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在沖奄美人」―「南北琉球」のなかの奄美群島と強 制送還について

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在沖奄美人」―「南北琉球」のなかの奄美群島と強 制送還について

著者 土井 智義

雑誌名 PRIME = プライム

巻 42

ページ 26‑49

発行年 2019‑03‑31

その他のタイトル The Musekisha Problem  and 

Zaioki‑Amamijin (Amamians Living in Okinawa) around 1950: Placement of the Amami Islands within the  Nothern and Southern Ryukyus and the Deportation

URL http://hdl.handle.net/10723/00003647

(2)

論文・論説

1950年前後の沖縄社会における「無籍者問題」と「在沖奄美人」

―「南北琉球」のなかの奄美群島と強制送還について

土 井 智 義

(日本学術振興会特別研究員 PD)

はじめに

本稿は、米国統治下の「琉球列島」( 1 )における

「在沖奄美人」( 2 )に焦点をあて、琉球政府成立以 前の群島別(奄美・沖縄・宮古・八重山)統治時 代(1945〜52)の1950年前後に興隆した「無籍者 問題」を主に検証するものである。ここでは、同 問題のうち、特に「南北琉球」( 3 )から沖縄に移住 した者への一連の取締り行為(司法処分を受ける 者への強制送還、指紋と写真による登録制構想等)

を中心に扱っていきたい。この課題は、「在沖奄 美人」の歩みに則してみた場合、奄美返還時に、

米国統治下の「市民」たる「琉球住民」と区別さ れる「非琉球人=外国人」という送還可能な法的 地位の再編とも結合して、段階的に「非琉球人」

化されていく歴史を理解するためにも不可欠な作 業となるだろう。

ところで、米国統治下の「琉球列島」に施行さ れた「非琉球人」管理に関する根本法令は、二つ 存在していた。一つは1953年 1 月 7 日制定の米国 民政府布令第93号「琉球列島出入管理令〔Control  of Entry and Exit of Individuals into and from  the Ryukyu Islands〕」(以降、第一次入管令)と、

もう一つは、翌54年 2 月11日に第一次入管令を改 廃して同じ主題名の下に制定された米国民政府布 令第125号(以降、第二次入管令)である。「在沖 奄美人」が慣習的に周縁化されるという意味だけ

ではなく、法制度上の「非琉球人」として管理さ れたのは、後者の第二次入管令下においてであり、

54年の制定以降、60年代半ばまで「非琉球人」の 過半を「在沖奄美人」が占めていた。他方、第一 次入管令の主な管理対象は、「日本」( 4 )で大林組 等の請負業者に雇用され、軍事基地建設工事のた めに「琉球列島」の沖縄島に移入された請負労働 者らであった。

筆者は、1953年12月25日の奄美群島の施政権返 還以降、「在沖奄美人」が段階を経て第二次入管 令下の「非琉球人」として管理された背景に、米 国政府(主に米軍と国務省)による「在沖奄美人」

の事実上の完全送還政策が存在したことを別稿で

書いた( 5 )。本論では、こうした完全送還計画下

の「非琉球人」化が正当化される重要な歴史的背 景として、奄美返還以前の「在沖奄美人」の周縁 化をめぐる歴史を法的処遇に着目して分析してい きたい。そうして、「在沖奄美人」に焦点をあて て「非琉球人」管理体制の系譜を描くことで、同 体制に結節する多様な権力関係の一局面を分析す ることができると考える。

1 「無籍者問題」をめぐる用語と先行研究 まず「無籍者問題」のなかで危険視された「無 籍者」とは、どのような法的地位にある者のこと だろうか? 重要なことは、ここでいう「無籍」

(3)

とは、「日本」と分離された「琉球列島」で現地 法として施行されていた旧戸籍法(1914年/大正 3 年  法律第26号)に基づく本籍地なき状態をさ すのではなく( 6 )、沖縄戦によって戸籍が滅失し た沖縄群島( 7 )において人口を把握する行政上の 必要から施行された臨時戸籍に登録のないことを 意味するということだ。臨時戸籍とは、1946年 9 月19日付、沖縄中央政府(のちに沖縄民政府に改 称)が管轄する沖縄群島内の各市町村長あてに発 した「臨時戸籍事務取扱要綱」によって施行され た制度で、「人口動態調査及び配給台帳として、

また同時に応急的、変則的な身分登録簿」のこと である。それは、あくまでも沖縄群島に暮らす現 住者を把握し管理するための制度であり、沖縄群 島在籍者だけではなく、戸籍簿が滅失しなかった 奄美・宮古・八重山の各群島在籍者はもちろん、

他府県籍者や日本の旧被植民地人を含む沖縄で生 活を営む全ての者が作製しなければならないもの

であった( 8 )。つまり、「無籍者問題」における「無

籍者」とは、「臨時戸籍」に登録のない、いわば 当該期の沖縄群島における非正規居住者であり、

本来は沖縄群島外からの移住者を意味するもので はない点を強調しておかねばならない( 9 )

だが、「沖縄では戸せきをもたない沖縄人が戸 せきをもつ奄美人に無せき者といっている。戸せ きはなくとも配給帳に記載されておれば有せき者 で戸せきはあっても配給帳に記載されてない者は 無せき者であるらしい」(10)と書かれ、とりわけ「在 沖奄美人」が「無籍者」に等置される傾向が存在 した。また後述するが、那覇市などの役所では、

「南北琉球」からの移住者の受付を拒否する場合 もあり、「在沖奄美人」らは積極的に「無籍者」

の側へと追いやられてもいた。そうしたなか、「無 籍者」を犯罪問題と結合させ、その取締りが喧伝 されたとき、実際には沖縄群島内の移住者も含ま れていたにもかかわらず、「南北琉球」と総称さ れていた沖縄以外の諸群島からの移住者に「無籍

者」が還元される趨勢が出来した。制度的地位と しての「無籍者」と、「無籍者問題」の中で取締 りの対象とされる「無籍者」には、明確な差異が 存在していたのである。その結果、「在沖奄美人」

