Title
授業における二重性の研究 : 仮説実験授業の分析をもと
に
Author(s)
宮島, 基
Citation
沖縄大学人文学部こども文化学科紀要(4): 43-57
Issue Date
2017-10
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/22007
Rights
沖縄大学人文学部こども文化学科
【論文】
授業における二重性の研究
―仮説実験授業の分析をもとに―
宮島 基 要約 子どもの視点に基づいた学びのあり方を探るため、坂元忠芳が論じた「同一化」と「二重性」 に関する議論を元に、その課題について検討した。その課題とは、実際の授業場面において「同 一化」はどのように表れるのか、そして教育はその「同一化」の「二重性」をどのように保障 し得るのか、というものである。本稿では仮説実験授業の分析を通してこの課題に取り組むこ とによって、二つの「同一化」の一つである「求心的同一化」の中には、子どもが外界に適応 しようとしながら、同時に自らの「納得」のためにその適応を否定するような矛盾した姿が見 出されることを指摘した。教育場面においては、そうした矛盾性を踏まえる必要があることを 論じた。 キイワード 二重性、同一化、仮説実験授業、納得 はじめに―問題の所在 新しい教育課程として、「主体的・対話的で深い学び」の重要性が盛んに論じられている(1)。 中央教育審議会の答申において、その方針のあり様や方向性については示されてはいるが、「『主 体的・対話的で深い学び』の具体的な在り方は、発達の段階や子供の学習課題等に応じて様々 である。」(中教審答申、第7 章)とも述べられている通り、それは子ども一人ひとりの発達の あり方とも密接に関係すると考えられる。 その意味でも、「主体的・対話的で深い学び」を考えるに当たっては、その学びが子ども当人 にとってどのような意味や意義をもつのかという視点を欠くことができない(2)。この点を飛 び越えてしまえば、「アクティブ・ラーニング」も表層的なグループ活動に陥り、学びも形骸化 してしまうだろう。目指すべき「質の高い深い学び」、「子供たちの思考を深める」ことが当人 にとってどのようなものであるのか、引き続き具体的に議論していかなければならない。 「発達の弁証法」の研究に取り組んできた坂元忠芳は、まさに子どもの学びと主体性につい て問うてきた一人であり、学ぶ主体である子どもにとっての他者との関係やその問題性につい て論じてきた(例えば坂元2016)。今日の教育課程を子どもたち自身の視点から考える際に、 坂元の研究は重要な視点を提示してくれるように思われる。 1960 年代から今日に至るまで教育学の研究に取り組んできた坂元の議論は多岐にわたって おり、それをレビューすること自体が膨大な作業である。その一方で近年、それを改めて問い 直す研究が行われてきている。その一つとして、坂元の1980 年代の研究、とりわけ「二重性」 と弁証法に関する理論研究について分析した宮島(2016)に注目したい。宮島によれば当時の 坂元は、学校を含む社会において、子どもたちの変容が阻害されている状況を問題視していた。 詳細は後述するが、端的にいえば、坂元は当時の子どもたちの「同一化」をめぐる「二重性」 という性格が妨げられている状況を危惧していたというのである。坂元はそれに対して「異化」 という概念の有効性を論じ、阻害された「二重性」を回復させようとしたと、宮島は論じている。こうした宮島の分析を踏まえ、本稿では宮島が坂元の議論から指摘した「二重性」とその課 題を具体的につかむことを主題とする。実際の授業場面において「二重性」とはどのように見 出されるのか。また「二重性」の回復という課題に対して、例えば教育活動は何をするべきな のか。この問いを、実際の授業場面を通して考えたい。ちなみに、もともと坂元が論じ、また 宮島が課題として指摘したのは、「二重性」の「変容」という問題であった。本稿が主題とする、 実際の授業場面を通して具体的に「二重性」を掴むこと、それに加えてその回復のために教育 には何が必要なのかを明らかにすることは、「二重性」の「変容」のあり方を問う上でも手がか りになると考えられる。 「二重性」の実態を掴むこと、そして教育には何を行うことが求められるのかという問いを 明らかにする本稿の課題に向けて分析対象とするのは、小学校で行われた「仮説実験授業」を 用いた授業である。これもまた後述するが、1960 年代に始められた「仮説実験授業」は、現在 も様々な教師たちに広く影響を及ぼしている。仮説実験授業は教師からの問いかけと児童・生 徒からのリアクションを明確に意識して授業を構想しており、児童・生徒が活動する様子が分 かりやすい。そのため、子ども自身がもつ「二重性」について考察する上で、整理がしやすい と考えられる。そしてそれを踏まえて、「二重性」の回復に向けて何が求められるのかについて 考えたい。 なお、「二重性」をめぐる理論的課題を授業実践を通して問うということは、いわば子どもの 内面的問題を考えることでもある。そのためには特定の子どもに注目し、彼/彼女の成育歴や 人間関係などの背景を踏まえ、実際の授業場面を通して生じたその子どもの変化を分析する方 法もあろう。しかしながらここで考えたいのは、繰り返しになるが、実際の授業において「二 重性」はどのように表れるのか、そして授業がいかにして「二重性」を保障し得るのか、とい うことである。特定の子どもについて考察するよりも、一コマの授業の流れを全体的に検討す るのはそのためである。 次節(1 節)では、宮島(2016)を元に、坂元の論じた「二重性」について整理する。2 節 では、検討対象となる仮説実験授業の概要を整理し、具体的な授業場面において子どもの「同 一化」の「二重性」はどのように表れるのかを見ていく。