ド ラ ッ カ 一
の 独 占 論
一最近における独占肯定の諸理論 その二f
白
杉
庄
一
郎
︻ P ①P・F・ドラッカーはアメリカ合衆国における制度派経営学の一代表者として著名であるが、彼の著書の多くは必ずし
も固有の経営学の狭い枠のなかに閉じこめらるべきものではなく、より広い経済学的検討に十分たえるだけの内容を含蓄
している。ここでは問題を独占にしぼって、それをめぐる彼の所説を検討してみようと思う。 ②初期の著作について見るに、ドラッカーも現代の独占を初めはシュムペーターと一おそらくはその影響をうけること
なしに一ほぼ同様に見ていたように思われる。すなわち、まず最初の著作﹃経済人の終焉﹄のな加に彼は書いている。
﹁⋮⋮資本主義が経済体制として失敗してきたという議論は、この体制の性質についての大きな無知をしめすばかりでなく、おそら くは誤りである。絶えず増加してゆく財貨量を絶えず低下してゆく価格と間断なく短縮してゆく労働時間とでもって生産する経済体 制として、資本主義は失敗してこなかったばかりでなく、それは最もでたらめな夢想をさえ越えて成功してきた。⋮⋮資本主義体制 の潜在的な経済的将来にかんするかぎり、ヘンリ・フォードは一大量生産独占資本主義の最も善いものの一切と最も悪いものの︻ 切とを体現する現代資本主義のかの老大家は 疑いもなく正しい⋮⋮﹂ ・ここではドラッカーはまた、﹁多くの小単位間の﹃自由競争﹄が産業生産の最も能率的な方法であるとする誤謬﹂
ドラソカーの独占論 一 とドラッカーの独占論 二 ﹁統合された大量生産が最も能率的にして最も低廉な方法であるという全く明白な事実﹂とについて語りつつ、 ﹁大規模
の大量生産は依然として競争の一切の経済的要素を留保するであろうが、社会的にはそれは完全な独占化を意味する﹂な
どともいっている。ここではドラッカーはまた、経済人を基礎とした経済学の崩壊を﹁ヘンリ・フォードが大量生産が最も低廉にして最も
有効な生産形態であることを世界に示した﹂ということに関連させ、 ﹁ヘンリ・フォードが﹃経済法則﹄iそれによれ
ば独占は生産を引下げ価格を引上げるのであるが一についての幸運な無知において、より廉価な価格と、より多量の生
産とにより独占の獲得にのりだしたとぎ、古典経済学の全科学体系は崩壊した﹂などともいっている。旧い経済学の基礎をなしているとされる経済入についてのドラッカーの所説には、なかんずくA・スミスやK・マルク
ゆスが人間を単に経済人と見ていたかのごとくに非難している点において、疑問に思われる所があるが、ここでは問題にし
ないことにする。ここで確かめて、おぎたいと思うのは、ただ、旧い経済学では認められる余地のなかった独占が、その後それでは説明することのできないような力を発揮してくることにより、その旧い誤った経済学を崩壊させるに至ったと見
ることによって、少くとも間接にドラッカーが独占を肯定していると見ることができるという点だけである。 ほぼ同様の見解はドラッカーの第二の著作﹃産業人の将来﹄にも見られる。すなわち同書において彼は、西洋︵アメリカ を含めて︶における産業社会の根本問題を、新しい﹁産業的体制﹂︵言含ω梓ユ巴。・閤8ヨ︶が成立してきているにもかかわら ず、それを包むのは依然として十九世紀的な﹁商業的社会﹂︵ヨ巽。彗旺①8。団¢信︶にほかならないところにあると見るので あるが、この矛盾は経済理論にも見られるとして、つぎのごとく述べている。 ﹁商業的社会の組織と産業的現実との聞の衝突は、商業的経済政策の基礎となっていた経済行動についてのこつの理論、すなわち通 常は自由貿易論として知られている国際分業の理論と、独占の理論とに最も明瞭に現われる。両方とも、生産物の型と数量とが土地の豊度や気候およびその他の人間が制御することのできない諸要因によって多かれ少かれ堅く固定ざれている経済体制を仮定する。 いいかえると両方とも前産業体制︵簿買①山巳口。。鼠巴紹。。8B︶を仮定する。自由貿易は、神によっ.て定められていて入間の手では 変えることのできない分業を基礎とした財の相補的交換である。ポルトガルの葡萄酒にたいするブリテンの毛織物の輸出は、まさし く自由貿易論者の書典的な範例であった。⋮⋮独占の理論も前産業的な仮定のもとでは同様に首尾︻貫する。もし供給が狭い限界内 に固定されていて、そのため需要にかかわりなぐ、それを増加させることが不可能であるならば、その場合には最大の利潤は生産の 削減と最高の価格とによって獲得される。 ︹しかしながら︺我々か商業的社会の仮定に代えるに産業的体制の現実をもってするやい なや、自由貿易と伝統的な独占の理論とは両方とも無意義となる。産業的体制においては生産は量においても質においても一極端 な極限内は別として一変えることのできない自然の諸条件によって固定されてはいない。⋮⋮産業的体制における生産は競争的で あって、相補的ではない。それは変化しつつあって、固定してはいない。こうした条件のもとでの自由貿易は、まだ十分に産業化さ れていない国の偶然的な劣勢を永久的に凍結し、その瞬間に最も完全に産業化されている国に永久的な利益を与える試みとなる。⋮ ⋮独占の商業的理論はなお一層の不条理に帰着せしめられてきた。産業的体制においては生産にたいする技術的な限界はない。しか し需要は無限に弾力的というわけではない。ここからして最も有利な経済的行動は、前産業的体制における限られた供給の状態に適 応せしめられたそれの正反対ということになる。生産の切りさげと価格の吊りあげとの代わりに、最大の生産と最低の価格とが産業 的体制における経済的に最も有利な政策である。たしかにヘンリ・フォードは、旧派の一切の独占者を合わせたよりも多くの金を儲 けた。彼と彼の追随者たちがそうしたのは独占ないし半独占︵。・①ヨ7ヨ。口obo=①ω︶によってであったが、独占ないし半独占は小競争 諸企業のおそらくは可能である以上に能率的であるがゆえに強力なのである。したがって伝統的な旧理論は新しい独占を攻撃しえな いことを知る。けだし、それの一つの論拠は、独占は経済的に非能率的たらざるをえないということであったからである。それは、 現代の大企業株式会社においては、重大なのは能率の問題ではな・くて、政治的な構造と権.力の問題であるとい5ことを、知ることが ⑨ できない。けだし商業的社会は、市場の外にある社会的ならびに政治的な問題をなに一つ知らないからである。﹂
