は じ め に
中国刑法は︑刑法一三条で犯罪概念を実定化している︒この犯罪概念の規定は︑一九七九年刑法典と同文である︒同文であるということは︑犯罪概念の理解において︑新旧刑法に変化はないということを意味するのか︒変化がないはずはない︒何故なら︑旧刑法は類推規定を設け︑それが新刑法で否定され︑その代わりに罪刑法定原則が採用されたのであるから︑そのことは当然犯罪概念の理解に反映されるはずだからである︒しかし︑変わっていないかもしれない︒これが論点の一つをなす︒ ところで︑中国刑法においては︑この犯罪概念とは別に 刑法理論としての犯罪構成要件論が説かれる︒日本刑法の講義では︑犯罪論において構成要件論が中核的位置を占めている︒中国刑法でも︑構成要件論︵犯罪成立の構成要件理論︶が刑法理論として諸学者によって説かれている︒そして︑この犯罪構成要件論をめぐっては︑旧ソ連刑法に影響を受けた伝統的構成要件理論と︑近年における︑ドイツ︑日本等の理論の影響を受けた構成要件論とが鋭く対立している︒この双方の構成要件論の違いを指摘するのはそれほど難しいことではない︒問題となるのは︑この構成要件論と先の犯罪概念との関連である︒犯罪概念は︑社会的危害性︑違法性︑可処罰性の三つの要件からなり︑他方︑犯罪構成要件は伝統的に犯罪の客体︑客観︑主体︑主観の四つの要素からなると説かれてきた︒そこで︑ある学者
中 国 刑 法 に お け る 犯 罪 概 念 と 犯 罪 構 成 要 件 理 論 小 口 彦 太
●●●●● 論 説 ││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││中国法の諸相
は︑犯罪概念にある違法性が構成要件論には見当たらないことを以て︑両者の間に有機的連関はないと主張す ﹀1
︿る︒筆者も長年︑両者を有機的に結び付けることは困難であると思ってきた︒ところが︑近年︑この両者を整合的に説明する理論に出会った︒劉艶紅教授の理論がそれである︒管見の及ぶところでは︑犯罪概念と犯罪構成要件論を整合的に説明することに成功している唯一の刑法学者である︒その説明を跡付けてみること︑これが第二の論点をなす︒ 以上が︑本稿の考察の対象をなす︒
一 刑 法 一 三 条 の 犯 罪 概 念 再 論
まず︑煩を厭わず以下に刑法一三条の条文を掲げることにする︒ 「①国家の主権と領土の保全と安全に危害を加え︑国家を分裂させ︑人民民主独裁の政権を転覆させ︑社会主義制度を覆し︑社会秩序と経済秩序を破壊し︑国有財産又は勤労大衆の集団所有の財産を侵害し︑公民の私的所有の財産を侵害し︑公民の人身の権利︑民主的権利︑その他の権利を侵害し︑及びその他の社会に危害を加える一切の行為で︑②法律に基づいて③刑事罰を受けるべきものは︑すべて犯罪である︒④但し︑情節が明らかに軽微で危害が大でないものは︑犯罪とは認めない︒」︵①︑②等の数字は筆者 補︶ この条文の掲げる犯罪概念についての︑中国の代表的教科書である高銘暄・馬克昌主編全国高等学校法学専業核心課程教材『刑法 ﹀2
︿学』の説明︵高銘暄執筆︶は以下のとおりである︒まず︑この一三条の趣旨として「この定義は︑わが国の社会のさまざまな犯罪に対してなした科学的概括であり︑これは我々が犯罪を認定し︑有罪と無罪の限界を区別する基本的根拠をなす」︵四六頁︶と説く︒有罪無罪を認定する基本的根拠をなすというのであるから︑一見すると︑日本刑法で言うところの犯罪成立の要件を連想させる︒しかし︑本書では︑「要件」という言葉は使っていない︒ここでは︑「特徴」という語が使われている︒そのうえで︑一三条の犯罪概念には三つの基本的特徴が存在するとして︑その第一番目に一定の社会的危害性を有することをあげる︒その内容は以下のとおりである︒ まず︑一定の社会的危害性を有することが︑「犯罪の最も基本的な特徴」をなす︒社会的危害性が「相当程度に達していなければ︑犯罪を構成しない」︵四七頁︶︒そうすると︑社会的危害性の大小は何によって決定されるか︒それは以下の三つの面によって決定される︒
その一︑行為の侵害の客体によって決定される︒上記一三条①の部分は犯罪が侵害する「客体」を列記したものである︒その侵害の客体には価値序列がある︒国家の安全に
危害を加えるところの社会的危害性が最も大であり︑その次にくるのが公共の安全に危害を加えるところの社会的危害性である︵四七頁︶︒ということは︑明言はしていないが︑論理的には︑公民の人身の権利侵害は前二者に比して社会的危害性が大きくないということになる︒ ところで︑ここでは犯罪が侵害する「客体」という言い方がなされているが︑この「客体」が日本語でのそれと同様の意味であるとすると︑むしろ「法益」という言葉のほうがふさわし ﹀3
︿い︒事実︑本書でも︑別の箇所では「犯罪の客体すなわち刑法の保護する社会関係」︵六五頁︶という表現が使われており︑このような理解に基づけば︑法益概念に相当する︒但し︑その法益の価値序列には大きな違いがある︒すなわち︑中国刑法ではその法益の価値序列は国家︑社会・集団︑公民の順となっていて︑「国民主権と基本的人権の尊重を基本原理とする現行憲法秩序の下においては︑生命・身体・自由・名誉・財産などの個人法益が刑法により優先的に保護されなければならな ﹀4
︿い」という日本刑法の法益の価値序列とは鋭い対照をなす︒ その二︑行為の手段︑結果︑時間︑場所によって決定される︒犯罪の手段が凶悪であるかどうか︑残酷であるかどうか︑暴力を使用しているかどうか︑こうしたことが大きく社会的危害性の度合いを決定づける︒その描写はきわめて具体的である︒「例えば︑公私の財物を強奪﹇搶劫﹈す る行為は︑公私の財物を奪取﹇搶奪﹈する行為より危害性が大である︒人を殺した後に死体をバラバラにする行為は一般の故意殺人よりもより一層悪質である︒危害結果は︑社会的危害性の程度を決定する重要な要素である︒例えば︑五〇〇元の窃盗と一万元の窃盗︑一人の殺人と数人の殺人とでは︑その社会的危害性の程度が明らかに異なる︒戦時の犯罪は平時の犯罪と比べて︑その社会的危害性も一様でない︒自然災害のときを利用して事件を引き起こす︵例えば火事を利用して劫奪をはたらく︶とか︑社会治安のよくないときに強盗︑強姦を行う等の犯罪活動は︑その社会的危害性がより大である」︵四七
を対象とするのに対して︑三は行為者を対象とする︒ も異なる︵四八頁︶︒犯罪概念の基本的特徴中の二が行為 さがどの程度か︑こうしたことは︑社会心理上︑その影響 か過失か︑謀議がこらされたかどうか︑動機・目的の悪質 される︒成人であるか︑それとも未成年者であるか︑故意 その三︑行為者の状況及びその主観的要素によって決定 と言うことができる︒ 危害性の度合いをそのまま二十等の刑=法に投影したもの るのが︑伝統中国の律の世界であり︑それはいわば社会的 かに各犯罪類型と刑罰が具体的且つ特定的に規定されてい 想起する︒犯罪行為の態様︑程度︑方法等に応じてこと細 な一文を見ると︑筆者は︑唐律や明清律の規定の有り様を −四八頁︶︒このよう
