「個性」 に関す る覚 え書 き
* 教育心理学教室高 取
憲 一 郎
1. 1ま じめ に 「個性 を育 む授業の創造J(62年
度鳥取大学教育学部付属小学校教育研究テーマ)と いわれ る場合 の,「個性Jと は何か とい う問題 は,具
体的に定義づけるのがなかなか難 しい ことばです。た とえば, 宮城音弥 (編)の
『岩波心理学小辞典』の「個性」の項 目をみると次のようになっています。 「個性 〔indi duality〕 個体 (個人)を
他か ら区別する性質の全体。〈パー ソナ リテ ィ〉または ぐ性 格〉は,個
人の統一 を もった構造 (たとえて言えば,材
木でな くて家屋のような)を
しめすコ トバ であるが,〈個性〉は性格特性 について も,知
能や性能 について も,素
質 について もいわれ るもので, 個人の性質 をすべてさす。〈個人差〉は,主
として測定可能 な場合 に用いるコ トバ。J 要するに,他
人 と異 なる独 自性であるとか特徴 ということだ と思われ ますが,
これ ぐらいの こと であれば,
とりたてて定義するまで もないような自明の ことだ と思われ ます。 ところで,教
育現場 で,「個性 を育 むJと
か「個 を生かす」 とかいうことが叫 ばれは じめたのは, 臨時教育審議会の答 申が出されて以来の ことだ と思われ ます。 ちなみに,今
年度 (1987年度)の
全 国各地の小学校 の研究大会のテーマを見て も,た とえば,「個性的な学習を促す統合・心 と教科経営」 (上越教育大学付属小学校),「学ぶ意志 を育 てる授業設計――個 の特性 を生かす学習」(山口大学付 属光小学校),「個の確立 をめざす学習指導の探究」(香川大学付属坂出小学校),「学習者主体の授業 一―ひとりひ とりを育 てる一―掴 の問いを持続・深化 させ る授業J(群
馬大学付属小学校),「自己 を つ くりだす授業一一 自己内対話の充実 を支 える教師のかかわ り」(新潟大学付属長 岡小学校),「自ら 表現豊かに学ぶ力 を育 てる学習指導――個 の もち味 を仲ばす学習活動 を求めてJ(福岡教育大学久留 米小学校)な
どがあげ られ ます。 いずれ も,個
性 とか個 を育 む,生
かす とい うような視点か らの と りくみです。ですか ら,個
性 について考 えるときには,個
性 を単純 に心理学的概念 に限定 して しま わないで,個
性 を臨教審が問題 にしているその背景について も,検
討 を加 えてお くことが重要 にな ってきます。臨教審が,自
立 とか個性重視 といっているか ら,学
習における自立や個性 の育成 を聞 本稿 は,1987年 6月18国に鳥取大学教育学部付属小学校 でお こなわれた校 内研究会 にお ける報告 に加筆・ 修 正 した ものである。 この ような機会 を与 えていただいた笹 田昭三校長 をは じめ とす る付属小学校 の皆様 に感 謝 します。高取憲一郎:「個性」に関する覚え書 き 題 にするのだ とい う気持 ちもわか りますが
,臨
教審 の自立や個性 は政治的 。経済的意味づ け も含 ん だ概念であるという視点 も欠かす ことはで きません。 その意味では,個
性 について考 えるとい うこ とは,一
見,人
格心理学的概念であるように思われ る個性 というものを社会的・歴史的視野か らも 検討せざるをえない とい うことになって,私
が従来 か ら述べている「′い理学主義」批判 を人格論ヘ と展開 してい くということに もな ります♂ さて,こ
の間,私
の 目にぶれ えた個性 に関す る論稿,し
か も臨教審批判 を上台に した ものは二 つ あ りました。村越邦男氏の もの② と銀林浩氏のもの0で
す。その他 に,乾
孝氏の書 かれた ものが甲X° 個性 について考 えてい くうえで示唆的で した。 そ こで,私
の考 えを展開 してい くまえに,
これ らの 論点 を簡単 にみてお くことにします。 村越氏 は,次
の三点 を主張 してい ます。 まず第一 に,人
が成長の過程 において個性 を自覚 しうる のは思春期以降であること。それはどういうことか というと,個
