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Forum on Modern Education No フォーラム2 エイミー ガットマンの熟議民主主義的教育論の教育思想史的再読 報告論文 市民教育と妥協の精神 エイミー ガットマンの熟議民主主義的教育論の教育思想史的再読 Civic Education and The Spir

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 自由の主体たる諸個人が、他者の多様な意思を集約し、公正な社会を形成することはいかに して可能か。近代教育学批判にも通じる探究課題に対し、エイミー・ガットマンは1980年代に リベラリズムの立場から民主主義に基づく教育論を構築して応答しようとした。1990年代に は、熟議民主主義論と市民教育論の接合が試みられ、熟議への参加を通じた参加者の選好・意 思変容可能性に現代の市民教育のあり方と社会統合の実現の契機を見出していった。そうした ガットマンの民主主義的教育思想は、2000年代中葉以降、新たな展開を見せている。現実政治 と従前の原理論との接点を探るガットマンの政治的妥協論および大学論の検討を通じて、規範 主義的な熟議民主主義の実現への困難と展望を明らかにする。 〈フォーラム2 エイミー・ガットマンの熟議民主主義的教育論の教育思想史的再読 報告論文〉

市民教育と妥協の精神

― エイミー・ガットマンの熟議民主主義的教育論の教育思想史的再読 ―

Civic Education and The Spirit of Compromise:

Revaluation of Amy Gutmann’s Thought of Deliberative Democratic Education

平井悠介(Yusuke Hirai)

1.はじめに

1 − 1.問題の所在 本稿の目的は、政治哲学者エイミー・ガットマンの 2000年代中葉以降の教育思想的展開の意味を、政治 論および大学論との関係の中で明らかにすることで ある。 1980年代以降、英米圏のリベラル派の政治哲学 者は、価値多元化社会における社会統合、および社 会的平等を追究してきた。教育を通じた健全な民主 主義の確立によってそれらの達成を目指したリベラ ル派論者の知的営為は、1990年代の市民教育研究 の隆盛の気運を高めた。1980年代から民主主義と市 民教育を自らの思想形成の中心に位置づけ、それら の接合を試みたガットマンは、リベラル派の代表的 論者の一人である。多様性の尊重という観点から選 好集約型民主主義論を問い直し、熟議民主主義論 (deliberative democracy)を構築していった1990年代 のガットマン思想は、社会統合の実現のために多様 な声、とりわけマイノリティの声を社会的意思決定へ と反映させようとする課題意識の上に展開した。そ の展開は、熟議への参加が参加者の他者の声を聞こ うとする心性を醸成したり自己の選好・意思の変容 をもたらしたりするという、熟議が潜在的に備える市 民教育としての価値を、同時代の民主主義論に付与 する意義を有していた。 ただし、ガットマンの唱える熟議民主主義に基づ く市民教育論を実質化していくためには、市民教育 が抱える排除問題(1)等、乗り越えなければならない 課題も存在している[平井 2017:第Ⅱ部、第Ⅲ部]。 それどころか、ガットマンの2000年代までの知的営 為の意義は、分断化の進行する2010年代の社会現実 に直面して、疑われざるを得ない状況にある。こうし た状況に対して、本稿では、熟議民主主義的教育論 構築後の2000年代以降のガットマンがいかなる思想 的展開を迎えたのか、また規範理論をいかに具現化 しようとしているのかを明らかにすることを通して、 現代の文脈に即したガットマンの教育思想の再検討 を試みる。 検 討 対 象として 主として 着目するの が、デ ニス・トンプソンとの共著『妥協の精神』(The Spirit of Compromise, 2012)で 提 示され た 妥 協 (compromise)である。ガットマンは著作の中で、 政治の一部である選挙活動(campaign)と統治 (governance)の原理の違いを強調し、アメリカ民主 主義を支えてきた統治原理としての妥協の必要性と 困難性とを過去の政策事例の分析を通じて明らかに

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している。現実政治と原理論との接点を探る新たな 研究動向には、熟議民主主義の実現に向けてのガッ トマンの戦略が示されている。 しかし、注意を払わなければならないのは、2000 年代中葉以降のガットマンによる学術研究において、 熟議民主主義的教育が、1990年代から2000年代にか けての時期ほど積極的には論じられていないことで ある(2)。この政治思想と市民教育思想との乖離は何 を意味するのか。本稿では、この空隙をうめるために も、ペンシルバニア大学学長に就任した2004年以降 にガットマンが発信している大学観、および大学運 営についても検討していく。熟議民主主義的教育論 が大学改革構想、および大学運営にいかに反映され、 また変質しているのか。こうした考察を経たうえで、 あらためて1990年代の論を再読し、熟議民主主義的 教育論の再評価を試みる。 1 − 2.本稿の教育思想史学への位置づけ ところで、熟議民主主義論と政治的妥協論の関連 について検討する本稿は、教育思想史学に対してい かなる意義を有しているのか。教育思想史学会では、 民主主義と教育、政治と教育をテーマとしたフォー ラムが継続的に開催されてきた。村松灯を報告者と した2016年の「H. アレントにおける「精神の生活」 の政治性」、小玉重夫を報告者とした2017年の「ポス トトゥルースの時代における教育と政治」と同じく、 本フォーラム報告論文は現代政治論と教育論の関連 を探るものである。しかし、本稿はそれらの研究とは 政治理解という点で立場を異ならせている。 村松報告では、ハンナ・アレントの思想前期の公 共性論と、後期思想の集大成『精神の生活』におけ る思考論、意志論、判断論との関係を問い、現れの 空間としての「世界」での人間の「始まり」(出生) と「始める」こと(第二の誕生)の断絶(二重性)が <他者とともにある>という契機によって架橋でき ることが明らかにされた[村松 2017]。これは、複数 性を特徴とした世界論・公共性論に対して人間の主 体性、および他者の存在の必要性とを価値づける試 みであった。また、小玉報告では、ポストトゥルース 時代において「市民社会に深く根を下ろす反知性主 義と向き合い、そこのなかに、来たるべき民主主義 の可能性を見いだしていく」ことの重要性が、ジャッ ク・デリダの亡霊論に依拠して、提言された[小玉 2018: 32-36]。そこでは、理想型としての民主主義が すでに到来し完成しているとする目的論的な思考が 批判され、「一般的時間性、あるいは自己同一的であ り自分自身の同時間的な数々の現在の連続的連鎖か らなる歴史的時間性」への信頼から決別する重要性 が説かれた。その上で、未来の予見不可能性、予測 不可能な偶然性を政治の本質とみなし、教育はそう した政治性を引き受けていく必要性がある、とされ ていった。 村松報告に対する司会コメントが端的に示してい るように、村松は「今日の多くのシティズンシップ 教育論に見られるような、最終的には他者との弁証 法的な協働に帰着する調和的な政治理解を疑問に付 し、非政治的なものや不在の他者に対する逆説的な 緊張関係を含んで成立する政治理解を示そうと試み てき」ている[野平 2017:13]。それは、小玉の論に も共通して見られる教育思想史学のポストコロニア ルな視点、つまり教育の文脈で了解不可能な他者と 向き合うために主体の明証性を問う視点に根ざした ものである[小玉 2010]と見なすことができる。 選好集約型民主主義が前提とする近代合理性を 問い直し、市民教育の再興を求めたガットマンの熟 議民主主義的教育論の再評価を試みる本稿は、ポス トコロニアルな視点を経由しているという点で、先行 のフォーラム報告との接点をもつ。しかし、そうした 視点が現実との対峙の中で果たして実効性を持ちう るのかを問う本稿は、村松、小玉の論では必ずしも 十分には検討されていない課題に挑むという意味に おいて、異なる立場に立っている。両者は、世界で あれ、民主主義であれ、人々は不確定性を内に含ん で集合体を形成している、という前提のもと、その不 確定性こそを現代社会の特徴として、また市民教育 の契機として、積極的に価値づけようとする議論を 展開している。しかし、現代社会において問わなけれ ばならないのは、人々が集合体を形成し社会的統合 を達成するということが非常に困難である現実が立 ち現れていることであり、そのなかで社会的統合を いかに達成できるのか、ということである。本稿のね らいは、民主主義の現実に対峙したとき、妥協による 一定の合意を志向することになったガットマンの思 想の展開をどのように理解すればよいのかを考察し、 ガットマンの熟議民主主義的教育思想が現在の社会 現実に対して有する可能性と限界を明らかにするこ