に突出するかたちで「南北琉球」からの移住者に 対する排外的な施策が実施されていく。

先述のように、「無籍者」の取締りの過程では、

検挙された「南北琉球」出身者の一部が、法的根 拠も曖昧な強制送還を受け、さらに1951年 2 月に は、沖縄群島政府の警察本部が「南北琉球」から の移住者に対して写真と指紋による登録制まで構 想していた(11)。特定の施政領域において、「外来 者」とされる者を、写真と指紋によって個人別に 登録すること、また、そのうちの非正規居住者に 対する法的処遇の一環として強制送還を実施する こと。もはや明白だがこれらは、まさしく「非琉 球人」管理体制において具現した法的処遇に近似 するものである。たとえ実現しなかったとしても、

こうした強制送還と登録制の結合によって、共在 する「外来者」を管理しようとするあり方が、治 安対策とともに沖縄群島に登場していたことは、

出入管理令による「非琉球人」管理体制の系譜を 考察する上でもきわめて重要であるだろう。

以上、「無籍者問題」を批判的に検証するため には、⑴群島別統治という米国の枠組みの中で 人々が職を求めて沖縄群島に集中する過程で、警 察を中心に沖縄群島の行政等が、受付拒否などに より「南北琉球」からの移住者を積極的に「無籍 者」へと追いやった点、そして⑵「無籍者」が社 会的に危険視されるなかで、本来の制度上の意味 を外れ、「南北琉球」とりわけ奄美群島からの非 正規居住者に等置される過程が重要である。この 二点から、「無籍者」や「在沖奄美人」に関する 先行研究を概観すると、次の諸点が指摘される。

第一に、「無籍者」という制度上の地位に関す る誤認が見られる。先行研究では、臨時戸籍制度 に言及することもなく、「無籍者」を「住民票を

(4)

移さない他群島移住者」(森宣雄)(12)あるいは「許 可を受けずに沖縄島に渡航してきた者たち」(加 藤政洋)(13)と捉え、「南北琉球」からの移住者に 限定する。先述のように、「無籍者」を特に奄美 からの移住者に焦点化して「南北琉球」から人々 と同一視する傾向があったのは事実である。だが、

「無籍者」を沖縄以外の「他群島移住者」に限定 する森の認識は、そうした差別的な経緯を曖昧に すると考える。また「無籍者」を非正規渡航者に 等置する加藤の視点では、正規渡航をした「南北 琉球」からの移住者でさえ、市町村窓口等で受け 入れを拒まれた事実を不可視化させる。1950年前 後の群島別統治期に、沖縄群島における非正規居 住者としての「無籍者」が、「無籍者問題」のな かで「南北琉球」からの移住者に焦点化され、周 辺化された実態を分析する必要がある。

第二に、「在沖奄美人」が沖縄島で社会的に周 辺化される条件に関する誤認がある。例えば、「従 来は鹿児島県下にあって沖縄との結びつきが弱 かった奄美出身者」(森宣雄)と、戦前期の行政 区域の影響を重視する立場がある(14)。だが、た とえ「在沖奄美人」が焦点化されていたとしても、

その周辺化を過去の行政区分の差異に解消するこ とは、「在沖奄美人」が「無籍者問題」において、

宮古・八重山とともに「南北琉球」という枠組み で一括された事実が見えにくくなる。また「在沖 奄美人」の周辺化を、「沖縄/琉球の離島の典型 であって、離島差別が典型的なかたちであらわれ たのが奄美差別」(波平恒男)と、「琉球列島」の

「離島差別」に解消する立場も見られる(15)。確か に、「南北琉球」からの移住者を一括して周辺化 した「無籍者問題」を考慮に入れると、「在沖奄 美人」の苦境を群島別統治という「琉球列島」内 の「離島差別」として、新しく制度的に「作られ た」側面を重視することは重要である(16)。だが、

沖縄島の周辺諸島も含めた「離島差別」に「在沖 奄美人」を解消する波平の論は、「無籍者問題」

のなかで「無籍者」が沖縄群島以外をさす「南北 琉球」からの移住者として可視化された過程を捨 象してしまう。さらに、「在沖奄美人」の奄美返 還後の苦境について認識しながらも、公民権の全 的制限や強制送還と隣り合わせの「非琉球人」と いう法的地位に全く言及することなく、「奄美に 極端なかたちであらわれはしたものの、沖縄本島 とその周辺離島や、宮古、八重山との関係につい ても、その程度差はあれ妥当する」(17)とするとき、

「在沖奄美人」をめぐる固有の歴史性が抹消され、

「琉球列島」の「国民史」のなかに回収される。「在 沖奄美人」の辛苦を、奄美返還を横断する歴史過 程のなかに捉えたとき、それを単なる「離島差別」

の程度問題に解消することはできず、「南北琉球」

という括りとともに生じた「無籍者問題」と、出 入管理令を根幹に据えた「非琉球人」管理体制の 双方において管理の主対象として処遇されたあり 方を見据えつつ、強制送還を軸に「法形式上の差 異にもかかわらず、そこに継続する支配の実態」

(18)を明らかにしなければならない。

以下では、「在沖奄美人」の来沖過程および「無 籍者」として治安対策のなかで問題視された歴史 を、群島別統治時代というコンテクストを踏まえ て「南北琉球」からの移住者という枠組みととも に検討し、さらに「無籍者問題」において惹起し た具体的な取締りの実態を明らかにしていく。

2 「在沖奄美人」の形成過程

奄美の島々から沖縄に、人々はいかなる歴史的 背景のなかで移動してきたのか? まず、沖縄へ の移住を促す奄美群島の困窮状況について、先行 研究に依拠しつつ提示しておく。戦前期、周辺性 を付与されながらも奄美の人々は、「大日本帝国」

の旧宗主国人として移植民や日本軍将兵という形 式で帝国内外を移動したが、同帝国の崩壊および

「日本」との分離により既存の移動圏が解体され、

「琉球列島」という枠組みに囲い込まれる。さら

(5)

に引揚げ計画により、奄美は多くの人口を抱える ことになった。これらは「琉球列島」の他群島で も同じ状況だが、1950年の臨時国勢調査(1950年 12月 1 日時点の現住人口)では、総数216,110名 に対して引揚者が36,190名と、全体の約17%に上 (19)、戦争による荒廃のなか過剰人口問題が存 在したことがわかる。また他にも、商品流通網が 解体された結果、大島紬や黒糖などの主力生産品 の販売ができずに基幹産業が衰退した点、1949年 4 月の食糧品の 3 倍値上げによる困窮の深化、米 軍基地関連産業など沖縄島での労働市場の拡大に よる移住要因の増加、奄美群島には米軍統治機関 からの補助金の割当が少なかったことに起因する 過重な税負担など、多様な要因が折り重なって、

