アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とそ の発展 〔2〕
その他のタイトル The Birth and Development of an Automobile Company in the Establishment Stage of American Monopolistic Capitalism 〔2〕
著者 井上 昭一
雑誌名 關西大學商學論集
巻 22
号 5
ページ 431‑467
発行年 1977‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00020991
( 位
1)1アメリカ独占確立期における
自動車企業の生誕とその発展〔
2〕
目 次
はじめに
I
アメリカ自動車工業の成立とその基盤
1.アメリカ自動車工業の成立
2 .アメリカ自動車工業の発展基盤(以上前号)
]I
ジェネラル・モークーズ会社の創立過程
1.中核としてのビュイック自動車会社
井 上 昭 一
2 .持株会社としてのジェネラル・モークーズ会社の設立 3 .銀行シンジケートの支配と経営組織の萌芽(以上本号)
直ジェネラル・モークーズ会社の再編過程
1.シポレー自動車会社の設立とその役割
2.デュボンのジェネラル・モークーズ支配 3 .ジェネラル・モークーズにおける経営組織の確立
1I
ジ ェ ネ ラ ル ・ モ ー タ ー ズ 会 社 の 創 立 過 程
l
. 中 核 と し て の ピ ュ イ ッ ク 自 動 車 会 社
さ て , 馬 車 メ ー カ ー の 所 有 経 営 者
W・ C・デュラントが経営不振に陥って
いたビュイ・ック自動車会社
(BuickMotor Car Co.) の 再 建 に の り だ し ,
資 本 集 中 = 既 存 企 業 の 買 収 と 販 売 組 織 網 の 確 立 と を そ の 経 営 戦 略 と し て , 同
社 を ア メ リ カ 最 大 の 自 動 車 メ ー カ ー に 成 長 さ せ た 過 程 を 辿 っ て み よ う 。 同 社
こそが,
G M創立の際の母胎となったにほかならないからである。
2 (432)アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展C2]
(井上)
すでにみたように,鉄道をはじめ石油,鉄鋼などの主要産業部門では独占 休が誕生し,工業化と都市化に向って前進していたアメリカにおいて, ミシ ガン州デトロイトの鉛管工事用部品メーカーのビュイック ・アント・シャー ウッド会社
(Buick& SherwoodCo.) のパートナーの 1 人デビッド •D·
ビュイック
(DavidD. Buick)が
1900年に,ビュイック製造会社
(Buick Mfg. Co.)を設立した。スコットランドに生れ
(1855), 2歳の時にアメ
リカに渡って来たビュイックは,その時には,従来ドイツのカルテルが独占 的に所有していた磁器と鋳鉄とを接着させる特許をもち,鉛管業者として名
(1)
声を博していた。しかし彼は,鉛管業にうんざりし,ガソリン・エンジンの 修理屋をはじめた。さらに船舶用エンジンの製造から自動車用エンジンの研 究に進み,その結果,間もなく有名になる「バルプ・イン・ヘッド・エンジ
(2)
ン」を開発した。ところが,資金的に涸渇し,当時デトロイトでシート・メ タル,台所ゴミ用容器,自動車部品などの生産に従事していたベンジャミン
(Benjamin)とフランク
(Frank)のプリスコー
(Briscoe)兄弟から原料 購入費などの資金援助をうけるようになった。ペンジャミン・プリスコーは 少年時代に,デトロイトの金物店で会計係をしていた。当時の多くの金物店 はボットや鍋を修理したり,シート・メクルから注文品を作る職人をかかえ ていたが,ベンジャミンは
20歳のときには,自分自身のシート・メタル工場
(3)
を経営するようになっていた。その後,プリスコー兄弟はビュイック社の大 株主ー一資本金
10万ドルのうち
9万
9,700ドル出資,したがって, ビュイッ
クの出資はわずか
300ド ル ー に な り ,
1903年
5月
19日に社名をビュイック 自動車会社
(BuickMotor Car Co.)と変更させて将来のおおいなる発展を 夢みた。ところで,ビュイックはプリスコー兄弟から運転資金として借りた 総額
3,500ドルを返却することによってのみ,ビュイック社の株式を購入す
(1) Lawrence R. Gustin, Billy Dura叫:Creatorof Ge加ralMotors, 1973,p. 56.
