レトリックとしての歴史――修辞学批評の視点から 見た使徒言行録――
著者 原口 尚彰
雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学
号 35
ページ 9‑37
発行年 2002‑12‑16
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024308/
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学 批評 の 視点から見た使徒言行録
原 口 尚 彰
l . 古典古代の歴史記述とレトリック
( l )
歴 史 家 と レ ト リ ッ ク
a.
レ ト リ ッ ク と は,
ギ リ シ ャ・
ローマ世界の公の演説に広く用いら れた言葉による説得の技術である ( ア リ ス ト テ レ ス「
弁論術」 l358b;
l359b;キケロ 「
発想論」 l. 7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス 「
弁論家の教育」
2.15.1 - 37) '
。ギリシア・
ローマ世界において議会の言論によって共同体 の意志を決定することや,
法廷の弁論によって法律判断を引き出すこと や
,
祝祭演説や葬儀演説を通して共同体が拠つて立つ基本的価値観を確認することは重要な意味を持つていた
。
公の場で語る能力が重視される社会において,言葉による説得の技術である修辞法の修得は
,
社 会の重要な地位に就こうとする者にとって基本的な教養の一
部をなし ていた。
古典古代において, 修辞学は当時の高等教育の一
環をなしてお り
,
前390年頃にイソクラテスがアテネに開いた修辞学校は良く知'
G.A.Kennedy, HistoricalSurvey of Rhetoric, inHandbookof
C如siaalRhefon'e m //le
a
ea
em'sliea
en'o f 3 3 0a C. -
A.a
4 の(Leiden:Brill,1997) 3
-
7 ; 同「
パ ウ ロ 書 簡 と 修 辞 法 についての考察」
「
ヨーロ ツパ文化史研究」
第 3 号,
2002年,
l-
2 頁。
-
g-
られている2
。
言葉による説得が時として真理性を欠く煽動に堕するこ と に な り, 「
真実らしく見せる技術」
として哲学者たちの批判を呼ぶこ と に な っ て も ( プ ラ ト ン「 ゴルギアス 」 452e;453a - e;454e; 「
プロタゴラス 」352e; 「
テ ア イ ト ス」 20la 「
パ イ ド ロ ス」 260a;262c;267a;
2 7 2 e ; ア リ ス ト テ レ ス 「
弁論術」 l355a
), ヘ
レニズム世界は人間の言 葉による説得を全面的に否定することはなかった。 ヘ レニズムの歴史
記述やその影響を受けた初期ユダヤ教やキリス ト教の歴史記述におい て,
登場人物の演説は全体の物語の展開に対して重要な役割を果たし て い る が (へ
ロ ド ト ス「
歴史」
; ツ キ デ ィ デ ス「
戦史」 ; I IIマカバイ記;
使徒言行録)
,
こ の こ と は ギ リ シ ャ・
ローマ世界が人間の言葉による説 得に対して,
肯定的な価値評価を下していたことを反映している (ア リ ス ト テ レ ス「
弁論術」 1354 a - l 3 5 5 b ; ア リ ス テ ア ス 2 6 6 ; フ ィ ロ ン 「
徳 論」 217; 「
逃亡と発見」 139; 「
律法書の寓意的解釈」 3.80; 「 夢』1.l91) 。
b .
このような状況であったので,
歴史家達も当然のこと修辞学の 基本を身につけていたと考えられ3,
彼らが歴史記述を著すにあたっ て, 様々
な修辞的技法を駆使することが観察される4。
例えば,
イ ソ ク ラテスの下で修辞学の燕陶を受けた弟子の中から, エフォロス
やテオ ポンポスのような歴史家も生まれたS。
ハリカルナッソスのディオニシ2廣川洋
一 f
ギリシア人の教育」
岩波密店,
l990年,
l42-
l48頁,
浅野積英
「
論 証 と レ ト リ ッ ク」
部談社, l 9 9 6 年, 5 4-
55買。'
Aune,83;Ben Witheringtonm
,The Actsof
the Apostles:A Socio-
RhetonlcalCommen加y
(Grand Rapids:Eerdmans,l998)4l-
42.◆Witherington III,39
-
5 l ; S.
Rebenich, HistoricalProse, in Hand.booko
f
ClassicalRheton'c i n t l;e Heu
enistic R e nlod 33〇B C. -
A.
D 4 0 0(Leiden:BrilI
.
l997)288-
289,302-
303.
CD.E.Aune, T he Neu
' Testam e
nt t'n i t s L i t e m r y Em,
ifonmentCPhiIadelphia:Westminster
.
l987)88;Rebenich,270-
273;山田耕太「ヘ
レニズム・
ローマ期の修辞学的歴史叙述理論一
ルカ文密を中心として」
-
10-
レトリックとしての歴史:修辞学批評の視点から見た使徒言行録 3 オスは弁論家であったが
,
歴史書である「
ローマ古代誌」
を著したし,
古典古代の歴史書を修辞的視点から論評した著作を残している(
f
ポン ぺ イ ウス
に与える書簡」 , 「
ツキディデス論J他)。
弁論家として高名で あったキケロは,
自ら歴史書を著すことがなかったが,
歴史に造語が 深く,
歴史記述を修辞的視点から考察している (f
弁論家につ
いて」 2.
13 . 55 - 56)
6。
他方,
修辞理論家のクウィンティリアヌスは,
修辞法を身 に着ける一
助として優れた歴史書を読むことを勧めている(「
弁論家の 教育」 2.5. 19;2.56. l1)
7。
古典古代の歴史家達は
,
史料批判を通して史的因果関係を解明し, 史
的 真 実 (a j a
t ta ) を与えることが彼らの著作の日的であるとしてい る ( ツ キ デ ィ デ ス「
戦 史 』 l.20 - 21 ,
ポリビオスf
歴史」 1.4. 8 ; ヨ セ フ ス 「
ユダヤ古代誌」 14 . l - 3 ; 「
ユダヤ戦記」 序 文 6 ; キ ケ ロ 「
弁論家につ
いて」 2.9.36;2 . l5.62; 「
ア ッ テ ィ ク スに与える書簡」 1 .19. l 0 ; タ キ
ト ゥス 「
歴史」 1.1; 「
年代記」 1 . 1 ; ル キ ア ノ ス 「
歴史はいかに書かれ るべきか」 5 . 4 l - 42他)
8。 この場合の史的真実( a i i
8ea
) と は, 歴史
家達が史料批判を通して解明した史実と史的因果関係のことであり
,
一
定の歴史像・
歴史理解である9。
こ彼らは歴史的事象を修辞的技法を 駆使して物語ることによって,
読者を説得し,
彼 ら を一
定の歴史理解「
型書学論集」
第32号,
l999年,
ll5頁を参照。
o W.C.vanLUnnik, Luke's Second Book and the Rulesof Hellenistic Historiography, in LesActesdesA
p
6tres(ed. J.Kremer;Gembloux:Duclot;Leuven:Leuven UniversityPress,l979)45;Witherington
m
, l 2-
13;Rebenich,292-
296.
7 この点については,Rebenich
.
322-
323を参照。
8 Aune,83;van Unnik
.