多くの人々が奄美群島から沖縄島へと移住するこ とになった(20)

2 1 人流

次に具体的に数字を確認しながら、「在沖奄美 人」の形成をみてみよう。奄美から沖縄間の人口 移動で留意すべきは、加藤政洋も指摘するように、

当該期、沖縄だけではなく、奄美大島周辺部や近 隣離島から名瀬市への人口集中も同時に生じてい た点である(21)。「人口原簿」に基づく名瀬市の発 表によると、早くも1946年末には「日本本土から の引揚者の帰還」に加えて「食糧事情による他町 村からの転入者」の増加により、同市の総人口が

戦争直後の 1 万4,251名から 1 万8,159名へと約 2 割強も上昇した(22)。表 1 の1947年末から1952年

9 月までの奄美群島全体と名瀬市の人口統計によ ると、奄美群島では1949年まで人口の増加傾向が 続き、50年から減少に転じているが、名瀬市では 1951年まで急激な人口増加が続き、52年 9 月から その傾向が減少に転じている。これは他町村から 名瀬市への人口流入が継続したため、名瀬市の人 口増加が奄美群島全体に比して長期化したからだ とみられる。このように、沖縄の新聞等で奄美か らの移住者らが問題化される1950年前後、奄美群 島から沖縄への移住と名瀬市への人口集中が並行 していたのだ。

続いて、表 2 の1952年及び1953年の名瀬市にお ける出発地・目的地別の転出入者数を見ると、同 市への流入自体は継続しているが、それを凌駕す る「沖縄地区」への転出、さらに1952年 4 月の講 和発効により「日本」への渡航制限が緩和された ため(23)、「日本本土」への転出も顕著である。表 1 でも1952年から名瀬市の人口減少が見られた が、それはこうした人口流出に起因すると考えら れる。かくして、52年頃より名瀬市への人口集中 は相対的に緩和され、それを圧倒する沖縄または

「日本」への人口流出を見ることができる。

統計に表れる人流を、新聞記事等で補強してみ たい。1949年 7 月21日の奄美の新聞報道では、食 糧危機打開の対策として、名瀬市が転入者の「受 表 1  1947年〜1952年9月 奄美群島及び名瀬市の人口動態

1947年末 1948年末 1949年末 1950年末 1951年末 1952年9月 奄美群島 217,988人 226,748人 229,649人 226,500人 213,447人 206,566人

指数 100 104 105 104 98 94

名 瀬 市 22,322人 26,262人 30,181人 32,041人 35,394人 34,936人

指数 100 118 135 143 159 156

出 所: 「(第一表)最近 5 年間各年末人口と増加傾向」「(第二表)1952年各月別全群島及び名瀬市人口調」『奄 美群島と名瀬市の人口趨勢食糧値上げと対策』(奄美大島日本復帰協議会、1953年)鹿児島県立奄美 図書館所蔵復帰関係資料(資料番号0210288023)

筆者注:指数は、1947年末を100としたもの。

(6)

入方を引締めるの止むなきに立至った」と、増加 する同市への人口流入を抑止する旨が明らかにさ れる。「これらの転入者の殆んど全員がその町村 でも生計不可能の人である」以上、名瀬市に転入 できない者は「最後の救いの途を失った」ことに なり、「貧困律〔ママ〕の深刻化は目に見えて明 らか」であった(24)。管見のかぎり、49年 9 月中 旬から奄美からの貧しき移住者の姿が沖縄島で確 認できるようになる。それは、奄美大島から家族 四人で来沖し、金も尽き、身寄りもなく派出所に 宿泊を依頼する人たちであった。記事では、当人 によって「大島は生活が苦しく〔、〕沖縄の方が 仕事が多く割合暮しが楽だと思って来たが所持金 はすっかり運賃にとられてなくなった」、また「大 島では財産を処分して沖縄渡航の手続をとってい るのが少なくない」と、自らの苦境と同郷からの 他の移住者の存在も語られている(25)。そして翌 10月には、「沖縄に対するわが大島からの郷土の 人口のあふれ」が問題視され、「大島や宮古方面 から」沖縄への「人口動態が、いろいろなトラブ ルの原因」となり、沖縄で「無制限な人口の流入 を阻止せよ」という論調が出ていることが奄美で も伝えられる(26)。こうした議論を受けて、同記

事は「彼我相呼応した職業補導などの行政措置」

という奄美と沖縄との間-群島的な「行政措置」

を提起するが、実際は統計のように奄美群島から 沖縄への膨大な人流に帰結する。約 2 年後の1951 年11月、奄美側の労働行政担当者の発言によると、

奄美社会の「最つとも緊急を要するものは失業対 策」だが、「過剰人口の排け口は、沖縄以外にな」

く、「沖縄の労働需要だけが、本群島失業人口の 安全弁」となっていた(27)。こうして、逼迫する 人口問題とリンクして、沖縄島に多くの奄美の 人々が移住することになる。

2 2 在沖人口

では、奄美の島々から沖縄島への圧倒的な流入 という人口移動現象のなかで、どれほどの人びと が沖縄に移住し、どのように暮らし始めることに なったのか? 先行研究でも指摘されるように、各 群島間の渡航は、1950年 8 月まで軍政府の許可を 要した(28)。ここでは、許可制の廃止以降も正規 の船便を使用した渡航は依然少なかったとみられ るため統計の不備を前提にしつつ、出入者数等か ら「在沖奄美人」の形成を描き出したい。

まず経緯は不明だが、1952年 5 月16日付および 表 2  1952年・53年 2カ年間における名瀬市の転出入 

名瀬市に転入 名瀬市より転出 増減

喜界島 212 161 51

奄美大島 2,559 1,037 1,522

加計呂麻島・請島・与路島 71 53 18

徳之島 550 288 262

沖永良部島 103 127 ▲24

与論村 111 30 81

沖縄地区 669 3,505 ▲2,836

日本本土 153 2,357 ▲2,204

その他 14 4 10

総 数 4,447 7,562 ▲3,115

出  所: 「27・28  2 ヵ年間における本市市民の転出入」『市勢要覧昭和29年版』(名瀬市 総務課編、1954年)。

筆者注 1 :典拠をもとに、各市町村を島別で集計したものを表示。

筆者注 2 :増減は、転入数と転出数をもとに修正した。

(7)

