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龍谷大学学位請求論文2004.02.09 田中, 龍山「セクストス・エンペイリコスの懐疑主義思想 -古代懐疑主義をめぐる批判と回答-」

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セクストス・エンベイリコスの懐疑主義,思想

一一古代懐疑主義をめぐる批判と回答一一

田 中 龍 山

頁あたり 40X34 (1360)

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目次 序章 「記録のままに報告する(ヒストリコース・アパンゲレイン)J とし、う立場 一ーセクストス自身の思想をめぐって・.• . . 1 第1部 セ ク ス ト ス の 懐 疑 主 義 の 位 置 一ーその由来と周辺 第1章 ピュロンとピュロン主義 1 9 第2章 ピュロン主義とアカデメイア派

39

2

部 古 代 懐 疑 主 義 の 構 成 原 理 一一言論の対置 第 3章 古代懐疑主義における自己論駁の問題 . . . • • 54 一一「下剤の比轍Jの解釈(ベリトロベー批判への回答) 第4章 古代懐疑主義における哲学と生活 . . . 67 一一サインをめぐる議論を手掛かりに(アプラクシア批判への回答) 第5章 古代懐疑主義における行為の問題 . . . 8 1 一一神をめぐる議論を手掛かりに(不道徳批判への回答) 第3部 古代懐疑主義の始動原理 一一幸福の終わりなき探求 第6章 古代懐疑主義と相対主義 94 第7章 古代懐疑主義における幸福 106 第8章 古代懐疑主義における探求と現われ 122 第9章 古代懐疑主義と古代医学

137

終章 古代懐疑主義の「能力」 160 初出一覧 165 文献表 166 原典索引

172

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文中略語表 セクストスの著作 .Ml・ 11 P

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-3 その他 Aca.pri. Aca.post.

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guratio Empirica. ed.Deichgraber 8toicorum路 島rumFragmenta,ed. Arnim

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序章 ヒストリコース・アパンゲレイン(記録のままに報告する)という立場 一 -

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セクストス自身の思想Jをめぐって

*

1562年、アンリ・エティエンヌ(ラテン名ステファヌス)によって、古代ギリシアの思 想を語る一冊の書が翻訳として世に出ることになった。思想史において、認識論支配の発 端とも称される出来事である。「われわれは真理を認識することができるのか」という問い をつき付けたその書は『ヒ。ユロン主義哲学の概要』であり、その著者はセクストス・エン ベイリコスである。そして「セクストスとギリシア懐疑主義の再発見が、続く 300年間 の哲学の進路を決定したJ1とまで言われるのである。 さて、本論でわたしが明らかにしたいと願うのは、このセクストス・エンベイリコスの 懐疑主義思想についてである。セクストスは『ピュロン主義哲学の概要』の中で、懐疑主 義を次のように語っている。 テクスト 1 「懐疑主義とは、し、かなる仕方においてであれ、現われるものや思惟されるものを対 置しうる能力であり、これによってわれわれは、対立する諸々の物事と諸々の言論の 等しい力の対立(イソステネイア)ゆえに、まずは判断保留(エポケー)にいたり、 ついで動揺のない心境(アタラクシア)にいたるのであるJ

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このセクストスの証言が本論の出発点であり、また解明すべき到着点でもある。以後、 本論でも繰り返し言及することになるこの証言を、わたしは「懐疑主義の基本テーゼJ と 呼びたい。この「懐疑主義の基本テーゼ

J

は、その定義の明確さとは裏腹に、ただちに多 くの疑問を呼び起こすであろう。「等しい力の対立jとはし、かなる事態であり、し、かにして 可能となるのか。「判断保留Jの射程はどこまで及ぶのか。それが「動揺のない心境」にし、 たるのはなぜなのか。そもそも「動揺のない心境」とはいかなる状態で、あるのか。こうい った聞いに答えながら、セクストスが「能力j と呼ぶ古代懐疑主義の内実を明らかにする ことが本論の目的である。しかしながら、この「懐疑主義の基本テーゼ

J

をセクストスの もとで論じようとする場合には、あらかじめ触れておかねばならないことがある。つまり それは、『ピュロン主義哲学の概要』でセクストスが語る懐疑主義を、セクストスの思想、と 見なしていいのか、としづ問題である。 先に述べたように、セクストス・エンベイリコスの著作に対する極めて高い評価は、1960 1 Annas&B位 nes[1985],(金山訳,9)

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年に出されたPopkinの研究 Th

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以来、 ほぽ思想、史の常識として定着しつつある。著作のスタイルについては決して好評と言えな いにしても、その内容は思想史の転換を引き起こす要因になったと考えられている。しか しその一方で、著者である「セクストス・エンベイリコス自身jについては、これまであ まり論じられることはなかった。セクストスの著作は、『ピュロン主義哲学の概要』全三巻 と『学者たちへの論駁』と総称される全十一巻が現在に伝えられており2、それは決して少 ない分量ではない。だがその中でセクストスは自分自身についてほとんど何も語っていな い。セクストスの語る「われわれ」としづ人称を手掛かりに、医者で、あったということ、 ギリシア語を母国語とし、アテネ、アレクサンドリア、ローマといった都市で、活躍したこ とが推察され3、また年代に関しては、ディオゲネス・ラエルティオス (3世紀前半)によ る言及とガレノス (129頃ー

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の沈黙などから、おそらく紀元後二世紀の後半か ら三世紀の初頭に生きたであろうと推定されるのみである。だがわたしには、「セクストス 自身」ということで、彼の生涯についてこれ以上のことを論じる用意はない。聞いたいの は「セクストス自身の,思想」である。そのためにはまず、いつからかセクストスに貼られ るようになった「オリジナルな思想家で、はなく、古代懐疑主義を報告する歴史家J とし、ぅ レッテルの見直しを行わねばならない。 ここでわたしが「見直しjと言うのは、「歴史家Jとしづ立場を、ある意味でセクストス 自身も自覚していたからである。セクストスは『ピュロン主義哲学の概要』第 1巻の始め に、これから懐疑主義を概説するに先立ち、次のように語っている。 テクスト 2 「ただし、これから語る事柄のどれについても、われわれはそれが完全にわれわれの 語るとおりであると確言するわけではなく、むしろ、各論点について、現在われわれ に現われるままに記録のかたちで報告する(iOTOPlKWSa1TαyyEAelV)だけであること

を、あらかじめ注意しておこうJPH1.4 したがって、「ヒストリコース・アパンゲレイン」と語っているセクストスを「歴史家J 「報告者」と呼ぶことは、けっして間違った評価ではない。しかしセクストスのオリジナ リティーとの関連で、そういった呼称が否定的な意味合いでセクストスに帰せられる場合、 わたしは、セクストスの語る「ヒストリコースjあるいは「アパンゲレイン

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という言葉 2 他に、セクストス自身が言及している『経験主義の覚え書~

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魂に関 する覚え書.~ (Mt>.55)が失われたと考えられる。なお『学者たちへの論駁』のラテン訳は 1569年にGentianHerveによって出版された。 Schmitt[1983],237 3金山[1998],437・438