(2) Ibid~ p. 57‑58.
(3) A. P. Sloan and Boyden Sparks, Adventures of A White‑Collar Man, 1941, p. 61.
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2] (井上) (
433) 3るオプションをえたが,同兄弟がビュイック社の経営を支配する意図を抱い
(4)
ていたので,これはついに実硯されなかった。
さて,
20世紀初頭のアメリカでは舗装道路はほとんどみられず,修理工場 やガス・ステーションなどの関連諸施設も少なかった。それにもまして致命 的であったのは,自動車の大衆市場が形成されていなかった—自動車は少 数者のスボーツ品ないし趣味品であった一―—ことである。そのためにプリス コー兄弟は持株の維持に困難をおぼえ,翌年の
1月
30日にフリント・ワゴン
・ワークス
(FlintWagon Works)の社長
J.H・ホワイティング
(J.H. Whiting)に全株を 10万、ドルで売却した。フリント・ワゴン社は, フリント
で最大の製材所の
1つを経営していたビゴー)レ,フォックス・アンド・カン パニー
(Begole, Fox & Co.)を中核に,その後W•A ・ペーターソン・
キャリエージ社
(W.A. Paterson's Carriage Co.) や
W・ F・ステュワー ト・キャリエージ車体製造会社
(W.F. Stewart's Carriage Body‑Making Enterprise)などが合同して,
1882年に組織されたものであり, 大馬車製造
(5)
業 者 と し て 発 展 し て い た 。 ブ リ ス コ ー 兄 弟 は そ の 後 , 元 鉄 道 会 社 の 機 械 工 で,当時ブリスコー兄弟のシート・メタル工場の従業員として働いていた
J・マックスウェル
(J.Maxwell)と組んでマックスウニ
9レ・ブリスコー自 動 車 会 社
(Maxwell‑BriscoeMotor Co.)を設立した。
プリスコー兄弟からビュイック社の株式を購入したホワイティングは,元 来保守的な人物であったが,自動車に対する関心はきわめて高く,しかも,
資 金 , 工 場 優 秀 な 機 械 工 な ど を 有 し て お り , 馬 車 事 業 か ら 自 動 車 事 業 へ の
(6)
移行を決心した。彼は自動車を馬車に代るものとみなした最初の人として知 られるが, ビュイック社の資本金を
7万
5,000ドルにしたのち同社をデトロ
、イトからフリントに移して,自分の馬車組立工場でガソリン・エンジンなら びに自動車の生産にとりかかった。最初の数ヵ月の業績は社長のホワイティ
(4) L. R. Gustin, op. cit. p. 59. (5) Ibid, pp. 34‑35.
(6) Ibid. pp. 54‑55.
