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『宗教研究』197号(42巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

コーランに現われた家族共同体:結婚に関する章句を中心に, 片倉素子, The Disintegration of the

Matrilineal Family in Early Arabia reflected in the Qur’

ān: With special reference to the Āyas on Nikāḥ,

Motoko KATAKURA, pp.1-24.

2,

ジャータカと菩薩理念の融合, 杉本卓洲, The Fusion of Bodhisattva idea into Jātaka, Takushū

SUGIMOTO, pp.25-55.

3,

清律を通してみたる祖先崇拝の構造に関する一研究, 江嶋修作, A Study of the Structure of Ancestor

Worship in Ch’ing Lü(

清律), Shūsaku EJIMA, pp.57-80.

4,

中国語祈祷書小史, 矢崎健一, A Short History of the Book of Common Prayer in Chinese, Ken’ichi

YAZAKI, pp.81-102.

書評

5,

棚瀬襄爾著『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として―』, 竹中信常, Shinjō TAKENAKA,

pp.103-110.

6,

諸井慶徳著『宗教神秘主義発生の研究』, 赤司道雄, Micho AKASHI, pp.111-116.

Posted in 1968

(昭和43)年

(2)

己 主義的傾向を持つものであった。またスミスが 、社会経済的観点を抜いてではあるが、母系 制 社会から父系制社会 1

づが

、個人主義にとってかわられ、しかも、 そ 0 個人主義は、商業経済の発展による利潤追求 とあいまって、多分に利 ンに現

マホメットが生きた時代は、ワットなども指摘す

あり、部族的統一り

イスラーム教徒にとって唯一絶対なるアッ 期の部分すなわちメッカの啓示︵現行コーラン ラーの啓示であるコーランは、史実的にいえば では最後の部分︶は、のど ビ 文体であることなど 西暦上八一 0 年から六三二 からマホメットが 最 年の二十年余の間に 、 マホメットが語ったもの で 一句一旬は、当時の社会状況に対応したもので ある。コーランの 初

冊初は

、本目三コ的な神がかりの状態に陥いっ て 神の啓示を伝えたのはおそらく事実であろうと 考えられる。しかし、 そ 麒 れは、後期に向うに つ れ俗世間的な調子にな り 、メディナ啓示には、結婚、離婚、姦通、財 陸相続、親子関係など 極 窩 めて日常的な問題が扱われており、当時、社 全的に重要な意味をもっていた家族共同体の様 相が 、うかがわれるので れ わある。

コーランに現われた家族

同体

結婚に関する章句を中心に

(3)

様、

制 l 節 用 は 順 編 ァ

巻 す 省 庁 集

う 的 ン 号 る 略 を の ビ な に は の し 明 陵デ ア

は | ま ら " )目玉 Ⅰ ニ @

結 制 フ さ に し 長 語 婚 度 り ら 関 っ 短 一 よ そ ュ 紙 す つ に 語 り の l 面 る 分 よ る も も ゲ を ア 折 っ 糸吊 性 の ル 貫 l を て 密 的 に 版 す ャ す 順 に 一 文 っ に の の す 次 検 渉 い 代 で み め 排 討 と て っ 要 を ね 列 す い は て 点 と ば さ る う 何 ひ の り な れ 作 責 味

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全 関 す 比較 一| 日

な 文 る し " ︵ 6 ︶ 臼 l 円 p-q 守ゴ などを検討するとともに、 コーラン原文の一旬一句が啓示された時の社会 的 背景を追跡しっ っ 、しか する護教論的見解もある。例えば、ジャー ヒリー 婚がふつうで妻の数を決めるのは男の財力のみで で ︵ 3 ︶ ム であったとするものなどである。 この時代の社会を反映した唯一の同時代史料が 的 視点に立っており、特に、当時の家族共同体 の か 。コーラン以外の史料、例えば、田上 ゅ 6 曲 ず囲口 ヤ においては、家父長制社会のもとで女性の地 位は極端に低く売買 あった。それを四事にまで制限し女性の地位を一 畳 めたのが ィ スラー コーランなのであるが、このコーランの解釈 は 、おおむね護教論 あり方は、かなり歪曲されたイメージを与えて 来たのではなかろう ︵ ス 5 ︶ ︵ 4 ︶ 一木 ざ囲 ヴ口 丁卜 内村二コ デ の丁付仁村ぽ岡︵ i@ のがすⅠ 甘 。の 干 % 安目一目 1 本岡ヨ二め 続 性が明確にされ、イスラームの発生自体も 、こ ういった時代との関連性においてとらえねばな らない。ところが、 イスラームの栄光を意識しすぎる余りジャー ヒ リ ー ヤ を全く否定し、イスラームから歴史がはじ まったかの如く主張 ひ

時代を考察するに当っては、ジャーヒ

ーヤ

イスラームへの

2

(4)

の斗 ド角り︵ もス よ フ してし まった 斗 ものは︵︵しかたがな し いから︶︶除外して︶という語句がつけ加えられ ていることに当時、 一ラソ に現われた家族共同体 ︵ p+. ヴ叫 ︶を払うことのできる者は、すべからく 結 婚 すべし。できない者は断食をすべし︵精力を 減退させるべく︶。 これこそが身を守り保っ︵ 毛曲オ w. ︶方法であると 持っている欲望を否 建 する聖人君子的な教訓は決してたれなかった 。マホメットが人間的であるといわれるのえんで もある。 しかし社会の指導者として、してはならぬ結婚 も 明確に規定している。メッカから メ デイ ナヘ ヒジュラした翌年 に 、まず近親婚の禁止に関して述べている。﹁ 父親の妻であった女、母親、娘、姉妹、父方の伯 曲似皿叫 、兄弟の柚 炊 、 姉 妹 の 娘 、自分に乳を飲ませてくれた母、乳姉妹、 妻の母親、自分が肉体的交渉をもった妻が以前 に 生んで連れて来た 娘 で、今は自分のところで後見しているもの まだ交渉を持たぬ う ちなら罪にはならない 自分の腰から出て来の た 息子の配偶者、姉妹と同時に結婚してはなら ね ﹂︵ Q4 ・ 2 2-4 2 、 @3 i ︶。 ︶ しかし、この一節の中で 三拝灰も、円目ゅ目 ゅ 金色 的にする男女の結合という意味の結婚という 意 に 用いられるようにばったのは後のイスラーム 法 においてはじめてで あった。しかしマホメットが 2% 岡 甘を肯定的 なもの、奨励すべきものとして考えていたことは 、 多くの伝承の伝え るところである。例えば、人は結婚すれば、も , っ それだけで半分宗教を得ることになるのだ、 と 述べていることや、 -@ Ⅱ︶ また、結婚しなさい、そ う すればこの C 日日 曲が 大きくなる。結婚すればするほど、国は栄える もの。といったとい うことが伝えられている。またい年末 下 wnn の 伝 - える ハディースによれば、ある時一人の男が マホ メットのもとへやっ て 来て 、 私は女に接しません。一生、聖なる者 ていたいと思います、といった。もう一人の男が 、 私はいつも断食を いたしておりますといい、もう一人が私は粗末な 場所で寝ることで満足です。最後の者が 、 私は いっもお祈りをして います、といった。マホメットはこれに答えて、 私は、断食もするが、食べることもする。私は お 祈りもするが、 寝 ︵ リ i セ︶ ることもする。そして女にも接する。これらを しない者は私について来る者ではない。と述べた という。また生活費

(5)