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の意味が誤解されているのではなし、かと考える。以下この序論では、まずセクストスのオ リジナリティーをめぐるこれまでの解釈の歴史を振り返り(第 1節)、次いでセクストスの 他の個所での言及を手掛かりにしながら、この個所で語る「ヒストリコース・アパンゲ、レ インJの意味を明らかにしたい(第 2節)。その目的は、『ピュロン主義哲学の概要』でセ クストスが語る懐疑主義を、本論においてセクストスの思想と呼ぶ際の、その意味を明ら かにすることにある。そして最後に本論の考察手順を示したい。 第 1節懐疑主義の報告者としてのセクストス 1969年、 Stoughが出版した

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は、古代懐疑主義への注目を促し、そ の後の懐疑主義研究ブームの火付け役となった書で、ある。その中でStoughは「セクスト スは、すべての懐疑主義者の中で最も有名であるにもかかわらず、 originatorof ideasと してよりもhistorianof philosophyとして評価されているJと現状を顧みながら、「しか しセクストス自身の思想は、彼以前の思想家のメランゲではない。先駆者たちの影響は明 らかである。しかし彼らの思想、は批判され、洗練され、強化されている。そして以前の思 想家たちにはその痕跡が見出されない思想や議論によって補完されているJ4と述べている。 Stoughが現在の懐疑主義研究に大きな影響を与えていることは、彼女の著作への度重な る言及からも明らかである。彼女の指摘した二つの点、すなわち「歴史家セクストス」と いう従来の評価と、「セクストス以前には痕跡が見出されない思想や議論Jを発掘しようと する近年の試みを追ってみよう。 実際のところ、 20世紀の Stough以前の研究状況を見ると、懐疑主義の研究書や5、セ クストスの翻訳において6、さらには哲学の歴史でセクストスが言及される際にも7、われ われは、セクストスに形容される「歴史家J

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編集者Jというレッテルを至るところで見出 す。そして必ずその前置きとして繰り返されるのが「オリジナルな,思想家ではなく」であ る。極端な主張を一つ挙げるなら、 1948年にフランスで出版されたセクストスの抄訳の序 で、 Grenierは、内容面でのオリジナリティーの欠落を理由に、「セクストス・エンベイリ コスはわれわれにとって一つの名前で、しかない。彼の著作はわれわれに〔古代懐疑主義を 4 S旬ugh[1969]

106 5 Robin[1944],200

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われわれはセクストスにオリジナルな思想家を求めではならない。彼 は編集者であるJ 6 Bury[1933],出「多分、これらの著作の中にオリジナルなものは少ない。セクストスは 大部分において編集者であった」 7 Brehier[1931],165・166

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これらの著作はコピーではあるが、価値のある歴史的なデータ であるJNestle[1932], 117・118

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セクストスは新しい思想をほとんどもたらしていなしリ

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伝える〕重要な唯一のものである。しかしその著作は彼の著作でさえないJ8とまで、語って いるのである。 もちろんセクストスは、先にも述べたように、自分自身について何も言及しておらず、 ましてや懐疑主義を自らのオリジナルな,思想として語ってはいない。懐疑主義を論じる際 にセクストスが人名としてあげるのはピュロンである。 テクスト3 「懐疑主義は、さらに「ピュロン主義」とも呼ばれているが、これはピュロンが彼以 前のだれよりも実質的に、かっ顕著に懐疑に専心したとわれわれに現われているとこ ろに由来しているJ

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ヒ。ュロンとは言うまでもなく、今日のわれわれに、ギリシア古代懐疑主義の創始者と見 なされている人物の名前である。そしてピュロンは一冊の書も残していない。だがピュロ ン(前 365/60頃ー前 275170頃)とセクストス(後 2世紀後半から 3世紀初頭)との時代 的隔たりは大きく、「歴史家」セクストスによって伝えられるのは、ピュロンと比べてより 洗練された後期の懐疑主義の姿であると考えられている。言い伝えによると、ピュロンの 懐疑主義は直弟子のティモンの後、しばらく途絶えたとも言われているのである。ここで、 少し長い引用となるが、ディオゲネス・ラエルティオスによるティモン以降の懐疑主義の 系譜を記しておこう。 テクスト 4 「さて、メノドトスによれば、この人(ティモン)の後継者は一人もいなくて、キュ レネ人のプトレマイオスが再興するまでは、彼の学派は途絶えていたとのことである。 しかし、ヒッポボトスやソテイオンが記しているところによれば、彼の弟子にはキュ プロス島出身のデ、イオスクリデス、ロドス島出身のニコロコス、セレウケイアの人エ ウプラノル、そしてトロアス出身のプラウルスがし、たと言う。…ところでエウプラノ ルの弟子がアレクサンドリアのエウプロスで、このエウブロスの弟子がプトレマイオ ス、プトレマイオスの弟子がサルベドンとへラクレイデス、そしてへラクレイデスの 弟子がクノソス人のアイネシデモスである。このアイネシデモスはまた、『ピュロン主 義哲学の概要』八巻の著者でもあった。さらに、そのアイネシデモスの弟子が彼と岡 市民のゼウクシッポスで、 ゼウクシッポスの弟子が「がに股」と縛名されたゼウクシ ス、ゼウクシスの弟子がリュコスのラオディケイア出身のアンティオコスである。そ 8 Grenier[19481,17(傍点部分はイタリック)

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してこのアンティオコスには、ニコメディアの人で、経験派の医者であったメノドトス と、ラオディケイア出身のテイオダスという弟子がし、た。さらに、メノドトスの弟子 が、アリエウスの子でタルソス出身のへロドトスであり、そしてへロドトスの弟子が 経験派の医者セクストスであるJDL9.115・116 ディオゲネス・ラエルティオスが伝えるヒッポボ、トスとソテイオンの証言をもとに、セ クストスまでの系譜を図式化すると以下のようになる。(直線は師弟関係を意味する) ヒ。ユロン (365/60頃-275170頃) ティモン (325/20頃-235/30頃) エウプラノル ディオクスリテス ニコロコス プラウルス エウプロス プトレマイオス ヘラクレイデス サルベドン アイネシデモス(前 1世紀) ゼウクシッポス ゼウクシス アンティオコス メノドトス テイオダス ヘロドトス セクストス(後

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世紀後半

-3

世紀初頭)

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これら懐疑主義者たちの系譜の中で、われわれに詳細が知られる人物は全くいない。そ ういった事情の中で、

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世紀の懐疑主義研究にまで遡ると、一つの興味深い解釈の形が見 出される。それは、「歴史家セクストス」によって伝えられる「懐疑主義者アイネシデモス

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とし、う構図である。 アイネシデ、モスについては、先のディオゲネスの証言にも見られるように、またポティ オス (9世紀)の Bl古.]i

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に要約が残されているように、セクストスのそれと同名 の『ピュロン主義哲学の概要』としづ本を書いたと伝えられている。そして、アカデメイ ア派を離脱しピュロン主義を実質的に復興した人物であるということ、おそらく紀元前 1 世紀に生きたということが今日では確かとされる。だ‘が彼の著作そのものは残っておらず、 全体像はセクストス以上に不明瞭である。しかしながらそれにもかかわらず、

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世紀の研 究者たちは、古代ギリシアの懐疑主義を論じる際に、さかんにアイネシデモスを取り上げ ているのである。例えばBrochardは、 1877年に出版された

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の多 くのページをアイネシデモスに割きながら、セクストスについては「どの資料から収集し たのか」という、いわゆる Quellenforschungを中心議題としている。またそれ以前では、 Saissetによる1865年の著

