◎論説
広 東 省 に お け る 文 化 大 革 命 と ﹁地 方 主 義 ﹂
中津俊樹・・⁝
問題の所在‑広東省の紅衛兵運動と﹁地方主義﹂
一九六六年に発動された﹁プロレタリァ文化大革命﹂(文
革)は翌年一月の﹁上海一月革命﹂を契機として︑既存の
共産党・国家官僚機構の全面解体を目指す全国規模の奪権
運動へと発展した︒奪権に伴う政治・社会秩序の崩壊は同
時に︑文革以前から蓄積されてきた様々な政治的・社会的
矛盾を一挙に露呈させた︒この種の状況は︑社会の広範な
層における既存の体制に対する批判的再検討と同時に︑文
革後の社会変革の可能性の追求へと発展した︒一切の官僚
機構の消滅と︑それに代わる直接民主制的体制の導入によ
る社会変革の実現を掲げた﹁コミューン﹂型体制を巡る動 ヒ きは︑その一つである︒
いわゆる﹁コミューン﹂型体制という理念はもともと︑
毛沢東ら文革指導部が劉少奇を頂点とする﹁資本主義の道
を歩む実権派﹂(﹁走資派﹂)への攻撃を正当化する必要性か
ら提唱したものであった︒既存の共産党・国家官僚機構と
その特権的存在形態を社会変革の障害と見なし︑一貫して
批判的姿勢を取っていた﹁造反派﹂紅衛兵組織は︑社会変
革の具体化に結びつくものとして﹁コミューン﹂理念を支
持した︒しかし︑一九六七年一月に上海の紅衛兵・造反派
による﹁上海一月革命﹂が発生し︑それに続き﹁上海コ
ミューン﹂(上海人民公社)樹立の試みが具体化すると︑文
革指導部はこの種の動きが共産党支配体制の崩壊へと直結
するのではないかとの危機感から︑﹁コミューン﹂型体制の
広 東省 にお ける文化大革命 と「地方主 義」
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導入という目標を放棄した︒文革指導部はそれに代わり︑
既存の共産党・国家官僚機構を基盤とする革命委員会を︑
奪権後の新たな権力機構とする方針を打ち出した︒
その後﹁コミューン﹂理念の最も熱烈な擁護者となった
のは︑いわゆる﹁極左派﹂紅衛兵である︒﹁極左派﹂紅衛兵
は革命委員会を含めた一切の官僚機構の解体とそれに続く
﹁コミューン﹂型体制の導入を︑社会変革を具体化し得る唯
一の方法として位置付け︑革命委員会の樹立を目指す動き
に抵抗した︒
既存の党・国家機構に関する問題は︑文革後の社会変革
の形式を巡る闘争へと発展したのである︒文革指導部が打
ち出した革命委員会の樹立という方針は︑既存の党・国家
官僚体制の根本的変革を伴わない"上からの政治秩序の再
編"を目指したものであった︒それに対し︑﹁コミューン﹂
型社会の実現を目指した﹁極左派﹂紅衛兵の行動は︑政治
的発言力を持たない集団による"下からの社会再編の試み"
の一形態であったといえよう︒一九六七年末から六八年初
めにかけて湖南省で活動した﹁極左派﹂組織・﹁省無聯﹂を
ヨ 巡る動きは︑その典型である︒
広東省においても︑一九六七年後半から広東省革命委員
会が成立した六八年二月下旬にかけて﹁極左派﹂紅衛兵組
織の活動が見られた︒しかし︑広東省の﹁極左派﹂紅衛兵
にっいては﹁八五公社﹂なる集団の名称のみが知られてい るものの︑それ以外の組織に関しては従来その存在がほと
んど知られていない︒そのため︑その全貌に関する分析は
現在までのところ充分にはなされていない状況である︒従っ
て︑広東省の﹁極左派﹂紅衛兵に関する研究は未開拓の分
野であるといっても過言ではない︒
一般的に︑各地域の当局や反﹁極左派﹂的な紅衛兵・群
