• 検索結果がありません。

価値前提の選択と道徳的批判--ミュルダールの所論を中心として---香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "価値前提の選択と道徳的批判--ミュルダールの所論を中心として---香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
57
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

価値前提の選択と道徳的批判

一一ミュルダールの所論を中心として一一

笠 原 俊 彦

I 序 ミュルダール(G.Myrdal)は,価値判断によって生み出される社会科学的研 究の偏見として,偏見的実在判断(bias)を重視し,この形成過程を解明するとと もに,これを克服するための施策を提示しようとするものであった。 かれによれば,偏見的実在判断は,社会科学的研究が前提としている価値判 断が隠され,駿味にされることによって形成される。すなわち,研究の前提と しての価値判断は,隠され暖味にされることによって合理化過程を引き起こし, 歪められた実在判断ないし装われた実在判断としての偏見的実在判断を形成す ることになるのである。 しかも, ミュルダールによれば,社会科学的研究は必然的に価値判断にもと づかざるをえないのであり,社会科学的研究から価値判断を排除することに よって偏見的実在判断を克服しようとする努力は,社会科学的研究のこの必然 性を無視し,価値判断を隠すことによって,かえって,この価値判断の合理化 による偏見的実在判断の形成への道を聞くことになる。 そこで,ミュルダールにおいては,偏見的実在判断を克服するための施策は, 社会科学的研究がその前提とする価値判断,すなわち価値前提,を明示するこ と以外にはないと考えられたので、ある。 (1) 以上については,つぎを参照のこと。 笠原俊彦稿 r社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理Jr香川大学経 済論叢』第57巻 第4号, 1985年3月。

(2)

213 価値前提の選択と道徳的批判 -213ー ところで, ミュルダールは,社会科学的研究の価値前提が研究者によって主 体的に選択されるべきである, と考えるとともに, この選択は窓意的になされ てはならず, そこに一定の制約が課されなければならない, と主張する。かれ 』ま, とりわけ,価値判断が価値前提として選択されるために満たすべき資格要 件を問題とするのである。そして, われわれの理解によれば, このような資格 要件に関して, かれは,偏見的実在判断から区別される, もう一つの偏見の克 服を問題とする。倫理低次的価値判断の偏見 (prejudice)の克服が,これである。 この論文は,紅会科学的研究の価値前提の選択に関するミュルダールのこの ような所論を考究し,価値前提の選択のあり方について,何らかの解答を得よ うとするものであるが, このような考究に先立って, われわれは, まず, 、 ミ ュ ルダールのいわゆる偏見的実在判断と倫理低次的価値判断の偏見とを, 同じく 価値判断によって生じるいくつかの偏見と区別し, このかぎりで, その意味を 明らかにしておくことにしよう。 II 社会科学における価値判断と諸偏見 価値判断が偏見を生み出すことは,社会科学者にとって,今日,ある意味で は., すでに周知のことがらであるといっていいのかも知れなし、。だが, この偏 見が,価値判断との関係において,どのような性格をもち,この性格にしたがっ て, どのように区別されるかについては,明確な理解が一般に存在するわけで は必ずしもない。むしろ, われわれは,異なる性格をもっ偏見が区別されるこ となく想起され,混同されているのがふつうである,とさえいうことができる。 このような事態をもたらす原因の一つは,価値判断を, とりもなおさず主観 性の根源とみなし, それゆえに, ただ一方的に, これを,客観性を追求するベ き科学的研究から排除しようとすることによって, それが生み出す偏見の内容 の冷静な考察をも放棄してきた,多くの研究者の態度に求められるように思わ れる。

(3)

-214- 第58巻 第1号 214 しかし,偏見が克服されるべきものであるならば, このような事態は望まし いものではない。価値判断が生み出す偏見に分析の眼を向け, その性格を明確 化することは,真理を追求するわれわれ研究者の責務である。偏見の性格を明 らかにすることができないかぎり, それを克服し真理へと近づく方法を工夫す ることは,不可能だからである。われわれは, とりわけ,偏見克服の方法が偏 見の性格に応じて異なることを銘記するべきである。 さて, われわれは,価値判断が生み出す偏見として, とりあえず, つぎの三 つを区別することができるであろう。 1) 特定の価値判断が普遍的ないし絶対的に妥当すると主張する,価値判断の 普遍妥当性の偏見ないし絶対的価値判断の偏見

(

2

)

価値判断を合理化し,実在の把握を歪めることによって成立する, れた実在把握の偏見ないし偏見的実在判断 歪めら (3) 何らかの道徳的ないし倫理的基準からみて低次の価値判断としての倫理低 次的価値判断の偏見 第一の絶対的価値判断の偏見をもっとも明確な形で定式化したのは, わたく しの知るかぎり, ドイツの経営経済学者フリッツ・シェーンブルーク

(

F

t

i

t

z

Schonpf

!

u

g

)

である。シェーンフ。ルーク自身は,これを偏見としてではなく,規 範科学

(

No

r

m

w

i

s

s

e

n

s

c

h

a

f

t

)

な い し 評 価 的 科 学

(

w

e

r

t

s

e

t

z

e

n

d

eW

i

s

s

e

n

s

c

h

a

f

t

)

として定式化したので あるが,それにもかかわらず, かれのこの定式化のうち われわれは,絶対的価値判断の偏見の明確な定式化をみることができるの である。 この偏見は,社会科学においては,何らかの価値判断が普遍的に妥当すると 考え, とは, これを科学的真理とする主張として現れるのであるが, ここで重要なこ この主張においては, そのいわゆる真理の基準が,経験にではなく, ~ 、 ー れから区別される,主体の論理的思惟(l

o

g

i

s

c

h

e

sDenken)

ないし精神的自発性

(

g

e

i

s

t

i

g

e

S

p

o

n

t

a

n

e

i

t

a

t

)

,すなわち人間の理性

(

m

e

n

s

c

h

l

i

c

h

eV

e

r

n

u

n

f

t

)

に求め

(4)

215 価値前提の選択と道徳的批判 -215-られることである。 したがって,この主張については,そこに普遍妥当性をもっとされる価値判 断と異なる価値判断を他の人々が有している, とし、う経験的事実を指摘するこ とによって,これに反論することは,無意味で、ある。絶対的価値判断の偏見は, 他の人々の有している,自己の価値判断と異なる価値判断が,まさに妥当性を もたず, 自己の有している価値判断のみが妥当性をもっと主張するものだから である。 この偏見は,自己の価値判断が,実際には特殊的存在であるにもかかわらず, 一般的に存在する価値判断であるとする偏見から区別されなければならない。 後者の偏見は,実在のーっとしての価値判断の歪められた把握であり,これは, われわれがさきに列挙した偏見の第二,すなわち査められた実在把握の偏見の ー穫である。 この後者の偏見に対しては,われわれは,そこで一般的実在として主張され るものが特殊的実在でしかないことを指摘することによって,すなわちその実 在把握ないし実在判断が実在と矛盾することを示すことによって,反論しこれ を克服することができる。 だが,前者の偏見に対しては,われわれは,そこに真理として主張されるも のが,ひとによって異なり, しかも, このように真理として主張される異なる 価値判断のうち,いずれが真理であるかを決定することのできる,だれもが認 めざるをえない基準が,いまだ存在しないことを指摘するとともに,科学にお ける真理を,だれもが認めざるをえないという意味で客観的なものとして理解 するかぎり,そのような価値判断の真理性いかんについては,科学は解答を与 えることができず, したがって,これを科学において取り扱うことは,少なく (2 ) このことについては,つぎを参照のこと。 Fritz Sch δnpfiug, B島'et例η?-ieめbs捌1飢w仰zy培肘zr鳩tお舵叫scch加aftおslehre,M必et.幼'hod必,enu仰η?zdHauρψ.お削tr付',om仰uη:ge,伐nzwei -t 民e弘,臼rewei託te釘rt匂eAuf但fiia伊gevon

herausgegeben von Hans Seis鈴chab,

c

.

