戦後のアメリカ自動車工業
その他のタイトル The American Automobile Industry after the Second World War
著者 小谷 節男
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 3
号 2
ページ 42‑65
発行年 1972‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023222
戦 後 の ア メ リ カ 自 動 車 工 業
目 次 まえがき I 自動車工業の復活 II 自動車市場の変化 頂独立会社の合併と脱落 IV 自動車市場の発展
あとがき
小 谷 節 男
ま え が き
自動車工業は,アメリカ経済における典型的な寡占産業部門であり.経済全体に対しても広範 な影響力をもち景気の動向を左右する大きな要因として作用してきた。本稿では,戦後における 寡占体制の確立の過程をば,生産復活の過程と市場条件の変化という視点から分析することにし たい。
I 自動車工業の復活
戦後の復活過程を分析するにさきだって,まず戦時中の状況を考察することからはじめようと おもうn アメリカ自動車工業は第2次大戦中,ほとんど全面的に乗用車生産を停止して軍需生産 に動貝され,総軍需物資の約5分の1に当たる290億ドルを生産した0。いま第1表乗用車のエ 場出荷両ならびに総登録台数によって,戦時中の乗用車生産の状況をみると次のようである。乗 用車生産台数は戦争の勃発とともに低下して,:1941年の378万台から1942年には一挙に22万台へ と減少した。本格的な軍需生産の展開にともない,乗用車生産台数は1943年にはわずかに139台 となり, 1944年には610台にとどまった2)。
戦後の自動車市場は,戦時中の「抑圧された需要」 (pent‑updemand)から解放されて,例 のない売手市場を展開することになったい。戦時中の乗用車保有台数をみると, 1941年の2,960万
1) John B. Rae, T. 加 AmericanAutomobile, 1965, p. 158. 岩崎玄•奥村雄二郎訳「アメリカの自動 車」 196~. 220頁。
2)必id.,p. 161. 岩崎•奥村訳前掲書223頁。 3) ibid., pp. 161162. 岩崎・奥村訳前掲書224頁。
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第1表乗用車の工場出荷高ならびに総登録台数 (194157年)
年 1台
工 場 出 荷 高
`金額憫器いりI総登録台敷
1941
I
3. 779. 682I
2. 567. 206I
29,624.2691942 222,862 163,814 27,972,837 1943
1944 1945 1946 1947 1948 1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957
139 610 69,532 2,148,699 3,558,178 3,909,270 5,119,466 6,665,863 5,338,435 4,320,794 6,116,948 5,558,897 7,920,186 5,816,109 6,113,344
102 I 2s. 009, 01s 447
57,255 1,979,781 3,936,017 4,870,423 6,650,857 8,468,137 7,241.275 6,455,114 9,002,580 8,218,094 12,452,871 9,754,971 11,198,379
25,566,464 25,793,493 28,213,336 30,845,350 33,350,894 36,453,351 40,333,591 42,682,591 43,817,580 46,422,443 48,461.219 52,135,583 54,200,784 55,906,195
台から1944年には2,560万台へと低下して おり, しかも新車はほとんど無く,中古車 といえども4年間にわたって買替えをされ ないままであったヽ)。その結果,戦後の数 年間,保有乗用車の老朽化,代替需要の累 積,中古車供給の不足,巨大な新規需要の 圧力など11)によって,アメリカ自動車市場 はRaeの言葉を借りれば,「自力で転がるこ とのできる車はどんなものでも売ることが できた。」 (Anyvehicle that would roll under its own power was salable.)8>
といわれるほどであった。
終戦による軍需注文の大巾な縮少のため に,アメリカ経済は, 1945年から翌年にわ たってかなりきびしい景気後退を経験し たのであるが,その間にも繰り延ぺ需要の 存在,可処分所得の増大,貯蓄性向の低下 内田忠夫•武藤博道「解説・戦後の発展と競争戦略」
(A. D. チャンドラー著, 内田忠夫・風間禎三郎訳
償 靭 鬱 」 197呻,所収) 項。 などの諸要因から個人消費の動向はいちじ るしい増勢を持続して,やがて好況局面を 現出することになった。この景気上昇の過程において,自動車需要の圧力が重要な役割を演じた ことはいうまでもないの。
自動車に対する生産制限は終戦により撤廃されたが, n動車工業は平時生産への転換過程でエ 場の再装備, 原材料の不足, 労働争議, 価格統制など種々の困難を克服しなければならなかっ た8)。
まず,工場の再装備のためには,自動車会社は,生産設備を軍需生産から民備生産に転換する ために,固定資本の更新と拡大投資を集中的に実行したe)。1945年における自動車会社の投資額 は26低ドルであったが,それは石油会社 (8.8億ドル),化学会社 (3.8億ドル), 機械会社 (3.2 億ドル)につぐ規模のものであった。その後における景気上昇と自動車需要に支えられて,設備
4) ibid., p. 168. 岩崎•奥村訳前掲書233頁。 5) 奥村・星川•松井「自動車工業」 80頁。
6) J.B. Rae, ibid., p. 162. 岩崎•奥村訳前掲書 224 頁。
7)向山巌rァメリカ経済の発展構造」 19邸年, 138144頁。
8) Charles E. Edwards, Dynamics of t加 United States A祉omobileInd四try,1965. p. 26.