衆組織による﹁極左派﹂批判においては︑革命委員会への
反抗等に象徴される彼らの"極左的"思想・行動形態がそ
の対象とされた︒広東省での﹁極左派﹂紅衛兵批判ではそ
れらに加え︑﹁極左派﹂紅衛兵と﹁地方主義﹂﹁地方主義集
団﹂との関係が取り上げられた︒
広東省での﹁地方主義J(Localism)に関しては︑一九四
九年以降の広東省の政治構造の変容にZすKaEzraF.Vogel
[1969]S論考において取り上げられている︒ぎo︒︒一は一九
四九年から五〇年代末に至るまでの広東省の政治状況を︑
北京‑広州‑広東省全域という形での中央集権体制の確立
を目指す新政権が︑"地方の独自性"を掲げる現地勢力の抵
抗を段階的に排除する過程と捉えている︒ぎ町qo一は広東で
の﹁地方主義﹂を巡る問題を︑その過程で発生した地元幹
部と中央出身幹部との確執の典型的事例としている︒
Vogelはまた︑文革期における﹁地方主義﹂の動向にも
言及している︒しかし︑そこでは︑広東省での奪権闘争の
激化に伴い︑一九五七年に排除された﹁地方主義者﹂の活
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動が一時的に活発化したという事実が簡単に述べられてい
るのみであり︑﹁地方主義﹂の復活に至る経緯︑その活動実
態や社会的背景等に関しては詳細な考察がなされていると
は言い難い︒また︑﹁極左派﹂紅衛兵と﹁地方主義集団﹂と
ム の結び付きに関しては︑全く言及されていない︒
ところで︑﹁極左派﹂紅衛兵に関しては従来︑その排他的
性格が指摘されてきた︒彼らが造反運動の過程で他集団と
の連携関係を構築ないし模索した事例は︑一九六〇年代前半
の﹁上山下郷運動﹂に伴い農村部へ下放され︑文革期に大規
模な造反運動を展開した﹁知識青年﹂との連携が知られて
いるが︑それ以外の集団との関係を巡る事例に関しては‑
広東での﹁地方主義集団﹂と﹁極左派﹂紅衛兵の問題も含
ム めて‑現在までのところ︑報告されていない︒従って︑﹁地方主義集団﹂と﹁極左派﹂紅衛兵の連携を巡る問題は︑
それ自体が分析の対象とされるべき問題であると思われる︒
そこで本稿では︑文革期の広東省における﹁地方主義﹂
の問題に注目し︑その形成・展開過程とその特徴︑さらに
ムフ ﹁極左派﹂紅衛兵との関係について考察する︒
広東省における﹁地方主義﹂の形成‑一九五〇年代の状況
広東省は政治・経済の中心である北京︑上海から遠く離
れ︑一九九七年の香港返還以前は香港・マカオという二つ の資本主義世界と隣接する"南の国境"であった︒一九七
八年の﹁改革・開放﹂政策の導入に伴い広東は急速な経済
的発展を遂げたが︑それ以前の段階においては︑全国の政
治・経済に占める広東の比重は必ずしも高くはなかった︒
文革期においても︑北京︑上海及び武漢等の政治的動向が
全国の局面に影響を及ぼすことはあっても︑広東がこの種
の役割を演じることはなかった︒一九七八年以前の広東省
は地理的辺境と同時に︑政治的・経済的中心としての北京・
バ 上海に対する"周縁"として存在していた︒
Vogel[1969]は中華人民共和国成立後の広東省における
政治・社会体制の構築のプロセスを︑中央政府の主導下で
の中央集権体制の急速な確立と︑広東の独自性の維持を試
みる現地幹部との確執に注目し分析している︒ぎ゜Qo一はこ
の文脈から︑広東における﹁地方主義﹂の問題を取り上げ
ている︒
Vogelによれば︑中央政府は広東省の解放直後︑武漢の