一般に母系 制 社会では、自分を本当に生んでくれ た 母と、母の姉妹との間が非常にせばめられて いるものである。 母の姉妹および彼女らと世代を同じくする母系 集団の女性は、﹁ 母 ﹂と同等のカテゴリーに入れ , られた。﹁母方の伯叔 母は母と同じ。﹂という言葉は、﹁母方の伯叔父 は 父と同じ。﹂という言葉とともに頻繁に用いら れた。姉妹が交替し ハム ll り ︶ て 乳を飲ませたり、また乳のよく出る女が、乳母 になって子供をあずかるといったことは、母と 子の間が、父系制 社 余 でのように独占的な愛情にならないからであ る 。こういった乳母は 、 母と同じように考えられ たし、また、その 乳 きょうだけは、血縁きょうだいと同様に考える れた。マホメットが、はからずも、ここで乳縁 関 保 と血縁関係を同等 の レヴェルで扱っているのは、そういったジャー ヒ リー ヤ の母系共同体の反映であろう。また 姪 との結婚まで禁止し ているのは、母系共同体の中で 姪 との結婚はかな り 低されていたのではないかと考えられる。 旧 約 聖書にもないこと @ Ⅱ︶ を 、わざわざ つ け加えていることは、母系共同 体での血縁関係を 、 新しい関係に組み変えようと したでホ ブソト の 努 力 のあらわれであろう。同じ集団内にいること の 多かった妻の母や姉妹を同時に妻にすることも 禁じられている。 ジ セ ー ヒ リー ヤ においては、母方の者との近親婚を 禁止するのに厳しかったがここでは父方の者 と の 近親婚も禁じてい る 。これは当時、住居が徐々に父方の方に移り つつあり、父方を中心とする家族集団が出て来た こと、すなわち父系 がかなりはっきりして来ていたことを示してい る 。﹁肉体交渉をもった妻が以前に通れて来た娘 で、今は自分のとと こうい う 近親婚が、かなり行われていたことを 一 ホ している。この ア ー ヤ は 八 ヒジュラ後まも低い メ デイナ初期、 マホ @5- 1 メットがユダヤ教徒に妥協的であった頃の啓示で あり、この内容も、旧約聖書の規定と似ている ことがよく指摘され るが、 姪 との結婚を禁止している点で旧約聖書 より強い程度において近親結婚を禁止しており、 また 乳 関係を血統 関 保 と同じレヴェルで扱っている点、連れ子につ いての規定のある点、旧約聖書にある月のさわり の女に近づくことと 同性愛は禁じていない点など、かなり多くの諸白 一で異なっている。 (108) 4

(6)

たいる。Ⅲ

、汝

らの右手の所有するもの︵

日卸

くることの多かったことを示している。

Q4.

射では、さらに﹁それから結婚してな

の、

即ち実子ということをわざわざ強調している

が寸

帝ぎミヨぎ仁オ

年日︶とは、彼女たちが

しており、これを禁止することにより、父系制きかえに、マホメットは同じ

ですぐ続け

らぬのは正式の夫を持っ

lu Ⅰ

る女 -9-i

︵ 目ィ岸ヴ牲臣ゆ丑

のは、腰から出ない子供も、自分の集団円

へ母

婚していても結婚してよ

と一緒に入りこんで

である﹂と述べられ

い。

日阿ョぎ

村里㏄

せ日岡

二戸村口ョとは、奴隷

女と

捕虜の女をさすと考えられる。㈲いわゆる

しむ︵

m

、 じ

結婚を許

している。これは、ジャーヒ

ーヤにおける

地位を変えることなくし

︵ 琉穏

5 (109) ろで後見している 女 ⋮⋮﹂という言葉は、この 間の推移をよく物語っている。母系 制 社会におい ては、子供は母方に 属し、そこで育てられた。それが父系制になっ てくると、マホメットも 、 別の箇所で規定してい るとうに、子供は父 方 に属することになる。過渡期にあっては、 女 はそれまで自分に属していた子供を連れて男の方 に 嫁入りするという 形をとる。もちろん、父系制社会においても、 母 の 連れ手という現象はおこるがここではそうい う 現象が極めて普通 であり、またわざわざこついう規定が一般的な林 示止 婚の項にならんで挿入されているのは例外的 でなかったというこ とを示すものであろう。この ア ー ヤ の後に﹁だが 、もちろん、 去だ 交渉をもたぬ う ちなら罪には ならぬ﹂とあるの は 、当時、まだまだ 父 としての責任、義務観念 ができていなかったため、連れ子の娘とも簡単に 交渉をもつことが 多 かったと考えられる。また、このあとにすぐ 続 いて﹁自分の腰 -8- Ⅰ 力ら

、、

出た 息 子 ﹂とい 二 Ⅱ ノ 舌口 華 末が 自分の腰から出たも

(7)

されるが、元来は、そうではない。ここでの母 系制 社会においては、女性にとっても男性にとっ ても性は一つの 楽し みとして極めて原始的自由の中に存在した。 生 れた子供は、母系集団で、共有財産により育て ろ れた。しかし、女性 から財産が奪われ、私有財産観念がでてくると、 この結婚は 、 徐々に女性の犠牲を強いることが 多くなって来た。 そ こで マホメットは 、 ヨ日、 p 結婚を認めはするが 代価︵日吉Ⅱ︶を強調したのだと考えられる。 こ 0 代価は ヨ斗 Ⅰと司 義 的であり、男から 支 へ渡すべきものとして 規 足 されている。マホメットは 亡古 ︵により、こう いった楽しむ結婚を - おノ する者と、 ヨ茎ハ により父系的結婚をする者と を 区別し、前者の女性たちを ョ鮭 生面︵とよ び 後者の女性たちを -6 つろ ︶ ョロ ケゅぎ弾 とよんだ。 Q4. あ では、資産がな く てヨ u ゴゅぎ瞠と 結婚できないものはの 巨 す口ロ 口 のの許し︵ 鮭三 ︶ を 得てヨ餅ヨの 団 左注が下ヨ ぎ巳ぎヨと 結婚するが よいと述べられている。この例や、または、お金 がないから結婚でき ないと訴えにやって来る男たちの多かったこと などの例からすると、ヨの ゴハ は三目より、はる かに多いものであっ たことが推定される。 Q4 . あの ヨ 刮ヨ目キ笘のせ ヨ倒コ u

下ヨと目

ぎ 岸ココ がの解釈は様々になされているが、前者は 、奴隷 女 で、後考 - 幻 - は 、その奴隷女の家族の者というのが一般的で ある。しかし、奴隷女の家族という解釈は果して 妥当であろうか、 奴 隷の家族というものは、概して不明のものが 多 かったし、また判明していても、娘の結婚に許可 を 与える程の権限を もっていたと は 考えられない。奴隷の親、また は 家族の者に、あなたのところの娘さんを妻にし ていいでしょうかと 聞くのはむしろ奇妙であろう。 p ぎには、家の 者、家の民という意味が勿論あるが、 そ 持主、所有生という 意味があり、ここでは、ヨり日日の下︵ ば 日目 コ 目方目ョ 0 所有王と解するのがより妥当であると 考えられる。すなわ ︵ 舶 ㏄ - ち 、 Q4. 恋の意味は、もし、日目 ゅョコ ㌣と緒 婚 できれなら所有主の許可を得て、その所有生 が 、右手で所有してい (110) ︵ 舛 ︶ ︵ 3 0% ノ のもとにきたりし、別のハディースで は 許可し ている。この日三、 p 結婚 は 、しばしば売春と 同義語のように解釈 6

(8)

る女

すなむち奴隷

かまたは捕虜の女と結婚す

るがよいということであろう。

この・奴隷

たちが

ョ焉

ま型

とよばれるような

が多かったと推定できる。何故なら、

Q

なろうとする奴隷文に

鬼ま

盟約行為を強

いてはならぬとあり、㏄け方ォ

曲 ︵Ⅵが伝えるところ

によるとマホメット

、﹁奴隷

女をヨこ

すり

笘にしてやったものは、

すは

ねち、教育し、解放し正式な結婚をし

てやったものは

二倍の報酬を受けるだろう。日日おぎ卍になっ

女にも二倍の報いがもたらされるであろう

と述べたという。

Q4 .