対象とするのは、愛知県の小学校で 行われた仮説実験授業の様子を商品化した映像資料である。坂元の議論をベースに視聴するこ とで見えてくる二つの「同一化」について整理する。3 節では以上の議論を踏まえ、「同一化」 の表れ方について更に分析を行う。そして最後に全体を振り返るとともに、坂元の「二重性」 をめぐる議論から得られた課題について論じたい。 1. 先行研究―「同一化」をめぐる「二重性」 まず宮島(2016)を頼りに、坂元が論じてきた「二重性」の議論について整理していこう。 この作業を通して、授業における学びを子どもの立場で考察するための視点を掴み出したい。 具体的にいうと、授業に参加する子どもたちはその内面において何を経験しているのか、その ための指標となる「同一化」について明確にすることが本節の目的である。 宮島が議論の対象としたのは、1980 年代に雑誌に連載された「異化」概念の意義に関する坂 元の論稿と、それを中心とした当時の周辺の研究であった。宮島によれば、坂元が当時根本的 な課題意識としてもっていたものが「二重性」という考え方であった。宮島はそれを端的に、 「子どもたちがその内面において自己と他者との関係をめぐり相反する矛盾した性格を同居さ せている様子」(宮島2016:21)と説明している。 論点となっているのは、人がもつ「同一化」という心理的過程である。「同一化」とは、ある
集団及び個人が他の集団及び個人のある性質を我がものとし、その手本(モデル)に従って、 自らの性質を全体的または部分的に「変容」していくものだという。この「同一化」作用には、 自己を他者に同一化しようとする異化的・求心的同一化と、他者を自己に同一化しようとする 同化的・遠心的同一化がある。両者は相反する性質であり、子どもは、自己と他者との関係を めぐり、この矛盾した性格を同居させているというのである。 宮島は坂元の論述において取り上げられた、高木かよ子という女子高校生の例に注目してい る。いわゆる「ヤンキー」であるかよ子は、自分に対する学校や教師の「強制」を「拒否」し、 自分を変えることなく周囲を自己に同化的に「同一化」させようとする。こうした様子が「遠 心的同一化」の側面である。ところが彼女は反対に、自分を受け入れてくれる学校や教師から の「強制」を「甘受」し、そこに自己を合わせようとする側面も併せ持っている。それが「求 心的同一化」の側面である。このようにかよ子は、自分を変えたくないという側面と、自分を 変えて周囲に合わせようとする側面の相反する性質を同居させているのであり、この矛盾状態 を指して坂元は「二重性」と呼ぶというのである。 そして坂元が論じていたのは、この矛盾した「二重性」という性格が、その人の人格の変容 に結びつくという点であった。先の例でいえば、高木かよ子は自分を受け入れてくれない学校 や教師を「拒否」する一方で、それらを「甘受」するという矛盾性を表面化させながら、しか しその状態にいつまでも留まっているのではなく、彼女自身が変化していくということであっ た。坂元はこれを「全体的な弁証法」として議論を展開したのである。 その上で問題となったのは、子どもがもつこの「二重性」の矛盾が阻害されているというこ とであった。本来「同一化」という心理的働きにおいて、「遠心的同一化」と「求心的同一化」 とは健全な形で矛盾状態を保つのが望ましい。ところが実際は、「日常性」と呼ばれる当時の社 会構造の中で「遠心的同一化」と「求心的同一化」の片一方のみが重視され、「宙づり」にされ てしまうというのである。それによって「二重性」が本来もつ矛盾した心理的働きを保つこと ができなくなり、「全体的な弁証法」と呼ばれる「変容」が妨げられてしまう、坂元はそれを問 題視したのである。 宮島によれば坂元は、こうした「二重性」を保障し再構築すべきだと論じている。そしてそ のために、「異化」という考え方の有効性を論じるのである。それは要するに、妨げられた「二 重性」を教育を通して「再構築」し、「二重性」を保障し直すという議論であったといえる。 「異化」そのものの内容については本稿の中心的課題とはずれるため、これ以上は言及しな い。だが坂元の議論に対して宮島が指摘した、「異化」における課題を確認しておこう。宮島が 指摘したのは、例えば「二重性」を「再構築」することによって、「二重性」を阻害していた「日 常性」と呼ばれる社会構造をどのように「ひっくり返し」得るのか、その検証が必要であるこ と。あるいは、「二重性」の保障と「再構築」のあり方を子どもの実際の姿においてどのように 描くのか。「再構築」される「二重性」の具体像を子ども・若者の実態に即していかに構想して いくか。こうした点であった。そしてより根本的な問題として指摘されたのが、「二重性」がど のように変化していくのかという問題であった。いわば健全な状態で矛盾性が保たれることが 望ましいわけだが、しかしながらそれはどのようなメカニズムによって変化していくのか。そ れ自体が大変大きな課題として存在するというのである。 このように「二重性」を「再構築」するといっても、まずはその具体像を明らかにしていく ことが必要なのである。教育活動において、とりわけ具体的な授業場面において、「二重性」と はどのように現れるのか。そしてそれらが保障されるためには、いったい何が必要なのか。実 際の授業場面を通してこの点について考えてみよう(3)。