共産党中南局と南方工作隊を通じ中央集権体制の構築に着
手した︒同時に︑葉剣英(北京市長)︑陶鋳(共産党中央華
南分局代理書記)等の中央指導者が多数のブレーンを伴い︑
続々と広東に入った︒広東省の新たな指導者となる彼らの
ほとんどは︑広東省以外の出身ないしは同省出身者であっ
ても他地域での活動経歴が長い人材であった︒
南方工作隊を迎えた広東省の共産党組織の側は︑日中戦
広東省 にお ける文化大革命 と「地方主義 」
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争とそれに続く国共内戦(一九四六〜一九四九)に際し︑
遊撃隊根拠地の建設あるいは遊撃戦の展開等の方法により
広東省の解放に積極的に関与していた︒ぎ゜︒9も指摘する
ように︑これら遊撃隊根拠地の指導者達が一連の状況下に
おいて地域の状況を把握する一方︑地元との密着度から広
東省内の状況に対する自らの"理解度の高さ"を過信し︑
地元の問題に対する"余所者"の指導を嫌悪する意識を抱
き始めていたであろうことは︑想像に難くない︒
一方︑南方工作隊の側は当初︑遊撃隊出身者の経験の有
効性を認めていたものの︑次第に︑それのみをもって広東
が直面する複雑な現実的問題を解決することは不可能であ
るとの認識を強めるに至った︒
ここに︑"地元での経験"に自負を抱く現地幹部と中央出
身者の間での心理的な確執が始まるのである︒それは︑土
地改革において中央政府の方針を純粋に実行しようとする
中南局及び中央出身幹部と︑広東特有の地縁・血縁関係を
含めた地域の実情に合致した︑より柔軟な方法を模索する
地元幹部との間の対立等の形で現れた︒古大存(当時広東
省副省長)は後に明らかになるように︑中南局が掲げた﹁天
り 地を揺るがす闘争﹂︑即ち地元の状況如何にかかわらず︑原
則として一切の例外を認めない急進的土地改革に批判的意
識を抱いていた地元幹部の一人であった︒
解放以降の両者の心理的確執は一九五六年︑海南島の"独 立王国化"を巡って表面化した︒海南島は地理的に広州か
ら離れていることも関係し︑もともと独立的傾向が濃厚な
地域であった︒また︑土地改革の実施も広東省内の他地域と
比較して遅かった︒これらの条件が重なり︑五〇年代後半
には︑海南島は島の指導者・凋白駒(海南地区共産党委員
会第一書記・広東省党委員会書記処書記)が広州からの指
導を拒絶する等︑次第に"独立王国"的性格を強めていった︒
陶鋳(広東省党第一書記)が指導する広東省党委員会はこ
の種の状況に危機感を抱き︑様々な形で海南島への管理強化
を試みたが︑海南側は逆に広州への反感を募らせた︒広州
と海南島の対立は︑中国共産党第八回党大会(八全大会)
が召集されて間もない一九五六年一一月以降︑決定的なも
のとなって表面化した︒口火を切ったのは︑海南側であった︒
八全大会の開催中︑薦白駒は北京に書簡を送り︑広東省
党委員会と広州から派遣された幹部が海南島の日常業務に
干渉している︑と直訴した︒同年の一二月頃には︑海南島
の元遊撃隊関係者と古参軍人三六一人が︑広州から派遣さ
れた"新幹部"に職を奪われたことに不満を抱き︑同島・
臨高郡の党・政府機関を包囲する事件が発生した︒彼らは
郡長の身柄を拘束した上で︑銭瑛部隊(以前の海南島の遊
撃隊の一部隊)関係者の復職等を要求した︒銭瑛部隊はも
ともとは薦白駒の指揮下にあった部隊であった︒
広州側は海南側の一連の動きを﹁海南反党地方主義集団