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もその傾向が著しい。 Saissetは「セクストスは編集者であり、それ以上のなにものでもなしリ 9と主張する。そ して「セクストスの著作は、アイネシデモスににおいて具現化されたギリシア懐疑主義の 完全な宝庫であるJ10と言われるとともに、アイネシデモスは「おそらく古代における第 一の懐疑主義者J11とまで評価されるのである。 もっともアイネシデモスが古代懐疑主義の歴史の中で高く評価されるのは、けっして謂 われのないことではない。というのも、有名な「判断保留の十の方式

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はおそらくアイネ シデモスに由来するものだからである。それについてセクストスは次のように伝えている。 テクスト 5 「判断保留がそこから導出されてくると思われる諸方式の数は、比較的初期の懐疑派 の間で通常十個が伝えられているJPHl.36 セクストスがここで語る「比較的初期の懐疑派j とは、同様にセクストスが『学者たち への論駁』第 7巻で「アイネシデモスの十の方式J(.M7.435)と記していることからも、 ほぽアイネシデモスであろうと考えられる。そして f十の方式」とは、セクストスの伝え るところでは、「一、動物相互の違いに基づく方丸二、人間同士の違いに基づく方丸 9 S坦sset[1865],226 10Saisset[18651,3 11S出 回 目[1865],15

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三、感覚器官の異なる構造に基づく方式。四、状況に基づく方式。玉、置かれ方と隔たり と場所に基づく方式。六、混入に基づく方式。七、存在する事物の量と調合に基づく方王に 八、相対性に基づく方式。九、頻繁に遭遇するか稀にしか遭遇しなし、かに基づく方式。十、 生き方と習慣と法律と、神話を信じることと、 ドグマテイストの想定に基づく方式」 (PHl.36)である12。判断保留へと導くためのこれらの方式は、体系的でかなり成熟した 懐疑のあり方を示しており、それが帰せられるアイネシデモスが高くす判面されることは、 実に正当なことであると考えられる。しかし、セクストスがこのテクストにおいてはアイ ネシデモスとしづ個別名を挙げていないことには注意が必要かもしれない。 さてそれはともかく、セクストスの報告によって高く評価されることになった「懐疑主 義者アイネシデ、モス」は、やはりセクストスの或る「報告」によって、ドグ‘マテイストの 嫌疑が掛けられることになる。それは以下である。 テクスト6 「ところが、アイネシデモスを中心とする人たちは、懐疑主義はへラクレイトス哲学 に通じる道であると言っていた。その理由は、同ーのものに関して反対のことが現わ れるということは、同ーのものに関して反対のことが存立するということに先行する ものであり、そして、懐疑派は同ーのものに関して反対のことが現われると言ってい るのに対して、他方へラクレイトス派は、そこからさらに進んで、反対のことが存立 するということにまで行きつくのであるから、というのであるJ

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さらには、セクストスが繰り返しアイネシデモスに形容する「へラクレイトスにしたが って (KαTaTω'HpaKAEITOV)Jとしづ表現などからも、このテクスト 6と「懐疑主義者 アイネシデモス」とは両立しないのではないか、という問題を引き起こしたのである。そ して「アイネシデモスは厳密な意味での懐疑主義者ではない。むしろ彼は古代の哲学、す なわちへラクレイトス主義を再生させるために懐疑主義を利用したJ13とし寸評価を受け ることにもなった。 この「アイネシデモスとへラクレイトス主義」とし、う問題は、19世紀の後半から実に様々 に論じられた。その中でDielsは、 1879年の

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の中で、アイネシデモス をへラクレイトスと結びつけるのはセクストスの誤解によるものである、とし、う解釈を打 ち出した14。その際に Dielsは、ポティオス (9世紀)の

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12この方式に関してはAnnas& Barnesによって詳細な研究がなされている(Annas& B世 間s[1985])。

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454 14 Diels[1879],210f.

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イネシデモスを真のアイネシデモスと見なし、それと相容れないという理由で、セクスト スの報告を斥けたのである。このDielsの解釈は Zellerに支持され、後に大きな影響を与 えたと考えられる15。セクストスの著作と比べるとごく僅かな量でしかないポティオスの 証言は、「われわれが最も信頼すべきアイネシデモスについての資料J16という位置が与え られるようになった。それと同時に、セクストスは「歴史家J としづ立場さえ危うくなら ざるをえない。というのもその報告は「誤解」に基づいているからである。そして研究者 たちには、 Dielsによって刻印された「誤解」の源を探るという余分な作業が課せられた。 例えばNatorpは、「セクストスはアイネシデ、モスの著作を historischな関心によってでは なく、事柄についての関心で読んだ。それゆえこの点では正確に引用しなかったJ17とい う仮定を論じた。そうなるともはやセクストスの「ヒストリコース」としづ証言そのもの を否定することになる。他方Zellerは、同様の表現がソラノス (2世紀前半)にも見られ る点を重視し、誤解の源に、セクストスとソラノスがともに引用したはずの「別の懐疑主 義者の著作」を想定した1t 確かに Zellerの想定は、誤解の責任をセクストス自身から免 除するかもしれない。とはいえ、軽率な引用としづ批判を逃れることはできないであろう。 いずれにせよこういった重鎮たちのf懐疑主義者アイネシデ、モスJをめぐる解釈によって、 それを報告するセクストスは、オリジナリティーどころか「歴史家j としての資質さえも 疑われる事態になったのである190 その一方で、セクストスのオリジナリティーに話を戻すと、 Dielsや Zellerの時代にも 冷静な解釈はあった。例えばRichterは 1904年の著

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の中で、内容の多くを他の著作に負うことを認めながらも、「どの部分がどの人物のもので、 どの部分がセクストス自身のもので、どの部分が伝統によるものなのかについては、僅か な例外を除いて探求されるべきままであるJ20と主張している。そもそも実のところ古代 懐疑主義ついては、セクストスの他には「歴史家Jさえも見出されないのである。この実 情はすでに 19世 紀 初 頭 仇

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訟とし、う大著の中でTennemannによ って指摘されていた。Tennemannは「われわれはセクストスと彼の先駆者たちとの聞に、 特定の境界線を引くことはできない。なぜなら、彼以前の著作とセクストスの著作とを比 15

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zel[1883],65 16 Na句rp[1884],79 17 Natorp[1884],79.Natorpはこのように仮定することも可能としているだけである。 18 Zeller[19235],37 19この問題については本論で取り上げない。だがもし懐疑主義者アイネシデモスとセクス トスの証言を両立させるとすれば、アイネシデモスが懐疑主義者としてアド・ホミネムに 語った事柄をセクストスがそのまま報告した、とし、う解釈が成り立つように考える。また、 当時へラクレイトスを重視したストア派に対するアンチ・キャンペーンではないか、とい うLong& Sedleyの推測も可能であろう (1ρng& Sedley[1987], vol.l,488)。