二十世紀の経済祉会を、その内実をなす産業的体制にたいしてではあれ、商業的社会というような概念をもって把握す
るというのは、どヶであろうか。彼のいう商業的社会は、重商主義時代の社会体制からの延長であるように思われる。そ
の.かぎり彼は、産業革命も、そしてその後における産業体制のいかなる変化も、経済的支配体制には何らの変化をももた ドラソカーの独占論 三ドラソカーの独占論 四
らさなかったかのごとくに見る。これは恐ろしく非歴史的な見解といわなければならない。しかし我々がここ盈で関心をもつのは、その点ではなくて、そうした歴史観を背景にもつ彼の独占観だけである。いいかえると、商業的社会と彼の考え
る資本主義の十九世紀的二階に相即する経済理論では何としても容認されがたかった独占が、ご十世紀の産業体制のもと
では重要な社会的機能を遂行していると見、そのような形で現代の独占を肯定している点だけである。 ① 藻利重隆﹃ドラッカー経営学説の研究﹄ ︵一九五九年︶一ニー二頁。中村常次郎﹃大量生産の原理﹄黒沢清・柳川細編﹃原価及び 原価管理の理論﹄ ︵一九五九年︶四六五頁。 ②拙稿﹃シュムペーターの独占理論 最近における独占肯定の諸理論、そのこ﹃彦根論護﹄一九五九年三月。 ③℃●男∪霊。犀Φさ↓冨国⇒自。︷国8唇ヨ8ζ磐=80、毛.ω心1⊆。9 ④H三皇サ⊂心。。. ⑤H三﹂‘サ心O・ ⑥H三αごウホ。 ⑦Hげ乙﹂題●合−念。 ③∪窪。犀Φび↓冨閃三舞Φo︷ぎ匙臣貫冨=≦磐⋮諺08。。①﹁︿角器くΦ︾署8器ゲ=oお層℃o■壷5卜⊃刈頃.④ぎ葬︸署.心1お・
二右のごとくドラッカーは最初の二著作においては、少くともヴィジョンにおいてシュムペーターとほぼ同様に、独占を
直接に肯定するような議論をはいている。しかるに、その後の諸著作においては彼は、シュムペーターと異なり、直接に独占の社会的進歩性を承認することによってではなく、それの反社会性を強調することにより、現代における独占的大企業
の社会的進歩性を強調するという論法をとっている。この論法の変化がいかなる事書に由来するかは知るよしもないが、しかし変化そのものは本質的な意義をもたぬように思われる。けだし違うのはただ論法だけで、根本の老え方には別に変
りはないといってよいからである。そこで﹃株式会社の概念﹄という最近のドラッカー理論の出発点をかたちづくっている著書を中心に、彼のその後の見
解を跡づけてみるに、まず彼は独占というものは反社会的なものだときめてかかる。すなわち彼は旧著の与えた印象を払
拭するかのごとくに書いている。 ﹁独占は定義によって反社会的である。その目的は、社会の犠牲において独占保有者︵ヨ80唱。ξ占○置巽︶の利益を満足させ、より 高い価格でより少く生産することに対し彼に報酬を与えることである。このような試みのうち最も徹底していたのはニュー・ディー 亙の初年における国民復興法︵Zカ︾︶であって、それは社会的安定のために一切のアメリカ産業の強制的独占への転換を要求した。 今日ではブリテンの若干の産業協会一特に子①bdh三移7。コ帥巳ω8①一男ΦαΦ鎚鉱。口 と多数の労働組合とが大西洋の両岸で同 じ線にそって議論しつつある。それゆえ独占的企業ないし独占的産業はつねに社会的・安定と経済的能率とを害う.と、非妥協的に主張 しなければならない。独占のこの結果は一嵩に絶対的な権力はつねに権力の濫用を意味するがゆえに一それの性質に本来的であ る。NRAの場合のごとくそれが大企業にゆだねられるにせよ、サー・ウィリアム・ベヴァリソジ︵ω冒芝一=冨召しdΦ<①二島αq①︶に よってイギリスのために提案された場合のごとく労働組合にゆだねられるにせよ、 ﹃啓発された独占﹄︵.げ巳月露①コΦα日。コ。弓。一団、、︶ というのは一つの神話である。最後に、 ﹃自然的な﹄独占、すなわち生産過程もしくは分配過程の性質のゆえに避けがたい独占− 例えば与えられた地域の電力供給または与えられた国の中央銀行1のあるところではどこでも、それらは消費者代表の規制的管理 ⑩ のもとにおかれなければならない。﹂このような反社会的な独占への傾向が現代社会にも存在していることを、ドラッカーは否定しない。すなわち彼はおよ
そ次のごとく述べている。 ⑪ 伝統的に独占的地位は株式会心存続の最善の安全装置と考えられてきている、もちろん教科書画の独占、すなわち一生産物または 一生産者による市場の文配が、きわめて頻繁に見られるわけではない。アダム・スミスや彼の門弟たちが独占の理論を展開した時分 ドラソカーの独占論 五ドラソカーの独.占論 一’t’“ ノXNI には、ほとんどあらゆる貨物が取替え不可能で、 一貨物の市場支配は絶対的独占を与えた。しかるに現代の発展した経済においては 原料相互間および完成財相互間に恐るべき交換性が存在する。自動車などの場合には、たとえ生産者がただ︷入になったとしても、 高度の競争市場がなお残るであろう。けだし、あらゆる中古車が新車と競争するが、新車の生産者は中古車市場にいかなる支配をも 及ぼすことができないからである。かくして一貨物の独占的な市場支配は、通常、相当短時間のうちに現存代用品への転移または新 代用晶の発展によって打破されるであろう。唯一の例外は、マソチのごとく、おそろしく多量に消費される極めて廉価な商品である。 この種の商品の場合には、個々の消費者はそれに極めて僅かしか支出しないので、独占によって賦課される負担をほとんど意識する ことがない。スウェーデンのマソチ王H︿霞囚HΦβΦq霞 は、価格を引下げることなしに一箱のマソチを五十本から四十.五本に引下げ ることによって消費者に十パーセントの独占刹潤を賦課したが、誰もそれに気づかなかったという例がある。しかし、この種の特殊 の商品の場合以外にも、市場の直接的支配を基礎とする独占にかわって、今日、生産諸要因への接近の支配を基礎とする独占が増加 しつつある。