
川 村 三 千 雄
物自艦U凶旧き︒︒︷3の概念は近世哲壌に於て︑︑即ちヴォルフ︑ガント以來︑認識論的︑形而上鼠壁に新しい
問題を提出し來つたと言ひ得るであらう︒特にカントの哲學に於ては︑物自膿は極めて注意す可き意味を持つと
考へられるのである︒然㌧乍ら︑此の概念は必ずし電一義的に明瞭とは言ひ難いのであり.託って種々の解繹の
絵地がある乏言ひ得るであらう︒カント哲學を︑現象論︑不可知論︑或は實践的形而上學︑叉は入間學等となす
のもいつれも多かれ少なかれ物自罷の解毒と不可離に結び付いてみるのである︒階って︑物自艦はカン峯解繹の
鍵を與へるものであみとなしても必ずしも過言ではないであらう︒
物自罷の概念はヴォルフ︑特にカントによって提出された概念であるが︑此の概念内容は哲學史的に決して新
しいものではない︒むしろ其は哲學の騰史と共に古いとも考へられるであらう︒既にイオユアの自然暦墨者によ
って求められたものは攣化生・為する現象界に湿て︑常恒不攣謡講膿であった︒か守るものをターレスは水ξ傷曾 へ ゑ マ や へとなたのであったが︑水は却ち︑もとのもの舞・瓢であったのである◎アナクシマンド讐スはか瓦る實罷を﹁無 重
/
限者Lδ9巷建§と歯し︑.エムペドクレスは﹁根﹂み蕊◎露簿鍵と呼んだのである◎プラトンのイデア︑アリストテ
レスのエンテレヒー2琶◎︒剛首麺も叉現象界の背後に存する本質であると言ひ得るのである︒プラトンは眞に現
出的なるものを︐○霧㌶と増するのであるが︐それは即ち≦霧窪に他ならない¢中世に起ては霧︒︒︒葺㌶は⇔×学
。・W曇賛に相盛し︐近代の哲摯に於ては存在○っ魯臼と定在○器︒貯の闇.題となって來たのである︒
斯くて︐ 一般に現象と本翻︐黒頭と實在.存在と本質の⁝問題は議事史を貫く根本薄恥であると言ぴ得る︒カン
トの現象と物自膿の周題も以上の根本濃墨の系譜に聾するものと考へられるのであり︑か挙る意味に曾て哲睾の
闇題は常に新しくして古いと言ひ得るのである︒而して︑現象に封︾ろ實罷の聞題はイオユアの自然哲學以來の
形而上學の中心開題であったのであり.形而上學はか弱る實膿の學であるとも言ひ得るであらう︒然し乍ら︑刷
知の如く︑カントは塾としての形而上藥の.域立を否定したのである︒と共に︑實艦即ち物自膿は認識することが
出來ない巴なすのである︒其の熱に於てカントはでオエアの自然哲羅者以來の根本問題に卑して︑全く新な解答
を搬ハべるものと言ひ得るのである︒ 駕
カントに於ける物自腱の不可認識性の思想的系議を求めることも恐らく困難ではあるまい︒ハイムゼートによ
れば彼の物自罷の欝脚八芯はラ﹂イプニッツの實鰍灘の概念︐に㎜基くとなされる︒︵麟.口飢ヨ⑳○簿び℃o嵩α乱︷oぴ犀霜曇び①〆く瓢︒り−
§ω魯臼巷伽U︷二毅瓢二︒︒︷nび基調.︒︒為︶ライプニッツの9モナド竃8銭は相互には旋らき合ふことのない完杢に自立
的な個鰐である︒即ち夫々のモナドは無窓であり︑か製る無急的性格は︑如何なる實榿も他のモナドの中へ入る
ことな出來す自己から出ることは繊來ないことを表はすのである︒︵ッ︑︷9郵鮎・噛︶随って︑有限なる實膿である人
聞は︑他の實騰の本質に梱れることは幽憤ないのであの︑叉物自艦といふ如き物の實膿を捉へる語とは不可能で がなければならない︒或は叉鑓ックが︑槻念が物に封曝してみるといふことは直畳的に二戸ではなく︑腰明は高々
︸七 ノ
、
、
㌦ 「
一入 ・
物があるといふごとを教へ得るのみで此の物に關しては何事をも語妙得ないとなすとき︵い9騨糞︾遠国雛曙8蓉曙 まへ
善験穿嚢套津軽・診挙曽舳こそ謹呈クとカンあ物偵艦男気との聯激暑碧とも能であらう◎丸
然し乍ら︐勿論カシトはライプニッツ的に︑形而上學的に物自艦の概念を提出するのではない︒ 一般に近世哲︐學の著しい特徴の一つは方法論的な顯に存すると需はれる︒デカル︸の哲學は一方に於て中世的色彩を有しつ蕊
爾近代的意昧を有するのも既に彼に方法的自畳が存してみたごとに基くと言ぴ得るであらう︒同様のことはカン
トの物自艦についても安議すると思はれる︒即ち︑カントは先づ物自警を認識論的に提繊するのである︒その鐵
に於て触カン︸はう4プニッツよρもむしろ撹ヅクに近接するといぴ得るのではなからうか︒而して︐カン峯の︑
認識論は認識批判であり︑彼の方法が批判的方法であると言はれるならば物臨膿の概念も叉批判的方法によって
碍題となされるのである︒かムみ方法の下に於て︐物凱罷は決して古い形蒲上學的實禮ではなく︑新な意味と丙
容を獲て回ると考へられるのである◇ ♂ ︑ . ・ 囁 ・
麟
・カン手によれば.我々の認識は如何なる仕方で封象と雪濠する匿せよ︑封象との關係は直観を前提とするので
あり︐撃って総ての思惟は直観を媒介にすることによって可能なρである︒即ち︑封象は思糠される前に直観さ
れなければならす﹂同時に直観は我々忙封象が輿へられることによってのみ生するゆ﹁然し乍ら.此のことば少
なくとも我々人聞にとっては唯勤象がある仕方で心性○露鐵夢を燭獲するといふご︑とによってのみ可能である︒︑
我々が封象によって鰯護される鉱欝ぞぽ髪簿脅欝といふ仕方により℃表象を獲得する能力︵受容性︶を感性と回
する﹂︵機● 畠嬢 鰻導 ノ㍉3韓. ③軌︶︒ か瓜る感性によって封象が與へられるのであり︑此の憾性のみが我々に直観を翼へ