43-
46,50;山田耕太「ヘ
レニズム・
ローマ期の修辞学的歴史叙述理論
一
ルカ文書を中心として」 「
理書学論集」
第32号,
1999年
,
l l 3.
ll8-
119,130-
132買を参照。
o Witherington
m
,l7;Rebenich,285.-
li-
に 導 こ う と し た の で あ っ た
。
従つて,
古代歴史記述は建德的な日的を もってなされる一
種の修辞法である一
面があった (ハリカルナッソス のディオニシオス「
ポンぺイウス
に与える書簡」 3.2;「
ローマ古代誌」
l . l 3 ; 1 .2.1を参照) '
o。 c.
物語としての歴史記述古典古代の歴史記述は
, 一定の場所において登場人物達が行動に
よってひき起こす出来事を時間的継起に従つて叙述する歴史物語
(a
ulr
la
f ;narratio)の形をとっている(キケロ 「
弁論家につ
いて」 2.
9.36;2.15.62;タキトゥ ス 「
年代記」 l . l ; ル キ ア ノ ス 「
歴史はいかに 書かれるぺきか」 5. 42) 。
歴史物語を著すためには,
史料を通して知ら れている沢山の史実や,
人物の行動の中から,
歴史の進行にとって本 質的な重要性を持つものを選び出す作業と, 史実をつなげて 一 貢性の
ある
,
理解可能な物語に組め上げる作業が必要になるu。
歴史物語も一
つの物語として ,
読者の注意を引き,
その心に訴えて,
永続する印象を残すためには
,
言葉によって編まれた一
つの効果的な文学空間を創り出す必要があっ
た。
古典古代にあって,
歴史物語であることと文学 的な創作であることは矛盾することとは必ずしも考えられていなかっ たのである '
2。
例えば,
古典古代の歴史記述において,
歴史家自身が歴 史の日準者である場合がある(へ
ロ ド ト ス「 歴史 」 2.99;ポリビオス
「 ロ
ーマ史 」 l2.27.1 - 2) 。
しかし,
歴史家は実際に日 舉 し た こ と を 語 る 場合にあっても,
歴史的人物の言葉を一
言一
句正確に覚えていること は困難であり,
発言の趣旨を歴史家が場面と人物に応じて再構成する'
o Rebenich,288''
Witherington III,1l;Rebenich,40,48-
49,54.
l二 Aune,79.
-
l 2-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使従言行録
ことが許されていた ( 使 2 : 4 0 ; ツ キ デ ィ デ ス
「
戦史」 l .22) '
3。
また,
古典古代の歴史記述に登場する沢山の演説は
,
物語というスペース
が 限られた文学空間に置かれているので,
登場人物達の演説の言葉を語 られた通りに忠実に再現することは稀で,
大抵はその要点を歴史家が 組めて記しているに過ぎない。 つまり ,
古典古代の歴史記述に登場す る登場人物の言葉には,
物語作者である歴史家による創作的要約の要 素が存在している'
4。
(2) 修辞法における叙述
修辞法における叙述(
, s
fi n
nla
f;narratio
) と は, 過去の事実を物語
る こ と に よ り,
論 証 を 準 備 す る こ と で あ る ( キ ケ ロ「
発想論」 l . l9.27;
ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス
「
弁論家の教育」 4 .2. l;4.2.3l,57) '
5。
特に, 過
'
3 Aune.
92-
93;van Unnik,58;E.Haenchen, DieApostelgeschilchte
(KEK;l3.durchgesehene und erweiterte Aufl.;GOttingen:Vanden-
hoeck&Ruprecht
.
l96l)99.''
Aune,82;HJ.Cadbury, TheSpeeches
in Acts
,, i n T heBegin
・m'n
? o f
Christianillty (5vols;HJ.Cadburyand K.Lake;
London:Macmillan,1933)5
.
405;A.W.Mosley, HistoricalReporting in the Ancient World, NTS l 2 ( l 9 6 5-
66)10-
26,W.C. van
Unnik, Luke'sSecond Book and the Rulesof Hellenistic Historiography
.
i n LesActesdes A
p
Otres (ed. J.Kremer;Cembloux:Duclot;Leuven:Uni-
versity Press, l 9 7 0 ) 4 l
-
43;F.F.Bruce, The Speeches in Acts-
ThirtyYearsLater, inR,econc
m
ation andH,o p
e.
'Net1oTestamentEssays o n Atoneme,
;,t and Eschatob? P resent1,
ed to L.
L.
Moms on h i s 6l0!h Birthday (ed.R .
Banks;Grand Rapids:Eerdmans,1993)53-
5 5 ; S.E.
Porter
.
Thucydides 1.
22.
l and Speeches in Acts:Is There a Thucydidean View?, NooTesl3 2 ( l 9 9 0 ) l 2 l-
l42;C.Gempf, Public Spe,aking and PublishedAccounts, in T heBookof Acts
mits
First
CmturySetting (Vol.
! : T h e Book of Acts in its Ancient Litera
ry Setting;eds. B.W.Winter/A.
D.Clarke. Grand Rapids:Eerdmans, l993)260-
264.'
S H.
Lausberg, Handbookof
LitemryRheton'c(trans.M.T.Bliss
,A.Jansen and D.E.0rton;Leiden:Brill,1998) S289,1ll322
.
-
l 3-
去に起こった事実の認定とその法的評価を巡つて両当事者が言葉によ る戦いをする法廷弁論は
,
その中に過去の事実の経過を回願するのが,
常 で あ っ た ( ア リ ス ト テ レ ス
「
弁論術」 1 3 5 5 a ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス
「
弁論家の教育」 4.2.57 - 58) 。
修辞法においての叙述は,
客観的な第三 者の証言ではなく,
あくまで自分の主張が正当であることを,
裁判官 や陪審員達に印象付けるために行われるのであるから,
自分にとって 不利な事実につ
い て は 沈 黙 す る こ と も 許 さ れ て い た ( ク ウ ィ ン テ ィ リアヌス 「
弁論家の教育」 4 .2.92) 。
修辞法は結局のところ, 「
本当らしく 見せる技術」
で あ る か ら で あ る ( ア リ ス ト テ レ ス「
弁論術」 1355a;ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス 「
弁論家の教育』4.2.52 - 58) 。
歴史物語である古代歴史記述も
,
演説中の額
述と同様に, 歴史家の
修辞的目的に従つて,
読者達に一
定の理解を与えるために物語ること であるから,
過去の事実を必ずしも綱羅する訳ではない。
例えば,
ハ リカルナッソスのディオニシオスは,
歴史記述においても修辞的な効 果を考慮しながら,
記述する主題を取捨選択すべきであると述ぺてい る (「
ポンぺイウスに与える書簡』3.2;3.l 1 - 12) '° 。
こうした古代歴史 記述に固有な性格は,
今日の科学的歴史家が,
古代歴史記述を史実を 復元するための史料として用いる際には,
史料が持つている修辞的目 的を考慮して,
慎重な史料批判を行わなければならないことを意味する。
'
C Van Unnik,37,53.-
l 4-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録
2 . 使 徒 言 行 録 と レ ト リ ッ ク
a .
