今 日 で は 、 世 界 の 諸 地 域 に つ い て 語 る 上 で 、 専 門 家 と そ れ 以 外 の 人 々 の 区 別 が 失 わ れ つ つ あ る 。 誰 も が 世 界 に つ い て 語 れ る 状 況 で 、 地 域 研 究 と し て 語 る に は 何 が 必 要 な の か 。 地 域 研 究 の そ れ ぞ れ の 現 場 か ら 考 え る 。
第Ⅲ部
新
し
い
地
域
研
究
を
め
ざ
し
て
は
じ
め
に
大学のゼミや学会・研究会で議論が嚙み合わないのはな ぜか。学会や研究会での議論を聞いていると、言葉通りに 聞くとデータ自体やその解釈について尋ねているけれど、 質問者の意図は別にあり、直接には言及されないその意図 に従って質問したり意見を述べたりしていることがある。 質問された側がその意図を理解していなければ質問や意見 を 言 葉 通 り に し か 捉 え ら れ ず、 そ の 結 果、 さ ら に 細 か い データを持ち出して答えようとしたりする。学会や研究会 で議論が嚙み合わない背景の一つはここにある。 あえて挑発的な言い方をするならば、地域研究で大切な ものは現地調査ではない。地域研究で大切なのは現地感覚 である。もちろん、データがなければ話にならないが、い くら現地で細かいデータをたくさん集めても、それだけで は研究にならない。データをたくさん集めてもデータ自身 は何も語ってくれないためだ。データの細かさや多さが大 切なのではなく、データどうしをつなぐ論理の筋が必要な のであって、その論理の筋を見つける上で重要になるのが 現地感覚にほかならない * 1 。 また、研究者自身が関心を持つものごとについて「これ はとても珍しいので世の中の人に伝えるべきだ」と思った としても、それを紹介するだけではやはり研究にはならな い。それは、その研究発表と他の研究をつなぐ論理の筋が 見えないためだ。そのような研究発表に対して、研究と研 究をどうつなぐかを尋ねる質問がなされたとき、発表者が第Ⅲ部
新
し
い
地域研究
を
め
ざ
し
て
先
行
研
究
を
ど
う
読
む
か
︱
︱
東
南
ア
ジ
ア
の
ナ
シ
ョ
ナ
リ
ズ
ム
論
を
例
と
し
て
山
本
博
之
「自 分 の 研 究 の 意 味 を ま っ た く 理 解 し な い 質 問 を さ れ た」 と憤慨する場面を見たことがあるが、これは発表者にとっ ても質問者にとっても不幸なことである。 この問題は、伝統的な学問分野ではあまり起こらないか も し れ な い。 学 問 分 野 ご と に、 大 き な 枠 組 の 問 題 が 何 で あって、それに対してこれまでどのような答えが試みられ てきたかが整理されており、それを学説史として学ぶこと ができるためである。修業中の身である学生時代にそれら の学説を仕込まれていれば、実際に研究することになった とき、どの学説に依拠するのかを決めれば迷う必要がない ということになる。 それでは、ここで言うような学説の系譜は地域研究には 存在しないのか。そうではない。地域研究でも多くの研究 者が共有する課題群があり、それらに対する答えの積み重 ねも存在する。これまで地域研究者の間で明文化されてい なかったとしても、それを抽出して提示することは可能な はずである。地域研究は扱う対象があまりにも広いため、 すべてを網羅する学説史群を把握するのは簡単な作業では ないが、テーマを限定して学説史を整理することは、研究 を進め、論文を書く上で不可欠である。 学説史を整理するための基本的な作業は先行研究を読む ことである。その際に、それぞれの論文が個別にどのよう な問いを立て、どのように答えているかを見ることはもち ろ ん 重 要 だ が、 そ れ だ け で な く、 明 文 化 さ れ て い な く て も、その論文は研究者コミュニティが共有するどの問題に 関心を向け、それにどのように答えようとしているのかを 意識しながら読むことも重要である。それがわかってこそ 学説史が見えてくるし、逆に、それをせずに学説史を書い ても、関連する論文をたくさん並べただけにしかならず、 自分の研究が他の研究との間でどのように位置付けられる かがわからないままとなりかねない。 先行研究を読む際に大切なのは、その論文の著者が何に こだわってその論文を書いたのかを読み解くことである。 それを見つける方法は、論文をたくさん読むこともそうだ が、それに加え、筆者が提案したいのは、論文の中で議論 が 飛 躍 し て い る と 感 じ ら れ る 部 分 に 目 を つ け る こ と で あ る。 心 を 打 つ 論 文 を よ く 読 む と、 適 切 な 方 法 で 得 ら れ た データをもとに論理的に議論を進めた上で、展望や意義を 示す部分で厳密な論証抜きに論理の飛躍が見られることが ある。 論理の飛躍があるというと、まじめな人は、飛躍をなく すにはどうすればよいかを考えることだろう。追加調査で 論証するには何人にアンケート調査をしなければならない かといった形式を整えようとするかもしれない。本稿の主 張はそうではない。極端な言い方をすれば、飛躍は飛躍の ままでかまわない。そこでは論理がぼかされているが、そ100 101 先行研究をどう読むか のぼかされている部分が実はその著者が一番訴えたい物語 の核の部分に関わっているためだ。想像を過剰に膨らませ て言うならば、その部分を書きながら、その著者は自分の 研究対象のことに思いを巡らせ、そして人類社会全体のこ とにも思いを巡らせ、心で泣いている。その部分には書き 手の価値判断が含まれるため、論文の中で正面から書くの はあまりなじまない。だから明文化したりせず、ぼかして 書くことで、わかる人たちにメッセージを伝えようとして いるのだ。そのことを理解して論文を読むと、書き手の気 持 ち が わ か っ て 読 み 手 も 泣 け て く る。 「ぼ か し ど こ ろ」 は 「泣 か せ ど こ ろ」 で も あ る。 そ れ を 読 み 取 る の が 論 文 を 読 む楽しみであるし、そのことを思いながら書くのが論文を 書く楽しみでもある。 本稿では、筆者が専門とする東南アジアのナショナリズ ム論の展開について、そのような観点から主要な論文を紹 介する。それぞれの論文の「ぼかしどころ」と「泣かせど ころ」を探しながら、それらの論文を通じて研究者どうし で言葉にならないメッセージをどのようにやり取りしてい た の か を 考 え て み た い。 そ の た め、 ま ず 研 究 者 コ ミ ュ ニ ティが共有しているナショナリズム論の課題を整理してか ら始めることにしたい * 2 。
Ⅰ
東
南
ア
ジ
ア
の
ナ
シ
ョ
ナ
リ
ズ
ム
論