㈲では

甑下瞠がョけ汀ぎ

型にな

ることを奨励

、もし、かつて

usa

めす緊であ っ たものが、姦通を

働いた時は

ヨ目すゅぎ

㌣の罪の半分にしてやろう

述べられている。

Q4.

ヨり

日の︶

曲村注斡

せヨりヰ

由季

ヨをワッ

トがヨ桶まヨ曲

︵と解釈しているのも、この意味

においては、妥当であろう。

れにともなう肉体の商品化、マホメットの口舌︵

があいまで,

ョ日

結婚は、売春的になり、

奴隷に売春をさせるひもも出現した。円が

サリ

︵Ⅱ

伝える解釈による

Q

・舖においては、︶

ヴコ

こすロゼせのひも

行為をさしているのだという。

Q

おは、

プ @ ツ色Ⅰ︵イロハ

出 -

広五

事件の直後での︵

2

3

ぺられたものであるので、

とさらけ目ヒ

ヴ の

せ ぜの名が出されたと考えられ

るが、その他にも、こう

乗じて、また父系社会の副産物としてあられ

れはじめていたと考える

︵㎝︶

いったというハディースが残っている。

(9)

契約結婚が広く行なわれていたことを物語って

いる。

-6 3

一方、夫に保護される

ョ亡

甘 ゆぃコ

緊を奨励

しているのは、

日申

︵ -a

、 Ⅰ︵

姦ヨ巨

すか 結婚に関連して、当時の姦通について、︵ 4

0

︶︵ 4 、 がマホメットのところへ来て﹁二目∼∼のま 上 D ︶

・1

イスラームの概念に反したからであると述べ

ラーム以前の女の地位が決して抑圧されたもの

が、ヨ巨び

結婚に否定的であったのは

ヨ呉

単になされたことを規制しようとしたことなど

︵結婚保証人︶を結婚に必要なものとしたり、

ている。イスラーム教徒の学者である彼が、ここ

でなかったことに言及してしまっている。スミス

、その理由であろう。それ故、

ョ巨

-p

結婚で

結婚においては余りにも女性に自由がありすぎ

婚を阻止する規定をもうけたりしている。本曲

、これは結婚に対す

えよう。 り

日巨

Ⅰ結婚は

、結婚は

、ィスラ

でか宙

ぎもマホメット

不要である毛が︶∼

にある。下目︵

とは解放された女の意である。

なわち奴隷の身分でもなく、捕虜の身分でもな

いものは、

ヨ Ⅰ切がかす

鉤田

行為をしないという意味である。また、男た

ちが

マホメットのところに来て

﹁われわれ商人

には、

z ぎゅ

を許して

もられねば困るのです﹂といっ

記述もあ

。︵

ぷ 2 ︶

こでぃぎ

目は

、ョ巨げ

結婚と同義に用いられて

いる。コーラン中に

、十八節もの多くを割いて

ぃぎゆ

について述べ

られているが、この時代の姦通は、擬制的

、 p

結婚

すなわ

(10)

コーフン 現 われた家族共同体 ︵ 6 4 ︶ いう謹言口をまきちらしたものはみな罪の責を負 , っ 、なかでもその張本人︵ S 毛毒面乙 6 ロ ra ︶は いまにひどい天罰

どり

し Ⅰ

@c く あ の つ 字 た 句 と が 考 え 明 て か は に な こ ら め

ぬ 事

こ @%

舌ロ

れは。

し お て ま い ・ 二た @ る 。 ち マ 二 ホ

( ツ ア ト 1@ K イ と 、 ン っ ャ て と こ マ の ホ 裏 メ

@

Ⅰ ノ ; Ⅰ の な た り

@c 手 な だ つ つ た た ら あ し あ く (1J3) の事件につけこんで非難攻撃をなし、マホメット を 窮地に押しこめたのであった。後世、いわ 仙 m @ るぎ年 Ⅱ︵ ゴ往 @ 守 ∼ の事件の直後に 、 定められたのが、この姦通に 関する Q 別 ・ 騰 2 列 ︵ 4 4 ︶ である。日頃、マホメットに反対し妨害をする ヨ口 n 翫 斤目、とくにそのリーい れ Ⅰー 肪格川で 十本つったⅠ ヴに己ヴ ㏄ せせ 等が 、こ 嫌疑をかけてもほかに三人の証人を得ることが、 できなければかえって嫌疑をかけた者の方が 、 刑罰を受けることに なるわけである。こういった事態にならぬ ぱな、 らぬ事情が、この ア ー ヤ の背後には、あるのであ る 。すな ね ち、 マホ メットの愛妻、アー イ シ ャ が 、日 けの︵が 目ガ 討伐 にしたがったが、若い一兵士と二人だけ遅れて 帰 って来たという事件 はできぬという。要するに、姦通に関する限り、 四人の証人をあげることは、︵ 3 4 ︶ 至難であり リラっ かり、他人に姦通の ち岸ヨ ︵を払わない日ま -u

結婚をさすと

考 えられ、現在の概念での姦通とは意味がちがう ことに注意がは れねばならない。 イスラームの規定では、姦通についての刑罰は 厳しいと一般にいわれる。たしかに、百回答打ち の刑 とか︵ Q 2 ︶死刑とか︵ Q4.5 ︶の言葉が、コーラン の中にも見られる。しかし、コーランに関する 限 り 、その啓示さ 時の歴史的背景と考え合せて、コーランの原文 にあたると、姦通に関しては、むしろ寛大であ るともいえるの る 。なぜなら、百回答打ちの刑にしても、死刑 にしても、その刑が成立するには、四人の証人 が 必要なので ︵ Q4. 巧 ︶。さらに四人の証人をあげることがで きずに、人に姦通の罪を言いたてたものは、 逆 に人 0 回の答 打 になる。ハディースによれば、証人は、男女が一 一人だけでいることや、彼らの外見の様子のみを もって証言 ロ する こ の あ で れ 24 ,り と 別 る あ た わ

(11)

いたの M 才 、 はマホ ージ ン アー ヤ の刑に 4 人の 度繰り の方で とうな は心理 また ないよ 0 者に 土 Ⅰ一一 ノ ではないか。当時、こういった結合は頻繁にあ っ たことであるし、またこの時二八二七年︶ 、ア 1々シャが 、 マホメットが 酩方 であっ なおさらあり得たと考えられる。しかし、 公け に 認めること - か り︶ メットに反対する ヨ目コき 片リ コ を増長させること になり、アー ィ シャの 父 、アブーバクルをはじ めとする ムハ |ンに 不利になるという政治的配慮によって ア | イシャを無実とし、 % 高したものに不利になる ような一連の を下したものである。 Q 挺 ・ 5 では、﹁人妻を 中傷して 4 人の証人をあげられなかったものは 八 0 回の答打ち ︵ 和 ︶ 処せられた後、その者は、その後の一切の証人 になれない。﹂と強い語調で規定している。自分 の妻を非難し、 証人をあげることができず、自分だけが証人で ある場合には、﹁アッラーに自分のいうことが 真 実であると 四 返して証言し、五度目に、もし真実でなかった なら私にアッラーの呪いがかけられてもよいと 申 すが よい。 女 は 刑罰をのがれるために、夫のいうことは嘘で あるということを四度繰り返し、五度目にもし 彼 の 言葉がほん ら 私の上にアッラーの呪いがかけられてよいと 申せばよい。﹂︵ Q 射 ・ 6.7.8.9 ︶と啓示し ている。これ 的 警告を意図したものにすぎず、量刑的には 意 味 をもっていない。 - り @ ︶ 一方、目 臼ぎ ダレ コ ののが伝えるところによると zi コ目について聞きに来た男に﹁ 分 けにするな 。人に見られ うにやれば神は助けて下さる。︵ せ ㏄ 簗 a ︵∼︵旺の∼ 計