使徒言行録が示すレトリックへ
の態度使徒言行録には
,
冒頭の序文の存在や(使1:1-
2),
重要な場面に演説 が 配 さ れ て い る こ と に 見 ら れ る よ う に ( 使 1 : 1 6
- 2 2 ; 2 : 1 4 - 4 0 ; 3 :
12 - 2 6 ; 7 : 2 - 4 3 ; 1 3 : 1 6 - 4 1 ; 1 5 : 1 3 -
2 1 他 ) , ギ リ シ ャ・ローマ世界の 歴史記述の價例に従つているところがある'
7。
宣教者が説得の技術である弁論術を駆使して人を説得することに対して, 真正パウロ書簡よ り 知 る こ と が 出 来 る パ ウ ロ が 非 常 に 否 定 的 で あ る の に 対 し て ( ガ ラ 1 : 1 0 ; I I コ リ 1 1 : 6 を 参 照 )
,
使徒言行録の著者はむしろ肯定的であり,
使徒言行録では伝道者たちが言葉を駆使して人
々
を説得し, 回心に導 い た と さ れ て い る ( 使 1 3 : 4 3 ; 1 7 : 4 ; l 8 : 4 , 2 4- 2 5 ; 1 9 : 8 ; 2 8 : 2 3 , 24) 。
しかも,
使徒言行録は初代教会史の歩みにおける決定的転換期の 場面に主要な登場人物たちの演説を配しており(例えば,
2 : 1 4-
40ぺト ロ の ぺ ン テ コ ス テ 説 教 ; 7 : 2
-
5 3 ス テ フ ァ ノ の 演 説 ; 1 0 : 3 4- 43コ
ル ネ リ ウス 家 で の ぺ ト ロ の 説 教 ; 1 3 : 1 6
-
4 1 ピ シ デ ィ ア の ア ン テ ィ オ キ ア で の パ ウ ロ の 会 堂 説 教 ; l 7 : 2 2-
3 1 パ ウ ロ の ア レ オ パ ゴ ス 説 教 ) ,l 7 E.Pl
u
macher, Ltdus a ls hetle ms-
tischer Schr if
tstetler (G1ls
ttingen:Vandenhoeck&Ruprecht, 1 9 7 2 ) 9
-
1 2 ; i d e m. , D i e Apostelgeschichte aIs historische Monographie, i nLesActesdesAj)6tres (ed. J.Kremer;Gembloux:Duclot;Leuven:Leuven University Press,l979)457
-
465;idem., Cicero und Lukas, inTheUm'ty o
f
Luke-
Acts (Gembloux:Duclot;Leuven:Leuven University Press,1999)759-775;Aune,77
-
78,124
-
128;山田耕太「
使徒行伝のジャンル」 「
新約学研究」
第20号,1992年, 12
-
l 7 頁,
同「
ル力文1!fの序文と修辞学的歴史」「新約学研究」
第22号, 1994年,53-
54頁を参照。-
15-
8
演説は神が定めた救いの計画が実現するに当たっての原動力とな
って
いる'
8。
新約聖書中にある歴史記述である使徒言行録中の演説は,ヘ
レ ニズムの歴史記述中の演説に比べて著しく短かく,
創作的要約の性格 が非常に強い'
o。 その上 ,
演説は聴衆の否定的反応のために中断され,
未完に終わることもあるが
,
こうした異常事態の報告は,
福音へ の敲
対的な反応ということを強く印象付けている (例えば, 7 : 2 - 53ステ
フ ァ ノ の 弁 明 ; 1 7 : 2 2 -
31バウロのアレオパゴス説教)2o。 b . 使徒言行録における史実とレトリック
古典古代の歴史記述は
,
歴史記述は建徳的な目的をもってなされる一 種の修辞法の 一
つという性格を持つていた ( ハ リ カ ル ナ ッ ソ ス の ディオニシオス「
ポンぺイウス宛書簡 」 3.2,「
ローマ古代誌」 l . 1 .3,1 . 2. l ) 。
古代の歴史記述の一
つであるルカ福音書・
使徒言行録の執筆目的 が,
イェ ス
に関する資料を集めて検討を加えて, 「
順序正しく」
記述し'
o Haenchen88-
93;van Unnik,40-
4 l ; Rebenich, 287-
288,306-
308;Witherington I I I , 2
-
3,8-
24; J.
A.
Fitzmyer TheActsof
t h e Ap
osa
es ( A B 3 1 ; N e w York:Doubleday,1998)49,59,l92;E.
Plu
macher.
DieMissionsreden der Apostelgeschichte, NTS39(1993)l61
-
177に贊成。
'
o WitheringtonlII,46,M.Dibelius, Die Reden der Apostelgeschichte und die antike G,
Psf・hichtsschreibung, in idem..
A:?
前 lt2e2u r Apost
elges-
chichte (G
m
ingen:Vandenhoeck&Ruprecht,1953)122-
123,156,R.
Bauckam, Kerygmatic Summariesin the Speechesof Acts, in History,Litemturea n d SocileiymtheBl
ookof
Acts(ed.B.Witherington III;Cambridge:University Press,l996)216,E Plu
macher,Ltd ns a l s historischerSchriftstell, er
, 7 8 , M.
Soards, T h eSpeechesin
Acts in Relation toOtherP
ertinent Ancient Literature,E T L7 0 ( l 9 9 4 ) 7 l .2o Dibelius
.
l37,l57,Bruce,56,E.Plu
macher,Lukasalshellenistischer Schrjf lste u
er,249;Soards,68-
69;idem.,T heSp
eechesinActs・ theirContent, Clontext, and
Concem s
(Louisville,KT:Westminster/J.Knox, l 9 9 4 ) 3 9
-
41.