この章では、東南アジアでナショナリズム論を扱うこと の意味を確認した上で、本稿で取り上げる東南アジア研究 者に共通していると筆者が考えるナショナリズム研究の課 題について整理する。 一般に、ナショナリズムとは排他的な自民族中心主義で あ る と 理 解 さ れ て い る よ う で あ る。 そ の 理 解 に 従 う な ら ば、ナショナリズムを研究することは、排他的な自民族中 心 主 義 を 支 持 し、 促 す こ と に な る と す る 誤 解 が あ る。 ま た、同じような理由から、ナショナリズム研究は国別の研 究であり、したがって他地域の研究とのあいだで共通の議 論が成立しないとする誤解がありうる。確かに、一国の内 側に閉じて展開されるナショナリズム研究もあるかもしれ な い が (そ れ は ナ シ ョ ナ リ ズ ム 研 究 に 限 ら れ た 話 で は な い はずだが) 、その理解は本稿の立場と大きく異なっている。 本稿がナショナリズム論を扱うのは、それによって他地域 の研究と対話したいためである。また、それを通じて他の 学問分野と対話したいと考えるためでもある。 本稿で試みるのは、東南アジア以外の地域との比較を意 識しながら東南アジアにおけるナショナリズム論を紹介す ることであり、その過程で他地域と東南アジアでの違いが 強調されるだろう。しかし、それはその地域と東南アジア が異なると言いたいためではない。その逆で、他地域で成 立するナショナリズム論はそのままでは東南アジアに適用 することはできないとしても、東南アジアのいろいろな事 例 に 適 用 で き る よ う 修 正 す る こ と で、 適 用 範 囲 が 広 い ナ ショナリズム論が得られる。このように、地域研究者が試 みているのは、地域の事例を出すことで既存の理論が成立 しないことを示すのではなく、既存の理論を修正すること でその適用範囲をより広くすることなのである。ナ
シ
ョ
ナ
リ
ズ
ム
の
四
要
素
主に西ヨーロッパを中心とした考え方として、言語を共 有する共同体が伝統的に特定の領域にまとまって住んでい る言語圏を考えることができる。このような考え方が受け 入れられている社会では、どの言語についても、公私いず れの場面でもその言語だけ使って生活できるようになるこ と が 可 能 (あ る い は 理 想) で あ る と さ れ る。 か つ て の 西 ヨーロッパでは、この考えのため、領域内の言語を統一し て少数言語話者に多数派の言語を強いることがあったかも しれないし、逆に、領域内の少数言語の話者が分離主義的 な傾向を持つことがあったかもしれない。また、国のなか に言語自治権や言語州を設定するという考え方が発展する かもしれず、この考え方は西ヨーロッパ以外でも見ること ができる。 これに対して、東南アジア、特に海域東南アジアでは、 伝統的に人口の流動性が高く、人々は土地に縛られずに比 較的自由に広範囲に及んで移動している。このような人々 のあいだで、宗教や交易の言葉として広い範囲で共通語と なっているマレー・インドネシア語という言語がある。つ まり、海域東南アジアの人々は、それぞれ母語を持ち、家 庭内などで日常的に母語を使っているが、それと別に共通 語としてマレー・インドネシア語を使っている。このよう な地域では、特定の言語を取り上げ、その言語が排他的に 使われている領域的な広がりを言語圏のように明確に示す のはとても難しい。 さらに、東南アジアの多くの国は、植民地国家として設 定された領域をそのまま受け継ぐかたちで独立国家の国境 を作ったため、一つの国のなかにさまざまな言語集団が存 在するし、同じ言葉を話す人々が国境を跨いで隣接する国 に存在することもある。 このような状況は、民族の自決を考えるときにどのよう に 理 解 さ れ る の か。 先 に 見 た 西 ヨ ー ロ ッ パ の 考 え に 従 え ば、母語を持ちながらも多数派の言語を公用語として受け 入れざるを得ない状況は差別的だという見方になりうる。しかし、東南アジアでは、言語を共有する共同体が排他的 な権利を求めるのではなく、言語や慣習が異なる人どうし で血縁よりも濃い関係を作れるかどうかが問題とされてき た。 東南アジアの事例を念頭に置いてナショナリズムの理論 化を目指したベネディクト・アンダーソンは、インドネシ アを例に、植民地分割によってたまたま同じ領域国家内に 暮らすことになった文化的に多様な人々が、教育や行政の 「巡 礼」 を 通 じ て 互 い の こ と を 知 り、 植 民 地 国 家 に お け る 運命共同体であることを自覚して、一つのインドネシア語 を共有する一つのインドネシア国民だと名乗ったと論じた (ア ン ダ ー ソ ン 一 九 九 七 * 3 ) 。 彼 ら は オ ラ ン ダ と 独 立 闘 争 を 戦って、インドネシア国家およびインドネシア国民の独立 を勝ち取った。 ここにナショナリズム論の四つの要素を抽出することが できる。第一に、さまざまな文化的背景をもつ人たちが植 民 地 支 配 な ど に よ っ て た ま た ま 一 つ の 領 域 に 住 む こ と に な っ た。 第 二 に、 そ の さ ま ざ ま な 人 々 が 何 ら か の 契 機 に よって運命共同体としての自覚を持つようになった。第三 に、植民地支配者を実力で排除し、植民地支配者が持ち込 んだものにかえて自分たちのものを使った。第四に、成員 が平等で対等な社会をつくった。この四つが東南アジアの ナショナリズム研究において重要な四要素である。 ただし、これらの四つは理想的な要素であり、現実の東 南アジア社会でこの四要素が同時に満たされているとは限 らない。そのことに東南アジア研究者たちがどのように対 応してきたかを見てみたい。
Ⅱ
フ
ィ
リ
ピ
ン
に
お
け
る
植
民
地
支
配
と
カ
ト
リ
シ
ズ
ム
最初に取り上げるのは、池端雪浦の「フィリピンにおけ る 植 民 地 支 配 と カ ト リ シ ズ ム」 (池 端 一 九 九 二) で あ る。 フィリピンは、はじめスペイン、後に米国の支配下に置か れ、 そ の 後 に 独 立 を 迎 え た。 国 民 は 多 様 な 人 々 か ら 成 る が、カトリックの信徒が多い。ここで問われるのは、カト リックとは植民地支配者であるスペイン人が持ち込んだも のでありながら、現在のフィリピン人がカトリックを信じ ているとすれば、それは植民地支配者がもたらしたものを ありがたがっている、言い換えれば、ナショナリズムの四 要素のうち「植民地支配者のものを排除する」という部分 が欠けていることになり、したがってフィリピンのナショ ナリズムは正真正銘のナショナリズムではないのではない かという問いになる。 池端はこの論文の中でこの問いを明示していないし、し たがってこの論文の中でこの問いに直接答えていない。池 端はフィリピンの住民のうちタガログ人について次のよう に論じる。植民地支配のもと、スペインによる聖書の翻訳 を通じてタガログ人のあいだでカトリックが増えたが、植 民 地 支 配 の 初 期 は 翻 訳 を 通 じ た 教 義 の「つ ま み 食 い」 で あって、むしろタガログ人は植民地のカトリシズムに全面 的に支配されることを回避しようとしていた。