7 月17日付で米国民政府が琉球政府に対し、沖縄 群島に居住する「奄美の人々〔Amami People〕」

の人口調査等を指示し、52年 5 月 1 日付の各市町 村からのデータを琉球政府が集計した「奄美の流 出入者数」を見よう。図 1 は、1950年12月から52 年 1 月までの14カ月間の数値で、沖縄からの流出 人口、沖縄への流入人口、流入分から流出分を差 し引いた累計数(男女合計)を在沖人数として示 したものだが、在沖人数が右肩上がりで上昇する 傾向が読み取れる。同期間中、沖縄から奄美への 流出に比して、一貫して奄美から沖縄への流入が 圧倒的で、図 1 の出典を参照すると、沖縄からの 流出2,356名(男性1,623名、女性733名)に対して

沖縄への流入は10,372名(男性7,026名、女性3,346 名)と 4 倍以上である。また男女比でみると、男 性が女性の 2 倍程度も多く来沖している。さらに 在沖人数は、50年12月時点の439名に比して52年 1 月では8,016名と約18倍も増加している。なお、

同時期の奄美の労働行政担当者の見解によると、

1950年 3 月から1951年 3 月までの奄美から沖縄へ の正規転出者は7,017名だが、実際には 2 万人以 上が同期間に沖縄へ移住したと推定している(29) 次に、「在沖奄美人」は、沖縄でどのように生 活を営んだのだろうか? 三上絢子によれば、多 くの者が奄美で形成された地縁・血縁を利用し て、沖縄に到着すると親戚や同郷人などを頼って

9,000 8,000 7,000 6,000 5,000 4,000 3,000 2,000 1,000 0

沖縄・奄美間の人口流入・流出数および在沖人数

1,400 1,200 1,000 800 600 400 200 0

沖縄から流出(左軸) 沖縄へ流入(左軸) 在沖人数(右軸)

5012

511月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10

11 12

521月

出 典:ʻNumber of Infl uxes into and Effl  uxes from Amamiʼ enclosed in ʻAmami People on Okinawaʼ (GRI-S-36,  1952.7.21, Memorandum for Lt Col Jenkins, from Shuhei Higa〔Chief Executive, Ryukyu Government〕) 沖縄県公文

書館所蔵USCAR 文書(労働局)文書(資料コード0000069082)  ( . p.112. 

図 1  沖縄・奄美間の人口流入・流出数および在沖人口 

(8)

住居や仕事を紹介してもらい、沖縄島での生活を 開始した(30)。そして、その多くが1950年頃から 本格化した「日本」の建設業者が請け負う基地建 設現場など、より「下層」の労働市場に吸収され ていく。沖縄戦後史で労働運動の嚆矢とされる日 本道路ストが、林義巳たち奄美からの労働者たち に担われた背景には、こうした事情が存在したの (31)。表 3 は、上記の琉球政府が集計した52年 5 月 1 日時点の臨時戸籍に登録された者および職 業別の人数である。これによると、沖縄群島の市 町村に正規に居住する人口は合計11,074名で、渡 航人口と同様に男性の割合が高く、職業別では、

無職がもっと多い3,973名(約25%)、それ以外では、

軍雇用の3,507名(約22%)、民間企業従業員の1,579 名(約10%)が続いている。無職を除き、全ての 職業で男性の人数が女性よりも上回るものの、集 中する職業が男女別で異なり、就業者が最も多い

軍雇用では「軍事施設」等に男性が集中するのに 対して、ハウスメイド等を指すと見られる「軍施 設以外の駐留軍要員」による被雇用者に女性の割 合が高いのが特徴である。

これらは、主に正規に渡航し臨時戸籍に登録さ れた正規居住者で、かつ行政が把握し得る職業に 従事する者だけの数字だが、ほかに相当数の非正 規居住者がいたとみられる。52年 9 月には、「推 定 4 万人といわれる沖縄在住の大島出身者」(32) 報じられるように、統計にあらわれない奄美から 沖縄に移住した非正規居住者が確実に存在した。

上記以降の統計としては、奄美返還確定後、琉球 政府奄美地方庁発表の正規に移住した「在沖奄美 人」の人数を確認することができる。同庁の統計 によると、53年 9 月時点で、「転出証明を持って転 出した奄美出身者」である「正式移住者」の人数 だ け で、24,556名( う ち 男15,682名、 女8,874名 ) 表 3  在沖縄の奄美の人びとに関する報告 1952年5月1日時点 

人数

項目 合計 男性 女性

1 現在、どれくらいの奄美の人びと〔Amami people〕が沖縄に居住しているか? 11,074 7,119 3,955 2

どれくらいの奄美の人びとが駐留軍に雇用されているか? 3,507 2,983 524

 ⒜軍事施設 3,185 2,821 364

 ⒝軍施設以外の駐留軍要員によって 322 162 160

3

民間企業 1,579 1,155 424

 ⒜非-琉球人〔non-Ryukyuans〕 539 483 56

 ⒝琉球人〔Ryukyuans〕 1,040 672 368

4 自営業 592 318 274

5 他の職業 1,143 767 376

6 琉球政府によって 280 247 33

7 無職 3,973 1,649 2,324

注記〔原注〕:

1.この報告には、沖縄のどこの市町村にも登録していない者は含まれない。

2.この報告には、どこの市町村に登録していなくても、永住のために明確な住所をもつ者を含む。

3.項目 7 の“無職〔Unemployed〕”には、学生、入院患者、潜在的労働者を含む。

4.項目 6 の“琉球政府による”人数は、琉球政府の全局からの報告に基く。

5.この報告から排除される、相当数の無籍者〔unregistered people〕 がいると見なされる。那覇の無籍者に関していえば、彼らが 頻繁に住所を変えるため、こうした無籍者の実数は入手不可能と報告される。

出典: ʻReport on Amami People on Okinawa as of 1 May 1952ʼ enclosed in ʻAmami People on Okinawaʼ(GRI-S-36, 1952.7.21, Memorandum  for Lt Col Jenkins, from Shuhei Higa〔Chief Executive, Ryukyu Government〕)沖縄公文書館所蔵RG260 USCAR(労働局)文書(資 料コード0000069082)(  p.111.