瀦
るのである〜︑ ︑ . 気
かぐて︐獲られたる直観内容ぼ悟性によって愚犠されるのであり.その思犠から概念が生する︒隣って︑総て
の思︐雛は直接的にせよ間接的にせよ直親に關移しなければならぬ︒
傭て︑琵虞に引用したカントの言壷は︑極めて重要な意.味を含んでみると考へられる︒先づ﹁少なくとも我々
人鵜にとっては﹂籠あジ・甘蕊∩ぽδ芝黛一一竪紅鱒といふ語は第二版に於て附加されたのであるが︑却って此の中にカ
ントの注意深い意圓が看取されるであらう︒我々は純粋理性批判の他の商虞に於ても屡女︐︑同臭な表現﹁我六の﹂
﹁入聞の﹂を見出すのである︒即ろ︑我々にとって問題℃あるのは正に人闇の認識でめり︑随って人衡の立場を
超えることは出來ない︒直齪は榊︐牧畜槻に非すして︑人闘謹直槻としての感性的︑受容的直親である︒かくて︑
.理性批判は叉︑紳的理性の批判ではなく︑買ックの悟性論が﹁人開悟性銘しであった如く︑人聞理性の批判でな
ければならない︒
か重る人聞の立場に慌ては聖帝はあく迄︑所土性として輿へられるのであって人聞が封象を濫造するのではな
い︒即ち︐我々は封象によって燭震されることによつて封象と關係し得るのであって︑それが同時に揖象が興へ︒られるといふことを意味するのであるβ燭投されるといふことが︑即ち封象と關賢しつ瓦輿へられるといふこと
であって︑それ等は囚渠の關係を示すものではない◎與へられるといふことはブヘナウ︵︾.翻需冨塁厳○疑類傷−
鷲◎げぽヨ腰提鎖浮律﹄舞 唖・冨欝く窪μ高騰.︒・・一端︶が言ふ如く︑關係せしめられるといふことに他ならない︒回し︑
て︑それは我々の心性が燭獲されるといふ仕方で關論せしめられるの︐づある︒故に︑我々が封象に關係する仕方
はあく迄.受容的であり.か瓦る受容的な感性が直親を與へるのである︒
それでは警部でいはれる封象は一怠学を意昧するであらうか︒カントは﹁直言とは環象の現存に直接依存する
一九
重
二〇
如き表象である︒それ故に先天的根源的に直観するこ乏は不可能である﹂︵津9轟︒欝窪鋭の●る︒麟︶と語る︒表象は
勿論封象の表象でなければならない︒然し︐直親は封象自灘を根源的に直観するのではなく︑その限り︑封象を
・護出するものではない︒むしろ封象の表象を生み出すに過ぎないのである︒勤自象膿は我々の心性を燭竣ナると
いふ形に於て輿へられるのであ参︐露盤されるといふご乏が封象と關慣することであるといふ以外に何等の規寒
をもなし得ないのである︒随って︑斯る意味に於ける直観は既に所興的封着に關はるが故に︑経験的直観である へと考へられなければならない︒.鞭って︑封象ぼ現象であり.それは﹁維駒馬寮象の無限定的な封象﹂︵魏●繕び
.<.肋.⑦⑪︶である◎.
か タ ・倦て︑直観の形式は時聞と室間の二者であるが︑か蕊る直槻の形式は先天的であるb他方に於て時聞︑塞間は
概念ではなく翁忌直観であワ窟とされる︒随って妻縛室は直槻形式であるど共に純騨直観であるといふ二重構造を
有すること義なる︒而して︑時事が直観形式であるといはれるとき其ぼ主槻的な感性の形式を意味するのである
が.それ億同時に客観的な現象の形式である︒何となれば経駒的直観の不定の対象が現象であるからである︒随
つて叉憩室は︑主観的︐客観的なる二重構造を有するのである︒それでは物自欄は時間︑塞闇と如何なる關係に
あるのであるか︒塞聞概念の形而王的究明の中にはじめて物自艦なる言葉が複激の形であらはれるのである︒﹁そ
れでは容量と塞聞とは何であるか︒それは實在の存在≦搾窪黒陶︐≦霧窪であるか︒其は事物︵Oぎ鞍qの︶ーーたと
へ其が直親されることがなからうとも一i樹然し物々自膿︵Uぎ警q⇔碧9・銘回︶に屡するであらう如き逆なる性質或
・は帯磁にすぎないのであらうかし︵矧.犠・磐く.q・・も◇α︶︒か眠る設問に秘してカントは自ら次の如く答へる◎﹁旧聞
ぽ如何なる物か.自艘の性籔でもない︒或は物々自膿相互の闘係を示す庵のでもない︒即ち︑諸謝象自身O③磯Φ導
.勤妥︑瓢︒・︒の蒙δに属する如何なる規定でもない︒﹂︵賊●翁・響く毒功●講︶かくて︑愚闇薫物々自禮︑叉憾諸藩象自身 気
の性質を示すものでもなく叉それ等の聞の關係でもない︒即ち︑室間は物々自膿とは何等の積極的黙思を有する
ものではない︒随って︑物々自艦は感性論に於ては否定的に表現されるのみで何等の積極的規定も與へられぬの
である︒ カントによれば我々の入試.の立場からのみ室簡とか延長とか穿語られるに過ぎない︒我々は⁝封象に鱗嚢される
ことによってのみ外的直管を得るのであり︑此の外的直写は既に察柵形式といふ主獣的制約を受けてみるのであ
る︒此の感性の形式は愚論が我々の外にあるもめとして直槻される総ての關係の必然的な制約なのである︒随っ
て︑か回る制約の外にある物々自得︑素封象自身を直撰することは出掛ないのである◎故に︑我々は感性の特殊
的な諸制約をば事物の可能性の諸制約となすのではなくて︑唯事物の現象の諸制約となすのであるが故に︑我々
は次の如く言ひ得るのである︒即ち︑塞⁝欄は我々に狂して外的に現象するであらう如き総ての物を包み得るが︑
然し乍ら総ての物々自知︹三︒望隅嘱○蓉g︒陶︒隔纂鮎ぴ簿を包むものではない﹂︵擁︵ψ瓢◎触●♂30り.刈トひ︶︒かくしてカントは