4 (434)
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展
[2](井上)
ングを満足させるものであったが,やがてビュイック社は銀行などに大きな 負債をかかえるようになった。しかも債権者が自動車よりも定置式農業用エ ンジンを製造するように要求したことに加えて,セルデン特許をもつ「特許 自動車製造業者協会」がビュイック社に自動車の製造を認めない方針を打ち 出したこともあって,ホワイティングは同じフリントの同業者の
W・ C・デ
(7)
ュラン`卜に救済を依頼せざををえなくなった。
元ミシガン州知事(母方)の孫であるデュラントー一母にとっては「ウィ リー」
(Willie),娘にとっては「とうちゃん」
(Pops),少数の親友にとって は「ビリー」
(Billy),そしてフリントの労働者にとっては「あの人」
(the(8)
Man)
一ーは, 「転石」
(rollingstone)とか「よろず屋」
(ajack of many trades)などといわれたように,食糧雑貨店,製粉工場,特許薬専門の薬 局,材木商,葉巻会社,保険代理店,不動産業,建築業,水道会社,ガス会 社,電灯会社,ローラー・スケーティング・リンクなどの外交員,経理係あ るいは経営者として転々としつつ販売と財務の経験を積んだ後に,デュラン ト・ドート馬車製造会社
(Durant‑DortCarriage Co.)を成功的に経営し
(9)
ていた。同社は
1893年
9月
9日,授権資本金
15万ドルで設立されたフリント
・ロード・カート社
(FlintRoad Cart Co.)が
1895年1
1月
6日に名称変更
(IO)
されたものであった。当時デュラントは,馬車事業が順調に推移していたが ゆえに,かえって同事業に対する興味を失いかけており,パートナーのダラ ス・ドートに経営を委ねて自分はニューヨークの株式市場に入りびたりであ った。しかしながら,一方ではデュラント・ドート社を中軸にして全米中の 大馬車メーカーを統合する構想をももっていた。ただし,この計画は,他の
(7) Ibid., p. 64.
尚,セルデン特許に関しては,
WilliamGreenleaf, Monopoly On Wheels, 1961に詳しい。
(8)
L . R
. Gustin, bp. cit, p. 86.(9)
Cf.B .
C. Forbes and 0.D .
Foster, Automotive Giants of America: Men Who Are Making our Motor Industry, 1926, pp. 50‑51, L. R. Gustin, op. cit, pp. 18, 34‑36.(10)
L . R
. Gustin, op. cit, p. 41.アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2〕 (井上) (
435) 5(11)
メーカーが自分の事業を遂行することに固執したために流産したが。
さて,ホワイティングからビュイック社の再建を要請されたデュラントで はあったが,彼は当初,まったく自動車に関心を示さなかった。そのことを 立証するように,彼の娘は次のように述べている。すなわちデュラントは,
自分の娘が学友の家にある自動車
(Panhard)に乗せてもらうことすら危険
(12)
であると戒めたと。まして自分で自動車会社を経営することになるなどとは 夢想だにしなかったにちがいない。彼にとっては,自動車はやかましく危険 であり,交通を混乱させ,馬を驚かし,そして悪臭を放つ装置にすぎなかっ
(13)
た。ところが,次に述べるいくつかの理由によって,皮肉にも,デュラント は嫌悪していた自動車の企業経営に従事することになるのである。 1 ) ある 日,懇意にしていたハーバート・ヒル博士の誘いでビュイック車でドライフ?
に行ったが,快適であったこと,/
2)ビュイック車の造作が気にいったこと,
3)
ビュイックのバルプ・イン・ヘッドエンジンの性能がよく,悪路をものと もしなかったこと,
4)ビュイック車が人々の注目を集めたこと,
5)ビュイッ ク車の外観がよかったこと, 6 )フリントの有力者たちがデュラントに援助の 手を差しのべる意向であったこと, 7 )ビュイック社の株主たちがデュラント が経営することに同意したこと, 8 )デュラント・ドート社がビュイック車を
(14)
組立てるための遊休工場をもっていたことなど。かくしてデュラントは,・馬 車事業にたいする自動車の港在的影響力を洞察し,さらにその企業的可能性 に注目して,ビュイック社での絶対的な支配権が与えられることを条件に,
1904
年
11月
1日にビュイック社の経営を受け継いだ。しかし,自らは社長に 就任せず,社長[こチャールス• M ・ビゴール
(CharlesM.
Begole)を,そ
して副社長にジョージ •L• ウォーカーを任命した。
当時,ビュイック社は
40万ドル余の負債をかかえていたが,馬車事業で示
(11) Ibid, p. 56.(12). Margery Durant, My Father, 1929, p. 9. (13) L. R. Gustin, op. cit. p. 49.
014) Ibid, pp. 67‑69.