.

E.. Poeschel Verlag, 1933/1954, SS.76-84

( 3) このこつの偏見の混同を,われわれは,例えば,ドイアの国民経済学者ワイヤーマンお よびシェーニッツにみることができる。つぎを参照のこと。

(5)

216ー 第58巻 第1号 216 ともいまのところできない, というしかなし、。 この場合,何らかの価値判断の普遍妥当性の主張を偏見の一つに数えること については,異論があるかも知れない。なぜなら,われわれは,真理として主 張される価値判断が真理であるか否かを決定することのできる,だれもが認め ざるをえない基準を有しておらず, したがって,当該価値判断を真理であると する主張が誤っているともいえないのであり,このように誤っていると断言で きない主張を偏見とよぶことは,それこそ一種の偏見,少なくとも偏見という 言葉の濫用である, とも思われるからである。 だが,それにもかかわらず,科学的真理をだれもが認めざるをえないものと して理解するそのひとが, まさにこの意味における真理か否かを判断できない 価値判断を真理と独断するとき,われわれは,このような独断的主張を,やは り,偏見の一種として扱うことができる。 われわれの理解によれば,この第一の偏見こそは,マックス・ヴェーバーに よって批判され,多くの社会科学者によって,社会科学から排除されるべきこ とが主張されてきたものである。そして, ミュルダーノレもまた, このような偏 見が社会科学から排除されるべきであると考える点では,これら社会科学者と 軌をーにしていると思われる。 しかし, ミコルダールが中心的にとりあげ,そしてわれわれがさきの論文, 「社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理」においてとりあ げた偏見は,この第一の偏見ではない。それは,前掲の第二の偏見,しかもそ の一種であり,この偏見を明らかにし,これを克服するための施策を提示しよ うとしたところにこそ,われわれは, ミュルダールの学説の一つの特質を見出 すことができるのである。 ミュルダーノレの意味におけるこの偏見は,すべての社会科学的研究が価値判 断にもとづかざるをえないという必然性,およびこの価値判断が合理化されうる (4) これは,あたかも,神の存在を,われわれが証明できないのみならず,否定もできない ことと同じである。 ( 5 ) このことは,後述するように,ミュノレダーノレが価値相対論の立場に立つことからも明ら かである。

(6)

217 価値前提の選択と道徳的批判 -217-という可能性の結果として生じる。 われわれは,何らかの価値判断の絶対的妥当性の主張を,少なくとも現在, 科学的客観性の名において行うことができないと考え,科学における絶対的価 値判断の偏見を克服しようとするのであるが,このことは,われわれが科学的 研究から,価値判断そのものを排除しようとすることを意味しなし、。すべての 科学的研究が価値判断にもとづかざるをえず,価値判断なくしては, ¥,、かなる科 学的研究もこれを行うことができない以上,科学的研究から価値判断を排除し ようとする企ては,成果をあげることができなし、。われわれは,科学から排除 されるべきものが,価値判断そのものではなく,価値判断によって生み出され る偏見であることを強調しなければならない。そして, ミュノレダールの意味に おける上記偏見は,社会科学的研究が前提とする価値判断が, 特殊なやり方で 合理化される場合に,生じるのである。 さて,以上の論述から推測されるように,第二の偏見,すなわち査められた 実在把握の偏見については, われわれは,少なくとも二つを区別しなければな らない。その第ーは,特殊的実在としての価値判断を一般的実在として把握す るもの,第二は,価値判断を隠し,この価値判断において望む社会的状態,あ るし、は, この状態にとって都合のよい社会的状態を,実在そのものとして把握 し, この意味において,実在を, この価値判断にとって都合よく査めて把握す るものがこれである。 前者は,特定の個人または集団が有する価値判断を, あたかも人々の一般が 有する価値判断であるかのように主張することによって,その重要性を理由づ けるときに成立する。われわれは, これを,価値判断の一般的実在化の偏見と よぶことにしよう。 これは,素朴ではあるが,やはり,価値判断を都合よく理 由づける,すなわち合理化する,ことによって生じる偏見である。この偏見は, ときとして,第一の偏見,すなわち価値判断の普遍妥当性の偏見, を支援する ために用いられ, これと結合した形で現れる。 このことカミら, このこつは,混 問されることになるのである。 この場合, われわれは,価値判断の普遍妥当性の偏見自体も, 自己の価値判

(7)

218- 第58巻 第1号 218 断の重要性を都合よく理由づけようとする素がな努力の産物でeあることを看過 してはならない。この偏見と価値判断の一般的実在化の偏見とは,価値判断の 合理化において,後者が, とりわけ実在を重視する点において相違するのであ る。 ところで,価値判断を隠すことは,絶対的価値判断の偏見および価値判断の 一般的実在化の偏見の基本的要件ではない。このニつの偏見においては,むし ろ,価値判断は明示されなければならなし、。そして,明示された価値判断は, 価値判断の普遍妥当性の偏見においては,その絶対的ないし普遍的妥当性が, 価値判断の一般的実在化の偏見においては,その一般的実在性が,それぞれ主 張されるわけである。 これに対して,歪められた実在把握の偏見ないし偏見的実在判断の後者は, 価値判断が隠され暖味にされることによって形成されることをその特質とす る。 ミュルダールによれば,これは,社会科学的研究が価値判断を離れては存 在することができないにもかかわらず,そこから価値判断を排除しようとし, 結果的にこれを隠匿し駿味にし,その合理化をひき起こすことによって, しば しば,形成されてきたので・あり,それゆえにこそ,かれは, この偏見を克服す る方法として,当該研究がもとづいている価値判断を明示する方法を提示する。 この偏見を,かれは,偏見的実在判断(bias)とよんだのである。わたくしは,以 下では, この偏見のみを偏見的実在判断とよぶことにしたい。 このようにして,わたくしは,前記三つの偏見区分に代えて,つぎの四つの 偏見区分を示すことができる。 (l) 価値判断の普遍妥当性の偏見ないし絶対的価値判断の偏見 (2) 価値判断の一般的実在化の偏見 (3) 偏見的実在判断 (4) 倫理低次的価値判断の偏見 ここでわたくしがとくに注意しておきたいことは, ミュルダールが提示する

(8)