室閤論の最後に次の如く語るのである︒﹁察.開に於ける現象の先・験︑的概念は一つの批艶紅警告である︒ 即ち︑塞
聞に着て直親されるものは決して事物自艦魯お○︒註ざ猷彰鉱︒びではない︒︒・なほ叉塞閥は︑おそらく物々自膿に庇
するであらう如ぎ物々自騰の形式ではなくて︑むしろ諸封象自鰐は全く我々には知られす︑我々が外的封象と名
付けるものは我々の軍なる感性の表象にすぎない︒その形式は察閥であるが︑然しそれが眞の急斜︑即ち物自罷
自身黛霧欺く︹魯饗ωOc糞¢岡二二誤ごひ︒さ︵碧一◎瓢︹務Oぎ臓§︒・凹隻①色び巽は其によって全く認識されてみす塾叉されるこ
とも出辱ない︒然し叉︑塞聞によってはなほ物部膿は輝瞼の中には決して問題となることがないといふことの批
評的警告である﹂︵匿.繕戦.く.︒︒.ミ︶︒髭の藩学に継てはじめて物自恕は序数の形に於て現拡れるのである︒然
・し何等の規定を含むものではなく︑感性論に嘗てはか嵐るものは問題となることがないとされるのである︒
鳳コ ︑
瓢二
三
暢 既に述べた如く︑カントの感性論の出獲職は我々の心性○費鑑昏が燭獲されるといふことであった︒か嵐る
一見素朴な表現は一鰐如何なることを意味するであらうか︒
カントの哲學の方法は︑人間の能力く罫書α鵬翼囁の分析を手引きとするものでありその黙に於て先験論理學は叉
能力の論理學といふことも可能であらヶ︒感性︑﹁悟性︑想像力︑判断ヵ︑畳知︑統畳々の概念はいつれも旧聞の
能力又は機能を表はすと考へられるのである︒然し之等の能力︑機能の申に心性なるもの嵐位置は見出すことは
出心ない︒○のヨ¢島なる語μ辛し︑心性なる弁職は必ずしも安富であるとは言ひ難いかも知れない︒其はむしろ
學的︑叉は哲學餉な用語︑若しく概念ではなく︑日常的︑寒樹的立場に於ての素朴な心0あり方を崩ずものと考
へられてい蕊であらう︒フリースの如きはこれを不明の感情身碁亀Ω鳳画一とさへ解七てるるのである︒随って
心性が鰯獲されるといふことは決して分葉的︑︑反省的な意味を竜つの雌はな博労しろ日常的︑直接的膿駒を語る
ものと言ぴ得るであらう︒其は最馬原初的な事實で.あり︑反省以前︑認識以前の立場に薫ずるのである︒か製る
所輿的事實︑日常的受容性が同時に封象の所輿性となるのである︒此の様な立場に於てレ直ちに現象の背後にあ
る不可知的な物自艦の如き亀のを想定することは恐らく自然的であるとは考へられないであらう︒か蕊る直接的
事實より出超する下から上への方向はヵツト哲學の持つ重要な性格の一つと考へられるのである︒隣って叉︑︑感
性論に於ては物自艦は消極的に現はれてるるに過ぎないのである︒我々の封象はば経験的直観の無限定的な封象﹂
といはれる現象であり︑︑か盗る現象の背後にあるある︑屯のへの素朴なる反省に過ぎないのであ獄︒か瓦るもの
・が︑物々自禮︑諸封象自身︑事物自罷等の概念となり次第に反省が深められてゆくのであるが︑之等の概念も個
脅
々の経験的直獅⁝に回しての夫浸のエトワスXを示すに過ぎないのである︒.
それに熱して人間の知ゆ得るのは感性の中に入か得る限かに於ての封象であり︑それは既に睾槻的制約を受け へFみかものである︒故に我々の知り得るのは自慰性に於ての事物ではなく自費の現象に他ならない︒直観は現象
の表象に外ならす︑物自艦は我々入汐にとっては不可知であるのである︒即ち︑我々の感性を離れて︑封象自艦
が如何なる性質を有するかは全く不明と言はざるを得ない︒ ﹁我々がたとへ現象の奥底まで洞察t得るものとし
ても︑封象自艦の認識とは天地の相違あるものであるし︵囚●ユ●種︒ノN.◎り●Gρ鱒︶︒
我々はカントの立場が日常的︑直接的黒黒より出撫するものであることを注意した︒かふる直接的事實より次 げタ第に分析と反省が深めら胤てゆくのである︒直槻の無限定的凝封象は物凌自膿︑諸鮒象自身︑事物霞膿等といひ
表はされるのであるが︑︐それ等の概念は直ちに物自尽と同一であらうか︒叉﹁感性の眞の相盛しとは何を意殊す
るであらうか︒
個々の維験的直観に封ずるのは個々の物理窟艦であり︑諸賢象自身であると考へられるであらう︒直接的︑具
盤面欝欝は個別的であると考へられるからである︒か蕊る経瞼的直観に於ては︑我々は個別的封象と︑欄獲され
げ ギるといふあり方で理窟せ.しめられるのであり︑それが即ち興べられるといふことに他ならなかった︒.随って︑燭
獲ざれるといふこと製與へちれる乏いふζとは同義でなければならぬ︒かふる所志性は我汝の心性の有限的受容 タ的樽造であり澗随って我々はそれを超えることはできない︒即ち︑我々の分祈.反省が如何に深まっても受容的
性格を脱することは出露ないのであるρ燭獲されるといふことは︑直接的事實とむて︐個々の物々自膿に關はる
のであるが︑その鱗獲され謁仕方は﹁ある仕方で﹂一点郎︷群q.鼠︒︒︒・︒≦︒︷頓.︶といはれるのみで︑其以上のことは何
等規定されでるないのである︒随って︑燭嚢されるといふことは︑ある仕方で輿べられるといふ以外のことを意
・ 二三 傷
二嘆
昧するものではない︑かくて個別的な燭獲されるといふ事實は⁝般に感性の研與的性格を示す窓のであると考へ
られる︒感性一般がか叢る桝輿性を示すものであるとすれば︑物自膿は物々自罷一般として感性一般に相封ずる