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とにある。

2.熟議民主主義と妥協の精神

2 − 1.『妥協の精神』の主題 ガットマンの2000年代中葉以降の学術研究成果と して2012年に刊行された共著『妥協の精神』では、 政治的妥協論が新たに示された。この著作でなぜ妥 協が検討されなければならなかったのか。 ガットマンらは、民主主義を統治する(governing) にあたって政治的妥協は避けられないにもかかわら ず、現代のアメリカ合衆国の政治には妥協の精神 が欠けていることを問題視する。妥協の必要性が 間違いなくあると考えられる時でさえもそれへの抵 抗が生じ、妥協の成立が困難になっているというの である。ガットマンらによれば、この妥協への抵抗 は、妥協しない思考態度(uncompromising mindset) に基づいており、その要因は永続的な選挙活動 (permanent campaign)を特徴とする時代状況に存し ている。永続的な選挙活動が常態化している状況下 で、望ましい統治のために必要な妥協とはどのような ものであるのか、また、それを可能にするためにはい かなる変革が必要であるかを問うことが求められる というのである[Gutmann & Thompson 2012: 1-5]。

望ましい政治的妥協とはどのようなものかを明ら かにするためにガットマンらが比較検討するのが、 1986年のレーガン政権下での税制改革と、オバマ政 権下での2010年の医療保険制度改革(「患者保護並 びに医療費負担適正化法」)の立法過程であった。 前者の税制改革法成立までには、次のような経緯 があった[ibid.: 5-7]。すなわち、1984年の一般教書 演説では税制改革の問題の検討のみを求めたレーガ ン大統領は当初、抜本的な税制改革に対しては消極 的な姿勢を示していた。しかし、その後、財務省内で 専門家によって秘密裏に進められた法案作成作業を 経て提出された法案は、レーガン大統領、民主党下 院歳入委員会委員長の支持を得、後に上院財政委員 会共和党委員長と民主党上院議員の助けを借りて、 超党派の妥協案に変わっていった。最終的に、税制 改革法は税制改革法の支持者すべてが望む形となっ た。こうした帰結にいたるまでには、支持者側が、初 期の段階で、包括的な税制改革支持という自らの主 義主張に真っ向から対立する譲歩も行っていた。そ の譲歩とは、民主党議員が、特別利益と富裕層に利 する抜け道をあきらめる代わりに、彼らが強く後押し ていた累進課税以上の最高税率の引き下げにも同意 しなければならなかったということである。同様に、 共和党議員も譲歩しており、限界税率の引き下げに 同意する代わりに、毎年約300億ドルの税額控除を受 け入れなければならなかった。 もう一方の医療保険制度改革法は、成立までに次 のような経緯をたどっている[ibid.: 7-9]。すなわち、 2008年の民主党予備選挙で、他の大統領選候補者に 遅れて医療福祉計画を提示したオバマは、大統領就 任後、医療保険制度改革を優先課題としていく。そ の際オバマは、レーガンが税制改革において採用し た戦術と本質的には同じ、法案の調整交渉の大部分 を議会のリーダーに委ねる戦術を採っていく。ただ、 過去と異なっていたのは、1990年代以降、共和党議 員が国会議員少数派という形で頻繁に結束し、結束 の度合いを強めていたために、医療保険制度改革審 議時に超党派化の可能性が大幅に低下していたとい うことである。2009年8月に改革に関する超党派の合 意は決裂し、その後、法案反対者が、法案と対立す る提案をもって、自らの立場に固執する議論を展開 したことで、超党派的な妥協の可能性が断たれるこ とになる。これを受け、改革派は民主党党内での妥 協を模索せざるを得なくなり、法案下院案の可決、上 院案の可決、および両院協議会による一本化調整と その両院における可決、法案成立までには、法案の 分割と可決のための特殊な立法手続き等、特別な措 置が講じられなければならなかった。 アメリカ政治システムの主要問題に関わる包括的 改革であった二つの事例では、双方、法案成立まで には様々な妥協が実際になされている。このことは、 民主主義的統治には妥協が必要であることを示して いる。ただ、ガットマンらが強調していくのは、二つ の事例での妥協の本質が異なっていること、および、 妥協のあり方として前者は高く評価でき、後者が評 価できないということである。後者の法案審議過程 において、超党派的な議論の可能性が模索されなが らも適わず、最終的には党内での議論・調整を中心 に妥協案が練られたという形は望ましいものではな いというのである。 現在のアメリカ政治では、政治的分裂を理由とし て妥協が困難な状況となっている。ガットマンらは、 その原因を、選挙への過剰な意識によって政治家が