2.授業における「二重性」 2-1.仮説実験授業 分析対象として、仮説実験授業を取り入れた授業を用いたい。先述のように仮説実験授業は、 まず教師からの問いかけと児童・生徒からのリアクションが明確に意識されて授業が構想され ており、分析する上で児童・生徒が活動する様子を捉えやすい、言い換えれば子ども自身がも つ「二重性」について考察する上で、整理がしやすいと考えられるためである。念のため補足 するが、ここでの目的は仮説実験授業の授業方法自体の分析ではない。あくまで教師と児童と のやり取りの中で「二重性」とは具体的に何であり、それを教育活動が支えるとは具体的にど のようなことかを検討することである。 仮説実験授業は、よく知られたように板倉聖宣が 1960 年代に取り組み始めたものであり、 今日でも多くの教師たちに影響与えている(例えば、板倉2010)。仮説実験授業を研究するサ ークルも全国的に組織され、授業方法を学ぶ教師も多い。授業の流れおよびその内容を整理し ておこう。板倉(1977)によると、仮説実験授業は授業書をベースにし、授業書を読むところ から始まる。子どもたちは配布された授業書を元に、問題を考えることになる。問題は選択肢 になっていて、子どもたちは予想を選ぶのである。予想を立てると、今度は回答ごとに選んだ 人数を調べ、黒板に集計する。そして、その理由を発表させる。それぞれの理由を出し合い、 討論させ、互いの考えを突き合わせた上で、予想の変更を行ない、いよいよ実験を行うのであ る。また板倉は、子どもたちに感想文を書かせることによって、子どもたちの反応を知ること も大切だという。板倉は、こうした一連の流れを通して子どもたちが法則性を発見することが 重要であるという(板倉、2008)。自然科学だけでなく、「社会の科学」も含め一連の問題に対 して法則性を発見すると子どもたちは楽しい、板倉はこのように述べている。 2-2.教師が持つ「答え」ではなく、児童自身の考えや判断が尊重される場面 以下では、市販の映像資料「世界の国旗」を元に、授業場面における児童・生徒にとっての 「二重性」の具体的なあり方について考えたい。この授業は愛知県板橋市新川小学校6 年生を 対象に行われたものである。 「世界の国旗」というテーマで、斉藤裕子氏による一連の流れの中に位置づけられた 45 分 間の授業である(4)。児童たちは机と椅子のある教室ではなく、カーペットがひかれた教室に 腰を降ろして授業を受けている。教師はホワイトボードの前に立ったり、児童たちの間を縫う ように歩いたりしながら授業を進めていた(5)。 さて、その授業開始に当たり、教師と児童との間に次のようなやり取りが見られた。 教師:(配布した資料は)みんな届きましたか、いいですか。はい、ええっとじゃあ、今日から 新しい題になりました。題です。 児童:世界の…。 教師:世界の人々は何色の国旗が好きか。 児童:おれオレンジ。 教師:おれオレンジ?(児童が口々に、色を言う)黒?あお?赤が好き、黄色が好き。緑が好き。 児童:オレンジ。 教師:どうしてもオレンジ。うふふふ。 教師からの「世界の人々は何色の国旗が好きか」という問いかけに対して、子どもたちが自
分の好きな色を口々に発言しているシーンである。なかには教師がそれを確認するまで、自分 の好きな色はオレンジだと繰り返している子どももいる。それはまさに、自分の好きな色に「同 一化」するとともに、周囲が何色と発言しようが、自分の好きな色を認めてもらおうとする「遠 心的同一化」の様子といえる。 あるいは次のようなシーンも、自分の好みや考えへの「遠心的同一化」が派生した形に見え る。世界の国々の国旗の中に緑色を多く使っている国で、なおかつ地図帳上で砂漠が多いこと を示している国はあるか、という教師の問いかけに対するやり取りである。 教師:どうでしたか。砂漠の多い国で(国旗の色に)緑をたくさん使ってるっていうの、どう でしょう?ありました、そんな国?見つかった人、そんな国が見つかったよって人。砂漠が 多くて、国旗が緑が多いよっていう国。見つかったとこ、ありましたか。エイコさん。 児童:アルジェリア。 教師:アルジェリア、アルジェリアってどこの国、どのへん?ここ、リビアの隣。おーい、こ こだよ。いい?おーい、アオちゃんここだよ。アオちゃん、ここアルジェリアね。アルジェ リア。ここの国旗が緑が多いっていう話し。アルジェリア。これ、アルジェリア。あれ、(手 元に提示した国旗の上下を直しながら)こうか。アルジェリア、砂漠の国アルジェリア。 ある児童(エイコさん)からの「アルジェリア」という回答が正解かどうかは、さほど重要 ではない。ここで重要なのは、どうしてもオレンジ色が好きだと繰り返した子どもと同様、教 師との対話において自分で「アルジェリア」という答えを探し、教師に向かって自分の考えを 発言していることである。そして自分の回答を教師が受け入れ、更には自分の回答を教師が周 囲の子どもたちに呼びかけ、言われた子どもたちも「アルジェリア」を地図上に探してくれる という活動が生じていることである。「アルジェリア」と発言したこの児童当人にとっては、自 分の外界に答えがあるのではなく自分の考えが中心にあって、それを周囲が受け入れてくれる 様子が、まさに「遠心的同一化」と同様といえる。 2-3.児童が自分の考えではなく、教師や周囲の児童の答えを手本として自分を変えた場面 これとは反対に、子どもが自分の考えに同一化するのではなく、教師や周囲の児童といった 自分の外界の手本に従って自分を変化させようとする場面も見られた。例えば次のような場面 である。教師と児童たちとのやり取りがやや長いので、要約して書く。 授業の後半、教師がスリランカの国旗を提示し、この国旗には 1950 年に二つの色の帯が付 け加えられたことを紹介した。一つはヒンズー教のオレンジ色で、もう一つは緑色の帯である。 そこで教師が子どもたちに投げかけたのは、付け加えられたその緑色の帯が、何を意味してい るかという問いであった。 最初に挙手した児童(エイコさん)が発言した答えは「イスラム教」であった。その後、三 つの発言、「熱帯雨林」、「木とか植物」、「お茶」、が回答として続いた。それぞれの発言があっ た後で、「熱帯雨林」を知らない子どもたちのためにその意味を確認し合ったり、「お茶」とい うのは授業書で示された「セイロン紅茶」と繋がっているなどのやり取りがあった。その後、 黒板に書かれた四つの答え(「イスラム教」、「熱帯雨林」、「木とか植物」、「お茶」)から、子ど もたちそれぞれがどれを正答と思うかを選び挙手した。 ところが、教師によって改めて投げかけられた「(緑色の帯は)イスラム教という宗教じゃな いかなって(思う人はいますか)。」という問いに対して、挙手した子どもはいなかった。最初
