• 検索結果がありません。

~ 平 良 市 史 J3) や 各 種 郷 土 資 料 に 加 え,いくつかの 先 行 研 究 や

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "~ 平 良 市 史 J3) や 各 種 郷 土 資 料 に 加 え,いくつかの 先 行 研 究 や"

Copied!
26
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻509号 (2015・9)pp.41-66

宮古島(沖縄県)における

ドイツ記念碑建立(1

8

7

6

年)

6

0

周年記念祭,

1

9

3

6

1

1

1

4

はじめに(訳者解題)

F

.

M

.

T

r

a

u

t

z

朋 季 訳

以下に紹介する資料は, ドイツ人日本学者フリードリヒ・マクシミリアン・ トラウツ1l(Friedrich Maximilian Trautz, 1877-1952)が京都ドイツ研究 所(または日独文化研究所, ドイツ語名称はDeutschesForschungs -institut Kyoto)の所長に在任中(1934年 1939年),東京のドイツ大使館 に提出した報告書(1936年11月 24日付け〉を日本語訳したものである。 原 文 の タ イ ト ル は Die Sechzigjahrfeier der Errichtung(1876) des Deutschen Denkmals auf der Insel Miyako (Okinawa-Ken), 14.11.1936 で,本稿の表題もこれを逐語訳したものである。 トラウツは 1936年11月 13日から 15日にかけて沖縄県宮古島に滞在し, ドイツ政府代表として 11 月14日の「ドイツ皇帝博愛記念碑

J

60周年記念祭2)に, ヒルダ夫人 (Hilda Trautz)と共に出席しており, この報告書には,彼が11月9日に京都を出 発して福岡,那覇を経て宮古島に至り(福岡から那覇は航空機を利用),帰 路那覇を経由して 11月21日に神戸に帰港するまでの 13日間の行動が記録 されている。 この記念祭を開催する契機となった,いわゆる「ドイツ皇帝博愛記念碑」

(2)

4

2

明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻

5

0

9

(

2

0

日・

9

)

とは,

1

8

7

3

7

月に宮古島沖で発生したドイツ商船「ロベルトソン号

J

(R. J.Robertson)の座礁と島民による乗組員の救助・保護に謝意を表すという 名目でドイツ政府が

1

8

7

6

年に宮古島に建立したものである。 トラウツが参 加した記念祭は,

1

9

3

6

年がその

6

0

年後に当たることにちなんで,大阪で計 理士を営む宮古島出身の下地玄信(1

8

9

4

-

1

9

8

4

)

らによって企画されたもの で,

1

1

1

4

日の式典の他,提灯行列,スポーツ大会,綱引きや腿龍船競争, 慰霊祭などの行事が

1

1

1

3

日からの

3

日聞にかけて開催され,宮古島は全 島を挙げての祝賀ムードに包まれた。 その詳細は, ~平良市史 J3) や各種郷土資料に加え,いくつかの先行研究や 3編の拙稿でも論じているのでぺここでは一連の史実の概略を提示するに とどめる。エドゥアルト・ヘルンスハイム (EduardHernsheim,

1

8

4

7

-1

9

1

7

)

を船長とするドイツのスクーナー,ロベルトソン号(乗組員

1

0

名, うち中国人

2

名を含む)は,

1

8

7

6

7

月に福州からアデレード、へ向けて航 海中,暴風雨に遭って黄海上で漂流する。ドイツ人2名が溺死し,船は宮古 島南西部の宮国沖に座礁したが,残る乗組員8名は同年7月

1

2

日に宮古島 民によって救助され,

3

7

日間の滞在の後に官船を与えられて

8

1

7

日に宮 古島を出航した。ヘルンスハイム自身はその後も南太平洋で交易に従事し, しばらくドイツには帰国しなかったものの,宮古島民による救助や保護につ いて著書を出版するなどして,本国に道難救助の経緯を知らせた。これを受 けてドイツ政府は,皇帝ヴィルヘルムl世の名で記念碑を贈ることを決定し, フォン・ライヒェ少佐 (Von Reiche)を艦長とする砲艦チクロープ号 (Cyklop) を宮古島に派遣し,

1

8

7

6

3

2

2

日(皇帝ヴィルへルム

1

世の 誕生日)に石碑の除幕式を行った。 その後,島内ではこの記念碑への意識は薄れていったが,

1

9

3

0

年代に入 ると,主に内地の教育者・研究者らにより, ドイツ船救助の事績が宮古島民 の義挙としてクローズアップされた。遭難救助の経緯は,脚色され美談化さ れて語られるようになり,この話は

1

9

3

3

年に文部省が募集した「知らせた

(3)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年11月14日 43 い美しい話」で一等を獲得(1934年), 1937年から『尋常小学修身書』の教 材に採用 0941年の国民学校設置後も『初等科修身』の教材に採録)され た他, 1936年 11月には「博愛記念碑」建立60周年の記念祭が催されるに 至った(なおこの直後の 11月 25日には日独防共協定が締結されており,記 念祭はこの前夜祭の性格も有することになった)。またこの記念祭において は,新たにドイツ船の遭難現場近くに,近衛文麿揮事による「猫逸商船遭難 之地」碑も建てられ,除幕式も挙行された。ちなみに,こんにちでも「博愛 記念碑

JI

濁逸商船遭難之地」碑のいずれも宮古島内に残っており,前者は 沖縄県の史跡,後者は宮古島市の史跡に指定されている。 次に,翻訳を行った原典資料について簡単に説明したL、。本資料は,駐日 ドイツ大使館宛ての報告書の写しであり, トラウツの死後ドイツのボン大学 に保管されてきた「トラウツ・コレクション」と呼ばれる資料群に収められ ているものの一つである。同コレクションは,長らくその存在が知られなが らも体系立った調査・分析が十分に行われてこなかったが, 2011年に東京 大学情報学環の馬場章教授の研究グループが本格的な調査に着手し,特に映 像や写真などの資料を中心に現在もその全容解明が進められている他,ボン 大学でも同コレクションを用いた研究プロジェクトが計画されているの。 このように, トラウツ・コレクションに関する研究は近年盛んになりつつ あるものの,これまでのところ,研究の重点は,同コレクションの来歴に関 する調査やコレクションそのものの資料的価値の分析,あるいは映像・写真 資料へのメディア史的なアプローチに置かれており,個別の資料の中身を活 用した研究には及んでいないと言える。 だが,同コレクションの一部を成す沖縄関係資料の中には, 1876年の 「博愛記念碑」設置をめぐる日独の外交文書, 1936年の沖縄出張時にトラウ ツが用意した講演原稿,宿泊・飲食代・書籍代等の領収書,沖縄関係の文化 人や関西の沖縄関係者らと交わした書簡,沖縄の青少年がドイツの若者に宛 てて書きトラウツに託した絵葉書,さらに 1936年の記念祭の様子を収めた

(4)

4

4

明治大学教養論集通巻

5

0

9

(

2

0

1

5

9

)

記録映像も含まれており,当時の沖縄の様子を知る上でも,沖縄とドイツの 交流史を知る上でも示唆的である。よって今後は,沖縄研究者と協力しつつ, これらの資料を具体的に読み解いていく作業も求められるし,それにより文 化交流史研究や郷土史研究に新たな知見をもたらすことも期待できるだろう。 そこで, トラウツ・コレクションを活用した研究の端緒として, 2011年 8 月にボン大学で閲覧・撮影したトラウツの報告書を日本語訳し,以下に掲載 する九トラウツの宮古島訪問の行程を確認し,また彼が沖縄で受けた印象 や記念祭に対する姿勢を知る手掛かりとなれば幸いである。 翻訳に際しては,本資料を沖縄研究や宮古郷土史研究, 日独交流史研究等 にも活用できるよう,本文中に記載の事項や人名に関し,脚注を付してでき るだけ情報を補うよう努めたものの,漢字表記がわからなかった人名につい てはカタカナで表記した。記述内容に関する詳細な調査が不十分であるため, 研究者諸氏には適宜,訂正や補足,関連情報の提供を願う次第である。