性が人格の中で,そ
の人の独 自の 部分 を意味 しているとすると,個
性が本格的に問題 となって くるのは,子
ども自身が「 自分 とは何 か」「自分 はどのように して生 きるか」「自分の もっているかけがえのない部分 はどこなのか」等, 自らの独 自性への間いかけが開始 され る思春期,青
年期以降であると考 えるのです。 ここでは,個
性が自らの生 き方の問題 とも重ねて とらえられていることも重要です。第二 に,個性 は集団の中で, 子 どもの とりむすぶ仲間関係 と民主主義の中で育 まれ るとい うこと。ひ とりひ とりの子 どもが,
ど れだけ他人の個性や人格 を大切 に し,他
人の声 に耳 をかたむけ,他
人か ら学びなが ら自らの個性 を 鍛 えてい くか,
ということであ り,そ
の子 どもの独 自性の形成 とは,
もう一方の極 において,他
の 子 どもの独 自性 の発見 と驚 きの過程で もある,
と考 えるのです。第二 に,思
春期が人間の個性化の 長 い過程の出発点であ り準備期間であ り,そ
の個人独 自の可能性の探究 を始 める時期であるか らこ そ,こ
の時期 に,習
熟度別 クラス とか複線型教育体 系 を導入す ることの危険性 を指摘 してい ます。 したがって,思
春期 における教育 は,ひ
とりひ とりの子 どもの潜在的可能性 を保障す るために も, すべての子 どもに基礎的な共通知識 と教養 を教授 していかなければな らない と考 えてい ます。 銀林氏 は,個
性形成 の要因 として三つ考 えてい ます。第一 は,自
由意志 による意識的選択です。 第二 は,他
人 との接触,環
境や文化の影響です。第二 は,無
意識的要因です。 その うえで,銀
林氏 は,個
性 とは果た して教育 によってつ くられるのだろうか という疑間がわ くとして,少
な くとも通 常のような教授 によっては形成で きない と考 えてい ます。 さらに,現
在の 日本 の学校教育 において 個性の伸長 をはばんでいる要因 として次の六点 をあげています。第一 に,学
習指導要領 の押 しつ け, 第二 に,教
科書の使用,第
二 に,授
業のなかで教師が生徒 に追随 を強いること,第
四に,点
数偏差 値,第
五 に,校
内規則や生徒心得の強制,第
六 に,教
師自身の自由や個性が充分 に与 えられていな い こと,で
す。 乾氏 は,氏
独 自のユニークな人格論,コ
ミュニケーション論 に基づいて,個
性 について次の よう な見解 を示 しています。個性 とは,仲
間たちの中での役割分担の特性の ことであ り,他
と違 うとい うだけでは川の小石同士の個別性 にす ぎない。すなわちォ真の意味での個性 とい うのは,生
まれつ きの個人差が教育 によって人類の文化遺産 を受 けつ ぐことにより,偶
然的な逸脱 をの りこえ,連
帯 しうる主権者同士 としての力量 を身 につけ,そ
こで初 めて,他
人 をもっては替 え難 いその人格 な り の生 き方 を確立で きるということであるPこ
の ように,乾氏の場合 は,自 然発生的な個人差,すなわ ち個別性 と,人
格 としての個性 を明確 に区別 している ところに特徴があ ります。乾氏があげている 具体的な例 をひけば,オ
ムツを濡 らす時間が子 どもによって違 うのは個別性 である。 しか し,排
泄 という行為が自分 自身で コン トロールで きるようになった ときには,その子の個性 になる。つ まり,鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 29巻 第
2号
(1987) 219 どの よ うな形 で果 た 個性 というのは,膀
跳の容量の差ではな くて,み
んなの中で どういう役割を, せるかということであるPと
いうわけです。2.個
性 につ い ての二 つの見解 以上みて きた ような議論 をふ まえて考 える と,現
在,わ
が国には,個
性 について二つの見解があ るように思われ ます。 一つは,臨
教審の意図す る自立 とか個性重視 とい う考 え方で,その内実 は,「一騎 当千型のユニー クな個人」,「強固な責任感 と使命感 を備 えたエ リー ト9と