6 (436)
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展[
2〕 (井上)
したデュラントの業績に対する評価は高く,同様な経営手腕を自動車事業に おいても発揮することを切望する債権者たちから「返済期限の猶予」のみな
(15)
らず「新しい信用の獲得」にも成功した。同社の授権資本はただちに 7 万
5,000ドルから
30万ドルヘ,そして
11月
19日には
50万ドル(全額普通株)に増 資されたが,その際に
30万
3,800ドルが発起サービスにたいする報酬として プロモークーに与えられることになり,デュラントはそのうち
20万
2,000ド
(16)
ル(全発行株の
40.4%)をうけとった。
デュラントは,ビュイック車の基本モデルの作製,すぐれた小型ガソリン
・エンジンの開発,大衆用の低価格で信頼性のある自動車の製造,資本集中 の常套手段たる既存の組立工場や部品工場の吸収合併計画を推進した。その うえ,市場の独占化をめざして全国的なディーラー組織(全米最大のディー ラーを含めて
100ディーラー)の確立に努力するとともに,すでに自動車工
(17)
業で実施されていた預金制度や硯金販売制度をも導入した。それらの結果,
1904
年にはわずか
28台の自動車を生産したにすぎなかったピュイック社は,
1905
年 に は
673台 ,
1906年には
2,295台 を 生 産 し て , ア メ リ カ 最 大 の メ ー カ ー,キャディラック自動車会社
(CadillacMotor Car Co.)の
4,045台に次 いで第 2 位を占めた。しかも,デュラントが管理する前の累積された
41万
2,865ドルの債務は完済されたばかりではなく,およそ
200万ドルの売上高に たいして
40万ドルの純益(売上利益率
20%)をあげるまでになった。翌
1907年は恐慌の年であったにもかかわらず,ビュイック社は
3,848台(フォード
8,759台,キャディラック
2,867台)を生産し,さらに
90万ドルになっていた
(15) L.H .
Seltzer, A Financial History of the American Automobile Industry, 1928, pp.146‑147.
(16)‑cf. B. C. Forbes and 0. D. Foster, op. cit., p. 50, L.
H .
Seltzer, op. cit~ p.149, E. D. Kennedy, The Automobile Industry, 1972(reprint), pp.28-~9. なお, L.,
R. Gustin, op. cit~ p. 70によれば,デュラントは報酬とし て
32万
5000ドルを得たが,そのうち
10万
1000ドルをホワイティングに, そして
2万
2000ドルを社長のビゴールに与えたとなっている。いずれにせよ, デュラ ント個人が
20万
2000ドルを得たことには変りがない。
(17) cf. J. J. Flink, The ̲Car Culture, 1975. p. 49.
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2〕 (井上) (
437) 7授権資本を
200万ドルヘ引上げるとともに,
25万ドルの株式配当を発表する
(18)
までに成長した。
ところで,エジプトに発生し,日本,ドイツ,チリにまで波及した
1907年恐 慌のアメリカにたいする影響は,ニューヨークのニッカーボッカー信託会社
(Knickerbocker Trust Co.)がとりつけを防ぐために,
10月
22日にその扉
(19)
を閉じたことからはじまった。ニッカーポッカー社は近代的な銀行で 5 番街
34丁目に本店を置き,
2つの支店をもっていた。同社は
1万
8,000名 の 預 金 者と
6,500万ドルの預金額を誇っていた。多くの投機会社が倒産したし, ァ メリカのどの銀行も,・事実上,支払停止を行なった。破産銀行数は
132行 , 負債総額は
2億
3,300万ドルにも達した。そのために,アメリカ政府は救済 にのりだしてニューヨークの諸銀行に
3,600万ドルの融資を行なったが, そ のうちの
72%に相当する
2,600万ドルはモルガン系の銀行に集中された。そ してモルガン商会は,その資金を基礎にして多数の企業を集中し,ますます
(20)
金融上の支配力を増大させていったのである。まさにモルガンにとっては,
(21)
恐慌の年
1907年は「勝利の年」であった。
.H
・フォークナー
(HaroldU. Faulkner)は , この恐慌の根本的・直接 的な原因は向うみずで,無節操な金融業者による過度の設備拡張や投機であ ったが,政府や大資本家たちが恐慌の全般化の予防に努力したために,それ はほとんど「都市にかぎられ」,その影響はひろがらなかった。したがって,
(22)
この恐慌は「金持ちの恐慌」であると主張している。しかしながら,それは
(18) L.H .