1

9

3

6

年当時の沖縄の各種組織や役職の名称,また人名の表記については, ~平良 市史』や「トラウツ・コレクション」所収の各種資料等を参考にした。訳文 は,なるべく本文に忠実な逐語訳となるよう心がけたものの, 日独両言語聞 の構造の違いによりそれが困難な場合もあり,その際は必要に応じ構文のIJ

I

I

i

序を換えたり,文を区切ったりするなどして, 日本語の訳文としての読みや すさを心がけた。また報告書という性質上,名詞構文(=動調がない文)が 多く見られたが,必要に応じて動詞等を補った。 なお報告書は,ナチス政権下(1

9

3

3

年一

1

9

4

5

年)の

1

9

3

6

年に書かれたも のであり,一部にドイツ民族礼賛的な記述や用語の使用も見られるが,報告 書が大使館宛て(ひいてはドイツ外務省宛て)のものであるため, トラウツ が先方の意向を付度した表現をしている可能性も排除できず,従ってその記 述を彼自身の心'情の発露とは必ずしも捉え切れない可能性があることにも留 意されたL。、

(5)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年11月14日 45 凡例: ・文中の()は原文中の括弧を指し,

C

)

は訳者が必要に応じ語句を補っ たり,説明や解説を加えたりしたものである。例えば,日付の後の曜日 について,原文中で記載がある場合は()で示し,原文にない場合に は訳者が C)を用いて補った。 -原文中でダーシ(一〉を用いて挿入句を補っている箇所は,訳文では二 重ダーシ(-)を用いて同様のスタイルを取った。 -原文中に脚注はなく,訳文中の脚注は全て訳者が挿入したものである。 (以下翻訳) ドイツ大使館発1936年10月 14白書簡 0-3723番)に対する報告書: 「宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立 0876年)60周年記念祭, 1936年 11月 14

帰着の2日後に書かれた以下の事実報告は,概要と全体的な印象を記した ものにすぎないことを予め述べておく。

1

)

関西における準備

10月 31日(土): 朝食後に大阪で事前の協議を行う。参加者は以下の通り:C大阪・神戸ド イツ〕総領事館よりシュマルツ CSchmalz) 副領事,大阪独日協会より佐 多教授と有津教授,稲垣教授,下地氏,員柴田氏,我喜屋氏,豊川氏,カキ ヤ氏,ハナキ氏(全て沖縄県出身者),総領事館より虞江通訳, トラウツ夫 人,私ならびに一時的に2人の報道関係者九

(6)

4

6

明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻

5

0

9

(

2

0

1

5

9

)

11月 6日〔金

J:

京都にて,旅行の準備をしている下地氏との懇談。下地氏はトラウツ夫人 を実行委員会の賓客として招待する旨を伝達,夫人はこれを謝して受諾。 11月 7日〔土

J:

船で〔那覇へ〕向かう日本側の人々が出発。ここに含まれるのは日本の外 務省代表の二見氏8)と員築田氏。なお員柴田氏は親切なことに, Cトラウツ ら〕航空機で赴く人々の荷物の携行を引き受けてくれた。

2

)

沖縄県の県斤所在地,那覇までの旅程

11月 9日(月): 京都 7時 16分発,大阪に 8時着。下地氏,稲垣氏,実行委員会のその他 のメンバー,報道関係者,多数の青年団の若者,沖縄県出身者らが, C日独 の

J

2

つの旗を手にして私を出迎えた。互いに心からの感謝の言葉を交わし, 〔旅行の〕無事を願ったのち,万歳の叫びのなかを列車は出発。夕方6時に 下関に到着し,山陽ホテルにて5人の日本の報道関係者の出迎えを受けた。 11月

1

0

日(火): 午前 7時 18分,下地氏と共に旅を続ける。日本の朝刊紙は, ドイツ大使 夫妻と顧問官シュプランガー CSprangerJ 夫妻を乗せたドイツの軍艦「グ ナイゼナウ CGneisenauJ

J

号が昨晩到来したことを報じている。午前9時

2

8

分,福岡の駅

C

=

博多駅〕にて,江崎教授(見虫学者,九州帝国大学

)

9

)

とその夫人(ドイツ人)による出迎えを受ける。江崎氏は

1

9

3

4

年に宮古島 を訪問し,その後ドイツ記念碑について私に情報提供をしてくれた人物であ る。

1

0

5

0

分に福岡の新空港を出発(機体はダグラス社の

1

0

D

型機で旅客は

(7)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 47 7名, うち3名は台湾に向かう客である)。航路は天草諸島の東部から海上 を通過し鹿児島の西へ向かうルートで,奄美大島と沖縄本島の北部を左方に 見ながら進み,那覇市の数キロ南西に位置する那覇の飛行場に14時07分に 着陸した。飛行中の最初の1時間半は飛行には最良の天候であったが,後半 は風が強く,時おりエアーポケットに入ることもあった。機体の安定性,機 内のサービス,暖房はいずれも素晴らしいものだった。 那覇の飛行場のロビーでは,既に船で出発していた実行委員会のメンバー, 沖縄県の代表者,県や那覇市の教育当局の代表者,宮古島の代表者を含む教 員組合の代表者,それに多数の報道陣が詰めかけていた。〔向け入れ側・ゲ スト側の〕双方から日本語による挨拶があり, ドイツ万歳, 日本万歳の掛け 声が上がった。日本とドイツの旗を持った数百人の児童や幼児が列をなして おり,我々が前に進むたびに深々とおじぎをしてL、く。滑走路近くの到着ロ ビーにおいて,プレスや警察,教員組合などの代表者を前にして, (私は〕 日本語による長めのスピーチを行い,飛行機での旅の印象と出迎えに対する 感謝を述べた。またトラウツ夫人による短いスピーチもあった。 サトウキビ畑やサツマイモ・米・ヒエなどの畑の中を

3

0

分ほど車で通り 抜けて移動する。ワラやイグサを葺いた農家は,たいてい風よけの垣根を伴っ ていて,時おり屋根の上に網が張られている。真ん中に島が一つある那覇港 にかかる二つの大きな橋を越えて,午後 4時頃に宿舎の楢原旅館叫に到着 した。

3

)

一回目の那覇滞在

:11

1

0

日午後

4

時から

1

1

1

2

日午後

4

3

0

分 ここからは常に秘密警察に付き添われての,車による移動であった。実行 委員会のメンバーや二見氏(外務省事務官)らとともに波之上神社日)rこ向 かう。この神社は沖縄県最大の神社で,灯篭の続く長い参道の突き当たりの

(8)

4

8

明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻

5

0

9

(

2

0

1

5

9

)

海辺(サンゴ礁の崖)の突端に立っている。禰宜による出迎えを受け,非常 に古い寺[=神社〕の鐘を見学し,絵葉書を進呈し12) 訪問者台帳に記帳。 但し外国人が写真を撮影することは禁止されていた。 神社のそばでは,大衆受けする愛国的な国防展示会が行われていた。入り 口の門には戦車の模造品が置かれ,その後ろには舞台と,電動でシーン(人 形)が切り替わるパノプテイコンがある。例えば東郷〔平八郎〕提督と対馬 海戦〔のシーン

J

,天照大神と天地開闘,沈みゆくドイツのスクーナー「ロ ベルトソン号」と荒れ狂う波に揺れる日本の救助船,沖縄県出身の戦死者の 写真や勲章や栄誉章,

1

9

0

4

年一

1

9

0

5

年[=日露戦争時〕のポート・アーサー での乃木〔希典〕大将,小さな手漕ぎ舟で大海に漕ぎ出してロシア艦隊を発 見し伝えた宮古島の「五人の英雄」ベ近代的な港湾都市を戦闘機が攻撃す る様子とこれを防衛する様子,守備の薄い街が戦闘機による攻撃を受ける恐 怖のシーン,満州で日本の婦人警官がピストルを使って盗賊から自分の家を 守る様子,日本の戦争の死者のための神社・線香のお供えなどなどである。 舞台上ではハラキリによって最期を迎える剣舞が上損されていた。 (波之上神社の〕そばにある仏教寺院叫には,アメリカ人たちによって建 てられた,宣教師B.J.ベッテルハイム(1