-
16-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録 9
( 1 : 3 ) ,
耳にしている出来事が「
安全・
確 実 で あ る よ う に」
す る こ と に あ る な ら ば,
歴史物語を書くにあたって,
資料の中から執筆目的に 合うものを取捨選択したり,
資料に加筆をして所定の修辞的効果を上 げ よ う と す る こ と も 自 然 な こ と で あ る。
従つて,
使徒言行録が描写す る歴史物語は,
最初期の教会の歩みのすべてではないし,
述ぺられて いる事柄も客観的な事実の報告とは限らず,
解釈を交えた描写の性格を持つ。
宣教者としてのパウロの生涯を知る史料は,
使徒言行録の他 に真正パウロ書簡がある。
パウロが自分が体験した史実に言及する際 に,
その時々の修辞的日的に応じて取捨選択を加えている点があるに しても,
パウロに関する史実を再現するための歴史史料としては,
第一
次的証人であるパウロ書簡の方が,
数世代後の著作である使徒言行 録の記述に優先する2' 。
使徒言行録は
, ダマスコ途上での回心体験の後 , エ
ルサレムへ
上 り,
バルナバの執り成しによって
ェ
ルサレム教会の人々から受け入れられ た と し て い る が ( 使 9 : 2 6- 31) ,
バウロ自身はガラテヤ書で回心の後,
直ぐにアラビヤ伝道に赴き
,
三年後にやっ とェ
ルサレム教会を訪れて い る ( ガ ラ l : 1 3- 20)
2 2。
また,
使徒会議につ
い て も,
使徒言行録15章とガラテヤ書2章の両方に異なった報告がある
。
使徒言行録では,
異邦人回心者たちに対して律法を守らせるぺきかどうかに
つ
いての激論の末に主の兄弟ヤ
コ
プが裁定を下し,
異邦人回心者に対しては,
不品 行 と 血 と 絞 め 殺 し た も の を 避 け る 他 は 何 も 課 さ な い と し て い る (使l 5 : 2 l : 2 5 ,
創 9 : 4 を 参 照 )。
と こ ろ が,
バウロは使徒会議において,
2
'
Fitzmyer,133 n Fitzmyer,l36-
17-
10
異邦人信徒に対して律法遵守に関して何
一
つ課されなかったと断言し て い る ( ガ ラ 2 : 4- 6) 。
また,
この会議において,
ユダヤ人教会と異邦人教会が相互の宣教を認め合うと共に
,
異邦人教会が負しい人々
を覚 えて支援の献金することが協定されている(ガラ2:10)。
この協定を 願行するために,
後にパウロはマケドニアやアカヤで献金活動を行い,
集めた献金を携えて
ェ
ルサレムへ
上 る こ と に な る の で あ る か ら, この
協定は後のパウロの行動に決定的な影響を与えることになるが,
使徒 言行録15章の使徒会議の報告には明確な報告がない(Iコリ l 6 : l - 4,
I I コ リ 8 : 1 - 2 4 , 9 : 1 - l5)
23。
使徒言行録24章l7節を見れば,
使徒言行 録の著者がパウロのェ
ルサレム行きの目的力;献金を届けることであっ たと知つていたと推定されるだけに,
使徒会議における献金の取り決 めにつ
いて沈黙していることが日立つている24。
また,
使徒言行録によ る と,
パ ウ ロ はュ
ダヤ人の感情を考慮して,
リストラ出身の異邦人回 心者テモテに割礼を施しているし(使16:l- 3) ,エ
ルサレム上京後,
哲願を立てた四人の信徒と
一
緒に,
神殿へ
赴き,
清めの期間を過ごそう と し て い る( 使 2 l : 20 - 26) 。
律法からの自由を福音の真理とする史的 パウロの立場からは ( ガ ラ 2 : 4 , l 4 ),
あり得ない行為であろう2 5。
使徒言行録はパウロのガラテヤ伝道に
つ
いては,
第二宣教旅行の際 に そ こ を 通 つ た こ と と ( 使 l 6 : 6 ),
第三伝道旅行の時に再び立ち寄つ たことを簡潔に述べるだけである(18:23)。
パ ウロがガラテヤを去つ た後に,
ユダヤ人のキリスト教宣教者がこの地にやって来て,
パ ウロ
2 3 Haenchen,543
-
545;van Unnik,5l.
a Haenchen,545
.
2S Haenchen,42l
-
423.
-
18-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録 l l
らとは異なる福音を説いたために混乱が起こ り
,
パウロはこの事態を 是正するためにガラテヤ書を書き送つたことへ
の 言 及 も ( ガ ラ 1 : 6- 9,
5 : 2 - l 2 , 6 : 1 l - 16)
2 6,
使徒言行録にはない27。
さ ら に, パウロのコ
リ ント訪間に
つ
いて,
使徒言行録はパウロはコ
リントを二度訪れたとして い る が ( 使 l 8 : 1- 17,20: l - 3) ,
パウロ自身の言葉から推定すると三度訪れている(IIコ リ 2 : l , l 3 : 1 - 2)
2 8。コ
リント教会とパウロの間に数 度にわたる紛争があり,
バウロやテモテが紛争解決のためにコ
リ ン ト を訪れたり, コ
リ ン ト 教 会へ
手紙を書いたことへ
の言及も使徒言行録にはない
。
また, コ
リ ン トへ
パウロとは異なる福音理解を持つ「超使 徒」
達がやって来て宣教活動を行い,
教会に混乱をもたらしたことへ
の言及も(IIコ リ 1 1 : 4 - 6) ,
使徒言行録にはない2o。
使徒言行録が描く,
初期の教会の様子は
,
使徒会議で一
致を見出した後は飽くまで調和的 で あ り,
ユダヤ人教会とヘ
レニズム教会の間にも争いもなく,
宣教者 相互の福音理解の間にも対立はない。
これは,
最初期の教会にも様々
な福音理解が並存し
,
異なっ
た福音理解を持つ宣教者達が相互に競合 していた史的現実からはかなり乖離している。
パウロの最後について, I ク レ メ ン ス 書 に は
,
ぺ ト ロ と 共 に ロ ー マ で 殉 教 し た と い う 記 述 が あ る ( I ク レ 5 : l- 7) 。
使徒言行録が描くバウロ は,
エフェソ教会の長老達に対して与えたミレトス演説において,
自分の ェ
ルサレム行きが自分の逮捕と死につ
な が る こ と に 言 及 し て い る2
°
Haenchen,92; 抽稿「
祝福と呪いの言葉」 「
新約学研究」
第27号,
1999 年, 2 0-
2 l 買,
同「
パウロ番簡と修辞法についての考察」 f
ヨーロツパ文化史研究
」
第 3 号,
2002年, l 5-
l 7 頁。
a
'
Van Unnik,53.
n Fitzmyer,l32.
n Haenchen,544;van Unnik,53;Witherington III,2.
-
lg-
l 2
の で ( 使 2 0 : 2 3 - 25) ,
使徒言行録の著者はバウロの殉教の死を知つて い る と 推 定 さ れ る が,
パウロのローマでの殉教につ
いては言及してい な い。
使徒言行録28章では,
むしろ,
軟禁状態のパウロが妨げられる こ と な く 福 音 を 語 る と い う 肯 定 的 ト ー ン で,
物語全体を締めくくってい る ( 使 2 8 : 1 7 - 3 l ) 。
これは,
ギ リ シ ア・ ロ
ーマ世界の知識層を念頭にこの歴史物語を書いているので
,
反ローマ的な印象を与える事実につ
いての記述を著者が意図的に避けたためであると思われる。
使徒言行録中の記述の中で ,
パウロの生涯の史的再構成のために最も役に立つのは
,
宣教旅行のルートに関する記述であろう。
バウロの 宣教旅行のルートや時間的順序につ
いての使徒言行録の記述は,
バ ウ ロ書簡から得られる情報に大まかに対応しており,
信頼出来る何らか の資料の存在を推定させる。
使徒言行録の記述がなくて,
パウロ書簡 だけしかなければ,
パウロの宣教の具体的旅程を史的に再現すること はほとんど不可能になってしまうであろう。
c .
使徒言行録の修辞的効果古代修辞学において
,
過去の事実の叙述の過程で過度にセンセーショナルな語り方をして聴衆の感情を種き立てることは
,
控えるぺき で あ る と さ れ て い る ( ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス「
弁論家の教育」 l0. l .74) 。
歴史記述においても
,
政治的歴史の伝統では,
劇的なェ
ピ ソ ー ド を 叙述して ,
読者の感情に訴えることは邪道であるとされている ( ポ リ ビ オス「
歴史」 2. 56.8 - l2;l2.24 .