しかし、一 八世紀初頭ごろからタガログ人はカトリシズムを積極的に 取り入れるようになった。それまでタガログ人のあいだで は、人々は死んだあとで精霊になって人間に善悪のさまざ まな影響をおよぼすと考えられており、死は恐怖と結びつ いて理解されていた。しかし、カトリシズムの受容によっ て 天 国 の 観 念 が 死 に 対 す る 新 た な 存 在 論 的 意 味 づ け を 与 え、これによって人々は死の恐怖から解放された。この過 程 で、 祈 祷 手 引 き 書 の タ ガ ロ グ 語 翻 訳 に 付 け ら れ た「パ ション」というイエス・キリストの受難記が瞬く間にタガ ログ人のあいだに広まっていった。さらに、オリジナル・ バージョンを越えて、タガログ人の生活を織り込んださま ざ ま な パ シ ョ ン が 作 ら れ て い っ た。 こ れ ら の パ シ ョ ン に は、カトリックの教義に従って「人が人を支配するのはお かしい」という植民地支配を否定するものも現れた。この ように、タガログ人ははじめカトリシズムを消極的に受け 入れていたが、後に地元の文脈に照らして一部改変しなが ら積極的に受け入れ、カトリシズムの論理によって植民地 支配を否定するまでになった。 池端はさらに筆を進め、フィリピンのタガログ地域以外 で の こ の 議 論 の 適 用 可 能 性 に つ い て こ う 書 い て い る。 「タ ガ ロ グ 人 の 改 宗 の 一 つ の 到 達 点 に お い て 生 み 出 さ れ た パ ションが、タガログ地域のみならずその他の地域において も、さらに多くの人々の真実の改宗を促したことは疑いな い。 」 こ こ で 池 端 は「疑 い な い」 と し て、 そ の 具 体 的 な 論 拠を示していない。タガログ地域以外について検証するこ となく、池端は力強く「さらに多くの人々の真実の改宗を 促したことは疑いない」と言い切っている。 同 じ 論 文 の 別 の 箇 所 で は、 「パ シ ョ ン は、 フ ィ リ ピ ン 住 民に、植民地支配、階級支配、植民者の教会の限界を観念 化する言葉を与えたのみならず、それを克服するビジョン と言説をも与えたといえるであろう」と書いている。ここ では、タガログ地域について検証されていた議論がフィリ ピン住民全体についての議論にされている。そこに至る議 論は検証されておらず、いわば議論の「飛躍」がある。タ ガログ地域で成り立ったとしてもフィリピン全体で成り立 つとは限らないではないか、カトリック以外の住民につい てはどう考えるのか、あるいは、タガログ地域全域で成り 立っているとどうやって証明できるのかなどの批判が直ち にいくつか思い浮かぶ。しかし、この「飛躍」ゆえに、筆104 105 先行研究をどう読むか 者はここにこそ池端の言いたいことがあると考える。 池端の議論に従えば、タガログ人はスペインが持ち込ん だカトリックを受け入れたが、彼らは植民地支配者が持っ てきたカトリックをそのまま受け入れたのではなく、それ を自分たちのカトリックとして内面化した。これを池端は 「民 衆 カ ト リ シ ズ ム」 と 呼 ぶ。 こ れ に よ り 教 会 や 植 民 地 支 配の抵抗の原理が生まれ、そうだからこそこれは反植民地 主義のナショナリズムにふさわしい。ナショナリズムの四 要素のうち第三の要素が薄いのではなく、まさにその第三 の要素が強いのがフィリピンのナショナリズムなのだとい う主張となる。 池端論文以後、外部世界に由来するものを身につけてい るからといって、そのことだけをもって外部世界に依存し ているとは言えなくなったということである。外部世界に 由来するものをどのように取り入れているかが重要なので あり、その観点から見るとフィリピンのナショナリズムは 正真正銘のナショナリズムであるというのが池端の主張で ある。なお、後の議論との関連で、ここでナショナリズム が対抗して自立することと関連して捉えられていることに 注意しておきたい。 フ ィ リ ピ ン の ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 考 え る 上 で、 最 も「弱 い」 の は 国 民 の 多 数 が カ ト リ ッ ク を 受 け 入 れ て い る こ と だった。池端論文は、最も「弱い」部分を最も強い部分に 転換したということである。研究対象が一般的な目で「弱 み」と見られることについて、そこに積極的な意味を見出 そうとすることで理論に対する貢献をもたらすことができ ることを示している。
Ⅲ
イ
ン
ド
ネ
シ
ア
に
お
け
る
重
層
的
な
フ
ロ
ン
テ
ィ
ア
空
間
次に取り上げるのは土屋健治の「インドネシアの社会統 合 ―― フ ロ ン テ ィ ア 空 間 に つ い て の 覚 え 書 き」 (土 屋 一 九 八 八) で あ る。 イ ン ド ネ シ ア の 国 民 の 多 数 派 は イ ス ラ ム 教 徒である。イスラム教をインドネシアに外来のものと捉え るかどうかはおくとして、植民地支配者がもたらした宗教 でないことは確かであり、その意味で、植民地支配者がも たらした宗教をそのまま受け継いでいるのではないかとい うフィリピンで問われた問題はここでは生じない。 かわってインドネシアで問われるのは、インドネシアと いう国家はオランダ領東インドという植民地国家の領土や 統治制度を受け継いで作られたものであり、植民地支配者 であるオランダ人が作ったものを受け継いでいるというこ とは反植民地主義でもナショナリズムでもないのではない かという問いである。 また、インドネシアに関してはもう一つの問いがある。 一九八〇年代まで、インドネシアは「国民統合の優等生」 と呼ばれていた。インドネシアは多民族国家であるにもか か わ ら ず、 民 族 の 名 を 掲 げ た 分 離 独 立 運 動 が ま っ た く 起 こ っ て い な か っ た た め で あ る。 こ れ を 土 屋 は イ ン ド ネ シ ア・ナショナリズムが実現されているためと見るが、これ に 対 し て、 イ ン ド ネ シ ア で は 国 軍 が 行 政 機 能 を 担 っ て お り、国政から町内会に至るまで国軍による統制が浸透して いるため、インドネシア国民が統合しているように見える のは国軍が強権で押さえつけているためであって、住民の あいだで平等で一体なる国民概念が育まれているためでは ないのではないかという問いである。 土屋はこの論文中でこの問いを明示していないし、した がってこの問いに明確に答えているわけではない。この論 文で土屋は次のように論じている。 現在インドネシアがある領域には、かつて港市国家、植 民地都市、植民地官僚制、ナショナリズム、国家官僚制な どのフロンティア空間があり、それらのさまざまなフロン ティア空間が重層的に存在してきた。