8

1

1

-

1

8

7

0

)

の記念碑がある。彼は 〔新約聖書の

J

~ヨハネによる福音書』を沖縄語に翻訳した人物であるヘ彼 の文献学的研究は,那覇おいては一一イギリス人B.H.チェンパレンの画期 的な研究と並び同一一ほぼあらゆる島にそれぞれ独自の方言が存在する琉球 語という,多方面への関連性と示唆に富んだ研究領域に対するドイツの学術 的関心を証明する,これまでで唯一のものとなっている。夜は宿舎において, 翌日以降のプログラムについての話し合いがあった。

1

1

1

1

日〔水

J:

午前中は,遠くまで見渡せる石造りの塔を備えた〔那覇の〕市役所と,高 台に位置する沖縄県庁への表敬訪問を行った。県庁は,那覇の町と港を経て

(9)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月 14日 49 王宮のあった首里のある北東部の台地まで,素晴らしい景色を楽しめる高台 に位置している。そのそばには,県によって建てられた,漆や陶器や織物な どの芸術工芸品のアトリエがある。 ま だ ん ばL さらに, 5つのアーチのある築250年の真玉橋17)を見学した。この橋は那 覇港に注ぐ川(=国場

)

I

I

J

に架かっていて,かつては島の南西部を結ぶ重要 な橋の一つであった。南北にのびる島(=沖縄本島〕の4分の 1(の距離〕 をカバーする,蒸気を用いた軽便鉄道が,橋のそばを通っている。 昼は旅館で軽食を取る。午後はかつて王家の都であった首里を訪問し,こ こでは,現在は侯爵の尚氏として東京に住む,かつての支配者(=尚泰王〕 の弟の出迎えを受けた。心のこもったお茶とケーキのもてなしを受ける。ド イツの航海者を救助したことに対し皇帝フリードリヒ 1世から宮古島の役人 に贈られた望遠鏡を見せてもらったが,それは文字の記された箱に入ってい て, (その箱は〕非の打ちどころのない保存状態にあり, 1874年にベルリン で製造された, とある18)0 (首里域内には〕 トラパーチンやサンゴでできた たくさんの石造りの建物がある。高い丘に建つ堂々とした城郭があり,その 向こうには(人工的に作られたとされる)谷もある。一部が中国風に,一部 が島独自の様式でできた建築ゆえに,城は芸術学的に高い評価を受けるに値 するものである。 建物の一つは博物館となっていて, 12年前から県の学務部に勤務する沖 縄出身の沖縄専門家・文部官僚の島袋〔源一郎〕氏が我々を案内してくれた。 古い衣服や帽子,生活用品,楽器,美術品,民俗学的に興味深い結び紐,貝 のコレクション,出土品などがここに集められていて,それにより,ヨーロッ パの研究においでほぼ忘れられているこの小さな島国(=沖縄〕の歴史・習 慣・言語・文学・芸術に関する実りある研究をするために必要な素材ともなっ ている。 夜6時に県と那覇市,教員組合による招待を受ける (38名)。ホスト側の 代表は県の経済部長の森下重格氏, (那覇市〕副市長の嘗間重剛則氏,それ

(10)

50 明治大学教養論集通巻509号 (2015・9) に県の学務部の部長,佐藤幸一氏である。森下氏による日本語での歓迎の挨 拶があり,これに対して私からも答礼を行ったが,その際には〔ドイツ〕船 の道難者の救助(1873年〕がもたらしたドイツとの古い結びつきが持つ文 化的な意義と, ドイツ側の感謝の念を特に強調した。これに続く講演者は (外務省の)二見氏で,この〔ドイツ船救助という〕出来事が文化的に重要 であるとの考え〔その後のスピーチにおいても彼は再びこの点に言及した) を簡単に述べた。最後に,宮古島出身者で大阪在住の下地氏がスピーチした が,ここで彼は,今回の記念祭をなぜ挙行するに至ったのか,その理由を3 つの点から説明した。その3点とは即ち,この記念祭の持つ国際的な重要性, 日本国内向けの国民的な意義,そして郷土愛的な価値であり,この3つが一 体となって, (記念祭開催の〕もとになった

6

0

年前の出来事が擁する文化的・ 民衆教育的な効果をもたらすものである〔と彼は述べた)0 (出席者同士の〕 自己紹介や個別の談笑などが食事の前後に行われた。古式に則って,琉球王 朝由来の煩歌がこの表敬訪問の食事の席に添えられた。優雅で独特で美しい 音色の舞踏やその他の歌がこれに続いた。 その後さらに,劇場において夜9時30分から 11時30分まで, (内地の〕 日本人が書いた芝居を鑑賞した。この作品は,民衆がまだ忘れてはいない 1879年の出来事,つまり〔琉球王朝〕最後の支配者の東京への旅立ちを扱っ たものである。 11月12日〔木): 午前中は,いつものように警官に付き添われながら〔那覇の〕市内を少し 歩き回った。書屈では,島袋〔源一郎〕氏の著作を何度も目にしたが,その 他には京都や東京で印刷された書籍もあった。漆,織物,米やサトウキビが 一一大雑把な説明が許されるのであれば,であるが一一〔沖縄の〕主要な産 物であるように見える。日本から輸入された,ポニーよりも大きくない小さ な種類の馬が,さらにほとんどみな素足で歩いている女性や子供が着ている,

(11)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 51 独特な特徴の模様の入った暗い色の着物もまた, 日本列島〔における通りの 風景〕とは決定的に異なる特色を,街の内外の通りの風景に与えている。食 事においては,豚肉を食べるのが主流で,魚は二番固または三番目の地位に 追いやられており,市場において肉屋が3分の 2を占めているのに対し,魚 はその 10分の lの面積すらも占めてはいな L、。 旅館において,昼の軽食を取り, (午後

J

4時過ぎに迫った宮古島への出 発(大阪商船の湖北丸)の準備をする。沖縄の島は湿度が高いが,健康に悪 いものではない。また風が吹くことが多く,よく雨が降る。つまり 9月の神 戸の気候に相当するものであった。非常に強い日光と湿気を伴った熱波が身 に応える。和装の日本人たちは旅館に入るとすぐさま,より軽い浴衣に着替 えていた。

4

)

宮古島で‘の滞在

:

1

1

1

3

1

0

時から

1

1

1

5

日午後

3

01月 13日(金):

J

安定した航海の後,朝9時噴,黒い雨雲に包まれた中に島が見えた。その ため船は嵐を避けるべく,航路を少しばかり後方に戻した。船はようやくサ ンゴ礁の岩層をぬって入港し,宮古島の中心地である平良の沖の停泊地に錨 を降ろした。赤い「友好の旗

J

, 日本の旗, ドイツの旗,それに布地ででき た紅白の飾りを掲げた大きめの舟が4,5隻こちらにやって来た。それらは 小型の漁船で,この時期はほとんど漁を休んでいたので,空いていたのだっ た。船から桟橋までの区間は競艇に利用された。岸辺では,島の名士たちゃ 何千人もの児童・生徒と青年団による出迎えを受け,彼らは独日の国旗を振 りながら万歳と叫んだ。さらに平良の町とその周辺の住民もみな来ており, 彼らは非常に日焼けした人々で,ほとんど誰もが親しげな表情をしており, 一部の人々は優美でまっすぐな体格で,背が小さいことはほとんどなく,整っ た顔つきをしていた。徒歩で15分間,何度も万歳を叫ぶ両側の人垣の聞を

(12)