(9)

であった(33)。だが、統計にあらわれぬ非正規の移 住者を考えると、実際には 5 万以上と言われる 人々が奄美から沖縄に移住したとされる(34)

3 「無籍者」の生産

本節では、「無籍者問題」のなかで、「南北琉球」

からの移住者たちが「無籍者」に等置され危険視 される背景を理解するため、とくに「在沖奄美人」

に則して、奄美群島から沖縄群島(実質的には沖 縄島)への渡航および居住をめぐる管理制度を再 構成していきたい。

3 1 群島間の渡航管理

軍政府による許可制は、各群島の住民行政機関

(沖縄民政府等)を経由した形で、遅くとも1947年 6 月24日付の「民政府に運営される船舶」に対し て適用される琉球列島米国軍政本部指令第27号

「海上交通住民乗船賃」により成立した。また奄 美群島に関しては、1948年 6 月 1 日付で同日施行 の北部南西諸島軍政府命令第20号「北部南西諸島 民に告ぐ」にて、「北部南西諸島」(=奄美群島)

の出入管理が定められる。第 2 条によれば、「何 人であっても、主務合衆国陸軍軍政府当局の許可 を得ないで北部南西諸島に入り又は之を退去する ものは不法である」と、奄美群島の出入域には目 的地にかかわらず、同地軍政府の許可を要した(35) その後、1949年 6 月28日に、軍政府裁判所が管轄 した軍部隊や軍政に対する「犯罪」を規定する琉 球諸島軍政府布令第 1 号「刑法並に訴訟手続法典」

(以下、集成刑法)により、「琉球の二民政府の地 域間すべての旅行」が「地域間旅行」とされ、軍 政府の許可制によることが定めらた(第 2 部 第 1 章 17項 1 )。集成刑法では「琉球内に於て軍政 府の有効の規定に従って旅客又は登録された船の 船員にして公に手続きされることなく地域間旅行 を為す者は、断罪の上五千円以下の罰金又は六月 以下の懲役又はその量刑に処する」とされ、許可

を得ない「地域間旅行」は「犯罪」となった。

こうした群島間移動に対する渡航許可制度が撤 廃され、「各群島間の住民の転出入」が自由になっ たのは、四群島知事会談の記述を参照すると、軍 政府布令第22号「群島組織法」(以下、群島組織法)

が制定されたときであった(36)。つまり、同布令 第 2 章「住民の地位、義務並びに権利」の第 4 条 2 項「正当な原因により引留られる他群島在住者 の他の群島への出入は当然な規定条件をする外自 由である」をもって、奄美から沖縄への移動を含 む「地域間旅行」に対する軍の許可制が廃止され たと考えられる(37)

以上、遅くとも1950年 8 月には、「琉球列島」

内であれば、「出港許可を得た船舶に乗り船客名 簿に登録されればどこまでも行ける」(38)という状 況が現出したとみられる。ただし、上記にも見ら れるように、「出港許可を得た船舶」への乗船と「船 客名簿」への登録が群島間移動に要求された。つ まり、渡航自体は軍の許可を要しないが、形態と しては非正規のものが存在したのである。事実、

1952年頃でも「沖縄に行くのは許可制で手続きが 面倒だったのよ。だから一人で密航船に乗り込ん だ」(39)との証言もあり、非正規渡航が継続した とみられる。

3 2 「無籍者」の生産:沖縄群島における居住 管理

ところで、「無籍者」の存在を考えるにあたっ ては、群島間の渡航問題とともに、沖縄群島にお ける居住管理の問題も論じなければならい。群島 間の渡航許可制が撤廃された1950年 8 月以降、非 正規渡航で来沖しても、以前のように集成刑法上 の「罪」を構成することはない。だが、奄美を含 む「南北琉球」からの移住者にとって、沖縄群島 で当時施行されていた臨時戸籍への登録には、渡 航制限とは別の困難が待っていた。軍の渡航許可 制の撤廃は、ただちに沖縄島での正規居住を保証

(10)

するものではなかったのである。むしろ渡航が比 較的容易になり沖縄への移住者が増加したにもか かわらず、正規居住化へのルートが限られるため、

膨大な非正規居住者、すなわち「無籍者」が生産 されたと考えるべきである。それには、主に二つ の側面を考察する必要がある。一つは、沖縄で臨 時戸籍に登録され正規に居住するためには、一定 の書類が要求された点だ。先の「群島組織法」に も「当然な規定条件」とあるように、許可の撤廃 はあくまでも渡航に関するもので、居住面での自 由化に直結したわけではなかった。もう一つは、

臨時戸籍制度では、役所の窓口または区長という 対面レベルを介して受入が行われるため、恣意的 な受付拒否が頻発した点である。

まず、正規居住に関する「規定条件」を確認し てみたい。1946年 9 月19日付の沖縄総務部長通 牒・沖総第430号「臨時戸籍事務取扱要綱」によ れば、第14条に「転籍」が規定されている。そこ では、「転籍」の際、「転籍届に転籍先市町村長の 承諾書を添付」して、「現籍地市町村長」に提出 する旨が定められている(40)。つまり、転居先で 受入れられるのを前提に、転出地の市町村長によ る「承諾書」を前住地に送付すればよいことになっ ている。だが、実際には、この要綱の改変もない まま、「転籍」の際に様々な必要書類が求められた。

奄美から移住して沖縄で正規居住するための書 類について、管見の限り明文化された規定等を発 見できなかったので、新聞記事や雑誌等で確認で きた断片的な情報から移住者が必要とされた要件 を再構成したい。軍の渡航許可制が廃止される以 前の1949年 9 月27日、沖縄渡航許可申請が、臨時 北部南西諸島政庁の民生課から海運課に移管する とともに、出発24時間前に船客名簿を軍に提出、