するに、四人 見られないように いぎ 目をなすならそれで神はよ し とされるという寛大なものである。 二年末に規定された近親婚の禁止については、 一 刊述 したが、六二三年八月マホメットの住宅が完 成したあと、

配したのであって、事実上、

ぃぎ 囲が行なわれたことは内心認めて ひ めている。彼女の潔白を認めるまでに時間がか かっていることをもって、妊娠をたしかめてそれ によって無実にした を 喰 う だろう。﹂︵ Q 勿 ・Ⅱ︶と述べ﹁彼等も証 大を 4 人挙げることができなかった。﹂として ア 1 4 シャの無実を認 0

(12)

及び六二四年二月キブラの変更をした直後に 、め 本数 的 規制によって禁止される結婚について述べ られている。すなわ ち、 ﹁おまえたち、聖典︵ 蚕蒜 ③を与えられた 民 たる女とは結婚してもよい﹂︵ Q5.5 ︶。 聖 典を与えられた民と はユ タヤ教徒、キリス ト 教徒をさす。, @3 5 ︶ この啓示 の 一年程のちに、﹁ ヨ us キ ヨ 緊 とは結婚してはな らぬ。﹂と述べてい

訳されているが、 Q5,5 において許可されて いる聖典の民が含ま れているかどうか疑問である。一般には、安易 にこの日 us% 安 緊は 、多神教徒をさすのであり 、 Q5.5 の聖典の 民は除外されていると解釈されるのであるが、 果 してそうであろうか。 マホメットが、どういう状況のもとで、この二つ の 見解を披歴しているかをしらべ比較してみる と 、 Q5.5 の方 は 、メデイ ナ の初期、即ちまだマホメットがユダ ヤ 人たち及びユダヤ教徒たちと友好関係にあり 、むしろユダヤ教 か ら 摂取するという段階にあった時に、啓示され たもので、 Q2. 笏の方はユダヤ教徒たちと決裂 して後、マホメット Q2. 笏で、 甘 掛を用いず、ヨ垢 ォ ︵ ヂ翼 とい う 言葉を使っているのは、イスラーム教を ユ ダ ヤ教 その他のもの が、 キブラの変更をし、いわばイスラームの 独 立を 宣喜口をした直後に述べられているものである ことが判明する。 従 って Q2 で使われている ヨ巳串良

ぎは

、ユ ダヤ教徒たちも含めた非ムスリムという意味を 持っていると考える 邨 のが妥当であろう。またマホメットは、多神 教徒、すなわちジャーヒリーヤ以来の偶像崇 持者たちを指す時には、

る 。例えば Q 闘 ・巧では、偶像崇拝者たちが メ ッカ の 二 女神をアッラ | 田の子供たちなどいったことに関する ア ー ヤ で あるが、この偶像崇拝者は ガ卸串 であり、また 、 Q ㏄・㎎でメッカの 偶

肋像

崇拝者の夫から逃げて来た女は、もとに 戻 す なとある ア ー ヤ においても ガ囲力 ︵という手苗 葉 が 用いられている。 Q 初

のとして強調している時には、モスレム以外の ものをさして ョ拐 甲声 瞠 - Ⅰ 5 1 ︶ づ ︵または、 日拐串 東宝︶とょんでいろ。 11 (115)

(13)

分のうちに置くという例は全く見当らない。︵㏄︶ 第二に、 Q4.3 は 、ウフド の戦いの直後に書 かれている。この ウフド の戦いでは セ 五人の 々ス ラーム教徒が殺さ @l ム v ︶ 妻は例外的存在である。ジャーヒ リ ーヤにおい ては、とくにメディナにおいては、男が二人以上 の妻を同時に持ち自 から区別して用いているためであろう 0 タフ シ

結婚してよい。しか し 女は、聖典の民の男とは結婚してはならぬと 折衷的解釈を下している。しかし、歴史的社会的 にみると、イスラー ム 教徒と聖典の民の女との結婚を、まず許してお いて、後の事情により、これを否定していると いうケースである。 コーランには、こういった例が多い。マホメット は 、その時々の社会情勢に従って矛盾する言辞 を 弄したり、いわ - ㏄︶ ば 、いきあたりぱったりに判断を下しているか 制限的規則であるとするためにはジャー ヒリ| のようにみえる。後世の解釈では、年代の遅い 啓 ヤ においては四人以上の妻を持っていたものが 多 示の方を優先させる かったという確か と 決められているが、その年代順序決定は 、当 然 のことながら宗教的考慮によってなされたもの が 多い。 六二五年三月 ウフド の戦いの直後に啓示された のが、最もよく取り沙汰される Q4.3 ﹁もし 父 なし 児 ︵ 下蒜日ぜ に 邪悪な扱いをしそうなら、誰か気に入った 女 と 結婚しなさい。二人なり三人なり四人なり ﹂である。これが 制 限的

規則すな

ね ち、それまでの無制限な 多 妻を四人にまで制限したのだとする大部分の 学者と、そうでない ︵ 9 氏 s ︶ ︵㏄︶ とする少数の学者と議論のわかれるところであ る 。前者であるとする者は、マホメットがユダヤ 教 、キリスト教に影 饗 されて妻の数を制限する必要を感じたのであ ると主張する。 な 証拠がなくてはならない。 H ヴコ の p 、口には 一 人の男の妻が何人もでてくるが、同様にあるいは 、それ以上に女の方 にも何人もの夫が存在した例がでてくる。それ, りが同時になのか、あるいは、次々に何人かの妻 、 夫を持ったのかは 判然としない。しかし離婚の記述が非常に多い 点 、後者の可能性の方が強いと思われる。世界史 ぬ にみても多夫や多 (116) 12

(14)

コーランに現われた 家族共同体 抽 ︵ 3 、大量の未亡人と孤児が生れた。当時の人口 ︶ は 明かでは低いが、この ウフド の戦いには てホメ ット は セ 百名あまり の 軍隊を率いたと記録されているから セ 五人とい うとその十分の一強であり、これはかなりの 人 数を意味する。また この タ フ ド の戦いは、敗戦であったから、なおの ことマホメットは、対策を講じねばならなかっ た 。多妻が当時の慣 習 であったとするならば、マホメットが、この 戦 億の非常時に、わざわざ そ れを制限するような 規則を作るとは考え , られないし 第三に ゼ が︵凹ヨ目は 、せ ㏄︵Ⅱ ヨの 複数形であり 父甘 し旧ル のことである。︵㏄︶コーランにでてくる孤児は 全て ゼ 豊岡 目囲 であ る 。共有的母系 制 社会から私有的父系制社会への 移行 期 にあって男が財産所有権を掌握し 、 又は 掌握しつつあり、 し かも父系共同体が、機能的に未だ確立していな かった情勢 下 にあって 、 父を失った孤児がもっと も 哀れで、一番大き な 問題になっていた。マホメット自身、生れた 時に、すでに父親、アフ ド ・アッラー フ はなく、 六オの時、母親 ァ| ミナ も世をさり、彼は父方の強い親族に全財産を 奪われ、何の遺産相続も受けず、女大商人 ハデ イ ージャと結婚する までは経済的に非常にみじめであっ た -5 。彼が 6 ︶ とさら孤児に同情をもったゆえんであるといわれ る oQ 稼 ・めで、 子 供 にも正当な遺産相続がなされるよ う 規定した あと、 ウフド の戦いで父を失った哀れな 父 なし 児 が 、正当な相続分も 得られず強者の犠牲になってしまうことを阻止 するため、孤児にば正しい扱いをしてやるべきだ が 、もし、出来なけ れば、その孤児の母親のうち気に入ったものと 結 婚するがよい。二人なり、三人なりと述べ たのだと考えられる。 ワットは Q4.3 について、戦争未亡人が問題で はなく、未婚の女性で孤児になったものが問題 にされていたと いう。ベルも、この節は孤児に関する Q4.22 ㎎および 迫 陸相続の ア ー ヤ Q4. は ?M のあと で 述べられたものだ とし、やはり、ここでの孤児は女の孤児をさし ていると解釈している、もちろん、この 父 なし 児 の中には女の孤児、 すなわち未婚の女性も含まれていたであろう。 そ してそれら女の孤児と不当な結婚をする男も輩 出したにちがいな 13 ( ⅠⅠ 7)