このように︑犯罪概念中の社会的危害性の大小は上記一=客体︵その実︑法益︶︑二=行為︑三=主観︵行為者︶によって決定されるのであるが︑固定的︑分析的︑現象的に考察してはならない︒歴史的観点︑全面的観点︑現象ではなくその背後にある本質把握の観点を持することが必要である︵四八頁︶︒ 次に︑一三条の②の部分についてであるが︑これは︑「刑法の規定﹇刑律﹈に触れる行為︑すなわち刑事違法性を有する」︵四八頁︶こととされる︒刑法の規定に触れる︑刑法の規定に違反する行為が刑事違法性というのであるから︑日本刑法でいう違法性︵実質的違法性︶とは異なり︑一見すると︑日本刑法の構成要件該当性に相当するように見える︒そこから︑中国刑法上の違法性を日本の構成要件に比定し︑上記の社会的危害性を超法規的︑実体的概念として︑日本の違法性に比定するという誤解に陥りやすい︒こうした誤解にとらわれてしまうと︑では何故中国刑法の犯罪概念には有責性が登場しないのかという発想に陥ってしまう︒ しかし︑中国刑法上の犯罪概念において鍵概念ともいえる「違法性」概念についての︑高銘暄等著『刑法学』での説明はあまりにも簡略である︒民事法律︑経済法律︑行政法律に違反する行為がそれぞれ民事違法行為︑経済違法行為︑行政違法行為となるのと同様︑「刑法︑すなわち刑律 に違反する行為が刑事違法行為である」︵四八頁︶と説くにとどまる︒問題はこの刑事違法性と社会的危害性の関係であるが︑本書では「当該行為が単に社会的危害性を有するだけでなく︑刑法に違反し︑刑事違法性を具有してはじめて犯罪として認定される」︵四九頁︶と説く︒この説明による限り︑中国刑法の犯罪概念は社会的危害性と刑事違法性︵社会的危害性+刑事違法性︶からなり︑そして刑事違法性こそが犯罪概念中の前提的条件をなすということになる︒
同様の説明は他書にも散見する︒「犯罪は以下の特徴を具えた行為でなければならない︒⑴社会的危害性を具えていること︒⁝⁝⑵刑事違法性を具えていること︒犯罪行為は刑法が禁止する行為でなければならな ﹀5
︿い」とか︑「刑事違法性︒刑事違法性は刑法規範に違反する行為の特徴のことである︒⁝⁝司法的角度からすると︑刑法規範が確立した後は︑刑法規範に違反しているかどうかが︑某行為が重大な社会的危害性を具備しているかどうかを判断するさいの最も外在的な規準をなす︒つまり︑刑事違法性は一定程度において重大な社会的危害性を制約するものである︒行為が刑法規範に違反しているかどうか︑刑法上の違法性があるかどうかが︑行為が犯罪を構成するかどうかの準則をなす︒“法に明文がなければ罪とせず︑法に明文がなければ処罰しない”というこの罪刑法定原則は︑現代刑法にお
いては法則とされ︑主要原則とされてい ﹀6
︿る」︒
以上いずれの議論も︑社会的危害性と刑事違法性を並列的に掲げ︑且つ刑事違法性こそが犯罪成立の前提条件をなすという点で共通する︒そして︑こうした捉え方は︑新刑法三条の罪刑法定原則とも符合するものであり︑刑法各則に明文の定めなき行為でも︑社会的危害性を有していれば犯罪が成立するとした︑したがって類推を必然化させた旧刑法の犯罪概念からの鮮やかな決別を物語るかのように思える︒ しかし︑社会的危害性概念と刑事違法性概念は︑並列的な関係にはない︑そして︑両者の関係は整合的関係にはなく︑むしろ矛盾しあう関係にあると説く論者もいる︒陳興良氏はその代表的論者である︒氏は次のように指摘する︒「犯罪の形式概念は犯罪に刑事違法性を付与し︑犯罪認定のための法的規準を提供する︒⁝⁝犯罪の実質的概念は犯罪の社会的内容から犯罪を描写して作られた犯罪概念であり︑犯罪が社会的危害性を具えた行為として描かれる︒⁝⁝犯罪の混合概念は︑形式と実質が統一された犯罪概念である︵が︶⁝⁝形式と実質が衝突する︑例えば行為に刑事違法性があるが社会的危害性がないとか︑社会的危害性があるが︑刑事違法性がない場合︑形式的特徴は実質的内容に従うのか︑それとも実質的内容は形式的特徴に従うのか︑検討を要す
﹀7
︿る」︒ここで言う「混合概念」とは上記の 通説的︑伝統的犯罪概念を指すと思われ︑しかるに︑陳氏は︑通説のように社会的危害性と刑事違法性から犯罪概念が構成され︑且つ刑事違法性に該当しない限り︑いかに社会的危害性があっても犯罪には当たらないという││通説が説くような││構造には一三条はなっていないと考える︒つまり︑両者はもともと矛盾しあう関係にあり︑そうした矛盾的概念を持ち込むことによって︑一三条の犯罪概念は論理的にきわめて明晰性を欠くものとなっているというのが氏の見解であ ﹀8
︿る︒したがって︑陳氏の見解からすると︑新刑法一三条は伝統的混合概念説が説くが如く︑刑事違法性こそが犯罪成立の前提条件をなすとの構造にはなっていないということになる︒こうした氏の犯罪概念論の根底には︑ドイツ︑日本流の犯罪構成要件論を中国刑法も導入すべきであるとの強い意欲がある︒ さて︑一三条の③の部分であるが︑これは刑事処罰を受けるべき行為ということである︒「いかなる違法行為も相応の法的効果を伴う︒⁝⁝刑法に違反する犯罪行為についていえば︑刑罰という法的効果を受けなければならない」︵四九頁︶︒この説明を論理的に考えれば︑「刑法に違反する犯罪行為」というのがまずあって︑その効果として刑罰が発生するというのであるから︑この③の部分は犯罪の不可欠の要件ではない︒そうすると︑結局︑犯罪の成立自体は①の社会的危害性と②の刑事違法性によって決定づけら
れるということになり︑この③の部分は犯罪概念の派生的︑副次的要素でしかなくな ﹀9
︿る︒
二 通 説 的 混 合 犯 罪 概 念 論 者 が 掲 げ る 通 説 的 混 合 犯 罪 概 念 説 で は 説 明 が つ か な い 典 型 的 事 例
先に︑伝統的通説的混合犯罪概念説は︑社会的危害性と刑事違法性の関係については「当該行為が単に社会的危害性を有するだけでなく︑刑法に違反し︑刑事違法性を具有してはじめて犯罪として認定される」と説いていることを紹介したが︑刑事違法性の社会的危害性に対する優位を疑問視させる事例がある︒その事例というのは趙秉志編『新刑法全 ﹀10
︿書』において刑法一三条を理解するうえでの典型例として掲げられているものであり︑本書の編者は中国刑法の通説︑支配説を形作ってきた高銘暄氏の正統的嫡出子の立場にある学者である︒したがって︑伝統的混合犯罪概念説の掲げる典型例として考えてよい︒ 本書が掲げる一三条の事例とは以下のようなものである︒
㈠ 事件の概要