許可を得ることが報じられている。だが、軍政府 の許可以外に転出証明などの文書の指示は見当た らない(41)。しかし同年11月末には、各群島政府 の警察が、「南北琉球」からの「密航者の徹底的

取締りを実施」することと、「正式渡航者でも身 寄又は確実な引受人のない者には許可書を与えな いこと」(42)に合意した結果、臨時北部南西諸島政 庁により「沖縄に身寄りのないもの、求職に行く もの、その他正当な理由のないもの」の沖縄渡航 が制限されることになった。さらに商用旅行者に は、渡航時に「沖縄大島両方の企業免許証」の携 帯が、就職決定者には「採用通知と共に配給停止 証明書」が求められた(43)。翌50年 6 月の沖縄の 雑誌記事には、「配給停止証明と転出証明があれ ば受けいれない訳にいかない」という沖縄民政府 警察部長の発言や「大しま出身は大しま政庁連絡 事務所の方で副申をつけてくれる」という那覇市 助役の発言があるので(44)、臨時戸籍に登録して 正規居住するためには、奄美の市町村発行の「配 給停止証明」「転出証明」を取得し、来沖後に臨 時北部南西諸島政庁連絡事務所の「副申」を得る ことが必要であったとみられる。軍の許可だけで はなく、沖縄への正規居住のため様々な必要書類 が要求される様子がわかる。

軍の渡航許可制が廃止されて以降の1951年 7 月、同年 8 月 1 日から「食糧配給通帳と転入転出 取扱いが全琉一斉に統一」して実施される旨が報 道され、群島間の移動を前提に制度の整備がはか られた(45)。「取扱い」の詳細は不明だが、同年 9 月には、沖縄在の奄美群島政府連絡事務所から「正 式な渡航手つづきを取らないために当地で入籍、

就職に困っておる者が相当ある」との通知が出さ れ、これを受けた奄美群島政府労務課が、各市町 村に宛てて「沖縄行き労務者」に、必ず⑴市町村 長発行の転出証明書、⑵戸籍抄本(家族の場合は 謄本)、⑶販売店並に駐在員連名の配給停止証明 書の携帯を周知する旨の通知を出した(46)。この ことから、少なくとも1951年 9 月以降、沖縄群島 で正規居住者となるためには、「配給停止証明書」

「転出証明」「戸籍謄本」等が必要な文書だったと みられる。日を追うごとに、より煩雑な手続きが

(11)

要請されているのであった。

次に、奄美から正規に文書携帯して移住した場 合でも、受付が拒否された事例を検証する。既述 のように、臨時戸籍には配給台帳の役割があった が、誰もがそこに登録できるわけではなかった。

実際、「無制限に受けいれたら土地が狭隘で土地 の争奪戦が始まるし、定職のないものがうろつい ては困るので多少の受けいれ禁止はある」(47)とい う、1950年 5 月頃の那覇市助役の談がみられるよ うに、正規手続きを経ても役所の窓口で恣意的に 拒まれることがあったのだ。

さらに、この恣意性については、市町村の窓口 レベルだけではなく、行政機構の一翼を担う末端 の区長レベルでも機能した。臨時戸籍を整備する 際、基本的にその作業が、「区長、班長、組長」

によって担当されたからだ。臨時戸籍事務につい ての疑義に応えた1947年 3 月 5 日付の沖縄総務部 長通牒・沖総第74号「戸籍事務取扱に関する件」

では、沖縄民政府が、市町村長に対して「所管区 長班長組長をして各戸、各世帯毎に臨時戸籍事務 取扱要綱に依る家族調書不在家族調書」の作成を 指示しており、臨時戸籍制度中に「区長班長組長」

が明確に位置づけられている(48)。このように、

複数の必要書類という規定に加えて、市町村の窓 口から区長・班長という行政の末端レベルに至る 恣意性が入り得る制度運用により、とりわけ沖縄 群島以外の「南北琉球」からの移住者は、臨時戸 籍制度の枠に入るのが難しかったとみられる。

事実、1949年11月の宮古からの移住者と見られ る男性の訴えだが、「部落の区長」の恣意的な判 断で臨時戸籍が受付けられず、「無籍者」となっ て配給を拒まれた事例が読者投稿に見られる。彼 が一時帰郷した際、「今まで配給を受けていた部 落で私が日本に引揚げたという噂を信じ、私の籍 を除いてしまった」という。そして、現住する区 長に受付を頼むと、「新しい受け入れは出来ない、

他にも数名いるが皆断ってある」と拒否された。

その結果、「自分が無籍者であるために生まれた 子供さえ入籍手続をしてくれない、そん長の居住 証明書がないから軍労務所でも相手にしないし、

働くにも就職口がなく妻一人の配給食糧では到底 やっていけない〔中略〕離島のものでも特別の事 情のある場合、何とか受入れの途を講じて貰う温 い方法はないものだろうか」と訴え、「いま沖縄 も先島も大島も一体の琉球人として復興に励んで いるとき、もっと同胞愛の雅量をこそ希む」と書 かざるを得なかった(49)。これは、宮古からの非 正規居住者の事例だが、奄美からの移住者の場合 も同様だとみられる。こうした状況下、奄美ある いは先島からの移住者は、「無籍者」とならざる を得ない者が多かった。かくして「無籍者」とい う非正規居住者は、積極的に生産されたのである。

3 3 「無籍者」の人数

では、非正規居住者たる「無籍者」はどれくら いいたのだろうか?  ここでは、公刊された警察 資料などに「無籍者」関係統計を確認できなかっ たため、新聞紙上に掲載された警察による報告や 市町村が実施した調査結果を示しておく。

管見のかぎり、最も早い「無籍者」調査は、表 4 の1950年 5 月以前と思料される時期に胡差署が 行い、同年 6 月に公表した「管内に居住する無籍 者の一斉調査」である。表 4 で第一に注目される のは、移動のしやすさから考えると当然だが、沖 縄群島出身者の多さである。「無籍者問題」では、

すでに1949年半ばより「無籍者」が「南北琉球」

からの移住者に等置され、「犯罪者」と隣接的に 語られるが、まさに同問題が勃興した時期の調査 で、沖縄群島出身者が全体の約六割の245名と圧 倒的に多かった。第二に、沖縄群島についで目立 つ存在が、133名と全体の約三割を占める奄美の 人々である点だ。第三は、「若い女が断然多い」