(15)

くるが、そのための史料は見出せない。いずれ にもせよ、急激に増えた女性と孤児に対する救済 策 として、 マホメッ トが 多妻を、すすめたとみなす方がより妥当であ る よ う に思われる。 第四に、四人以上の妻をもった場合の制裁規定 がない点である。﹁公平に女を扱えな い のなら 奴 隷女 で我慢してお け ﹂ということは逆に公平に扱い得るなら、 五 大 でも六人でも容認され得たのではなかろうか、 マホメット自身、特 別の啓示をつけて、︵ Q ㏄・ 杓 f 訂 ︶少くとも 一 四人の正妻に加えて、奴隷 女 、信者で身を捧げ たものなど多数の妻 ︵㏄ - をもった。彼が多妻の害毒を認めていなかった ということは、制限的規則だとする学者もみ とめ ている。 また、もし 四妻 に制限する規定ならば、﹁二人 なり、三人なり、四人なり・・・⋮︵ ロ 田の w, ヨ ㏄︵ゴロ 摺 ま麓 ︵下 け ︶ ゆ 任す p, 毛が qE す w- ︶という文体でなく、﹁四人以上は結婚し てはならない。︵試みに表現すれば、Ⅰ 劉甜降 笘叶ヒ 、 曲 曲コ ヰ の ヰゅ N ㏄ 毛ど 定日 ち pn ヴ -p 三 %. ︶と明確に宣言される筈であ ろう。 これら五点からは、 Q4.3 は 、タ フ ド の戦い による女性人口過剰の解決、武力に訴えた初期の 布教政策と関連し ︵Ⅰ く 1 u ︶ ての人口増加策、の一環として解釈されるべき ものと考える。 家族共同体の住居については、それが、母方 居 往 なのか父方居住なのか、直接の記述はコーラン 中に出ていない。 しかし、ワットなども指摘するように、この頃、 母方居住から父方居住へ移行して来ていたよう であり、マホメット も 、その風潮を奨励したようである。ワットは 、 マホメットが、父方居住を奨励したのは複数の 妻 をもつために、 母 方 居住では困難であるからだとその理由を述べ ている。マホメット自身は、最初の結婚ハディー ジャとの生活は 、明 令 の

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(118)@ 1

。しかしワット

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のように孤児のうち若い

女性のみを、ここで問題にしたとするのには

がある。女の孤児

(16)

コーランに現われた 家族共同体 たち︶に対する結婚の規定を、ほとんど無視し てよいこと、例えば、四人以上の妻もよいし、 彼 等を不公平に扱って 30 マ 32 ホ

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(119) しかし、 たりせぬよ おまえたち 妻に ナコ ︵ 円 団 が出来上 りのある 社 矛盾するが 住を奨励 し 結婚年余 られるよう い少女が 、 が、 伝える の時、床 亡 コーラン中では、イ ソダ を過す場所として、﹁お まえたち男の方に置いてやれ﹂。﹁離婚した後も 追い出し 会 、すなわち母方の親族の 力 の大きい社会にあ すでに結婚の対象になり離婚したりさえしたら 故に、父系制確立と併行して父方居住の傾向が りつつあるところで、母系集団の名残りが、 裏 う 、なるべくならおまえたちの家の方に住まわ ところによると、アー ィ シャは、六才の時に マ たのであろう。 に、ア ㏄ ゼリ ︵月のもの︶の よぶんてひ井はい女も 4 、イ に 関しては、コーランには、何らの規定がない。 の方に置いてやれ @ ⋮、とあるのは、一見、奇 の目リぜ リガがⅡの オユ ト ト ⅠⅠ ヲ ︵ Ⅰ 目ノト 9-6 と官書ロしたのちやはり、 返しになった形で表われているといえよう。母系 妙 であるが、ジャーヒリーヤの母系集団において しいことが推定される。また、 宇ロの u 、ロ - 切目方 ゴ せてやるように﹂︵㏄・ 6 ︶と述べられている。 でて来、マホメットも、この時代の流れに 悼 さし ホ メットから結婚の申込みを受け、九才で結婚し ッダ って、母方居住の結婚は、父方の親族の力をのば を守らねばならぬとある例からも、月経を その集団にとどまっているのがふつうであった 一般に非常に早婚であったらしい。 Q ㏄ 離婚後も、 ゅ ∼Ⅱムハ けト片 Ⅰ 。父系 集 制の名残 すことと 一八才 まだみ な は、 夫が て 父方 居 ・ 4 に み - ㏄︶ た 。のち、マホメットは彼の妻たちに家を各々 あ てがってやり、自分は、その家を順番にまわっ たといわれる。 かに彼女の住居の方でなしたことが判明してい るし、アーイシャとの生活も、はじめのうちは、 彼女の家の万で過し へ

(17)

もよい。㈲マホメットの妻たちは、それぞれの 住居に内幕︵ ゴごゆす ︶︵ 1 7 ︶ を用いること。㈲ マホメッ トの 死後、彼の妻 た ちま @ 再婚してまならないこと。

1︵

2 @ ︶ ㈹姦通した てホ メットの妻は二倍の罪をきせられ、二倍の刑罰を 受けるべきこと。 ︵ Q ㏄・ 為 f め 、 Q 鵠 ・ 皿 ︶などの諸点である。 こコ の u.& の 八巻には、マホメットと婚約をした が結 括し広かった者、結婚したが性交渉をもた なかった 考 まで 含 めて彼をとりまく 二セ 八人の女性について︵も ちろん、彼の親族など性的交渉の対象でなかっ ゎ @ 者も含めて︶一人一 人の伝記が記録されている。しかし、﹁も う これ 以上の女は御法度である。﹂︵ Q 郎 ・ 引 ! 酩 ︶ と 自戒しているところ もあり、マホメットの人間らしさが如実に表わ れている面でもある。自分の妻に対してのみは、 自分の死後の再婚を 禁じたり、姦通の罪は 、 マホメットの妻に限り、 二倍の処罰に処すなどの規定を設けているのは マホメットの妻 た ちは、おおかたの女への模範にならねばならぬ からと解釈するのが、一般のタフシールであるが 、自分だけは、妻た ちを不公平に扱ってもいいのであるとし、一晩 ず つ 回らず、順番を飛びこえる特権をみずから 許 している点などから 考えると模範意識よりも、マホメットの人間 臭 ささのあらわれとみる方が自然である。 - 円円︶ ︵㌍ - ワットなどは、マホメットの結婚は 、 全て政治 結 婚 であったという。たしかにそういう面はあっ た 。しかし、彼の 結婚が全て計算づくの冷たい政策的なものであ たとは舌ロ い瑚 地外い。 -5 7 ︶ むしろ、彼の人間性が如実に 出ているとみる方が 真実に近いであろう。 これら 、 マホメットの結婚に関する規定、また 彼 の 結婚生活は現代の西欧的モラルからすれば 許 されるべきもので @ ナし力 当時、さしたる非難がなかっ ︶たのは -6 7 社 会 全体として結婚が非常に自由なむしろルース に 近い雰囲気の中で ま こよⅠ ゴ ︶ おこなわれていたことを示すものである。当時 は 、四人以上、十人の妻を持っていても非難さ れなかったのであろ う 。四人以上の女は禁止という規定は、後世に なってから意識されはじめたことで、当時は 、四 という数字に明確な (120) 16