219 価値前提の選択と道徳的批判 -219-偏見的実在判断の克服法,すなわち価値前提の明示が,価値判断の普遍妥当性 の偏見および価値判断の一般的実在化の偏見を克服するための方法ではないこ と, これである。この二つの偏見においては,価値判断は隠匿されるのではな く,明示されるのであり, これに対して価値判断の明示を要求することは無意 味だからである。この二つの偏見は,それぞれ,われわれが上述した方法によっ て反論され,克服されなければならない。 さて, ミュルダールは,偏見的実在判断を克服す町るために,社会科学的研究 が前提としている価値判断を明示する方法を提示するのであるが,ここに社会 科学的研究の前提とされる価値判断は,かれによれば,恋意的に設定されるべ きものではなく,一定の条件を考慮、しつつ選択されるべきものである。そして, われわれの理解によれば,この条件に,上記偏見区分の第四の偏見,すなわち 倫理低次的価値判断の偏見の克服が関連する。 倫理低次的価値判断の偏見は,道徳的に高次の価値判断からみた,道徳的に 低次の価値判断を意味するのであり,したがって,これは,人聞社会における 何らかの道徳観によってのみ規定することのできる偏見である。すなわち,わ れわれは,道徳的に高次の価値判断と矛盾する低次の価値判断に頑強にしがみ ついているひとを,道徳的見地からみて,偏見にとらわれているひと, とよぶ ことができる。しかし,われわれは,科学における真理の見地から,このよう な価値判断を偏見と規定することはできないのである。 このことから社会科学者がとるであろうと思われる一般的な考え方は,この ような偏見の克服の問題は, これを科学において扱うことはできない, という ものであろう。ところが, ミュルダールは,社会科学的研究において倫理低次 的価値判断の偏見を克服するべきことを主張する。そして,この問題は,われ われの理解によれば,社会科学者としてのわれわれの社会的責任に深いかかわ りをもつことがらなのである。 わたくしは,社会科学の方法に関するミュルダールの所論の一つの特質を, 偏見的実在判断の形成過程の解明とこの偏見を克服するための方法の研究とに 求めたのであるが,さらに,そのもう一つの特質を,倫理低次的価値判断の偏

(9)

220 見を克服するための方法の究明に求めることができる, 以下,われわれは,り士会科学における客観

ι

におけるミコノレダールの所論 とりわけ価 を中心として,社会科学的研究における価値前提の選択のあり方, これに関して,倫理低 を考察し, 次的価値判断の克服の問題をとりあげることとする。 価値前提の選択とその資格要件 ミュルダーノレは,社会科学的研究の価値前提が,研究者によって意図的に選 択されなければならないことを強調する。 その研 4ュルダールによれば,何らかの研究がその前提とする価値判断は, あらかじめ唯一のものとして与えられているわけではなし、。それ 究に対して, 自 けっして,何らかの研究に対して,先験的に与えられているわけでも, tま, または一般的妥当性をもつわけで『もない。それは,研究における意志 明でも, 的要素(volitionalelement),すなわち,研究者がみずからの決意によって設定 するべきものである。それは,研究者の意志の趣くところによって異なるがゆ たんに仮言的性格(hypotheticalcharacter)をもつにすぎなし、。 えに, いわゆる仮言的価値判断に ミュルダールのこのような主張は,・価値前提が,

( 6) Gunnar Myrdal, Objectivi(y in Social Research, The 1967 Wimmer Lecture St Vinαnt College, Latrobe, Pennsylvania, New York, Tronto, 1969 (以下 ,Objectivi(y と略記する。〉 (7) 本節におけるミュノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectivity, pp. 63-64, 65-66 なお,つぎをも参照されたし、。 Myrdal, Value in Social Theoη A Selection

0

/

Essays on Methodology, edited by Paul Streeten, London, 1968, pp..153-155, 157-160(本稿においては,以下 ,Valueと 略記する。〉 (8 ) 仮言的価値判断という言葉,さらには,この対立諮としての定言的価値判断とし、う言葉 は,一般に,政策論における目的の設定に関して用いられるものである。後述するように, ミュノレダーノレにおいては,社会科学は,結局は,政策論ないし実践科学であると考えられ ているようにみえるのであり,このような社会科学における価値前提は,おのずからその と思うのである。 第l号 第58巻 -220ー 値前提として選ばれる価値判断の資格要件, 1 1 1

(10)

221 価値前提の選択と道徳的批判 -221-も と づ く こ と を 明 ら か に し て い る の で あ る が , そ れ は , ま た , 価 値 前 提 が , 研 究 者 み ず か ら の 価 値 判 断 に も と づ か な け れ ば な ら な い こ と を 述 べ て い る 。 後 述 す る よ う に ミ ュ ル ダ ー ル は , 価 値 前 提 が , 社 会 に 実 在 す る 重 要 か っ 実 現 可 能 な 価 値 判 断 で な け れ ば な ら な い , と 考 え る の で あ る が , あ る 価 値 判 断 が こ の 条 件を満たすことも, こ の 価 値 判 断 を た だ ち に 研 究 の 前 提 と す る こ と を 正 当 化 す る わ け で は な し 、 。 何 ら か の 価 値 判 断 は , 研 究 者 み ず か ら が , こ れ に 価 値 を 認 め る こ と に よ っ て , は じ め て , か れ の 研 究 の 価 値 前 提 と し て 選 択 さ れ る の で あ る 。 そ し て , わ れ わ れ の 理 解 に よ れ ば , こ の こ と は , 他 方 で , 研 究 者 が , み ず か ら の 研 究 の 価 値 前 提 に 対 し て , 責 在 を 負 ら 走 白 ふ

v

i

去ら去し・、ことを意味してい

s

f

ところで, ミ ュ ル ダ ー ル に よ れ ば , 研 究 者 は , い か な る 価 値 判 断 を も 完 全 に 自 由 に 研 究 の 前 提 と し て 選 択 す る こ と が で き る わ け で は な し 、 。 か れ が 研 究 の 前 提 と し て 選 択 す る こ と の で き る 価 値 判 断 は , 一 定 の 資 格 要 件 を 満 た す も の で な け れ ば な ら な い 。 こ の よ う な 資 格 要 件 を , わ れ わ れ は , 以 下 , 価 値 前 提 の 資 格 政策論的目的をなす、と考えることができる。そこで,ミュノレダーノレのいう社会科学的研 究の価値前提が仮言的価値判断にもとづく,とL、うわれわれの主張に対しては,格別の異 論はないであろう。 ただ,われわれは,ここで,仮言的価値判断または定言的価値判断という言葉の,この ような一般的使用法が,価値判断は,因果関係を扱う理論的研究においては問題になら ず, 目的手段関係を扱う政策論的研究においてのみ,この政策論上の目的の設定に関し て,問題になる, という誤った見解と結びついていることに注意しなければならない。 価値判断が,政策論的研究においてのみならず,理論的研究においても不可欠であると すれば,仮言的価値判断または定言的価値判断という言葉を,政策論的研究における目的 の設定にのみ限定して用いる必要はない。われわれは,それを,研究の前提とされるあら ゆる価値判断について用いることができるはずである。すなわち,研究の前提とされる価 値判断は,この普遍妥当性が科学の名において主張されるとき定言的(加tegoη%がであ り,それが一つの仮定として設定されるとき仮言的(hゅothetis.ch)である。 このように考えるわれわれにとっては,社会科学は,これが政策論であるがゆえに,こ れについて仮言的または定言的価値判断が問題になりうるわけではなし、。 なお,念のため付言すれば,後述するように,われわれも,社会科学が,結局は,政策 論である, と考えるものである。 (9 ) ある価値判断が研究の対象のうちに実在するがゆえに,これをその研究の価値前提と せざるをえないと主張する学者として,われわれは,例えば, ドイYの経営経済学者,オ イゲン・ジーパー(EugenSieber)をあげることができる。(笠原俊彦,1IIJ掲書,第8意, とくに, 226ベージを参照されたい。〉 (10) 研究者のこのような寅任については,つぎを参照されたい。 笠原俊彦,前掲書,第10章, 291ページ以下。