52 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻509号 (2015・9) 通り抜けて,和風の新しい建物である可愛らしい町役場に向かう。多くの人々 の紹介があり,お茶とお菓子が供され,プラッシュの掛けられた大広間の机 で日本語による歓迎の挨拶が述べられ,私からも答礼を行った。パンフレッ トやプログラムが手渡され,さらに〔宮古の人々の〕紹介が続いた。警察の 先導のもと,徒歩で旅館副に向かった。 旅館で昼食をとる。午後1時30分に,町役場そばに設けられた観覧席へ と徒歩で向かう。役場の前の大きな広場においては,同じ格好をした数百人 の老若男女により,この地方の芝居や舞踊の上演が,銅擁や鐘などを激しく 打ち鳴らすなか,独特の音楽に合わせて行われた。ぎらぎらと照りつける太 陽のもとでのこれらの上演の後,平良第二小学校2川こおいて,生徒が書い たものや,木や竹や布や針金でできたあらゆる種類の制作物を見学した。そ の後は, (1873年の〕ロベルトソン号の乗組員の救助に関わる品々の展覧会 を見学した。〔展示品は〕舵ゃいくつかの船板,気圧計,それに皇帝ヴィル へルムl世により贈られた金時計,さらには300年前から島で書かれている という日誌22) (出版されていなLウの何巻かで,この日誌の中には,この島 の数多くのサンゴ礁において発生した全ての海難事故,それも主に中国の船 の事故が,記録されているのだと言う。 〔次に〕運動場に向かう。ここでは,とても健康そうに見える現地の人々 が, 日本〔本土〕のそれとは異なる格闘技を行っている。それから再び小学 校に戻った。ここでは教員組合が主催する,何時間にも及んだ講演会が行わ れた。宮古支庁長の明知氏による開会の辞に続いて,ここに集まった (600 人とされる)あらゆる年代から成る聴衆に対し,下地氏が私を紹介したが, その時には私がドイツ語を話すこと,またこの場に L、る一人の男性が私のた めに通訳することも説明したへしかし私は3つ自の文から既に日本語に切 り替わったので,このことは聴衆を大そう活気づけることになった。そして この中で私は,ヨーロッパの言語でこれまでに書かれてきた,琉球全般につ いての文献と,宮古島に特化した文献の紹介を続けたのであった。聴衆たち

(13)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 53 においては,ケンプファーやズィーボルト, リース,パジル・ホール,ブロー トン,ズィモンらの著作叫は既に「世界的に有名なもの」であるらしく, 何度も何度も拍手をして喜びを表現し,この拍手は, (私が〕沖縄県の方言 で心からの感謝を意味する表現をした時に最高潮に達した。 さらに日本人の講演者たちが,大きな拍手で迎えられてこれに続いた。と りわけ,なぜこの祝典を行うのかというテーマをここでも扱った,疲れを知 らぬ下地氏は,当然のことながら大きな成功を収めた。早晩には, 5千人か ら6千人の児童生徒と青年団による提灯行列が行われたため,これを機に, 丘陵地に位置する〔平良の〕町中をあちこちと,家の聞を通り抜けて観察し ながら移動することができた。旅館の前で歓呼の声が上がり, ドイツとドイ ツの友情,宮古島や日本を祝して万歳の声が何度も鳴り響いた。島袋教授が, 私が感謝の言葉を述べるために一同に静粛にするよう命じると,すぐさま 〔その場は〕静かになったが,私が謝辞を述べ,結びの一文を宮古島の方言 で話すと,耳を聾するばかりの歓喜が沸き起こった。

7

3

0

分に,旅館「月見亭」の大広間において,記念祭を主宰する団体 (協賛会)の招待を受けた70人のパーティーが行われた。協賛会の役員が賓 客に歓迎の挨拶を述べた。病気中の国会議員,盛島明長氏に代わって上里忠 勝氏がスピーチをした却。これに答えて私は,感謝の言葉と,明日に控えた 歴史的な記念祭の持つ文化的な意義を語った。また二見氏と下地氏も挨拶を した。その後, (列席した人々による〕多くの自己紹介が続いた。 11月14日〔土

J:

9時を回ってから一一ヘルメット〔防暑帽

J

,ハーケンクロイツの記章と 勲章の付いた黒のスーツで一一 0876年の〕古い記念碑の前の広場へと車で 移動する。およそ

1

2

歩分の正方形に匹敵する広さの記念碑の周囲には椅子 が並べられ,記念碑の後ろの席は,取材記者や, 1873年の救助船の漕手の うち存命者である漬川孫太郎氏 (82歳入陸上で救助に積極的に携わった崎

(14)

54 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻509号 (2015

9) 原松氏 (80歳)に用意されたものである2九記念碑の右手〔記念碑を正面 に見て右手〕には宮古支庁長の明知氏,宮古支庁の式典会場係の奥那国善 三目)氏,その他の人々が座った。記念碑の南側[=正面〕には下地氏,二 見氏, トラウツ夫人と私が座った。記念碑の裏側の小高い広場では,平良や その周辺からやって来た宮古島の名士たちの夫人や多くの市民が式典に参加 していた。木〔の上〕や屋根までもが人で一杯だった。雲一つない空のもと, まさに熱帯性の激しい暑さに見舞われたため,親切なことに大きな傘を持っ た若い女性が二人のドイツ人〔トラウツ夫妻〕の後ろに配置された。日本の 国歌と「ドイツの歌」四)に合わせて厳かに国旗が掲揚されて始まった式典で は, 9時 30分から 12時頃まで,スピーチの読み上げが続いた。冒頭の明知 氏のスピーチと日本の国務大臣からのメッセージに続いて,私は事前に大使 館に文面を提出したスピーチをドイツ語で読み上げ, ドイツ大使館に代わり, 〔ドイツ〕帝国外務省と海軍総司令官,独日協会会長とベルリン日本研究所 評議会からの祝意を伝えた。〔その後〕下地氏が日本語の文面を読み上げた。 さらにその他のスピーチが長い間続き,美しく書かれたそれら日本語の原稿 が記念碑の前の机を覆った。 式典の最後を飾ったのは, 1873年の救助に携わった存命者と亡くなった 関係者の子孫に対する顕彰である。一人一人が,銀の記念硬貨と賞状を受け 取った。〔次いで〕書面や電報によって祝電を送った人々の名前が読み上げ られ,その中にはドイツ大使,大阪神戸ドイツ総領事, ドイツ人のグンデル ト教授とラミング教授ベそれに多数の日本人の名前があり,これをもって [1876年建立の〕記念碑の前での式典は 12時少し前に終了した。 記念碑前の広場から車に乗り,広々とした敷地に建つ平良第一小学校則 へと向かう。ここで大きなパーティーが聞かれ,約 300人が集まった。宮古 島地方の支庁長にして教員組合の会長でもある,倦むことを知らぬ明知氏が 再び日本語でスピーチを行l);これに私からの簡単な挨拶の言葉が続き,こ れに対して万歳の声が返ってきた。

(15)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年11月14日 55 I時を回ってから,車に乗って,馬や徒歩で往来する人々で賑わう街道を 8キロほど走り, (1873年のドイツの〕船の遭難現場に近い宮国にできた新 しい記念碑の広場へと移動する。この記念碑は,表面に近衛文麿による短い 碑文が,裏面には寄贈者の氏名が記されていて,その中には下地氏,東京の ドイツ大使館,それに〔京都〕 ドイツ研究所にも貢献した大阪の竹内高兵 衛3I)氏らの名前もあった。除幕式の後で,二人の神職が祝詞を捧げ,これ に続いて明知氏や,ここから最も近い下地村の村長などによる様々なスピー チがあった32)。 ドイツ語による私の挨拶は,これを日本語で再現するよう, 既に事前の段階で二見氏に依頼がなされていた。その後, (ドイツ船難破時 の〕遭難者のうち,遺体が漂着した死亡者に対する神事が執り行われた。し かしドイツ人の墓は, 日本側の漂着記録で言及されているにもかかわらず, 今日に至るまで再発見されていないのだと言う。〔新しL、〕記念碑の周りを 少し歩いて,ささやかな式典は締めくくられた。 その後,全員が,町役場の観客席の前で行われた催しへと向かった。それ らの催しは,ほぼ2時間に及んだ綱引きで締めくくられたが,これは耳を聾 するほどの〔大音響の〕太鼓と叫び声のもと,わらを編んで作られた約100 メートルの網を引くものであり,この綱の材料費だけで120円もかかったと L 、う。 暗くなってからようやく旅館に戻り,そこからさらに,平良町の町長であ る石原雅太郎副氏による,約 70人の招宴に向かった。石原町長は,その非 常に政治的なスピーチにおいて,独自聞の同盟関係が重要であること,また そこでは沖縄県が特別な役割を果たすのだと力説した。答礼の挨拶において 私は,全ての出席者,なかんずく宮古島と那覇の独日友好団体に対し,京都 ドイツ研究所やそこで開講されているドイツ語の授業にこれまで以上に深く 関わってほしいとお願いした。〔そして〕私は, これまでに見てきた音楽や 踊りやスポーツの分野での,実に独特な文化的な出し物に対する我々の喜び と感謝の気持ちを表明して挨拶を終えた。