竜のと考へられるであらう︒そのことは個痛的直接的盤鹸の事實より︑反省が深まり個別的な濁獲より感性一般
へ︑個捌的物幡自龍より︑物自旧く進むと考へられるりである︒譜 ㌧
かぐしズ︑感性の背後に物自盤が存するといふよ賀はむしろ爾者齢共に心性の受容的性格を示すと考へられよ
う・即ち︑感性は隷農難し務自謄接するのであり︑物理繕性の前提の走のみ懇惟酌である・
換言すれば︑感性をはなれて物自雌の如きものを實膿誤写思惟することは許されないのであり︑物伯耀の概念な・
くして感性の受容性を表現することはでぎないのである︒か挙る意味に於て︑物自禮は感性の眞の相關といぴ得 るのであらうゆビ興とは軍なる儒に封ずるものではなくして︑むしろ辮誰法的に根篠O議aと考へる響きではな
からうか︒
感性の限界は同時に人聞能力の限界である︒然るにカント諮學の意闘は人閥能力の限界附けといふ黙に存した
のであった︒随って︑琵琶罷の概念はカントに猛て極かて重要であると言はなければなちないのでみる︒そρ黙
に於て︑物塁壁を矛盾的な概念として否定し去るのは決してカンおの眞意を汲む略のとは言ひ得ないであらう◎
然し乍ら︑物自署の概念は先に言へる如く必ずしも十分に明瞭であるとは言へないであらうゆ然しそのことは理
由のない℃とではない︒︐何となれば︐物瞬断の概念はカントの根本的意圃ーー人閣理性の限界附け⁝⁝■と結合し
理性批判の展開と共に動的に獲農してゆき唾更に寛騰理性の領域に迄繁ると考へられるからである︒・
四
/
舞︑先験論理學は純粋悟性概念を論ずるものであるが︐其は同時に自然科豊ゐ可能性について︐即ち﹁純粋自然科
學は如何して可能であるか﹂︵男議轟◎彰窪麟ゆ勢猟L唖穫.<愁.ま︶に答へんとする︒而して豊潤叉﹂般に経駿・
の可能性を基礎附けるもので亀ある︒即ち踊直観するのみでは未だ経験が可能になるのではなく.岩槻されたも
のが更に思惟されることによってはじめて維験が可能になるのである︒ ﹁内寡な鷺思惟は察虚︑概念な賞直観は
モま 欝目﹂︵︸︵・幽・瞳︒ノ㍉●◎壕・O︷︶と語られる所以であり︑直観と概念の爾者によって︐はじめて維験は成立するのであ
る︒而して我々の心性が濁獲されるが如き受容性が感性と馳せられるのに悪して︑表象蔦蔓を生み出す能力︑或
は認識の自嚢性︒︒℃83葺鰹は悟性と稻されるのである︒か謬る自獲性はあく迄感性的直書の封象を思惟する能
力であり︑か玉る感性的直結を離れて思惟の写象が輿へられることは出來ないゆ随つで︑悟性の自轡型は決して
絶三三自獲性では凝い︒ ︐
感性は直観の龍力であるのに封して︑悟性は概念の能力であるといふことが禺來る︒範疇はか義る純粋悟性概
念に他ならないのであり︑純粋悟性概念を取り扱ふ先験論理學は直槻内容を範謄によって属寄する限り︑同時に
其は暦象の論理學となるのである︒灘かぐしてカント自らによって﹁私自身.にとうて最大の研究しど告白される純
粋悟性概念の演繹がなされるのである︒然しそれを詳細に辿ることが今の三男ではない︒先づカントに於て維鹸
とは何を意味するかを考察してみようと患ふ︒藝
カントによれば維験とは維験的認識を意味するのであり︐故にそれは羅なる所輿的なものではない︒而して︐
維験的認識を可能ならしめるものは範疇であるが故に︐範疇は総ての落蓋の可能性の根掛を含むものでなければ
ならない︒かムる維験の封象は霊験的封濫悪しての自然であり︐現象であると考へられる︒随って︑現象及び︑
そ︑の総艦.としての自然に暑して範疇は叉先天的に法則を附輿する竜のでなければならない︒即ち︑﹁経験は知畳の
ぎ 二五
− 二六
必然葡結合の表象によってめみ可能であるし︵溶↑磐メ鉾ド鵠︶之言は煎るとき此の泌然的結合は純弊照性概
念即ち範嚥によつて可能とされるのである︒驕ろて概念が終験を可能にするの噂適韻︑篇繍淵ひ換へれぜ範疇三思准
が輕験蟻封象を可能にするのであるσ経験的封象は経験の封象であ鋤.かきる封象は現象の彼方にある物自膿で
も コ ぎ ア ド ダ遺なく﹂現象そのものである︒・囁﹁悟性は自身︑揃然に封ずる法則附輿である︒即ち︑悟性なくしては何回にも自
燃棲くゴ規則饒鏡象の多檬薯憩の.簾・的統思議な惚あら農触る.びメρ同燦・ かぐの如ぐしてカンみ董・蓄蔵ス的溜はな蓬げられた︒然し乍ら︑裏を品等偶に︐要に
自然に翻する入館の優位︑或は薩閥搾よる自然の産醗を意味するのでは数い︒物と物自膿との關係は隔自然と自
然自膿との關係と直ちに同.一でば細い臨あらう︒何どなれば現象の総膿が自然であり∴それな既に維験的直親の
をを ダ内容であるから蕩る︒肇︑掴あ現蟻掛と←ての自転夫乏可認識的であるが︑総ての現象︑廊ち自然
一般︑自然自膿が可認識的である止は言へないであらう︒随って又索然血膿を人間的悟性によって構想せんとす
るζと境愛い︒嘗て︑暴に享る碕管掌とは﹂蓄が附嬰鋸竪に於いて省筆なけ澱麿
ない︒かエる意味に於て霞踏臼寒樹再び不可知的であると言はなけばならないであら5︒乏同時に自然の底には
.盃知の物言が誉と考へられなければならぬ零ちう.我・人糎蕪の躍籍しマ︑自然に謂ては︑
他春であみと語っ表がコテの雷葉︵○︒簿ぽ騨七冷窯暮霞聾ぶ﹀の申により多kめ眞理が含まれてみるであらう︒
ト ノ ニピ タチ ヨ ザ域望暴と自然毒はクザ肇ヌス.プル密壱スピノ︐みにつ髪晶誘纂︵昌簿.瓢・・譜・︑.鍔・・嵩・︐ツ毒産