(11)

-222ー 第58巻 第1号 222 要件,あるいは簡単に価値前提の要件とよぼう。 ミ ュ ル ダ ー ル は 社 会 科 学 に お け る 客 観 性 』 の 第XIV章の冒頭で, このよ うな要件について,つぎのように述べている。 「価値前提は,恐意的に選択されてはならなし、。それは,人々の実際の価値判 断にもとづいて設定されなければならない。この,特殊な意味での『実在性』 の要件(requirementfor“realism")は,軽視することのできないものである。」 そこで,われわれは,価値前提の資格要件として, ミュルダールの論述のう ちに,研究者が価値前提として選択することのできる価値判断は,人々の実際 の価値判断にもとづかなければならない, とし、う実在性要件を見出すことがで きるわけである。 だが,価値前提の資格要件は,これに留まらなし、。かれは,この実在性要件 を述べるに先立って,同書,第

X

I

I

I

章「価値前提の選択」において,社会科学 的研究の価値前提が満たすべき条件(conditions)を,つぎのように述べている。 (1) 価値前提は明瞭に述べられるべきであり,暗黙の前提として隠されてはな らない

(

2

)

価値前提は,実在に関する知識を用いて,実在についての価値判断の要求 に応じて,特定化され具体化されなければならない

(

3

)

価値前提は,意図的に選択されなければならない (4) 合理性 (rationa

1

i

ty)を価値前提のーっとするかぎり,価値前提の組 (set) は,そのうちに矛盾する価値前提を含むべきでなく,一つの一貫した体系を 形成しなければならない (5) 価値前提は,研究から独立した,完全に先験的な要素 (apriori)ではありえ ない。研究は,適当と患われる何らかの価値前提に注目するところから開始 (11) Myrdal, Objectivi~y , p.65 (12) われわれは,ミユノレダーノレにおいて,価値前提の資格要件と,これから区別されるべき, 価値前提に関して考慮されるべき事項との区別が,必ずしも明確ではないことに,注意し なければならない。 なお,かれは,前者を価値前提の選択の原則(principlesof selection)とよんでいるよ うにもみえる。 (CfalsοMyrdal, Value, p. 157)

(12)

223 価値前提の選択と道徳的批判 -223-されるべきであるが,この価値前提は,研究の過程において,絶えず修正さ れるべきことが銘記されなければならない このうち,第一条件および第三条件として述べられていることは,われわれ が, ミュルダールの所論として,すでに説明してきたものである。これらは, 価値前提が意図的に選択され明示されるべきことを主張するものであるが,価 値前提の資格要件を述べるものではない。また,第五条件は,価値前提の選択 が研究の全過程を通じて行われるべきことを述べるものであり,これは,価値 前提の選択において考慮されるべき重要なことがらではあるが,しかし,価値 前提の資格要件ではなし、。 これに対して,第四条件および第二条件は,研究者が価値前提として選択す ることのできる価値判断がもつべき性質を述べるものとして理解することがで きるのであり, したがって,それらは,価値前提の資格要件をなすようにも思 われる。 このようにして,われわれは,価値前提の資格要件に関して,さきの実在性 要件をもあわせて,三つの要請を問題とすることができる。 この三つのうち,第一に r合理性を価値前提のーっとするかぎり,価値前提 の組は,そのうちに矛盾する価値判断を含むべきでなく,一つの一貫した体系 を形成しなければならなし、」とL、う要請は,まず,科学は合理性をもつべきで ある, というミュルダールの考え方を表明している。それは,科学そのものの あり方についてのかれの考え方,すなわちかれの科学観,の表明であり,科学 (13) ミュノレダーノレは,社会科学的研究において価値前提が満たすべき,上記五条件に付加し て,つぎのよう問主主べている。 「価値前提は,目的のみならず手段についても問題とされなければならない。何ものも それ自体は善くも慈くもない,その結果が善いまたは悪いがゆえにのみ,善い,または悪 いのである,一ーとしづ功利主義の命題は,実在と合わなし、。なぜなら,人々は現実に, 手段をも評価するからである。同じことは,何らかの手段による何らかの目的達成が引き 起こす副作用についてもいえる。J(Myrdal, Objectivi~y , p.64..) これは,人間が,目的のみならず,手段,さらには副作用をも評価するものであり,し たがって価値前提が,これらすべてについて考慮されるべきことを述べるものである。こ れが価値前提の資格要件でないことは,いうまでもない。 手段および副作用の評価については,別稿で考察したい。

(13)

-224- 第58巻 第1号 224 一般についてのかれの,そして,かれのいうところによれば iわれわれの文明 型民おいて通常受け入れられている」価値判断を示すのである。そして,この 要請の全体は,科学一般についてのこのような価値判断を前提とするとき,特 定の科学的研究がもとづくべきその固有の一組の価値判断が,相互に矛盾して はならないことを述べている。 これは,何らかの研究に一貫性を与えるために価値前提が満たすべき条件で あり,この意味において,価値前提の一つの資格要件をなす。ミ 3ルダールに よれば, この要件は,場合によっては,一組の価値前提の聞に,均衡ないし妥 協が図られなければならないことを意味する。 この要件は,価値前提の個別的資格要件ではなく,一組の価値前提の内的関 連における資格要件ともいうべきものであり,したがって,もちろん,研究を 決定づける価値前提が単ーではなく,複数である場合にのみ妥当する。ただ, われわれは,価値前提が一見して単ーであると思われる場合にも,しばしば, この要件が適用されなければならないことに注意す市るべきである。 ミュルダー ルによれば,抽象的には一つである価値前提も,それが具体化されると,被数 の価値前提の組として現出し, これら価値前提の聞に矛盾が生じることがある からである。われわれには,価値前提が真に単一である場合は,むしろ,いち じるしくまれであるように思われる。 第二に,価値前提が人々の実際の価値判断にもとづかなければならない, と いう要請としてさきに表明された実在性要件は, ミュルダールによれば,三つ の内容をもっ。実在関連性

(

r

e

l

e

v

a

n

c

e

)

,重要性

(

i

m

p

o

r

t

a

n

c

e

)

,実現可能性

(

f

e

a

s

i

-bility)がこれである。この三つのものの意味を,われわれは,つぎのように理解 することができる。 (1)実在関連性 価値前提は,社会において個人または集団が実際に有して (14) Myrdal, Objectivit.,y.p.64 (15) Cf Myrdal, Value, p..158 (16) C Myrdalf. , Objectivity., pp.. 77ff.