被告人趙某︑男︑某県教育局人事科長 検察機関は︑収賄罪をもって被告人趙某を起訴した︒一審法院は︑公開の法廷で審理を行い︑以下のことを明らかにした︒張某は某郷某村の小学校教師で︑その家は県城にあり︑妻は病気がちで︑その看護をする人がいないため︑しばしば教育人事科に行き︑被告人趙某を訪ねて︑県城に戻してもらいたいと陳情したが︑趙某は相手にしなかった︒半年後︑張某は︑県教育局が自分のために何も運動工作をしていないのを見て︑心中焦りを感じ︑その後︑人の教示によって︑方々から一五〇〇元のお金を借金してかき集め︑一九九七年七月八日夜︑被告人趙某のところに行き︑異動工作の願いをした後︑一五〇〇元の現金の入った封筒を趙某の事務テーブルに置いて去った︒趙某はその現金を自分のものとし︑同月一〇日︑張某の所在の単位に対して︑張某を県に戻すようにとの指示を出した︒張某は本県の第一中学に配属された︒
㈡ 裁判所の判断 一審法院は︑被告人趙某は職務上の立場を利用して賄賂を受け取ったが︑その額は多額でなく︑犯罪として処断すべきではないとの判断を下した︒一審法院は︑一九七九年刑法一〇条︵現行刑法一三条犯罪概念規定︶にもとづき︑無罪の判決を下した︒一審判決後︑検察機関は趙某の行為はすでに収賄罪を構成しているとして上級法院に抗訴し
た︒二審法院は以下のような判断を下した︒被告人趙某は国家工作人員の身分であり︑職務上の立場を利用して他人の財物を収受している︒その額は二〇〇〇元に満たず︑法定の規準に達しないが︑情状﹇情節﹈は重大である︒よって︑趙某の行為は収賄罪を構成する︒二審法院は︑全人代常務委員会の「横領罪賄賂罪処罰に関する補充規定」二条四項の規定にもとづき︑収賄罪でもって被告人趙某を懲役一年六カ月の刑に処した︵傍線部は小口︑以下同じ︶︒
㈢ 評釈
本案の一審法院と二審法院とで︑被告人の行為が収賄罪を構成するかどうかをめぐってあい異なる判決を下した主たる原因は︑趙某が職務上の立場を利用して他人より財物を収受したことの社会的危害性の判断に対立が存したことにある︒行為が社会的危害性を具えていることが犯罪の本質的特徴をなす︒新刑法一三条の犯罪概念に関する規定によれば︑行為の社会的危害性が重大な程度に達してはじめて犯罪となる︒これに反して︑もし行為の情状が明らかに軽微で危害が大でないときは︑犯罪とすべきではない︒収賄罪の社会的危害性についていえば︑収賄額が収賄行為の社会的危害性の大小を判断する主要な要素をなしているが︑それが唯一の要素ではない︒このほかに︑行為者が職責に違背しているかどうか︑他人のために不当な利益をは かろうとしているかどうか︑賄賂を要求したかどうかといったことも︑収賄行為の社会的危害性の大小を判断する要素をなす︒したがって︑収賄行為が重大な社会的危害性を有し︑犯罪を構成するかどうかを認定するさいには︑単に収賄額が法定の要求に到達しているかどうかだけを見るのでなく︑案情全体を総合し︑具体的に分析しなければならない︒収賄額がすでに法定の額に達するも︑それが多額でなく︑その他の情状が明らかに軽微であれば︑全体的な収賄行為の危害性は大でなく︑犯罪を構成しない︒①収賄額が法定の犯罪要求︵規準︶に達しないが︑その他の情状が重大であれば︑全体的な収賄行為の社会的危害性は相当重大であり︑犯罪として処断しなければならない︒横領罪賄賂罪処罰に関する補充規定五条︑二条の規定は︑こうした精神を体現したものである︒ 本案において︑被告人が職務上の立場を利用して受け取った額は一五〇〇元であり︑改正前の刑法が規定していた︑二〇〇〇元が犯罪を構成するとの規準には達しない︒しかし︑本案には︑以下のような重大な情状が存在する︒第一︑趙某の行為は︑国家工作人員の職務の不可買収性を侵害している︒張某が趙某に賄賂をなす前の半年余の期間︑張某はしばしば異動工作を求めたが︑趙某はそれを無視した︒ところが︑張某が賄賂をなすや︑ただちに張某を異動させた︒これは趙某が職務上の立場を利用して賄賂を
収受することの主観的意図と悪性を十分に反映しており︑且つ国家機関︑国家工作人員の職務の廉潔のイメージを損なった︒第二︑張某の異動工作の要求は︑確かに合理的要求であり︑趙某が当然履行すべき職務行為である︒しかるに︑趙某はこれを利用して賄賂を収受し︑且つ張某が田舎の教師にすぎず︑収入も高くなく︑その妻は病気がちで︑家庭が困っているのを明らかに知りながら︑張某がよこした現金を受け取った︒したがって︑案全体の情状を総合すると︑被告人の行為は相当重大な社会的危害性を有し︑且つ収賄罪の構成要件に符合し︑その行為は収賄罪を構成する︒ 新刑法典施行後は︑類似の事件は新刑法典一三条及び各則の収賄罪の規定によって処断すべきであ ﹀11
︿る︒ 以上が一三条の典型案例とされたものの事件概要︑裁判所の判断及び評釈の全容である︒この事例から分かることは︑以下のとおりである︒
ⅰ この事件は旧刑法典施行時代の事例であるが︑新刑法典一三条を理解するうえでの事例としてこれが掲げられている︒このことは︑これが一三条の典型例をなすということを意味している︒
ⅱ ところで︑上記事例の収賄額二〇〇〇元は収賄罪成立のための法定の規準であり︑これは犯罪概念中の刑事違法性に該当する︒前掲高銘暄等主編『刑法学』に よれば︑この刑事違法性について︑「違法がすべて犯罪となるのではない︒刑法に違反してはじめて犯罪となる︒例えば少量の財物を窃盗⁝⁝しても︑それは治安管理処罰条例に属する行為である︒公私の財物の窃盗が比較的多額の場合にはじめて窃盗罪⁝⁝を構成す ﹀12
︿る」と述べているのであるから︑この論法でいけば収賄額一五〇〇元は刑事違法性を充足しない︒ ⅲ しかるに︑刑事違法性=法定の規準を満たしていなくても︑その他の情状を勘案して社会的危害性が相当程度に重大であれば犯罪として成立するという︒こうした事例が一三条の犯罪概念理解の典型例とされているのである︒社会的危害性があっても刑事違法性︵法定の規準︶に符合しなければ犯罪として成立しないということを示すための典型例では決してない︒ このように見てくると︑この典型例は︑社会的危害性と刑事違法性を並列させ︑且つ後者を前者より優位に置くという刑法一三条の犯罪概念の理解の仕方からは出てこない︒この事例を典型例としてとらえる限り︑一三条の犯罪概念について別の理解が必要となる︒その一は︑社会的危害性と刑事違法性のうち︑前者こそが決定的要因であるとするものである︒しかし︑それは罪刑法定原則を採用していなかった旧刑法典時代の理解の仕方であり︑罪刑法定原則の採用に踏み切った新刑法典では認められない︒認めら