5 ; キ ケ ロ「
プルートスに与える書簡」 42;
ルキアノス
「
歴史は如何に書かれるぺきか」 63) 。
しかし,
使徒言行録 はしばしば迫真の劇的場面を描いて臨場感を出し,
読者の感性を動員-
20-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録 l 3 して過去の出来事を追体験させる面がある3
° 。
この歴史記述は,
劇的な 出来事やェ ピソ
ードの積み重ねによって, エ
ルサレムで始まった福音 宣教が,
幾多の困難を乗り越えながらローマに達する様を印象深く描こ う と す る の で あ る
。
① 聖題降臨と宣教活動の開始
ルカ福音書の結びにおいて
,
復活のキリストは弟子達に,
聖館降臨 の約束と,
エルサレムから始まってすぺての民に及ぶ宣教の使命を与 えている(ルカ24:46- 4 9 ; 使 1 : 5 ) 。
使徒言行録によると,
この約束 は五旬節の時に実現する(使2:l-
4)。
聖館降臨の情景は,
使徒言行録によると大変劇的である
。
五旬節の日に弟子たちがェ
ルサレムで一
箇所に集まっていると
,
突然,
天から大風が吹くような音がした後,
炎 のような舌が分かれて使徒達の上に留まる。
す る と,
彼らは聖館に満 た さ れ て,
世界中からェ
ルサレムへ
集まって来た巡礼達に対して,
そ れぞれの異なった言葉で神を設美する語り始めた(使2:1 -
4)。
この異常な出来事を聞き
つ
けて集まってきた巡礼達は,
彼らの言葉で語り掛 け ら れ た の で 驚 愕 し た ( 使 2 : 5- 13) 。
この聴衆に対して
,
ぺトロが弟子達を代表して立ち上がり,
長大な 説教を与えた(使2:14- 42) 。
これがぺンテコステ説教である3' 。 ぺ ト
ロの説教を間いて聴衆は胸を刺され
,「
私たちは何をしたら良いのです か,
兄弟たちよ?」 と 尋 ね た ( 使 2 : 3 7 )。
ぺ ト ロ は, 「
回心しなさい。
3o Haenchen,95
-
9 6 ; P lu
macher 1.
ukas a l s h en
enistischerSlchrif
tstel-
4er,80
°' -
l36;van Unnik,56-
58;Rebenich,267-
270この説教の修辞学的分析については
,
拙稿「
修辞学の視点から見たぺト ロのぺンテコステ説教(使2:l4-
40)」 「
新約学研究」
第26号,
l998年,
3-
l5頁を参照
。
-
2 l-
l4
あなた方の各
々
が,
罪の赦しのためにイェ ス ・
キ リ ス トの名によって 洗礼を受け,
聖登を受けなさい」
と 勧 め た ( 2 : 3 8 )。
ぺトロの説教を 聞いて洗礼を受けた者は,
三千人に上り,
劇的な成果を挙げた(2:4 l ) 。
② 神段説教と最高法院での審間
エルサレムの神殿に祈りを捧げるために上ろうとしたぺトロと
ョ
ハ ネ が,
神殿の前で物乞いをしていた生まれつ
き足が悪い人と出会い,
施 しを乞われたが,
金銭は与えず,
代わりにイェ
スの名によっていやし を与え,
歩 け る よ う に し た ( 3・: 1 - 8) 。
ぺ ト ロ とョハネにつ
いて神殿の境内に入つたいやされた人が歩き回つているのを見て
,
人々
はひどく 驚いて,
ぺ ト ロ とョ
ハネのもとに駆け寄つてきた(3:9- l0) 。 この人々
に対してぺトロが語つた言葉が神殿説教である(3:l2
- 26) 。 ぺ ト ロ の
言葉を聞いて信じた人
々の数は五千人に上つてぉり(使4:4) , その成
果は回心者三千人というぺンテコステ説教の成果を凌露する ( 2 : 4 l
を参照)32oぺ ト ロ らの宣教活動が
, ユダャの宗教的 ・
政治的中心であるェ
ルサ レムの神殿に及んだことは,
最初期キリスト教の宣教の歴史が早くも ーつの山を迎えたことを意味する。
しかし,
ぺトロらの神殿での説教 活動は,
イェ
スの場合と同様に祭司が持つていた神殿で律法を教える 権 限 を 侵 す こ と と 捉 え ら れ ( ル カ 2 0 : l- 2 ; 使 4 : l - 2) , イス
ラエ
ルの指導者たちとの決定的な対立を招いた:n
。
彼 ら は ぺ ト ロ ら を 捕 ら え ( 使4 : 3 ) ,
最高法院を召集して審間に掛けることとなった(4:5- 22) 。「
何u この説教の修群学的分析については
,
描稿「
ぺトロの神酸:
説教 ( 使 3 : l 2-
26)の修辞学的分析」 「
ぺ デ ィ ラ ヴ ィ ウ ム」
第46号,
l997年,
l-
l 3 買を参照
。
u Tannehill,
Na
m ti t, e
Unit
lll,48,52もこの点を強調する。
-
22-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の:視点から見た使徒言行録 l 5
の権限で ,
または,
どんな名日であなたがたはこうしたことを行つたのか ? 」
という大祭司が,
尋間すると,
ぺ ト ロ は 恐 れ る こ と な く, 「
民 の司と長老の皆さん,
この病人に対してなされた善き業について,
或 いは,
この人が何によって救われたかということにつ
いて,
私たちが 今日,
尋間を受けているのなら,
次のことをあなた方や民のすべては 知るが良い。
あなたがたが十字架に架けたナザレのイェ
ス ' キ リ ス ト を,
神は死者の中から建らせた。
その方の名によってこの人が續され た者としてあなた方の前に立つているのだ」
と 恐 れ る こ と な く 証 言 し た( 4 : 8 - l l ) 。
ぺトロら使徒達は,
専門的な律法につ
いての教育と訓練を載んだ祭司や
,
律法学者たちからすれば, 「
無学な者たち,
素人た ち」
で あ っ た 普 だ が ( 使 4 : 1 3 ; さ ら に, ル カ l 0 : 2 l -
24も参照),
復活の主が約束した登を 受 け て ( ル カ 2 4 : 4 6 - 4 9 ; 使 l : 7 - 8 ; 2 : l - 4) ,
主の復活の証人として宣教活動を行つているのであった
( 使 2 : 3 l -
32) 。
大祭司達は,
以後はイェ
スの名によって説教してはならないと,
ぺトロらに言い渡して釈放するが(4:l8)
,
ぺ ト ロ とョハネは , 「
あな た 方 に 聞 き 従 う の こ と と,
神 に 従 う こ との ど ち ら が,
あなた方の神の 御前に正しいことなのか,
判断するがよい。
私 た ち が 見 聞 き し た こ と を 語 る こ と を,
あなたがたは妨げることは出来ない」
と述ぺて,
要求 を拒み,
宣 教 活 動 を 続 け た ( 4 : 1 9 : 2 l )。
この出来事以後
,
イスラェ