的自然︵霧欝餐曇骨屋欝︶の註解を想起せしめるであらう︒.︑ヤスパ﹂ス億.・自然をぱ貫通されざるもの︐発くの
膿漏.金潜創・鶉・剛︑鉱・下鞘騎⑳ひ創趨・.薄儀︒ン醇ぴ︷鐸︾灘甑・・.︶愛楽であ簗︑爆の霧愚なる窺書の提存する◎客
レ襯存在護身Eにとって正た客親であδが︑嶺然の自盤存在︾鼠9鼠﹃は然し乍ら宮己にとっては到蓬されぬも︑
のである︒﹂︵冒馨¢︐℃峯88ぎ●じご鎚︒囲.の●一9︶と言ふ︒而して一般に科塵・は世界定位≦亀8二①簿剛興§騎として︑
人間の立場より世界を定位するのであり︑自膿存在に關はるのではない︒かくて科學は限界を持つとなされろの
である︒か玉る自膿存在としての自然は人醐にとっては輔達されないものであり︑入闇は却って誹虚に宮己の有
限鰯性を自愛しなければならない心ユペルニクス的簿悶はむしろ深く入開の有眼差を膚同党ダるものであると言ひ得
ないであらうか︒
カントは維験的直観の無限定な封象が現象といはれるのであるが︑自然とは﹁︵維験的趣味に於て︶北ハの定在
に臆して必然的規則︑即ち法則に從へる諸現象の蓮結﹂︵囚・瓢・触・・︒.ゆ鉛︶を意味するとなされる︒而して叉︑﹁総
ての現象は一つの自然の中に存するのであり︑軍畑ハの中になければなら海い︒何となればこの先験的統一なくし
・ては経験の統一は不可能であり︑随って莫経験の申に於ける薫風象の如何なる規定も不可能であらうから﹂︵象?
b魯︶と言ふ︒此虚でいはれる一つの自然島お.Z論議は自然自営と解することは出來ないであらう︒何となれば
一つの自然は︑個々の自然を包むものとして駕實的な意味を持つ︒他面︑差別的自然を包撫しつ蕊一つの自然は・
次第に生成すると考へなければならないであらう︒随つズ一つの自軟︑は完成せるものではなく同時に理念的であ
.り可能的な性格を持つと考へなければならぬ︒故に一つの自然は現實的であ夢つ蕊同時に可能的であるといぴ得
るであらう︒かくて一つの自然は無限的諜題であると考へられるのである︒而して︑か渋る一つの自然の根底は サ深く自然自説とつながってみると考へるのではあるまいか︒自然ば主膿的には一つの自然として理念化の方向を
有し︑客膿的には自然自艦として實膿化の方向を指すと考へられるのではなからうか︒
かくて︑ 一つの自然は今や個々の自然ではな−統一的自然であり︑叉自然一般︵翼暮鴛ま興ξξ搾Pμ①一︶で
ある︒同時に輕験も又︑一つの維験であり︑輕験⁝般︑膚遍的維験とならなければならぬ︒ ﹁若し人が異なれる
二七 .〜
二八
諸維駒に關して語るならば.それなそれ等が一つの.そして同一の維験に鷹する限りに減ての︑それ丈けの旧知
畳である﹂︵醗︒山●聴◎ノN・もα.一隔Wり︶個々の経験.個々の自・然な一つの維験︑ ⁝つの自然に包まれるのであるが︑北ハ
等は軍に個別的なる秀のN総和ではなべて︑却って個別的なるものを可能にする根擦であると考べられなければ
・ならない︒個別的なものは一般者の中にありて︐細別的なるものである︒然し一つの細細は未だ︑か曇る一般者
ではなく︑ 統一的自然︑ 全罷的自然の意味を持つに止まるであらう︒ それはむしろヤズパースの言ふ包括者
.⇔ヨ鴨ゆ︷晦9瓢︒の如遣もの巴老べられるであらう︒從ってそれは理念的であるが理念ではない︑而して︑かふる一
なる自然は根源に於て深く自然自禮につながると考へら漁るのではなかちうか︒
か製る一つの自然は軍なる悟性の機能によって捉へられるものではない℃何となればか蕊る⁝つの自然は我タに與へられる窓のではないからである︒それではか玉る一つの忽然に勤慮する心的能力は何であらうか︒叢聡所
謡嗣︑純粋織田型幅葛︾讐興§讐δ隅副であると考へられる︒個別的自然が一つの自然に︑個罰的経験が⁝つの経験に
綜合されたる如く︑悟性の機能は統畳によって統︸されるのである︒こ蕊でも叉後者は前者を内包的に包むのみ
ではなく︑むしろ悟性の機能を可能ならしめる根糠でなければならない︒
五
倦て︐現象は我汝に直接に輿へ撃ちれる唯︸の封象であったのであ夢︐か躍る現象の中に敢て直接に封象へ關
移するのが直観であった︒跳の現象は随って物霞膿でぽなく︐軍に表象に過ぎないのである︒ ﹁表象は再び我汝
にとって最早︐直槻し得ざる封象を興ずる︒随ってそれは非経験的︑即ち超越的虹鱒Xと名付けられるものであ
らう﹂︵囲︵.山・機︒ノN●oO︒緋O績︒㌦ド.︶︒即ち︑表象とい︑はれる限り︑それは何物かの表象でなければならぬ︒感性に於
ては直観は直接的︑受容的である限り物磨慌の反省は現はれない︒それは素朴的に心性が燭獲されるといふあり
方紅翫まる︒然し乍ら︑悟性の立場に於ては表象は何物かの表象として自梵されなければならない︒感性の立場
慧學以前の立場であり︑悟性の立場に於ではじめて認識の立場といひ得るからである︒随って先験的感性論に於
︒ける物自罷は超越的封象Xとして反省的に自畳されて妊るど言ぴ得るであらう︒然し乍ら封象Xが自傷されて來
るといふことは封象Xが認議されるといふことではない︒物愛撫が不可知である如く封象Xは不可知であり︑随
つてXである︒故に封象Xは物自髄の不可知的性格を脱することは鵠來ないのみでなく︑自蝿的に反省されるこ
とによって却って︑客儂的不可知性を明にして來るのである︒ .