いわれ るようなタイプです。そ もそ も,臨 教審が個性重視 をうち出 して きた背景には,わ
が国の直面す る深刻な経済問題,国
際情勢がある と す るのは周知の事実です。た とえば,「臨教審 に異議 あ り」という対談0の
なかで,ル
ポライターの 内橋克人氏 は,個
性や創造性が現在求め られている背景 として次の三点を指摘 してい ます。第一 に, 経済摩擦 とか技術摩擦 とかいわれるなかで,世
界 における日本の普遍性 とい うことが問題 になって きた こと。すなわち,日
本の これ までやって きた ようなや り方では,国
際的に大 きな反感や敵意 を 生ぜさせて きた。 そ こで,一
体,日
本の文化 とか技術の普遍性 というのは何だ ろうか とい う疑間が わいてきた とい うわ けです。第二 は,こ
れ までの 日本の産業形態においては,集
団主義 のなかの没 個性 ということが重視 されて きた こと。 日本 の場合 は,い
いものを,安
く,大
量 につ くるという画 一的な産業形態のなかで,そ
の範囲内における改善,改
良 は歓迎 されたけれ ども,一
定の軌道か ら 逸れるような革命,イ
ノベーションは敬遠 されたのです。 その意味では,没
個性 のほ うが好 ましか った というわけです。 ところが,こ
のような形態で大量 に生産 されて きた画一的な大衆化商品は, 韓国,台
湾,シ
ンガポールなどのNICS諸
国の追 い上 げにあって,い
つで もそれ らの諸 国に とって 代 られるような状況 になってきた。 そこで,
これ までの,大
量 に,安
く,良
い もの を画一的につ く り出す という経済構造 を転換する必要 に迫 られているとい うのです。第二 は,日
本 の科学・ 技術 の 分野では,日
本 が独 自に開発 した新 しい原理 とか,新
しい手法 というものが きわめて少 ない とい う ことです。ですか ら,ヨ
ーロッパやアメ リカの側 としては,今
後 は,新
しい画期的 な技術や原理 を 発見 して も日本 には教 えてや らない,売
らない。 なん となれば,日
本 にそれ らを売れば,た
ちまち それを商品にして飯のたねにして逆 にや られて しまう。 日本 に対する技術封鎖です。 ですか ら,臨
教審の基本的考 えとしては,こ
のような危機的状況 にわが国を追 いこんだ原因の一 つ としての,従
来の画一的教育 による没個性型人材の大量生産 とい う事態 をなん とか変 えたい とい うことがあった と思われ ます。 そ こで,個
性的な人材 を生み出せ るような教育へ と変革 してい く必要性 が叫 ばれ始 めた というわ けです。それはまた, しばしば指摘 されてい るように,教
育 の自由化 論・ 民営化論 と も重なるものです。 自由化・ 民営化 して個性的な学校や個性的な教師に自由に競わせれば,多
様 な 教育 メニュー,教
育 コースが提供 され るのは当然だか らです。 この第一の立場 をまとめていえば, それは労働力 としての人材 としての個性 を選別 する立場 と表現で きると思います。 第二の考 え方 は,集
団の中で自己の役割 を与 えられ,自
己の出番 を見 い出 し,集
団 にお ける民主 主義 を通 じて人間 として (あるいは人格 として と言いかえて も同 じだ と思いますが)自
らの生 き方 を選択する (自己実現)も
の としての個性 とい う見解です。 これは,大
田発氏 の言われ る「 ヒ トナ ルJと
いう考 え とも共通 な ものだ と思います。臨教審の経済の論理 に対 して,教
育 の論理,あ
るい は民衆 (庶民)の
論理 とで も呼び うるものです。 現在,全
国各地でお こなわれている個性 を育 む教育の とり組 みは,上
に述べた第二 の見解 に基づ高取憲一郎:「個性Jに関す る覚 え書 き いてお こなわれてい る もの と思 い ます し
,私
もその よ うな見解 にそって以下の議論 をすす めて い き た い と思 い ます。3.個