(18)

コーランに現われた 家族共同体

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つ ひ こ ろ と Ⅰ 7 く 121) このことは父系的傾向のおもむくところ過渡期 たことを示している。 以上、マホメットの生きた時代の様相と コ ー かなり断定的解釈と響くところもあるかもしれ |ヒリ ー ヤ からイスラームへの移行 期を アラビ 続 性において考察されたものなのである。 においては女の音ギ心を聞かずして強引に結婚しよ うとする男も出てい ランとのからみ合いについて、結婚に関するも ののみ考察して来た。 ない。しかし、ジャーヒリーヤにおける母系 制 社会の存在およびジャ ァ 語原史料により詳細に分析し証明する作業の 後に、その作業との 連

、病中は、アー

シャの家にいたいが同意し

てくれるだろうかと他の妻たちの

責ギゅ

をたずねて

いる。アーイシャが︵

7

9

伝えるところによると、女の意志に反した結婚

はいけないとマホメットが、彼女の父アフーバク

に話したという。

れは後世の宗教的偽作であると考えられる例で ある。 母系 制 時代の強い母権の名残りをもって女は プ - ブ イドが高く、ムスタリク討伐にも従った ア ー イ シャの如く戦場に もおもむき、また好きな男性と通じることも 自 由 に行なった。結婚にはジャーヒ リ ーヤ時代から ひき続き、依然とし て 女の意志が必要であっ た 。マ︵ 8 ァ ︶ ホメットでさえ、 タ ン ム ,ハビーバ と 結婚するにあたり、アビ シ エ ア へ わざわざ手紙 をやって彼女自身に申込んでいる。また でホメ ット は死期が近づいたのを知るや、全ての妻を マ ィム 1々の家に集 難されたという例は、根本史料の中に︵ 少 くと も 筆者のみた限りにおいて︶唯一 つ 見出されるの みである。しかもそ

意味がなかったと考えられる。男も女も次々に

相手をかえている例は非常に多いが四人以上の妻

Q

(19)

注 18 ︵ 1 ︶ 旧曲 ︵︵・ ツミ っ % ヰ幅 。 ヨ 0 Ⅰ セ @ ノミロ ブぃヨ 日の由㏄︵ トミ の nca, 。 巨 0 三目 お ・客年豆 日 2% 二三のま 目 ・ 0 臣 。田はま ︵ 2 ︶の ヨま す・ も く・ オっヴ の﹁打っ コ @ ヌ ぎの三つ安目㏄﹁ ヱぃ 内の ぎ Ⅱハユ ぜ下 ︵ ぃヴす ・︵下の之 et アの ユル コロ の・︶のむの ︵ 3 ︶こういった考え方をする者は枚挙にいとまがな

がほとんどそうであ ることは想像に難くないであろうが、Ⅰの 4 セ ・おのし ヴ の コ ︵ 円串 のの 濤 ㍗ - の宙宙れき Ⅱ 0 音㌃ 寸ヨ ・の ハヨ串 三的 り己臣ぎ 0 Ⅰの ぎ Ⅱ㌧Ⅱ 0 ㏄の・ も憲ワっこ、 目まタロの 旨 ハ %. Ⅰ ア の中む 拓ぎコ @0 ︵ ギ由 いつつのⅡ 鋒い ﹁ 0 ︵ すいコ の・ 之 0 名 べ ork- ト のの つワい ㏄︶・ の @ すヴ, Ⅰ・ 下 ・ オ ︵の ア 0 Ⅱ 田 0 Ⅱ しコ 。㎏ ユ 。ロハ 0 色 ざ 。 円 Ⅰ 凹いヨ ・Ⅰ ゑ Ⅰの コ 。 ト のむ ゲ Ⅰ・ ト ミ ・ z ぎゆオ社れ 陰 0 宇 三目・ 下 ・ オ ・ 目 。 田 ヨヨ まい 田の ヨ ・ レコ % ず︵ っ ﹁ T 巴 の申 ﹁ 40 セ ・ 0 Ⅹ︵ 0 ﹁ オロコぎ窯 立円 セ ㌧﹁ののの︶の 肚 0. 寸ぃト ︶ 、 など、西欧の権威あるイスラーム学者も、家族に関し ては、 極く 安易 に 、この説を採用している。 ︵ 4 ︶下 す由と , 巾 ar ど目 1 寸寸 す倒三 @ ニ ︵ リヴ巴 1 レ 的プ釧コ ∼︶ 甘臼 P 些 l0 け年 Tp ト ㏄ り ㏄ 由 ︵ 5 ︶ 巴, し佳 オゴゆユ @ のハア @ オ ・ 木ぎゆ ヴ土 1 才 守斜す ・ 木 @ ︵ 曲す巴 1 ドド 扇 Q. 不 ︵均す 巴 L 三色 a. メ ざ りす巴 lN り守 p% ︵ ,巴 lQ 竹玉﹁ ダトい印 ㏄ 由 ︵ 6 ︶︶ す口生 l や ︵ 巨 Ⅱ 巴 i 本村 ヨ ごホ 巴 l 円 り ﹁守二 つ 三の・ 巴 1 0 ゅすオ の・ ト のりⅡ ︵ 7 ︶コーランが一冊の書物にまとめられたのは第三 代 カリフのウスマーン︵在位のか 43 めのの︶の治世中の ことで本質的には、 この時のものが現在まで伝えられているから、 マホメ の時代を知る唯一の同時代史料ということができ ︵ 8 ︶ 邑コ 出ずす ゅヨ が編集したものにしか現存してい ない。︶ ヴ コ % ずダゆヨ @ 住 1 の 甘い凹 1 名ハオハミ ゼ p. の マ 三の い て 0 卸す オぃ 。 トつ 中白 ︵ 9 ︶Ⅰ すコ の p 、 d@ 臼 1 円かすり曲目︵ 田 1% 臣オ ﹁ a. ㏄ く 0 デ ・ し ㏄ セ ﹁ 巾 ︵・ⅠのりⅡ @ 切 ㏄ ︵ 托 ︶アラビア文字の転写法は次の方法による。但し 繍、ヨの ﹁寸口㎡ い と語頭のぎ ヨ Np とは一切省略し、冠詞 は 常に目 |と 転写し た 。 、 - す ・︵ ,ま ・ ナオ ・ ガゴ ・ &, Ⅰ ゴ ・ グダタ ㏄ オ ・ ゅ 。 &. ダダ・・的 す ・︵・ 出,オ 。 -. ヨ ・ コ ・ ゴ ・ ま、せ ︵Ⅱ︶㏄二ォ 時ユ ・ パ @ 繍ヴ目 1 % ぎ曲廿 第 7 節 ︵は︶ ヨご ,第 9 節 ︵㎎︶客臣目ガ ダ 下墨の呂 目毛い け曲目 L ヨゆヨ下岡二 % 田 l の ゅ王尽 , トの ㏄Ⅱ 丁 、木目 ゅヴ巴 l 名 ぎ曲ゴ 第 3 節 ︵ M ︶ Q4. 桟 ? 為は、コーラ ソ 第 4 章羽節から㏄ 節 の意 、以下、これに準ずる。 ︵ 巧 ︶レビ 記 ㎎ 、 7l ㎎ 節 ︵㏄︶ マホ ノット自身も ヌゴ 村上ヨ い という乳母に育て られている。 旨 ど井 ゆめ 気候をさけて、郊外の里の方 で 乳母に育てられる