J
. B. Rae, ibid., p. 161. 岩崎•奥村訳前掲書 224 頁。
9)向山巌前掲書144頁。
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投資はさらに拡大を続け, 1945年から1948年までの4年間の累積投資額は18.2億ドルに達した。
(後出第2表参照)
また原材料の不足についていえば,とくに鉄鋼および非鉄金属原料の不足は,新車の供給を制 限する傾向を生み,大手自動車会社にとって量産体制の確立を阻止する要因として作用した。自 動車会社は, 1942年のむし返しを組立ラインに乗せることから生産をはじめたが,その後も原料 不足の状態は朝鮮戦争停戦の1953年頃までの大部分を通じて充分に解決されなかった10)。
さらに,労働争議の面では,戦後の強烈なインフレーションは労働者の賃金要求を刺激して,
度重なる山猫ストライキやサボクージュをひき起した11)。とりわけ1945年末には大手自動車 会社は, G Mを中心とする統一t'.:f動車労働組合 (U.A. W.)による長期間の賃上げストライ キを経験し, 重大な労働時間の損失を招いたm 。 この労働争議に対して, 物価統制局 (the Office of Price Administration)は,賃上げと同時に自動車価格を引上げることを総めて解決 を計った。この賃金と価格の同時引上げという解決方式は,他産業へも波及してその後における 物価高騰に拍車をかけることになった18)。U.A.W.会長ウォークー.p・ルーサー (Walter P. Reuther)はつぎのようにいう。「もし,第1回目の自動車価格引上げが強行されなかったな
らば,それに続いて行なわれた鉄鋼その他自動車原材料の価格引上げも起らなかったであろうし,
まさに同一の生活水準を維持するために,労働者の賃上げを不可欠ならしめた生計費の高騰も 生じなかったはずである」1ヽ)と。 w.p,, レーサーの主張の当非はともかくとして,この1945年 の自動車ストライキは,賃上げ解決のパターンを形成し,それを定着させるにいたったという点 で,その後のインフレーションの昂進にきわめて重要な影響を与えることになったのである。16)
最後に,価格統制についてみると,物価統制局は戦後に新車の最高価格を, 1942年の価格水準 をもって設定した。だがその価格では, n 動車会社は生産!~との釣合いをとることが困難であっ た。たとえばフォード社は,生産原価1,041ドルを要する自動車を最高価格780ドルに制限され るという状態であった。 1947年の統制撤廃は,価格問題を解決すると同時に新車の増産への道を 拓くことになった18)。
上記のような諸困難にも拘らず,自動車生弯の復興はきわめて順調にすすめられた。自動車生 産台数をみると, 1945年の6万9,532台から1946年には一踵214万9,000台に増加し, 1947年に は355万8,000台へと400万台の大台に接近したのである。
10) C. E. Edwards, 必id.,p. 26. J. B. Rae, ibid., p. 172. 岩崎•奥村訳前掲書蕊8頁。
内田忠夫•武藤博道「解説/戦後の発展と競争戦略」 (A.D. チャンドラー著 内田忠夫・風間禎三 郎訳 flt争の戦略」 197哨ら所収) 405頁。
11) J. B. Rae, ibid., p. 173. 岩崎•奥村訳前掲書239240頁。
12) C. E. Edwards, 伽d.,p. 26. J. B. Rae, ibid., p. 173. 岩崎•奥村訳前掲書,同頁。
13)向山巌前掲書154頁。
14) Walter P. Reuther, Frie, Policy a叫 PublicRe砂 畑 曲ilit:y,A如 切ister,dFrieヽ 切 枷A血 叩bile Im加str:y,1958. 日本労働協会訳 n屁5価格と賃金」 1962年, 119頁。
15)向山巌前掲書154頁。
16) J. B. Rae, 必id.、p.172. 岩崎•奥村訳前掲書238頁。
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第2表は自動車工業の利潤,賃金,およ び労働分配率を示す。自動車会社は平時経 済への転換過程で,軍需市場の喪失から一 時的に利潤の縮少を余儀なくされたが,そ の後における自動車需要の激増にもとずく 生産拡張の結果,利潤も急カープの上昇線 をたどった。 1945年から1948年を通じて企 業利潤は,絶対量において増大しただけで なく,相対的にも賃金(被雇用者報酬)の 増加率をはるかに上回って増大した。企業 利潤の増大については生産数量の拡大や生 産性の向上にもとづく面もあるが,同時に