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較できないからであるJ21と主張する。そして Tennemannがさらに冷静なのは、ピュロ ンからセクストスに至る経緯の中での変化にも注意を傾けている点である。すなわち「教 義主義の体系がより包括的なものとなり、またより巧みな技法で仕上げられるようになっ たのに応じて、そういった事情のもとで懐疑主義も、より強くまたより巧妙に教義主義に 対して攻撃するようになったJ22と指摘しているのである。つまり懐疑主義にも歴史的な 変遷があり、その中でセクストスのオリジナリティーはあるかもしれないが、われわれは それを厳密には特定するのは困難ではないか、という立場を取るのである。この「オリジ ナリティーは特定できなしリとしづ立場は、現在の懐疑主義研究にも見出される。例えば Hossenfelderは「その著作にどれほどセクストス固有なものがあるかは、もはや決定され ないJ23と言う。セクストス以前の著作が圧倒的に少ないという事情は、 Tennemann、 Richter、Hossenfelderと、時代を超えて大きな壁とならざるを得ないのである。 ここで現在の研究動向にもう少し目を向けてみると、さすがにオリジナリティーを全面 的に否定するような解釈は見出されない。むしろ、 Stoughが指摘したように、「セクスト ス以前には痕跡が見出されない思想、や議論Jを発掘しようとする意欲的な試みが盛んであ る。ここではSedleyとBett二人の議論を取り上げてみよう。 Sedleyは“TheMotivation of Greek Skepticism"とし、う論文において、セクストスの 著作の中では「ピュロン主義」としづ言葉以上に「スケプテイコス」としづ言葉が用いら れていることを指摘した。そしてそれはアイネシデモス以降の一つの動向につけられた言 葉であり、ピュロン主義の「目的jに関する見解の穏やかな変化を反映していると Sedley は主張する。 Sedleyの言う「スケプテイコス」は open-minderとしての探求を続ける者 であり、その点でドグ、マテイコスと対置される。そして「穏やかな変化Jとは以下である。 すなわち、ピュロン主義者であったアイネシデ、モスは、判断保留を目的とし、それに平然 とコミットしていた。だがそのことのドグマ性に気づき、それに対してもopen-mindでい る「スケプテイコスJは、判断保留を手段とし、当時、学派を問わず受け入れられていた アタラクシア(動揺のない心境)を目的とし、その困難から逃れた、と Sedleyは指摘す る。「ピュロンではなく、スケプテイコスがセクストスの真の英雄であるJ24とSedleyは 主張するのである。 Bettの語る「セクストス自身の,思想Jは、さらに大掛かりな企ての中で構築される。 Bett はピュロンからセクストスへの古代懐疑主義の歴史を、ほぽ全面的に見なおそうとする。 20 Richter[1904],33 21Tennemann[1805],274 22 Tennemann[1799],168 23 Hossenfelder[1985],148 24 Sedley[1983

]

21

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ヒ。ュロンに関する Bettの主張は後(本論第1章)で個別に取り上げるが、 Bettもアイネ シデモス以降のピュロン主義の変化を読み取り、そこにセクストスのオリジナリティーを 探ろうとしている。Bettはポティオスの証言から、相対主義的な懐疑主義を主張するアイ ネシデモスを浮かび上がらせ25、それを排したより洗練された懐疑主義をセクストスのオ リジナリティーと見なすのである。 これら「オリジナリティーはある

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とする解釈はし、ずれも興味深いものである。とくに Bettの企てはセクストスの著作のChronologyにまで及び、今後、多くの検討を必要とす る研究と言えるだろう。だがここでも指摘しなければならないのは、アイネシデモスが登 場する点である。つまり、セクストスのオリジナリティーをめぐる議論は、「あるJ

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なしリ いずれの立場も「アイネシデモスの思想Jとし、う、言わば虚構に引きずられている点では 同じなのである。「ないjとする解釈は、セクストスの語る懐疑主義を総じて「アイネシデ モスの思想Jと見なし、さらにそこに矛盾が見られると、ポティオスの証言を持ち出しセ クストスの「誤解j としづ熔印を押す。対する「あるj とする解釈も、ポティオスを基準 に「アイネシデモスの思想Jを画定しお、それとの比較でセクストスのオリジナリティー を発掘する。そしてここでも都合の悪いものは、セクストスによる「挿入」ではなし、かと 推測される27。そうなるとオリジナリティーはネガティブな色合いを帯びてくるのである。 いずれにせよオリジナリティーをめぐる議論は、「あるJ

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なしリともに、まずオリジナリ ティーを判定するための「もととなるものの画定Jが不十分であるという点、さらには、 それと相容れないものには「誤解J

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挿入Jとしづ都合の良い切り札を持ち出してくる点、 これらの点で批判を免れることはできないであろう。 ここでわたしは、「オリジナリティーはあるJあるいは「オリジナリティーはなしリとい う対立、さらにはTennemannなどの「オリジナリティーは特定できなしリとしづ立場と も別に、或る一つの立場を主張したい。それは 19世紀の終わり、やはり DielsやZeller の時代に主張されたPatrickの次の言葉に象徴される立場である。すなわち「セクストス はオリジナリティーを要求していない。むしろし、かなる場合も懐疑主義の議論を提供して いるJ28という立場である。だがこのことは、「この著作は個人的なものではない。学派の 著作集である J29あるいは「学派の共有財産の報告Jωとし、った解釈に見られるように、「学 派」のもとに「個人jを自制するとしづ慎ましやかさとして理解すべきであろうか。また 25Bett[20

]1,191・192 この点については本論第6章で論じる。 26Bett[2000],199 27 Annas[1986],9 28 Patrick[1899],22 29Brochard[1923],323 30 Ritter[1834],288

(15)

もちろん、セクストスの語る「ヒストリコース

J

に、「可能な限り主観を消し去るjといっ た近代の歴史学論争の言葉を当てはめてはならないだろう。諸解釈を離れて、セクストス の著作に戻って「ヒストリコース・アパンゲレインJを論じる時である。 第 2節 『記録のままに報告する

J

2 -1.アパンゲレインの匿名性 「ヒストリコース・アパンゲ、レインJという形の表現をセクストスが用いているのは、 テクスト 2のこの個所のみである。だが「アパンゲ、レイン(報告する)Jとしづ語は単独に、 懐疑主義を説明するにあたって何度か用いられている。例えば「何ものも把握不可能であ るJとし寸表現をめぐってセクストスは次のように言う。 テクスト 7 「しかし、このように言う人は、 ドグ、マテイストたちの間で探求されている物事が、 もともと把握不可能であるような自然本性的なあり方をしていると確言しているので はなくて、ただ自分自身の情態(パトス)を報告しているのであるJPHl.200 このような形でセクストスがアパンゲレインという動調を用いる場合、常にそれと対比 されている動詞がある。このテクスト 7の「自然本性的なあり方をしていると確言する (01αsesalouo8al)

J

、先のテクスト 2の「われわれの語る通りであると確言する

J

、さら に引用すると「懐疑主義者は自分への現われを語り、思いなしを持たずに自分の情態を報 告してし、るだけであり、外部に存在するものにっし、ては何も確言してし沿いJ(PHl.15)に おいてもそれは明らかである。すなわち「アパンゲ、レイン(報告する )Jは「ディアベパイ ウースタイ(確言する)J 31としづ動詞との対比で用いられているのである。セクストスが 「ドグマテイスト流の発言の仕方J(PHl.203)と言う「確言する (Olasesαlouo8al)Jとは、 例えば「絶対に真であり確実であると確言するJ(PHl.191)にも見られるように、自分が 何かを語る場合に、外部に存在するものについての自然本性的なあり方として、真なるも のとして、また自らの見解として主張する (a1TOφαiveo8at)、を意味する。アパンゲ、レイン とは、それと対比される懐疑主義者の語り方、すなわち一つの態度を表す動詞と考えられ るだろう。というのは、壊疑主義者もまた、先の「何ものも把握不可能であるJ といった 表現を用いるし、そもそも一般に「何々であるj と語る。もちろんセクストスは、懐疑主 31