Seltzer, op. cit~ pp.149‑150.(19) Marquis and Bessie James, Biography of Bank, 1954.
〔三和銀行国際経 済研究会訳「バンク・オプ・アメリカ」東洋経済新報社,
1956年 ,
46‑47ペー
ジ
J(20) E
・ヴァルガ著,永住道雄訳「世界経済恐慌史」第
2部第
1巻 , 慶応書房,
1937
年 ,
280ページ。
(21) A. Rochester, Rulers of America, 1936, p・. 37.
〔立井海洋訳「アメリカ の支配者」三一書房,
1953年,(上巻)
56ページ
J。
(22)
H.
Faulkner, American Economic History,, 1954 (8th ed.).〔小原敬士
訳「アメリカ経済史」至誠堂,
1969年,(下巻)
683684ページ〕
8 (438)アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展(2J
( 井 上 ) きわめて一面的な見方であると:思われる。たしかに,
A.J. y・ブラウン
(23)
も指摘するように,この恐慌は「独占休の崩壊に端を発した投機恐慌」であ るにせよ;また,アメリカ経済の全面的な崩壊は,信用と秩序の回復措置を
(24)
講じた
J.p・モルガンの金融主導力によってくいとめられたとはいうもの の ,
E・ヴァルガの分析調査によれば,この恐慌が金融機関以外の諸産業や
. (25)
労働者に与えた影響は,次のようにまことに深刻であったのである。すなわ ち ,
1907年から翌年にかけて石炭産出高は1
3.4彩,銑鉄生産高は38.2% ,鉄 鋼生産高に関しては40 彩とそれぞれ低落したし,そのうえ失業者については これを激増させた。例えば,鉄鋼トラストは使用労働者をほぼ半分に減らし たし,ピッツバーグ地方の製鉄所や炭坑は労働者を40 60 %に減じた。貨物
・旅客の輸送高減少の結果,数千人の鉄道労働者や従業員が解薦された。さ らに商業従業員や一般サラリーマンにたいしても著しい打撃を与え,
1907年 末には失業者はニューヨーク 25万人,シカゴ14 万人で,恐慌時における失業 者総数は300 400 万人に達したのである。
みたように,
1907年の恐慌は自動車工業以外の産業部門にたいしても大き な影響を与えたが,ビュイック社はデュラントの管理下に生産の拡張,製品 の多様化をはかり,販売網の充実をめざすことによって恐慌にも耐え,むし ろ,本格的に自動車事業に手をそめてからわずか
3年後の
1908年にはアメリ カ最大の自動車メーカーに成長し,
2位のフォード社の6
,181台 ,
3位 の キャディラック社の2,380 台を大幅に上回る
8,820台(市場占拠率13.3% )の自 動車を生産した。•この間の事情を今少し詳細に述べると,次のとおりであ る。すなわち恐慌期にあってデュラントは,部品メーカーの支払をごまか し,信用をひきのばしながらビュイック社の総力をあげて自動車を生産し,
"(23) A. J. Youngsome Brown, The Amダ 如inEconomy 1860‑1940, 1951.