第2表 自動車工業の利澗,賃金および労働分配率
(単位億ドル)
年 I (a)税込利潤 1側被用者報酬I(c)労働分配率 1939 3 , 73 1943 3 10 84 1945 2 , 85 1946 , 19 96 1947 12 24 66 1948 16 27 62 1949 20 28 58 向山巌「アメリカ経済の発展構造」 1966年, p.158よ
り作成。
:〔注) 1)数値は自動車工業および同部品工業を含む ものである。
2) c=¼sxrno である。
インフレーションの過程における製品価格の大幅な引上げが大きく作用したことも見逃してはな らないであろう。これに対して被雇用者報酬をみると,それは絶対位においては増加したが,相 対的には減少の傾向を示しており,その結果労働分配率は1946年を1::."ークとして,景気の上昇に つれて低下し,早くも1948年には1939年の戦前水準以下となったのである。要するに自動車会社 は,ィンフレーションの昂進する中で労働分配率を低め巨大な利潤を確保することによって,急 速に立直りその地歩を強化したのである ら
ところで戦後のアメリカ自動車工業には,つぎのような会社が存在した。ゼネラル・モークー ス社 (General Motors Corp.), クライスラー社 (Chrysler Corp.), フォード社 (Ford Motor Co.)などビッグ・スリーの他に, ハドソン社 (HudsonMotor Car Co.), ナッシュ 社 (NashMotors), スチュードベーカー社 (Studebaker Corp.) , パッカード社 (Packard Motor Car Co.), ウイリズ・オーバーランド社 (Willys‑Overland Co.), クロスリー社
(Crosley Motors Inc.)など既存の独立会社があり,さらに新規参入の独立会社としてカイザ ー・フレーザー社 (Kaiser‑FrazerCorp.), クッカー社 (TuckrCorp.)などがあった。
まず上記諸会社の戦後初期の段階における状況を考察することからはじめようと思う。第3表 はアメリカの乗用車登録台数と,マーケット・シェアを示すものである。 G M社はビッグ・スリ ーの中では自動車生産への転換に最も好都合な装備をもっていた18)が, 1945年11月から翌年3 月まで続いたストライキの影響で生産体制の転換に遅れをもたらし, 1946年のマーケット・シェ アは38.796にとどまった10)。 その後は,組織の柔軟性と多様な活動分野を生かして,常に乗用
17)向 山 巌 前 掲 書159160頁。
18) J. B. Rae, 必id.,p. 162. 岩崎・奥村訳前掲書225頁。 19)内田・武藤前掲論文412頁。
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関西大学「社会学部紀要」第3巻第2号
第 3 表アメリカの乗用車登録台数とマーケット• シェア ピ グ AMC スチュードカイザー・フレ
フォクライ・スツ リ ベーカー ーザー・ラインウィクロ 輸 入 新 規 登 録 対 前 G M ードスラーー計 ハソンシュド
I
ナッ琴コ干ー翌事̲叶̲?J̲ ごリスさリ車 台 数 年 比•—■''''- --~- ‑
1946 37. 8 22. 0 25. 7 85. 5 4. 0 4. 7 3. 2 2. 0 0. 2 0.1 ‑ 0. 3 0. 2 ‑ 1,815,196 ‑ 47 41. 9 21. 1 21. 8 84. 8 2. 6 3. 2 3. 2 1. 5 1. 8 1. 6 ‑ 0. 7 0. 5 ‑ 3,167,231 74. 5 48 40. 6 18. 8 21. 5 80. 9 3. 1 3. 0 4. 1 2. 2 3.1 1. 7 ‑ 0. 6 0. 7 0. 5 3,490, 952 10. 2 49 42. 9 21. 3 21. 4 85. 6 2. 9 2. 8 4. 1 2. 0 1. 2 0. 3 ‑ 0. 6 0. 2 0. 2 4, 838, 342 38. 6 50 45.4 24.0 17.6 87.0 2.1 2.8 4.2 1.2 1.4 0.2 0.2 0.5 0.1 0.3 6,326,438 30.8 51 42. 8 22. 2 21. 8 86. 8 1. 