(16)

56 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻509号 (2015・9) 11月 15日〔日

J:

午前中は,再び大きなスポーツ行事が,平良にある豪華な運動場で行われ た。この運動場は 二見氏が実に上手に言い表したところによれば一一植 生や雰囲気がローマ近郊のカンパーニャ地方を想起させるような環境にあり, ここでは 10キロ走や体操,女子生徒と青年団の男女による民族舞踊,徒競 走や歌の披露が行われた。最後に独日友好を祝して万歳の大轟音が鳴り響き, 私はこれに,同じく宮古郡に対する万歳の声で応えた。 宮古島全島から集まった7千人から8千人の若者がこの催しに参加し,県 の総務局から来た沖縄県知事の代理である清水谷叫氏がこれを観覧した。 〔日露戦争中の〕対馬海戦前にロシア艦隊を適切な時期に発見しこれを報 告することに成功した,宮古島の5人の漁師団)のうちの 4人と,亡くなっ た5人目の漁師の息子が,この競技会の最中に姿を見せ,彼らは茶菓のもて なしを受けた。 旅館で軽食を取り,出発の準備をする。蒸気船(湖南丸)は既に沖合の停 泊地に待機している。様々な鉢巻によって〔チームが〕区別された5つのク リ舟が,短いカヌーの権を使って競艇をしているのが,桟橋から見える(一 つのボートにつき 12人が乗船していた)。蒸気船に到着すると, (桟橋から 停泊地まではしけで〕一緒にこちらに渡ってきた教師の妻たちやその他の人々 一一役人や警察官らーーは,目に涙を浮かべて我々に別れを告げて,こう語っ た:このような民衆の祭りは, 10年あるいはそれ以上の間,久しく開催さ れていなかったし, (ドイツ船の漂着以来〕もはやドイツ人が宮古島に来る こともなかったし,ましてやドイツ人の女性が島に足を踏み入れたことは今 までに一度もなかった,と。 爽やかな順風のもと, 3て乏のはしけが陸へと戻って行った。夜の始まりが 早いので,一部に極度に疲労困題している乗船客を乗せた蒸気船の上には, 間もなく闇夜が訪れた。

(17)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 57

5

)

ニ度目の那覇滞在と復路

11月16日〔月

J:

午前10時に那覇に到着。那覇での行程の打ち合わせと, [今回の〕那覇滞 在中の二晩のうちの一晩に催される, [私がこれまで受けた〕実に多くの友 好的な対応に対するお返しとして私が催す招待の準備を行う。この日の午後 〔の予定〕は全て,首呈の街の訪問で埋まっている。まず旧王族の親戚i,こ 多くの亜熱帯・熱帯の植物を集めた彼の美しい植物園を見せてもらい,庭の 東屋で茶菓の招待を受けた。 その後,島袋教授が再度,古城〔首里城〕と,彼の手でそこに作られた博 物館を案内した。学問的にも,民俗学的にも地理学的にも,教育学的にも, 〔博物館を作った〕彼の

1

2

年間に及ぶ献身的な仕事は,どれだけ高く評価し ても過大評価になることはなL、。彼は,自らの故郷,伝承,言語,習慣,記 念碑に関する多数の書籍の著者であり, ヨーロッパの学術水準で見ても表彰 に値する人物である。彼は,大阪の稲垣氏と共に,ここ沖縄の地で一一まさ に新生ドイツという意味での一一郷土研究を盛り立て,伝説,歌謡,言い伝 え,踊り,習慣の分野において民族的な価値のあるものを救い, (日本語の) 出版物において発表してきたという栄誉を受けてしかるべきである。 午後 7時から,私は旅館「三杉楼」に二見氏,明知氏,員柴田氏,島袋氏, 県学務部長佐藤幸一氏,下地氏, [那覇〕市長代理及び数人の報道関係者な ど合計18人を小宴に招待した。始まりの挨拶において私は,我々に対する あらゆる好意に衷心からの感謝の意を表明しながら,古い文化と新しい大日 本の民族的結束の存在を裏付ける確たる証拠がこの数日間で我々に示された, と述べた。佐藤氏はこれに答えて, ドイツ側でも東京〔のドイツ大使館〕や その他の機関において準備に尽力してくれたことに対し,また〔ドイツ側か ら〕受けた資金援助に対し,そして遥かに海を渡ってきたドイツ側の賓客[=

(18)

58 明 治 大 学 教 養 論 集 通 巻509号 (20日・9) トラウツ夫妻〕が個人的に熱心に関与したことに対し,暖かい感謝の言葉を 述べた。島袋教授は,この地方の昔からの調理法により上等な豚肉をふんだ んに使用してできた,歴史ある料理だけで構成された夕食の解説を行った。 方言も交えてユーモラスになされたその解説・説明は,招待客の多くにとっ ても初めて聞くものであった。食事の後で素晴らしい踊り手たちにより披露 された踊りの,曲目を選択して解説する際に,彼が実に優れた専門家である ことが示された。歌舞音曲が一旦止んだ時に,彼は自ら三線を手に取り演奏 者の代わりになることをためらわなかったのである。この夕食の席が成功し たのは,ひとえに彼によるところが大きL。、 11月17日〔火

J:

島袋氏と一緒に,波之上神社の北の海辺にある, ヨーロッパ人墓地闘に 赴く。つい最近になって築かれた波除けの堤防のそばに, 1896年から 1908 年に〔この地で〕亡くなった2人の英国人と 11人のアメリカ人, 2人のフ ランス人の墓があり,一部に保存状態のよくないものもある。 1908年以降 は,この地の学校で活動するヨーロッパ人はいなくなったようである。 その後,尚家の霊廟がある,ひっそりとたたずむ古寺である崇元寺を訪問。 さらに県立図書館を訪れたが,その建物は県庁のそばの風通しの良い高台に 位置している。 昼食は,真柴田氏の義父で那覇市の幹部職員の安慶名37)氏の招待による もので,数えきれないほど多くの琉球料理のコースを,すばらしい庭園のあ る彼の大邸宅で味わった。食事に続いて,全ての参加者が,黄絹でできた6 枚の扉風に,今回の〔宮古島での〕記念祭と日独友好についての記念の言葉 をドイツ語と日本語で書き記した。第一級の芸術家によって演じられた音楽 と踊りが, 20人の招待者によるこの家庭的な祝宴に花を添えた。 夜には,教員組合が催しを聞いて私を招待し, 600人以上の聴衆が集まっ た。県の学務部長の開会の辞に続き,私は日本語で講演をして,私が〔沖縄

(19)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 59 で〕抱いた印象について語った。講演は,日本人とドイツ人の特性の違いに 関する一般的な考察から始まり,最後は, (沖縄の〕見事な景観と文化的業 績から感じ取ることができるもてなしの心と, (沖縄の人々により〕我々に 示された親切な態度に対する心からの感謝の言葉で結ぼれた。これに続いて 二見氏は,独日の文化的な結びつき,それを担う機関とその仕事,教授や大 学生の交流について解説した。締めくくりは,下地氏による長い講演で,そ れは部分的に方言でなされ,ユーモラスなものであった。彼は,あらゆる分 野において偉大で,平和で,進歩的で,豊かな新日本において,沖縄の若者 がドイツを模範として労樹にひたむきに励み,身を捧げて取り組むよう呼び かけfこ。 その後いくつかのドイツ映画が上演されて閉会となった。 11月18日〔水

J:

各所に別れの挨拶に出向き,午後 4時と決まった出航に備えて準備をする。 数えきれないほどの人々が那覇の桟橋に別れを告げに集まった。船が出航し た後も長い間,ハーケンクロイツの旗を手にした市の職員その他の人々が, 我々の船,大阪商船の台南丸に向けて,手を振っているのが見えた。 3200 トンの(1