﹁直槻の申に輿へられるものは無規定的な封象でψり︑随ってXであってαではない﹂︵﹀●ごご蓉︸ρ2碧鱒O層§山箕?
︑窪︒転婆巽堀§努髪上・磐ζψ嵩H︶︒ 或はそれに封してXであっαであるといふこともできるであらう︒かエる もめは維験的封象ではなく超越的封象と考へられる︒カントは此の超越的封象について次の如く言ふ︒ ﹁此の超
越的心象についての純檸概念︵それは現實的にすべての我々の認識に於て常に一般的なXであるが︶は総ての我
々の経駒的概念︸般に封しての︑即ち客槻的實在性への薄儀を生み出し得るものである﹂︵囚9騨酸く.Qっ払G︒G︒︾.︶︒
此の概念は何等直槻と謝灯するものではない︒がも早や︐羅なる物自粛の如く酒事的な意味に止まるものではな
く︑むしろ認識の多檬の中に潮齢されるのであり︑隣って認識の多彩性を統 するものに他ならない︒と共に︑
我々の維験と客獅⁝的實 在性との相關︑封慮を保遣するものでなければならない︒一つの凝然︐一つの維験もかふ
る意味に於て超越的勤象へ通するものと考へられるであらゲ︒随って︑超越的愚婦は輝輝的煙管性であると共に
客槻的.實在の根櫨⁝となるのである︒︑
かエる超越的勤象は︑主親的側面ピ於て超越紅燈畳に相封ずるものと考へられるであらう︒こ憶では鍛に超越
亀 二九 ダ
﹂言
︑的封象が超越的統畳によう︑提へられるといふのみでぼなく.爾者は眞の椙附として︑前者は後者に主膿化され
後者は前者の中に客燈化されると考へられるであらう︒それは弔客膿の根号に主髄的なるものが存し︑主罷の根
源に客罷的なるものが現出するといふことも言ひ得るであらう︒超越的射象の概念は︑恰も客膿より主線への縛
換を示すものではなからうか︒
それではか阿る封象Xと物自膿とは如何なる罰金に立つものであらケか︒現象は感性的表象であり︑か鮎る感
性的表象に相三鷹⁝するものは輩なる︑あるもの一般簿ぞ霧︐霧巽び碧讐即ち︑Xと考へられる他はない︒それは叉﹁
Xである限ジ︑無規定的であり︑封象的にそれ自艦を認識し得るものではない︒然し乍ら認識が封象に關係する
瞑り︑我々は必然的にかエる封象Xを思落せざるを役ない︒そこでは︑再び︑感性に糊しての物自腿の關係が繰
わ返へされるのではない︒何となれば我々の感性は受性的であウ.鱗獲されるといふ關係に縫かれる限り︑感性囁
は物自艦の表象を必然的に俘ふものではない︒随って慈性論に於ては物自膿は何等積極的な意味を持ち得るもの
ではなかった︒然し乍ら︑悟性の立場は自嚢性の立場.であり︑戯反省の立場である忠霊︑必然的に要撃自盤へQ
概念を俘ふのであると考へられる︒
我々の認識は決して恣意的なものではなく︑ある仕方で先天的に規定されてるる⑩而して︑我々の認識が一の.
封象に關はる可ぎでみると摺れる阪参に於て認識は必然的であり︑同時に普遍的意味を持ち得るのである︒然し.
此の封象はそれ掛膿に於て我々の認識の宝勢となるものではなく︑あく迄我々の表象の外にあると考へなければ
たらない︒随ってか転る漏話自⁝鎧はXであり︐・認識の封象としては結局︑無︵鷺搾ぴ虜.溶繕磐タ○陰.蕊⑩.︾︶と
言はれざるを得ない︒然し︑封象的に無で挙ることは︑却って勤象一般を可能にする根擦でなければならない︒
ウィンデルバントの如くそれを輩に要請されたものとして︑郵信的無℃8ε獄樽3裟畠霧と解するこおは出來ない
であらう︒︑それは堕しく︑客膿と主膿との眞の相關が見られるのであり︑審罷と主艦どの切話にあるものと言ぴ
得るのではなからつか︒それは又﹁封象が必然的につくった統一が︑表象の多様の綜合に於ける意識の形式的統 お も一に他ならない﹂︵魏9缶9短くも6◎鍵毒︒︒︾.︶と晶一既はれるのである︒か登る意味に於て超越的封象は現象の背後にあ
る露なる溝極納な物自膿でぼない︒封象的には無であり︑然し乍ら主膿的には意識の統一に他ならない︒かくの
如き統.一なくしては認識はあ狂得すザその統一は客艦的には超越的封象℃め抄︑無極的には意識の本質とみな盛
れるのである︒か捻る綜合的統一は根源的には超越的統畳に基づくものでなければならぬ︒ハイムゼートは﹁統 ぢ も ノ畳の統一の申に於て欧軍なる閣係黙翻慈夷考蕪碁曹が見られるのみでななくして︑ 寧ろ心性の病難的な行爲の綜
ゑ う 合的機能腰ついての首邑︵︶叢巳ぞ蕪汗費が見出されるし︵猟鉱ゆぎ︒・o薄鍋℃の塗α議搾ン謝鼠窃薯譲霧凶錺⇔ぎ瓢雛創U貯㈹§
錺宮遷∵⁝ノ〜5陰・慧︶と 一警ふ︒か製る統畳によって︑實践理性の世界へ砂通路が準備されてるると考へられ乃で
.ちらう︒
かくの如き超越的封象は更にノウメナ翼︒薮琵嚢として理念的な意味︐を帯びて知る︒ンウメナはフェノメナの
相關概念であるが︑フェノメナとな純糠悟性概念即%範疇の統一によって封象として思犠され得る現象である︒
而して︑範疇が適用される皆無は先づ感性的に輿へられるものでなければならない◎然るにそれ区区して︑箪に
悟性の君臨として︐しかも感性的ではないが直観の勤象として考へられる如きものが假定される場合︑か鼠るも