れないけれども︑上記事例傍線①部分は︑実際には︑法定の規準=刑事違法性に合致しなくても︑社会的危害性が相当程度大であれば犯罪は成立すると言っているのであるから︑旧刑法典時代の犯罪概念そのものである︒このことは︑実は︑通説的混合犯罪概念の論理的破綻を意味する︒ そうなると︑社会的危害性と刑事違法性の関係づけについて︑別の説明の仕方が必要となってくる︒その一人が陳興良氏の説である︒氏は︑犯罪概念から社会的危害性という実質的概念を放擲し︑刑事違法性を基軸に犯罪論を構成すべきであると説く︒陳氏の教科書を繙くと︑犯罪の特徴という表題のもと︑一︑刑事違法性︑二︑法益侵害性︑三︑応受懲罰性と三つの要件が掲げられている︒この中で第一の刑事違法性は形式的規準であり︑これが罪と非罪の判断の前提条件をなす︒そのうえで︑一に該当しても︑二において︑法益侵害︵実害と危険からなる︶が認められなければ犯罪から除かれ︑さらに︑三において︑懲罰を受けるに値するものでなければ犯罪から除外されるというのが彼の説であ ﹀13
︿る︒したがって︑この陳氏の見解からすると︑応受懲罰性は︑通説のごとく社会的危害性と刑事違法性から生ずる法的効果にすぎないといった消極的位置づけではなく︑「司法機関が罪と非罪の限界を区別するうえで指導的意義を有す ﹀14
︿る」ものとなる︒しかし︑この説明は︑現行刑法一三条が社会的危害性を掲げている以上︑立法論とし ては評価できるが︑現行規定の解釈論として無理がある︒
そこで︑別の理解の第二として考えられるのは︑社会的危害性︵A︶と刑事違法性︵B︶の関係を︑A「と」Bとして理解するのではなく︑AとBを等号関係におく︑つまりA=Bの関係において一三条の犯罪概念を理解するやり方である︒これでいくと︑罪と非罪の区別を刑事違法性で枠づけることができるのであるから︑一見すると︑罪刑法定原則との整合的説明がつけられそうである︒その代表的論者が劉艶紅氏である︒そこで以下︑劉氏の議論を跡付けてみようと思うのであるが︑その前にもう一点検討しておくべき問題がある︒それは︑犯罪概念と犯罪成立構成要件論との関係である︒上記の事例評釈においても「主観的意図と悪性を十分に反映している」という表現が見てとれるが︑これは犯罪構成要件中の「主観」要素の部分でもある︒
三 中 国 刑 法 学 上 の 犯 罪 成 立 構 成 要 件 論
趙某を有罪に処した上記事例の二審法院の判断には︑実は︑二〇〇〇元に満たない収賄額一五〇〇元という客観的規準と︑他人の窮状につけ込んで賄賂を収受したという主観的悪性を総合的に判断して犯罪の成立を認めるという︑中国の犯罪構成要件理論が垣間見えるのである︒
日本刑法においては︑構成要件論は「犯罪の成立・科刑という法的効果としての犯罪成立要件の総体とは異なった︑特殊な法技術概念である︒これは︑刑罰法規により設定された犯罪の類型であり︑これに該当することが︑犯罪の成立を肯定するために︑まず必要となる︒これは罪刑法定主義の要請するところであり︑構成要件は︑それに該当しない行為は犯罪にならないとする排除機能を有してい ﹀15
︿る」ものとして説明される︒この意味での構成要件論の理解については諸説あるが︑「違法行為の類型と解する立場」が「現在のわが国の多数説」であると言われてい ﹀16
︿る︒この通説的理解によれば︑構成要件に該当する行為は違法性が推定され︑したがって︑実質的違法性の議論は違法性の阻却の有無の議論でしかない︒そして︑構成要件に該当し︑且つ違法性を阻却しない行為に対して行為者の故意・過失の責任が問われることになる︒要するに︑日本刑法においては︑まず構成要件から入って︑次に違法性阻却の有無︑最後に責任の有無が段階的に論じられる︒このように︑日本の構成要件概念は犯罪成立の存否の第一段階で論じられる「特殊な法技術概念」である︒これに対して︑中国刑法上の犯罪成立構成要件概念はまさに「犯罪成立要件の総体」を意味する概念である︒ 中国の犯罪成立構成要件論は︑ドイツ刑法上の構成要件論を換骨奪胎して形成された旧ソ連の一九五〇年代の刑法 の構成要件論をモデルとして構築されたものであ ﹀17
︿る︒この理論の代表的論者が高銘暄氏である︒氏は次のように説明する︒「四要件犯罪構成理論は︑犯罪客体︑犯罪客観方面︑犯罪主体︑犯罪主観方面の四大要件の『耦合』からなる︒四大要件の下︑またそれぞれ特定の構成要素が含まれる︒例えば︑犯罪の客観面では︑危害行為︑危害結果︑因果関係等が含まれ︑各犯罪行為の具体的状況の違いにもとづき︑犯罪構成要素も︑必要性要素と選択性要素の区別がある︒要素は要件を構成し︑要件が耦合して全体をなす︒⁝⁝全体から部分に至り︑部分から全体に回帰するという分析をな ﹀18
︿す」︒犯罪の客体とは「刑法が保護する︑犯罪行為によって侵害された社会関 ﹀19
︿係」︑客観とは「刑法が規定するところの︑刑法が保護する社会関係に対して行為がもたらした侵害を説明する客観的外在的事実の特 ﹀20
︿徴」︑主体とは「社会に危害を及ぼす行為を実施し︑法により刑事責任を負うべき自然人及び単 ﹀21
︿位」︑主観とは「犯罪主体が自己の行為及び社会的危害結果に対して抱く心理的態 ﹀22
︿度」のことである︒ 問題となるのは︑犯罪成立にとって︑この四つの要件のすべてを充足しなければならないのかということである︒その問題を解く鍵は︑上記高氏論文中にある「耦合」という言葉にある︒耦合とは︑本来は︑二人がいっしょに並んで土地を耕すという意味であるが︑それが物理学の用語に
転用されて︑「二つ以上の体系又は運動形式の間で相互作用によりお互いに影響し合って連合する現 ﹀23
︿象」を意味するものとして説明される︒ここでの「お互いに影響し合う」という意味が重要である︒つまり︑四つの要件が相互に影響しあって全体=犯罪を構成するというのである︒決して︑各要件を個別的︑段階的に一つ一つ検討し︑それぞれ充足するかどうかを分析的に考察するのではない︒平面に四つの要件を並べて︑そのうち客観面が不足していても︑主観面の悪性が重大であれば︑両者を総合して全体としては犯罪は成立するというのが︑この耦合理論にもとづく構成要件論なのである︒構成要件論がこのようなものであるがゆえに︑「実践においては︑しばしば次のような現象が生ずる︒すなわち犯罪の判断において︑行為者の主観内容を優先的に考慮し︑その後に行為者の客観面を考慮する︒甚だしきに至っては︑客観上は犯罪を認定するには不足しているが︑行為者の主観的動機がきわめて悪質であるため︑それを犯罪として認定する︑いわゆる“客観の不足を主観で補う”という現象が生ず ﹀24