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Scott[1968]の辞書には、 maintainstrongl

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confi.rmとし、った訳語が 与えられている。

(16)

義者が「であるj と語る場合、それは「現われるj としづ意味にすぎない、と何度も説明 している(PHl.135,198,20 1,.Ml1.18)。しかしながら、言葉として語られたことに限れば、 ドグ、マテイストとのそれと変わりがない。それゆえ、語られたことに対する態度の違いを、 セクストスはアパンゲレインという用語で表す必要があったので、ある。もっとも、セクス トスはこのアパンゲレインとし、う語について特に説明しているわけではない。だが、それ との対比で語られている「確言するJとは逆の態度であると推測することはできるであろ う。すなわち、「報告するjとは、自分が蒙っている情態を、ドグマテイストのように、そ れを外部に存在するものの自然本性的なあり方として語るのでもなく、それに真偽の判断 を加えることもなく、現われるがままに語る、という意味なのである。テクスト 7でセク ストスはそれを「パトスの報告Jと呼んでいる。懐疑主義者は、自分の言明さえ「絶対的 に真であると確言してし唯いJ(P.ffi.206)のである。アパンゲレインの主体は、自らの主 観的な判断を下さないという点で、匿名的でさえある。このことをわたしは、アパンゲ、レ インの「匿名性Jと呼びたい。 だがここでも注意したいのは、この「アパンゲレインj という動調の使われ方も、けっ してセクストスのオリジナルな用法で、はない、という点である。セクストスは、論敵との 論争の中でその当時用いられていた言葉を借りているにすぎない。ではどこから借り出し てきたのであろうか。この問題は、もう一方の「ヒストリコースjという言葉の出自とも 関連してくるのである。 2-2. ヒストリアの個別性 ではヒストリコースに目を向けてみよう。驚くことにヒストリコースとしづ副調が登場 するのはこの個所だけである。さらに、その名調形ヒストリアに関しても、セクストスは 積極的に懐疑主義の説明に用いてはおらず、むしろ批判的な考察を加えてさえいる。 セクストスがヒストリアを主題として論じるのは、『学者たちへの論駁』第 1巻、別名『文 法学者に対する論駁』においてである。そこでのヒストリア(記録)は、例えば「詩人や 作家によって語られている事柄についての技術」 ω11.73)と定義されるような文法術を構 成する一部分である32。そのヒストリアはさらに、「真に生じたことについての記述」であ る r(真の)ヒストリアJと、「生じてはいない事柄を生じたかのように語る Jところの「フ 32セクストスは、われわれが日常生活で用いる読み書きの技術としての、広義の文法術に 対しては批判を加えない。むしろそういったものには「最高の謝意を必要とするJ(.Ml.56) とさえ言う。論駁の対象はドグマテイストが主張する「文法術

J

である。そしてその定義 も、セクストスが示すように一様ではない。また文法術の分類もドグマテイストによって 異なるし、そこに位置付けられるヒストリアの理解も様々である。ここでは最も特徴的な アスクレピアデスの定義、分類を取り上げる。

(17)

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と、「生じていない偽りの記述」である「物語り(凶

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に分類さ れる(.1111.263)。ここでのセクストスの論旨はきわめて単純である。つまり、ヒストリアは 技術ではない、したがってそれを部分とする文法術も技術ではない、というものである。 セクストスは、彼の常套手段であるが、ヒストリアの非技術性を幾重にも論じている。そ の中でセクストスがヒストリアの非技術性としてまず論じるのは、「一定の方法によって 取り扱うことのできない素材

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からなる

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(Ml.254)、という点である。セ クストスが言うには、例えば医者が「特定の普遍的な方法や技術的な能力からJ病気を診 断するのに対して、文法家は「かつて生じたこと」を「特定の知識や普遍的な理論から報 告する」ことはできなし、(.1111.255)。なぜなら、ヒストリアが対象とする個別的なことすべ てに出会い、それを記述することは、セクストスが語るように、技術ではないし、そもそ も可能でもなL、からである。セクストスは次のように語る。 テクスト 8 「限りのないもの、時に応じて別様になるものについては、何ら技術的な知識は存在 しない。実際に個別的なヒストリアは、その多さゆえに限りのないものであり、同じ ことについての同じ事柄が万人のもとでヒストリアの対象となるのではないがゆえに 定まらないものであるJ.1111.259-260 この個所でのセクストスのヒストリア批判と、テクスト 2の用例とを照らし合わせて、 セクストスのヒストリアに対する態度の二義性を読み取る必要はない。というのは、セク ストスがこのテクスト8で、語っているのは、ドグマテイストの主張するヒストリアはドグ マテイストの主張するテクネーではない、ということにすぎなし、からである33。対するテ クスト2では、セクストスは巧妙に、ドグマテイストの語るヒストリアの特徴を利用して、 懐疑主義の立場を説明していると思われる。すなわちそれはヒストリアの「個別性」であ る叱セクストスは「ヒストリコース」という言葉で、「今ここでこのわたしにJという点 を強調しているのであろう。それと対比されているのが、ドグマテイストがテクネーのも とで主張する「普遍性」である。セクストスは懐疑主義を説明するにあたって、そこで語 られる内容が絶対的なものである、とは言わないのである。 ところで文法術の一部としづ側面とは別に、ヒストリアとし、う語は、当時の医学用語と 33そもそも「技術Jに対しても、セクストスはそれが「把握の体系j として語られる場合 には批判するが、その一方で「懐疑主義者は諸技術が与える教示に従って生きるJ(PHL24) と言う。セクストスが批判するのは、技術が「生活の有用性」というレベルではなく、「普 遍的な理論」として語られる場合である。 34 Aristo加les,Poetica,9. 1451b

(18)

の関連を無視して説明できない。「ヒストリア(記録)Jは、当時の医学の代表的な学派の 一つである経験主義にとっては、「アウトプシア(実見)Jとならび医術の知識を成り立た せる重要な部分で、あった。ところでセクストスは、その名が示すように、経験主義医学に 属していたとされる35。これらのことから、例えばRobinは、「セクストスは経験主義の医 者によって奨励されたヒストリアとしづ方法を哲学に適用したJ36と主張する。そして実 際に、ヒストリアとしづ言葉だけでなく、アパンゲ、レインとしづ言葉も、しかもそれらは 関連しながら、経験主義医学の人々によって語られているのである。ここに「ヒストリアJ と「アパンゲ、レインjの出自が特定できそうである。 経験主義医学に対しては、ガレノスによると、ヒストリアも含めてそもそも「経験Jと いうものが「一定の方法によって取り扱うことができない (aμe8oooc)Jとしづ批判が展 開されており

3

1

その点では先に述べた文法術の一部としてのヒストリアと共通点を有す る。しかしながらよく見ると、それらには相違点もある。ガレノスはヒストリアを「実見 の報告」舗と定義し、また「同じことが、それを観察した人にとっては実見であり、観察 した事物を学習した人にとっては記録となるJ39とも言う。つまりここでは、直接的に観 察された自分自身の「実見」と対比された、現われについての間接的な報告をヒストリア は意味するのである。そして経験主義医学のヒストリアの大部分は、この「アウトプシア ーヒストリアjの対比図式において語られるのである。そうであるなら、確かに、間接的 な報告としてのヒストリアは、セクストスが懐疑主義を説明する際に常々口にする「わた しに現われるがままに

J

という直接性とはずれがあるかもしれない40。しかしながら、先 に述べたアパンゲ、レインの「匿名性Jという特徴を思い出してみれば、この心配は杷憂で あろう。なぜなら、外部に存在するものの自然本性的なあり方と確言するのでもなく、そ れに真偽の判断を加えることなく語るのであれば、たとえ他者の実見であれ、語られてい ることは、セクストスが「パトスの報告」と言う事態と同ーと考えることができるからで ある。 2-3. ヒストリコース・アパンゲレイン さて以上の考察から、「ヒストリコース・アパンゲ、レイン」という表現において、セクス トスは、論争で用いられてきたヒストリアの「個別性Jとアパンゲ、レインの「匿名性」を 35このことに関連する問題については本論第9章で個別に論じる。 36 Robin[1980],199 37 Galenus,S,KI l.75 (Bllank[1998],274) 38 Galenus,Suh

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.