すなわちヨーロッパ型のカルテルなるものがあるが、これは資本への接近の独占、経営者の熟練や知識の支配の上に築 かれた特許権プール、労働組合の諸要求、および商品分野における独占的慣行などを基礎としている。そしてこれらの新式の独占は 旧式の独占のように自滅してゆくものではない。それらは生産者にたいする支配を基礎としているので、旧独占の場合のごとく市場 における消費者の行動によって影響されるものではない。それらはまた労働組合や特許権プールの場合と同様に、通常、政治的権力 や法律によって後援されている。しかも︷経済部門における独占的慣行は、不可避的に他のすべての部門における独占的慣行を刺戟 ⑫ する。例えば独占的な労働組合の慣行は経営者を強制して独占的に行動させるし、その逆の関係もある。 ここには労働組合にも独占の範.疇.を適用するのかと疑わせるような口吻が認められないではないが、しかしこの種の拡
張解釈はドラソカーの場合には他の人々の場合におけるごとくには議論の大筋となっていないといってよい。それはとに
かく、ドラッカーは右のごとく現代社会にも反社会的な独占への傾.向がかなり広汎に存在していることを一応は承認している。しかし彼は、それにもかかわらず、現代資本主義をになっている大企業はこの種の独占的傾向をもって特徴づけら
るべきものではないと見る。いうところは、およそ次のごとくである。 現代経済生活の諸.組織には疑いもなく独占.への傾向が存在する。にもかかわらず、この事実からして伝統的な独占理論のひきだす﹁独占は企業にとって最も有利であるという一結論はまちがっている。実際は独占は現代の大量生産産業の要求と両立しない。 最長期についての最大利潤は、最低価格での最大生産一能率的な生産の社会的基準1によってではなくて、それとは反対の独占 的な政策をとることによってのみ実現されうるというのが、十九世紀的独占理論の精髄であった。もしこの理論が社会的現実の正確 な表現であるならば、産業社会は少くとも独立した自治的な株式会社単位の社会として我々の知るような形態では存在しえないであ ろう。独立した企業はそれ自身の利益のたみに独占的であろうと試みざるをえないというのが真実であるならば、我々は反トラスト 法を属駕しうるなどと考えてはならないであろう。けだしいかなる制度も自己の利益と目的とに抵触するような規則を受けいれえな いからである。現在なお福音的真理として広く受けいれられているこの独占理論は、供給はつねに制限されているのに需要はつねに 無制限であるというi十八世紀においては正しかった1仮定を基礎としている。この仮定の上では独占的行動はたしかに最大利 潤を生むであろう。しかし現代の産業状態のもとにおいては、制限されているのは供給ではなくて需要である。現代の大量生産産業 の供給は、定義によって、なんら実際上の制限をもたない。生産の縮小と高価格の人為的維持とがつねに生産老にたいし最高利潤を 生むであろうというのは、全く真実ではない。反対に現代技術の諸条件のもとでは、最大利潤は最低費用による最大生産によって獲 得ざれる。このことを最初に覚ったことがヘンリ・フォードの最大の業績であり、独創的貢献であった。いすれにせよ、大量生産の 過程にはもはや旧い独占理論の演繹の地盤となったような諸条件が欠けている。大量失業の脅威は、大部分は、供給が需要より弾力 的となるにいたった変化の反映にほかならない。しかし独占の問題にかんするかぎり、新しい技術は社会の目的と会社の目的との間 の衝突を解決することができる。けだし現代の大量生産産業においては、いわゆる独占的行動は、すなわち人為的な高価格を維持す るための入為的な生産縮小は、非経済的にして不利である。それに代わって今や、社会にとっても最も有利な行動が、すなわち最小費 用による最大生産が、生産者にとって最も有利となってきている。つまり現代の大量生産の諸条件のもとでは、最大の牧益性は最大 の能率に依存するのである。そこではもはや企業は、旧い独占の場合のごとく、投下資本にたいする最高利潤率を実現するために、 競争市場の廃絶を企てる必要はない。むしろ反対である。例えばジェネラル・モーターズが一九二〇年代に急速に膨脹しはじめたと き、会社の能率と牧益性とを維持してゆくために、最高経営者は、自動車市場の完全な支配をめざすことなく、自社の市場を強健な 競争者の存立を可能ならしめる程度に維持することをもって方針とした。いうまでもなく強健な競争の維持にたいする会社の関心と 分有する市場の強化にたいする会社の関心との闇には、一定の緊張がある。しかし十九世的理論の主張するごとく、 一企業がその社 会的有用性を喪失しはじめる点が、その企業の最も有利になりはじめる点だというのは、正しくない。実際は、 一企業が最大の社会 ドラッカーの独占論 七
ドラッカーの独占論 八 的有用性に到達する点が、またその企業の最大牧配点でもある。討なわち現代の大量生産のもとでは、差益性にたいする会社的関心 と、最大の生産にたいする社会的関心との間に衝突はないのである。
見られるごとく、ドラッカーが現代の大企業から独占的傾向を消去しようとして試みているこの理論の出発点となって
いるのは、現代資本主義のもとでは供給ではなくて需要が制限されているという事実の認識である。この事実はきわめて
重要であって、その認識を深めてゆけば、生産力と生産関係との矛盾がその根因をなしていることが知られてくるわけで
あるが、今はその点は問題にしない。しかし需要が制限されているのに、供給はそうでないと見られるところがらは、ド
ラッカーの場合とは反対に、独占への必然性を結論することもけっして不可能ではないであろう。問題の事実の認識から
ドラッカーの結論へは、けっして一本道で.はないのである。もちろん現代の大企業は、供給にくらべて需要が制限されているからといってきそこからただちに市場の独占的支配を企てるといったわけのものではない。いいかえると、それはけ
っして単なる市場の支配によってのみ最大利潤を獲得しようとするものではなく、需要が不十分だと見れば、これを積極
的に創造しようとさえするものなのである。そのかぎり、現代資本主義のもとでは最大利潤は最小費用による最大生産に