︿る」ことになる︒このように見てくると︑上記趙某事例は︑中国的構成要件論から見ても典型例をなす︒因みに︑中国刑法は︑不能犯を一律に不能犯未遂として扱い︑各犯罪類型の実行行為以前の予備段階からすべて犯罪の成立を認める等︑主観主義刑法の色彩が濃厚であり︑この主観主義刑法の側面と耦合理論にも とづく犯罪構成要件論が合わさることによって︑犯罪成立の範囲は拡大されることになる︒ ところで︑中国ではどの刑法教科書でも︑犯罪概念を説明した後に︑犯罪構成を説明する︒そこで︑問題になるのは︑この犯罪概念と犯罪構成要件論の関係づけである︒ この両者の間に整合的な関係は存在しないと説く論者もいる︒しばしば引用している陳興良氏はその代表的論者である︒陳氏によれば︑「わが国の刑法学では︑違法性は犯罪概念の特徴の一つをなし︑犯罪概念の中で論じられ︑犯罪構成の要件の中には違法性の席は存在しない︒もちろん︑このことは︑四要件の犯罪構成の要件の中に実質的判断が存在しないということではない︒ただ︑四要件の外側でこの実質的判断がなされるということである︒その︵実質的判断の︶中で社会的危害性が犯罪の本質的特徴をなし︑重要な役割を果たす︒しかし︑社会的危害性は四要件から遊離し︑且つ四要件の外︑上でそれを凌駕する︒したがって︑具体的案件を判断するとき︑しばしば論理上の混乱を来 ﹀25
︿す」と説く︒非常に明晰な説明である︒ では︑伝統的刑法学では︑どのように関連づけるのであろうか︒その述べるところを列挙すれば︑以下のとおりである︒ ①犯罪構成と犯罪概念は密接な関係にあるが︑異なる概念である︒②犯罪概念は犯罪構成の基礎︑犯罪構成は犯罪
概念の具体化である︒③犯罪概念が回答するのは︑犯罪とは何かであり︑犯罪構成が回答するのは︑犯罪はどのように成立するのかの具体的規準である︒④犯罪概念の各基本的属性は犯罪構成を通じて具体的に説明される︒⑤犯罪概念は総体的に罪と非罪を区別し︑犯罪構成は罪と非罪︑ある罪と別の罪の違いをはっきりと見分ける具体的規準である︒⑥犯罪構成は︑刑法の規定により︑ある具体的行為の社会的危害性及びその程度を決定して︑当該行為が犯罪を構成するうえで必要とされる一切の客観と主観の要件の有機的統一であ ﹀26
︿る︒ この説明中︑②〜⑤は︑まさに両概念が「密接ではあるが︑異なる」概念であることの説明にとどまり︑両者の有機的関連づけにはなっていない︒刑法学説でいう犯罪論︑あるいは具体的な司法上の解釈論からすると︑別に犯罪概念がなくても︑犯罪成立構成要件論があれば足りる︒それでは︑わざわざ刑法の条文として一三条を定めた積極的意味はない︒この説明で唯一︑両者の有機的つながりが見えるのは︑⑥の部分であろう︒しかし︑ここでは刑事違法性についての言及もなく︑また犯罪の客体︑主体についての言及もなく︑きわめて不十分な説明であると言わなければならない︒ では︑伝統的犯罪概念を積極的に評価しつつ︑それと犯罪成立構成要件論との整合的説明に成功していると思われ る学説は存在しないのであろうか︒ここで筆者が注目するのが劉艶紅氏の議論である︒
四 劉 氏 の 犯 罪 概 念 と 犯 罪 成 立 構 成 要 件 論
犯罪概念と犯罪構成要件論の関係を氏はどのように捉えているのであろうか︒その鍵概念はやはり犯罪概念中の刑事違法性にある︒氏の刑事違法性論を見てみよう︒「刑法中の刑事違法性は形式と実質︑主観と客観の統一であ ﹀27
︿る」︒「我々は︑わが国の刑法中の刑事違法性が大陸法系の国家の違法性と同様︑形式と実質の統一であると考えるべき理由を有している︒⁝⁝刑事違法性は︑また単に客観面を含むだけでなく︑主観面も含む︒すなわち主観的罪過︑目的等も含 ﹀28
︿む」︒「違法性は︑⁝⁝わが国の刑法中の犯罪の特徴及び犯罪判断の条件のことであるが︑ただその条件性は犯罪成立条件の一つとして表現されるのではなく︑犯罪構成全体の方式でもって表現される︒したがって︑わが国の刑法は違法性を犯罪構成の各要件と融合させ︑各構成要件を通じて違法性が体現される︒大陸法系の犯罪論が説く有責性は基本的にわが国の犯罪体系論中の主体︑主観面に相当す ﹀29
︿る」︒こうした論述から分かることは︑氏の違法性が大陸法系の刑法学の形式的違法性︵=構成要件︶及び実質的違法性︑すなわち行為面での形式︑実質違法性だけでな
く︑行為者の主観面︑主体面をも含むものであることが分かる︒そこから出てくる結論は︑中国刑法上の刑事違法性は中国刑法上の犯罪構成要件と等号で結ばれるということである︒犯罪概念中の刑事違法性とは中国刑法上の犯罪構成要件そのものなのである︒中国刑法の犯罪構成要件は「大陸法系の構成要件該当性︑違法性︑有責性と類似する全体的意義を体現した概 ﹀30
︿念」であり︑この全体が刑法一三条の刑事違法性の中身なのである︒ 次に問題となるのは︑犯罪概念中の刑事違法性と社会的危害性の関係についてである︒この点についての劉氏の立場は通説的な︑社会的危害性「と」刑事違法性という理解をとらない︒同一物についての︑視点の違いとして把握する︒すなわち「刑事違法性は社会的危害性の法律的表現である︒⁝⁝社会的危害性が「実然」レベルから犯罪行為の特徴を反映させたものであるというなら︑刑事違法性は「応然」のレベルから犯罪行為の成立条件に対して要求を提出したものである︒まさにこのようなものである故︑社会的危害性は犯罪行為の事実的特徴をなし︑刑事違法性は犯罪行為の規範的特徴をな ﹀31
︿す」︒ このように︑刑事違法性と構成要件が等号で結ばれ︑刑事違法性と社会的危害性が等号で結ばれれば︑構成要件と社会的危害性も等号で結ばれることになる︒したがって︑氏のこのような理論からすると︑両者を切り離して︑犯罪 構成要件を形式化させる議論は批判されることになる︒「実質的犯罪論はわが国の刑法の犯罪認定規準の協調と統一を実現するうえで有利である︒形式的犯罪論︵=犯罪構成要件と社会的危害性を切り離し︑犯罪構成要件を形式化する議論│小口補︶はわが国の刑法の犯罪認定の規準の二重性﹇双重性﹈︵構成要件「と」社会的危害性の二重性│小口補︶をもたら」し︑その結果︑「実質的可罰性を具えているかどうかという価値内容を剥脱させ︑単純に形式上から︑わが国刑法の犯罪構成を理解し︑その結果︑『犯罪構成要件+社会的危害性論』というこの二重の︑畸形的な犯罪評価規準をもたらし︑そのために社会的危害性理論に対する批判を倍加させる」ことになる︒しかし︑「社会的危害性は犯罪構成要件の解釈理論を指導すべきもので︑決して構成要件の外の第二の犯罪認定規準などではな ﹀32
︿い」のである︒氏にとっては構成要件と社会的危害性の関係は「+」の関係ではなく︑「=」の関係なのである︒したがって︑氏の立場からすると︑社会的危害性は︑前述した陳興良氏とは異なり︑決して「構成要件︵=違法性︶の外側にある第二の犯罪認定の規準ではな ﹀33
︿い」ということになる︒ 中国刑法の犯罪類型には「情状が悪質」とか︑「結果が重大である︑あるいはその他の重大な情状」などといった実体的概念が構成要件化されている規定が散見するが︑「これらは︑法律規範を通じては何が重大であるか解釈不
能であり︑ただ社会的危害性の大小を通じてのみ何が悪質な情状であるかの判断を可能とす ﹀34