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妥協しない思考態度(3)を保持する事態に陥っている ことに見出していく[ibid.: 23]。こうした状況を改善 するために、統治の阻害要因である妥協しない思考 態度を優越する、妥協を促進する原理としての妥協 する思考態度(compromising mindset)が探究され ることになる。 2 − 2.妥協への抵抗―妥協しない思考態度と 選挙 妥協への抵抗が生じているのは、その根底に 妥協しない思考態度がある。そうした思考態度 は、ガットマンらによれば、主義主張に基づいた固 執(principled tenacity)、および相互不信(mutual mistrust)を特徴とする。これらを軽減できれば、妥 協への道が開かれる、ということになる。 ここで留意すべきは、ガットマンらが、妥協しない 思考態度を全否定しているわけではない、ということ である。現実の政治ではそうした思考態度も一定程 度認められる必要があると考えられている。例えば、 主義主張に基づいた固執は、政治家が自らの政治的 立場を貫く姿勢として否定されるべきものではない。 政治家が自らの根幹に保持する核となる価値を侵害 するような妥協は拒絶されてもよい。つまり、「妥協案 に反対する立場を取ることそれ自体は、唯一の主義 主張に基づいた立場であるとみなされうる」[ibid.: 69-70]。 ガットマンらが望ましくない固執とみなすのは、あ くまでも現状の改善に結びつかないような固執であ る。つまり、「仮にすべての政治家が、自らの主義 主張の何らかを侵害する妥協をすべて拒否するなら ば、現状の改善にとって妥協が必要とされる場合で さえも、特定の妥協ですら受容され得ないことにな る」[ibid.: 72]という事態を招くような、主義主張に 基づいた固執が望ましいものではないのである(4) 妥協しない思考態度の第二の特徴としての相互不 信についても、現状の改善という観点をもってその 価値が判断される。妥協しない思考態度を有する政 治家は、「反対者が主に、自分たちを倒そうとする欲 求と彼らがよって立つ主義主張とに動機づけられて いる、とする前提に基づいて話したり、行動したりす る」[ibid.: 85]。これらの態度は、対立候補と争う選 挙では、自然に見られることである。むしろ、選挙に おいては原理と原理をつき合わせていくことは高く 価値づけられる。 ガットマンらが妥協にかかわって問題とするのは、 相手の動機を裏側から捉えようとする「動機をめぐ るシニシズム」が広がり、妥協が容易に抵抗と非難に 変わっていくという事態である。こうしたシニシズム の広がりと妥協の抵抗・非難への転化は、医療保険 制度改革の審議時に見られたという。民主党/共和 党両議員が立法化段階においても不信のなかで選挙 モードを継続させたことで、共和党穏健派が妥協し 民主党と合流していたとすれば、共和党議員の「理 想的な着地点」に近づく可能性もあった最終法案の 可能性を消滅させる結果となった、というのである。 それは、「超党派の妥協案が疑問視されていないよう であった初期の段階でも、両者は基本的な動機を互 いに批判して相互の不信を強めていた」ことにも起 因していた、という(5)[ibid.: 86]。 こうしたガットマンらの一連の議論から導かれる のは、妥協しない思考態度の評価は政治的帰結を規 準として変わる、あくまでも程度の問題であるという ことである。ただ、ガットマンらは議論をそこにとど めず、望ましい政治的帰結に向けて妥協しない思考 態度の縮小を目指す改善案を探究し、提唱していく。 すなわち、政治家は「動機をめぐる不信を脇に置き、 協力しようとする意志に反対する意志を変えること ができなければならない」として政治家の心理的変 化の必要性を唱くとともに、選挙活動の優位性を抑 制するように設計された民主主義制度への変革を求 めていくことになる[ibid.: 90]。 2 − 3.妥協の探究―統治における思慮深さと 相互尊重 妥協しない思考態度は選挙活動の最中では価値 づけられるとしても、統治の過程においては望ましい ものとは判断されない。妥協しない思考態度の縮小 策を提示するガットマンらの本書での主張の力点は、 統治の過程で望まれる妥協する思考態度の伸張に置 かれていく。 ガットマンらによれば、政治的妥協にとって決定的 に重要な特徴は、相互犠牲(mutual sacrifice)と意 志に根ざした反対(willful opposition)であるが、そ れら二つをより建設的な妥協の方向へ向けていくの が、妥協する思考態度である[ibid.: 100]。そうした 方向づけが可能となるのは、妥協する思考態度が主