よって獲得されるというドラッカーの指摘は、きわめて重要にして正当な洞察にもとつくものといわなければならない。けだし、そう見ることによって我々はまず現代の大企業が必ずしも初めから社会の利益と1同じことであるが経済の進
歩と 両立しえないようなものではないと考えらるべき一面をもつことを明瞭にすることができるからである。しかし
同時に見おとされてならないのは、最小費用による最大生産ということが、けっして、それを欲するいかなる企業者でも
の容易に企てうるようなことがらではないということである。いうまでもないのであるが、それを企てうるためには、是
非とも、優秀にして一般に巨大な生産設備が、したがってこれを調達しうる資金が準備されていなければならない。しか
しこれは小企業にとってはほとんど不可能に近い。その結果、最小費用による最大生産という生産方法のもとでは、競争
ノ者は不可避的にごく少数の大企業に制限されざるをえないであろう。いいかえると、その生産方法の存在様式は少数大企
業の独占すなわち寡占以外のものではありえないということになる。もちろん最小費用による最大生産ということは、一 ヘ ヘ へ面においてそれ自体、競争の一手段である。しかしその競争は限られた少数大企業の競争として独占的競争の実質をもつ
ものでしかないのである。そして、こう見てくると、ドラッカーの大企業11非独占説は、大企業による独占的競争のもつ
積極的肯定的な側面だけを一面的に強調したものでしかないということができる。’ドラッか一は、現代の産業は独占をもって特徴づけらるべきものでないということを繰りかえし力説して、こうもいっ
ている。 政治上ないし学術上の議論においては大体において今なお、大量生産技術の出現がいかに完全に独占の性質を変えてきたか理解さ れていない。けれども公衆は大体において明らかに、独占はもはや四五十年前におけるような経済政策上の大問題ではないというこ とを感得している。職・ローズヴェルト下の﹁トラスト分割﹂によって喚起された熱狂と、近年の派手な暴露と演出とをともなった 反トラスト運動に対する公衆の冷静とを、くらべてみるがよい。この変化は産業生産の条件の変化にもとつくと見てよい。古典的な 独占理論は時間の要素を知らす、株式仲買入をもって経済行動のモデルとなしている。経済変動を統御しようとする一切の企てが等 しく制限的ないし独占的と見られるのは、そのためである。しかるに産業の現実においては、経済活動は非常に長い期間にわたって おこなわれるものである。実際、七年ないし十五年の景気循環が産業活動の単位である。これは 部分は今日あたらしい生産物や生 産過程を開発するために長時間を必要とするからでもあるが、主としては今日の産業生産は巨額の固定資本投資を必要とするからで ある。産業資本は長期にわたって投資されなければならす、景気循環をふくんだ長期の生産によってのみ清算されうる。それゆえ現 代の産業経済においては我々は、循環的変動を緩和しょうと企てる制限的諸活動と、産出高を制限して非能率的な方法や旧式の設備 を永久化しようと企てる制限甘藷活動とを、厳重に区別しなければならぬ。後者は真に独占的であり、したがって反社会的である。 しかし前者は現実に能率的な生産のためで.あり、したがって社会のためである。それは景気循環を通じて労働と生産能力との利用の ⑮ 増大を、したがって絶対的にも単位費用あたりについても生産の増大を結果する。ドラッカーの独占論九
ドラッカーの独占論 一〇
これによって見れば、現代の大企業が独占的であるかどうかは、大企業であることそのことにではなく、大企業そのも
のの態度の如何にかかわるということになる。そのかぎり大企業は労働組合などと本質的に異なったところをもつわけで
はない。すなわちドラッカーによれば、労働組合も、それの採る態度の如何によっては独占体と刻印されざるをえないこ
⑯と、大企業の場合と全く同様なのである。しかし、これでは大企業の弁護としては筋が通っているとしても、現代の独占
を本当に理解したものとは云いがたい。けだし現代の独占は大企業の存在そのものにかかわるのだからである。しかしド
ラッカーはそういう考え方を拒否する。すなわち彼は、大企業は社会的に破壊的であるばかりでなく、経済的ならびに技
術的にも弁護されがたいという主張に反対して、いっている。 いうまでもなく無制限の個人的野心が大企業︵び一αq旨①塁︶ の原因をなすことがあって、それから結果する大企業は反社会的であり 正当化されがたい。しかし、そういうことがおこるのは事業に限らない。 ﹁小ナポレオン﹂は事業におけると同じく労働組合や政 治部面などにも現われがちである。しかも自由企業制のもとでは市場における競争というブレーキがあって、その弊害は他の部面に おけるよりも少いというのが実際である。戦争のような非常時には、組織能力が重視されるところがら、 ﹁タイフーン﹂が幅をきか すことがある。そうした人物が一夜で作りあげた企業帝国は、文字通り﹁大企業の災禍﹂︵一6霞。。①ohび一σq⇒①ωω、、︶を暴露する,しか し大企業の真実の問題はそういうところにではなく、現代の産業における大企業の経済的ならびに技術的必然というところによこた わる。現代の産業生産、特に現代の大量生産においては、小単位は能率的でないばかりでなく、生産することが全然不可能である。 勿論、大企業の能率にも上限があって、それを超えると能率の逓減が結果するということは真実である。しかしそれにはまた一定の 下限があって、しかも現代の産業の多くにおいてはその下限は非常に高いところにある。能率的な生産は必然的に大企業たらざるを ⑰ えないのである。普通の申小企業においてはトップ・マネジメントは十分に日常業務から解放されて、長期的な問題に多大の注意を 払い、会社の長期的利益を充足することによって同時に社会が中小企業者によせる関心を満足させるような政策を立案するといった 余裕をもたない。しかるに大企業においてはトソプ・マネジメントは長期的観点にたち、長期的政策を立案し、.かっこれを実現する 機関を設置することができる。