という記事の見出しにもあるように、女性が全 397名のうち273名と約七割を占め、男性134名の

(12)

約二倍に達する点。第四に、被調査者には「日本」

も含まれ、「琉球列島」外の者に対しても調査を 実施した点である。臨時戸籍が、「琉球列島」内 外を問わない以上、制度に忠実な調査といえる。

表 4 中の奄美出身者の特質として、男女の割合 が比較的近いことが指摘できる。先述のように「無 籍者」の男女比は、全体で女性が男性の約二倍、

うち沖縄群島が二・五倍、宮古六倍、日本二倍、

八重山は女性のみである。他方、奄美の場合は男 性61名に対し女性が82名の約一・三倍程度と、女 性の割合が比較的低い。これは奄美からの移住者 中の男性の割合が高く、「無籍者」でも相対的に 高くなったからだとみられる。また表 4 の全地域 出身者を通してみれば、女性が「無籍者」調査の 網にかかりやすい傾向があったと考えられる。こ の結果をみて、警察は「無籍者は月々数百円の家 賃を払って間借り食糧その他の配給も受けず暮ら しており〔、〕その大部分は売春その他の犯罪を 犯している」と、配給制から排除されたあり方を 指摘しつつ、女性に多い「売春その他の犯罪」と の関係で語っている(50)

つぎの表 5 は、琉球政府統計局からの依頼に基 づき宜野湾村が52年に実施した「奄美、宮古、八 重山各群島から転出したもの」および「混血児」

の調査から関連項目を摘記して作成したものであ る。表 5 から明らかなことは、第一に、胡差署の 調査と比較すると「無籍者」に関する調査から沖

縄群島の項目が消えている点だ。統計上の編集に より、臨時戸籍制度上の「無籍」ではなく、「南 北琉球」からの移住者を「無籍者」に等置する「無 籍者問題」の想定が、「事実」として示される傾 向を見ることができる。第二に、各群島別で見た 場合、突出するのが奄美出身者の数の多さとその

「無籍者」の割合の高さである。宜野湾在住の「南 北琉球」出身者中、90%以上を「在沖奄美人」が 占めているが、各出身地中の「無籍者」の割合は、

宮古と八重山が各々50%代前半であるのに対して 表 4  1950年6月公表の胡差署管内

「無籍者一斉調査結果」  

出身地

大 島 61 82 133

宮 古 1 6 7

八重山 0 6 6

日 本 2 4 6

沖縄群島 計 70 175 245

久 米 島 3 15 18

北部地区 26 50 76

中部地区 24 65 89

南部地区 17 45 62

全合計 134 273 397

出典: 「無籍者なんと350名 若い女が断然多い」『沖縄タイムス』

1950年 6 月 3 日。

筆者注:但し、調査実施月日は不明。

筆者注: 各出身地と全合計数が一致しないので、各出身地の総 計と差し替えた。

筆者注: 沖縄群島内の各地区を合計し、「沖縄群島計」という 項目を追加した。

表 5  宜野湾在住の奄美、宮古、八重山群島出身人口調(1952年11月) 

出身別

総 数 有籍者 無籍者 総数に占める

無籍者(%)

割合(%)  男

総数 846 959 1,805 100.0% 177 215 392 669 744 1,413 78.3%

奄 美 群 島 出 身 者 773 881 1,654 91.6% 139 182 321 634 699 1,333 80.6%

宮 古 群 島 出 身 者 60 64 124 6.9% 31 27 58 29 37 66 53.2%

八重山群島出身者 13 14 27 1.5% 7 6 13 6 8 14 51.9%

出 典: 「参考調書 Ⅰ離島出身者(有籍者) 1952年11月25日現在」「参考調書 Ⅱ離島出身者(無籍)・混血児 1952年10月末日現在」沖 縄県宜野湾市教育委員会文化課編『宜野湾市史 第 8 巻 資料編 7 戦後資料編 Ⅰ戦後初期の宜野湾(資料編)』(沖縄県宜野湾市 教育委員会文化課、2008年)80‑82頁をもとに作成。

筆者注:出典において、「有籍者」「無籍者」は、各々「手続きをして来た者」「手続きをしないで来た者」とも換言される。

(13)

「在沖奄美人」は80%と、その割合の高さは顕著 である。第三に、地域と時期が異なるが、表 4 と 比較して、全体に女性が多いものの、男女数はほ ぼ拮抗し、その差が少ないことがわかる(51)

以上、胡差と宜野湾に統計が限られるが、奄美 から移住した人びとは、宮古や八重山の人々と比 べても「無籍者」になることが多く、むしろ「無 籍者」として生活する方が常態だと言いうるほど だ。「南北琉球」からの移住者における「在沖奄 美人」の割合、さらにその中でも突出した「無籍 者」率に鑑みて、「南北琉球」からの「無籍者」

を標的に取り締まった場合、必然的に「在沖奄美 人」がその網の中に捕獲されることになるだろう。

4 「無籍者」の取締り:「南北琉球」からの移住 者への強制送還と登録制構想

「無籍者」とは本来、非正規居住者に過ぎぬ存 在で、配給制から排除されるなど苦境にあるもの の、それ自体では「非合法」でもなく警察の取締 り対象ではない。だが、1949年に始まり、1951年 にピークを迎える「無籍者問題」の渦中において、

「犯罪」が多発しているという情勢認識と「無籍者」

の存在が結合し、「無籍者」を取締るべきとする 言論が浮上する。その際、沖縄群島内の移住者は

「無籍者」から後景化し、奄美や宮古など「南北 琉球」からの人々が焦点化されていく。その結果、

「無籍者」を「南北琉球」からの移住者に等置し、

かつ「犯罪の温床」とみなす認識が流通し、「南 北琉球」からの移住者の存在あるいはその移住行 為が危険視されていく。これこそが〈「無籍者」

=「南北琉球」からの移住者=「犯罪の温床」〉

という等式に結節する「無籍者問題」である。こ の等式を背景に「無籍者問題」への措置として、

沖縄群島において「無籍者」の一斉検挙、出身群 島への強制送還、そして「南北琉球」からの移住 者の登録構想等が展開する。むろん、「無籍者問題」

が沖縄島に生じる以上、沖縄群島の行政(沖縄民

政府から後続の沖縄群島政府)が主体となるが、

取締り対象の越境性ゆえ、事態は奄美等の「南北 琉球」の行政機構も巻き込みながら展開する。本 節では、「無籍者問題」を考察するべく、「在沖奄 美人」を中心に、メディアや行政による「無籍者」

