敵からつきつけられることになる。それをつきつけたのが経験主義者である。まず彼らは
「開示」を、さらにはそもそも、経験に与えられない不明白なもの把握すると言う理論主 義者の態度を否定する。
テクスト 99
「開示なるものが存立することを経験主義者は認めないし、何かあるものがそれとは 別のものに基づいて認識され得るということもまったく認めない。というのも彼らは、
すべての物事は自ずからの認識を必要とし、自然本性的に不明白な物事を示す徴証は 存在しない、と考えるからであるJSlK1.77
経験主義者にとっては、不明白なものをめぐる理論主義者たちの反目が、何よりそれが 把握不可能であることの証拠となるからである。このことを特徴的に現しているケルスス の一節を引用しておこう。
テクスト 100
「経験主義者は、不明白な原因や自然本性的な活動に関する探求は余分である、なぜ なら自然本性は把握不可能であるから、と主張する。彼らが言うには、自然本性が把 握不可能であることは、そういった事柄について論じている人々の聞の反目ゆえに明
らかなのであるJCelsus,De Me品ばl1a.prooem.27・28
このように経験主義者は、一方で理論主義者の主張を批判することで自らの立場の正当 性を訴えるとともに、他方で理論が「余分j という以上、この点は後で問題になるが、医 学の知識にとっては経験だ、けで、十分で、あることを積極的に示さねばならなかった。そもそ も 「 経 験 主 義 者 ( エ ン ベ イ リ コ ス )Jと い う 用 語 も 彼 ら に よ る 造 語 で あ る が (Suhf.Emp.D.49)、そこには単に経験をつんでいるだけの経験家と区別し、「経験に基づ いて医術を打ち立てたという自負J7がある。彼らは、自ら自身が様々な仕方で遭遇した「実 見Jをもとにする。だがそれだけではなく、模倣することで経験を蓄積し、さらには他者 の経験の「記録Jも真なるもの、すなわち現われと一致するものは受け入れ、また未経験 な事柄に関してはそれと類似するものを適用する(彼らは「類似するものへの移行」と呼 ぶ)。そしてそれらには「熟練Jを必要とするのである。熟練を得た経験こそが、医者に適 切な治療法を「想起Jさせるのである。
以上のように、「理性による開示Jと「経験に基づく想起jとしづ対立で、治療法の獲得
7金山[1995],29
に関しては大きな認識論的な違いを指摘しながら、ガレノスは経験主義者と理論主義者の 医療の実践について次のように述べている。
テクスト 101
「一般的に言って、病気の情態が同じであれば、採用される医療法も、ドグマテイス ト(理論主義者)と経験主義者とではまったく同じであるが、しかし治療法発見の方 法に関しては、彼らは互いに論争しているのであるJSlK1.59
病状が同じであれば治療法は一致したというガレノスの説明はし、ささか奇異な感じがす る。というのも、そもそもガレノス自身も伝えているが、経験主義の台頭は、理論に偏り 実践面を軽んじるようになった理論主義者の治療態度に対する批判が、その一つの原因と なっているからであるえこの点については後でまた論じることにするが、さしあたって経 験主義者と理論主義者との一致を主張する理由の一つは、第三の学派として台頭してきた 方法主義との相違を明確にするためであろう9。ガレノスは次のように言う。
テクスト 102
「他方、方法主義者と呼ばれている人たちは、単に議論面で過去の諸学派と論争する だけでなく、医術の実践においても多くの変革を加えているように私には思われるJ SlK1.79
方法主義者と呼ばれる人々の治療は、実際に伝統的なそれとはかなり異なっていたよう である。彼らは三日を一つの周期と見なし、病気の進行に合わせて治療を行う (fディアト リトス」と呼ばれる)。そして潟血や下剤といった激しい処置に慎重な態度をとり、何より 患者を寝かせるベッドの状態に気を使うなど穏やかな処置を施した。彼らの評判は、有名
なプリニウスの『博物誌.~ (29.5.9)にも伝えられている。そしてそのような方法主義者の 治療の基礎には、ガレノスによると以下のような考え方がある。
テクスト 103
「方法主義者は、治療法が開示されるためには、患部がどこかということも、原因が 何かということも、年齢も、季節も、土地柄も役に立たず、さらには患者の体力や、
自然本性的なあり方や、状態を考察しでも無益であると主張している。彼らはまた、
8 Galenus,De Plactis正面rppocra的 etPla
ω
'11Is,K5.568, cf.Frede[1987],2369 Frede[1982],2
患者の習慣も無視し、ただその人の情態にのみ基づいて開示されれば、それも個別的 な情態ではなく、共通的で、一般的な形で彼らが考えているところの情態に基づいて 開示されれば、自分たちにはそれで十分である、と主張しているJ