︿る」と言う︒この場合の「情状が重大」の「情状」とは︑客観的危害結果だけを意味するのではなく︑主観的悪質さも含まれる︒まさに「主観と客観の統一」としての「情状」であり︑その情状の度合いによって社会的危害性=刑事違法性の度合いが判断されるのである︒ このような氏の︑社会的危害性=刑事違法性=犯罪成立構成要件論の図式を見てくると︑何故︑氏が「実質的解釈へと向かう刑法学」というタイトルの論文をものされたのかも︑容易に諒解されよう︒「法律の実質的理性の形式的理性に対する介入︑形式的法治から実質的法治への転化︑形式と実質の両内容を兼ね具えた現代の罪刑法定原則の興隆と古典的罪刑法定原則の終焉︑形式的犯罪概念の解除︑形式的人権保障から実質的人権保障への犯罪構成要件の功能の新たな方向︑及び大陸法系における構成要件の無価値性から価値判断要素への確立︑こうしたことにより︑犯罪論体系を決定する場合も︑単に純粋に形式的な行為を枠組とするのではなく︑実質的に行為が刑罰を科すに値するかどうかを判断しなければならず︑また犯罪構成要件に対する解釈も単に形式的に行うのではなく︑刑罰法規の妥当性という実質的レベルから行わなければならな ﹀35
︿い」︒これが氏の構成要件論である︒そして︑興味深いのは︑氏が構成 要件論を説くさいに日本の構成要件論にもしばしば言及していることである︒例えば︑次のような紹介を見出すことができる︒ 「︵日本でも│小口補︶近年︑新たな学派の争いとしての“形式的犯罪論”と“実質的犯罪論”の対立がある︒構成要件の独立機能を承認し︑社会の一般観念を基礎として︑構成要件を類型的に把握する犯罪論のことを︑通常︑形式的犯罪論と称する︒形式的犯罪論者は︑犯罪構成要件に対して形式的解釈を施し︑構成要件の解釈においては︑処罰の必要性又は合理性の実質的判断を下す前に︑通常の判断能力を具えた一般人がこうした結論を下すことができるかどうかという角度から出発して︑形式的判断をなすべきであると主張する︒これに対して︑実質的犯罪論者は︑形式上の罪刑法定原則を強調するのでは不十分であり︑構成要件符合性の判断は︑処罰に値する法益侵害に到達しているかどうかを実質的に判定すべきであると考える︒実質的犯罪論者の主張によれば︑刑法中の犯罪構成要件の判断は︑不可避的に実質的内容を含み︑すなわちある行為が犯罪を構成するかどうかは︑処罰の必要性と合理性の角度から判断し︑したがって刑罰法規と構成要件の解釈については︑こうした実質的角度からなされなければならないということになる︒要するに︑実質的犯罪論者が主張するものは︑実質的な刑法解釈であ ﹀36
︿る」︒因みに︑ここで紹介されてい
る形式的犯罪論者は大谷実氏で︑実質的犯罪論者は前田雅英氏である︒そして︑上記の劉氏の実質的構成要件論からすると︑前田説に親近感を持つことになろ ﹀37
︿う︒ 以上が︑劉氏の犯罪概念論及び犯罪構成要件論の概要である︒そして︑立法論は別として︑現行法の枠組を前提とする限り︑社会的危害性と刑事違法性の関係︑及び犯罪構成要件論と社会的危害性及び刑事違法性の関係について︑劉氏の議論はきわめて整合的であるように思われる︒筆者が劉氏を特に注目してとりあげた所以である︒ ところが︑以上のような筆者の理解からして︑一見説明しがたく見えるのが氏の以下の二つの言明である︒その一つは︑「これを要するに︑形式的︑定型的犯罪論体系を前提とし︑実質的可罰性を内容とする犯罪論体系を構築しなければならな ﹀38
︿い」という言明であり︑もう一つは︑︵氏が社会的危害性と刑事違法性を等号の関係で捉えながら︶「二者︵=社会的危害性と刑事違法性︶の関係においては︑社会的危害性が第一位を占め︑基礎をなす︒刑事違法性は第二位であり︑行為の社会的危害性のうえに打ち立てられたものであ ﹀39
︿る」という言明である︒ まず︑「形式的︑定型的犯罪論体系を前提と」するとは一体どういうことなのか︒それは氏の実質的犯罪論体系と矛盾しないのか︒こうした言明の背景には︑やはり︑新刑法が罪刑法定原則を採用したことと密接な関係があると言 わざるを得ない︒つまり︑いかに実質的構成要件論︑犯罪論を展開しようとも︑それはあくまでも「形式的︑定型的」な法律規定に該当しない限り︑罪に問うことはできないという罪刑法定原則の枠内での議論であるということであろう︒事実︑この命題が説かれているのは︑罪刑法定原則︑人権保障の議論の文脈の中で語られているのである︒ 氏は︑刑法三条について以下のような説明をなしている︒「わが国の刑法三条は︑『法律が明文で犯罪行為として規定しているものは︑法律によって犯罪を認定し︑刑罰に処す︒法律が犯罪行為として明文で規定していないものは︑犯罪を認定し刑罰を科してはならない』と規定している︒これを中国と西洋の罪刑法定原則の対比でいえば︑後者︵=西洋│小口補︶のそれは︑“法に明文の規定がなければ罪とせず︑刑を科さない”ということであり︑前者︵=中国│小口補︶のそれは︑“法に明文の規定あるものは罪となし刑を科す︒法に明文の規定のないものは罪となさず︑刑を科さない”というものである︒後者︵原文は前者とあるが︑誤記か│小口︶はもっぱら“法律なければ罪なし刑なし”のみを強調する︒それは入罪禁止機能︵罪にしてはならない機能︶を体現し︑したがってまた出罪原則︵無罪原則︶とも称される︒前者︵原文は後者とあるが︑誤記か│小口︶は逆に︑まず“法あれば罪となし刑を科す”を強調し︑しかる後に“法律なければ罪なし刑なし”
とする︒それは出罪禁止機能︵無罪にしてはならない機能︶を体現し︑したがってまた入罪原則︵有罪原則︶とも称される︒わが国の刑法の罪刑法定は︑刑法の社会保護機能を第一義的価値となし︑罪刑法定原則自身が本来有していた人権保障機能は後景に退き︑僅かに社会保護機能の付随物となっ ﹀40
︿た」︒ しかし︑劉氏は︑こうした中国刑法上の罪刑法定原則規定に与しない︒「わが国の刑法の罪刑法定が西洋の古典的罪刑法定原則の意味に違背していることは︑単に人権保障機能を失わせるだけでなく︑出罪禁止︵無罪禁止︶という社会保護機能を添加させることになった︒その背後には︑国家刑罰権の制限という本来の意味での罪刑法定ではなく︑立法者の国家刑罰権に対する擁護ということが深刻に体現されており︑それはまさしく︑法治時代の個人本位︑権利本位の思想ではなく︑国家本位︑権力本位の思想を体現したものであ ﹀41
︿る」︒氏が︑現行刑法三条を前提としつつも︑なお個人本位︑権利本位の立場を貫こうとすれば︑まず「形式的︑定型的な犯罪論体系」を採ることから出発しなければならないであろう︒当然︑入罪禁止機能=出罪原則として︑この「形式的︑定型的な犯罪論体系」が強く働くはずである︒ そのように解することができるならば︑氏の実質的犯罪論体系が作用するのは︑実は︑出罪禁止機能=有罪原則の 領域においてであるといわざるを得ない︒「劉氏は比較的典型的な形式主義的罪刑法定原則の『内核』を堅持しており︑『入罪論』上の形式主義の立場と『出罪論』上の実質主義立場を堅持してい ﹀42