への排他的反応および「犯罪の温床」への介入と して実践された警察による取締りの具体的なあり 方を、強制送還と指紋押なつを含む登録制構想を 中心に記述したい。

4 1 「無籍者問題」と行政措置による強制送還 第 2 節で、1949年 9 月頃から、生活苦から脱却 すべく奄美から沖縄に移住する人流が確認できる と述べたが、沖縄に新たに登場した「在沖奄美人」

たちは、その端緒から宮古・八重山からの移住者 と一体の人口移動現象の中で理解され、「犯罪の 温床」となりうる「無籍者」の増加という「事実」

とともに認識されていた。当時の新聞記事は、「大 島或は両先島から沖縄へ沖縄へとやってくる人は 主にナハに集まっているが、市役所では原則とし て受入を中止しているので所謂 無籍者 となっ て居住している者が相当数に達するものと推測さ れ、最近 9 月 1 にち以降ナハ署に出入している者 のうち30人以上がそれらの人々であるところから 犯罪の温床となる虞れのある無籍者に対し何らか の対策が望まれている」(52)と書いている。「沖縄 へ沖縄へと」、これらの地域から移住する動向そ れ自体、米国が新たに「琉球列島」という植民地 国家を生産したことに付随する現実に他ならない が、さらに先述のように、臨時戸籍制度に内在す る恣意性により、「受入を中止」する那覇市によっ て「無籍者」という非正規居住者が積極的に生産 されていることがわかる。「在沖奄美人」は、「大 島或は両先島」という「南北琉球」からの移住者 という枠組みに配置され、同時に当人たちの既遂 行為ではなく、「犯罪の温床となる虞れ」という 未来の危険性に満ちた「無籍者」に等置される力

(14)

学のもとに捕捉された。ここに、〈「無籍者」=「南 北琉球」からの移住者=「犯罪の温床」〉という 等式に収斂する認識枠組みが明確なかたちを見せ 始め、「何らかの対策」を求める「無籍者問題」

の形成をみることができる。では、「無籍者問題」

における「対策」とは何か?  それは、非常に明 確なもので、渡航・居住管理の厳格化であり、一 部の者に対する強制送還の実施であった。

前節で言及したように、49年11月末、沖縄で四 群島の警察部長会議が開催され、「南北琉球から 沖縄への密渡航問題」が討議された(53)。会議では、

沖縄民政府警察より「南北琉球」からの移住者が

「沖縄の実情を知らず無計画で来島し就職難のた め生活に窮した揚句男子は窃盗詐欺、女子は闇の 女に転落(中略)、なお激増の傾向にある」と指 摘され、「沖縄渡航者の制限対策につき大島、宮古、

八重山各警察部としても今後密航者の徹底的取締 りに協力すること」が合意され、「正式渡航者で も身寄又は確実な引受人のない者には許可書を与 えないこと」が申合わされた(54)。その結果、就 職で沖縄に渡航する者には、「採用通知と共に配 給停止証明書」を持参の上、来沖後、臨時北部南 西諸島政庁の沖縄連絡事務所に「配給停止証明書」

を提示して「身分証明書」を取得し、加えて沖縄 の市町村長の「居住証明書」を得てはじめて就職 可能になるなど、沖縄で正規に居住することが非 常に厳しいものに変貌した(55)。さらに、「在沖奄 美人」の組織たる「あま美会」も同年12月10日に 会合を持ち、奄美からの移住者の犯罪を「完全に 根絶するためあま美人会を実際に目的をもった強 力な会合にもりあげ渡航者の善導救済、犯罪防止 を計ると共に各自の資質の向上に努めたい」(56)

と、「『在沖大島人』の名簿作成を行い、これまで の不評を一掃」(57)することも報じられる。つまり、

奄美からの移住者の立場に立つと、沖縄島の「無 籍者問題」が、沖縄と奄美の両群島の行政機構の 連携、さらに一部「在沖奄美人」組織の協力によ

り、厳しい生活統制の網がかけられることになる。

かくして49年 9 月頃を端緒とする「無籍者問題」

は、渡航管理と沖縄での正規居住における制限強 化が求められたが、それでも「南北琉球」からの 人流を止めることはできなかった。実際は、奄美 から沖縄島への移住を統制しようとする側にとっ て、正規の渡航と居住条件を厳しくしただけで、

むしろ「無籍者」を大量に生産したと考えられる。

そして翌1950年には、沖縄群島の警察による積 極的な「無籍者問題」への対応が見られるように なる。50年以降の「無籍者問題」で注目すべきは、

「無籍者」への「何らかの対策」の一環として、

司法処分を受ける者への強制送還が実現したこと (58)。1950年2月、「悪の巣窟」と題された「無 籍者一斉取締」を伝える次の記事が沖縄のメディ アに登場する。

 北谷村謝苅区は大島等からの密渡航者が沢 山入り込み無籍者が多く〔、〕これまで兎角 の風評があったが〔、〕最近は米ぐん人も昼 夜を問わず出入する現状にコザ署では捨て置 けないと 1 月25日無籍者一斉取締を実施■た ところ〔、〕驚く勿れ 1 ぶ落から67人が網に 引っかかった〔。〕検挙取調の結果何れも密 渡航立入禁止売淫媒合の罪名で罪の軽重によ り処断され懲役罰金を云い渡されたり強制送 還されたりしたが〔、〕中には悪疾で強制入 院を命ぜられたりしているものもいる。(59)

は、 1 文字判読不可〕

この「無籍者一斉取締」は、50年 1 月25日の未 明、琉球軍司令部のCID(陸軍の捜査機関)の支 援を受けてコザ署が実施したもので、「検挙され たものの大部分は大島出身者」だった。なかには、

「『沖縄にいったら好い職に就けてやる』と仲介人 の甘い口車に乗せられて渡航し」、「身に覚えのな い借金の証書を突き付けられたりして、のっぴき

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