〔渡辺誠毅訳「アメリカ資本主義発達史」みすず書房,
1952年 ,
216ページ〕
(24) 1907
年恐慌にたいして,モルガンがとった行動については,
EdwinP. Hoyt, The House ̲of Morgan, 1969, pp.297‑307に産業別,日時別に描写されていて 詳しい。
(25)" E
・ヴァルガ,前掲訳,第2 部第
1巻 ,
281286ページ。
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2〕 (井上) (
439) 9屋内外を問わず在庫の山を築いた。そして短期に終った恐慌が去り,人々が 自動車を求めて市場に戻ってきたとき,ビュイック社は手もとに自動車を有 する唯一のメーカーになっていた。とくに,
900ドルのモデル
10型 は 運 転 し 易いうえに,アセチレン式ヘッドライトやバルプホーンを装着して人気が高 く,同社は,デュラント・ドート社の販売組織をビュイック車の販売組織の 中核として利用することによって,同車を全米でもっとも広範に行きわたっ
(26)
た車にしたてあげたのであった。その結果,およそ
750万ドルの売上高と
170万ドルの純益(売上利益率
22.7%)を計上してその地位を不動のものにし,
いっそうの市場支配と利潤蓄積をめざす体制を整えたのであった。
2
持 株 会 社 と し て の ジ ェ ネ ラ ル ・ モ ー タ ー ズ 会 社 の 設 立
デュラントは,ビュイック自動車会社における成功を基礎にして,当時の 4 大自動車会社の合同を企図したが,果たせなかった。その後彼は,諸企業 を「株式の交換」を主要手段として衝動的に吸収することによって
G Mを組
(1)
織したが,その買収には一貫性がみられず,
G Mは,いわば「消化不良」を おこした。しかも,買収後においても
G M全体を管理・統制する経営組織の 形成に努力を払わず,彼の第
1回目の退陣につながる。ここでは,まずデュ ラントによる
G Mの設立過程をみ,次にデュラントの経営方針とフォードの それとを比較検討してみよう。
1908
年のアメリカにおける乗用車の総生産台数は,わずかに 6 万
3,500台 であったにもかかわらず,ビュイック社での成功から自動車の将来性を確信 したデュラントにとっては,きたるべき大市場に備えて組立工場等の生産設 備や全国的な販売組織を拡充する必要があった。対抗企業フォード社のヘン リー・フォードが現有プラントの自己膨張の過程で拡大してきた垂直的統合
(26) L. R. Gustin, op. cit, pp. 85‑93.
(1) Robert F. Lanzillotti, The Automobile Industry, in Walter Adams(ed.), The Structure of American Industry, 1961(3rd ed.), P. 318.
10(440)
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2J(井上)
トラスト化ー一→フォード社は「原料から完成品まで一貫生産」
FromMine To Finished Car, One Organizationをモットーに経営されていた。その 方針に沿って同社は鉄鉱石,石炭,鉛などの鉱山を有し,製鉄,ガラスおよ ぴ繊維工場を経営し,さらに鉄道ならびに船舶の輸送手段をも所有していた が,これらはすべて集積,つまり利潤の再投資からもたらされた内部的発展 の産物である一ーを狙ったのにたいして,ビュイック社のデュラントは独占 組織形成期における固有の生産拡張方式である資本の集中=企業の集中をお しすすめた。すなわち,彼は既存の組立工場を買収(水平的合同)し,拡大 しつつある自社組立工場への供給源を確保するという見地から部品・付属品 メーカーを吸収(垂直的合同)したうえ,配給組織やディーラー組織を買収 してそれらを一つの大きな組織に統合する政策を推進したのである。 「自動
(2)
車工業がパイオニア的段階を通過するにつれ,統合=集中は必然的」であっ た。企業規模の急速かつ確実な拡張と金融力の獲得のためには,資本の集積 による内部的発展よりも集中による外部的発展の方が近道であると同時に,
企業が市場において有利な地位=市場支配力を獲得する主要な方法である が,それを認識し,実践したのがデュラントであった。
デュラントは企業集中をすすめるにあたって,当時のビッグ・フォ—―
ビュイック社,フォード社,マックスウェル・プリスコー社およびレオ社
(Reo Motor Car Co.)一を中核とする一大トラスト化を計画した。この 産業再組織あるいは大規模な結合運動の展開は, 「主要会社を打って一団と し,あたかも鉄鋼業界に於ける
USスチール・トラストの如きー大支配者を
(3)
建設し,その指導の下に業界の諸弊害を刷新しようとした」ところにその推 進的動機をもっていた。マックスウェル・プリスコー社の
B・プリスコーは デュラントの計画に賛同したが,
H・フォードが自分の会社を
300万 ド ル で 売却することに同意したものの全額現金払いに固執し,レオ社の R•E ・オ ールズもフォードと同じ条件を主張したため,金融機関からの援助が得られ
(2) A. P. Sloan and B. Sparks, op. cit, p. 83.