に発言した児童(エイコさん)も手を挙げなかったので、教師も「エイコちゃん、やめたの?」 と確認している。 この子どもがなぜ当初自ら発言した「イスラム教」という答えを取りやめたのかは分からな い。ただ、自分の考えを変えて他の考えに合わせたという点で、まさに「求心的同一化」とい える。 これは子ども自身が自らの考えを変化させた例といえるが、反対に教師が子どもに対して、 子ども自身を変えてほしいと考えて呼びかけている様子も散見される。分かりやすいのが次の シーンである。 教師:この旗の左側(手元に提示したスリランカの国旗を子どもたちに見せながら)ここに注 目してください。ここだよ。ここって言ったら、ここ見てくれるかな。ここだよ。ここに注目 してください、この二色です。ここ見ててよ。 これは子ども自身の「同一化」というよりも、教師から子どもたちへの指示の言葉である。 この瞬間カメラは教師を捉えていてため子どもの様子はほとんど明らかではないが、おそらく 子どもたちは、それまで一人の児童が読み上げていた授業書に目を落としていた。それに対し て教師は自分が手元に提示した国旗の色に注意を向けさせようとしたのである。それは子ども の視点からすれば、それまでの意識の方向を外界から変更させられる、外界に適応するように 促された場面といえる。 子どもを外界に適応させるという点では、次の場面も同様である。子どもたちが外界に自分 を「同一化」させることを、教師は前提としているといえよう。 教師:このサウジアラビアの国旗、ちょっと大きくしたやつここにありますので、見てくださ い。何やら、モゴモゴモゴっとしたのが書いてありますが。これは文字だそうです。アラビ アの文字なのかな。何て書いてあるかっていうと、「アラーの他に神はなし」、神はいないん だね。神様はアラーの神様だけ。「マホメットはアラーの預言者なり」、マホメットっていう 人はアラーの神の言葉を伝える人っていう意味かな。と書いてあるんだそうですが、全然読 めませんが。こっちから読むのかな、こういうふうに読むのかな。よく分からない、済みま せん。そしてこの下に一本の剣が書いてある。緑色は三日月と星とともに、回教の象徴とも なっている、目印になっているよ。回教の国、これパキスタン、回教の国、イスラム教の国 はいつも星と三日月がマークでしたね。で、この緑色も回教の人々の象徴の色、目印の色に なっているよ。だから星と三日月があって緑色の旗だったら、もう回教の国、イスラム教、 そういう宗教を信仰している国の旗だよということが分かります。というわけで、サウジア ラビアでした。リビアも緑一色で回教の国かな。 子どもたちは教師からサウジアラビアに関する新しい知識を与えられ、子どもたちはアラビ ア文字やサウジアラビアといった言葉、概念に出会うことを促されている。教師のこの働きか けもまた、子どもの側に変化を求めている。子どもたちが自らを、例えば新しい知識を持った 人に変えたいと思っているのであれば、それは自ら外界の知識に「同一化」しようとした様子 と捉えることができるだろう。厳密にいえば、これはあくまで教師の期待であり、実際に子ど もたちがそのように自ら新しい知識に「同一化」しているかは定かではないが、少なくとも教 師が外界に適応するように期待しているという意味で、「求心的同一化」を前提としているとい
えよう。 2-4.求心性と遠心性は、入れ代わり立ち代わり現れる 以上から分かるように、授業における教師と子どもたちのやり取りの中では、自分の答えに こだわることと、新しい知識に出会うということが起こっている。それは、一つには子どもた ちが教師に対して自分あるいは自分の考えを認めてもらおうとし、教師の態度を変えようとす る姿であり(例えば自分の答えにこだわり、先生が認めてくれるまで繰り返し発言する)、また それとは反対に、子どもが自らや自らの考えを教師や周囲の意見に合わせ、自らの考えを変え ている姿である(例えば、子どもが自ら当初の考えを変更し、教師あるいは周囲に合わせる)。 こうしたやり取りは、子どもにとっての「遠心的同一化」と「求心的同一化」の二つの側面と いえるだろう。 しかも授業に見出された「遠心的同一化」と「求心的同一化」とは、散発的に生じるのでは ない。言うまでもなく授業における教師と子どもたちとのやり取りは連続的であり、二つの「同 一化」もまた入れ替わるように生じている。次の場面は、国旗に緑色が多く、かつ地図の上で は砂漠のマークが書かれている国を、子どもたちが問いかけられている様子である。 教師:他に見つかりましたか。シンちゃん。 児童:ナイジェリア。 教師:ナイジェリア、ナイジェリア。どの旗?ああ、ホントだね、ナイジェリア。それ砂漠の 国?砂漠の国?そこ砂漠の国?砂漠の国、そこ。砂漠の国?ナイジェリアっていうのも砂漠 が多いのかな。どこにある?(地図帳を見ながら)砂漠がある?ないね。えっと、ナイジェ リアっていう国をさがして今くれましたが、旗は緑が沢山ありましたけど、どうも地図帳を 見ると、あんまり砂漠のマークがなさそうです。 このやり取りは、まず児童が「ナイジェリア」という回答を発言したが、それを受け取った 教師や周囲の児童たちがナイジェリアに砂漠があるか否かの確認を行い、ナイジェリアが砂漠 の多い国ではないという結論に至った様子である。