性 に関 す る一 試 論 私 は,人
間の意識,行
動,人
格 などをとらえる基本的枠組 み として,主
体一客体 関係 と主体―主 体関係の二つの軸 を想定 しています8°前者 は,労
働 (あるいは活動)と対応 します し,後
者 はコ ミ ュニケー ション と対応 してい ます。 さらに,そ
れぞれが,認
識 と感情 に対応 していると考 えて もほ ば まちがいないで しょう。 これ は,ヴ
ィゴツキーが,道
具の使用 と言己号 (と りわ け言語)の
使用 を 行為の二 つの基本的文化形態 とした ことにも対応 してい ます。 さて,で
は,こ
のような基本的枠組 みを人格論 に展開すれば どうなるで しょうか。人格論 にはさ まざまな ものがあるわ けですが,上
に述べた枠組 み との関連 では,乾
孝氏の人格構造モデルがたい 第3 へん重要 な示唆 を与 えて くれ ます。乾氏 は人格構 造 を三つの層 と二 つの領域か ら成 ると考 えていて (図1参
照),第
一層 は無条件反射 (種属反射)の 層,第
二層 は第一信号系による個体反射の層,第
二層は第二信号系による人格反射の層であ り,三
っの領域 は,中
心か ら外側へ向って自我領域,人
間関係 (家族・仲間)領
域,大
社会領域 (抽象的 我 領 域 人 間 関 係(家族・仲 間)領域 大 社 会領 域 (抽象 的 人 間 関 係) 第2信号 系 に よ る人 格 反 射 の 層 第1信号 系 に よ る個 体 反 射 の 層 無条件反射(種属反射)の層 図1
乾孝 の人格構造 モデル (乾孝 ほか『人格 心理学』新読書社 、 1983、 59買 よ り) 層 人間関係)か
ら成 っていると考 えられています。 ここで,第
一信号系 というのは,パ
ブロフの定義 にしたが えば,人
間に も動物 に も共通の ものである感覚 をさし,第
二信号系 というのは,人
間 にの み特有の ものであることばを,感
覚の信号,す
なわち信号の信号 という意味で さす ものであるとし ます。そこで,第
一層 と第二層 は個別性であ り,第
二層が加わってはじめて個性 になる と考 えてみ た らどうで しょうか。乾氏 は第二層 を人格反射 の層 と呼んでいますが,第
二層 こそが,第
一 。第二 層 を上台に しなが ら個性の生み出される層であ り,個
性 と人格 というのは同 じもので はないで しょ うか。ですか ら,個
性 というのは,言
語 を獲得 して は じめて成立するものです し,言
語 を介 して他 人 との間 に とりかわす コ ミュニケーションを経て成立す るものではないで しょうか。言語的 コ ミュ ニケーシ ョンに媒介 された集団 (言語共同体 と呼んで もいい と思います)の
中で,個
人 が役割 を与 えられ,自
らの位置 を自覚 し責任 を果す。 そのような ことが 自立であ り,個
性化であ り,人
格の形 成ではないで しょうか。すでに述べた主体―客体,主
体―主体の二つの基本的枠組 み との関連 でい えば,第
二層 は主体―客体関係,第
二層 は主体―主体関係が中心であるといえます。逆 円錐 の上面 にみ られ る三 つの領域 は,主
として第二層に存在 する と思われ ますが,第
二層において もわずか に その萌芽がみ られ るのではないで しょうか。 それ は,類
人猿な どにおけるコミュニケー シ ョンの存 在 とか,群
れの存在 とかか ら推測できると思います。ですか ら,主
体―客体関係 と主体―主体関係 が重なることによって,個
性が生 まれ,個
性が育 まれ るといえるのです。鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 29巻 第
2号 (1987) 221
4.個
性 論 か ら授 業 展 開 へ では,上
に述べた ような個性論 を授業展開へ と関連 させていけば どうなるで しょうか。 ここで私 は,現
在,付
属小学校 でお こなわれている一斉授業 と個別学習 を交互 に組 み合わせてい くというこ ころみに注 目してみたい と思い ます。 この二つの授業形態 は,前