ルの民は言葉を受け入れる民衆と言葉を 受け入れず,
権力を動員して使徒たちの宣教活動を妨げようとする指 導 者 た ち ( 4 : 1- 3,5 - 22)
とに二分されている。
ユダヤ人指導者たちの
反発の契機は
,
物語の中で強化されて行き,
ス テ フ ァ ノ の 殉 教 ( 使 6 :8 - 7 : 6 0 ) と へ
レニスト信徒たちの迫害へ
と 発 展 し て 行 く ( 8 : 1- 3) 。
他-
23-
l 6
方
,
使徒言行録前半部ではュ
ダヤ人民衆は宣教の言葉に対して心を開 く が,
中盤以降は指導者たちと同様に言葉を受け入れず, i
敏対する者 となって行き,
結局のところ宣教はュ
ダヤ人たちから転じて,
主 と し て異邦人たちへ
向 け ら れ る こ と と な る ( 1 3 : 4 4- 5 l ; 1 4 : 1 - 6 ; l 7 : l -
5 ; 2 8 : 2 3 - 28) 。
③ 最高法院でのステファノの演説
へ
レ ニ ス ト ' グ ル ー プ に 属 す る 宣 教 者 ス テ フ ァ ノ は ( 使 6 : 5 ), 「
恵みとに満ちて不思議な業と大いなるしるしを行つていた
」
と さ れ て いる ( 6 : 8 ) 。
彼は論敵達から,
モーセの律法と神殿を冒演する言動をし ているとして最高法院に訴えられ,
大祭司の審問を受けることとなった ( 6 : 9 - 7 : 1 ) 。
罪状に対する弁明の場を与えられて,
ス テ フ ァ ノ が 行つた長大な演説が使徒言行録7章に記されている。
自分が訴えられ ている罪状に対する弁明であるにも拘わらず,
ステファノは父祖アプ ラハムの選びに始まるイスラェ
ルの救済史を長々
と回願する( 使 7 : 2 - 50) 。
彼の強調点は,
天地の創造主なる神は人間の手で造つた宮に住 む こ と は な い と い う こ と と ( 7 : 4 8- 50) , イス
ラェ
ルの先祖達が,
何時も聖館に逆らい
,
神が遺わした預言者達を迫害してきた歴史である(7:5 l - 53) 。
最高法院におけるステファノの態度は実に堂々 と し て お り,
罪 状を間われている被告であるにも狗わらず,
裁判官である最高法院の 議員達を含めた,
イ ス ラェ
ルの民の過去と現在の行動全体の告発し,
断 罪する内容を述ぺた。
そのため,
ステファノの言葉を聞いた人々
は,
激 怒して彼を石打の刑に処する結果となった(使7:54- 8 : 1 ) 。
初代教会はまだ日が浅い宣教の歩みの中で
,
遂に最初の殉教者を出したのだっ
た。
ステファノは死にあたって,
イェ
ス自身の十時架上の言葉を想起-
24-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録 l7 さ せ る
「
主イェ スよ , 私の登
をぉ受け下さい」
と い う 言 葉 と(ルカ23:
46を参照)
, 「
主よ,
彼らにこの罪を負わせないでください」 (ルカ23:
34を参照)という言葉を残し
,
殉教者の模範を残した(使7:59- 60) 。
このステファノの殉教の出来事以後 , 事態は急展開し,
初代教会のへ
レ ニ ス ト・
グループに対する迫害が,
ユダヤ人当局によって行われ たため, へ
レニスト達は迫害を逃れて,
サ マ リ ア, フェニキア ,
さ ら には,
シ リ アへ
と 散 ら さ れ て 行 き,
行つた先々
で福音を伝えた(使8:2 - 4 0 ; 1 1 : 1 9 - 26) 。
この迫害は,
初代教会の宣教に対するュ
ダヤ当局 者達の本格的な前行動の開始と,
福音宣教の対象がュ
ダヤから地理 的に離れた地域に拡大し,
ひいては,
ユダャ人伝道から異邦人伝道へ
と発展して行く
,
決定的な節日を意味している。
④ コ ルネリウス家でのぺト ロの説教
3''
使徒言行録に記されているぺトロの説教と
コ
ル ネ リ ウス 一 家の回心
は ( 使 l 0 : 3 4 - 48) ,
最初期の教会が異邦人の回心の可能性と異邦人伝 道の正当性を認識した重要な出来事と位置付けられている( 使 l 1 : l -
l8) 。
使徒言行録10章の記述によると,
カイサリアに住んでいる百人 隊 長コ
ル ネ リ ウ ス の と こ ろ に 突 然,
天使が現れ,
ヨツバに滞在してい るシモン・
ぺ ト ロ の と こ ろ に 使 い を やってコ
ル ネ リ ゥ ス 家へ
連れてく る よ う に 告 げ る ( 使 1 0 : 1- 8) 。
ヨ ツバのぺトロの方では,
滞在してい る家の階上で祈りをしている時に,
夢 うつつの状態となって 一 つの幻
を見た。幻の内容は ,
ユダヤ教の伝統では不浄とされた様々
な動物を 沢 山 乗 せ た 容 器 が 天 か ら 降 り て く る と い う も の で あ っ た ( 使 1 0 : l l-
3
'
この説教の修辞学的分析については,
描稿「
福音宣教と聖館の力: 使 l 0 : 3 4-
43の修辞学的分析」 「
ぺ デ ィ ラ ヴ ィ ウ ム」
第49号,
l999年, l 6-
22買を参照。
-
25-
l 8
l 2 ; l 1 : 5 - 6) 。
す る と,
天から声がして,
これらの動物を屠つて食ぺろ と 言 う ( 1 0 : 1 3 ; 1 l : 7 ) 。
ユダヤ教の清浄の規定と食物規定を知つ て い る ぺ ト ロ が,
不浄なものは口にしたことがないと言つて送巡して い る と ( l 0 : l 4 ),
再度天から声がして,
神が清めたものを汚れている と言つてはならないと告げた(l0:15) 。
同じことが三度繰り返された 後,
容器は天に昇つて行つてしまった( 1 0 : l 6 ) 。
我に返つたぺトロが
,
今見た幻の意味は何だろう と考えている時に, コ
ル ネ リ ゥ ス の 使 い がョ
ッバに到着し,
ぺ ト ロ の も と に やって来た( 1 0 : l 7 - 18) 。
彼 ら と一
結にコ
ル ネ リ ウスのところ へ
行 く よ う に と い う 聖望の指示に従つて,
ぺ ト ロ は カ イ サ リ アへ 出掛けた(l0:19 - 23) 。コ
ル ネ リ ウス家に着くと
, コ
ル ネ リ ウスが出迎え,
ぺトロの下へ
使いを やるに至つた次第を物語つた( l 0 : 2 4 - 33) 。
この説明の言葉を聞いて ぺ ト ロ は, 「
神は人を偏り見ることをしない」
という言葉に始まる説教を始めた(l0:34) 。
ぺ ト ロ が,
聖館の力に満たされたイェ
ス の ガ リ ラヤ宣教の業を叙述し(10:36 - 38) ,
イェ
スが木に架けられ殺され,
三 日目に甦つて現れたこと,
さ ら に は, 終わりの時の
審判者として定め ら れ た こ と を 告 げ る と(10:39 - 43) ,
聞いていたコ