発言をした子どもの視点で見れば、当初自 分のなかに「ナイジェリア」が正解だという考えがあり、それを提出し教師や周囲の児童に受 け入れてもらおうとした。ところが、教師が砂漠のマークを探すという検証作業を通してそれ が見当たらないことを確認され、それが誤りであることを示された。こうして自分の考えが誤 りであることに適応するよう求められたといえる。 実際の授業場面において、子どもの考えは教師に受け入れられることももちろんあるが、常 にその考えが受け入れられるわけではなく、「正しい」知識に修正させられることもある。一般 的な授業では、そういったことは何ら珍しいことではないだろう。それを子どもの視点、特に 「同一化」という視点から見れば、二つの「同一化」が次々に生じていることを意味するとい える。 3.「求心的同一化」から見えるもの ただ、二つの「同一化」が連続的に現れるとはいえ、それは順序よく別々に生じているので はない。単純に二つの「同一化」の間を行ったり来たりしているわけではないということであ る。そしてそこには、二つの「同一化」から導き出される課題、すなわち教育が行うべきもの とは何かという問いへのヒントが内在しているように思われる。
次の場面を見てみよう。これは授業の前半に示された問いかけ、世界の国々の国旗の色は何 色で描かれているか、という問いに対するやり取りである。教師が、「世界の国旗」は8色で塗 ることができるという説明をしている場面である。 教師:(児童が授業書を読みあげてくれたことに対して)ありがとう、そこまで。世界の国旗に 使われている色は、白の他に、オレンジ、それから赤、黄色、緑、青、空色、黒、茶の8色。 えっと、ユリエちゃん、ちょっと絵本見せてくれる。ごめん、ちょっと貸して。すごいいい 本。あのさ、ちょっとこの絵本見て。ペラペラって見るとね、色がね、8色あればだいたい 良いって言うんだけど。ちょっと数えとって。赤、青、水色、白、黄色(子どもたちが、そ れに合わせて1、2、3、4、5、と数える)。 児童たち:黒。黒。6。 教師:黒。 児童たち:あ、緑。7、8。 児童:オレンジ。 児童:空色は、空色。 児童:出たよ、もう。 教師:あと出たよね。 児童:あと茶色、茶色。 教師:あるね、もう。あるね。 児童:茶色。 教師:あるね。あ、茶色あった。茶色。これで何色くらい? 児童:9。 教師:9色ぐらい。もうあとは。 児童:紫、紫あるよ。 教師:これ紫っぽいかね、ちょっと。まあ、そんなもん。だいたいね。細かい色はちょっとあ るけど。でもだいたい今言った色があれば。 児童:あ、黄緑。 児童:あ、ブータン。ブータン、かっちょいい。名前からしてさ、なんかさ…。 教師:だいたい、8色ぐらいあれば、どこの国の国旗も塗れちゃうよ、ていうわけですが…。 教師は国旗の絵本を見ながら、世界の国旗は8色あれば塗り分けられるといい、子どもたち と色の数を数えている。理屈でいえば、教師が「国旗の色は8色である」といえば、子どもは それを「正解」として自分を合わせることもできるだろう。言い換えれば、「求心的同一化」に よって自分を変え、その場のやり取りを終了することもできるはずである。ところが実際には 子どもたちは、絵本の中の色の数を数えることで、世界の国旗の色が8色で塗り分けられるこ とを確認しようとしたのである(6)。 絵本を見ながら本当に8色であるのか数えていた子どもたちの反応とは、外界から「正しい」 知識を提示され自分を変えるように促されているのに、わざわざ手間をかけて自分で確認しよ うとしている姿といえよう。それはやや強い言い方をすれば、自分の外界からもたらされた「正 しい」知識に、すんなりとは適応していない姿、わざわざ踏みとどまっている姿といえるだろ う。それは、自分で数えることを楽しんでいるようにも、あるいは簡単には自分を変えまいと しているようにも見える。他者に「同一化」し自分を変化させようとする「求心的同一化」へ
の促しに対して、一足飛びにそれを達成することにブレーキをかけているようである。 同様の様子は他にも見られた。たった一つの色で塗れる国旗があるとすればそれは何色か、 そしてそれがどこの国の国旗かという問いについて、答え合わせをする場面である。教師はた くさんの国旗が描かれた一枚のハンカチを開いて子どもたちに見せながら教室を歩き回ってい る。教室の黒板に向って左側半分ほどの子どもたちは一人の児童の手元にある一冊の絵本を見 ることによって確認できているが、右側半分の子どもたちは手元に絵本がないため、教師はこ の確認できていない子どもたちに、教室を歩き回りながらハンカチに描かれた国旗の絵柄を見 せているのである。 教師:国名は?リビアだそうです。リビア。ありますか?あります?いい?ちょっと本がない ので、いいですか?いい、あった?分かる?オッケイ?分かった?こっちの、絵本から遠い 人、絵本から遠い人こっち(ハンカチの絵柄を見せながら)、おっけい?真っ黄色あった?真 っ黄色、真っ白ありました?いいですか?この辺の人は絵本があるからいいですね。見たか った?ははは、ごめん。オッケイ、いい?(児童が最初に回答として挙げていた)真っ赤が あるかどうかも、ついでに見てね。真っ赤あった?真緑だけ?白が、真っ白があった?あと は?あった、ない?他にない?似てるけどちょっと違うね。ちょっとね。 教師:(子どもたち全体に対して)はい、一色だけの旗は、緑。国の名前は、リ、何でしたか? 児童たち:リビア。 教師:リビアだそうです。リビア、緑。リビア、リビアだそうです。 この場面で子どもたちは、教師のハンカチに対して顔を上げて、自分で緑色の国旗を確認し ようとしている。そのため教師は、通り過ぎてしまった子どもたちのためにわざわざ戻って来 て、「見たかった?ははは、ごめん。オッケイ、いい?」ともう一度ハンカチの絵柄を見せてい るのである。 