のをノウメナ︵或は叡知膿囲簿⇔篶臓裁㌶︶と辮されるのである︒ 感性的ならすして直観の封象であり︑軍なみ悟
性の写象とはカントの立場に立つ寄り矛盾的なこと蕊言はぎるを得ないゆそれは形而土竃的欄臨へ潔斎す胤こと・
を意味することになる屡ではないだもうか︒ カントの理性疵判は ︸面に於てか瓦る危瞼を藪してみる如く見え
る︒フィヒテ︑︑シェリングへつながる心逸観念論の申にはかムる巴鴨を見ることが二天るであらう︒それはさて
ミ瞬
さ\
〆
煮 .蝋 一 ㌦ 囁 囁 三二
おきや蟹ビ!はカントの物自罷は維持す可からぎる矛盾的概念であり︑か穫る矛盾の巾にカンあの全理性批判が
展開されると評するのであるが︐それほ果してカンFの上意を衝く竜のであらうか︒
カントはノウメナについて次の如く規定する︒ ﹁若し我愛が我々の物の直観のあゆ方から遊離することによつ一
て︑物が我々の感性的直槻の客艦に非ざるとき.その物をノウメノンと解する︒此のノゥメノンは溝極的意味に
於てのノウメノンである︒我々がノウンメを非感性的直観の客膿と解するならば︑我々は特殊な直観のあり方︑
即ち︑知的直槻㊧あり方を假定するのである︒然し乍ら︐︑それは我々の直槻ではなく︑それについて我々は其西
可能性を洞察し得ない︒卑そむてか蕊るもの捜積極的意味π於てのノウメナであらう﹂︵猶並びノき○︒・緯q︶︒第二
の浩極的意味に潤てのノウメナは物自瀦紀相饗するものと解してい製であらう︒然し︑第二め積極的意昧に於て
のノウメナは感性的直槻の封〆ではなく︑知的直槻の封象である︒随って.それは感性的直槻を欠きつ蕊直接に
悟性の難業となる可きものでなげればならない︒此のようなものは現象の世界には指せす︑叉維験的世界の中に
も見隠すことは出來ない︒随って面訴象酌認識の世界に於て現はれることはない︒知的直観はもはや封象的直観貼
ではなく. ハイムゼi︐トの言ふ如く︑行構目〆師ジ越︑簿に關はるといはなければならぬσそれでは︑か蕊るノウ
〆ナの穐念は如何にして可能であるか︒馳 ︐ 〜
詔ントによれぜ軍に矛盾を含まない概念ぼ蓋然的箕畠冨ヨ偶馨魯と稻されるのであるが︑ノウメナ庵先つか玉
る意味に於て蓋然的概念で・︑る︒か蕊る羅然的概念に熱しては客擬的二尉性億如何なる方法によるも認識するこ
と鯖來奮︒4トはノゥi・につい羨の如く嚢葱︒﹁ノ要ノンの懲︐邸説く響の潔喜て
ぐはなく物自鰐自身として︵全く純粋悟性による︶濤へらる可饗であるノウメノンの概念は全然矛盾的なるもの
で斜ない︒何となれば感性が直槻の唯︸に可能なあり方であらうといふことは感性について主張することは出來
ないからし︵︼︽︒飯●層●ノN・oQ●トり恥唖︶︑即ち︑彼によれば感性的直観は唯一の直親ではなく︑それに高して知的直醗が
考へられるのである︒認識の立場に於ては人間の直観は感性的直獅⁝が嘘一のものであっ霧たゆそれに封して︑知的
直観を更に附加する満とは矛盾である差考へられるであらう︒然し知的直︑観は今や封象的認識の立場ではなく︑
行爲的立場に於ける直槻と解される︒此式に於て人聞は人聞め立場を越えるのであり︑随って入聞は行纒に於て.有限の立⁝場より無限ぺの方向を持つと考へられるのである︒
ノウメナは卸的直観の封象である限り︑溜識さ車渇ことは出來ない︒撃って︑認識の立場に立つ限り︑積極的意味を持ち得るもσではなく軍に蓋然的に止まざるを得ない︒此の貼に於てカントは決して形而上的猫断へ逆鱒
するのではなく︑認識と實践の限界を明にすることによって形而上的猫断への蔑しい警減を常に持ってるたと解
することができよう︒即ち︑ノゥメナの概念は人聞理性の理論⁝的使胤の制限めために積極的に提趙されたと考へ
なければならない︒︑か上るノウメナの概念は必然的概念であり︑その必然性は訟方に於て感性的直観を物自膿に
欝血大することを制限するものであり︑他方に於て感性的認識の客観的愛當性を却って保草するものであるから
である◎ 然し乍ら︑か玉ゐノウメナの可能性は究極的に知ることは出來なく︑且ってそれは断言的霧器吉倉87ではな
く軍に蓋然的であるといふより他はないゆ然し乍ら︑ノウメノンは我々の悟性にとって叡知的靴墨ではないと語︑
られる如く︑直ちに形而上的藩政の如きものではない︒むしろ認識論の立場からは︑認識の機能により要請され
た限界概念とも考へられるのであるσかくてカントは﹁ノウメノ.ンの概念は随って︑感性め車影を制限せんがた
めゐ限界概念O触§浮︒職漆であり︑囁故に露なる消極的使用ボ許されるのみである﹂︵囲︵. 戯齢 触. ノN. OQ. b9幽G◎︶︒ 更に
﹁ノウメナの概念は随って︑封象の概念ではなくて︑我々の感性の制限と不可避的に結合せる課題︾鼠ひq菩・で
︑ ・ 巨 臼 . 三三
三鷺
あるL︵豪・垂払醤螢︶と 一欝はれる窃
六︑
先にも言へる如くカン墜の物自艦の概念は決して圏定的なものではなく理性批剃の展開と共に動朗に深められ ︑