︿る」との指摘に筆者も同意する︒劉氏の言をもう少し見てみよう︒ 「わが国の“法に明文の規定があれば即ち罪となし刑を科す”という︑出罪禁止の罪刑法定に対しては︑明らかに以下のことを問わなければならない︒すなわち︑ほんとうに刑法に規定があれば必ず処罰しなければならないのか︒法定の罪と刑罰が実質的に理にかなっているか︒個別的︑具体的正義は抽象的︑一般的正義に席を譲らなければならないのか︒形式的正義によって実質的非正義を覆い隠すことができるのか︒こうした問題に対する答えは以下のとおりである︒我々は︑“法律に明文でもって犯罪行為として規定している”との形式の背後に目をやり︑可能な限り刑法の構成要件を実質合理的に解釈し︑法に明文の規定があっても︑規定自身が十分には合理的ではない構成要件については︑実質的刑法解釈を通じてその適用を限定化し︑刑法による処罰の範囲の合理化を実現し︑処罰すべきでない行為を刑法の圏外へと除去し︑それによって罪刑法定の人権保障機能を十分に実現しなければならな ﹀43
︿い」︒氏の第二の言明︑すなわち社会的危害性を第一位に︑刑事違法性を第二位とするとの言明はこの意味のものである︒「法に
明文の規定があっても」「実質的刑法解釈を通じてその適用を限定化」する︑その「限定化」を決定づけるのは社会的危害性の度合いである︒これが︑氏の第二の言明︑すなわち社会的危害性を第一位に︑刑事違法性を第二位とするとの言明の意味であろう︒ このように見てくると︑氏の犯罪論は︑実は︑入罪禁止機能だけでなく︑出罪禁止機能部分についても︑日本流の犯罪論体系︑すなわち段階的犯罪論体系に限りなく近づいていると言わなければならない︒先に︑刑事違法性︵形式的︑定型的規準︶↓法益侵害︵実質的規準︶↓可罰性︵実質的規準︶という段階論をとる陳興良氏の理論を紹介したが︑この陳氏の理論と劉氏の理論は紙一重の差しかない︒劉氏は︑刑事違法性は形式と実質の統一であると言うが︑ミクロ的にその思考過程を分析すれば︑「明文の規定」をまず発見し︑当該事件における社会的危害性の度合いを勘案しながら︑「実質的刑法解釈を通じてその適用を限定化」するという段階的思考過程をとっているのである︒実際︑氏の以下のような議論は段階論を窺わせるものである︒「わが国の犯罪構成の四要件は︑形式的要件と実質的要件の統一であり︑事実評価と価値評価の統一である︒しかし︑具体的に四要件中の各要件を確定するとき︑それは決していちどきになされるのではなく︑先後の問題がある︒一般的にいえば︑先に事実の存在を確定し︑その後に 事実の各要素︑例えば行為︑行為者等をめぐって別々に考察し︑そのさいの考察は︑価値評価を内容とす ﹀44
︿る」︒犯罪構成の各要件︑すなわち客体︑客観︑主体︑主観の各要件について︑それぞれ事実↓価値評価の認識過程を経ながら︑しかし︑一体的︑統一的に刑法上の各違法性=社会的危害性の有無を判断するというものである︒ 以上の考察の限りでは︑劉氏の実質的構成要件論も大陸法系の形式的構成要件論も結論においては差異がないように見える︒しかし︑ほんとうに差異はないのであろうか︒以下︑そのことを検討しておきたい︒ 劉氏は︑「中国刑法中の刑事違法性は⁝⁝主観と客観の統一である」と説くが︑このことは︑客観面の要件の欠を主観面によって補うという︑あの「耦合」論的意味での有機的一体的把握をも含むのであろうか︒劉氏は︑日本刑法二五二条の横領罪と中国刑法二七〇条の横領罪﹇侵占罪﹈を比較して︑日本刑法では︑横領行為が発生しさえすれば︑横領額の多寡︑情状の重大性如何にかかわらず犯罪を構成するのに対して︑中国刑法では︑「額が比較的多額」「額が巨額又はその他の重大な情状」といった実質的要件が課されていることによって︑横領罪の適用が限定されるとして︑形式的構成要件に対する実質的構成要件の︑「実質的人権保障」の見地からの優位を説 ﹀45
︿くのであるが︑では︑逆に︑横領の額=客観面は規準に満たないが︑主観面
の情状がきわめて悪質である場合をどのように判断するのか︒こうしたケースについて︑劉氏がどう考えているか︑不明である︒ 疑問の第二は︑刑法三条の罪刑法定原則中の入罪禁止機能︵出罪=無罪原則︶に関してである︒筆者は︑“法律なければ刑罰なし”という入罪禁止機能の働く場においてこそ︑「形式的︑定型的な犯罪論体系」が前提となると︑劉氏の議論を理解した︒しかし︑中国刑法の犯罪類型は必ずしも「形式的︑定型的な」規準からなっているわけではない︒中国刑法では︑多くの条文において︑日本刑法で言うところの犯罪構成要件の中に︑形式的判断に馴染まない実質的要件が組み込まれている︒「重大な結果」とか「情状が重大」「重大な損失」といった文言がそれである︒したがって︑中国刑法では︑「形式的︑定型的な犯罪論体系」が機能する領域はきわめて少ないのである︒それは︑社会的危害性という実体的概念をそのまま犯罪類型に組み込んだことに起因する︒この社会的危害性概念を犯罪概念及び犯罪構成要件論から放擲しない限り︑「形式的︑定型的な犯罪論体系」は成立し得ない︒ このことは︑さらに︑第三の問題として︑罪刑法定原則の柱の一つをなす明確性原則が中国刑法においては存立し得ぬことをも意味する︒劉氏がその犯罪概念及び犯罪構成要件論において社会的危害性を中核に据える限り︑このデ イレンマから免れことはできない︒
疑問の第四は︑劉氏によれば︑実質的構成要件論こそが︑法の限定的適用を可能にするとのことであるが︑ほんとうにそうであろうかということである︒これは中国の某教授の言として巷間に伝えられている寓話であるが︑張明楷教授が無罪といえば絶対に無罪で︑陳興良教授が有罪といえば絶対に有罪であるという︒張教授は実質的構成要件論の代表的論者であり︑陳教授は形式的構成要件論の唱道者である︒果たして︑劉氏の実質的構成要件論が法の限定的適用に資するものであろうか︒
結 語
中国刑法一三条は犯罪概念を実定化しているが︑そこでの社会的危害性︑刑事違法性については︑刑事違法性「と」社会的危害性の二つの特徴が犯罪を成立させる要件であり︑このうち刑事違法性とは刑法の規定に触れることであるというのが︑通説的理解である︒この通説の説明は︑刑事違法性は大陸法系の構成要件に相当し︑社会的危害性を実質的違法性に比定する︵その結果︑一三条からは有責性の問題が出てこない︶という誤解を生じさせやすい︒また︑社会的危害性「と」刑事違法性とを対置させることにより︑実質的概念としての社会的危害性と形式的概