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義主張に基づく思慮深さ (principled prudence)、お よび相互尊重(mutual respect)という二つの原理を 備えているからである、とされる。前者は、「相互犠 牲を現状改善に向けて主義主張を調整する機会とみ な」すための原理であり、後者は、「意志に根ざした 反対が、動機に関する不信やシニシズムの言い訳で はなく、意見の一致しない人々の間のさらなる理解と 調整とを促進する源泉とみなす」ための原理である [ibid.]。これら二つの原理が政治を建設的方向へ導 くとする議論は、熟議民主主義の市民教育的側面を 主張した2000年代初頭までの議論をモチーフとして いる。 第一の原理である主義主張に基づく思慮深さは、 「民主主義において重要事項を成し遂げるためには 通常は妥協が必要である、というプラグマティックな 認識」を出発点とするものであり、その根底には「政 治において妥協に失敗するということは現状を特権 化してしまうことになる」という道徳的認識が存在し ている[ibid.: 101]。つまり、妥協する思考態度がよ り大きな正義を促進する機会を開いていく、という認 識に基づけば、当事者の妥協への抵抗は妥協の方向 へ転換させられるというのである。 もう一つの原理である相互尊重は、政治場面で意 思に基づく強い反対に直面した際、その相手に対し て誠意を持って交渉するよう求め、また秘めたる動 機を持っているのではないかと疑うことを制限する よう求めていく、とされる。それは「他の政治家を統 治の企てにおいて共に働くことができる同僚である とみなし、またより一般的には共通の憲法の下で拘 束されている市民であるとみなす政治プロセスにつ づく方向性」を示していく[ibid.: 109]。政治的敵対 者であっても互いを尊重していれば、自分たちはバ ランスの取れた特定の妥協を支持することに共に加 わるであろうという信念に基づいて議論したり交渉 したりすることができる。仮にその妥協が自分自身が 考える法を制定するものではなかったり、完全なもの からはほど遠かったりしても、そうできるということ が想定されているのである[ibid.]。 妥協する思考態度についての以上の主張は、2000 年代の熟議民主主義的市民教育論に通じるものであ ると同時に、非常に理想主義的/規範主義的なもの である。ガットマンらがこうした規範を示していくの は、アメリカの政治状況の改善のために、選挙活動 の原理に対し統治過程の原理を優位に位置づけなけ ればならない、という危機感の現れでもある。選挙活 動は競争的で、ゼロサムの活動である。相手を倒す ことは正当な動機であり、相互に尊重する必要はな い。しかし、統治においては別である。選挙活動の 態度が立法過程に広く浸透すればするほど、相互尊 重の範囲が狭くなる。さらに、不確実性あふれる政 治において、ゼロサムの論理では必ずしも望ましい 結論を導けない危うさがある。ここに、ガットマンら が選挙の原理と統治政治の原理とを区別すべきであ ると考える理由が示されている。 2 − 4.選挙と統治を統合する民主主義構想と市 民教育の役割 こうしてガットマンらは、「選挙活動と妥協しない 考え方が、アメリカ合衆国内での統治において圧倒 的な役割を果たしていること、それが他国の民主主 義においてもますます広がってきている」という問題 を是正するために、選挙活動の競争的概念と統治の ための熟議的概念それぞれが、民主主義的過程に適 切に位置づけられる形の民主主義の構想が必要だと 論じていく[ibid.: 157]。そして、統治と選挙を統合 するような制度改革の必要性を訴え、市民が政治に 対して意識を高める変化を求めていく。例えば、政 治的議論の一次過程を市民に対し開いたり、市民会 議を設置するなどの制度改革を行い、穏健派の市民 に参加の機会を増やすことがその提案の一例である [ibid.: 185]。それに加え、ガットマンらは、メディア と市民教育の役割を主張していく。 メディアの役割の一つとして打ち出されているの が、「政策と政策立案の実体についてのより豊富な報 告、つまり、様々な政策と可能性のある妥協に関わ るコストと便益、公平性、その他の結果についての 政治家、解説者、専門家の見解」を報道していくこ とである[ibid.: 192]。ただし、政治報道において選 挙と統治の正しいバランスをとろうとする努力はメ ディアが単独で負うものではなく、読者、および視聴 者が責任を分かち合う必要があることも述べられて いる[ibid.: 199]。ここには、政治に対する市民の責 任・役割が示されている。 こうした議論の上で、ガットマンらは著作の終章 において、市民教育について論じている。ガットマン らが想定しているのは、次の三つの目的に基づいた

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教育である。第一は、アメリカの政治史における妥 協を理解するということである。ただし、子どもたち はアメリカの歴史の中で、非常に重要な時代を作り 上げた政治的な妥協がどのようなものであったかを 知るだけではなく、なぜそれを理解しなければならな いのか、いかに評価すべきかを教わることも期待さ れる[ibid.: 200]。第二に、子どもたちが未来におい て、最も強い形で競合する立場を充分に示せるよう、 他の多くの政治的視点を理解させるということであ る。これは反対者の声を聴く市民的心性を養うこと を示しているが、現代のアメリカにおいて、家族が同 質なコミュニティに住み、同質性が反映された学校 に子どもを送っている傾向の中では、なおさら反対の 立場を理解し、相互尊重と市民に必要とされる理解 を促進することが望まれる[ibid.: 200-201]。目的の 第三は、政治において現代的問題を対面的に議論す ることに従事できるよう力をつけさせる、ということ である。こうした議論を学校内で行うことで、政治的 関心の高まり、批判的思考やコミュニケーション能力 の向上、市民としての知識の獲得、学校外の公的事 象に関する議論への興味の高まり、が教育効果とし て期待される[ibid.: 201]。 このように、ガットマンらは、政治制度の改革とと もに、社会に政治を浸透させるための改革、つまり 熟議的な社会の構築を求め、その文脈において市民 教育の役割を論じているのである。しかし、こうした 市民教育論は1980年代から2000年代にかけて構築 された教育論ほどの射程の広さと内容の深さをもつ ものではない。あくまでも「妥協の精神」の涵養の手 段としての教育論にとどまっている。 2 − 5.1990 年代の熟議民主主義理論と『妥協 の精神』 『妥協の精神』は、熟議民主主義的教育論を構築 したガットマンの思想において、どのように位置づけ られるのであろうか。 『妥協の精神』において、熟議は統治の領域に関 わる方法とみなされていた。そして、統治過程では、 主義主張に基づく思慮深さと相互尊重の上で、相互 に妥協点を探っていく必要性が強調されていた。こ うした主張は、1990年代に構築された熟議民主主義 理論における基本枠組みを踏襲していると言える。 特に、熟議民主主義理論の特徴でもある、熟議を通 じて当事者が選好を変容させていくことについては、 主義主張に基づいた固執との対比のなかで、同様の 言及がされている。すなわち、「熟議民主主義にお ける相互の理由提示のプロセスは、市民と政治的指 導者に対し、彼らの主義主張を変化の可能性のある ものとして扱うよう求めている」というようにである [ibid.: 84]。また、市民教育の目的にしても、批判的 思考の育成、他者の声を聴く心性の育成等、新たな 考えは示されていない。 ただし、1990年代には批判の対象としていた原理 を、『妥協の精神』では積極的に採用しようとしてい る点は新たな変化として注意を向ける必要がある。 『民主主義における意見の不一致』(Democracy and Disagreement 1996)において、熟議を主導する原理 としての互恵性(reciprocity)に対置されていた思慮 深さ(prudence)という原理である。ガットマンらは、 かつて、熟議は他者に対して自らの主張を正当化し ようとする動機に基づき、相互に受容可能な結果を 正当化することを目指すものであり、その熟議を支え ている原理が互恵性であると論じていた[Gutmann and Thompson 1996: 53]。互恵性に対して、自己利 益の追求を動機とし、相互に利益的となる結果に正 当性を求める交渉(bargaining)を支える原理が思慮 深さであるとし、批判の対象としていた。交渉は最 終目的を暫定協定(modus vivendi)に置くのに対し て、熟議は最終的に合意に至らないことも想定され ていた。熟議を通じて、当事者が抱える問題が徐々 に解決の方向に向かうことに価値を置いていたから である。そのように熟議を捉えることにより、当事者 の多様な意見、特に少数派の意見を意思決定に反映 させる機会を生むための規範性が生じ、民主主義の 健全化に向けて機能していくとみなされていた。 『妥協の精神』において、一転して主義主張に基 づく思慮深さを統治の原理の一つに採用しているこ とは、政治においては結果が求められており、それ は交渉を通じて達成されてきたものなのだ、とする ガットマンらの現実認識に基づいている。『妥協の精 神』は熟議民主主義理論の具現化を企図した政治論 であった。しかし、そこでの議論の展開は、熟議民主 主義理論が持つ規範性、すなわち、民主的な政治の 中で、性急に合意を求めるのではなく、熟議の継続 性とその過程での選好変容を強調することで社会的 平等を希求していくという規範性を薄れさせている。