8

9

7

年に〔イングランドの〕サンダーランドで造船された)この 蒸気船は,嵐の中, 70時間の帰路を順調に進み, (予定より

J

6時間遅れて 11月21日〔土〕午後 2時に神戸に到着した。 この旅行の印象は,全体としては素晴らしいもの, しばしば感動的なもの であった。一般民衆の態度は実に喜びに満ちていて,公的機関や民間人の心 遣いは非常に親切なものであった。出迎えと別れ〔に際しての印象〕はまさ に強烈なものであり,そのような経験を外国ですることを許されたドイツ人 は誰でも,我々の故郷〔ドイツ〕が異国の海辺で成した偉業(=ドイツ皇帝 が記念碑を贈ったこと〕がこのように讃えられたことに対し,誇らしい気持

(20)

60 明治大学教養論集通巻509号 (20日・9) ちを抱かずにはいられないだろう。多くの漂着が起こったこの島々において, ド イ ツ 以 外 の い か な る 国 も , 自 国 の 船 員 が 救 助 さ れ た こ と に 対 し , こ れ ほ ど 長 期 間 に わ た り 影 響 を 及 ぼ す よ う な 仕 方 で 感 謝 の 気 持 ち を 表 現 し た こ と は な い , と い う 点 が 日 本 側 か ら 言 及 さ れ た こ と が あ っ た 。 皇 帝 ヴ ィ ル へ ル ムl世 と ビ ス マ ル ク 宰 相 , 当 時 の 〔 駐 日 〕 弁 理 公 使 ア イ デ ン デ ッ ヒ ャ 一 団 ) 閣 下 が 宮古島に建立した記念碑がなければ,かの地で-この印象深い(日本側によっ て 巧 み に 民 衆 教 育 に 利 用 さ れ た ) 祝 典 を 開 催 す る の は 不 可 能 で あ っ た ば か り か , 今 日 の 独 日 の 文 化 政 策 が60年 間 の 伝 統 を 回 顧 す る よ う な こ と も な か っ たであろう。 京都にて, 1936年 11月24日〔火〕却〉 F.M.トラウツ博士 {注》 1) トラウツは南ドイツのカールスルーエ (Karlsruhe) の出身。日露戦争で日本 が勝利したことに感銘を受け, 1906年にベルリンの軍事大学校 (Kriegs akademi巴)入学とともに日本語の勉強を始める。第一次世界大戦に従軍して負 傷し, 1919年からは内務省に勤務。 1921年に日本の卒塔婆に関する博士論文で 博士号を取得,その後1926年までベルリン民族学博物館の学術補佐 (Wissen -schaftlicher Mitarbeiter) を務めた。 1926年に東海道に関する論文で教授資格 を取得し,その直後,ベルリンに新設された日本研究所の所長となる。 1930年 に来日したトラウツは,京都で松尾芭蕉や高野山根本大塔の研究に取り組み, 1934年から 1939年まで,自らが創設した京都ドイツ研究所の所長を務めたが, 帰国後は大学での職を辞して退職者として余生を過ごした。 WORM,Herbert: "Friedrich Maximilian Trautz (1877-1954). Eine Bib1iographie zu Leben und Werγ, Bochumer-]ahrbuch zur Ostasienjorschung, Nr.3 (1980), S.286 311. 2) 正式名称は「沖縄県宮古島ニ於ケル濁逸皇帝感謝記念碑建立六拾周年記念式典」。 なお宮古島は那覇から南西に約300キロ,石垣島から東北東に約 130キロの位置 にあり,現在は周辺の池間島,大神島,来間島,伊良部島,下地島と共に宮古島 市を構成している。なお1936年当時の自治体は平良町,下地村,城辺村と伊良 部村の4つ。

(21)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 61 3) 参考文献の(1)-(3)を参照。 4) 参考文献の (4)-(10)を参照。 5) 馬場氏の活動については http://chi.iii.u-tokyo.ac必j?page_id=4351 (2015 年6月 28日閲覧), またボン大学の動向については http://www.rekihaku. ac.jpjeducationJesearchjresearchjlistjjointj2010jsieboldjjpjrsjrs20140622 -0704.html を参照 (2015年 6月 28日閲覧)。 6) Iトラウツ・コレクション」の閲覧に際しては,ボン大学日本学・韓国研究専 攻のラインハルト・ツェルナー CReinhardZollner)教授,ハラルド・マイヤー (Harald Meyer) 教授,湯川史郎講師のお世話になった。この場を借りて感謝 申し上げる。 7) Ir平良市史』第 10巻資料編 9に所収の『琉球新報j] 1936年 11月16日付記事 によると, I佐多教授」は日独協会の佐多愛彦博士, I有津教授」はカシワの会 (この会の詳細は不明)理事長の有津潤博士である。また「稲垣教授」は大阪の 愛日小学校の校長(当時〉の稲垣圏三郎で,沖縄県立師範学校の教諭を務めてい た1917年一1922年に宮古島の「博愛記念碑」の存在を知り,これを全国に広め た人物である。「下地」は下地玄信, I員祭田」は大阪球陽新聞主筆の員柴田勝朗, 「我喜屋」は我喜屋宗信(所属等は不明),

I

豊}lIJは重量

)

1

1

忠進(所属等は不明) と推測される。「ハナキ」は日本側資料から「波名城」と推測されるが名は不明 で, Iカキヤ」については日本側資料に見当たらなL、。なお原典には「員柴田氏, カキヤ氏,豊川氏,カキヤ氏,ハナキ氏」とあり「カキヤ

J

の名が二度登場する ため,誤植による重複の可能性もある。また日本側資料には出席者に「我喜屋」 の記載が見られることから, トラウツ資料に登場する「カキヤ」のうち一人を訳 者が「我喜屋」と改めた。 8) 記念祭に参加した外務省文化事業第三課事務官の二見孝平を指す。 9) 江崎悌三(1899ー1957) は東京帝国大学理学部を卒業した 1923年に九州帝国大 学助教授となり.1924年一1928年にヨーロッパで昆虫学の研究に勤しんだ。動植 物研究全般に造詣が深く. Ir日本昆虫図鑑」などの監修にも携わったほか, ドイ ツ語にも堪能で,宮古島の「ドイツ皇帝博愛記念碑」に関する論文も執筆してい る。 10) Iトラウツ・コレクション」に収められた領収書によると,楢原旅館は那覇市 西本町1丁目 10番地にあり, トラウツは 11月10日一12日の 2泊と,帰路の 11 月16日一18日の計 4泊ここに投宿している。 11) 正式名称は「波上宮」で、琉球八社の一つ。遅くとも 14世紀末には設立されて いたとされる。古くから熊野権現を祭っていたが,琉球処分後の1890年に伊弊 舟尊(いざなみのみこと)を遷座し,官幣小社となった。加治順人:Ir沖縄の神 社Jl.ひるさ社,那覇 (2000年 10月). 20-21頁及び 87-90頁。 12) I絵葉書の進皇」は,文法的にはトラウツが波之上官に進呈したとも,神社側

(22)