フロンティア空間の 結節点である都市では各地の出身者が交わって混成文化が 作られた。その混成文化がそれぞれの出身地に持ち帰られ ることによってフロンティア空間全体で混成文化が共有さ れていき、フロンティア空間内での文化的統合がゆるやか に進んでいった。このようなフロンティア空間は何層にも 重なっており、新しいものが上に重なっていくが、その過 程で下の層が失われるわけではない。これらのフロンティ ア空間が複数重なっている部分がたまたま植民地支配の領 域と重なったため、インドネシアという統合が植民地国家 を受け継いだものであるように見えるかもしれないが、イ ンドネシアという国家の統合を支えているのはその下にあ るフロンティア空間の統合である。したがって、植民地支 配 を 受 け 入 れ て い る た め に 統 合 が 強 い と い う わ け で は な い。 このように論じた上で、土屋は、 「逆 説 的 で は あ っ て も、 ジ ャ ワ 人 が ジ ャ ワ 人 と し て の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 確 認 す る 場 こ そ、 イ ス ラ ー ム 運 動、労働組合運動、反華人運動、民族教育運動なかん ず く 反 植 民 地 政 府 運 動 (ナ シ ョ ナ リ ズ ム) な ど、 い ず れもナショナルなレベルで進行する運動体においてで あ っ た。 個 人 の 心 理 の レ ベ ル で い え ば、 「よ き ジ ャ ワ 人」になることと「よきインドネシア人」になること は等価の価値であった。このようなモデルは他の住民 集団においてもあてはまるであろう」 と論じている。「『よ き ジ ャ ワ 人』 に な る こ と」 と「 『よ き イ ン ド ネ シ ア 人』 に な る こ と」 が 同 じ と い う の は ど の よ う な 意 味 か。 ジャワ人はインドネシア国民の約半数を占めるが、なぜ多 数派であるジャワ人は自分たちの母語であるジャワ語をイ ンドネシアの国語にしようとせず、マレー語をもとに作ら れたインドネシア語を国語にしたのか。この問いへの答え は、ジャワ語には敬語体系があって難しいからとされてい る。これは、単に敬語がある言語は習得しにくいというこ とではない。敬語体系があるというのは、ジャワ人の伝統 的 な 人 間 関 係 で は 人 々 の 身 分 が 明 確 で あ り、 し た が っ て ジャワ語で話す限り、常に自分と相手の上下関係が意識さ れるということである。しかし、自由で平等のナショナリ ズムの時代にあって、常に自分と相手の上下関係を意識し な け れ ば な ら な い の は よ き 人 生 で は な い。 「よ き ジ ャ ワ 人」になるにはまず「よき人間」でなければならず、その うえでジャワ人性を維持しなければならない。そして、一 人のジャワ人としてよりよい人間になるには、上下関係の なかに身を置くのではなく、他人と対等の立場で自分を位 置付けなければならない。そのためにはジャワ語は適切さ を欠く。そして、自分と他人を対等の立場にすることが実 現できるのは、ジャワ人だけの社会の中ではなく、他の民 族を含めたインドネシア国民という枠組においてである。 だから、インドネシアという国民の一員となることによっ て こ そ、 ジ ャ ワ 人 は ジ ャ ワ 人 と し て の 人 間 性 を 維 持 し、 「よ き ジ ャ ワ 人」 に な れ る。 よ き ジ ャ ワ 人 に な る こ と は よ きインドネシア人になることなのである。これこそ土屋が 強調して訴えている主張である。 軍による支配に関連して、土屋はこの論文で明言してい ないが、次のように議論している。この論文では「フロン テ ィ ア と し て の 海」 「フ ロ ン テ ィ ア と し て の 植 民 地 都 市」 「植 民 地 官 僚 制 度 と ナ シ ョ ナ リ ズ ム」 な ど の フ ロ ン テ ィ ア 空間が挙げられ、それぞれのフロンティア空間が節ごとに 説明されている。しかし、五番目のフロンティア空間につ い て は、 「お わ り に」 で「第 五 の フ ロ ン テ ィ ア と し て 提 示 した現代官僚制をめぐる諸問題については、尻切れトンボ の観はあるが、いくつかの論点を提示するだけに止めてお きたい」と書いているだけである。植民地のフロンティア やナショナリズムのフロンティアについてはそれぞれ四、 五ページを費やして論じているが、現代官僚制をめぐる諸 問題に関しては五、六行しか書いていない。なぜこれだけ しか書いていないのか。 もちろん、執筆時間がなかったからでもページ数が足り なくなったからでもないはずだ。それにもかかわらず土屋 が第五のフロンティア空間についてほとんど書いていない のは、インドネシアのナショナリズムを語る上で、官僚や 軍が国民を抑えつけているインドネシアを見たくない、語 り た く な い、 だ か ら 語 ら せ な い で く れ と い う 気 持 ち か ら だったのではないか。第五のフロンティアについて全く言 及しないわけにはいかないが、わざわざ「尻切れトンボ」 と断ってほんのわずかしか書かないのはそのためではない だろうか。 このことは、インドネシアの統合がうまくいっているの は軍による管理のためであって国民の意識のためではない の で は な い か と い う 最 初 の 問 い に 対 す る 答 え に な っ て い る。軍が主体となって担っている行政のフロンティア空間 を軽視してほとんど記述せず、その下にある基層のフロン ティア空間について詳しく描写することにより、基層のレ ベルで社会統合が進んでいるからインドネシアが統合され ているのであって、植民地制度やナショナリズムや国軍に よる管理制度は後から来たものに過ぎない、だから、仮に それらが失われたとしてもインドネシアの統合はずっと維 持されるに違いないという主張が込められている * 4 。 ここで も、ぼかしているところに書き手の思い入れが一番込めら れている。 ここで注目したいのは、インドネシアが植民地国家の枠 組を受け継いだことがナショナリズムの観点から積極的に 捉えられていることである。植民地支配者によって勝手に 引かれた領域だからこそ、もともと互いに関係がなかった 人々が出会う機会となり、その人々の間で同胞意識が生ま れた、つまりその同胞意識は自分たちで選び取ったものだ と見ることができる。これも、他の事例と比べたときに一 見するとインドネシアの「弱み」であるかに見える部分に 積極的な意味を見出そうとし、そのことが理論に対する貢 献をもたらした例である。
Ⅳ
ベ
ト
ナ
ム
に
お
け
る
南
国
意
識