このことは、 一時的な刹得を長期的な政策に従わせるごとによって、社会的安定に貢献するという重 要な効果をもつ。価格はいうまでもなく、購入も販売も、そして雇用もまた、小企業の場合よりは大企業のもとでの方が安定性をも⑬ つといってよいのである。 ⑩∪讐。パ①び088讐。︷浄①O。弓。二重。pおま.℃寧悼一ひ1巴刈.−同じ線にそってトラッヵ1は﹃経営の実際﹄のなかに書いて いる。 ﹁たとえ反トラスト法がなくても、それ以上に進むことは賢明でありえないような最大限の市場地位︵鋤目鋤×一日ロ一白簿降卑 。。8昌鉱冒σq︶がある。市場支配︵日並爵㊦け,αoヨ母上ロ。①︶を与えるような指導は、指導者を眠りこませる傾きがある。独占者は通常、公 衆の反対よりはむしろ彼等自身の自己満足につまついて没落してきた。けだし市場支配はいかなる革新にたいしても恐るべき内的抵 抗をつくり出し、かくして変化にたいする適応を危.険なまでに困難ならしめるからである。﹂︵U霊。犀①ぴ↓ゲΦ℃冨。試80臨ζ碧㌣ αq①日①昌f一897㎝ひ.︶。 ちなみに、ドラッカーが独占は革新に有害であると考える場合、革新という概念はシュムペーターのそれ とほぼ同様の意味に使用されてい.る︵Ω・筐α.ら■認︶。 ⑪∪毎。幕ひOo目Φ窯。︷チ①Oo壱。国β。二〇pや巴ひ● ⑫Hσ達‘℃や巴刈−曽。。・ ⑬Hげ乙二℃や巴。。1国O. ⑭ドラソヵ1は﹃経営の実際﹄においては最大利潤の追求ということでもって企業を規定するのに反対している︵日げΦ勺話。識80頃 と9コ帥σqoヨ①口計や培︶。しかし、その主張にはかなりの無理がともなってカり︵藻利重隆、前掲一一頁以下、九九頁以下参照︶、 ﹃株 式会社の概念﹄における見解の方がすぐれているように思われる。 ⑮∪旨。冨き088営。︷聾①Oo壱。鑓二81薯■悼嘘−旨悼’ ⑯Hげ箆﹂㍗Bω. ⑰Hび乙‘署“認ωiB9 ⑱Hげ凱‘題.諺刈一Bc。. 三 ﹃新しい社会﹄ まれる。 においても、ほぼ同様の大企業支持がく.りかえされている。すなわち、そこには、およそ次のごとく読 ドラソカーの独占論
二
ドラソカーの独占論 一二 ﹁大企業の災禍﹂は約五十年来アメリカにおける政治論議の周知の題目となってきた。そして大企業は望ましくないのは勿論のこと、 必要でもなければ能率的でもないというのが、標準的な論拠とされてきた。たしかに企業の大きさには経済的にも社会的にも経営的 にも一定の限度がある。しかし大企業の反対者が今日理想と考える﹁小企業﹂は、実際は以前のどの標準で測っても非常な大企業で ある。問題はもはや我々が大企業を欲するか小企業を欲するかではなく、大企業が過大となることなしにどれほど大きくなりうるか である。五六十年前には﹁大企業﹂は二千人ないし五千人を雇用する単位であり、 ﹁小企業﹂は一人か二人によって所有され運営さ れて百人もしくはそれ以下を雇用する作業場であった。しかるに今日ではアメリカの重要産業における﹁小企業﹂は五千人ないし一 万人を雇用し、一 百人の経営者によって運営されている。したがって今臼ではただ大きさの・置合について詔ることができるにすぎな い。産.業社会には﹁家族企業﹂︵..言ヨξ血NゆぎωヨΦωω、、︶への復帰の可能性はない。産業企業は必然的に権力と資本と人員との大 集中を表現する。なんらの独占的行為ないし意図がなくても、単に大きいということが市場論結の効果を生みだしつつあるという非 難のおこってくる所以である。しかし現代の産業諸条件のもとで有効に生産するためには、一定の大きさが必要とされるのである。 のみならず、現代の企業の大きさそのものが、その安定と維抽とを社会の関心事たらしめる。大企業は崩壊することを許されない。 大企業の崩駿が失業や金融の混乱や販路の破壊といった形で社会の経済的安定に与える影響は、あまりにも大きいであろう。それに 大企業の諸資源の分散からおこってくる社会の経済的損失もまた重大であろう。機械や設備や人的組織は一緒になってこそ生産的な ⑲ のであって、ばらばらにされては、その生産性の一全部ではないにしても 多くを失うであろう。 企業の大きさには、たしかに、それを超えると経営不可能になる傾きのある限界がある。しかし、その大きさが過大となるに至る 点がどこにあるかは、おそらく理論的に答えがたいであろう。また新しい技術と用具は、たえす経営可能な大きさを増大させる。副 社長かあまりに多すぎて、名前を知りあうことかできす、半年ごとの幹部会には名札をつけなければならないような有名な会社があ るが、このような状態ではトソプ・マネジメントは明らかに効果的に機能しえない。しかし、企業が大きいだけで経営不可能になる と考えるのは誤りである。むしろ反対が真実である。企業が相当の大きさをもたねばならない理由の一つは、大企業のみが機能的な マネジメントをもちうるということである。マネジメントは必然的に高価である。しかも、その数は企業の大きさとともに増加する ものではない。五百万ドルの年売上と一千人の人員とをもった企業は、それに十倍する企業の場合とほぼ同数のマネ。シメントを必要 とする。してみれば、マネジメントの費用の負担は大企業の場合の方が容易である。同じことは、マネジメントをしてその職務を遂 ⑳ 行ずるをえせしめる用具についてもいえる。大企業だけが適当なスタソフを維持して広範な調査活動を展開することができる。
以上のごとくドラッカーは、大企業が技術の進歩を促進し、生産費を切り下げて、製品を廉価に提供することにより、
社会に奉仕するということを強調している。たしかに大企業にもそういう面のあることは認められなければならないであ
⑳ろう。しかし、それが大企業の現実にもつ傾向のすべてであるかというに、そうはいえない。大企業は、相互の競争上の
必要に由来する進歩的な傾向にあわせて、同時に、その存在の独占的な地位に由来する反動的な傾向をもつ。例えば技術
⑳が進歩し、生産費が低下しても、必ずしも価格がそれに比例して下落するとは限らないのである。良質廉価の商品を多量