62 明治大学教養論集通巻509号 (2015・9) がトラウツに進呈したとも解釈できるものの,前後の文脈から前者とする解釈を 取った。 13) いわゆる「久松五勇士」のこと。日露戦争中の1905年5月,宮古島久松の住 民が,最寄りの電信局のある約130キロ離れた石垣島まで小舟を漕いで渡海し, ロシアのバルチック艦隊の通過を報告したことを讃えて名付けられた。実際には, バルチック艦隊接近の第一報はこれより 1日早く軍令部に届いていたが,昭和に 入ってから事績の顕彰と美談化の過程で,日本郵船の貨客船「信濃丸」からの情 報が「久松五勇士」の報告より 1時間早く軍令部に届いていたと喧伝され.I遅 かりし1時間」を彊い文句に全国に広まった。 1935年には,稲垣圏三郎らが主 体となって,久松五勇士の顕彰式を行っている。 14) これは,琉球初の密教道場として1368年に関山した護国寺(高野山真言宗) を指すと恩われる。ベッテルハイムが滞在した場所とされ,現在も記念碑が立っ ている。 http://wl.nirai.ne.jpjnjmjindex.htmlを参照 (2015年6月28日閲覧)。 15) ベッテルハイム (BernardJean Bettelheim)はハンガリ一生まれのユタsヤ人。 後にキリスト教に改宗し,イギリスの琉球海軍伝道会 (LoochooNaval Mis -sion)宣教師として鎖国下の琉球に無断で入国.1846年から1854年まで,主に 護国寺を拠点に布教活動に従事した。 16) バジル・ホール・チェンバレン (Bas!iHall Chamberlain.1850-1935)はイ ギリスの日本学者,言語学者で,注24)で述べる探検家バシル・ホールの孫。 1873年に海軍兵学寮の教師として来日.1886年から 1890年までう東京帝国大学 で博言学(言語学)を講じ,その後も 19日年まで日本に滞在し日本研究に従事。 代表的な著書に「古事記』の英訳 (1883年)やThingsJapanese(r日本事物誌J1. 1890年〉の他,琉球語についての研究論文"Essayin Aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language“(1895年)があり, トラウツの報告書 中の「画期的な研究」もこの論文を指すと思われる。 17) 原文はHatam-Bashiだが,これに相当する橋がないため r5つのアーチ・交 通の要衝・軽便鉄道の近く」といったキーワードをもとに訳者が「真玉橋」に改 めた。 18) ドイツ語の構文上「非の打ちどころのない保存状態」にあるのは「望遠鏡」と も「箱」とも解釈できるもののイここでは r1874年に製造されたことがわかる」 という文脈上「文字の入った箱の保存状態がよい」と解釈した。 19) 那覇市のホームページによれば,嘗間重剛は1933年一1937年に那覇市の副市 長として,照屋宏,金城紀光の両市長を支え.1939年一1942年と第二次大戦後の 1946年の一時期,それに 1949年一1952年に那覇市長を務めている。 http:// www.city.naha.okinawa.jpjadmin/mayorjrekida.ihtmIを参照 (2015年6月 28日閲覧)。 20) トラウツが11月13日一15日に投宿したのは「日の丸旅館Jで,当時は平良港

(23)

宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 11月14日 63 に面していた滋水御獄の向かいに建っていたとされる。なお『平良市史』第10 巻資料編9に所収の『沖縄朝日新聞jJ 1936年 11月 11日記事によれば,県外か らの式典参加者には「日の丸旅館」が,沖縄本島など県内からの参加者には「更 生館J

r

常盤館J

r

新興館」が,宮古郡内からの参加者には「みのりやJ

r

金城玉 屋」が割り当てられたという。 21) 現在の宮古島市立北小学校。 22) 上地与人白川氏恵賛が 1770年に蔵元所蔵の諸記録をもとにまとめた記録で, その後も1897年まで書き継がれた『宮古島在番記』を指すものと思われる。『宮 古島在番記』については以下を参照。仲宗根将二

:

r

日本最古の石橋,池田征 (橋)J,~しまたていjJ,

N

r.25 (2003年 4月), 38-40頁。 23) トラウツ夫妻には,通訳として津田松苗(京都大学理学士)が同行していたた め,おそらくトラウツ夫妻がドイツ語で挨拶した際には基本的に津田が通訳した ものと,思われる。 24) ケンプファー (EngelbertKaempfer, 1651-1716) はオランダ商館付医師とし て鎖国下の日本を訪れた(1690年一1692年) ドイツ人で, ~日本誌』や『廻国奇 観』などの日本研究書を著し,当時のヨーロッパ人に日本を体系的に紹介する役 割を果たした。ズィーボルト (PhilippFranz von Siebold, 1796-1866) もまた オランダ商館付医師として幕末に来日(1823年 1829年)し,鳴滝塾を主宰して 蘭学者の育成にも尽力した日本学者で, ~ニッポンjJ ~日本植物誌』などの研究書 が有名である。リース (LudwigRiess, 1861-1928) は明治政府の招きでいわゆ る「お雇い外国人」として来日(1887年 1902年)した歴史学者で,東京帝国大 学で歴史学を講じ,実証主義的歴史学の基礎を日本にもたらした。パジル・ホー ル (BasilHall, 1788-1844) はイギリスの探検家で,注 16)で言及した日本学者 バジル・ホール・チェンバレンの祖父にあたる。 1816年にライラ号 (Lyra) 艦 長として琉球に来航。住民の生活や言語などを調査・研究し, 1818年にAc -count of a voyage of discoveηto theωest coast of Corea. and the Great Loo-Choo Island(~朝鮮西海岸及び大琉球島航海探検記jJ.いわゆる「朝鮮琉球航海記jJ) を刊行した。ブロートン (WilliamRobert Broughton. 1762-1821)はイギリス 海軍の軍人・航海者で.1793年からプロビデンス号 (Providence) の艦長とし て日本近海の測量を行っていたが.1797年に宮古島沖で座礁している。同号は 沈没したが,伴走船のスクーナーに乗り換えて宮古島に上陸,島民の援助を得て マカオに向け出航している。著書にA Voyage of Discovery to the North Pacific Ocean (~プロビデンス号北太平洋探検航海記jJ (1804年)がある。ズィモンは エドムント・ズィモン (EdmundM. H. Simon) と推測され .Riukiu. ein sρiegel fur A lty'apan (~琉球:古代日本の鏡jJ. 1914年)などの著作があるもの の,詳細は知られていない。 25) 盛島明長(1880-1941)は「宮古王」と呼ばれた医師,政治家。長崎の医学専

(24)

64 明治大学教養論集通巻509号 (2015・9) 門学校に学び1909年に医院を開業するが,その後政界に転出し 1917年に沖縄県 議会議員に当選。 1936年 2月には衆院選で初当選し,宮古初の国会議員となっ た。翌1937年の衆院選でも当選を果たすが,買収疑惑で有罪判決を受け (1938 年)議席を失った。製糖工場の誘致や宮古中学校〔現在の宮古高校)の創設など を通して離島苦の解消に尽力した。上皇忠進(1891-1946) は宮古島の医師,政 治家で, 1911年に新設された南満州医学堂(後の満州医科大学)に進学, 1918 年に宮古島で開業医となるが, 1927年に平良町議, 1933年には沖縄県議会議員 に当選。宮古郡振興期成会の副会長として会長の盛島明長を補佐した。 26) 原文では,それぞれ「ハマガワ・ジュウジロウJIサキヤマ・マツ」となって いるが, 日本側の資料に即して訳者が書き改めた。 27) ~平良市史』第 10 巻資料編 9 に所収の『琉球新報J 1936年 11月 14日紙面の 「博愛記念碑六十周年記念祭広告」によれば,奥那国善三は沖縄県の視学(役職 名)で,当時は宮古支庁に勤務していたとされる。 28) Iドイツの歌J (Deutschlandlied) はヨーゼフ・ハイドン (FranzJoseph Haydn, 1732-1809)作曲のメロディーに,アウグスト・ハインリヒ・ホフマン・ フォン・フアラースレーベン (AugustHeinrich Hβffmann von Fallers1eben, 1798-1874) が作詞(1841年)したもの。 ドイツの民衆が下からの国家統ーを目 指した 1848年の 3月革命期に自由主義者により称揚された。ワイマール時代の 1922年にドイツ国歌となり,ナチス政権下には 2番と 3番を排して 1番のみが 引き継がれたが,第二次世界大戦後の西ドイツでは, 1番と 2番の歌詞が覇権主 義的であるとの理由から, 3番のみが歌われることとなり,現在に至っている。 29) グンデルト (WilhelmGundert, 1880-1971)はドイツ人日本学者で作家ヘル マン・ヘッセ (HermannHesse, 1877-1962) の従兄弟にあたる。当初は宣教師 として 1910年に来日し,新潟県の村松(現在の五泉市)で暮らした後, 1915年 から 1920年まで旧制熊本高校で, 1922年から 1927まで旧制水戸高校でドイツ 語を教えた。 1920年から 2年間,ハンブルク大学で日本学者カール・フローレ ンツ(ドイツ語圏初の日本学正教授)に師事し,その後もドイツ語講義の傍ら, 能楽と神道の研究に取り組む。 1925年にハンブルク大学で博士号を取得, 1927 年に東京に設立された日独文花研究所の所長も務めた。その後, 1936年にハン ブルク大学の日本学教授となり, 1939年一1942年には同大学の総長を務めたが, 第二次世界大戦後は公職から追放された。ラミング (MartinRamming, 1899 -1988) はサンクトペテルブルク生まれのロシア人で,この地の大学で日本学を学 んだ後, 日本のロシア大使館などで勤務したが, 1929年にドイツ国籍を取得。 1930年に江戸時代にロシアに潔差した日本人に関する研究論文で博士号を取得。 同年, トラウツの日本行きによって空席となったベルリン日本研究所の所長を事 実上務め, 1934年に正式に同研究所の所長となり,終戦までこの職にあった。 https:jjwww.iaaw.hu-berlin.dejd巴jseminar-fuer-ostasien -studienj japanjim