(14)

-225ー 価値前提の選択と道徳的批判

2

2

5

いる価値判断のなかから選ばれなければならない 価値前提は,社会における本質的集団または本質的権力をもっ 重要性

(

2

)

小集団の価値判断のなかから選ばれなければならない 価値前提は,実現可能な価値判断のなかから選ばれなけれ 実現可能性

(

3

)

ばならない ミ ユ 価値前提は人々の実際の価値判断にもとづかなければならないという, この‘うち, われわれの理解によれば, ノレダールの前述の実在性要件の説明は, このほかに,重要性と実現可 実在関連性要件の別表現であり,実在性要件は, 能性というこ要件を含むのである。 さて,実在性要件を構成する以上三つのうち,実在関連性要件は,社会にお さら いていまだ存在しない価値判断を価値前提として選ぶ可能性を排除する。 に,重要性要件は,価値前提として選択される価値判断の範囲を,実在関連性 社会における本質的集団または本質的権力 要件を満たす価値判断のなかでも, をもっ小集団のそれに限定する。 このような要件は,社会科学的研究を社会の要求(needs)に適合させようと この意図は,科学は 社会の要求に応えるべきであるとする,科学のあり方についてのかれの価値判 断に基づいている。この価値判断こそ, するミュルダールの意図を表明するものである。そして, さらに,何らかの研究 かれにおいて, に固有の価値前提の実現を要請し価値前提の資格要件として,実現可能性を

i

l

i

-;

設定させたものにほかならなL。、 ミュルダールが,社会科学を,政策論ないし実践科学 われわれは, ここで、, として理解していることに注意しなければならなし、。かれによれば,社会科学 (17) ミュノレダーノレによれば,以上にいう社会とは,研究対象としての社会であるが,他方, ある社会は,他の社会における実在関連性および重要性の観点からも,これを考察するこ とができる。 (Cf.Myrdal, Objectiv#y, p..65.. footnote 32) (18) Cf.Myrdal, Objectiviか, p..48川 ミュノレターノレがこのように考える理由については,つぎを参照されたし、。 Myrdal, Value., pp.132-133

(15)

-226ー 第58巻 第l号 226 は,たんなる理論的謎解きではなく,政策的関心から,つねに出発している。 そして,特定の社会に存在する重要な政策的問題の解決,これによる社会の改 革

(

s

o

c

i

a

lr

e

f

o

r

m

)

こそ,社会科学の課題である。社会科学についてのこのよう な考え方ないし価値判断が,何らかの研究の前提として選択される価値判断は 実在性要件を満たすべきであるという,かれの思惟を規定しているのである。 さて,実現可能性は,価値前提としての価値判断の選択の範囲を, さらに限 定する。それは,社会における本質的集団または本質的権力をもっ小集団が理 想とし形成または維持しようとする何らかの社会的状態に関する価値判断のな かでも,形成または維持することが可能な社会的状態に関する価値判断のみが, 価値前提とされるべきことを要求するのである。 この場合, ミュルダールによれば,ある価値判断が実現可能か否かは,研究 の当初においては,必ずしも明らかではない。そこで,実現不能な価値判断が 価値前提として選ばれることがある。この場合には,選ばれた価値判断が実現 不能でhあることが研究の過程において明らかになり,価値前提の変換が行われ なければならない。かれによれば,価値前提の実現可能性に関する批判は,社 会科学のもっとも重要な仕事の一つである。 かれのこのような論述は,価値前提の選択が,研究の当初にのみ関係するも のではなく,研究の過程を通じて行われなければならないことを示唆している。 われわれがすでに述べたように, ミュルダールによれば,価値前提は,研究の 過程において,絶えず修正されるべきことが銘記されなければならない。この ことは,価値前提の組は一貫した体系をもたなければならないとし、う既述の要 件が合意することでもある。価値前提がこの要件を満たすか否かも,研究の当 初においては,しばしば,必ずしも明らかではないからである。 このような価値前提の修正は,価値前提の内容の明確化ないし具体化を介し て行われる。すなわち,価値前提は,研究の過程で,その内容がしだいに具体 (19) この場合,かれがここにし、う社会科学の課題が,はたして,実在関連性要件および重要 性要件を必然的に要請するかは,問題である。われわれは,これに対して否定的見解を もっている。だが,このことについては,のちに論じることにしよう。(本稿,第V節を 参照されたい。〉

(16)

227 価値前提の選択と道徳的批判 -227ー イじされ,その実現不可能性,またはその構成要素間の矛盾が明らかになったと き,修正されなければならないのである。このことは,われわれを r価値前提 は,実在についての価値判断の要求に応じて,実在に関する知識を用いて,特 定化され具体化されなければならなし、」とL、う要請の考察に導くことになる。 われわれの理解によれば,価値判断とは,何らかの対象についての人聞によ る価値の判断である。したがって,その内容は,その対象を,人聞がこれに付 与する価値との関連において明確化することによってのみ,明らかになる。ミュ ルダールは,この対象として実在を考え,実在に関する知識を用いて,この対 象およびこれに対する人間の態度を具体的に示すことによって,研究の前提と しての価値判断の内容を明確化しようとする。ここにいう実在は,社会科学に おし、ては,何らかの社会的状態としての実在である。さきにミュルダーノレは, 社会科学の価値前提を,実在する価値判断に限定したのであるが,ここでは, さらに,それを,実在する価値判断のうち,実在する対象をもつもののみに限 定しているのである。 だが,かれのこのような論述には,これを字義通りに受け取るかぎり,われ われは与するわけにはし、かなし、。社会科学においては,価値前提とされる価値 判断の対象は,人聞が形成または維持しようとする,何らかの社会的状態を意 味したのであるが,このうち,人聞が形成しようとする社会的状態とは,いま だ実在しない社会的討議であり,それゆえにこそ,人聞は,これを形成しよう とするものだからである。そして,このようにいまだ実在しない社会的状態を 対象とする価値判断こそ,社会科学の課題を社会の改革に求めるミュルダール が,重視せざるをえないはずのものである。 もとより,このような価値判断は,実在に関する知識を用いて,特定化され, 具体化されなければならない。しかも,この特定化ないし具体化は,価値判断 (20) これは, (1) まったく実在しない社会的状態 (2)態実在はするが,その程度あるいは範囲において一定水準に達していない社会的状 を含む。

(17)