Emp,D3(Deichgraber[1930],49) Daichgraberによると、ソラノスにも 同様の定義が見られる(Deichgraber[1930],91)。 39 Galenus,S,KI 1.68 (金山[1996],30)

(19)

利用して、懐疑主義を説明しようとしたのだと考えられる。だがそれらは一見したところ、 相容れないように思われるかもしれない。しかし、そのそれぞれが何と対比されているか を考えれば、問題とはならない。「個別性jと対比させられているのは、先に述べたように、 ド、グ、マテイストの主張する「普遍性Jである。だがセクストスに言わせれば、 ドグ、マテイ ストの主張する普遍性は「ド、グ、マテイストによって私的に作り出されたものJ(P

H2

.102) に他ならない。アパンゲレインの「匿名性jは、まさにそういった f私性Jとの対比で理 解されるべきであろう。懐疑主義者は、ヒストリコースに、すなわちいまここでこのわた しに現われている事柄を、それに(真偽というレベルで)わたしの判断を加えることなく 語る、すなわちアパンゲ、レインするのである。セクストスは、『ピュロン主義哲学の概要』 で懐疑主義を説明するに先立ち、まずこのことを語らねばならなかったので、ある。それに はどのような事情によるのであろう。 懐疑主義者の祖とされるピュロンは、一冊の書も書かなかったと伝えられる。またピュ ロンは判断保留に該当する態度を「アパシア(無言明)Jと呼んだ41。そして時として、著 作を残さなかったその態度が、他ならぬ「無言明Jの実践として評価されるのである420 そのように考えると、セクストスのように懐疑主義者として著作を残すためには、それと は別のやり方が必要とならざるを得ない。なぜなら、何かを言明することは、それ自体が ドグ、マ化の可能性、あるいは宿命を苧んでいるからである。そして「ヒストリコース・ア パンゲレインj という立場は、そういったことを回避するための、懐疑主義者の戦略と言 えるだろう。あくまでも匿名的に、セクストスは懐疑主義を記したのである。そういう意 味では、後に貼られた「歴史家セクストスj というレッテルは、セクストスがまさに懐疑 の実践者であった、ということをわれわれに告げるものかもしれない。

*

もしこれまでの考察が正しいとすると、セクストスが「私的Jなものとしてのオリジナ リティーを求める、そういう態度を持っていなかったことは明らかである。しかしセクス トスの語ることが「個別的」なものである以上、その内容が、彼以前の懐疑主義者の語っ たことと全く同じとは考えられない。そうし、う意味でのオリジナリティーは否定できない だろう。なぜなら、懐疑主義が、「懐疑主義の基本テーゼJにおいて「対置しうる能力Jと 言われているように、アド・ホミネムな性格を持たざるを得ない以上、ピュロンの懐疑と セクストスの懐疑が同じとは考えられなし、からである。それと同様にアイネシデモスのそ 40 Cassin[1990],133 41

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エポケーJ

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エベケイン」としづ言葉はピュロンの頃には懐疑主義の用語として定ま ったものではなかった (1ρng

&

Sedley[1987],vo1.2,7)。 42 Conche[1994],53・55

(20)

れとも異なるはずである。 Tennemannの指摘通り、論敵の主張が洗練されるに応じて、 懐疑主義の側も洗練されていったと思われる。また Maccollが述べたように、「ドグマテ イスト以上に、周りや時代の雰囲気から影響を受けやすしリ 43ということが懐疑主義の特 徴なのかもしれない。 Maccollは「懐疑主義は一つの学派として不変な立場を報告しつづ けることはなかったし、そうすることはできなかった。懐疑主義はそれを報告する人に応 じて変化したのであるJ44と主張する。そうであればセクストスの「匿名性Jは、 Brochard が指摘したような、学派のもとに個人を自制するという類のものでもないだろう4凡 な ぜ なら、セクストスが報告した懐疑主義は、セクストスの時代にセクストスという人物に現 われたそれだからである。 そのセクストス・エンベイリコスについては、先にも述べたように、後二世紀の後半か ら三世紀の初頭に生きたと推定されるのみである。しかしその年代が厳密に確定されるこ とはなくても、少なくとも、懐疑主義者の祖とされるピュロンと比べて、はるか後に生き た懐疑主義者であることは間違いない。そして古代懐疑主義の歴史の最後期に位置するセ クストスには、それまでの懐疑主義に向けられた様々な批判が念頭に置かれていた。その ことは『ピュロン主義哲学の概要』を始めとして、セクストスの著作の随所に見出される。 セクストスの報告は、そういった批判に対する「回答」という側面を持ち合わせているの である。それらの「回答Jこそ、わたしは上に述べたような意味での「セクストスの思想j と呼べるのではなし、かと考える。それゆえ、続く本論においては、古代懐疑主義に向けら れた様々な批判を取り上げ、それらに対してセクストスが著作の中でどのように回答して いるかを論じることで、セクストスの懐疑主義思想を見ていきたいと思う。もちろん、繰 り返しとなるが、ここで言う「セクストスの」という点に、「個別性」ではない「私性」と いう意味での独自性を主張するつもりはない。それは「ヒストリコース・アパンゲ、レインJ としづ立場をとるセクストスの考察としてはふさわしいものではないだろう。したがって、 わたしが本論において言うところの「セクストスの思想J とは、あくまでもセクストスが その著作で報告しているセクストスに現れた古代懐疑主義を意味するのである。 最後に、考察の手順を記しておこう。 まず第 1部「セクストスの古代懐疑主義の位置ーーその由来と周辺」においては、懐疑 主義の内部でのセクストスの懐疑主義思想の位置付けを明らかにする。というのは、古代 懐疑主義と一言で、言っても、歴史的な発展や学派聞の相違など、さまざまな形態がわれわ れには伝えられているからである。そしてその手がかりとして、 fピュロン主義Jという名 43 Maccoll[1869],11 44Maccoll[1869],11 45 Br

hard[1877],

3

2

2

3

2

3

(21)

称をめぐる批判や問題を取り上げる。第 1章「ピュロンとピュロン主義Jでは、セクスト スの思想の歴史的由来が、第2章「ピュロン主義とアカデメイア派」では、アカデメイア 派の懐疑主義との相違が論点となる。 続いて第2部と第3部において、セクストスの懐疑主義に関する本格的な考察を行う。 その際に中心となるのは、先に記した「懐疑主義の基本テーゼjである。セクストスはあ る箇所で、古代懐疑主義の原理として、「構成原理」と「始動原理Jの二つを挙げている (PHl.12)。前者は「あらゆる言論にそれと同等の言論が対立する」という、懐疑主義の いわば方法的な原理であり、後者は「アタラクシア(動揺のない心境)に達したいという 期待j としづ、生き方に関わる原理である。第2部「古代懐疑主義の構成原理一一言論の 対置