てゆくと考へられる︒随って︑物自艦の思想は彼の純輝磁性批制の全膿に五って浸透してみるといひ得よう︒超
越的封象︑曝気X︑一つの自然︑一つの経験︑ノウメナ等ばいつれも物自膿の思想の展開と考へるζとが出來よ
う︒勿論︑髭の獲展の跡は必ず七も一義的に明瞭で癒るとは言ひ難いであらヶ︒一つには純糠理性批判に於ては
物自膿は決して夢心のテーマではなく︑しかも全罷にわたって種々な表現の中に物自艦の思想が語られてみるか
らである︒そ廓に竜拘らす︑物自龍の概念はカント墨磨に於て極めて編章な窟陳を持つと考へられゐ︒ヵンレ哲
學より物編纂を排除することは延齢ないのであり︑更にカシ下の哲學特に純乎理性批判は物自艦の思想を中核と
して展開されてる㌦ると解することも可能であらう︒随って︑物自膿を如何に解嘉するか穿︑カント解羅の方向を蓋
決定すると亀言ひ得ると思ふ︒と同時に物自膿の概念は嬉々の解繹の可能性を題してみると竜考へられるのであ
そ︒か昇ることは決して吻ント懇學の早馬ではなく︑ナむしろ逆にカント軽學の華車と廣さとを宗すものと考へ為
.ド岬 ﹃可きであらう︒
ジンメルは︐ カントに着ては﹁物た期すして物に慰しての知がカン下にとっての端的な問題となる﹂︵ρ○︒竿
ノ§ヨ鐸囚︹鮮暑琶篇08瞥ぽ・○葭・ご︶と土寄︑カントを主知‡義者と断定するのである︵◎藤欝幽界国§幹○農.出︶◎か義
る兎方に於ては︑即ち主知主義と解す乃立場に嘗ては物自醗は又許容すべからざる矛矯酌概念乏される外ないで あ ボ お
あらう.随って︑それはや壱ゐ如く︑物自転糞す可かゑ・るものと季結捲山雲ざるを得験鷹
ど
らラ・或は力観を論理的に徹屡ざこ藩らで・町町鯖を轟疇遷し霧重美否定す随薪ζ張︑
特にコーヘンによって断なる展開が見られる霜か爵る立場に於てけ物自慰は所説の原理で.はなく︑三って心性を
燭磯する不可知的なエトワスではなぐ︑ノウメナとしてめらは堪た課題的理念となって繋る︒勿論か認る思想は.カシ︑塾自身の中にあったことは前に叫べたところである・が︑カントの物自龍は決して北ハに羅選るものではない︒
癩自讐理念的無糖であゑ︑脅迄も物レ愚である.融写︑蛇毒巽立場より物自選轟轟八芯
幽
化してしまう之とは必ずしもカントの意岡を生かすものではな廓のではなからうか︑ウィンヂルバントなカント
の譲論羅欝環爺翼糊£皆ぎ豊ぎ腔各ん虐ρ・結果再論書︒臣9・ 笛である鞄験・
而して︑か蕊る不可知の物糧嚢によりては︐・外界現象も叉内界の現象も︑叉相互の關係も理解され得ぬ︒カント
は結局絶封的且不可知的現象論を精製的現象論に漏入髪てし豪ふものであるとなすのである︒か薫る批評竜叉論︑理キ義の立場よりの批判といひ得るであらう︒︒ 辱 p 卸
強的に鰯罷の概念は言的であるこ豪異れないであらう︒然し・論は論理的に矛盾豊野緩ち
ド き に排除さる導きであらうか︒むしろ︑それは論理的矛贋といふことに鑑ぎるものではなく︑自然︐世界の深さと
それに封ずδ人傑の右阪性より孕る矛盾と考へられる堅きではなかみうか︒寧ろ叉︑矛盾的な物自膿の概念は人
群の有限性の象徴で噛あらう︒ 然し人間は軍に有限なものではなく他面に無限性を持つものと考へみれ多ので
あ顔.か隔る有限⁝無限の聞の矛盾が叉物自罷の概念によつて象徴されてみるとも言へるのではなかちうか︒そ
れはヤスパースの言ふ製材孝Ω敗艶⇔であり︐深く人間の實存につながると考へられる︒ ち ・もう﹂度カントの善⁝野風を聞かう︒ ﹁物自膿は何であるか︒私は知ら適いσそして・ヌ︑私にとって現象の申に物
自爆は決して現はれ得ざる魁観にそれを知る必要はないし︵溶︐鉱.撃ノき○喋の繍8︶︒篭め中にカント⑫謙虚な人闇性
三薫 ︐ 〆
三六
の告白を讃み取るごとが繊繁るであぢう︒然しカントは此の立場に止まることは漏電ない︒ ﹁認識し得ないであ
︐ちうとも︑ア少なくとも思罪し得なければならぬ﹂︵囚.↑触.く.肖︾蕊響く︒煽&φ○︒◎bっG︒︶といふのである︒タリー
ナタ ドゴ ヒ ズ き﹂スなカントの理性批判はむ寧ろ・下闇學的批判蔵匿◎き℃亀轟警霜解書軸鼻によつて基礎づけられ︑ 且か蕊る立場に
於て正しいもの之されなければならないとなす℃而して︑直接的な人間の認識は根源的には不明な感情を通鵡て
與へられみのであるが︑反省に政ってはじめて悟性知へと攣化するのであるといふ︵勲爵︒・Z逡︒囚捧捧冒幹も⇒⑦Φ︶︒
幽此のフリースの批判はカントの立場を人聞墨壷に見んとナるのであるが︑却ってより深くカン︐トの眞意を捉へるゼものではなからうか︒カンド哲學の底には最近注目されてみる聴く︵高坂正顯氏のカンド解繹︶︑か﹄る入間的 ゑ馬場が流虞てるると暑隣へ渇であらう︒然る︑人聞學は人聞存在の學として未閥主膿的人台の哲趨でなない︒人欄
學は︑入間を根源的主艦性へ深めることによって蜜存哲學への方向を敷為であらう︒私はか理る意昧に於て︑物
官讐讐碧汚することが町能であると思鳶然しそのこ毒血警め藷じ度い患ぶ︒
・ ︵一九四七︑九︑二七︶