に供給するということは、独占的な資本制大企業の本来の目的ではなく、競争によるこのような結果の無自﹂覚的実現も、 大企業による競争の制限によって阻止されざるをえないからである。競争の制限はあるいは大企業の本意とするところではないかも知れない。しかし大企業の存在そのものがそのような効
果をもたらすのであって、たとえ独占への積極的な意欲を欠く場合にも、大企業はそれのおかれた地位からして云わば
生まれながらに独占的なものなのである。しかるにドラッカーはくりかえし大企業と独占との必然的関係を否定している
が溜アれはあまりにも楽観的にして弁護的な一面観といわねぽならぬ。
⑲∪旨。冨き↓冨20≦ω09象団二89竈.⊆。。。1ωρ ⑳Hび達二陰.悼卜⊇OlBS ⑳ 藻利重隆、前掲一七、 一〇五−六頁。 ⑫ パーロは、ドラッカーが大企業の典型として重視するジェネラル・モータ!ズの場合について云っている。 ﹁この独占体の弁護者 は、それが改善された技術の恩恵をその製品の使用者に譲りわたすことによって公衆に奉仕すると主張する。一九二九年と一九五六 年との間に、すべての商品の価格は一般的に僅か二倍になったにすぎないのに、自動車の価格はざっと四倍弱増大したといえば十分で ある。もちろん品質は改善されている。しかし人は一九二九年車ではなくて一九五六年車を買わねばならない。人は評議にもなった ヵ も た へ り で 価格を支払って、ジェネラル。モーターズが二十七年間に税込利潤の八倍増加︵税引では五倍︶を実現するのを助けねばならない。﹂ ︵<.℃Φ=9日ゲ①両ヨやヰ①○︷=一σqげ康正pコoρ一8メ唱.ち一■浅尾茜雲﹃最高の金融帝国﹄二三四頁。︶ ドラッカーの独占論 二二⑬ ドラソカーの独占論 U歪。犀Φさ↓冨℃昼。賦80︷ζ塁pαQ①Bo茸闇℃. NOα. 一四 四
ドラッカーは、大企業が独占的な本質をもつことによって反社会的な傾向をもつということを見落している。しかし彼
も大企業が反社会的な傾向をもつことのあるのを全く認めないのではないようである。ただ彼は、大企業が反社会的な傾
向をもつとすれば、それは独占の結果というよりは、むしろ集権化︵OΦ旨け同餌一陣N鎚什一〇昌︶の結果と考えらるべぎものであって、 したがってそれは分権化︵自①O①昌け目潜一一N弾什一〇昌︶によって克服されうるとなすもののごとくである。すなわち彼は﹃株式会社 の概念﹄のなかに書いている。 ﹁大企業は自動的には、小企業経済において与えられている安全装置と制御装置とを提供しない。⋮⋮集権化と官僚主義との諸条件 のもとで最大牧益性が達成されるというのは正しくない。反対に、官僚的骨化や頭部過重の集権的経営や指導者供給源の澗渇を防止 することは、株式会社存続の最も緊急な利益である。分権化政策において大株式会社は一つねに競争市場の外部的抑制が与えられ ていると仮定して一大規模の機能上の不利益を克服すべき手段をもつ。要するに、もし大企業が大規模のいかなる利益をも失うこ となしに小規模経済の一切の利益を取得しうるような明確な政策と組織とをもつならば、大規模の経済的効果と社会的効果との間に @ は避けがたい不一致はないはすである。﹂ ﹁それゆえ分権化は、大企業の社会的負債から社会的資産への転換の条件である。大企業は、もし集権的であるならば⋮⋮会社の安 定と機能とに危険をともなうと全く同様に、社会の安定と機能とに危険をともなう。﹂大企業の反社会的傾向と集権化との関係についてのドラッカーの見解は、十分の説得力をもつまでに理論化されている
⑳乏は云いがたい。しかし彼がこの二つの傾向をとにかく結びつけているということは事実である。したがって大企業11非
独占説という形で展開されて、いる彼の独占肯定説の検討を完全にするためには、彼の分権管理論を検討しておくことが必噛 要である。しかし、それについて詳論することは別の機会にゆずって、ここではただ、大企業の反社会的傾向を常.にその
1独占とは全く別個のi経営の官僚主義的集権化に由来させ、分権化ないし連邦的分権化をもってそ.の対策とすると
いった見解のよびおこす疑問について一言するにとどめておかねばならぬ。おもうに分権化ということは、もともと大企業の内部組織にかかわるにとどまる。したがって、いかに分権化したとこ
ろで、大企業の一反社会的傾向の根源としなければならぬ一独占的傾向が排除されるといったわけのものではない。
けだし独占的傾向は大企業の内部組織にかかわるものではなくて、それの外部的な地位t産業社会における大企業の地
位一にかかわるものだからである。いいかえると、大企業は他の諸企業一および消費者iとの関係において独占的
と規定されるのだからである。詳しくは別に述べなければならないが、ドラッカーの場合、分権化とは実は連邦化にほか
ゆなちない。すなわち、それは独占的大企業を最適規模企業に分解するといったものではなく、単にそれを構成する経営単
位に相対的な自主性を付与することによって、その統一を強化しようとするものにほかならない。いいかえると、それは
大企業の独占的傾向を排除するどころか、むしろその独占的地位を強化するための手段にすぎないといってよい。事実、ドラッカーの︵連邦的︶分権制は﹃新しい社会﹄において次のごとく反独占思想にたいする独占的大企業の弁護に帰着し
ている。 もし我々が大企業︵一塁σqΦ①算①6属♂①︶を、その各単位が事実上それだけで一個の事業︵げ琴ぎ窃ω︶を意味するような自律的な諸 単位に組織することができるならば、 一体どうして我々は大企業を必要とするかと問われるかも知れない。連邦的事業を独立の諸事 業に分割する方がよくはないであろうか。何がかかる企業を単なる持株会社︵鋤ヨ①器ぴ。匡言σq8臼忠姥︶1それの唯一の目的 は小さな資本投下をもって大事業を支配することなのであるが一から区別するのか。企業そのものは如何なる機能を遂行するか。 とりわけ企業のトップ・マネジメントはいかなる機能を遂行するか。答えていえば、大企業の必要は産業生産そのものの性質に基礎 をもっている。 ﹁大規模﹂ ︵.♂戯ロΦωω.、︶の敵対者たちが我々に信じさせようとしているごとくには、我々は経営機能の遂行を欲す ドラッカーの独占論 一五ドラッカーの独占論 一六 るか欲しないかについて選択権をもたない。