節の図式 に当てはめて考 えるとす れば,個
別学習 は主 に主体―客体関係,一
斉授業 は主 に主体―主体関係 とみなす ことができるで し ょう。 この とき,前
者 の客体 のなかには,教
科書 とかその他の本 も含 まれ ます し,後
者の主体 のな かにはその他の子 どもとか教師が含 まれ ます。個別学習のなかで,生
徒ひ とりひ とりが さまざまな 問をもつわ けですが,そ
れをとにか く独力で追求 してみる。 その途中では,図
書室 に調べ に行 った り,同
じような問 をもつ友 だち とワークスペースの丸 テーブルで相談 した りす るのです。 その よう にして,か
な りの時間 をかけて生徒 ひ とりひ とりが独 自の追求 をしてい く。 その成果 を,次
の一斉 授業の場で出 しあい,他
人が 自分 とはいかに異 なった問 をもち,ま
たその間 を自分 とは異 なったや り方で追求 して きているのか を知 る。あるいは,逆
に,自
分 と同 じような問 と追求の方法があるこ とを知 ぅて安心 した り驚 いた りす る。同時 にまた,自
分 の問や方法 について他人か ら批判 して もら った り,賛
同 して もらった り,逆
に,他
人の問や方法 を批判 した りする。 この ようななかで,自
分 だけでは気づかなか った新 しい問 も生 まれて きて,さ
らに次への追求が始 まってい く。 また,集
団 全体 としてみるな らば,多
様 な問や方法が交流す るなかで,集
団全体 としての間が生 まれ る。当然, それはよ り本質的な問へ と近づいているという意味 において問題 と呼びかえて もいいのか もしれ ま せん。 このような,個
別学習 と一斉授業 との連続的展開のなかで,若
狭蔵之助氏の言 う「興味の複合」D というような現象が生 み出 され るのではないで しょうか。 そ して,主
体一客体関係 (個別学習)と
主体―主体関係 (一斉授業)が
互いに支え合 うことによって個性が育 まれ るのではないで しょうか。 さて, ここで少 し考 えておかなければならないのは間 とい うことで しょう。私 は,さ
きほど,問
と問題 を区別 して,個
人 の レベルの ものを間 と呼び,集
団全体 の間 となった ものを問題 と呼びまし た。実は,
この区別 は戸坂潤の区別 に依拠 した ものです。戸坂 は,問
題 とは社会的 (そして社会的 とは常に歴史的 を意味す る)に
規定 された ものであ り,問
とは個人的な ものであるとして両者 を厳 然 と区別 したので したよりしたがって,個
別学習か ら一斉授業へ とい う展開のなかで,個
人の間が学 級集団全体 としての問題へ と高め られる。 それ はち ょうど,個
別性が個性へ と高め られ るメカニズ ムに重な り合 うのではないで しょうか。その意味で,個
別学習か ら一斉授業へ とい う展開のなかに 間の追求 を位置づ けた付属小学校研究部の見通 しの先覚性 は りっぱな成果ではないで しょうか。 ところで,上
に述べた ことをもう一つ別の視点か らみてみ ましょう。大田尭氏 は,1965年
に書 か れた論稿のなかで,その当時の 日本 の教育危機の本質 を,「間 と答 との距離が非常 に短 くなっている」 ことととらえてい ますよ9間と答 との距離 (間)が
短 い とい うことは,問
には即座 に答 えるのだが, その答が画一的で きま りきっている。大田氏 の表現 を用いれば,「最大の能率・最小の個性」 ともい うべ き昆虫の ような人間 ということにな ります。同 じようなことは心理学者のヘ ッブ も言 っていて, 下等な動物 ほ ど刺激 と反応 との間の時間が短 いが,高
等 になればなるほどその時間が長 くなる。 そ の長 くなるのはなにか とい うと,刺
激 と反応の間 を媒介す る媒介過程の存在 である。 その媒介過程 とは,思
考であ り心であるとヘ ッブは考 えるのですようですか ら,問
と答 との間 を広 げるということ は,よ
り高等 になることであ り,よ