(3),
小島精ー「モルガン王国」日本評論社,
1930年 ,
285ページ。
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2〕 (井上) (
441)11なかったデュラントの現金調達力を越えており,結局,この合同計画は日の
(4)
目をみなかった。 L
• M・ファニングは,「果たして, H ・フォードが自分
(5)
の会社を売却する意思があったかどうか」と疑問を呈しているが,いずれに しても,このトラスト化計画は流産した。同計画の推進派のプリスコーは,
モルガン商会のパートナーであるとともにマックスウェル・プリスコー社の 金融バトロンでもあったジョージ・パーキンス
(GeorgePerkins)の 後 押 しで,デュラントのビュイック社と結合してインクーナショナル自動車会社
(International Motor Car Co.)を設立しようというところまで話を進めた が,これも,モルガンがデュラントと組むことに疑問と不安をもったために
(6)
立消えになった。そしてプリスコーは,デュラントと別の道を歩むことにな る。なお,プリスコーは,
1910年に資本金
3,000万 ド ル の ユ ナ イ テ ッ ド ・ ス テーツ・モーターズ会社
(UnitedStates Motors Corp.)を設立したが,
運転資本の不足により,同社は
1912年に倒産した。その後マックスウェル・
モーター・カー会社
(Maxwell・ Motor Car Co.)として再組織されたが,
1925
年にクライスラー社
(ChryslerCorp.)が創設されたとき,その中核と して参加した。
他方,不本意ながら,資力不足のために大合同計画を諦めざるをえなかっ たデュラントは,
1908年
9月
16日,ニュージャージー州の法人「ジェネラル
・モークーズ会社」
(GeneralMotors Co. of New Jersey)を設立した。
デュラントは創立者であり,実際の事業経営者であったが,自らは副社長に とどまり,ウィリアム•
M・イートン
(WilliamM. Eaton)を 社 長 に 任 命
した。なお,設立発起人としては,余りなじみのないジョージ•
E・ダニエ
ルス
(GeorgeE. Daniels),ベンジャミン・マーキューズ
(BenjaminMar‑cuse)
ならぴにアーサー・プリットン
(ArthurBritton)が 名 を 連 ね て い
(4) cf. Federal Trade Commission, Report on the Motor Vehicle IndusかY,1939, pp. 421‑422, John B. Rae, American Automobile Manufactur釘s, 1959, p. 87, L. R. Gustin, op. cit~ p. 100.
(5) Leonard
M.
Fanning, Men, Money and Automobiles, 1969, p. 24. (6) L. R. Gustin, op. cit~ pp.101‑102.12(442)
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展
(2J(井上)
(7) .