実際、産業企業の大規模ということに反対する運動は、もしそれが成功するとしても、 ただ一つの結果をもたらしうるだけである。すなわち、それは経営機能を遂行すべき政府諸機関の設立にみちびかざるをえず、しかも これらの機関は同様に大規模といったものではなくて、超巨大︵。。毒①で8ざωω巴︶というべきものであるであろう。個々の単位は、 それだけでは原則として、トップ・マネジメントをもつことができないであろう。その職務の遂行に必要な才幹をそなえた人々を十 分に見出す困難は別として、その財政的負担だけでも禁止的であろう。それに、生産物や工程の改良および技術や市場の研究につい ての組織的にして体系的な仕事は、もし小単位が独立したならば、労働者に安全を与える諸方策の場合と同じく、ほとんど不可能で あろう。多くの場合、生産は、一単位が一生産物または一市場に専門化するときに、最も能率的である。しかし、これが可能なのは 個々の生産物が一つの統合された﹁ラインレの部分である場合、そして個々の単位が一つの連邦的ユニオンの﹁共通の市民権﹂にお いて同一の事業に従事する他の諸単位と結びつけられる場合だけである。全くところ、企業の連邦的組織と持株会社一およびその 他の金融的支配1との類推は、完全な誤解である。
たしかに、大企業を構成する経営単位が能率的であるためには、より大きな経営連関に統合されなけれぽならない経営
技術的ならびに政治経済的な理由があるということは、十分に理解のできるところである。しかし、rその連関が資本制大 ⑫企業でなければならない理由がどこにあるか。まして資本制大企業の本来の目的は私的利潤である。そして私的利潤のた
めに、経営諸単位による大規模の社会的生産が大企業によって統括されるのである。社会的生産の真に合理的な形態とど
うしていえよう。それをあえて合理化しようというのは、全くのところ、現存するものの単に現存するがゆえの弁護以外
の何であろう。 ドラッカーはいっている。 ﹁もし大企業が産業社会にマネジメントを提供しないならば、政府がそうしなければならないであろう。我々は大企業と小企業との間の選択権をもたない。大企業を除去しようとする一切の試みは感傷的なノスタ
ルジアを表現するにとどまり、失敗することは必定である。我々は、多数の競争する大企業と、一つの﹃超巨大﹄政府と
㊥の間の選択権をもつにすぎない。﹂社会的生産のi私的支配にかわる−公的支配がどうしていけないのか。 ドラッカ
1によれば、それは集権化の一形態にほかならないからである。彼はいっている。 集産主義経済は、たとえ競争市場における自由企業と同様に廉価に財を生産することに成功するとしても、意志決定と責任負担と の能力をもった指導者の養成と訓練においては能率が劣るであろう。社会化された経済の指導者は産業の外部で養成されなければな ら麟いであろう。そして個人の能力を完全に発揮させるためには、革命的熱情や戦争などの刺戟に待たねばならないであろう。さら に、この種の経済は業績にもとつく指導者の自動的継承に依拠することができないで、新しい血を注入するためには周期的な﹁パー ジ﹂を遂行しなければならないであろう。最近二十年間におこなわれてきたロシア産業経営者の周期的追放は、少くとも一部分は、 社会主義経済が事業の正常な経過のうちに指導者を発見し訓練し養成することを不可能とするのに由来する。かくして一制度が指導 者を生産する能力は、財を能率的かつ廉価に生産する能力よりも重要である。人間の能力と組織とが与えられるならば、能率的にして 廉価な財の生産はつねに可能である。しかしイニシアティヴをとるの意志と能力とをもった有能にして責任的かつ進取的な指導者が なかったならば、最も能率的な制度といえどもその能率を一増加させることはいうまでもなく1維持することができない。しか も社会主義的企業が指導者の生産において無能力であったばかりでなく、 ﹁社会主義的競争﹂は競争市場の尺度にとりかわることに 失敗した。何が生産さるべきかを消費者に決定させるのは組織された社会の存続にとって危険であり、自由企業は制度的能率のため に余りにも高い価格を支払うと主張されるかも知れない。しかし、これは経済的合理性を基礎としない政治的判断というものであろ う。市場と市場価格とは経営者の能力にたいする客観的な業績審査の手段を供給し、かくして経済頷域における継承の原理を社会に 提供する。そして、この原理がなかったならば、我々は、経済制度の運用者を決定する手段として、純粋に官僚的な基準である﹁パ ⑭ ージ﹂か、あるいは赤裸々の権力斗争かのいずれかに訴えることを余儀なくされるであろう。
ドラッカーは、連邦的分権制は選択の可能な生産物の間の消費者選択によって価格が決定される真に競争的な市場にお
いてのみ存在しうるのであって、それがなければせいぜい機能的分権化︵費口。江。昌巴匹①8三嘘字Np・二〇昌︶ がありうるにとど まるとしている。そのさい彼が真に競争的な市場というのは、完全競争市場のことではない。これは、いうまでもなく、 彼の大企業イデオロギーと相即するものである。それはとにかく、彼の見るところによれば、競争市場の唯一の要件は、消費者が同一の欲望を満足すべき選択可能な方法の間の選択権をもつこと、および、この選択権が市場の大きさと生産物
ドラッカーの独占論 一七ドラッカーの独占論 一八
⑯
の価格とを決定する一あるいは少くともそれらに重要な影響を与える一ことである。これによってみれば、社会主義
のもとで競争市場が導けているということの真義は、そこではこのような云わば消費者の民主主義が欠けているというこ
とでしかないであろう。しかし資本主義のもとでも、特に大企業の麦配下では、消費者の民主主義が完全に実現されると
は期待されがたいであろう。反対に社会主義のもとでも、特にそれが民主主義的でさえあれば、それはより完全に実現さ
れることになるであろう。してみれば、競争市場を前提して連邦的分権制を可能にするような資本主義経済は、それを欠
如する社会主義経済にくらべ、特に指導者を生産する能力において優越性をもつというドラッカーの主張は、根拠をもた