続いて、古田元夫の「ベトナム・インドシナの民族的諸 相 ―― エ ス ニ シ テ ィ 論 の 視 点 か ら」 (古 田 一 九 八 四) を も とにベトナムの事例について考えてみたい。 ベトナムも多民族国家で、公式に五四の民族がある。最 大多数派がキン族で、国民の九割近くを占めている。キン 族による王朝の版図を受け継ぐかたちで現在のベトナム国 家 の 領 域 が 形 成 さ れ た。 と い う こ と は、 イ ン ド ネ シ ア や フィリピンのように、その土地にもともと存在する政体と 無 関 係 に 植 民 地 国 家 が 作 ら れ、 そ こ で 多 様 な 背 景 を 持 つ 人々が出会って「われわれ」という思いを得て、麗しい同 胞愛にめざめたナショナリズムが発展する環境がベトナム では整っていなかったということになる。別の言い方をす ると次のような問いになる。ベトナムはキン族の王朝をそ のまま受け継いで現在の国家が作られており、国民にはキ108 109 先行研究をどう読むか ナム・ネイション意識に至った。これはまさに成員の平等 を原則とするナショナリズムである。 この議論では、現在のベトナム国家が伝統的な王国の版 図を受け継いでいることから王国の担い手だったキン族を 中心とした国になっているという「弱さ」になりうる部分 に注目し、まさにそのような意識を乗り越えたからこそベ ト ナ ム 国 民 が 成 立 し た と し て い る 点 で、 一 見 す る と「弱 み」に見える部分に積極的な意味を見出そうとすることが 理論面での貢献をもたらしたものであり、これまでに見た 池端や土屋の研究と共通性がある。
Ⅴ
マ
レ
ー
シ
ア
に
お
け
る
カ
ダ
ザ
ン
人
意
識
の
形
成
最後に、筆者の「カダザン人のナショナリズムとエスニ シ テ ィ ―― 英 領 北 ボ ル ネ オ (サ バ) に お け る 収 穫 祭 の 成 立」 (山 本 二 〇 〇 一) を 題 材 に し て マ レ ー シ ア の 事 例 を 取 り上げたい。これまで取り上げたフィリピン、ベトナム、 インドネシアは、欧米の植民地支配者と華々しく戦って独 立を勝ち取った国々である。しかし、マレーシアは植民地 支配者であるイギリスと独立戦争を戦わず、交渉によって 独立を付与された。独立戦争を戦っていないためにマレー シアには国民的なナショナリズムが育っていないとする主 張がある。また、マレーシアはマレー人、華人、インド人 などから成る多民族社会であり、それぞれの民族意識が強 く意識されているが、そのことをもってマレーシア国民意 識が希薄であると考え、そのことをナショナリズムの不在 と結びつける議論もある * 6 。 こ こ で は マ レ ー シ ア の サ バ (北 ボ ル ネ オ) 地 域 に 住 む カ ダ ザ ン 人 を 取 り 上 げ る。 「我 々 は カ ダ ザ ン 人 で あ る」 と い う主張がカダザン人の間で広く意識されるようになったの は一九五〇年代初めであり、その主張がカダザン人以外に 対しても積極的に訴えられるようになったのは一九六〇年 以降のことである。これは、イギリス領だったマラヤ連邦 が一九五七年にマレー人ムスリムを中心とする国として独 立し、同じイギリス領だったサバのマラヤ連邦との統合案 が検討されていた時期だった。カダザン人は、マレー人ム スリムの優位に対抗するため、特にエリート層が英語とキ リスト教を積極的に受容し、英語とキリスト教に触れてい ることをカダザン人意識の中心に据えた。フィリピンの例 と同様に、植民地支配者であるイギリス人が持ち込んだも のを受け入れていることから、カダザン人意識は構成員の 平等性や反帝国主義に基づくナショナリズムと同じもので はないという批判がありうる。 これに対する筆者の議論は以下の通りである。植民地に ン族以外もいるがそれらは少数民族であって、結局のとこ ろベトナムはキン族中心の国家であり、したがってベトナ ムには国民の平等・対等を基礎とする反植民地主義的なナ ショナリズムは存在しないのではないか * 5 。 この問いに対して古田は、この論文の中で次のように述 べている。 「か く て、 ベ ト ナ ム 人 = キ ン 族 も、 多 民 族 か ら な る ベ ト ナ ム と い う nation の 一 構 成 員 と 見 な さ れ る よ う に な っ た。 そ こ で は、 ベ ト ナ ム 人 は、 こ の nation を 支 える主軸ではあるが、それを排他的に独占したり、そ こから分離したりすることは原理的にできない存在と して位置づけられるようになったのである」 。 この議論はやや込み入っていて一読しただけではわかりに くいが、そのことは、ここに古田の主張が込められている ことを示している。これに至る議論をもう少し詳しく見て みると次のようになる。 ベトナムの多数派であるキン族は、自分たちのことを、 北の文明国である中国に対抗する南の文明国と捉え、それ と同時に周辺の諸民族を蛮人と捉えていた。この時点では 確かにベトナムはキン族の国であり、少数民族は蛮人とし て扱われているにすぎなかった。フランスによる植民地化 を契機として、ベトナムやインドシナといったさまざまな 枠組で自分たちを捉えようとする動きが生じたが、このと きでも周辺諸民族はキン族による文明化の対象としてしか 位置付けられていなかった。このような状況で、ベトナム 人共産主義者は、フランスに対抗するためにインドシナ次 元での連帯が必要だと認識するようになり、周辺諸民族と の連帯に基づいて「自分たち」を再定義しようとした。そ こで、ベトナムの諸民族が一つのひょうたんから生まれた という神話が再解釈され、ベトナムの多民族が親密に結び つ い て 闘 争 す る も の で あ る と 神 話 が 読 み 替 え ら れ て い っ た。 古 田 の 議 論 を ま と め る と 次 の よ う に な る。 ベ ト ナ ム 人 は、キン族による王朝の版図を無自覚にそのまま独立国の 領域にしたのではない。別の言い方をすれば、キン族が周 辺の少数民族を従えたかたちでベトナムという国家を構想 したのではない。自分たちを世界にどのように位置付ける かという観点から、ベトナムやインドシナといった複数の 枠組について検討した上でベトナム国家を建設した。重要 なのは、その過程でキン族が周囲の少数民族との関係に対 する認識を転換したことだった。すなわち、外部の大文明 に対して自分たちの文明度を主張し、そのかわりに近隣の 諸民族を蛮人と見るという南国意識が克服され、キン族と 少数民族がともにベトナム国家の主人公となるというベト例をナショナリズム論に位置づけようとするのか。例えば 多極共存型デモクラシーなど、この事例をうまく説明でき そうな概念はほかにもいくつかある。それらの概念を使え ば、より多くの人に理解されやすくなるのではないか。