J

においては、まず方法的な原理を取り扱う。それはまさに「懐疑主義の基本テーゼ

J

全体に関わる問題である。第3章「古代慎疑主義における自己論駁の問題」においては、 「イソステネイアからエポケーj としヴ局面が、第4章「古代懐疑主義における哲学と生 活」では「エポケー」の局面、さらに第 5章「古代懐疑主義における行為の問題」では「エ ポケーからアタラクシア」の局面が論点となる。これらの考察は「懐疑主義の基本テーゼj の意図するところが何にあるかを明らかにするであろう。 以上の、言わば懐疑主義の理論的部分についての考察を踏まえて、第3部「古代懐疑主 義の始動原理一一幸福の終わりなき探求」 は、「生き方としての懐疑主義Jに焦点を当て る。「アタラクシアに達したいという期待」とし、う懐疑主義の始動原理は、それ自体で言え ば、幸福を目指す営みとして行われていた当時の他の哲学においても共有されていた。そ うであれば、懐疑主義の特徴的なあり方は、異なった立場や学派の主張との比較によって 明らかとなるであろう。第6章「古代棲疑主義と相対主義」は、相対主義との相違を論じ ながら、「節度ある感情(メトリオパテイア)Jを想定している点に懐疑主義の特徴を読み 取る。さらにその立場は、第7章「古代懐疑主義における幸福」において、へレニズ、ム期 の他学派の幸福観との比較によっていっそう強調される。それとともに、懐疑主義が「能 力j と呼ばれることの意味も、明らかになるだろう。続く第8章「古代懐疑主義における 探求と現われjは、懐疑主義者の探求は、幸福を目的としながらもけっして終わることの ないものであるということ、それはあくまでも「現われjのレベルで行われるものである ことを明らかにする。そして、そのような「探求」が不可能ではないということを、第9 章「古代懐疑主義と古代医学」の中で論じる。 最後に、終章「古代懐疑主義の能力」は、考察全体を顧みながら、古代懐疑主義をめぐ って伝えられる逸話を取り上げる。そして、懐疑主義に対する批判的な逸話が存在するこ とそれ自体が、「能力Jとしての懐疑主義の影響力を物語るものであることを示したい。以 上の考察を経て、セクストス・エンベイリコスの懐疑主義思想のたとえおぼろげな輪郭で も描き出すことができればとわたしは願っている。

(22)

第1部 セ ク ス ト ス の 懐 疑 主 義 の 位 置 ー ー そ の 由 来 と 周 辺 第1章 ピュロンとピュロン主義 第 2章 ピュロン主義とアカデメイア派 セクストス・エンベイリコスは、自らの語る懐疑主義思想を「ピュロン主義Jとも呼ん でいる。この「ピュロン主義」としづ名称には、ひとつはピュロンとし、う人物に懐疑主義 の由来を見出すという、歴史的な意味合いがあるのと同時に、もうひとつ、同時代の他の 懐疑主義思想との区別を明確にするためという、共時的な事情もあった。そしてそのいず れの場合においても、セクストスの語る懐疑主義を「ピュロン主義Jと呼ぶことは、けっ して無批判的で自明なことで、はなかったのである。すなわち、セクストスの語る「懐疑主 義の基本テーゼ」を「ピュロン主義」の名のもとで語り、ヒ。ユロンにその由来を見出すこ とに対しても、また「懐疑主義の基本テーゼJを、他の懐疑主義、すなわちアカデメイア 派の立場との比較において、「ピュロン主義Jの特徴と見なすことに対しても、批判や異論 が投げかけられていたのである。 したがって、「懐疑主義の基本テーゼJに向けられる、言わば懐疑主義への本質的な批 判を検討するに先立ち、本論第 1部では、「ピュロン主義Jとしづ名称をめぐるいくつかの 批判や問題を取り上げることにする。そして第 1章「ピュロンとピュロン主義」において は、「慎疑主義の基本テーゼjが歴史的にピュロンに由来するものであることを示す。続く 第2章「ピュロン主義とアカデメイア派

J

では、アルケシラオスやカルネアデスなどの新 アカデメイア派の懐疑主義との相違を明らかにする。第 1部全体の課題は、様々な懐疑主 義思想、の中でセクストスの懐疑主義の位置を定めることにある。

(23)

第 1章 ピュロンとピュロン主義

*

古代懐疑主義に対しては、古来より実に様々な批判が向けられてきた。それらの中から、 本論ではまず「ピュロン主義Jという名称をめぐる批判を出発点としたい。セクストスは、 先のテクスト 3に見られるように、自らの語る懐疑主義を「ピュロン主義J とも呼ぶ。だ がそのことがすでに問題とされていたのである。 批判証言1. 「しかしテオドシオスは、『懐疑主義要綱』の中で、懐疑主義を「ピュロン主義

J

と呼 んではならないと言っている。なぜなら、 (1)(1-a)他人の思考の動きが捉えられな いとするならば、(1-b)ピュロンがし、かなる心の状態にあったか、われわれは知ること ができないであろう。しかるに、それを知らないのであれば、われわれは「ピュロン 主義者Jとは呼ばれ得ないであろう。それにそもそも、 (2)ピュロンが最初に懐疑主 義を発見したわけでもないし、 (3)彼はし、かなるドグ、マも持っていなかったのであ る」ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝~ 9.70 ここでは懐疑主義が「ピュロン主義jとしづ名称で呼ばれるべきでない理由として、(1) 「ピュロンがいかなる心の状態にあったか、われわれは知ることができなしリ、 (2)

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ピ ュロンが最初に懐疑主義を発見したわけでもなしリ、 (3)

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ピュロンはし、かなるドグマも 持っていなかった」とし、う三つの論点が挙げられているのである。だがこの批判は単なる 名称をめぐる問題、つまり或る思想の出所をたどる問題にとどまるものではない。なぜな ら、論点の (1) (3)から明らかなように、懐疑主義においては、自らの立場を特定の人 物の名で呼ぶこと自体が、自らの立場の一貫性を自ら否定することになりかねなし、からで ある。すなわち、論点(1 )においては、もし懐疑主義者が、人の思考が把握不可能であ るという立場を取るなら (1-a) ピュロンの心の状態についても把握不可能である (1-b) とし、う結論が自ずと帰結するし、また論点 (3)においても、ピュロン主義と名乗ること 自体が、 ドグマを持たないという一つのドグ、マを採用することになってしまうのである。 いずれも「懐疑主義の基本テーゼ」に関わる深刻な問題と言わざるを得ない。だがこの自 己論駁としづ批判に対するセクストスの回答は別の章で独立に扱うことにして、この第 1 章ではまず、「ピュロン主義」としづ名称、あるいは出所についての問題を取り上げたい。 というのは、セクストスの思想、を論じるためには、セクストスが自らの立場を「ピュロン 主義Jと名乗る以上、「ピュロンの思想jをあらかじめ特定しておくことは、まずもって重 要と思われるからである。しかもその「ピュロンの思想jをめぐって、今日、様々な解釈

(24)

が展開されている状況にある。そこで最初に、セクストスが、懐疑主義を「ピュロン主義J と呼ぶことの正当性をどのように論じているかを セクストスの著作から簡単に見ておき た い (1節)。続いて、ピュロンに関する他の証言を取り上げ、「ピュロンの思想jの内実 に迫りたい。そしてセクストスの語る懐疑主義と比較した場合に、それをセクストスの懐 疑主義思想の原型と見なし得るかどうかを、近年の諸解釈を手掛かりにしながら検討する ことにしよう (2節)。 第 1節.