やはり理屈でいえば、子どもたちは教師から示された知識、すなわち国旗の色は「緑色」で 国名は「リビア」であるという新しい知識に対して、実物を確認することなく丸暗記すること もできたはずである。手放しに「求心的同一化」することもできたはずである。ところが実際 には、子どもたちは旗の色は「緑色」、国名は「リビア」であることを自分の目で確認しようと するのである。それは自分で確認することを味わい、楽しんでいるようでもあり、外界から新 しく与えられた答えに簡単には染まるまいとしているようでもある。いずれにしても、やはり 自分で確認を行おうとしているのである。 そしてこの、一足飛びに「求心的同一化」に至らない様子こそが重要であるように思われる。 子どもたちは手放しで新しいものに「同一化」するというよりは、「世界の国旗を塗り分ける色 は8色であること」、「一色だけの国旗は緑色であること」を自ら確認しようとしているのであ る。外界に適応し自らを変えようとする「求心的同一化」であっても、実際の子どもたちはそ のまま外界に適応するだけの存在では決してない。そこにはまるで自分が「納得」したいとい う気持ちがあるように思われるのである。 繰り返しになるが、先述のように自らの答えを変更した児童(エイコさん)のように、積極 的に自らを変えようとすることももちろんある。それが「求心的同一化」であることは間違い ないが、ここで指摘したいのは、そこには手放しで自分自身が変わることにブレーキをかける ものが含まれているということである。積極的に自分を変えているように見えたとしても、そ こにはそれを打ち消すような、いわば矛盾した性格が内在しているということである。
前節では、「遠心的同一化」と「求心的同一化」が交互に見られることを指摘した。ただしそ れは、二つの「同一化」が実際の授業においてどのように見出せるかという文脈の中で論じた ものであった。だが本節で見たように、少なくとも「求心的同一化」の中にはそれを否定する ような要素が含まれている。自分自身を変えて外界に適応したいという気持ちは、それを否定 するような要素を含みもちながら、生じているのである。 このように考えると、この授業に見られたように、子どもたちの「同一化」は「遠心性」と 「求心性」というように確かに二つの側面が別々に見出せはする。しかもそれは、教師と児童 の互いのやり取りの中で入れ代わり立ち代わり行われているようにも見える。だが「求心的同 一化」に関していえば、その中には自分を変えて外界に適応したいという気持ちと同時に、そ こにブレーキをかける、正反対の心的働きが含まれている。それを読み取らなければならない のである。 おわりに―「同一化」の実態、その矛盾性を踏まえること 以上の議論を整理しよう。本稿が課題としたのは、まず実際の授業場面において、坂元が論 じた「同一化」に関する「二重性」がどのように表れるのかという点であった。またその問い を通して、「二重性」の回復のために教育ができること、求められる視点を明らかにすることが 課題であった。そのために注目した仮説実験授業の様子から見えてきたのは、まさに二つの「同 一化」が具現化した姿であった。子どもは自分の意見や考えにこだわり、教師や周囲に合わせ てもらいたいという姿を見せていた。また反対に、子ども自身が教師や周囲の考えに自分を合 わせようとする姿が見られた。教師もまた、「正しい」姿勢や「正しい」答えに子どもが自らを 合わせるように指示する様子が見られた。そうした「遠心的同一化」と「求心的同一化」は、 実際の授業においては教師と児童とのやり取りの中で急速に入れ替わるように見えるのである。 だが「求心的同一化」についてより詳細に検討することで見えてきたのは、「求心的同一化」 はそれ単体で生じているわけではないという点である。子どもは新しい知識を通して外界に適 応しようとする一方で、国旗の色が8色で塗り分けられることを自らわざわざ確認しようとし たり、1色で塗られた国旗をわざわざ確認しようとしていた。それは外界に適応しようとする という「求心的同一化」だけでは説明がつかない様子であった。すなわち、新しい知識を得て 自分を変え外界に適応しようとする「求心的同一化」においても、その瞬間には全くの手放し で自分を変えようとするわけではない様子が見られたのである。言い換えれば、子どもは自分 が外界に適応しようとしながら、同時にそこに自らブレーキをかけることがあるのだ。ハンカ チや絵本を通して、国旗の色が本当に8色で塗り分けられること、あるいは緑1色の国旗があ ること、そしてそれが「リビア」という国の国旗であること、などを確認しようとする様子は、 新しい知識を積極的に受け取り自分を変えようとする姿であると同時に、新しい知識をわざわ ざ検証しようとする、いわば「手間」をかけようとする姿である。つまり「求心的同一化」に おいては、積極的に自らを変えたいという思いが、自分が「納得」もしたいという思いと同居 しているということである。子どもたちは、「求心的同一化」の中にこうした矛盾性をもってい るのである。自分としては外界に適応したいが、いわば「納得」なしには適応できない、この 矛盾を前提とする理解こそが重要ということである。 この前提は、教育的働きかけに関する議論、「二重性」の保障において教育が果たす役割を検 討する上でも必要なことである。例えば先に、スリランカの国旗に加えられた緑色の帯の意味 を問うやり取りがあった。エイコさんという児童は初め、それを「イスラム教」であると考え て答えていた。ところが後から加えられた三つの選択肢を合わせて他の児童たちとともに回答