ナ ショナリズムの定義は従来通りにして、フィリピンやイン ドネシアやベトナムはナショナリズムが見られたけれどマ レーシアではナショナリズムは見られなかったとすればい いではないか。 これらの批判はもっともだと思うし、学会などで認めら れる論文の数を増やしたいのであればその方が安全な道行 きになるだろうことは十分に理解できる。それにもかかわ らず筆者がこの事例をナショナリズム論に位置づけて語ろ う と し た の は、 ナ シ ョ ナ リ ズ ム 研 究 の 成 果 を 受 け 継 ぎ つ つ、ナショナリズム研究への修正案を提出したかったため だ。 ナショナリズム研究から受け継ぎたかったのは、本稿で も見たように、植民地化などの事情でたまたま同じ「場」 に居合わせた人々の間で持続的な協力関係が作られるとい う見方である。一方、修正案を出したかったのは、持続的 な協力関係の前提に同胞意識や郷土愛などで語られる運命 共同体意識があるという考え方に対してである。同胞意識 や郷土愛などがなくても同じ「場」に居合わせた人々の間 で持続的な協力関係を作ることは可能なはずであり、持続 的な協力関係が築かれている限りは同胞意識や郷土愛を形 にして示すよう他人から求められたくないと考えたためで ある。 ナショナリズム研究は、世界の各地で帝国主義的な支配 が見られた状況で、支配に抵抗しようとする民衆の動きに 寄り添おうとする立場から、あるいはその逆に統治者が民 衆の反乱を防ごうとする立場から関心の対象になったよう に思われる。そこでは、ナショナリズムとは、問題解決が カネや権限などのやり取りでは済まず、場合によっては自 らの命を賭して相手の命を奪うという形で問題解決を図ろ うとするという、ある意味で「非合理的」な判断や行動と して受け止められ、それが何に由来するのかが主要な研究 関心となっていた。それがわかれば、ナショナリズムを発 動 さ せ て 支 配 者 の 打 倒 に 人 々 を 動 員 で き る か も し れ な い し、その逆に、為政者が自身に敵対するナショナリズムを 未然に防ぐことができるかもしれないため、ナショナリズ ムを好ましく思う側も好ましく思わない側もナショナリズ ム研究を行ったのである。 このようなナショナリズム研究においては、ナショナリ ズムとは人々が「われわれ」意識をもって他者を実力で排 除 す る 側 面 が 強 調 さ れ る こ と に な る。 実 際 に は、 「わ れ わ れ」の中にもさまざまな立場があり、舞台裏で戦いを支え た 人 々 や 戦 い を 避 け よ う と し た 人 々 も い た は ず だ が、 ナ おいて「存在しないもの」という扱いを受けていた現地住 民にとって、サッカー・リーグやスポーツ大会は、他人と 競 り 勝 つ こ と で 公 の 場 で 名 乗 り を 上 げ る 唯 一 の 手 段 だ っ た。他方で、植民地国家は植民地建設のために現地住民を 動員しなければならず、国家儀礼にスポーツ大会や女王コ ン テ ス ト な ど を 取 り 入 れ た。 こ の よ う に し て 形 作 ら れ た 「競 り 勝 つ こ と で 名 乗 る」 と い う あ り 方 は、 第 二 次 世 界 大 戦 以 降、 「文 化 の 固 有 性 を 示 す こ と で 名 乗 り を 上 げ る」 と いうあり方に変わっていった。この延長上で、サバ西海岸 地区の現地住民は一九五三年にカダザン人会を組織し、同 年行われたイギリス国王の戴冠式にカダザン人として列席 が認められることで、世界に対してカダザン人の存在を知 らしめた。さらに、植民地国家が国家儀礼をモデルに定期 市を開催すると、西海岸地区のカダザン人はそこに収穫の 儀礼を取り入れ、カダザン人の伝統的な収穫祭であると主 張した。また、西海岸地区のカダザン人は、伝承に基づい てカダザン人の族長「フグアン・シオウ」を創出し、カダ ザン人に好意的で植民地政府とも関係が深い欧亜混血者の 実業家をフグアン・シオウに即位させた。こうして、カダ ザン人は太古の昔からサバにいた民族であるという論拠を 積み重ねていった。 こ の よ う な 議 論 の 後、 筆 者 は、 「収 穫 祭 に 合 わ せ て 行 わ れ た フ グ ア ン・ シ オ ウ の 即 位 の 儀 式 と は カ ダ ザ ン 民 族 に とっての「王」の戴冠式にほかならず、これは、やがて自 分たちがイギリス人と対等な立場に立つという思いの現れ であった」と書いた。 フグアン・シオウがカダザン人にとっての王であるかど う か に つ い て、 カ ダ ザ ン 人 と は ど の 範 囲 の 人 々 を 指 す の か、西海岸地区のエリート層だけなのか、西海岸地区以外 の人々も含むのか、西海岸地区以外の人々がフグアン・シ オ ウ を 王 と 捉 え て い た か ど う か を ど の よ う に 証 明 す る の か、そもそも「王」という概念を共有していたのか、さら には、即位儀礼を行うことと自分たちがイギリス人と対等 な立場に立つことが結びついていたことはどのように証明 されるのかなど、たちどころにいくつもの疑問が浮かぶ。 筆者はこれらの批判に対して十分に反論できると筆者なり に考える材料を持っているが、誰が見ても明らかに証明さ れたと思うような客観的な証拠の提出を求められれば、そ れは難しいと言わざるを得ない * 7 。
戦
わ
な
い
ナ
シ
ョ
ナ
リ
ズ
ム
筆者はさらに、この議論をナショナリズム論に位置づけ ることを試み、カダザン人やサバの事例をもとに「戦わな いナショナリズム」という議論を提出した。これに対して しばしば受けた反応は次のようなものだった。なぜこの事112 113 先行研究をどう読むか 以外の部分では東南アジアのナショナリズム論の系譜の延 長上にある。筆者が行ったのは、カダザン人の事例を考慮 に入れることで、ナショナリズム論の適用可能な範囲が広 がり、より意義があるものになるという提案である * 8 。この 提案が他の研究者に受け入れられるかどうかは、文字通り の推論の妥当性だけでなく、この提案が社会にどのような 意味を与えるかという観点を含めて判断されることになる と筆者は考えている * 9 。
お
わ
り
に