(20)

コーフン に現 。 われた家族共同体

リ( つて 7 @6 ( ハ 公 25 24 23 22 2 Ⅰ 20

Ⅰ 9 18 17

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(21)

女 、後者を家族の者と訳している

0

ミリ︵︵は、前者を

ヨ年

倦め

下痒と

解釈し、後者をその女の部族の者と解

してい

恭 ︶右手で契約書に署名し奴隷をやとったことから

右手で所有するものというのは奴隷のことをさすよう

になった。

釣 ︶起立

甘すゅユ

ドア

Z 弄り

ヴ第初

l 為筋でっ・の

︵㏄︶・詳しくは、片倉前掲論文。

円曲ヴ

㏄ストア

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の㏄ 耳

︵㏄︶

注 朽を参照

︵㏄︶

Q ㏄・㏄で述べられている﹁信者の方で身を捧

げる

女 ﹂というのは、

ヨ互

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︵をさすものと考え

られるし、︶

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即 ︶マホメットの敵方の大将

まの

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︶ ゆコ

の妻であ

たが、のちにマホメット側についた女丈夫。

ぬ ︶Ⅱ

ヴコ

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・の。

つ ・ トい

蛇 ︶Ⅰ

ヴコ由乙甘リ

ヨ。や

む 下旬

-- ガォゅ宙

注 1 名ォ芸集目

(1 ぬ 0 20

(22)

コーラン に 現われた家族共同体 ︵ 丑 ︶ 旨呂舟 ,キーヨ 偉ま笘宙づ ・ おへ ︵ 乾 ︶言出 庁 , 木 Ⅰ︵ ゅヴ斗 山主君 第駐節 ︵㏄︶実際上、問題になったのはユダヤ教徒である。 ︵ 村 ︶井筒俊彦 コ コーラ ソヒ 上中下︵岩波書店昭和 ㏄ 年 ︶による。し占 - は、ぎ 0-p ︵の︵陸のと訳している。 ︵ 肪 ︶マホメットは最初にとり入れたユダヤ教の七三 舶 さやめ、 窩ギぃ をイスラーム教徒の祈りの方向に 定めた。これは、 そ れ 以後一切ユダヤ教との妥協はしないという決意をは っま巳 Ⅵ ノ ヰ介したⅠものといわれる。︵ Q り夕 ・︶㏄の︶ ︵㏄︶男性 形 、単数 宙へ 複数形がが ロ由卸 ︵女性 形単 拉が 宙り力 ま、何故 形が木レ毛 目ホ づ ︵ 辞 ︶井筒俊彦は、邪宗教という言葉で 殆 んど全部を 訳しておられるが、最近刊の甲 呂 nol

田旧

。納の 0 由のの 其のぎの Gr,a コ害 0 コ ・ 巨 0 巴 ・ ト のついでは、, 日君 の 下 ︵ 庁デ ︵ オの臼 ︵の c ︵ っ つで。四宮。 ︵ 已仁のコヨ,と 述べられている。︵ P,I のⅠ︶ 21 (1 あ ) る 。 ︵㏄︶例えば、自分の娘や息子の結婚の証人にもなれ ないというもの。 の 年は、こういう関係であったと考えられる。 ︵ 杓 ︶ ヨ目と i き 目の一番の長老で、マホメットが最も たよりにしていた者、マホメットの死後、第 1 代カリ フ になった 0 もし、 この噂でマホメット と下 サロ ロ注 Ⅰとの 成情 がこじれる と 、イスラーム教徒の団結に致命的な打撃になった ろ うと 考えられ ︵Ⅱ︶ ナコ の目の第工の実力者とみなされていたのが 木 在ま ゑ 部族の指導者であったデコ 己ヴ曲吋 早であ づた 0 彼は表面上は 、イ スラーム教徒になったことにしていたが、マホメット に心服したのではなく、ユダヤ教徒の カ イスカー部族 と 同盟して 目| 審 注ぎ a の政界に重ぎをなそうとしていた。こういっ た偽 イスラ l ム教徒のことをいう。 ︵ 朽 ︶ ヨ 二の︵ ヰ コガ討伐の帰途の強行軍で、マホメットに 同行していた宴曲 協汗 が落伍し、遊牧民の若い イス ラーム教徒組 安ぎ ダ リ ー 1 ヨ珪 -a ︵ り ﹁に連れられて 巴 1 呂注 旨 いに 帰って 来 た 。・ か Ⅱのすいとこの若者の噂は、 巴 1 目 えぎハ に広まり 姦通を禁止 していたマホメットに対する良い攻撃材料になった。 最初にこの噌を立てたものが目コ 己廿リ セ ヒ であった と い う 。 ︵㏄︶ まコ己汗吋 Ⅱのことをさす。 ︵ 仰 ︶島田 襄平 、 ヨ 預言者マホメット L 角川書店 昭 和 ぬ手 P おか ︵ 毬 ︶ い 偉 マゴゆユ の伝える 9 才でマホメットと結婚した こと、目口許珪の伝える彼らの結婚した年は ゥ S 年 であること、 日 仁一 の ︵ い ㌦ 左 討伐は総Ⅱ 年、 マホメットの没年の年がゆ㏄ 吋 年 で、㏄ オ であったことなどから算出すると、 マホメ ットと ・ レ せのすい Ⅰ

(23)