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市民教育を社会的平等の達成の手段として積極的に 論じた1990年代の議論とは異なり、『妥協の精神』で は政治の健全化のための手段として論じられている ことにも、こうした理論の規範性の薄らぎが示されて いる。

3.ガットマンの大学論と熟議民主主義

熟議民主主義理論に基づけば、不一致の状況を改 善しようとする意識を当事者が共有しながら、相互 に意見を尊重し熟慮を重ねることで、望ましい結論 に近づく可能性が高まる。その熟議民主主義の実現 に向けて、ガットマンらが試みたのが、原理を政治 の領域に適用させる現実主義的な前進であった。し かし、もう一つの理論的前進の可能性も考えられた。 それが、1980年代、90年代にガットマンによって積 極的に論じられていた市民教育論を発展させていく ということである。 本稿2-4で確認したように、ガットマンらは確かに 政治的妥協論との関連で、市民教育について論じて いる。ただし、ガットマンらの市民教育の議論は著作 の中では結論部で限定的にしか示されておらず、こ の点は批判も受けている。アメリカ政治・法哲学会、 およびアメリカ哲学会の共同開催の「妥協」をテーマ とした学会大会(2014年2月)において、ミシェル・ M・ムーディ-アダムスは、ガットマンらの政治的妥 協論に一定の支持を表明しながらも、それが政策立 案者や立法者にとっての重要性を指摘しているに過 ぎないと批判し、むしろ一般市民の政治的行動に対 しても同様に適用され、強調される必要があること を論じている[Moody-Adams 2018: 188]。ムーディ-アダムスは、「安定した民主主義は、市民の共通の原 則を具現化する政治的機関と市民との間の垂直的4 4 4 関 係によってのみ構築されているわけではなく、特徴 的な「市民的エートス4 4 4 4 」―少なくとも部分的に共通 の市民的諸徳性を受容することによって形成される エートス―によって市民を互いに結びつける水平的 関係によっても構築されている」[ibid.: 191 傍点は 原著による]と考える。妥協論は立法政策場面に限 定されるものではなく、広く市民の政治領域にも拡 張されるべきものである。一般市民が日常的な意思 決定場面や政治的行動においても主義主張に基づく 妥協に応じるためにも、民主主義的徳として謙虚さ (democratic humility)の価値が浸透するよう求めら れていく[ibid.: 215]。 こうした批判的評価を考慮すれば、政治的妥協論 を展開する2010年代と熟議民主主義的教育が積極 的に論じられた2000年代との間には、ガットマンの 教育思想としての空隙が存在している。それは、こ れまでの議論をふまえれば、熟議的な市民教育の推 進によって期待されていた社会改善の効果が現実的 に十分には期待しえないことへの認識に基づいてい ると考えられる。政策立案者においてさえも、熟議民 主主義を支える市民的心性の希薄化が認められると いう現実に直面したことが、あらゆる子どもを対象と する市民教育論を論じることへの消極性につながっ ていったのではないか。 しかし、こうした推論は妥当なものであろうか。本 節では、教育思想的空白の時期の2000年代中葉以降 にガットマンが公表した大学論に着目し、推論の妥 当性を検討するとともに、熟議民主主義的教育論と 政治的妥協論との関係性を問うこととする。 3 − 1.ガットマンの大学論の具体としてのペ ン・コンパクト 2004年10月にペンシルバニア大学学長に就任し たガットマンは、学長就任演説において、ペン・コ ンパクト(Penn Compact)と銘打つ大学運営・改 革方針を示した[Gutmann 2004]。その方針は内 容的にはガットマンの大学観が反映されたものであ ると言える。ペン・コンパクトは三つ原則に則った 総合的な改革である。その三原則とは、アクセス の増加(increased access)、知の統合(to integrate knowledge)、ローカルな/グローバルな連携(to engage locally and globally)である。

第一の原則であるアクセスの増加は、優れた人材、 高い潜在能力を持つ優秀な学生に広くペンシルバニ ア大学の教育を受ける機会を提供することを目的と して、奨学金制度を充実させることである。収入や 人種に基づくのではなく、才能に基づいたアクセス を増加させることで、多様性と卓越性を両立させよ うとする。この取組に付随して大学内での多様性が 増し、学生が文化の多様性から多くを学べること、ま た意見の相違が生産的なものを生み出すことが期待 されている。 第二の原則としての知の統合は、研究と教育の領 域でこれまで分裂・細分化してきた学問・専門分野