本稿では、論文の「ぼかしどころ」に込められた行間を 読もうとすることを通じて、それぞれの研究者がその論文 に込めた意図を読み解き、それらを繋げていくことで学説 史として捉えることを試みた。なお、東南アジアのナショ ナリズム研究に限っても本稿で取り上げたもののほかに多 くの研究があるが、それらを紹介していないのは、ナショ ナリズム論を網羅的に紹介することではなく、先行研究の 系譜を自分の関心に即して捉えることに本稿の目的があっ たためである。 また、本稿ではそれぞれの研究者について論文を一つだ け挙げているが、実際に筆者が行った作業は、それぞれの 研究者が過去に発表した論文やエッセイを集め、古いもの から順番に全部読むことだった。似たテーマで書かれた論 文もいくつか出てくるし、同じデータを違う角度から取り 上げた論文が出てくることもある。それらをたくさん読ん でいくうちに、同じ研究者によって繰り返し指摘されてい る主張が見えてくる。その主張に注意しながら読み進める と「ぼかしどころ」が浮かび上がってくる仕組みになって いる。このような「ぼかしどころ」を通じて言葉で表現さ れない対話を行っているのが地域研究の楽しさの一つなの だ。 ◉注 * 1 念 の た め に 注 記 し て お く と、 こ れ は「フ ィ ー ル ド に 入 る 前 に そ の フ ィ ー ル ド に 関 す る 研 究 を 一 通 り 読 ん で お く べ き か 否 か」 に つ い て 論 じ て い る の で は な い。 デ ー タ 収 集 の 方 法 は 文 献 中 心 や フ ィ ー ル ド 中 心 な ど あ る が、 い ず れ の 場 合 で も 研 究 内 容 を 論 文 に ま と め る と き に は 学 説 史 の 整 理 が 不 可 欠 で あ り、本稿ではこのことを扱っている。 * 2 東 南 ア ジ ア と そ れ 以 外 の 地 域 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム 論 の 比 較 は(西 二〇〇二)を参照。 * 3 ベ ネ デ ィ ク ト・ ア ン ダ ー ソ ン の『想 像 の 共 同 体』 は 内 容 を十分に読まずに批判されることが多いように思われる。 『想 像の共同体』については(古田 一九九二)のまとめを参照。 * 4 土 屋 が 一 九 九 五 年 に 亡 く な っ た 後、 一 九 九 八 年 に ス ハ ル ショナリズムを勝ち負けとして捉える立場では、このよう な 人 々 の 存 在 に は 積 極 的 な 関 心 が 向 け ら れ な い こ と に な る。 もしナショナリズムが自らの命を賭して相手の命を奪う ことで問題解決を図ろうとする非合理的な判断や行動とい うだけの意味しかないのであれば、それは早晩淘汰される こ と だ ろ う。 し か し、 グ ロ ー バ ル 化 が 進 む 今 日 の 世 界 で は、国境を含むさまざまな境界をなくして自由に移動・連 携することで繁栄が期待できるのは一部の強者であり、多 数 の 人 々 に と っ て は、 地 球 規 模 よ り も 小 さ い 範 囲 で ま と まって相互扶助の枠組を作ることがなお必要とされている ように思われる。また、そのような世界では、同胞意識や 郷 土 愛 を 共 有 し う る 人 々 の 範 囲 内 で 秩 序 を 守 る こ と よ り も、 構 成 員 が 流 動 的 で あ る「場」 で、 「場」 を 共 有 す る 人々の間で持続的な協力関係を築くことの方が重要な意味 を持つはずである。このように考えるならば、今日におい て も な お ナ シ ョ ナ リ ズ ム や 民 族 の 有 効 性 は 失 わ れ て お ら ず、むしろ「実力による他者の排除」の要素を取り除いた ナショナリズムのあり方を検討する意義が大きく、また、 そ の た め に は 戦 っ た ナ シ ョ ナ リ ズ ム (戦 っ て 負 け た ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 含 む) で は な く、 戦 わ な か っ た ナ シ ョ ナ リ ズ ム の事例を見る必要もあるということになる。これにより、 「排 他」 と「戦 い」 に よ っ て 特 徴 づ け ら れ て い た ナ シ ョ ナ リズムを「まとまり」と「自立」によって捉え直すことが 可能になるはずである。 このような考えに関連して浮かび上がってきたのが、世 界で名乗りを上げることとナショナリズムを重ねて捉える 考 え 方 だ っ た。 そ こ で、 「カ ダ ザ ン 人」 を 名 乗 っ た 人 々 が 何に対して名乗りを上げようとしたのかを調べ直したとこ ろ、得られた直接的な答えは、植民地国家の枠組で植民地 支配者であるイギリス人に対して名乗りを上げるというも のだった。これは、利用可能だった資料から導かれる結論 であるという意味では誤りとは言えないが、これをもって 答えとしてしまえば、カダザン人意識とは結局のところイ ギリスによる植民地支配のもとで「よきイギリス臣民」に なろうとしただけということになる。そのため、参照する 資料の種類をさらに広げて調査を続けたところ、一九五〇 年代のカダザン人意識の形成に関わる活動が植民地国家の 枠組をはみ出しており、植民地国家の枠内で植民地支配者 であるイギリス人に対して名乗りを上げようとしていたも のではなかったことなどを示す資料が見つかった。フグア ン・シオウがイギリス女王と対等の立場を得ようとしてい たというのはこれらの資料をもとに浮かび上がってきた議 論である。 サバのカダザン人の事例は、生命や財産の危機を冒して 戦って独立を勝ち取ろうとした側面は見られないが、それ子・ 山 内 昌 之 編『現 代 ア ジ ア 論 の 名 著』 中 公 新 書、 一 二 四 ― 一三六頁。 古田元夫(一九九六) 『アジアのナショナリズム』山川出版社。 山 本 博 之(二 〇 〇 一) 「カ ダ ザ ン 人 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム と エ ス ニ シ テ ィ ―― 英 領 北 ボ ル ネ オ(サ バ) に お け る 収 穫 祭 の 成 立」 『ODYSSEUS』第六号、四一―六〇頁。 山本博之(二〇〇二) 「英領北ボルネオ(サバ)におけるバジャ ウ 人 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 形 成」 『東 南 ア ジ ア 歴 史 と 文 化』 第三一号、五七―八〇頁。 山 本 博 之(二 〇 〇 五) 「地 域 研 究 者 に と っ て 地 域 と は 何 か ―― マ レ ー シ ア・ サ バ 州 の バ ジ ャ ウ 人 研 究 に 見 る 当 事 者 性 と 外 来 者性」 『地域研究』第七巻第一号、九一―一〇六頁。 山 本 博 之(二 〇 〇 八) 「プ ラ ナ カ ン 性 と リ ー ジ ョ ナ リ ズ ム ―― マレーシア・サバ州の事例から」 『地域研究』第八巻第一号、 四九―六六頁。 Yamamoto Hiroyuki ( 2011a ) Introduction , Yamamoto Hiroyuki, Anthony Milner, Kawashima Midori, & Arai Kazuhiro ( eds. ). Bangsa and Umma: Development of People-Grouping Concepts
in Islamized Southeast Asia. Kyoto University Press. pp.1-16.