を選ぶ段になると、当初回答していた「イスラム教」を取り下げていた。「求心的同一化」によ って自らの考えを変えたのである。だが「求心的同一化」の中には、それにブレーキをかける ような心的働きがあったことが明らかになった。すなわち最初の回答を変更したエイコさんも、 その内面においては「納得」と呼んだブレーキが生まれていた可能性がある。自分を変えて別 の答えが正しいと思うと同時に、本当にそうであろうかという葛藤があったのではないか、と いうことである。そして、もし仮に全くブレーキもなく答えを変更していたのだとすれば、そ れは「納得」もなしに外界に適応していた可能性がある。 それは次のようにも言い換えられる。つまり授業においては、児童が教師の提示した「正し い」答えに合わせられるようになればよいのではなく、どのようなプロセスで葛藤を経験して いるのか、そしてそれを解決したり、あるいは解決し損ねた、そうした思考過程を見抜かなけ ればならないということである。教育的な働きかけにおいて求められることとは、まさに子ど もの中のこうした矛盾性を支えることに他ならない。 もともと坂元の議論に対して宮島が指摘した理論的課題とは、「二重性」の「変容」に関する ものであった。宮島によれば、坂元は「遠心性」と「求心性」を保障し再構築することが重要 であると論じ、いわば「二重性」を取り戻すことで「変容」を可能にしようというのである。 本稿で検討したような、実際の授業場面における「同一化」のあり方を踏まえれば、子どもの 中に生じる「同一化」をめぐるこうした矛盾性を保障することが重要ということになるだろう。 端的にいえば、「納得」をめぐる矛盾したプロセスを含めて授業を行なうということであり、「変 容」の問題にしても、こうした視点を踏まえる必要があるということである。 ただ、本稿の議論を通して課題も見出されるように思われる。まず、この「納得」とは何か ということについて、もう少しこだわる必要があるだろう。特に、「求心的同一化」において生 じる、自分で「納得」したいという逆向きの心の働きは、これまで述べてきたような「求心的 同一化」と「遠心的同一化」と、どのような関係にあるのか。「納得」しようとする様子を、自 分が変わることにブレーキを踏む様子と捉えれば、自分を変えようとする「求心的同一化」の 逆であるという意味で「遠心的同一化」と同じであるようにも見えるが、果たして同じものと いえるのか。この点について引き続き検討が必要であろう。それ自体がどのように変化してい くのかということも、稿を改めて考えてみたい。 また本稿で「納得」と呼んだものが、「変容」ということにどのように結びつくのかも重要で あろう。「求心的同一化」によって外界に適応することと、そこへ一足飛びに自らを合わせるこ とを留まることの間に矛盾があるとして、その矛盾の果てに何が生じるのか。例えば緑1色の 国旗があること、それが「リビア」という国名であることを「納得」することによって、それ は当人の何を「変容」したことになるのだろうか。これについても具体的な事例を通して、引 き続き考えていきたい。 それは「遠心的同一化」や「求心的同一化」のような心理的働きが、どのように生まれたり 消えたりするのかという仕組みについて考えることでもある。先述のようにワロンは、二つの どちらかが優勢となるかによって時期の交替があらわれると論じたという。そのメカニズムの 実態を明らかにすることは、今回論じた「納得」というものを教育活動においてどのように捉 えるかという議論ともつながっている。 子どもの「主体的・対話的で深い学び」とは、子どもが盛んに発言したり、正しい意見が言 えるようになれば、あるいは適応できるようになればよい訳では決してない。その内面におい て子どもが何を経験しているのか、矛盾性をもった存在として子どもの変化を支えていくこと が求められるのである。
脚注 (1)「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案並びに幼稚園教育要領案、小学校学習指導要 領案及び中学校学習指導要領案に対する意見公募手続(パブリック・コメント)の実施について」 http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000878 &Mode=0(2017 年 8 月 24 日閲覧) (2)答申では例えば、「質の高い深い学びを目指す中で、教員には、指導方法を工夫して必要 な知識・技能を教授しながら、それに加えて、子供たちの思考を深めるために発言を促した り、気付いていない視点を提示したりするなど、学びに必要な指導の在り方を追究し、必要 な学習環境を積極的に設定していくことが求められる。そうした中で、着実な習得の学習が 展開されてこそ、主体的・能動的な活用・探求の学習を展開することができると考えられる。」 とも論じられている。(第7章2項) (3)坂元によれば、アンリ・ワロンは「人格の発達において、子どもが人格構築に力をそそ ぐ時期と、反対に外界への適応活動に力をそそぐ時期とがあり、そのどちらかが優勢となる かによって、時期の交替があらわれ、それによって発達の段階がきまってくることに注目し た」(坂元1987,11:116)のだという。本稿の試みは、ワロンがいうように「時期」という ほどの長期間ではなく、一回の授業という短い時間の中にどのように表れるのかという問い でもある。 (4)国旗についての授業がこの一回だけではないことが推測される。例えば、「イスラム教の 国はいつも星と三日月がマーク」になっていることや、「モーリタニア」という国について 既に以前の授業で説明したと見られるやり取りが、この授業の中では行われている。 (5)教師と児童の発言を文字に書き起こすと、そのやり取りは非常にドライな対話であるよ うに見えてしまうが、斉藤氏の声の調子は時に歌いかけるようでもあり、実際のやり取りは とても緩やかなものであった。 (6)この場面に関しては、各国の旗を順番に見ていくと実際には8色では塗り分けられてい ない。教師がいう「世界の国旗は8色で塗れる」ということは、子どもたちからすれば、自 分の外部から与えられたものに他ならない。