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を横断する知識を構築しようとするものである。それ は、経済分野からの圧力によってアメリカの大学が 専門教育を強化する傾向を示していることに対して、 リベラルアーツ教育と専門教育の融合の必要性を示 すことでもある。 第三の原則は、大学のローカル/グローバルな連 携は、世界中の様々なコミュニティと協働的に関係 性を結ぶことによって、民主主義の中心価値である 善き生、自由、機会、相互尊重を促進することを目指 している。また、大学近隣地区との学術的な連携に より、よい効果を生み出そうとすることをも目指して いる。 このような三つの原則のもとでの新たな大学運 営・改革の方針を示したガットマンは、その後、着実 に改革を進め、定着させていく。その理念や成果は、 学術記事の他、大学式典でのスピーチや、評議会で の報告等を通じて、発信されていくことになる(6)。以 下では、これら三つの原則に沿いながら、ガットマン による大学論の具体を整理していく。 3 − 2.大学へのアクセスの増加と多様性の増大 例えば、第一のアクセスの増加、およびそれに伴 う多様性の増加について、ガットマンは全米大学協 会の会議(2005年10月)の中で、次のような説明を 行っている[Gutmann 2005b]。 私たちが多様性を価値あるものとみなすのは、多 様性それ自体が目的だからではなく、むしろ多様性 が高等教育の三つの重要な目的のための手段である からである。その目的とは、第一に機会の平等化、第 二に社会のあらゆる分野のリーダーを教育すること、 第三に、私たちが、自分と同じような人たちからより も、自分とは異なる人生経験を持つ人たちから多くを 学ぶという理由で、すべての学生の教育経験を豊か にすることである。多様性が最良の状態であれば貢 献しうるこれら三つの目的のすべてを達成するため には、社会経済的多様性が鍵となっている。 ここで注目すべきは、ガットマンが多様性として 「社会経済的多様性」を重視していることである。 それが大学の奨学金給付方針にも反映されている。 ガットマンによれば、ペンシルバニア大学では、全 米基準では低所得者層には位置づけられない年収 41,000ドルから94,000ドルの中所得者層の学生に対 しても、手厚い奨学金制度を備えている。いまや高 いレベルに位置する大学での就学費は中所得者層に とってもまかなう余裕がないほどに高騰している。そ れが、低所得者層の高校卒業生の1.5倍にあたる140 万人の中所得者層の高校卒業生の入学機会を奪っ ている。また、統計結果からは、非常に優秀な成績 を収めながらも高いレベルの大学に入学できていな い中・低所得者層の生徒が潜在的に21%いることが 明らかになっている。こうした優秀な高校生への入 学機会を増やし、かつキャンパスの多様性を増大さ せるために、中所得者層に対しても就学援助を行っ ている(7) ただ、高いレベルの大学が中所得者層にまで援助 の範囲を拡げたことに対しては、財を多く保有する 大学と保有しない大学(州立大学)との格差を拡げ る結果を招く、として批判されてもいる[Gutmann 2008]。それに対してガットマンは、次の三つの理由 を提示して、社会的意義を強調し正当化していく。す なわち、(1)社会経済的多様性と卓越性が多様性あ ふれる世界の未来の偉大なリーダーを育成すること につながる、ということ、(2)有能で意欲の高い生 徒が、市民としての、またリーダーとしての充分な潜 在能力を発現させられるような教育にアクセスでき るときにのみ、高等教育は民主主義的価値を最適に 高めるということ、(3)学長、理事の世代にとって、 奨学金で大学に通う機会を得た者が多くいることを 考慮すれば、必要に基づく援助に関与することは信 託である、ということ、である[ibid.]。 3 − 3.知の統合とローカル/グローバルな連携 第二の知の統合については、複雑化する世界の中 の課題に対応するためには単一の学問分野、領域で は対応できない、という問題意識から引き出される [Gutmann 2005a]。それは、総合大学としてのペン シルバニア大学が有する複数の学部・研究部門の垣 根を低くし、共通の理解と目的に基づき、架橋しよう とする試みである。 さらに、大学コミュニティの人的・物的資源を統 合して知を統合することがグローバル規模の教育効 果を生むことを、ガットマンは2012年の学術記事に おいて強調している[Gutmann 2012]。記事では、同 年に、教養科学大学院において哲学、数学、芸術、文

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学の研究を科学、技術、経済と結びつける革新的な 総合カリキュラムを提供するプログラムを開始した ことを紹介しつつ、既存の学際的な研究教育を受け た修了生がグローバルに活躍していることを紹介し ている。ガットマンは知の統合が複雑かつグローバ ルな社会において有益であることを強調している(8) こうした知の統合の成果をグローバル規模で社会 還元することに加え、ローカルな連携によってアメリ カ社会に貢献しようとする考えも示されている。そ れは、高等教育へのアクセスの増加に関わる貢献で ある[Gutmann 2007]。ガットマンは、低所得者層 の子どもたちの多くが大学入学への道を閉ざされて いるゆえに、パイプラインを整備する必要があるとい う。そのパイプラインとして紹介されるのが、2001年 に設立された大学との連携校ペン・アレクサンダー 学校の存在である。この学校は、フィラデルフィア学 区とフィラデルフィア教師連盟との連携のもと、ペン シルバニア大学が支援する幼稚園から第8学年まで の公立学校である。児童の3/4以上が社会的マイノリ ティグループに属し、その多くが低所得層である、と いう。この学校での実践を効果的にすべく、2005年 にフィラデルフィア教員研究所が大学連携のもとで 設立されている。そこでは、大学教員と教師の緊密 な連携の中で、教室での指導において、教師と生徒 とがともに活躍できる革新的カリキュラムが開発さ れている、という。 3 − 4.ガットマンの大学論の根幹 2014年の論文「大学教育の価値とは何か」にお いて、ガットマンは2000年代のアメリカ経済の悪化 に起因する高等教育の価値に対する懐疑的な見方に 抗して、高等教育の価値を強調している[Gutmann 2014]。そこでは、大学の卒業者が高校卒業者より も経済的な成果を上げているという単純な議論を 超えて、三つの価値があると主張されている。そ れが、機 会(opportunity)の増加、創造的理 解 (creative understanding)の促進、有用な社会貢献 (contribution)の促進、である。これら三つの価値 は、ガットマンが推進するペン・コンパクトの三つの 原則に符合する(9) 実はガットマンは1987年刊行の『民主主義的教 育』、および1990年代の論文において、高等教育につ いて論じている。その当時、アメリカの高等教育シス テムが有する三つの社会的目的は次の三つとして確 認されていた[Gutmann 1991: 47-48; Gutmann 1987: chap. 6]。 高等教育がもつ第一の社会的目的とは、専門職へ の門番(gatekeepers to the profession)として貢献す ることである。門番としての機能をうまく働かせるた めには、教育を受けた専門家になるために必要な、し かし専門教育や職場訓練を通じては身につけること がほとんどできない知識や理解を、学生に伝えるこ とが最も重要である、とされる。 第二に、大学は自由で批判的な学問的探究の聖域 (sanctuaries for free and critical inquiry)としての役 目を果たすということである。大学は、多様な考え を政府、および社会に存在する力を持つすべての集 団が抑圧しようとすることに対する防壁である、とい う。つまり、健全な民主主義を構築するための前提 条件を守っていくという役割を担っている。 高等教育が担う第三の社会的目的は、学者、学生、 運営管理者、同窓生のコミュニティとしての役割で ある。当事者は互いに自由に協同しており、そうし たコミュニティを自分たちのものであると認識できる 機関として自らを同定するものである。学生の集合 的選好を充たすというまさにその理由があれば、アメ リカの高等教育システムにおいて多様性を守ってい くことは価値があるだろう、ということである。 高等教育が担うこれら三つの目的は、2000年代中 葉以降のガットマンの大学運営の根幹に位置付いて いると考えられる。専門分化が強まる時代の動向に 対してリベラルアーツ教育と専門教育の統合を求め る改革は、第一の専門職への門番としての貢献とい う目的に対応している。またそれは学問の自由が保 障されることを前提としていると考えられるという 意味で、第二の目的に対応している。さらに、ローカ ル/グローバルな連携の拡大は、結社の自由に基づ く第三の目的に対応している。 加えて、ローカルな連携の事例としてのペン・ア レクサンダー学校での実践、および教員の質的向上 の取組は、1980年代にガットマンが示していた思想 的立場にも基づいている。それは、初等教育の教育 財の配分はあらゆる子どもが政治過程に効果的に参 加するために必要な能力を奪われない限りにおいて 不平等に配分されても正当化されるとする立場、つ まり、恵まれない子どもに篤い不均衡配分も民主主