︵⑱︶マホメット研究者であり医者であったドイツの の屡占幅の ﹁は 、 マホメットのこういった一貫性のなさ を 指摘し、また コ| ランの最初の部分のパリヨ ロ的 異様な文体を根拠に 、マ ホ メットはヒステリー症であるという診断を下してい ︵ 辮 ︶ 再 。 審臣 タカ。 す ︵・ ロ のの 罷 5 まのコ ン の 仁 りづの コヒコ 仁田 Ⅱ ヴ のお 目 ︵ @ ヨ 0 年﹁ り巴ア ト人 w るぃ碍 ,こ 0 ㏄による レ Ⅰ 、束 方の民族︵ 0 の︵ -@n す め コ % きヨ のⅡ コ ︶の多数にとって多妻は周知の慣習を廃止す る 理由・をみつけることがでぎなかったのである 0 Ⅰ︵ づ ・Ⅱ︶ ︵㏄︶マホメットは、ユダヤ教の も寺笘ヨ せを念頭に おいていた︵旧約聖書には、教父や諸王の歴史上多く のつ 日せ 幅 八日ぜの 実 側 があるが、どこにも、それらに対する非難がない︶。 の臼 や目・ " 甘 @ いの ゴ 笘の田 呂 0 すり 由 Ⅰ 目 Ⅰのし い 仁の缶 e コヒ Ⅱ 二 %0 コ 任仁ヨ の ハ % 内的の目 0 ヨヨ l のミ汀乙盤 , トの S づワ ㏄ ミ ー ぎ ・マホメットが ュ片 ブヤ 教 から何を摂取したかについて論じられている。ユダヤ 教の側からの 視 点であり、多分に西欧的価値の偏重がみられる。の田の もまたマホメットが 球与油 の 日 やを制約した時、 ユ ダ ヤの 律法者の意 見に従ったと述べている。 ぎ す一 パ 0 ﹁ 銭串 キヨ ぎ ar 田 し抜 no 目 ﹁のの - ㏄の 0 ヱ っ コ Ⅰ。二ロ 0 コ ・ ト ついつ ︵㎝︶出ル ミ ハ % 一 % ヨミ・ N の 毛 せっ 丹 ・ P の 印 ㏄やいの ︵㏄︶後に多数の妻をもったマホメットでさえ、 ヰ吾 りの頃までは 1 人の妻をもつのみであった。すなわ ち、ソ ミぃオオハでは、 ト 甘 い目 ちのみ、 目こ 尽の時はの ぃ毛寸 Ⅰ人である 0 ︵㏄︶二日出 オ田コによ る。 ︵㎝︶ 母 なし児は、、 下甘 ・両親ともいない児は守口 ヨ である。 ︵㏄︶過渡期においては、強者が全て奪 い 、弱者には 相続分がみとめられなかった 0 マホメットの亡父は 、 何らの遺産をもられ なかったし、またマホメットも相続でぎなかった。 父 系制 が確立していれば、こういうことはおこなわれ 得 ︵㏄︶ オ 0 すめ ﹁︵の 、逼コ l お ﹁マホメットは㌧ 三 ド窓 ョせ の 生口 毒 をみとめていたのではないかとの疑問が起る のは当然であろう。 私はそうは信じないり多分極めて高い教養の水準をも った 人でも、それをみとめまたは、認めようとはしな か だろう、 目ぃ| - 鼠ヨ︵の。 コのヰ岸 由ヰ ざコ 生年ず︵ 0 Ⅰ せ 0 ︵ めコ の 下コらト ・ ロ ・ む S は、 ㏄世紀のドイツ宗教改革者でさえも、例えば、 子 孫 のない場合に 二度目の結婚をすることが許されたという事実に言及 している。ショペンハウ フ| 自身も、その㏄つつ年後に モルモン教徒が 不自然な ヨ 0 コお トヨ Ⅱの 姪 桔を撤廃した時にモルモン 教を称揚している 0 由江 毛ぃ日へ っ コヱぃユヨル ココの コ 無意 識 の替字 L の中 で 男性の自然の本能は一犬多妻的であり、女性のそれ はそれに反し一夫一妻的である。と述べているし。 ︵ 卸 ︶現代のイスラーム学者は西欧的一夫一妻主義を 至高のものとし、イスラームにおいても本来は一天一 妻制 である。なぜな

らしいと条件をつけているという。しかし、この条件 は、 甚だ酸味な

(24)

コーランに現われた 家族共同体

ハリ

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23 (127)

(25)

Ⅰ ︵ 花 ︶一夫一婦制を早くから採用したユダヤ教徒から し 、死期が近づいて 目のア りの家に病いの身をおいた は 、非難があったといわれる。 のも死後の彼の後継者に レ サロ め曲 午を考えてのこと であろう。 ︵ 乃 ︶しかし、 律か 、真実白帝ぎを愛したことは 史料に活 き活 ぎと え がかれているところであり、、かち オレ自身も、彼女が 24 マホメットの妻たちのうち、唯一の処女 妻 ︵ 庄年 ︶で あったと誇り、マホメットの愛情の深かったことを 自 ら 伝えている。 均 ︵ 行 ︶ 刃ぃ ミロ 自コが イスラーム教徒になった時、彼は十 人の妻をもっていた。マホメットは四人を避んで、 他 からは遠ざかれ、 と いったという ぎ 臣子があるが、の 0 ミぃぎ 目も指摘する 如く 、 マホメットの規定が如何に社会に顕現化して いったかを誇張 するためのものである疑いが濃い。 ホ % ︶女の意志の必要だったことに関しては、の @& 日 モづ F ⅡⅡ l のいに井井 し ︵ 鴇 ︶い目 ゴゅユ ・ ヌぎゆヴ曲ア之ぎ 目笑 トっ ㏄ 柿即

(26)

、 ジャ - タカと菩薩理念の 融合 ︵Ⅰ︶拙稿、ジャータカ とボサツ @ 特にバールフート 彫刻における | 宗教研究一六七号、三八 ! 六二頁。 始 的意義、印仏所九の 一 、一八八 f 一九一頁。 みたい。 註 (129) それならば、これらの点が文献上からはいかに 跡 づけられるが、今は四部二ヵーヤ四阿含及び 諸 佳典より検討して ︵ 1 ︶ の一 形式であることを論証した。 タ こ し あ

Ⅰはしがき

われわれは、先に菩薩思想の起源及びその展開 を 解明する一手続きとして、現在入手し得る最古 の 考古学的資料で る バールフート彫刻に現われたジャータカを 考 察したが、その結果、それらが菩薩理念と融合す る 以前の形態を示 ていること、従ってジャータカを﹁仏陀︵即ち 圭 ロ薩 ︶の前生物語﹂と定義することは発生史的に 舌口って疑問である とを指摘した。そこで九分数十二部経中の﹁ ジ ャ ータカ﹂に対する諸経論の註釈との新たな照合 によって、ジャー 力は 本来的には、過去に受けたところの生を意 抹 し、現在の事件︵或は人間︶に因んで過去の事 を 説くという話法

杉本卓

ジャータカ

と菩

理念

融合

り や

(27)

らは九分

中の﹁ジャータカ﹂に相当し、前田

博士によれば﹁現在

にちなんで過去事を説く

諸天・人間・動物等

生を経た、仏陀前生の菩薩修行時代の物語﹂

定義され、その実例がし

Z.

しか

?P

し z

・ めひ

0 Ⅰ

。 の町

拝ン

下名

・ か切

?

ナン

Z.

・Ⅱ

?

び ・

レ Z.

Ⅱ・トトトートトの 等に見られると言われる。︵

1

そこで先ず論を進める順序として、これら五例が

はたして明確に﹁ジャータカ﹂であり、﹁仏陀

前生の菩薩修行時

説くものである。

1

・オプ

のしが

つ乙ど

めヒ

4

旺 二︶

コ黛ダ

Ⅰ。

コ巨

0

コ, ︶ の

︶ づ ・

・︶

賈占ま

・前田博

丘 、原始仏教聖典の成立夫

研究、三八三

@

三八

六頁。

Ⅰ: ノ

エむ之

・Ⅱ・おもて丈の,木目釘由の三のの三盆

これは、刃ロけ曲

巨リコ

︵ い

と名づくバラモンが仏に犠牲

祭の方法と供犠の品物を聞いたのに対して、

、昔、目

ひゴ倒丘

甘辞

名づく王が、祭官の教えに従って動物を犠牲

にすることなく、

、油、生酢等でもって犠牲

をなしたことを話し、

この話は長阿舎︵天一、九八

b

以下︶にも見られ

るが、ここでは大祀をなした刹利三が仏の前生

とされ、その祭祀

よりも僧への供養乃至憲明を具足し閑静を楽し

むことがより勝れていると説かれる。

このように、ここでは仏の前生なるものの行為は

低級

され、経の主旨は仏の修行を説くことに

あるのではなく、

古くは四

% のし 曲ヰぎダ 最近は前田博士によっ て 、ニカーヤ中に﹁ジャータカ﹂の存在すること が 指摘され、それ︵ ニ 、四部ユカーヤ四阿舎中に散見される 仏の前生 話

図  Ⅶ                 し  場  決  か  種 2  ⑲  ⑨  ⑧  ⑦ せ  て て  合  定  石  類 こ 、 等  る 競 い  ⑥ その他の数字のない女の親族は 、仮  りに婚姻の対  象  とし も 罰されぬと解釈する。 同宗無服親 については、例として、その中の ニ、 三を載 るに留めている。 同姓 無服 親は 、国 より欠落している。 ここでの親族の価値評価は、基本的には、刑罰等 級 の  高 音程高いと考える。中で、⑤に掲げた﹁ 釆印 ﹂ の 付いた 族は、 最も

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