そしてかれらは、その事実を確認し自分自身で 検証しようとするわけだが、その検証は不成功に終わってしまう。実際の国旗には黄緑や紫 が使われているのに、それは8色にカウントされないのだ。先述のように、坂元は二つの「同 一化」の一方のみに引っ張られることを「宙づり」状態と呼んだが、この場合も子どもたち は「国旗は8色で塗れる」という知識に適応するよう促されているとさえいえ、まさに「宙 づり」状態に陥る危険性があろう。教師から与えられた答えに「適応するべき」、あるいは 後述するような自分の「納得」は後回しにさせられるべき、というメッセージを帯びたヒド ゥン・カリキュラムにもなりかねないだろう。 引用・参考文献 板倉聖宣、「自由電子が見えたなら 子どもがよろこぶ授業 前編」株式会社スタジオ・オズ、 2008 年 ――――、『仮説実験授業のABC』仮説社、1977 年 ――――、『仮説実験授業をはじめよう』仮説社、2010 年 ジャン・ラプランシュ、J-B.ポンタリス『精神分析用語辞典』みすず書房、1977 年 宮島基、「教育内容と「異化」をめぐる研究―坂元忠芳「教育における『異化』の問題について」 を手がかりに―」、『こども文化学科紀要』、沖縄大学人文学部こども文化学科、2016 年 斉藤裕子「世界の国旗」株式会社スタジオ・オズ(発売年不明) 坂元忠芳「教育における『異化』の問題について(1)」、『教育』国土社、1986 年 11 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(2)」、『教育』国土社、1986 年 12 月号
――――「教育における『異化』の問題について(3)」、『教育』国土社、1987 年 1 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(4)」、『教育』国土社、1987 年 2 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(5)」、『教育』国土社、1987 年 3 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(6)」、『教育』国土社、1987 年 4 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(7)」、『教育』国土社、1987 年 5 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(8)」、『教育』国土社、1987 年 7 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(9)」、『教育』国土社、1987 年 10 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(10)」、『教育』国土社、1987 年 11 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(11)」、『教育』国土社、1987 年 12 月号 ――――「教育における『異化』の問題について(12)」、『教育』国土社、1988 年 2 月増刊号 ――――「教育における『異化』の問題について(13)」、『教育』国土社、1988 年 3 月号 ――――「現代における子ども・青年の発達の危機について(上)」、『教育』国土社、1985 年 10 月号 ――――「現代における子ども・青年の発達の危機について(下)」、『教育』国土社、1986 年 1 月号 ――――「個性の形成と教育実践への視角」、『教育』国土社1985 年 9 月号 ――――「『同一化』作用の矛盾について」、『教育科学研究』東京都立大学人文学部教育学専攻、 1986 年 ――――「変革の教育学」私家版、2015---2016 年
Research on Duality in a Class: An Analysis of a Hypothesis-testing Experiment in Instructional Preactice
The purpose of this paper is to make clear the substance of the duality of a child’s identification in a class. The object of this analysis was a hypothesis-testing experiment in instructional practice at an elementary school. In the class, we found a duality in the student's identification: one was centrifugal identification and another was introverted identification. Those two types of identification were observed one after another, but what was important was that the introverted identification observed in this class had elements contradicting identification itself. Children are learning and adapting to a new world and new knowledge theough these contradictory aspects of indentification.
【研究ノート】