-228ー 第58巻 第1号 228 の対象とこれに対する人間の態度のなかでも, とりわけ前者について, 問題に なるであろう。価値前提は, このように具体化される場合にはじめて, その無 矛盾性が, そして実現可能性が,判断されることになるのである。だが,価値 判断の対象が実在することと,価値判断の対象が実在に関する知識を用いて特 定化され, 具体化されることとは, けっして同ーではなし、。われわれは, この 二つを厳密に区別しなければならなし、。 さて, ここでわれわれが問うべきことは,価値前提は,実在に関する知識を 用いて特定化され具体化されなければならない, という要請を,価値前提の資 格要件として承認することができるか, である。 このことについて, われわれは, この場合の価値前提の具体化の要請が, そ れ白体としては, 限度を有しないことに, 注意しなければならなし、。 このよう な限度のない要請を満たすことは不可能であり, この要請の満足を条件とする かぎり,価値前提の選択は不可能である。価値前提の具体化の要請は, こオd.こ 限度が与えられ,したがってこれを満たす可能性が与えられている場合にのみ, 価値前提の資格要件となることができる。 このような限度を与えるものとして, われわれが想起することのできるもの は,価値前提の無矛盾性および実現可能性の確認である。 このとき,価値前提 t主, このこ要件の確認を可能とする程度に,具体化されなければならないこと となる。だが, このことは,価値前提の無矛盾性および実現可能性が確認され, したがってこのこ要件が満たされれば,価値前提の具体化の要求が満たされる ことを意味するのであり, このとき, われわれは, もはや,価値前提の具体化 を,価値前提の資格要件のーっとして, わざわざあげる必要をみない。 思うに,価値前提の具体化の要請は,価値前提の一つの独立の資格要件では ない。それは, それを含みかっそれに限度を与える何らかの要件を介して,はじ めて,価値前提の選択にかかわるのである。 このようにして, われわれは, ミュルダーノレの論述において,価値前提の資 二つをあげることができる。価値前提の無矛盾性の要件 格要件として, 一応, と実在性の要件とがこれである。だが, われわれは, このこつを,価値前提の

(18)

229 価値前提の選択と道徳的批判 -229-資格要件として,そのまま認めることができるわけではなし、。 ミュルダールと同じく,われわれも,科学が合理性をもつべきであると考え るのであり,したがって,価値前提の無矛盾性の要件を受け入れることができ る。しかし,われわれは,価値前提の実在性の要件を,そのまま受け入れるわ けにはいかないのである。 それのみではない。われわれは, ミュルダールの論述における価値前提の資 格要件を, このこつのみに限定することができるわけでもなし、。われわれは, さらに考察を進めなければならなし、。

I

V

実在性要件の諸問題とその処理

1

実在性要件の諸問題 ミュルダールは,実在性要件について,これを充足しようとするに際して生 じるいくつかの困難ないし問題を指摘し,この解決のための施策を提示する。 この問題とは,とりわけ,何らかの社会において本質的集団または本質的権力 をもっ小集団が有する価値判断の確認に関するものであり,これを,かれは, つぎのように説明する。 (1) 社会における価値判断を確認するための科学的基礎が貧弱で、ある。現在用 いられている世論調査の方法は,十分でない。このため,しばらくの聞は, 社会科学者は,印象主義的観察および思弁に頼らざるをえないように思われ る (2) 価値判断と実在判断とは相互に作用し合うため,誤った実在判断と結びつ いている価値判断については,これをそのまま価値前提とするのではなく, (21) 本節1におけるミュルダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectiviか, pp..16, 65-67. なお,つぎをも参照されたい。 Myrdal, Value., pp. 160-161.

(19)

-230- 第58巻 第l号 230 実在判断が修正されたときに人令がもっと思われる価値判断を明らかにし, これを価値前提としなければならなし、。だが,このような価値判断の推測は, 容易でない (3) 価値前提として用いられるべき価値判断は,たいていの場合,現在のみな らず未来においても存在すると思われる価値判断で、なければならなL、。だが, 未来の価値判断は,社会の未来にわたる多様な変化の産物であり,それを推 測することは,現在の価値判断が確認されている場合でさえ,困難である

(

4

)

価値判断聞の矛盾は,個人と個人,集団と集団との間だけでなく,同ーの 個人内部,あるいは集団内部,においても存在するが,このことは,価値判 断を特定し各価値判断の強さを推定することを困難にする。価値判断の時間 的変化は,この困難をさらに大きくする 実在性要件の問題に関する以上の論述のうち,第二のものと第三のものとに ついて,われわれは,それが,価値前提の新たな資格要件を含んでいることに 注意しなければならなし、。まず,第二の問題に関する論述は,価値前提として 選択される価値判断は,実在判断が修正された場合に生じると思われる価値判 断でなければならない, とL、う要件を含んでいる。 ミュノレダーノレによれば,価 値判断は実在判断に影響を与えるのであるが,逆に,実在判断もまた,価値判 断に影響を与える。このような認識から,かれは,誤った実在判断によって影 響されている価値判断ではなく,実在判断が修正された場合に生じると思われ る価値判断を価値前提とすることを要請するのである。 このような要請は,科学は合理性をもつべきであるという,すでに述べたミュ ルダールの科学観に基づいている。かれは,合理性にもとづいて社会の改善に ι貢献することこそ,科学の使命であると解するのである。 つぎに,かれは,第三の問題に関する論述において,価値前提として選ばれ る価値判断が,たいていの場合,未来においても存在す町ると思われる価値判断 であることを要求する。この要件は,科学による社会の改善への貢献は,一般 (22) Cf Myrdal, Objectivi~y , pp..32-34.

(20)

231 価値前提の選択と道徳的批判 -231-に,科学が,社会において一時的に存在する価値判断ではなく,長期的に存在 する価値判断を価値前提とするときに可能である, というミュルダールの信念 を表明するものにほかならない。 このようにして,われわれは, ミュルダールの論述のうちに,価値前提の資 格要件に関して,価値前提の無矛盾性と実在性に加え,さらにこつの要請を見 出すことができるのである。 これら四つの要請のうち,価値前提の無矛盾性を除く三つについては,われ われは,価値前提の資格要件としてのその適性について,なお検討するべき問 題をもっている。だが,この問題については,次節において考察を加えること とし,本節では, ミュルダールが指摘した実在性要件の四つの問題に,かれ自 身がどのように対処しようとしているか,を明らかにしておこう。 2 価値判断の間接的確認 さきに列挙された,実在性要件についての四つの問題のうち,第一のものに ついて, ミュノレダールは, これを処理するための一方策として,人々の実在判 断の偏り (deviation)の方向と程度とを測定し,このことによって価値判断を間 接的に確認する方法,を提唱する。 ミュルダーノレによれば,人聞は,その実在判断を知識として表明する。それ は,たしかに知識を含むことができる。だが,それは,知識のみによって構成 されているわけではない。それは,通常は,知識と偏見との混合物である。こ のような実在判断については,第一に,知識を基準として,その正誤を判断す ること,および,実在判断が誤りである場合には,それが,知識からし、かなる 方向に,いかなる程度,偏っているかを判断することができる。とれは, ミュ ルダールが実在判断の正確性の測定とよんだものにほかならなし、。 (23)本節2におけるミュルダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectivity., pp 15-16, 27-31 つぎをも参照されたし、。 Myrdal, Value, pp..82-86 (24) 笠原俊彦稿 r社会科学における偏見的実在判断の形成と価値判断の処理Jr香川大学経 済論叢』第57巻第 4号, 1985年3月, 109ベージ,を参照されたし、。

(21)