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ピュロン主義Jという名称をめぐって 一一ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝~ 9.70 ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』の中に残されているこのテオド シオスの批判証言 1は、ニーチェによっても言及されている。ニーチェは「テオドシオス は懐疑主義者に対する反対者であった」と見なし、さらに「テオドシオスがセクストス以 後に生きたということは、セクストスの『ピュロン主義哲学の概要』第1巻第 3章に対す るはっきりとした反対が示している。 テオドシオスはその書を手元に持っていたのであ るJ1と主張する。つまりニーチェは、このテオドシオスの批判証言を、先に挙げたセクス トスのテクスト 3に対する批判と考えたのである。 ここでテクスト 3をもう一度、詳しく見てみよう。 テクスト 3 「懐疑主義は、さらに「ピュロン主義」とも呼ばれているが、これはピュロンが彼以 前のだれよりも実質的に (0ωμαTlK

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epov)、かつ顕著に(釘lφαvEOTepov)懐疑に 専心したとわれわれに現われている(仰lve08m) ところに由来しているJP

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.7 ニーチェの先のような解釈に対して、 Barnesは、まず、テオドシオスの「われわれJ としづ人称から、テオドシオスはピュロン主義に対する反対者ではなく、ピュロン主義の 内部から「ピュロン主義」としづ名称に関して批判を行ったのだ、と主張する。そしてさら にBarnesは、ニーチェの指摘とは反対に、むしろセクストスのテクスト 3が、テオドシ オスの批判に対する回答である、としづ可能性を示した。 Barnesによると、セクストス は「現われている (φαlve08m)Jとしづ言葉を用いることで、論点(1)、すなわち「ピュ

1 Nietzsche,F.W.,Beitage zur Quel1enkunde und

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tik des Diogenes Laertius(Basel 1870)in

Ni

e加 'Che陥orke.

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・白'CheGesamtausgabe, 11,1,207

(25)

ロンがし、かなる心の状態にあったか、われわれは知ることができなしリという批判を回避 したのである。つまり、知ることはできなくても自分の現われとして懐疑主義者はそれを 語ることができるのである。さらに、論点 (2)

r

ピュロンが最初に懐疑主義を発見した わけでもなしリに対しても、最初でなくとも「彼以前のだれよりも実質的に、かつ顕著」 で、あったとセクストスは主張することができるし、また論点 (3)

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ピュロンはし、かなる ドグ、マも持っていなかった」に対しては、ドグマをもつのではなく、「懐疑への専心」とい う態度が「ピュロン主義j という名称を保証する、と Barnesは言うのである20 ニーチェがテオドシオスを取り上げたのは、ディオゲネス・ラエルティオスが『ギリシ ア哲学者列伝』を書く際に用いた資料を特定しようとしづ、いわゆる Quelleniorschung の文脈においてで、あった。ニーチェは、ピュロン主義の学説と系譜に関しては、テオドシ オスの書物がその源であるとみなす。もしそうであるなら、『ギリシア哲学者列伝』におい てセクストスとアイネシデモスの方式が比較して検討されている以上、当然、それを記し たテオドシオスの方が後に生きた人物と見なされることになる。しかしこのニーチェの前 提が確かなものでないなら、現在のところ、テオドシオスとセクストスの前後関係を確定 する外的な資料は何もないのである。そうすると、批判証言1とテクスト 3の対応関係が やはり問題とされねばならない。わたしはその点から見る限り、 Barnesの解釈がより説 得的であると考える。というのは、批判証言 1はテクスト 3に対する批判としてはあまり に弱く、逆にテクスト 3は批判証言 1に対して十分な回答となりうるように思われるから である。 Barnesが 指 摘 し た 点 以 外 で 、 さ ら に 付 け 加 え る な ら 、 「 実 質 的 に (0.ωμαTIKC~)TEpOV )、かつ顕著に (ETnφαVEOTEpOV)Jとし、う用語も、テオドシオスの論点 ( 1 )に対する応答であるように思われる。すなわち、懐疑主義者が「思考の動きは把握 不可能であるJとしづ立場をとっても、「思考 (Olωoia)Jの把握とは無関係に、形(身体) となって (0ω凶 TIKOC)、つまり行動という形で、表に現われるもの(白lφα凶σTOC)につ いて、懐疑主義者が語ることは可能なのである。 また、次のセクストスのテクストは、論点 (3)に対する回答として読むこともできる だろう。 テクスト9 「懐疑主義者が学派を形成しているかという問いに対しでも、われわれは同様の態度 を取る。すなわち、もしも人が「学派」とは、相互的にも、また諸々の現われに対し ても一定の随伴関係をもっ多数のドグマへの傾倒であり、その fドグ、マj とは不明白 な物事の承認であると言うのであれば、懐疑主義者は学派を形成していないと、われ 2 B紅 nes[1992],4285

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われは言うであろう。他方もしも人が、「学派」とは、現われに依拠しつつ、ある種の 言論に従いゆく生き方であり、その言論とは、正しく生きているように恩われること がし、かにして可能であるかを示し、また判断保留ができるところにまで立ち至る言論 である、と言うなら、懐疑主義者は学派を形成していると、われわれは言うJPHl.16・

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セクストスは、「現われに従う生き方Jとして、また「判断保留ができるところにまで立 ち至る言論」としてピュロンの思想を理解したのであれば、学派を形成することも、そし てその学派にピュロンの名を付すこともできたのである。だがその際でさえも、テクスト 3の「われわれに現れているJというセクストスの言葉を、十分に心に留めておかねばな らないであろう。セクストスは「ピュロンの思想J として確言しているわけではないので ある。 第2節.

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ピュロン主義」についての再考 一一エウセピオス『福音の準備~14.18.1・5 では、セクストスに現れた「ピュロンの思想、Jとは別に、実際のところのピュロン自身 の思想はどのようなものであったのだ、ろう。それは、セクストスが報告する「懐疑主義の 基本テーゼjの源とみなすことができるのであろうか。続いて、セクストス以外にわれわ れに残されているピュロンに関する証言からピュロンの思想を探り出し、それをセクスト スの語る「ピュロン主義jと比較してみることにしよう。というのは、「懐疑主義の祖であ るピュロンは懐疑主義者ではなかった」といった驚くべき解釈が、驚くべきことに多くの 研究者によって支持され続けているからである。問題となるのは以下の証言である。 1.問題となる証言 テクスト

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(1)何よりもまず最初に、われわれ自身の認識について考察しなければならない。 というのも、もしもわれわれ自身、自然本来的に何も認識することができないという ことであれば、もはや他の諸々の物事について考察する必要はまったくなくなるから である。 (2)ところで、古の人たちのなかにも、まさにこのとおりの発言をした人たちは何 人かいて、その人たちに対してはアリストテレスが反論を行った。エリスのピュロン も、そうした発言をすることで力を誇示した人の一人である。しかし、彼は自分では 何も書き残さず、彼の弟子であるティモンが、幸福になろうとする者は次の三つの事

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