Yamamoto Hiroyuki ( 2011b ) Our People : Telemovies, Bangsa and Nationalism 3.0 in Sabah, Malaysia . David Lim and Yamamoto Hiroyuki ( eds. ). Film in Contemporary Southeast Asia: Cultural Interpretation and Social Intervention. Routledge. pp.112-129. ト 体 制 が 崩 壊 し、 イ ン ド ネ シ ア は 地 方 分 権 の 時 代 に 入 っ た。 ま た、 ア チ ェ や パ プ ア な ど、 民 族 名 を 掲 げ た 分 離 独 立 運 動 が 展 開 さ れ た。 土 屋 の 死 後、 土 屋 の 議 論 は イ ン ド ネ シ ア 研 究 か ら 忘 れ ら れ て し ま っ た 感 が あ る が、 本 稿 で 取 り 上 げ た よ う に、 土 屋 の 議 論 は ス ハ ル ト 体 制 崩 壊 後 の イ ン ド ネ シ ア に も 十 分に適用可能であると筆者は考える。 * 5 こ れ と は 違 う レ ベ ル の 批 判 と し て、 ベ ト ナ ム は 共 産 主 義 国 で あ り、 本 来 国 境 で 区 切 ら れ な い 共 産 主 義 を 掲 げ る ベ ト ナ ム の 建 国 原 理 を 国 境 で 区 切 ら れ る ナ シ ョ ナ リ ズ ム で 語 っ て よ い の か と い う 批 判 も あ り う る。 こ れ に 対 す る 古 田 の 立 場 は (古田 一九九六)を参照。 * 6 国 内 に 複 数 の 民 族 ア イ デ ン テ ィ テ ィ が あ る こ と を も っ て 国 民 意 識 が 形 成 さ れ て い な い と す る 誤 解 が 生 じ る の は、 集 合 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ は 互 い に 排 他 的 で あ り、 人 は 一 度 に 一 つ の 集 合 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ し か 持 ち 得 な い と す る 誤 解 と、 国 民 意 識 は 国 民 の 間 の 同 胞 意 識 や 愛 郷 心・ 愛 国 心 に 基 づ く も の であるという誤解のためである。 * 7 カ ダ ザ ン 人 と し て 分 類 さ れ る 人 々 の 中 に 、 筆 者 と 異 な る 主 張 を す る 人 が 現 わ れ る 可 能 性 は 否 定 で き な い 。 し か し 、 そ の こ と を も っ て そ の 人 物 の 主 張 が カ ダ ザ ン 人 を 代 表 し て い る と 言 え な い し 、 ま た 、 仮 に カ ダ ザ ン 人 を 代 表 し て い た と し て も 筆 者 の 主 張 が た だ ち に 否 定 さ れ る わ け で は な い 。 こ れ は 代 表 性と当事者性に関することである。 (山本 二〇〇五)を参照。 * 8 (山 本 二 〇 〇 二) も 筆 者 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム 論 に 対 す る 改 変 の 試 み で あ り、 本 稿 で い う「ぼ か し ど こ ろ」 が み ら れ る 論 文となっている。 * 9 東 南 ア ジ ア 研 究 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム 論 の そ の 後 の 展 開 を 示 す こ と は 本 稿 の 直 接 の 目 的 で は な い が、 的 確 に ま と め た も の として(西 二〇〇二)を挙げておく。なお、マレーシアの事 例 に 基 づ く 筆 者 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム 論 の そ の 後 の 展 開 と し て、 「プ ラ ナ カ ン」 と 呼 ば れ る 混 血 者 に 焦 点 を 当 て た 研 究(山 本 二 〇 〇 八 Yamamoto 2011a ) や、 地 元 制 作 の 映 画 に 新 し い 形 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 萌 芽 を 見 よ う と す る 研 究( Yamamoto 2011b )がある。 ◉参考文献 ア ン ダ ー ソ ン、 ベ ネ デ ィ ク ト(一 九 九 七) 『増 補 版 想 像 の 共 同 体 ―― ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 起 源 と 流 行』 白 石 隆 ほ か 訳、 N T T出版。 池 端 雪 浦(一 九 九 二) 「フ ィ リ ピ ン に お け る 植 民 地 支 配 と カ ト リシズム」石井米雄編『講座東南アジア学四 東南アジアの歴 史』弘文堂、二一七―二四二頁。 土屋健治(一九八八) 「インドネシアの社会統合――フロンティ ア 空 間 に つ い て の 覚 え 書 き」 平 野 健 一 郎 ほ か 著『ア ジ ア に お ける国民統合』東京大学出版会、一四三―一八八頁。 西 芳 実(二 〇 〇 二) 「東 南 ア ジ ア に お け る ナ シ ョ ナ リ ズ ム 研 究 の 課 題 と 現 状」 『東 南 ア ジ ア 歴 史 と 文 化』 第 三 二 号、 一 一 八―一三〇頁。 古 田 元 夫(一 九 八 四) 「ベ ト ナ ム・ イ ン ド シ ナ の 民 族 的 諸 相 ―― エ ス ニ シ テ ィ 論 の 視 点 か ら」 『東 洋 文 化』 第 六 四 号、 四 五―八六頁。 古 田 元 夫(一 九 九 二) 「ア ン ダ ー ソ ン『想 像 の 共 同 体』 」 長 崎 暢 ◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 山本博之 (やまもと・ひろゆき) ②所属・職…… 京都大学地域研究統合情報センター・准教授 ③生年・出身地…… 一九六六年、千葉県 ④専門分野・地域…… マレーシア地域研究、災害対応と情報 ⑤学歴…… 東京大学教養学部、 東京大学大学院総合文化研究科 ・ 修 士 課 程( 地 域 文 化 研 究 専 攻 )、 東 京 大 学 大 学 院 総 合 文 化 研 究 科・博士課程 (地域文化研究専攻) ⑥ 職 歴 …… マ レ ー シ ア・ サ バ 大 学 講 師( 三 一 歳、 任 期 二 年 )、 東 京 大 学 教 養 学 部 助 手( 三 四 歳、 任 期 二 年 )、 在 メ ダ ン 総 領 事 館 委 嘱 調 査 員( 三 六 歳、 任 期 一 年 )、 国 立 民 族 学 博 物 館 地 域 研 究 企画交流センター助教授 (三八歳、一年半) ⑦現地滞在経験…… マレーシア (交換留学生、 一七歳、 一年間) 、 中 国( 語 学 留 学、 二 〇 歳、 一 年 間 )、 マ レ ー シ ア( 研 究 所 客 員 研 究 員・ 大 学 講 師、 二 九 歳、 六 年 間 )、 イ ン ド ネ シ ア( 総 領 事 館委嘱調査員、三六歳、一年間) ⑧ 研 究 手 法 …… 現 地 感 覚 を 養 う に は 現 地 経 験 が 不 可 欠 だ が、 定 ま っ た 現 地 調 査 の 方 法 を 取 っ て い る わ け で は な い。 条 件 が 許 せ ば、 調 査 者 と し て で は な く 社 会 の 一 員 と し て 現 地 に 滞 在 し、 生 活 す る こ と が 望 ま し い。 逃 げ 道 が な い 状 態 に 自 分 を 置 くことで、その社会の形が見えてくる。 ⑨ 所 属 学 会 …… 日 本 マ レ ー シ ア 学 会、 東 南 ア ジ ア 学 会、 ア ジ ア 政経学会、日本災害復興学会 ⑩ 研 究 上 の 画 期 …… 二 〇 〇 四 年 一 二 月 の ス マ ト ラ 沖 地 震・ 津 波 ( イ ン ド 洋 津 波 )。 研 究 対 象 地 域 も 研 究 テ ー マ も 研 究 手 法 も 大 きく変化した。 ⑪ 推 薦 図 書 …… 山 影 進『 対 立 と 共 存 の 国 際 理 論』 ( 東 京 大 学 出 版 会、一九九四年)