-232- 第58巻 第l号 232 ミュルダールによれば,知識からの人々の実在判断の偏りの方向と程度とは, 相互に矛盾す寝る複数の価値判断, とりわけ道徳的に低次の価値判断と高次の価 儲判断とを対決させることを避けようとする人々の試みを表す。そこで,実在 判断の偏りの方向と程度とを測定することにより,人々の心の中の,相互に矛 盾し, しばしば隠されている諸々の価値判断の諸型を推定することが可能であ る。 さて, ミュルダールによれば,実在判断の偏りは,知識に反するとし、う形態 においてのみ現れるわけではなく,知識の欠如とし、う形態においても現れる。 「知識と同じく,無知も,目的に沿って方向づけられている。価値判断の聞の 矛盾が生み出す情緒的負担は合理化を促し,ある点では知識を拒否し,別の点 では知識を切望させる。そして,一般に,実在についての観念を,真理から特 (25) 定方向に偏らせるのである。」 そこで,実在判断の偏りは,正確性のみならず,第二に,完全性についても 測定されなければならなし、。このこつの測定は,当該実在判断と対比されるべ き,正確かっ完全な知識,すなわち「客観的」知識(“objective"knowledge)な いし真の知識(trueknowledge),を表す,公認されておりかつ明瞭な基準(stan -dard, lucid norms)を前提とする。ミュルダールによれば,これを準備するこ とは,かなり容易である。かれによれば,いまだ解決されていない問題につい ては,われわれの限界を知っていることが,このような基準となる。 ミュルダールのこのような主張については,われわれは,かれがまさに科学 的研究そのものにおける偏見の形成を問題とし,これを克服する方法を探求し ようとするものであったことを,ここで想起するべきである。科学的研究は正 確な知識を追求するのであるが,それにもかかわらず,その研究成果は,必ず しも正確ではないのである。それのみではない。科学的研究成果は,ミュノレダー ルがここにいう意味において完全でもなし、。すなわち,われわれは,しばしば, いまだ解決されていない問題が何であるかを知らない。そもそも,科学的研究 成果の完全性については,これをいかなるものと考えることがで、きるかという (25) Myrdal, Objectivily, p.29

(22)

233 価値前提の選択と道徳的批判 -233-(26) ことさえ,われわれには明らかでないのである。そこで,われわれは,むしろ, 正確かっ完全な知識を提示することは,少なくとも現在のところ,不可能であ る, といわざるをえない。 ただし,われわれは,科学的研究において現在知られている問題,および現 在までに得られている一応の解答を示すことはできる。この一応の解答が,一 般に,知識とよばれているものにほかならなし、。それは,世の中の人々の実在 判断に比べると,通常,より正確でより包括的であり,われわれは,このいわ ゆる知識およびいまだ解答が得られていない問題を,人々の実在判断の正確性 および完全性を測定する基準とすることができる。ミュルダールの論述の全体 から判断するとき,われわれは,かれのいう rr客観的」知識を表す公認されて おりかつ明瞭な基準」を文字通りに受け取るべきではなく,上記のような基準 として理解するべきであろう。 さて, ミユノレダーノレは,正確かつ完全な知識を表す基準に基づいて,人々の 実在判断の正確性と完全性とを定量的に図示することのできる尺度を開発する ことを提唱する。かれは,この尺度を用いて,人々の実在判断の正確性と完全 性とを測定し,その具体的性格を分析することによって,諸々の価値判断およ びこの相互矛盾を間接的に確認しようとするのである。 もちろん,かれによれば,人々の価値判断は,このように間接的にのみなら ず,直接的にも調査されるべきである。だが,ひとが,御都合主義的やり方で, その複雑かつ矛盾する諸々の価値判断の特定のものに意識を集中し,自己の価 値判断をもっともらしい形で表明しようとするものであり,そのため,直接的 調査の場合にかれが表明する価値判断が,実際生活の場におけるかれの価値判 (26) 完全性の一つの理解は,ドイyの新歴史学派経済学にみられる。そこでは,実在の完全 な再現が科学の課題であると考えられていたのである。 このこと,および,これに対する批判については,つぎを参照されたい。 笠原俊彦,前掲害 7ページ,および9ページ注(5)

Max Weber, Roscher und Knies und die logischen Probleme der his均 的chen Nationalokonomze, Gesammelte Aujsatze zur Wissensc向ftslehre,3.. AufL, Tubingen, 1968, S..3, 5.

完全性の問題については,本稿第V節3にも触れるところであるが,いずれ,別稿にお いて論じたし、。

(23)

-234ー 第58巻 第1号 234 断と,おそらく異なることを考えるとき, ミュルダールには,間接的調査の方 が,直接的調査よりも,対象に深く迫ることができるように思えるのである。 なお, ミュルダーノレによれば, ひとが御都合主義的やり方で,その諸々の価 値判断の特定のものに意識を集中することからして,価値判断の確認について は, さらに,つぎのことが留意されるべきである。すなわち,直接的方法およ び間接的方法のいずれか,または両方を同時に用いて,価値判断を調査する場 合,同一質問についての,ひとの私的ないし個人的解答と,公的ないし政治的 解答とを区別するべきことが, これである。人間の私的意見と公的意見とは, めったに一致しないのであり,このニつを区別する価値判断の研究ば,人間の 内面における,一般性の程度を異にする諸々の価値判断聞の分裂ないし矛盾を 明らかにすることができるのである。 3 高次の価値判断の使用 第二および第三の問題について, ミュルダールは,道徳的に高次の価値判断 (28) を価値前提として用いることによって,これに対処しようとする。 かれによれば,価値前提として選ばれる価値判断は,誤った実在判断によっ て影響を受けている価値判断ではなく,実在判断が修正された場合に生じると 思われる価値判断でなければならない,という要請は,一般に,価値前提とし て,道徳的に高次の価値判断が用いられるべきことを意味する。なぜ、なら,実 在判断を歪め,また歪められた実在判断と結びついているものは,一般に,道 徳的に低次の価値判断であり,実在判断が修正されるときには,この低次の価 値判断は追放されざるをえなし、からである。 それのみではない。かれによれば,未来においても存在すると思われる価値 判断は,通常,道徳的に低次の価値判断ではなく,高次の価値判断であり,し たがって,価値前提は,たいていの場合,未来にわたって長期的に存在すると (27) このことについては,つぎをも参照されたし、。 Myrdal, Value, pp 86-88 (28) 本節3におけるミユノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 Myrdal, Objectivity, pp 67-69

(24)

235 価値前提の選択と道徳的批判 -235-思われる価値判断に一致するべきである,とし、う要請も,一般に,価値前提と して,高次の価値判断が用いられるべきことを意味する。 ミュルダールのこのような論述については,われわれは,二つのことに注意 しておかなければならない。 一つは,かれの主張にもかかわらず,低次の価値判断のなかにも,これまで 根強く存続してきており,これからも存続するであろうと思われる価値判断が 少なからず存在す町ること, これである。そこで,価値前提は未来にわたって長 期的に存在すると思われる価値判断に一致するべきであるとし、う要請から,価 値前提として高次の価値判断を用いるべきであるとし寸要請を,ただちに引き 出すことはできない。 ニつは, ミュルダールが,ここで,高次の価値判断として,実在する価値判 断を考えているように思われることである。 誤った実在判断によって影響されている価値判断でなく,実在判断が修正さ れた場合に生じると思われる価値判断が,価値前提として選ばれるべきである, というミュルダールの要請は,いまだ実在しない価値判断を価値前提とするよ う要請し,この点で,かれの実在性要件に反しているようにもみえる。 だが,一般に,高次の価値判断と矛盾する低次の価値判断が合理化されて, 誤った実在判断が形成される, というミュルダールの考え方からすれば,この 実在判断の修正は,一方で,この実在判断と結びついている,実在すuる低次の 価値判断を追放し,他方で, この低次の価値判断と矛盾しそれゆえにこの合理 化を促すこととなった,実在する高次の価値判断を,ひとにとらせることにな るであろう。 ミュルダーノレにおいては, この高次の価値判断は, これと矛盾し 誤った実在判断と結びついている低次の価値判断と同じく,ひとの心中に実在 するのであり,ただ,このひとが,ある具体的な問題に関して,これをとるこ とを避けようとしていただけなのである。 このように理解するとき,価値前提として選ばれる価値判断は,実在判断を 修正した場合に生じると思われる価値判断でなければならない,とし、う要請は, 実在性要件と矛盾するものではなし、。しかしながら,われわれは,他方で,実