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義的基準原理(the democratic threshold principle) に基づいて正当化されるとする立場である [平井 2017: 81-83]。 ただ、大学独自の奨学金制度を充実させアクセス を増加させるという改革からは、1980年代の思想的 立場からの変容が感じとれる。というのも、この改 革はあくまでも知的卓越性を示す生徒を中・低所得 者層から発掘し、多様な知的エリートを大学に招き 入れようとするものであり、低・中所得者層と高所得 者層の格差を是正しようとするものではないからで ある。この改革は、たしかに、多様性の環境の中で 様々な立場からの考えを知ることのできる機会を学 生に提供することで、熟議民主主義を支える市民を 育む結果を生み出す可能性はある。しかし、帰結と してのエリート主義は、ガットマンがかつて批判の対 象としていたものではなかったか。

4.熟議民主主義的教育論の再読

2010年代の学術的成果としての『妥協の精神』の 読解、および2000年代中葉の大学論の読解を経て、 あらためていま、1990年代に構築された熟議民主主 義的教育論はいかに再評価できるか。思想史をさか のぼる逆照射によって明らかになるのは、熟議民主 主義概念が熟議の継続性を前提としており、結果の 志向が第一義的には論じられていない4 4 4 4 4 4 4 4 ことに顕著な 特徴が認められるということである。1990年代では、 熟議参加者が主義主張を相互に正当化しあい、妥協 せずに熟議を継続させることに、社会にあふれる道 徳的な対立、意見の不一致の解消の見通し(あるい は希望)が見出せていた。そして市民教育を通じて 相互に尊重できる心性を子どもたちに身につけさせ ることができれば、社会での熟議場面で自己批判的 な市民として育つ、ということが期待できていた。し かし、2000年代から現代にいたるアメリカ、および民 主主義社会の状況を見渡したとき、社会統治の見通 しが立たないほど社会的分断が深刻化している。妥 協点を探っていくということに、分断社会の中での社 会統合のあり方を求めざるを得なくなっている。それ ほどまでにリベラル派が追い込まれている。 熟議民主主義理論を、それが規範性を減じる結果 となるにしても、現実主義的に進展させていく。この ような戦略をガットマンがとったことは、分断社会と いう時代状況の中では一定の理解が得られよう。し かし、こうした時代状況だからこそ、熟議民主主義 理論を規範理論として価値づけ強化していくことも、 もう一つの戦略として考えられたのではないか。その 戦略には、1990年代の市民教育論を実質化していく ことも含まれている。 ここであらためて、2000・2010年代のガットマン が高等教育における市民の育成についていかに考え ているのかも確認しよう。本稿で示してきたように、 学長就任以降、ガットマンは熟議民主主義に基づく 教育論を積極的には論じていない。もっぱら、大学 改革の意義と成果を広報し、大学コミュニティの多 様な人材への開放、グローバル/ローカルな連携に よる知的コミュニティの形成、および知の統合による 革新的学問領域の創出を積極的に推進しようとして いる。そこに示されているのは、1980年代から90年 代に構築した教育思想的立場を保持しながらも、高 等教育の改革を優先的に進めていこうとする学長と してのリーダーシップである。この動向に対して、大 学運営・改革の優先によって、熟議的な市民の育成 のための教育の実質化が遅らされている、という解 釈も考えられる。しかし、それは妥当ではない。 ガットマンが1980年代、90年代に示されていた高 等教育論を基本枠組みとしながら大学運営、改革を 行っていることはすでに確認した。そうした一貫性 は大学教育の目的に対する市民教育の位置について の見解においても見られる。ガットマンは2003年の 論文において、次のように言及していた[Gutmann 2003: 510]。 民主主義的教育の一つの特徴は、熟議的なシティ ズンシップのスキルと徳の教授(教え込みではない) に専心するということである。ただし、このことは、 熟議的シティズンシップの涵養はあらゆる教育制度、 あらゆる教育者の中心課題であるべきだ、ということ を意味するものではない。・・・大学は民主主義的な市 民を教育することを目的とする必要は必ずしもない。 大学の第一の目的は、よりグローバルでより知性的な ものである。しかし、善きリベラルアーツ教育は注意 深い批判的探究へのコミットメントからシティズン シップに関する多くのスキルと徳とを育てる傾向に はある。 ここに示されているように、ガットマンは熟議的な