9 2. 8 4. 1 1. 3 1. 0 ‑ 1. 0 0. 5 0. 1 0. 4 5, 060, 903 ‑20. 0 52 41.7 22.8 21.3 85.8 1.9 3.4 3.8 1.6 1.0 ‑ 0.7 1.0 0.1 0.7 4,158,394‑17.8 53 45. 1 25. 1 20. 3 90. 5 1. 2 2. 4 2. 8 1. 2 0. 4 ‑ 0. 2 0. 7 ‑ 0. 5 5, 738, 989 38. 0 54 50. 7 30. 8 12. 9 94. 4 0' ‑. 6 1. 5 1. . . 7 0. . 7 0. . 2 ‑ 0. 0 0. 3 ‑ 0. 6 5,535,464 ‑ 3. 5 55 50. 8 27. 6 16. 8 95. 2 1. 9 2.1 o. 0 ‑ ‑ 0.1 ‑ 0. f 7,169,908 29. 5 56 50.8 28.4 15.5 94.7 1.9 1.8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 1.7 5,955,248‑16.9 57 44. 9 30. 4 18. 3 93. 6 2. 0 1. 1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 3. 4 5, 982, 342 0. 5 58 46. 4 26. 4 13. 9 86. 7 4. 3 1. 1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 8. 1 4, 654, 514 ‑22. 2 59 42. 1 28. 1 11. 3 81. 5 6. 0 2. 2 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑10. ~6,026,500 29. 5 60 43. 6 26. 6 14. 0 84. 2 6. 4 1. 6 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 7. 6 6,576,650 9.1 61 46.5 28.5 10.8 85.8 6.3 1.2 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 6.5 5,854,747‑11.0 62 51.9 26.3 9.6 87.8 6.1 1.1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 4.9 6,938,863 18.5 63 51.0 24.9 12.4 88.3 5.7 0.8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 5.1 7,556,717 8.9 64 49. 1 26. 0 13. 8 88. 9 4. 7 0. 3 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 6. 0 8, 065, 150 6. 7 65 50. 1 25. 5 14. 7 90. 2 3. 5 0. 1 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 6. 1 9, 313, 912 15. 5 66 48. 1 26. 1 15. 4 89. 6 2. 9 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 7. 3 9,008,488 ‑ 3. 3 67 49. 5 22. 2 16.1 87. 8 2. 8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 9. 3 8,357,421 ‑ 7. 2 68 46. 7 23. 7 16.2 86.6 2.8 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑10.5 9,403,862 ‑‑12. 5 内田忠夫・武藤博道前掲論文411頁。
JI(市場の40%台を占めて業界第1位の地位を保った20)。ついでクライスラー社についていえ ば,戦時中は最大の戦車製造業者としての役割を果した21)が, ビッグ・スリーのなかではいち 早く自動車生産への転換を整えて市場の21彩から25%を占有し, 1949年まではフォード社を押え て業界第2位の座にあった。ところでフォー四社は,ヘンリー・フォード1世の独善的な経営が たたって1920年代から凋落の道を辿り,終戦直後にはまさに危機的な状態に追込まれていたが,