(25)

-236- 第58巻 第1号 236 在判断の修正が新しい高次の価値判断を生み出す可能性を否定することもでき ないであろう。 ミュルダーノレによれば,高次の価値判断の確認は,それほど困難ではなし、。 それは,たしかに, 日常生活においては,御都合主義的理由から,大部分が隠 されているのであるが, しかし,通常,国家およびこの内部の公的機関によっ て明白に表現されており,観察によって,これを容易に確認することができる のである。 さて, ミュルダールによれば,価値前提として高次の価値判断を用いれば, さらに,第四の問題もある程度解決される。なぜなら,研究者は,矛盾対立す る価値判断のうち, とくに高次のものに焦点を合わせればよいからである。し かも, ミュルダーノレによれば,高次の価値判断は,通常,かなり同質的であり, 相互に矛盾することが少なし、。 ところで, このように,価値前提として高次の価値判断を選ぶ場合には,第 一の問題を処理するためにミュルダールが提示した方法は,価値前提の選択に おいて,あまり意味をもたなくなるようにも思われるであろう。なぜ、なら,第 一の問題においてミコルダールが念頭に置いている価値判断とは,主として, 道徳的に低次のそれだからである。 だが, この場合にも,第一の問題を処理するためにかれが提示した方法は, 価値前提の選択において意味をもっ。この意味は, とりわけ,価値前提の実現 可能性の判断にかかわる。 ミ3ルダールによれば,高次の価値判断を価値前提とするとき,現代の社会 においては,この価値前提が実現するべきことを要求する社会的状態と現実の 社会的状態との聞には,大きな距離がある。そして,価値前提の要求を実現す ることによってこの距離を埋めることができるか否かは,高次の価値判断とと もに人間のうちに存在する低次の価値判断が,高次の価値判断を制約するその 仕方および程度に依存する。それゆえにこそ,高次の価値判断のみならず低次 の価値判断をも確認すること,そしてこれらの聞の関係を解明することは,価 値前提の実現可能性および実現の仕方の究明に対して,重要な貢献をなす, と

(26)

237 価値前提の選択と道徳的批判 -237ー 考えることができるのである。 ミュルダールのこのような主張は,第二,第三,および第四の問題を処理す るためにかれが提示した行き方,すなわち,価値前提を高次の価値判断のなか から選択することによって,諸々の価値判断の確認について生じる困難を削減 しようとする行き方の有効性に,少なくとも限界を与えるものであることが注 意されなければならない。価値前提を高次の価値判断のなかから選択する場合 においても,研究者は,少なくとも,かれが選択した高次の価値判断の実現可 能性を検討するために, この価値判断と関連をもっ低次の価値判断およびこの 関連のあり方を,確認しなければならなし、からである。

V

価値判断の道徳的批判と高次の価値前提 1 価値判断の道徳的批判と高次の価値前提 ミュルダールによれば,社会科学の伝統的意味においては,客観的とは,道 徳または政治に対して中立的であり,価値判断を含まず,ただたんに即事的 (fac

-t

u

a

l

)

であることをL、う。そこでは,社会科学の客観性は,価値判断を排除し, ただ即事的であることによって達成されると考えられてきたのである。 これに対して, ミaルダーノレは,いかなる社会科学またはその特殊部門とい えども,これまで,たんに即事的であったことはないし,社会科学的研究はす べて,必然的に,道徳的ないし政治的価値判断にもとづかざるをえない,と考え る。そして,社会科学が客観的で、あることのできる道は,それが前提としてい る価値判断を明示すること以外にない, と主張したのである。このことによっ てこそ,社会科学は,かえって,その言明について,価値判断に関する部分と (29)本節lにおけるミユノレダーノレの所論は,主として,つぎによる。 MyrdaI, Objectivity, pp 73-76 (30) このような考えは,自然科学者にも社会科学者にもみられるものである。わたくしのこ れまでの研究に則していえば,このような社会科学者として,例えば,ヴイノレヘノレム・リー ガー(WilhelmRieger)がし、る。(笠原俊彦,前掲書,第6章を参照されたい。〉

(27)

--238- 第58巻 第l号 238 実在に関する部分とを明らかにし,かくして,後者が前者によって歪められる ことを防ぐことができる。 この場合,いわゆる伝統的思考は,価値判断を主観的と考え,それゆえに, これを排除し科学的言明を純化しようとする。 ミコルダールも,価値判断を主 観的と考える点では,伝統的思考と軌をーにす

:

z

だが,かれは,価値判断を 科学的言明から排除することは可能でなく,したがって,これを明示し,科学 的言明がし、かなる点で価値判断によって規定されるかを明らかにすることこ そ,科学的言明の客観性を確保する道である,と考えるのである。 ところで,価値判断が主観的?であるとするこの考えは,特定の価値判断が絶 対的妥当性をもたず,諸々の価値判断のそれぞれについて妥当性が主張されう る, といういわゆる価値相対論

(

v

a

l

u

er

e

l

a

t

i

v

i

s

m

)

を合意することが注意され なければならない。 この価値相対論を支持するひとがとる一つの行き方は,あらゆる価値判断に 同等の権利を認め,価値判断相互間の批判をやめることである。この場合には, 相互に矛盾対立し, しかも道徳的水準を異にする複数の価値判断の一つ一つが 正当化され,その併立が許容されることになる。価値判断について,一種の無 政府状態が成立するわけである。 ミュルダールによれば,これを容認するものは,道徳的虚無主義

(

m

o

r

a

ln

i

h

i

-l

i

s

m

)

にほかならない。この立場に立つとき,科学的研究は,道徳的観点からみ て,いかなる価値判断をも,自由に,その価値前提として選ぶことができる。 だが, ミュルダールは,このような行き方を取らなし、。かれは,価値判断を道 徳的に批判し,道徳的に高次の価値判断のみを価値前提とすることの必要性を 強調する。 われわれは,すでに, ミュルダールが高次の価値判断を価値前提として採用 するよう要請することを述べたのであるが,そこでは,この要請は,とりわけ, (31) r客観的」価値判断が存在する, という考えに関するミュノレダーノレの説明については, つぎを参照されたL。、 Myrdal, Objectivity, pp..57-58, 86-89

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

ても情報活用の実践力を育てていくことが求められているのである︒

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