ル ネ リ ウス 一
家に人達に聖整が降り
, ぺトロの説教は中断した(l0:44) 。
異邦人である 聴衆に聖館が降り,
彼らが神を設美している様を日準して,
ぺ ト ロ は 彼らに洗礼を授けるに至つた(10:45- 4 8 ; l 1 : l 5 - l7) 。
初代教会の最高指導者の
一
人であったぺトロが,
異邦人の家に入つて伝道説教をなし ,
異邦人聴衆に聖望が降るという劇的出来事は,
後に清浄の規定を 守つていない異邦人の家に入つたことを咎める,
初代教会の指導者達 の前でなしたぺトロの弁明の言葉の 中 で 繰 り 返 さ れ る ( 使 1 l : 4- l7) 。
-
26-
レトリックとしての歴史:修辞学批評の視点から見た使徒言行録 l 9 この劇的な出来事の物語の叙述は
,
聴衆であるェ
ルサレム教会の人々 を説得するに至り,
彼らは神が異邦人にも回心の機会を与えている事 実を認めるに至つた(使11:18)。
⑤ パウ ロの回心
使徒パウロは自身の回心の体験を
,
後にI コ
リ ン ト 書 や ガ ラ テ ヤ 書の中で言及している(Iコ リ 9 : 1 ; l 5 : 9 ; ガ ラ l : l 3 -
14)。
しかし,
パウロ自身の言及は極めて簡潔であり
, I コ リ 9 : 1 で は , 「
私は私たちの
主イェ
スを見たではないか?」
と, 同 l 5 : 9 で は , 「 (復活のキリスト
が)最後に未熟児のような私にさえ現れた」
と述ぺる。
さ ら に,
ガ ラl : 1 6 で も ,
パウロは, 「
異邦人の間で御子を宣ぺ伝えさせるために,
(神は)私に御子を啓示した
」
と述ぺるに留まり,
イェ
スの顯現とパウ ロの回心の場面を事細かに描くことをしていない。
これに対して
,
使徒言行録は,
この体験を劇的出来事として具体的 に描写している。
使徒言行録によると迫害の息をはずませてダマスコへ
向かうパウロに対して(使9:l - 2) , ダマスコの町付近で天からの強
い光と共に, 「
サ ウ ロ よ,
サ ウ ロ よ,
何故私を迫害するのか?」
と呼び 掛 け る 復 活 の キ リ ス ト の 声 が 響 い た ( 9 : 3-
5)。「
あなたはどなたですか
, 主 よ ? 」
という地面に倒れたパウロの間いに対して,
復活の主は,
「
私こそ,
お前が迫書しているイェ
スだ」
と答えた後, 「
立ち上がって
町に入り,
そこで自分が何をしなければならないのか告げられること に な る」
と指示した。
パウロは立ち上がったものの目が見えなくなり,
供の者達に連れられてダマスコ
へ
入り,
三日間,
盲目の状態で絶食を 続 け た ( 9 : 6-
9)。
その後,
アナニヤの手助けによって,
パウロは視力 を回復し,
立ち上がって洗礼を受けた後,
食事を摂つて体力を回復し-
27-
20
た ( 9 : 1 0 - l9) 。
使徒言行録の著者は
,
明らかにこの作品の後半部の中心的登場人物 であるパウロの回心の出来事を劇的に描くことを通して,
読者の心に 強 く 刻 印 し よ う と し て い る3 S。
使徒言行録において, パウロの回心の出
来事は,
後に22章においてェ
ルサレムのュ
ダャ人群衆に対して行つたパウロの弁明の演説でも(22:6 - l6) ,へ
ロデ・アグリッパ王二世やローマ総督フェリクスの前で行つた弁明演説でも(26:9 - 20) , 繰り返し具
体的に描写され
,
異邦人の使徒であるパウロの宣教者としての原点を 示す出来事とされている3° 。
⑥ ビシディア ・ アンティオキアでの安息日説教
使徒言行録は
,
パ ウ ロ が 第一
回宣教旅行中に,
ピシディア・
アンティ オキアでの安息日に会堂で行つた説教を記している。
この説教は,
パ ウロに代表されるヘ
レニズム教会が,
ディアスポラのュ
ダヤ人に対し て伝道することから,
異邦人に対して伝道することへ
と重点を移した 決定的出来事として描かれている。
使徒言行録が語るパウロは
,
イェ
ス が そ う で あ っ た よ う に, 安息日
になれば, 滞在地のュ
ダヤ教会堂の礼拝に出席している(使l3:l4)。
律法の書と預言書の朗読の後に
,
パウロは当地の会堂司から勧めの言 葉を語るように要請を受けて, 説教をした(使13:15 - 16) 。 この辺り
は
,
ルカ福音書が描いている,
イェ
スがナザレの安息日に会堂で説教'
S E.Plu
macher. Luhas a l s hellenistischerSch,
iftstell
er.
80-
82,l25-
l26.
u Haenchen,97
-
99,325-
327;Fitzmyer,l42-
l44;K.Kremer, Die dreifache Wiedergabe desDamaskuserlebnissesPauli in der Apostel.geschichte, in T heUm
tyo f
Luke-
Acts (Leuven:Leuven University Press,l999)329-
355.-
28-
レトリックとしての歴史:修辞学批評の視点から見た使徒言行録 21 を し た 際 の 事 情 と 似 て い る ( ル カ 4 : 1 6
- 20) 。
パ ウ ロ は
,
出エジプトから始めて,
土地取得と士師時代, 王制の成
立とダビデ王朝等のイスラエ
ルの救済史上の重要な出来事をス ケ ッ チし た 後 ( 使 l 3 : 1 6 - 26) ,
話題をイェ ス ・
キリストの出来事に移し,
イスラ ェ ルの人 々
が安息日毎に預言書を読んでいながら,
その精神を理
解せず,
イェ
スを十字架に架けて殺害したことと,
神がイェ スを死者
の中から復活させたことと( l 3 : 2 7 - 37) ,
人は信じることによって義 と さ れ る こ と を 語 つ た(13:38 - 41) 。
パウロのこの説教は会衆に感銘 を与え,
彼は次の安息日にも説教することを頼まれたし, ユダヤ人達 と改宗者達の一
部は,
集 会 後 に も さ ら に パ ウ ロ の 話 を 聞 こ う と し た( l 3 : 4 2 - 43) 。
と こ ろ が,
パウロの説教の噂が広い範囲に伝わり,
ピシデ ィ ア ・
アンティオキアの町中の人達が話を聞こうとしてやっ
て来る と,
ユダヤ人会衆は態度を変え,
パウロの宣教活動に歡対するように なった。
そ こ で,
パウロはュ
ダヤ人達に対して, 「
あなたがたにこそ,
神の言葉は最初に語られなければならなか
っ
た。
しかるに,
あなたが たは神の言葉を拒み,
自らを永違の命に相応しくないものとしたので,
私たちは異邦人の方
へ
身を転じるのだ」
と宣言して,
異邦人伝道に力 点 を 移 す こ と に な る ( l 3 : 4 4-