SlK
1.8 0
このテクスト 103で語られていることは、先のテクスト98と著しい対立を示している。
方法主義者によると、すべての病気は身体全体の閉塞情態(炎症など)であるか、流出情 態(出血なのであるか、それらの混合状態(炎症と出血が同時に起こる場合など)であ るかのいずれかになる。医者の仕事はそれらの「共通性Jを認識すれば、後はそれぞれに 応じた「方法J、すなわち閉塞であれば弛緩処置を、流出であれはそれを止める処置を、混 合状態には緊急性に応じた処置を、病気の進行段階にあわせて機械的に適用すれば良いこ とになる。そしてその「方法Jは病気の状態から、やはり「開示j されるのである。しか しながらドグ マテイストと同じように「開示Jによって治療法を得ながらも、方法主義者 はドグ、マテイストと呼ばれることを拒み、また経験主義者とも異なると言う。
テクスト 104
「ド、グ、マテイストと異なり、不明白なものを必要とすることがないから、自分たちを ドグマテイストと呼んではならないと彼らは考えるし、またもっぱら現われを取り上 げて時をすごすとしても、経験主義と呼ばれてもならないと考える。なぜなら、開示 という点で経験主義とは区別されるからである。それにまた、現われを取り上げるや り方そのものも、自分たちは経験主義と一致しないと彼らは言う。というのも、経験 主義者が不明白なものを遠ざけるのは、不明白なものが認識されなし、から、という理 由によるが、自分たちは、役に立たないという理由によるのであるし、さらに経験主 義者は、諸々の現われから観察を得るが、自分たちは開示を得る、と言うのであるj
S l K 1 . 8 2
方法主義者は、「開示Jを用いながら、それが不明白なものを開示するのではない点で理 論主義者と異なり、また現われを扱い不明白なものを遠ざけるが、決して不明白なものを 把握不可能とは見なさない点で経験主義者と異なるのである。彼らは自らの特徴として「現 われの開示」とし、う折衷的な表現を用いている。最後に偽ガレノスによる三学派の定義を 挙げておこう。
テクスト 105
「経験主義学派とは、最も頻繁に、また同じ仕方、あるいはほぼ同じような仕方で見 られるものを扱う学派である。
理論主義学派とは、不明白なものについての知識を得て、そこから生じてくるもの を医術において取り扱う学派である。
方法主義学派とは、医術の目的に合致し、またそれに必要であるところの、現われ としての共通性を認識する学派であり、彼らの言う共通性とは、「閉塞J
r
流出Jr
混 合JであるJps.Galenus,Defi:zitiones Medicae, K19.353第 2章.セクストスと経験主義
ではまずセクストスが経験主義を批判する点をし、かに理解すべきであろうか。経験主義者 は理論主義者たちの見解の反目を批判の的としたが、経験主義者の側においてもやはり意 見が分かれることはあった。そのことが健著に見られるのは、「類似するものへの移行Jと 彼らが呼ぶものに関してである。それは、理論主義者からの批判に、経験主義者側からの 回答として出されたものであるが、その批判とは、「医学の知識に経験だけでは不十分であ るJというものである。とりわけ問題となるのは、いままでに経験したことのない事態に 対して、経験主義者はどう対処するのか、とし、う場合である。経験主義者はそれに対して、
これまでの経験から類似したものを移行し適用する、と答えた。すると当然、そのような 推論、つまりは理性の働きを経験主義者は認めるのか否か、が新たな問題として出てくる のである。
テクスト 106
「セラピオンもまた、「類似するものへの移行Jが医学全体を構成する〔実見、記録に 次ぐ〕第三の部分であるとしづ見解を取っているのか、メノドトスはこれを否定して いるが、そうではなく、ただそれを使用しているだけであるのかということが、従来 問題とされている。というのも、ただ使用するのと、部分として使用するのとでは、
事柄は同じではなし、からである。さらに懐疑主義者カシウスは、そればかりか、経験 主義者はそうした移行を用いることさえいらないのだということを明らかにしようと 試みている。実際にこの人は、一冊の書物をまるまる全部この問題に関して著述して いるのである。より優れた見解を提出したのはテオダスであり、彼は類似性に基づく 方法は、移行推理的な経験(エヒ。ロギスティケー・ベイラ)であると述べている。だ が他のある人々は、類似するものへの移行はちょうど道具のようなものであると主張
したJ
SublEmp.D49
・50経験主義者は、現われの範囲内で行われる移行推理(エピロギスモス)を、現われから 不明白なものへと推論する理論主義者の類推推理(アナロギスモス)と対比させる。だが