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市民の育成は初等・中等教育の目的であって、高等 教育の第一義的な目的は他にあるべきだ、と考えて いた。大学において、批判的思考をもち、多様性の中 で相互に尊重しながら社会的課題について熟議でき る市民を育成することまで求めていくことは、大学の 自律性の原則を侵しかねない、と考えているのでは ないか。むしろ、学問の自由が保障される大学そのも のが、社会的多様性の増加や民主主義の健全化に対 して寄与するのだ、と考えているのである。1980・90 年代の高等教育論で示した立場を継続・維持するこ とが、国家に対する批判的立場を社会的に確保する 意味がある、とも考えているのではないか。 ただし、熟議的な市民を大学教育を通じて育成し ようとする意図が示されてはいない、ということは、 熟議民主主義的教育論と実践との段差を際立たせ る。ガットマンが主張するように、多様性にあふれた 教育環境の中で、リベラルアーツ教育と専門教育と が融合した形の教育を受けることによって、学生が 市民としてのスキルと徳を身につける可能性はある。 しかし、そうした教育効果は限定的であろうし、熟 議民主主義の実現にとっては初等・中等教育でのシ ティズンシップ教育だけで十分であるとは言えない であろう。 こうした熟議民主主義の実現にとっての教育の不 十分さ以上に問題なのは、ガットマンが主張する多 様性の増大が、限られたコミュニティの中での多様 性を意味するという点である。ガットマンの大学論 は、知的リーダーシップを強調するものであるゆえ に、大学コミュニティに属さない者に対しては考慮さ れていない。大学が分断社会を支えてしまっている のである。ガットマンの大学教育論・教育実践には 2000年代中葉までの熟議民主主義的教育論との隔 たりがある。『妥協の精神』で期待されている熟議的 な社会の構築のためには、大学コミュニティの外側 の存在をも考慮に入れた教育論が必要となる。分断 化社会の乗り越え、および熟議民主主義の実質化へ の展望を拓くためには、あらゆる子どもに対する市民 教育論への回帰が求められる。 (1) この問題には、熟議能力をあらゆる子どもたちに身につけさせ ることが具体的にどのように達成できるのか4 4 44444や、それが一定程度 達成できたと仮定して、熟議過程において必然的に生じる熟議 能力の高低の問題を、民主主義的意思決定においてどのように 捉えるべきかの検討が必要とされる。 (2) ガットマンの業績一覧は以下で確認できる(最終 確認 2019/07/15)。https://president.upenn.edu/sites/default/files/Amy-Gutmann-CV-current.pdf (3) 思考態度(mindset)について、ガットマンらは次のように規定 している[Gutmann & Thompson 2012: 64-65]。「思考態度とは、 個人が、考慮と選択とを他のことに比して顕著に行うというやり 方をもって思考と行為を組織するよう駆り立てる、態度と議論の 集合のことである。それは、認知の状態と本性の状態の複合体 である。つまり、人が現象についてどのように概念化し議論する 傾向にあるか、と、どのような概念化と議論に基づいて、いかに 行動する傾向にあるかに影響を及ぼすものである。思考態度は常 に意識的に採用されているというわけではないが、ある異なった 対立する思考態度を支持することで、状況に応じて意識的に批 判され、変更され、放棄される可能性もある。」この規定は、熟 議民主主義論において熟議参加者が自らの選好を変容させるこ とが期待されていることと近接性をもっているとみなすことがで きる。 (4) 代案として考えられる、主義主張(principle)と利害関心 (interest)とを区別して、主義主張に関わることは妥協せず、利 害関心に関わることは妥協すべきだ、という考え方の採用につい てガットマンらは検討している。しかし、この考え方に対しても否 定的である。政治において利害関心と主義主張は密接に関わっ ているがゆえに明確に区別することが困難であるという現実的な 批判とともに、それらの区別によって、望ましい結果をもたらす 潜在性をもつ多くの妥協が蔑ろにされてしまう、という批判が展 開される [ibid.: 75-76]。 (5) 一方1986年の税制改革に対しては、「税制改革法を支持した政 治家は、それに反対する人よりも動機が高かったが、両者の十分 な党派が反対者の中で最悪のものを考える傾向を克服した」と評 価している[ibid.: 91]。 (6) 学長就任以降の主要な講演内容、および雑誌記事は次の大学 公式ウェブサイトから確認できる(最終確認2019/07/15)。第3節 で扱うガットマンの大学論はウェブサイトを経由して確認したも のである。https://president.upenn.edu/meet-president/addresses-and-articles (7) こうした経済的支援は高等教育の機会均等を意識したもので あるが、1980年代からほとんどの大学で採用されてきた学力に基 づく奨学金給付方針が、高所得者層と中・低所得者層の入学機 会の格差を広げているという問題意識から、ニーズに基づく援助 への転換を提案するものであった[Gutmann 2006b]。 (8) 大学の人材、および卒業生がインド、中国、香港、シンガポー

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ル等、アジア諸国においてグローバル規模で貢献していることは [Gutmann 2006a]で主張されている。 (9) Penn Compactは 現 在、 第 二 ス テ ー ジ に 移 っ て い る。 "Penn Compact 2020"として2013年に示された改革は、包摂 (inclusion)、革新(innovation)、影響(impact)を中核価値とす る。それはPenn Compactに基づく改革の拡張的継続である。特 に強調されているのは、オンライン教育等を活用した知の統合に よって革新を生み続けるということ、高度に連携した大学院レベ ルの研究・教育プログラムを構築すること、およびそこでの発見 研究成果を社会的ニーズへの対応に結びつけ、イノベーションの 実践を社会的に拡げていくこと、である。ここには、エリート大 学としての教育・研究成果の強調が前面に押し出されている。 参考文献一覧 小玉重夫(2010)「教育思想史におけるポストコロニアルの視点」、 教育思想史学会『教育思想史コメンタール』。 小玉重夫(2018)「ポストトゥルースの時代における教育と政治― よみがえる亡霊、来たるべき市民―」、『近代教育フォーラム』第 27号。 野平慎二(2017)「「精神の生活」と政治的主体化の再構想」、『近 代教育フォーラム』第28号。 平井悠介(2017)『エイミー・ガットマンの教育理論』勁草書房。 村松灯(2017)「H. アレントにおける「精神の生活」の政治性― < 自己とともにある>ことと<他者とともにある>こと―」、『近代 教育フォーラム』第28号。

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付記  本稿は、JSPS科研費 JP19K14086の助成を受けた研究の成果の 一部である。 執筆者 平井悠介(ひらい ゆうすけ) 筑波大学(University of Tsukuba) 教育哲学 『エイミー・ガットマンの教育理論―現代アメリカ教育哲学にお ける平等論の変容―』 URL: http://www.trios.tsukuba.ac.jp/researcher/0000003989 E-mail:[email protected].

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