た。当初,
G Mの資本金はわずか
2,000ドルであったが,
2週 間 後 の 9月
28日には
1,250万ドル(普通株
550万ドル,
7 %利回り優先株
700万 ド ル 。 額 面
(8)
は双方ともに
100ドル)に増資された。
G Mは,そのころアメリカのトラス トの間によくみられた資本集中の新しい形態である持株会社であった。
当時,アメリカの各州はそれぞれ銀行法,保険法などの特別法のほかに一 般会社法を制定していたが, 「トラス トのメッカ」ニュージャージー州では
1889年
5月以来,登記会社を吸引して財政収入を増加する目的で,とくに自 由な会社法を制定したうえ,法人税の引き下げまではかった。州内で事業を 経営しなくても,本社さえあればニュージャージー州の法人として隠めた。
さらに,必要とあれば会社法の改正すらいとわず,持株会社に関しては,ほ とんどフリー・パスの状況であった。持株会社は,
1889年にニュージャージ ー州議会が会社法にたいする修正案を成立させ,掬式会社に他の株式会社の 株式の所有を許可したとき,初めて重要な法的組織形態となった。この法可
tは,グループの企業家に親会社を通じて,比較的少数の投資で,広い地域に 分散する多数の子会社を支配することを可能にさせたものである。すなわち 同州では,一般株式会社に他社株式の取得・保有を認めたうえ,さらに
1893年には「いかなる会社も他の会社一いずれの州で組織されたかを問わず 一の証券を購入い所有することができ,またその所有者たるかぎり一切 の所有権を行使しうる」という規定をつくって,持株会社の設立に大きく道 をひらいたのであった。したがって,新しい立法措置によってニュージャー ジー州では株式会社創設のラッシュが生じ,州政府は多額の法人設立税や租 税収入をとりたてることができた。その結果,他の諸州も自衛上,会社法の 自由化を余儀なくされ,ニュージャージー州よりもいっそう自由な会社法を 制定したのがデラウェア州であった。デラウェア州では持株会社をはじめ,
その他営業上の自由の範囲を拡張して,会社設立登記料さえも軽減するよう
(7) Ibid.,pp. 111‑112.(8) L. H. Seltzer,. op. cit.,p.151.
アメリカ独占確立期における自動車企業の生誕とその発展〔
2〕 (井上) (
443)13(9)
になった。このように,州財政を富ませる目的で会社の自由の範囲を拡大し たことがデュラントをして
G Mカンパニーをニュージャージー州に,そして 後年
(1916年 )
G Mコーポレーションをデラウェア州に設立せしめ・た大きな 要因の一つとなったと考えられよう。まさに持株会社は,巨大企業を建設す るための推進力の役割を果たしたのであった。なお今日,アメリカの大株式 会社が幾千とな<デラウェア州に本社をおいているが,なかにはフォード 社,ベスレヘム・スチール社,アメリカン航空など州との関係といえば,そ こに郵便用の住所があるだけのものもあるという。
.ところで,
G Mは自動車工業における最初の一大合同であり,図体だけは
(10)
急速にふくれあがった。取得企業のなかには「一種の賭博行為に近い」もの があった。組織自体は群小企業の雑然たる「寄合い世帯」にすぎず,全休と しての明確な中央管理機構が確立されていなかった。要するに,各構成会社 が独自に,分散的に経営を遂行していたために,
G Mの経営状態は設立後ま
もなく急速に悪化していくのであるが,この点に関しては後述する。
デュラントが
G Mを組織するに際して,ビュイック社をその中核にしたこ とは既述したところであるが,同社を吸収した内容は,次のとおりである。
G M
は1
908年1
0月
1日に,まず優先株2万3
,870株と普通株
2万1
,935株(い ずれも額面1
00ドル)を発行した。そして,この株式でもって第
1に , ビュ イック社の普通株
1万8
,870株(額面1
00ドル)を取得ーービュイック株
1万
8,870株にたいして
G M優先株
1万8
,870株と
G M普通株9
,435株 , い い か え れば,ビュイック普通株
1株にたいして
GM優先株 1株プラス
GM普 通 株
0.5株の比率で交換ーーし,第
2に ,
50万ドルの現金を獲得し,第
3に,引 受協定にたいする報酬支払いをした。そして同日に,ビュイック社の残余の
(9)これについては,本位田祥男「経営史」日本評論社,
1966年 ,
253256ペー ジ,鎌田正三「アメリカの独占企業」時潮社;
1956年 ,
2526ページ,堀江保 蔵「アメリカ経済史概説」有斐閣,
1937年 ,
285ページ,佐藤定幸「世界の大企 業」岩波新書,
1976年,第二版,
59ページなど参照。
(10) Ernest Dale, The Great Organizers, 1960.