ないことになるであろう。ドラッカーは社会主義の経営形態が必然的に集権的であって、分権的組織とは両立しえないものであるかのごとくに考
えている。しかし例えばソ連の独立採算制は分権化の社会主義骨形態と見てよいであろう。勿論ソ連の独立採算制が多く
の不完全なところを残していることは事実であろう。指導者の養成においても遺憾な点がなくはなかったであろう。しか
し、それは単純に集権化と同義であるかのごとくに解せられている社会主義に不可避的な欠陥ではない。たとえ従来のソ
連が実現してきた社会主義が集権化への偏向をもつところがないではなかったにせよ、社会主義は本質的には生産組織の
分権化と両立しえないようなものではない。むしろそこでこそ、それの真面目が発揮されることになるであろう。すなわ
ち、ドラッカーのいう分権化は上層経営者間のそれでしかないが、社会主義のもとではそれは最下層の労働者にまで本当
に滲透せしめられることになるであろう。@@@
U旨。訂きOo昌8冥oh臣①Oo愚。鑓二〇Pや悼誤・ 一げ乙﹂や器ρ 同様の考え方はジェネラル・エレクトリック社の社長コーディナー ︵園巴℃ゲ一.Oo巳ぢ①がZo≦閃目○ヨδ屋︷o円℃δ︷⑦ω。。一〇昌p︸ζp⇒9σq①附。・−一8コ口の採用するところとなっている︵川村欣也訳﹃これからの経営者﹄五一六、七九−八○頁︶。 ⑳⑳ ドラッカーは﹃株式会社の概念﹄ ︵一九四六年︶においては﹁分権化﹂ ︵繕①o①ロ#巴冒。試。⇒︶とよんだものを、 ﹃新しい社会﹄ ︵一九五〇年︶以後においては﹁連邦化﹂ ︵臨①伍①目⇔二〇昌︶とよびかえている。しかし内容に変化があるわけではない。 ⑲ この点にかんするコーディナーの言明は実にはっきりしている︵前掲四九頁参照︶。 へ も ミ ヤ なお分権化は企業経営の1単なる小規模化ではなくてi最適規模化と解さるべきである︵山本安次郎﹃分権管理と分権管理組 セ し ヘ ヤ 織﹄ ﹃PR﹄八の四、一九五七年四月、二八−九頁︶。 しかし、それは企.業そのものの最適規模化ではない。 ⑳ 高橋昭三﹃連邦制分権的経営管理の基本構造﹄ ﹃PR﹄上掲五五頁。植村省三﹃いわゆる分権的管理組織について﹄ ﹃立命館経済 学﹄七の四、一九五八年十月、一三〇頁。 ついで一言しておくと、高橋氏のいうごとく、連邦的分権制が市場機構を企業の生産過程内にもちこむというのは事実である。し かし、それがどうして転倒なのか私には理解できない。また植村氏が販売管理をもって分権組織の基本的課題としているのには︵上 掲一三五−七頁︶、賛成できない。分権組織は本来的には生産管理にかかわるものであらう。 ⑳ ∪把。閃①き日げ①2①箋ω09①件ざ隠.難PI培⊆。.ードラソカーは多くの場合一6簿Φ弓H冨㊦、、と,♂ロ。。ヨΦωω①三Φ壱ほ。。Φ、導と.♂虞。。7 昌①。・。。、、とを区別していない︵藻利重隆﹃ドラソヵ1経営学説の研究﹄三五!六頁︶。しかし、ここでは.♂口ωヨΦ。。ω、、を.㎡昌鼠6ユω①、. の営む事業として、それから区別している。 ⑫ ドラッカーは﹃新しい社会﹄や﹃経営の実際﹄において利潤をもつ.て企業の目的となすことに反対している。しかし、その主張は、詳 しい批判は割愛せざるをえないが、理論になっていないと云わなければならない︵藻利重隆、前掲一一頁以下および九九頁以下参照︶。 ⑳︶∪歪。犀①き目げ①Z①≦ωoo一①q”やUホ・ ⑭ U歪。犀①500⇔8讐oh臣①Oo弓。鎚誌oP℃やBc。1話O.i﹃.新しい社会﹄︵二七九−八○頁︶にもほぼ同様の見解がくりかえさ れている。 ⑳ U歪。犀①び↓ゲ①乞①≦ω09Φ¢”や培S ⑳ Hげ乙こや田O. 五 ドラッカーの独占論 一九
ドラッカーの独占論 二〇 最後に、ドラッカーが大企業をほとんど無条件的に肯定するのは、 一つは、経済のいわゆる﹁基礎的新陳代謝﹂︵・♂霧巴 ヨ・富げ。房日、、︶を楽観したからでもあった。すなわち、彼はいっている。 ﹁大規模、﹂のスローガンは、大企業が経済変化にたいし免疫性をもって不死身であるという競争上の圧倒的利益を享受するというこ とを、ほのめかす。しかし実際は、大企業そのものの間の転倒は、小企業の問におけると同様に大きい。たしかに少数の会社が長き にわたって合衆国における自動車市場の大部分に供給してきた。しかし今日活躍しているのは、二十五年前と同じ会社ではない。二 十五年前はフォードだけで市場の六〇%を支配していた。しかし今日ではフォードの支配するのは二〇%弱である。ジェネラル・モ ーターズは以前には二〇%であったが、今では四〇%となっている。そして二十五年前にはまだ存在していなかったクライスラーが 今日では二〇%を分有している。他のどの産業においても、大体おなじようなことがいえる。実際、合衆国における大抵の主要産業 において今日指導的な会社のもつ市場の分け前は、二十五年前の指導的な会社の場合よりもはるかに小さい。市場は、最大の会社に くらべてさえ、より速かに成長してきたのである。しかし重要なのは、小企業が大企業とならんで存在できるということ、そして特 に新企業が成長できるということである。いいかえると、企業が大規模であるか小規模であるかではなくて、経済的細胞の不断の自 己更新があるかどうかである。産業社会の基礎的な新陳代謝が活濃かどうかである。そのためには、新しい企業に有利な条件1そ れは大企業と抗争することによって獲得されうるものではない一を創造する政策を必要とする。しかるに現実の政策は小企業およ び特に若くて成長しつつある企業に不利益を与えている。事業の統制は、それらの企業には堪えがたい書類と形式の重荷を課してい る。財政政策は、経済上の幼少期と青年期との危険と損害とにたいして何らの酌量をもなしていない。租税政策は、中央銀行の政策 と共謀して、新しい冒険者にたいし資本市場の門戸を閉鎖させている。新しい企業や成長しつつある企業を奨励する大胆にして精力 的な政策は、過度に集中された経済力にたいする最良の防壁である。もし我々がかかる政策を採用するならば、我々は大規模と独占 ⑰ を恐れる必要はない。我々は経済体をしてみすからこれらの問題に注意するをえせしめる力を提供するであろう。