ヘンリー・フォード2世が1945年9月21日に社長に就任するや,経営の革新に乗り出し,会社の 再建に着手することになった22)。そして戦後の数年間にわたり,乗用車市場の20彩台をめぐっ てクライスラー社と激しい2位争いを展開した。その結果, 1950年にはクライスラー社の100El ストライキの間隙を衝いてマーケット・シェアの逆転に成功し,フォード社はここに1936年以米
20) J. B. Rae, ibid., p. 163. 岩崎•奥 村 訳 前 掲 書225226頁。 21) J. B. Rae, ibid., p. 163. 岩崎・奥村訳前掲書226頁。
22) J. B. Rae, ibid., pp. 165167. 岩崎・奥村訳前掲書228231頁。
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実に15年ぶりに自動車業界第2位の座を奪還することになったのである28)。さて, 上記のビッ グ・スリーを全体としてみれば,戦後の初期には,生産転換,原料不足,労働争議などに伴う幾 多の困難を抱えながらも,総じて乗用車市場の85%前後を占有して,すでに独立諸会社との間に 大きな格差をつけていたのである。
つぎに,独立会社についてみると, 1952年までは戦後の絶対的な乗用車不足の中で新規参入会 社を含めて,全体として常に市場の10%以上を占め,1948年には 19.4 %までに達した2ヽ)。戦後独 立会社の活動を旺盛にした要因としては,基本的には自動車市場が売手市場であったという点に あるが,つぎのような事情もあづかって貢献していたと考えられる。第11こ,独立会社はその生 麟模からいって活動に小回りが利くという点から,ピッグ・スリーが平時生産体制への移行に 手間どっている間に,生産転換を敏速に遂行し得たことである26)。例えば, スチュードベーカ 一社は最初に本格的生産に復帰して早くも1947年型から戦後モデルヘの転換を実現することがで きた118)。フェリーボートからヒントを得たと考えられる頭尾同型のモデルは有名である27)。こ れに対してビッグ・スリーの方では,戦後モデルとして登場したのはフォードの1949年型が初め てであった118)。 第 2に, ピッグ・スリーにとって原料不足や労働争議などが,すでに述べたご とく量産体制の確立にたいして阻止的な要因となったのだがu>, かえってそのことが且産メリ ットを持ち得ない独立会社にとって相対的に有利な条件として作用したことである。
ここでは独立会社に関して,そのうちで新規参入会社について述ぺようと思う。自動車不足の 戦後数年間は,爆発的な需要の拡大にもかかわらずビッグ・スリーの量産体制が未だ確立されて いなかったので,他のどのような自動車会社も活況を呈することができたのであって,いうまで もなく自動車市場への参入障壁は低かったのである。カイザー・フレーザー社はまさにこの時期 に自動車市場への参入を試みたao)。カリフォルニアの実業家ヘンリー・ J・カイザー (Henry
J
. Kaiser)c注1)は1945年にグラハム・ページ自動車会社 (Graham‑PaigeMotor Co.)の社長 ジョセフ •W ・フレーザー (Joseph W. Frazer)と協力して,カイザー・フレーザー社を設立 し大規模な自動車生産に乗り出した。その際の生産設備および営業資金は政府機関の援助によっ てまかなわれた。カイザー・フレーザー社の生産設備は, その主力工場であるウイロウ・ラン (Willow Run)工場(注2)を含めて政府所有の戦時生産工場の払下げまたは賃借りによって取得 された。また金融面でも設立以来政府筋からの信用を引出すことに成功し,設立後数ヶ月にして
23) 内田•武藤前掲論文 412 頁。 J.B.Rae, ゐid.,p. 167. 岩崎•奥村訳前掲最 231 頁o
24)内田・武藤前掲論文410頁。 25)同上論文同頁。
26)同上論文 412頁。
27) J. B. Rae, ibid., p. 163. 岩崎•奥村訳前掲書 226 頁。
お)内田•武藤前掲論文 410 頁。
29)同上論文 412頁。
30) Leonard W. Weiss, Economics and American Industy 1961, p. 338.
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