リー層思考す るようになることです。問 と答 との間 を曲が りく222 高取憲一郎:「個性」 に関する覚 え書 き ね って考 えてい く過程 こそ
,人
間が発達す ることであ り,個
性的になってい く過程 ではないで しょ うか。大田氏 によれば,
このような問 と答 との間の燃焼力 こそが,人
間的・ 探究的な活力 であ り, 探究的な生 きぶ りであるのです。問 と答 との間のは りつめた緊張 こそが,ま
さに人間が生 きている ことその ものであるのです。 さて,間
と答 との間 を個人の内部で広 げることが個性化だ と述べたわけですが,間
を広 げるもう 一 つの方法があ ります。 それ は,間
と答 とのなかに,集
団 を くぐらせ ることです。集団のなかで, 他人のさまざまな意見 を聞 き,相
互 に批判 しあ うなかで多種多様 な考 え方 とぶつか り合 い交流 しあ う。そのなかで,問
か ら答 えに至 る距離 は広 げ られ,幅
もまた広げ られ る。 これ こそが,個
別学習 か ら一斉授業への展開であ り,個
性化の途で もあるのではないで しょうか。大 田氏が,「聞 き上手の 学力」 を強調 し,そ
れは個人の学力 と集団の学力の複合 として とらえているの も同様 の考 えではな いで しょうか。 最後 に,あ
と一つだけ述べてお きたい と思います。 それは興味の問題です。実は,今
まで述べて きたようなことを考 えるなかで,若
狭蔵之助氏の フレネ教育実践か ら多 くの有益な示唆 を受 けてき ま した。私 は,若
狭氏の教育論の本質 は集団論 と興味論 にあると思 っています。集団論 に関 しては, 私 な りの視点 を提供 したつ もりですが,興
味論 については今の ところ考 えが まとまりません。若狭 氏 の場合 は,教
科書や学校 か ら脱 出 していって生活の中に学習課題 を求 めさす。 その ような広い範 囲の中か ら課題 を見つけて くれば,ひ
とりひ とりの微妙に異 なる興味 に合致 した学習課題が得 られ る とするわ けです。ですか ら,興
味 は持続 し,探
究の努力 も持続す るわ けです。 もちろん,個
人の 興味が集団によ り媒介 されて,興
味の複合 と呼ぶ ような現象が生 じることはすでにふれ ましたよ°そ れ に対 して,学
校 とい うきま りきった枠内で,
しか も教科書 を使用す るという決 め られた レールの 上 に話 を限定 して,そ
のなかで興味 について論 じるというのはそ もそ も無理なのか。 これは,ま
だ 解明できていない点です。 しか し,問
か ら問題へ,そ
して個か ら集団へ とい う過程 において成立す る個性 との関連で興味 を位置づ けねばな らない という予感 はあ ります。 それ は,三
木清が,関
心 と は生の根本規定であ り,具体的な人間存在の存在の仕方である と述べているように争°私たちの生存 の基礎 に興味や関心 は関連 してお り,個
性 を育 む ということも,今
まで私が述べて きた ことか らお わか りのように,私
たちの生 き方の根幹 にぶれることであるか らです。 江 「′い理学主義」批判 については,拙著 『Jb理学 のルネサ ンスーー ブ ィゴッキー理論の展開J法政 出版,1987 を参照。ヤ 村越邦男 「個性 。能力の発達 とはなにか―― 思春期 における能力・ 適性論の争点J『国民教育』,1984,60 号,12-25。 銀林浩 「個性化尊重 と教育 内容」『国民教育』,1986,68号,59-67。 乾孝 「芸術教育」『保育 の研究』,1986, 6号, 9-15。 乾孝 『信頼の構造』 思想の科学社,1986。 前掲論文14)の14頁。 前掲書0の148-149頁。 ソフ トノ ミックス・ フォローア ップ研究会報告書(n『ソフ ト化社会の家庭 。文化・ 教育 (竹内靖雄 チーム)』 大蔵省印刷局,1986,80買。 内橋克人・山岸駿介 「個性,創造性論議 に欠落 していること」『臨教審 のすべて』 エイデル研 究所,1986,
⑩ 側 一 側 側 側 鰤 鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第29巻 第