4 6 ; さ ら に, 1 8 : 6 ; 2 8 : 1 7 -
28を参照)。
これは
,
ディアスポラの地でのヘ
レニズム教会の宣教活動の歴史にお け る, 一
つの大きな分水嶺を意味する出来事である。
これ以後,
パ ウ ロは行く先々で安息日毎にユダヤ人会堂で説教するが(l7:2 -
4),
返つて
,
彼の宣教活動に対するュ
ダヤ人達の反対行動を招く結果となり( 1 7 : 5 - 15) ,
彼の宣教活動の中心は異邦人達になっていくのである(13:44 - 5 l ; 1 4 : l - 6 ; 1 7 : 1 - 5 ; 2 8 : 2 3 - 28) 。
-
29-
22
⑦ ァレオパゴス演説
使徒言行録l7章は
,
アテネに行つて,
アレオパゴスの評識所におい て, エピキュロス派や
ストア派の哲学者達を中心とする聴衆を前にし
て行つたパウロの演説の出来事を伝えている(使17:16- 3 l ) 。
これは初代教会を代表する説教家が
, ヘ
レニズム文化を代表する知的選良た ちに対して, ヘ レニズム文化の中心地でキリスト教の真理性の弁証す
る出来事という設定である。
パウロは
,
アテネの町で目にした 「
知られざる神へ」
という祭:理lか ら説き起こして,
ギリシア人達が知らずに拝んでいる神を告げ知らせ ると言つて, 天地の創り主 ,
いの
ちの与え主である神の創造の業を説明し ,
神が一
人の人から地上のすぺての民を創り,
地上に住まわせ, 人
は神のうちに生きて,
活動している事実を指摘した(17:24- 28) 。
また
,
神は人間が創つた神殿の中に住む訳ではないし(17:24),
貴金属 で創つた像を望む訳でないと述べ(17:29) ,
神殿に納めた神像を拝む 多神教の信仰を批判した。
パ ウ ロ は,
さ ら に,
イェ
スが終わりの日に 義をもって世界を裁く,
審判者として定められたと語り,
その証拠が イェ
スの死からの復活であることを告げた(17:31)。
す る と,
聴衆の 哲学者達は, 「
その こ と につ
いての話はまた後で聞こうJ
と言つて話を それ以上聞こうとしなかったので,
バウロは話を中断して彼らの間を 通つて評議所を去つた(l7:32)。
アレオパゴス演説は,
伝道説教とし てはあまり成功せず,
この説教によって回心した人は少数であった(17:34) 。
アレオパゴス演説はパウ
ロの宣教活動の 一 つの山であったが ,
彼が修辞法を駆使して
,
聴衆である哲学者達に語り掛けたにも拘わらず,
キ-
30-
レ ト リ ッ ク と し て の 歴 史 : 修辞学批評の視点から見た使徒言行録 23 リストの死と復活という中核的事実の告知に
つ
いては,
理解を得るこ とが出来なかった 。
キ リ ス ト の死と復活という中核的事実の告知につ
いては
,
後にパウロの弁明の言葉を聞いたローマ総督の フ ェ ス ト ス も
理解出来ず, 「
バ ウ ロ よ,
お前は学間のし過ぎで頭が変になっているの だ」
と大声で叫んでいる(26:24)。
超越的力の歴史における働きの証 拠 を キ リ ス ト の 死 か ら の 復 活 に 見 る キ リ ス ト 教 宣 教 と ( 2 : 3 6 ; 3 : 1 5 ;4 : 1 0 ; 2 5 : 1 9 ; 2 6 : 8 , 2 3 ) ,
理性的認識を基礎とするヘ
レニズム的知 性の間に横たわる深い溝を,
こ れ らの出来事は印象的に物語つている。
神は人間的な知恵によってではなく
,
宣教の愚かさによって世界を救 お う と す る の で あ る ( I コリ l : l 8 - 25を参照) 。
⑧ ァグリッパ王の前での弁明
カイサリアに駐留していたローマ総督フェストスは
,
皇帝に上訴した ( 使 2 5 : l 0 -
11,25)パウロの罪状をより正確に知るために,
たまた ま カ イ サ リ アへ
やって来たュ
ダヤ王へ
ロデ・
アグリッパ二世の助言を 得 よ う と し て,
パウロを呼んで,
アグリッパ王の前で弁明をする機会 を与えた(使25:13 - 27) 。
ローマ総督フェストスとュ
ダヤ王へ
ロデ・
ア グ リ ッ パ 二 世 と い う
ュ
ダヤの地における最高権力者達の前でも,
パ ウロの態度は堂々 と し て ぉ り,
熱心なュ
ダヤ教徒であり,
キ リ ス ト 教 会の迫害者であった自分の前歴と,
迫害者が宣教者へ
と変わる決定的 な回心の出来事を,
具体的に描写した(26:2-
l8)。
パ ウ ロ が,
自分の宣教の中核であるイ
ェ ス ・
キリストの受難の死と,
死者の中からの復 活に説き及ぶと,
ローマ総管のフェストスが , 「
パ ウ ロ よ,
お前は学間 のし過ぎで頭が変になっているのだ」
と大声で叫んで,
パウロの話を 遮つた(26:24)。
パウロがこの言葉に応えてさらに言薬を続け,
自分-
3 l-
24
は気が狂つているのではなく
,
真実で分別に富んだ言葉を語つている と総督に対して言つた後,
アグリッパ王にメシアの受難を預言する預 言書の言葉を信じているかどうかを間うた」 (26:25 -
17)。
王は, 「
お前は
,
短い時間で私を説得してキリスト教徒に し よ う と す る の か」
と 言つて,
バウロの問いには正面から答えず, 対話は中断してしまった (26:28 - 30) 。王
や総督らの結論は,
パ ウ ロ がュ
ダヤの律法や神殿や皇帝 に 対 し て 何 も 罪 に 当 た る こ と は 犯 し て い な い と い う も の で あ った
( 2 8 : 3 l ) 。
この出来事は,
キリスト教の宣教がュ
ダャ教の伝統にも, 皇
帝を頂点に戴くローマ帝国の体制に対しても,
有害なものではないこと と
,
ユダヤ人社会とローマ人社会の最上層部の人達に対しても一 日
置かせるだけの力はあったが,
回心させるだけの説得力をまだ備えていなかったことを印象付けている
。
⑨
パウロの船旅
パウロは
ェ
ルサレムの神殿での騒ぎを契機に逮捕された後(使21:
27 - 23:22) ,
属州ユダヤの総督府の所在地であるカイサリアに移送され(23:23 - 24) ,
二代にわたる総督による審間を受けていたが(24:1-
26:32) ,
ローマ市民権を援用して皇帝に上訴したために(25:10 - 12) ,
護衛の兵士達と共に海路
, ロ
ーマ へ
向 か う こ と と なっ た ( 2 7 : 1 - l2) 。
と こ ろ が
,
ローマへ
の船旅は前途多難であり,
船は出航後,
ク レ タ 島 の辺りで激しい嵐に通つて標流し,
マルタ島沖で難破してしまった(27:13 - 44) 。
暴風雨の中で人々は絶望的な状態に陥つたが,
パ ウ ロ は 終始冷静沈着であり,
神の守りにより必ず全員の命が助かることを告 げて,
乗組員や乗客達を励ました(27:l3- 26) 。
マルタ島に流れ着いた パ ウ ロ ら は