(25)

-宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭, 1936年 II月14日 65 profiljmartin-rammingを参照 (2015年6月 28日閲覧)。 30) 現在の宮古島市立平良第一小学校。 31) 原文はTakeuchiNambei だが,

r

濁逸商船遭難之地」碑の裏面に該当する名 前がないため,最も近い氏名から訳者はMambeiの誤りと判断し,

r

竹内高兵衛」 に改めた。 32) 当時の宮国集落は下地村内にあったため,正確には「この地を管轄する下地村」 と表現すべきであるが,村役場のある下地集落からは4キロ以上離れているため, このような記述になったものと推測される。またこの記述が正しいとすれば,演 説をしたのは安良滅葱序村長となる。なおドイツ商船が救助された海岸はその後 1948年一2005年の問,上野村の村域にあり,この近くには 1996年にテーマパー ク「うえのドイツ文化村」が開設された。 2000年の九州・沖縄サミットの際に ドイツのシュレーダー (GerhardSchrδder, 1944一)首相(当時)も宮古島に来 島し,この文化村を訪問している。 33) 石原雅太郎(1881-1975) は宮古島の教育者,政治家。沖縄県立師範学校を卒 業後,小学校教師を経て小樽商業学校(現在の小樽商科大学)の職員として勤務。 その後再び小学校教員になるが, 1926年に沖縄県議会議員となり政界に進出し, 1932年 1939年と 1944年-1945年に平良町長, 1949年 1957年に平良市長を務 めた。 34)

r

平良市史』第10巻資料編 9に所収の『琉球新報.1 1936年 11月14白紙面の 「博愛記念碑六十周年記念祭広告」によれば,沖縄県総務部長の清水谷徹を指す と恩われる。 35) 注13)で解説した「久松五勇士」を指す。 36) 那覇市の泊港の北岸にある,いわゆる「泊外人墓地」のこと。 37) トラウツ・コレクションに収められた書簡から,那覇市久米の安慶名徳潤であ る考えられる(なお安慶名は翌1937年に宗家である富山に復姓している。これ を通知する 1937年 4月 25日の書簡によれば,彼は弁護士資格を持っている)。 安慶名から島袋源一郎宛ての 1936年 11月 16日付け書簡では, 11月 17日正午 12時にトラウツ一行を私邸に招待しており, トラウツの記述と一致している。 38) アイゼンデッヒャー (Karlvon Eisendecher, 1841-1934) はプロイセンの海 軍士官で,のちドイツ帝国の外交官。プロイセンが日本や清国との通商関係の樹 立を狙って1860年に派遣した「東アジア遠征

J

(または「オイレンブルク使節団

J

)

の一員として,既に1860年一1861年に日本を訪れている。その後,外交官とし て1875年からドイツの駐日弁理公使として, 1880年から 1882年まで駐日特命 全権公使として日本に赴任していた。 1876年の「博愛記念碑」の設立に関する 外交交渉にも, ドイツ側代表として参加している。 PANTZE,RPeter und SAALE,RSven:]apanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten.Karl von Eisendecher im ]apan der Meiji-Zeit, Iudicium, Munchen (2007).

(26)

66 明治大学教養論集通巻509号 (20日・9) 39) トラウツは11月21日に京都に帰着したと考えられるため,報告書の冒頭で予 め述べた「帰着の2日後」は11月23日に当たり.111月24日」という報告書 の日付と食い違うことになる。この点は,当時11月23日が新嘗祭の祝日で, ド イツ大使館も閉館していたと考えれば, トラウツが既に23日に書き上げていた 報告書を翌24日の大使館開館日に送付したと解釈でき,矛盾は解消される。 参考文献 (1) 平良市史編さん委員会(編): ~平良市史J. 第 4 巻資料編 2 (近代資料編). 平良市役所,平良 (1978年7月〉。 (2) 平良市史編さん委員会(編): ~平良市史 J. 第 8 巻資料編 6 (考古・人物・ 補遺).平良市教育委員会,平良(1988年3月)。 (3) 平良市史編さん委員会(編): ~平良市史J. 第 10 巻資料編 9 (戦前新聞集成一 下).平良市教育委員会,平良 (2005年9月〉。 (.4 ) 江崎悌三:

1

宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑

J

.

~南島J. 第三輯,台湾出 版文化,台北(1944年9月).1-73頁。 ( 5) ラインハルト・ツェルナー(内田賢太郎訳): 1ボン大学日本・韓国研究専攻 所蔵のトラウツ・コレクション

J

.

~日独研究 150 年の軌跡J. 雄松堂,東京 (2013年 10月).18ト183頁。 (6) ヨハネス・春水・ヴィルヘルム:1ボン大学日本文化研究所にあるトラウツ 資料の1936年11月の宮古島博愛記念碑記念式典に関する資料の報告

J

.

~世界 に拓く沖縄研究.第4回「沖縄研究国際シンポジウム」ヨーロッパ大会』 (2003年).118-132頁。 (7) KREINER. Joseph:Deutschland - Japαn. Historische Kontakte, Bouvier, Bonn (1984). (8) 辻朋季

:

1

宮古島「ドイツ皇帝博愛記念碑」を複眼的に捉え直す一一宮古島 郷土史, ドイツ植民地史の研究成果に立脚してJ.~明治大学農学部研究報告J. 第64巻第4号 (2015年3月).129-143頁。 (9) 辻朋季:1宮古島「博愛記念碑」をめぐる史実と言説一一(2 )記念碑の「再 発見」と「博愛美談」の誕生

J

.

Rhodus - Zeitschrift fur Germanistik.第24 号 (2008年 12月),99-122頁。 (10) 辻朋季:

1

宮古島「博愛記念碑」をめぐる史実と言説一一(1 )ドイツ商船遵 難事件と植民地主義

J

.

Rhodus - Zeitschrift fur Germanistik.第23号 (2007年 12月).39-57頁。 (つじ・ともき 農学部専任講師)

参照

関連したドキュメント

◆ 東京都 新型コロナウイルス感染症 支援情報ナビ. 新型コロナウイルス感染症の影響でお困りの企業や都民のみなさんが

仲人を先頭に婚家に向かう嫁入りの際に、村の入口や婚家の近くで嫁入り一行の通過

(文献資料との対比として,“非文献資 料”)は,膨大かつ多種多様である.これ

(志村) まず,最初の質問,出生率ですが,長い間,不妊治療などの影響がないところ では,大体 1000

厳密にいえば博物館法に定められた博物館ですらな

これらの先行研究はアイデアスケッチを実施 する際の思考について着目しており,アイデア

添付資料 4.1.1 使用済燃料貯蔵プールの水位低下と遮へい水位に関する評価について 添付資料 4.1.2 「水遮へい厚に対する貯蔵中の使用済燃料からの線量率」の算出について

添付資料 4.1.1 使用済燃料貯蔵プールの水位低下と遮へい水位に関する評価について 添付資料 4.1.2 「水遮へい厚に対する貯蔵中の使用済燃料からの線量率」の算出について