念としての刑事違法性の対立という構図を内在化させざるを得ない︒こうした対立的構図を克服すべく︑その整合化を目指したのが劉艶紅氏の議論であり︑同氏は刑事違法性概念を実質化することにより︑その矛盾を克服しようとした︒ また︑中国刑法学界では︑犯罪概念と犯罪構成要件の関係についても︑従来︑両者の有機的関連づけがはかられてこなかった︒劉氏は︑この点についても︑実質化した刑事違法性の中に客観面だけでなく主観面をも含めることにより︑客体︑客観︑主体︑主観の犯罪構成要件と刑事違法性を等号化した︒ 現行刑法の犯罪概念を前提として犯罪論を構築しようとすれば︑結局︑刑事違法性及び犯罪構成要件を実質化するほかない︒何故なら︑中国刑法の犯罪概念は社会的危害性という実体概念を中核にしているからである︒しかし︑この社会的危害性を中核として理論構成する限り︑刑事違法性︑構成要件論は社会的危害性によって定型化は阻まれる︒他方︑中国新刑法と旧刑法の決定的差異は新刑法が三条で罪刑法定原則を採用した点にある︒罪刑法定原則を採用した以上︑刑事違法性︑犯罪構成要件の定型化が不可欠である︒そうなると︑劉氏の刑事違法性︑犯罪構成要件論の実質化論と定型化とは矛盾する︒その矛盾を解消しようとすれば︑この実質化論を犯罪の「出罪禁止機能」︵無罪 にしてはならない機能︶︑すなわち入罪原則に限定せざるを得ない︒それはほとんど日本刑法でいう可罰的違法性論に近くなる︒ところで︑この入罪原則は︑“法律なければ刑罰なし”だけが罪刑法定原則の内容をなすとの立場からすると︑劉氏の実質的犯罪論は︑実は︑本来は罪刑法定原則とは無縁の領域でのみ機能するという奇妙な結果となる︒ しかし︑では︑「入罪禁止機能」︑つまり本来の罪刑法定原則部分については︑刑事違法性︑構成要件の定型化は確保されるのか︒この確保は困難であると言わなければならない︒何故なら︑中国刑法各則の非常に多くの犯罪類型は︑「情状重大」「重大な損失」といった︑客観化に馴染まない実体概念を構成要件化しているからである︒中国刑法が社会的危害性を犯罪概念の中核に据える限り︑このディレンマは解消されない︒
注︿
一〇年四期︑一二〇 1﹀陳興良「犯罪論体系的位階性研究」『法学研究』二〇
︿ −一二一頁︒ 年︒ 材『刑法学』北京大学出版社・高等教育出版社︑二〇〇〇 2﹀高銘暄・馬克昌主編全国高等学校法学専業核心課程教
︿
︿ 八年︑一四二頁︒ る」大塚仁『刑法概説︵総論︶』第四版︑有斐閣︑二〇〇 る︒たとえば︑逃走罪︑多衆不解散罪︑重婚罪などであ を欠く犯罪はないが︑行為の客体のない犯罪は認められ 護の客体︑すなわち法益とは一致しない︒⁝⁝保護の客体 3﹀「行為の客体は︑必ずしも当該の構成要件における保
︿ 4﹀曽根威彦『刑法総論』弘文堂︑一九八七年︑七頁︒
︿ 出版社︑一九九七年︑一六頁︒ 5﹀胡康成・李福成主編『中華人民共和国刑法釈義』法律
︿ 年︑一〇〇頁︒ 6﹀『中国新刑法釈論与罪案』中国方正出版社︑一九九八
︿ 社︑二〇〇三年︑四三頁︒ 7﹀『陳興良刑法教科書之規範刑法学』中国政法大学出版
︿ る」︵一一一頁︶︒ 用語でもって刑法学中の形式と実質の関係が語られてい て」︵同︶いる︒「形式と実質の統一という曖昧模糊とした て犯罪の実質内容の形式的特徴に対する優位性を堅持し 式的特徴と実質的特徴の統一を主張するが︑なお依然とし た」︵一〇〇頁︶︒「犯罪の混合概念においては︑犯罪の形 状況のもとで︑犯罪の混合概念は存在の合理性を獲得し ている︒社会的危害性がわが国で正統的地位を占めている 参照︒「犯罪の混合概念はわが国の刑法学界の通説となっ 討」『法学研究』二〇〇八年六期での以下のような指摘を 8﹀別の論文「形式与実質的関係││刑法学的反思性検
9﹀こうした理解がこれまでの通説的理解であるが︑これ ︿ 入らない︒ り︑そうなると議論は複雑となってくるが︑本稿では立ち を可罰的違法性概念によって説明しようとする議論もあ
︿ 七年︒ 10﹀趙秉志編『新刑法全書』人民公安大学出版社︑一九九 11﹀同書︑二六〇
︿ −二六一頁︒ 12﹀前掲注︿
︿ 2﹀書︑四八頁︒ 13﹀前掲注︿
7﹀書︑四四
︿ −四六頁︒
︿ 14﹀同書︑四五頁︒
︿ 15﹀山口厚『刑法総論』有斐閣︑二〇〇一年︑二三頁︒ 16﹀曽根威彦︑前掲注︿
︿ 4﹀書︑五九頁︒
︿ 三巻︑二〇〇三年︑一頁︒ 17﹀阮斉林「評特拉伊寧的犯罪構成論」『刑事法評論』一
︿ 的堅持」『中国法学』二〇〇九年二期︑六頁︒ 18﹀「論四要件犯罪構成理論的合理性曁対中国刑法学体系 19﹀前掲注︿
︿ 2﹀書︑五五頁︒
︿ 20﹀同書︑六四頁︒
︿ 21﹀同書︑八七頁︒
︿ 22﹀同書︑一〇六頁︒
︿ 典』第五版︑商務印書館︒ 23﹀中国社会科学院語言研究所詞典編輯室編『現代漢語詞
︿ 〇六年一期︑四五頁︒ 24﹀黎宏「我国犯罪構成体系不必重構」『法学研究』二〇 期︑一二〇 25﹀「犯罪論体系的位階性研究」『法学研究』二〇一〇年四
−一二一頁︒
︿ 26﹀前掲注︿
︿ 2﹀書︑五二頁︒
︿ 五年︑一八六頁︒ 27﹀『中国刑法解釈︵上巻︶』中国社会科学出版社︑二〇〇
︿ 28﹀同書︑一八七頁︒
︿ 二〇一〇年︑一二四頁︒ 29﹀「実質的犯罪論体系之提唱」『政法論壇』二八巻四期︑
︿ 六巻四期︑二〇〇八年︑一五三頁︒ 30﹀「犯罪構成要件││形式抑或実質類型」『政法論壇』二 31﹀前掲注︿
︿ 27﹀書︑一八六頁︒ 32﹀前掲注︿
︿ 30﹀論文︑一二九頁︒
︿ 33﹀同書︒ 34﹀前掲注︿
︿ 27﹀書︑一八六頁︒
︿ 期︑一七七頁︒ 35﹀「走向実質解釈的刑法学」『中国法学』二〇〇六年五 36﹀同書︑一七六
︿ −一七七頁︒ 大学出版会︑一九八八年︑一〇七 件該当性が判断されざるを得ない」『刑法総論講義』東京 ことを意味する︒⁝⁝結局①②の実質的考慮により構成要 して︑処罰に値する違法性が存在し責任避難が可能である ⁝⁝つまり『構成要件に該当する』ということは︑原則と こと︒①の要件が違法性であり︑②の要件が責任である︒ すること︑②行為者に︑その行為につき非難が可能である たす行為と考えられる︒①処罰に値するだけの害悪の存在 考察した場合︑犯罪とは︑基本的に以下の二つの要件を満 37﹀因みに︑前田氏は次のように述べている︒「実質的に
−一〇八頁︒ ︿
38﹀前掲注︿
︿ 35﹀論文︑一七七頁︒ 39﹀前掲注︿
︿ 27﹀書︑一八六頁︒
︿ 年︑前言二頁︒ 40﹀『走向実質的刑法解釈』北京大学出版社︑二〇〇九 41﹀同書︑二
︿ の︑社会的危害性重視の理論と矛盾しないだろうか︒ −三頁︒但し︑この個人本位の刑法思想は氏
︿ 険防範」『現代法学』三二巻六期︑二〇一〇年︑一〇八頁︒ 42﹀魏東「論社会危害性理論与実質刑法観的関聯関係与風 43﹀前掲注︿
︿ 40﹀書︑三頁︒
︿ 学』二〇〇一年一〇期︑四六頁︒ 44﹀「晩近我国刑法犯罪構成理論研究中的五大誤区」『法 45﹀前掲注︿
27﹀書︑一八五頁︒